2007年08月28日

大澤武男著『コンスタンティヌス』

2007_08_28_01.jpg

 この本を読んでいて、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をちょっと思い出し、なんか懐かしい気分になった。もちろんこの本はギボンの小難しい論理がない分、読みやすかった。コンスタンティヌスが生きた時代の歴史的背景や、作者によるコンスタンティヌスの心理的描写はわかりやすかった。
 
 さて歴史はディオクレティアヌス帝が始めたテトラルキア(四分割統治)から始まる。西の副帝となったコンスタンティヌスの父コンスタンティウスはディオクレティアヌス帝に忠誠を誓うために自分の息子コンスタンティヌスを人質としてディオクレティアヌス帝の元に置かされる。
 ディオクレティアヌス帝の元でコンスタンティヌスは学力、軍事力を身につけ、青年軍人として成長する。
 ディオクレティアヌス帝は帝位二十年で退位を考えていた。確かギボンはディオクレティアヌス帝が退位して畑を耕したいという希望を持っていたと書いていたはずだ。
 ディオクレティアヌス帝の退位に伴って、東の正帝マクシミアヌスも退位しなければならなくなったが、マクシミアヌスは自分の退位に納得していなかった。要するにディオクレティアヌス帝はさっさと皇帝を退位して自分の好きなように畑でも耕せばいいけれど、何で自分が一緒に西の皇帝を退位しなければならないのかと思っていた。
 ディオクレティアヌス帝退位後、西の正帝はコンスタンティヌスの父コンスタンティウスが就き、副帝にセヴィルスが就いた。しかしマクシミアヌスの息子であるマクセンティウスはイタリアの全支配権を握り、セヴィルスを退位させてしまう。マクセンティウスは父マクシミアヌスと共同統治を考えていたが、帝位はマクセンティウスが握っていた。父マクシミアヌスはそれでは満足せず、今度は父から帝位を譲り受けたコンスタンティヌスの元へ自分の娘ファウスタを連れて近づく。そしてファウスタをコンスタンティヌスと結婚させるが、やがてマクシミアヌスの野望は消滅し、残るマクセンティウスはコンスタンティヌスと対決せざるを得なくなっていく。しかしマクセンティウス軍は強大で、コンスタンティヌスの側近たちもマクセンティウスとの戦いには勝ち目はないとふんでいた。
 その上ローマでは古来軍事行動の前に占いをするのが慣例で、その占いも凶と出た。コンスタンティヌスのとっては自分の運命を切り開いてくれる神がいれば、何でもいい。そんな神が必要であった。そんな神がいれば彼にとって真の神となりえた。そんな中、秋空にくっきり輝く太陽の前方に、はっきりと十字の印、十字架を見つけた。その十字の印の上方には「汝、この印に勝て In hoc signo vince」という文字がくっきりと描かれたいた。それは彼にとって勝利の印であった。その夜、彼は夢に中でキリストから軍旗にギリシア文字でキリストを表示する最初の二文字「ク」(Ch=X)と「リ」(R=P)を組み合わせた印を掲げるように諭された。(ところでWindowsXPのXPとはこれと関係あるのだろうか?)
 そして奇跡は起こり、コンスタンティヌスはマクセンティウス軍を破る。彼は西の正帝として、しばらくは東の正帝リキニウスと共同統治を行ったが、しかしコンスタンティヌスはこの混乱した世界をまとめるにはディオクレティアヌスが始めたテトラルキアではダメで、単独で神の加護を受けた絶対的な権力を持った者が統治しなければならないと思っていた。そこで今度はリキニウスとのと戦いかが始まり、リキニウスに勝ち、コンスタンティヌスはローマの単独統治者となる。

