2007年08月01日
池田清彦著『他人と深く関わらずに生きるには』
安部首相が参議院選の大敗北で、責任問題が浮上しているけれど、元々私はこの人あまり信用していない。というよりダメだなと思っていた。首相就任時、国の赤字を減らすために、まずは自分の給料を2割か3割か忘れたけれど、とにかくカットすると言った。まずは隗より始めよということらしい。でも、これはどう考えてもおかしい。日本の赤字が首相の給料返上分でどれだけ少なくなるというのか。
それよりも、「私はこれだけの仕事をするつもりだから、これだけの給料をくれ」といった方がやる気を感じるし、それだけ意気込みがあれば、たとえ高額な給料をもらったとしても、返上するより、国の赤字をそれ以上に減らせるだろう。逆に返上したんだから、これだけの仕事しかしないと言っているようなもんではないか。その結果馬鹿な閣僚をまわりに集めてしまい、墓穴を掘ることとなったのではないか。
こんなことを書いたのは、池田さんのこの本にある「ボランティアはしない方がカッコいい」という文章を読んだからだ。私はボランティアという行為にどこか胡散臭さを感じる部分がある。困っている人を無償で助ける行為は一見すばらしい行為のように見えるけれど、果たしてそれがすべてであろうか?つまりボランティアをする側の気持ちの問題を言いたいのだ。そこには本当に代償を求めない行為だけでボランティアができるのだろうか?そしてそれが本当に素晴らしい行為なのだろうかと思うのだ。そもそも何の代償を求めない行為というのが存在するものなのだろうか?たとえばボランティアの本家とでも言っていいキリスト教世界では、貧民を救済するのは、救済する側に自己の魂救済が前提にあるから、そうするのだ。ちゃんと代償を求めている。
以前助けてもらったから、今度は自分たちが助けてあげる番だといって新潟に向かった人たちがいるが、それは以前助けてもらったから、今度はその恩返しをする番だという気持ちであるから、出向いて行かれたのだろうと思う。借りがあるから返す。あるいは助けてもらって助かったという感謝の気持ちがあるから、そうするなら、それは素晴らしいことだと思う。でもその時点でもう純粋な無償行為じゃない。先に有償の行為を受けているから、それを払っているということである。
問題はただ単に、困っている人がいるからボランティアに出かけようとする一種の行楽的な気分で出かける人のことを胡散臭いと思うのだ。あるいはいやがる仲間を引き込んで、そんなことを言ってていいのかなんて一席ぶる偽善家が嫌なのだ。そこには自己の優位性と自己満足が見え隠れする。そんな輩が多いんじゃないかとどこか疑っているのだ。あるいはそれを期待する奴。当たり前と思う奴が多いんじゃないかと思っちゃうのだ。
いやそんなことは絶対にないという声が聞こえてきそうだし、げすな奴だと思われても仕方がないが、むしろ金銭の授受があった方がものすごく自然だと思う。ビジネスであれば当然責任が伴ってくるから、行為そのものが真剣になるし、助けを求める方も、その代償を払うのだから、その関係だけで済む。自衛隊が救援に向かったりするけれど、彼らだってそれが仕事だからそうするまでのことだろう。そしてそれでいいのだと思う。
働くという行為は働いた分代償を得るから、働けるし、その分責任も伴う。代償を払う側も代償を払う分当然の権利として自己主張ができるのだ。安部さんはある意味我々が言いたいことを自分の給料を減らしたことで封じてしまっているのではないかと思うのだ。池田さんが言うように「本当に他人に喜んでもらいたいと思っている人は、お金をもらって働こう」と言うのは本当に正しいと思う。
とまぁ、この本で言っておられることはまとものことで、もっともだとは思うのだが、だからといって今の日本の社会システムはおかしいと断罪するところで、池田さんの考えは論理破綻してしまっているように思える。あるいは、無理と承知の上で言っておられるからか、半ばやけくそ気味になってしまっている。つまり論理上正当性を帯びていても、それが現実的ではないのだ。
たとえば、自動車の影がまったく見えないのに、赤信号でじっと待っている人を見て、池田さんは「交通ルール原理教の鑑である」という。こういう人を見ると国家に魂を抜かれちゃったんじゃないかと思い、気の毒になるというのである。
赤信号で止まるというのは本能ではないから、そのまま突っ込んでくる奴もいる。そして大事故となる。それは一方が他方の判断を信用し、国家の決めたルールさえ守