 私がコンスタンティヌスに興味があるのは次の二点である。一つはなぜコンスタンティヌスはキリスト教を信じ、保護者(コンスタンティヌスは死ぬ直前に洗礼を受けたのでこの時点ではキリスト教徒ではない)となったのか。そしてコンスタンティヌスはなぜローマに都を構えずビザンティウムにしたのかである。
 この本の作者はコンスタンティヌスがキリスト教を信じる背景をうまく説明してくれている。まずは先に書いたマクセンティウス軍との戦いで、キリスト教のみがコンスタンティヌスに神の加護を与えたと思わせたことによる。つまりすべての古代ローマの神々はコンスタンティヌスを見捨てたのに、キリストの神々がコンスタンティヌスに手をさしのべた。この時点でコンスタンティヌスにとってキリストの神々が彼の神となった。
 もう一つは、幽閉時代にミネルヴィーナと間に生まれた息子クリスプスと自分の妻ファウスタ不倫に激怒し、自分に忠誠の限りを尽くしてくれた息子にあらぬ疑いをかけて毒殺し、自分を常に敬い、五人子供を送ってくれた妻を、いくらクリスプスと関係があったとはいえ、蒸風呂に閉じ込めて茹で殺してしまった。
 こうした残酷なやり方は、許されることのない大罪で、古来どんな神々もそうした恐ろしい罪を許してくれるとはコンスタンティヌスには思えなかったのである。しかしキリストの神はどんなに恐ろしい罪でも、本当に心から悔い改めるなら赦してくれる。そのことが心の安らぎとなっていった。(なんという身勝手な考えだろう!)
 まぁこうしたことがコンスタンティヌスの生涯にキリストの神の導きが不可欠となっていったことで、彼はキリストの神々を信じていった。そして「ミラノの勅令」でキリスト教を公認するようになっていく。
 それまではご存じの通り、キリスト教徒は迫害されてきた。特にディオクレティアヌス帝は「内外からの危機に見舞われている帝国を統治、維持してゆくためには、単なる軍事力や権力では不十分であり、支配を支える統一的、カリスマ的、神的権威が必須である、との考えに起因していた。そのため帝国の共同祭儀である神々への犠牲と神の子とされる皇帝の礼拝は欠かせないものであるが、キリスト教徒はそれをかたくなに拒否し続け、帝国の統一、支配の上できわめて反体制的であり、非協力的であったのである。
 丁度ユピテル神やヘラクレス神の息子であることを宣言していたディオクレティアヌスにとって、皇帝礼拝のあらゆる儀式を拒絶するキリスト教徒は、皇帝のカリスマ的、絶対権威を無視し、こけ下ろすけしからん輩であり、そうした信奉者団体は根こそぎにしないと、帝国の統制がとれなくなってしまうという考えであった」
 ところがコンスタンティヌスは「帝国の単独支配、統治は、唯一至高の神(キリスト)に召された皇帝の責務であり、使命である。その神の特別な加護があるがゆえに、コンスタンティヌスは初代皇帝アウグストゥス以来、どの皇帝も達成できなかった長年にわたる治世を全うしたのである」
 著者は言う。「はからずも摂理というか、アウグストゥス帝の時、この世に降誕したキリストは、その後三百年後にコンスタンティヌスという皇帝を召命することにより、初めてローマ帝国にキリスト教世界への道を開いたのである」と。
 そして「コンスタンテイヌスが断行したキリスト教の公認と保護、奨励策は、信徒の急速な増大とともに、全帝国に及ぶ教会組織を発展させ、傾斜しつつある帝国は、その支配と統一を、教会の普遍的な組織と唯一の神の権威に依存するようになっていった。教会の力を必要とするようになったコンスタンテイヌスの後継者達は、統一された教会の結集力を得ようと、次第に教会の内部、教義論争に干渉するようになり、統一された教会勢力を帝国の統治下におこうとしたのであった。
 古来の神々への祭儀では、もはや帝国の護持は達成できないことを誰でも知っていたのである。唯一絶対なる神の権威が必要とされたのである。
 明らかに新しい精神世界、イデオロギーを基盤とする秩序が生まれつつあった」

 もう一つの疑問である、コンスタンティヌスはなぜローマに都を構えずビザンティウムにしたのか。著者はコンスタンティヌスに次のように思わせる。

「あのアウレリアヌスの城壁がある限り、ローマは誰にも蹂躙されまい。そして帝国が存続する限り、都の不滅な地位と威厳は永遠に変わることはなかろう。ユピテル、ユノー、ミネルヴァをはじめとする神々の祭祀と伝統の中に生きる異教の地ローマは、果たしていつの日か、キリストの神がそれにとって代わることを許すのであろうか。帝国キリスト教会の首位に立ちつつあるローマ教会は、都の片隅で信徒を獲得しつつあるが、まだ新興宗教にすぎない。
 神々に祝され、守られてきた永遠の都がそうたやすくキリストの神に身を委ねることはまずあるまい。キリストの名を奉ずる皇帝といえども、この真実は動かしがたいのだ」と。
 だから「キリスト教信徒が多く、彼を快く受け入れ、歓迎していた帝国東方への関心を移していった。それは彼の政治的、政策的必要性にも合致していたのである」
 「ギリシア世界の主神ゼウスの娘で、角のある女ケロエッサと海の神ポセイドンの息子、ビュザスが建てた町という伝承のあるビザンティオンは、紀元前七世紀半ばにギリシア人植民地として建設された町であった」。しかもビザンティウムほど交通、軍事的にこれ以上重要な都市はなかった。この時点で「首都ローマの威厳は永遠であり、不変であったが、それはすでにローマ人のノスタルジーとなっていたのである」。それに歴代皇帝も長いことローマを不在にしていた。ローマに残る必要性がなくなっていたのである。
 これがローマからビザンティウムに都が移った理由であった。そしてローマは殉教した初代教会の二大人物、使徒ペテロとパウロの墓所がある土地として、世界帝国の首都とその文化の中心に、キリスト教会の首長が在るということは、キリスト教徒を特別にローマへと誘うこととなっていく。著者は次のようにうまいことを言って締めくくる。

「今滅びゆくローマは地上の衣を脱ぎ捨て、キリストの神の名のもとに永久に生きてゆくのである。
 永遠の都はキリストの神の代理者の都となったのである。世界帝国を支配した皇帝の権威は、今や地上における神の代理者、ローマ教皇の権威がそれにとって代わろうとしているのだ」と。


評価
★★★★


書誌
書名:コンスタンティヌス―ユーロの夜明け
著者:大澤 武男
ISBN:9784062136501 (4062136503)
出版社:講談社 (2006-11-25出版)
版型:289p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

2007年08月22日

歌野晶著『葉桜の季節に君を想うということ』

2007_08_22_01.jpg


 読んでいて、「あれ、おかしいな」と思った。主人公である成瀬将虎の年齢が、話が進むうちに私が思っていた年齢と食い違ってくるのである。成瀬将虎の歳は若いと勘違いしていたのである。
 勘違いするのも当然のような気がする。というのも成瀬将虎が出会い系の女の子とのセックスをし、フィットネスクラブで身体を鍛え、パソコンスクールの講師をしているのである。しかも後輩にキヨシという奴がいて、受験勉強をしている。そのキヨシにアダルトビデオ貸してやったり、キヨシが同じフィットネスクラブに通う愛子に気があり、病気で休んでいるからというので、一緒に見舞いにつきあったりしている。まして成瀬将虎がハードボイルドを気取って生きているのを読んで、いくらなんでも成瀬将虎が会社を定年退職し、シルバー人材センターで仕事を紹介してもらっている年齢だとは思わなかったのである。キヨシにしたって、六十で会社を退職し、一念発起して定時制高校へ通い、大学受験を目指しているなんて思わなかった。もちろん愛子もおばあちゃんである。
 私がこの年齢に関するだましに気がついたのは、地下鉄で自殺を図ろうとした雨宮さくらが(当然この時も雨宮さくらが若い女性だと思っていた)、通販でインチキ健康食品にだまされ、莫大な借金を背負うことになり、結局その会社のいいなりになった七十歳の女と同一人物じゃないかと思ったところから始まる。しかし年齢が合わない。そして成瀬将虎もまさかおじいちゃんだと思っていなかったので、いくらなんでも七十歳のおばあちゃんに恋心を寄せるのはおかしい。これは一体どうなっているんだと読まされることとなる。
 結局ここに登場する人物はすべて高齢者であることがわかり、事件の種明かしをされる。それが作者の意図なのだろうが、やり方が卑怯である。最初に主人公の年齢を公にせず、読者に主人公が若いと思わせるように、フィットネスクラブに通わせたり、ハードボイルドを気取らせたりするのである。結局実際は登場人物すべてがおじいちゃん、おばあちゃんであることが、この話のトリックなのである。これにはさすが頭に来た。
 どうしてこれが2004年版「このミステリーがすごい」、「本格ミステリーベスト10」の1位なのだろうか?こんな本1位にしちゃまずいだろう。(そもそもこの帯の文句にだまされてこの本を買ってしまったのだ)


評価


書誌
書名:葉桜の季節に君を想うということ
著者:歌野 晶
ISBN:9784167733018 (4167733013)
出版社:文藝春秋 (2007-05-10出版) 文春文庫
版型:477p 15cm(A6)
販売価:660円(税込) (本体価:629円)

2007年08月18日

E・キュ-ブラ-・ロス著『死ぬ瞬間』

2007_08_18_01.jpg


 古い本を引っ張り出す。E・キュ-ブラ-・ロスの『死ぬ瞬間』である。この本は聞くところによるとホスピスのバイブルだという。かなり昔に読んだ山崎章郎さんの『病院で死ぬということ 』にもたびたびキュ-ブラ-・ロスのこの本のことが出ていたと思う。

 この本はシカゴ大学の「死と死ぬことに関するセミナー」で、講師は死にゆく患者である。そうした患者に自分が迎えなければならない死、病院の医療体制を語ってもらっている。しかしこのセミナーは最初病院側の医療スタッフから大きな反発にあう。末期患者に自分の死を語らせるなんて冗談じゃないというところだろう。ましてここの病院では「もはや助けることできない人々に貴重な時間をかけることはムダであり、まったくのナンセンス」という意識があっただけに余計であった。
 しかし患者は違った。患者は「死そのものは問題でなく、死にゆくことが、それに伴う絶望感と無援感と隔離感のゆえに怖ろしいのである」。むしろ積極的にコミュニケートすることで、自分を解放していくのである。さらにかれらのコミュニケーションが他の人々にとって重要で有意義かもしれないと思えることで、生きているうちにだれかの役に立てるという意識を生む。
 医療側も患者の生の声がフィードバックされるようになって、このセミナーの重要性を自覚し始め、患者の対応が変わっていく。

 ここでの死とは突然死を想定していない。死までの時間がある程度ある、たとえばガンのような病気で死を迎えざるを得ない患者を対象とする。
 著者は「患者を非人間的、植物的に生きるのではなく、人間的に生きるように助けることによって、かれらを助けて死なせてやることができる」という考えから、末期の患者に接する。
 そしてそうした患者は悲劇的なニュース(自分が死ぬということ)をつきつけられてから、自分の死を受容するまでの間にいくつかの段階があることをこの本で教えてくれる。以下その段階の解説である。


2007_08_18_02.jpg


1.否認
 「否認は予期しない衝撃的なニュースを聞かされるときの緩衝装置として働くのである。否認によって、患者は崩れようとするみずからを取りまとめ、やがて別の、よりゆるやかな自己防衛法を動員することができる」。たとえば自分がガンだと宣告されたとき、「そんはずはない」と否認するのは一時的な自己防衛なのである。

2.怒り
 「否認という第一段階がもはや維持できなくなると怒り、憤り、羨望、恨みなどの諸感情がこれにとって代わる。論理を追って、次の問いは”なぜ私を ”」となる。つまり「なぜ私なんだ」、「どうして私がガンにおかされねばならないんだ」という自分勝手に怒り、憤るのである。

3.取り引き
 「もしわれわれが第一段階で悲しい事実に直面することができず、第二段階で人々と神に対して憤りをぶつけたとすれば、つぎには人々ないし神に対してなにかの申し出をし、なんらかの約束を結ぶことを思いつくだろう。取り引きである。神となんらかの取り引きができれば、もしかすると、この悲しい不可避の出来事をもうすこし先に延ばせるかもしれない」と考えることである。
 つまり今苦しい治療に耐えれば、延命願望や痛みや肉体的不快感のない日々を手に入れることができるという願望を多少なりとも叶えることができるかもしれないという、自分の気持ちの中で取り引きするのである。

4.抑鬱
 「末期患者がもはや自分の病気を否認できなくなり、二度三度の手術あるいは入院加療を受けなければならなくなり、さらに症候がいくつか現れはじめ、あるいは衰弱が加わってくると、かれはもはや病気を微笑で片づけているわけにもいかなくなる。
 かれの感情喪失、泰然自若、あるいは憤怒などは、ほどなく、大きなものを失くしたという喪失感に取って代わられ」抑鬱状態になる。

5.受容
 「もし患者に十分な時間があり(突然の、予期しない死ではなくて)そして前にのべたいくつかの段階を通るのに若干の助けが得られれば、かれの”運命 ”について抑鬱もなく、怒りも覚えないある段階に達する。生きている人、健康な人に対する羨望、自分の最後にそれほど早く直面しないでもいい人に対する怒りなどは吐きつくすことができた。かれは自分をとりまく多くの意味深い人々や場所などを、もうすぐすべて失わなければならないという、その嘆きも悲しみも仕終え、かれはいまある程度静かな期待をもって、近づく自分の終焉を見詰めることができる」すなわち受容である。
 面白いと思ったのは以下の記述である。
「一生を苦労とはげしい労働のうちに過ごしてきた人、子どもたちを育てあげた人、自分のなしとげた仕事に満足している人々のほうが、平安と威厳とをもって死を受容することがより容易であったようである。 これに対して、一生を野心的に周囲環境を支配してきた人、物質的な財を蓄積してきた人、社交的なつきあいは非常な多数にのぼりながらも、生の終わりにあたって助けとなるような有意義な人間関係の少ない人などは、死の受容が容易ではないようであった」

 「これらの段階は入れ替わることはできず、必ず隣りあい、ときには重なりあっている」という。

 以上が自分が助からないと分かったときから取る人間の態度だというのだ。もちろんたぶん累計的にそういうパターンだというのだろう。でももし自分が末期のガンでもなったら、何となくこういう行動パターンを取るような気がするけれど、きっと死の受容まで悩み続けるのだろうなと思う。そう思うと、同じ死ぬならぽっくりと死んでしまいたいなぁ。もちろんそのあとの葬式など不要だ。

 さてこの本は、いわゆる「死ぬ瞬間」を待っている患者だけでなく、その家族、親族も、ほぼ同様な行動パターン、思考パターンを取ることを言っている。ただ残される側はその死で終わらない。著者は「家族の要求(ニーズ)は、病気の発端から変化を始め、多くの面で変化を続け、それらは死のあとも長く尾をひいていく。それゆえに、家族メンバーはそのエネルギーを支出を経済的に行ない、エネルギーがもっとも要求されるときに当たって折れるほど張り切らないようにすべきである」と介護する家族の配慮も忘れない。
 しかし家族や親族ができる限りの治療を望むことや、少しでも長生きして欲しいと思う気持ちは、末期患者に取ってみれば時には苦痛のなにものでもなくなってしまうこともあるという。患者の方は現実を直視ししようと努力しているのに、家族や親族の方が厳しい現実をなかなか受け入れられない。このギャップに患者の方が悩むという。時には自分の死の受容を困難にさせるという。
 こうして言われると、双方の気持ちはよくわかる。わかるけど困難な状況に陥った時、愛する家族を簡単に失うことができないという気持ちが、逆に患者を苦しめているなんて、なかなか理解しにくいと思う。
 著者は言う。「わたしたちのめざすゴールは、つねに患者とその家族とを助けて、ともども危機を正視し、この終焉という現実の受容を、同時的に達成させるということでなければならない」と。


評価
★★★


書誌
書名:死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話
著者:E・キュ-ブラ-・ロス/川口正吉訳
ISBN:9784643920529
出版社:読売新聞社
版型:315p 19cm
販売価:1,528円(税込) (本体価:1,456円) 絶版

2007年08月15日

菊池良生著『神聖ローマ帝国』

2007_08_15_01.jpg


 かねがね不思議に思っていたのだけれど、どうして神聖ローマ帝国はドイツだったのだろうか。少なくともローマ帝国を名乗る以上、何らか古代ローマ帝国との関連があっていいはずだが、どう考えても古代ローマ帝国とは性質が異なるように思える。
 この本の最後の方で「神聖ローマ帝国はかつての世界帝国であるローマ帝国の衣鉢を継ぐという建前にたっていた」なら、その衣鉢とは何なのだろうか。たとえば世界帝国と称すに値する領土的広さがあればいいのだろうか。あるいはローマ的理念が継承されたことを意味するのだろうか。いずれも何か違うような気がする。
 西ローマ帝国が滅んだ後、ローマ教会はそのパトロンとして強大な権力を持つ王権を必要とした。だからカール大帝を戴冠し、教会主導の元で西ローマ帝国を再興させた。当時の状況を考えれば、このことはある程度納得できる。カールも教会にだまされたとさえ思っていたという。
 しかしオットー大帝から始まる神聖ローマ帝国はどうなのだろうか。少なくともこの本を読むまでもなく、ドイツは領邦国家として、個々にバラバラの状態であって、国家としてのまとまりを欠いていた。とてもじゃないが、ローマ帝国やローマ皇帝を名乗れるものじゃなかったはずだ。
 古代ローマがヨーロッパの人々にとってアイデンティティであるからという心性で、ローマ帝国の再興の必要性を語られちゃうと、我々日本人にはよく分からない。そうなんだとしか言いようがなくなってくる。だから神聖ローマ帝国として国家の実体がなくても、ローマ帝国やローマ皇帝を名乗ればそれでいいということなのだろうか。
 さて、この本は神聖ローマ帝国の皇帝を順次ピックアップしていきながら、神聖ローマ帝国とは何だったんだろうかという問いの答えを探っていく。ただ登場人物が非常に多くて、しかも関係が複雑に絡み合っているので、読んでいるうちに何が何だか分からなくなってしまった。とてもじゃないが流し読みで理解できる本ではなかった。これはきちんと紙に書いて関係を整理して読んでいかないとよく理解ができない。じっくり読む必要性がある。時間があったら再度トライしたいところである。


評価
★★(再度評価の必要あり)


書誌
書名:神聖ローマ帝国
著者:菊池 良生
ISBN:9784061496736 (4061496735)
出版社:講談社 (2003-07-20出版) 講談社現代新書
版型:262p 18cm
販売価:777円(税込) (本体価:740円)

2007年08月10日

森鴎外著『雁』

2007_08_10_01.jpg


 この小説で気になるのは、ここに登場してくる人物たちがいる土地柄である。
 まだ大学(東京大学)が下谷にある頃、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていた。そこは上野動物園の檻のような格子がはまっていた。寄宿舎には小間使いがいて、学生たちは彼らに買い物を言いつける。その小間使いに末造がいた。末造が学生たちに金を貸したりしているうちに高利貸しと成功する。
 練塀町にお玉という娘がいた。母を亡くして父親と二人で暮らしていた。父親は秋葉の原で飴細工の屋台を出していた。末造はまだ高利貸しとして成功する前にお玉と出会ったことを思い出した。
 しかしお玉に婿入りがあった。巡査であった。ところがこの巡査国元には妻子がいた。それを知ったお玉は井戸に身を投げるといって大騒ぎをし、この練塀町にいられなくなる。ある時末造が練塀町のこの家に行くと「貸屋差配松永町西のはずれにあり」という張り紙がしてあり、お玉親子はそこにはいなかった。西鳥越に引っ越していたのである。
 末造はお玉を妾として欲しいと掛け合い、お玉は末造の妾となる。ただ末造が高利貸しだということはそのときは知らされなかった。末造は無縁坂にお玉を囲う家を借りる。
 私は以前松永町にあった本屋で仕事をしていたこともある。練塀町はその隣であった。そして今いる和泉町は、藤堂和泉守高猷の屋敷があった。そして松永町の本屋で働いていた頃、配達も手伝っていて、無縁坂付近まで自転車でせっせと本郷の坂を登っていた。そうした関係から何か妙に親近感があった。

 さて話は、「古い話である。僕はそれが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している」とまずは僕の回顧から始まる。僕と同じ下宿「上条」にいる岡田という男がいる。岡田は美男で几帳面な性格であった。岡田はその性格柄か、散歩も決まった道を歩く。その散歩道である無縁坂の一軒屋でひっそりとしたた一軒屋の窓から、いつも通りをながめている末造の妾となったお玉がいた。
 お玉は最初末造が高利貸しで財を成した人物と知らされなかったが、近所の噂で末造の素性を知ってしまう。よく分からないがこの頃は高利貸しというのは嫌われた職業のようだ。そのことからだんだんお玉は末造から心が離れ、うわべだけは末造に従っている振りをしつつ、自己に目覚めていく。そんなときお玉は散歩で歩いてくる岡田のことが気になり始め、散歩中の岡田を心待ちするようになっていき、岡田もお玉のことを意識し始める。
 末造が買ってきた紅雀のつがいを蛇がねらっているのをたまたま散歩でここに来た岡田が退治したことから、二人は言葉を交わすが、いっこうに事態は進展しない。お玉は末造の留守の間に岡田ともっと近づこうとし、岡田を待っていたが、岡田は翌日ドイツへ行ってしまう。お玉と岡田のはかない恋ははこれで終わるのである。
 ところでなぜ鴎外は鳥かごに入った紅雀を持ち出したのだろうか?そして不忍池で岡田が投げた石が当たって雁が死んでしまうことを書いたのだろうか?深読みしすぎかもしれないが、鳥かごに入った紅雀は末造に囲われているお玉自身を投影しているように思えるし、石が当たって死んでしまう雁は、お玉が岡田に近づこうとして、末造から自由に飛び立とうとしたが、結果成就しないことを意味しているように思えるのだが、どうであろうか?
 こういう意味深な小説って、今の小説にはないような気がする。どうしても現代小説はストレート過ぎる。でもこういうのって好きだなぁ。一見関係ない描写に見えて、実は本筋を浮きだたせる手法は、奥ゆかしい。さすが明治の文豪である。


評価
★★★


書誌
書名:雁
著者:森鴎外
ISBN:9784101020013(4101020019)
出版社:新潮社(1948-12-07)  新潮文庫
版型:144p 15cm(A6)
販売価:300円(税込) (本体価:286円)

2007年08月09日

池田清彦著『正しく生きるとはどういうことか』

2007_08_09_01.jpg


 続いて池田さんの本を読むが、どうもすっきりと頭なの中に内容が入ってこない。夏ばてで頭がぼけてしまっているところがあるから余計である。
 この本は二部構成になっており、第一部が「善く生きるとはどういうことか」で、第二部が「正しく生きるとはどういうことか」になっている。こう書くと何か道徳的な感じがしてしまうが、そうではない。 池田さんによると、善く生きることは、自分で規範を設定し、自分を律しながら、一方で欲望を上手に解放することだという。
 特に現代は何でもありという時代だから、社会的な規範は当てにならず、自分で規範を作るしかないやっかいな時代なので、自分固有の規範を作るしかない。
 ところでその規範は実は恣意的でフィクションである。だから自分で作れるということにもなるのだが、だからといってとんでもないものを作っていいということにはならない。自分自身が自分自身の規範に従って善く生きることは、あくまでも個人的なものである。そのため他人にそれを押しつける根拠はない。押しつけるなら対称的でなければならない。つまりギブアンドテイクである。自分の規範と他人の規範の調停の上で社会が成り立っている以上当然である。そうでなければ自分の規範に従って何をやってもいいということになってしまうからだ。そんなことになればアーナキー的状態になってしまう。
 だから自己の規範をあくまでも相手と対称の上で設定し、そこからの解放による楽しみやエクスタシーを得ることが池田さん流の正しい生き方となる。
 その上で今度は現代の日本における社会システムがおそろしいほど、善く生きるために窮屈なシステムであることを主張する。ここからは前回読んだ本の主張と同じになってくる。

 とまぁ、こんな感じで池田さん言わんとするところを夏ばて気味の頭で理解した訳だが、細かい例が妙に鬱陶しく感じてしまった。結局この本は生き方よりも、池田さんの社会システム対する批判なのだなと読んでいるうちに分かってきた。
 もちろん私も今更生き方に対する指針など求めてこの本を手にしたわけではないので、それはそれでいいのだけれど、池田さんの社会批判はいい加減食傷気味なので、例によって「もういいや」と思ってしまった。
 私は池田さんの本に何を求めていたのかというと、最初に読んだ池田さんの本で、池田さんの専門である生物学から人間や社会、あるいは歴史を見る視点がものすごく新鮮に映ったからである。いや、こういう見方もあるんだと感動したのである。少なくても個人的な不満から発した社会批判などどうでもよかった。たとえそれが理にかなっていても、結局それ以上でもそれ以下でもない。極端なことをいえば誰しも現代社会に不満を持っている以上、取り立てて池田さんの意見を聞いても、今更という感じなのである。 その道の専門家は、その道に精通しているから、意見を聞く価値があるが、どうも最近の専門家はそこから逸脱して、余計なことを言い過ぎる傾向があるように思えてならない。それはジャーナリズムが専門家の意見を聞くと称して、ちやほやするからこんな傾向が生まれているのかもしれない。
 私が偏屈だからかしれないけれど、そんなことあなたから言われなくても分かりますよと言いたくなっちゃうのである。


評価
★★


書誌
書名:正しく生きるとはどういうことか
著者:池田 清彦
ISBN:9784101035239 (4101035237)
出版社:新潮社 (2007-06-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)

2007年08月01日

池田清彦著『他人と深く関わらずに生きるには』

2007_08_01_01.jpg


 安部首相が参議院選の大敗北で、責任問題が浮上しているけれど、元々私はこの人あまり信用していない。というよりダメだなと思っていた。首相就任時、国の赤字を減らすために、まずは自分の給料を2割か3割か忘れたけれど、とにかくカットすると言った。まずは隗より始めよということらしい。でも、これはどう考えてもおかしい。日本の赤字が首相の給料返上分でどれだけ少なくなるというのか。
 それよりも、「私はこれだけの仕事をするつもりだから、これだけの給料をくれ」といった方がやる気を感じるし、それだけ意気込みがあれば、たとえ高額な給料をもらったとしても、返上するより、国の赤字をそれ以上に減らせるだろう。逆に返上したんだから、これだけの仕事しかしないと言っているようなもんではないか。その結果馬鹿な閣僚をまわりに集めてしまい、墓穴を掘ることとなったのではないか。
 こんなことを書いたのは、池田さんのこの本にある「ボランティアはしない方がカッコいい」という文章を読んだからだ。私はボランティアという行為にどこか胡散臭さを感じる部分がある。困っている人を無償で助ける行為は一見すばらしい行為のように見えるけれど、果たしてそれがすべてであろうか?つまりボランティアをする側の気持ちの問題を言いたいのだ。そこには本当に代償を求めない行為だけでボランティアができるのだろうか?そしてそれが本当に素晴らしい行為なのだろうかと思うのだ。そもそも何の代償を求めない行為というのが存在するものなのだろうか?たとえばボランティアの本家とでも言っていいキリスト教世界では、貧民を救済するのは、救済する側に自己の魂救済が前提にあるから、そうするのだ。ちゃんと代償を求めている。
 以前助けてもらったから、今度は自分たちが助けてあげる番だといって新潟に向かった人たちがいるが、それは以前助けてもらったから、今度はその恩返しをする番だという気持ちであるから、出向いて行かれたのだろうと思う。借りがあるから返す。あるいは助けてもらって助かったという感謝の気持ちがあるから、そうするなら、それは素晴らしいことだと思う。でもその時点でもう純粋な無償行為じゃない。先に有償の行為を受けているから、それを払っているということである。
 問題はただ単に、困っている人がいるからボランティアに出かけようとする一種の行楽的な気分で出かける人のことを胡散臭いと思うのだ。あるいはいやがる仲間を引き込んで、そんなことを言ってていいのかなんて一席ぶる偽善家が嫌なのだ。そこには自己の優位性と自己満足が見え隠れする。そんな輩が多いんじゃないかとどこか疑っているのだ。あるいはそれを期待する奴。当たり前と思う奴が多いんじゃないかと思っちゃうのだ。
 いやそんなことは絶対にないという声が聞こえてきそうだし、げすな奴だと思われても仕方がないが、むしろ金銭の授受があった方がものすごく自然だと思う。ビジネスであれば当然責任が伴ってくるから、行為そのものが真剣になるし、助けを求める方も、その代償を払うのだから、その関係だけで済む。自衛隊が救援に向かったりするけれど、彼らだってそれが仕事だからそうするまでのことだろう。そしてそれでいいのだと思う。
 働くという行為は働いた分代償を得るから、働けるし、その分責任も伴う。代償を払う側も代償を払う分当然の権利として自己主張ができるのだ。安部さんはある意味我々が言いたいことを自分の給料を減らしたことで封じてしまっているのではないかと思うのだ。池田さんが言うように「本当に他人に喜んでもらいたいと思っている人は、お金をもらって働こう」と言うのは本当に正しいと思う。

 とまぁ、この本で言っておられることはまとものことで、もっともだとは思うのだが、だからといって今の日本の社会システムはおかしいと断罪するところで、池田さんの考えは論理破綻してしまっているように思える。あるいは、無理と承知の上で言っておられるからか、半ばやけくそ気味になってしまっている。つまり論理上正当性を帯びていても、それが現実的ではないのだ。
 たとえば、自動車の影がまったく見えないのに、赤信号でじっと待っている人を見て、池田さんは「交通ルール原理教の鑑である」という。こういう人を見ると国家に魂を抜かれちゃったんじゃないかと思い、気の毒になるというのである。
 赤信号で止まるというのは本能ではないから、そのまま突っ込んでくる奴もいる。そして大事故となる。それは一方が他方の判断を信用し、国家の決めたルールさえ守っていれば安全だと信じ込んでいるからで、自分自身の経験と判断を失ってしまっているかそうなるのだというのである。イヌやネコだって車が来なければ赤信号で横断歩道を渡るじゃないか。それが自然だというのである。
 更に飲酒運転やスピード違反で捕まえるのもおかしいという。これは一種の予防拘束であり、悪法だ言う。少々酒を飲んでも事故を起こさない人もいるし、状況によってはスピードを出しても安全なところもあるではないかというのである。要はケースバイケースでいいではないか。その方が自然的だというのである。
 ここまでくると毒舌である。根本的に考え方がおかしい。生物学のドグマに犯されてしまっているから、こういう考えが生まれるのではないか。専門馬鹿と言っていいかもしれない。そもそも法律や習慣、あるいは慣習というのは不自然なものなのだ。生物学的本能をそのままにしておけば、社会が成り立たないから、わざわざ縛りを設けている。不自由にさせているのだ。それが社会である。このことをを知るべきだ。自分一人が事故を起こして死ぬならそれでもいいが、事故は絶対に他者に迷惑をかけるか、命を奪う。
 あるいは、「国家は道具である」と定義する。しかし現行の国家は一部の人々だけに都合のよい道具になっているから、それをみんなに開放すべきだというのである。国家は人々の自由と平等を守るために、必要最小限のことだけをすればよく、それ以上は必要ないし、それ以上するのは罪悪だというのである。 もともと役所は国民はバカだと思っているので、ああせい、こうせいとお節介を焼く。国民がそれ相応に賢くなれば、自己決定、事故責任で行動できるはずだと言い切る。
 国家を人々の使い勝手のよい道具にするには、国民のために必要最小限のことだけすればよく、小さな政府で、できる限り民営化し、補助金の全廃、役所の許認可権の撤廃、どんな商売をするにも資格のいらない社会を目指せば、国家はみんなにいい道具となりうるというのである。
 そしてここから毒舌となる。だから医者も国家免許制にする必要もない。教育も同様で、だれがどんな学校を作ってもかまわないし、どんな先生を雇ってもかまわない。自由参入、自由競争の中に入れてしまえば、賢くなった国民が主体になって判断されるから、自然ヤブ医者は淘汰されるし、しょうもない学校は潰れていく。
 完全個人主義に徹底すべきと池田さんは言う。だから社会保険料など払う必要もない。医療費は全額自己負担が当たり前。もちろん自分の老後のために計画してお金を作るのが当たり前だから、国民皆年金制度などといって国が口を出すのは余計なお世話だ。そもそも若い人から集めたお金を老人に注ぎ込むこと自体おかしいというのである。国の医療制度、年金制度が破綻するのがはっきりしているのだから、破綻する前にどうやって止めるかを考えるべきという。
 そうすれば社会保険庁解体なんてこざかしいことなど考えなくても、なくてもいいわけだし、厚労省だって文科省だって不要になるという。
 う~ん、確かにそうかもしれない。その方がいいかもしれないなんて思ったりする。ただそれは徹底した個人主義に徹することができるならばの話である。私には確かに国のお節介もうっとうしい部分があるし、かといって今必要なことをしてくれているかといえばそうとも言い切れない部分を感じているので、だったらこの方がいいかもしれない。
 けれど、もしこうなったら、まず国としてのまとまりが完全に崩壊する。自己決定、自己責任というのは、余りにも幅がありすぎて、曖昧だ。ある人にとってみれば、それは自己責任で決めたことだからといって行動しても、それが他者にとって迷惑、命取りにさえなりかねない。この論理はアーナキズムになってしまう。自分のことを真剣に考えるように他者にも同様に考えられるかと思うのだ。それほど人間は賢くなれるのかと思うのだ。だからこそ、法律や慣習法など決めて、それに従っているんじゃないかなんて思う。そうしないとやりたい放題やって、最後は滅びることになる。それを分かっているから、わざわざまどろっこしいもの作ることによって、自分たちを守っているんじゃないかなんて思うのだが、どうだろう。ここにはそれでも我慢しなければならないことがあるという意識が抜けている。


評価
★★


書誌
書名:他人と深く関わらずに生きるには
著者:池田 清彦
ISBN:9784101035222 (4101035229)
出版社:新潮社 (2006-05-01出版) 新潮文庫
版型:191p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)


池田清彦著『正しく生きるとはどういうことか』

書誌
書名:正しく生きるとはどういうことか
著者:池田 清彦
ISBN:9784101035239 (4101035237)
出版社:新潮社 (2007-06-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)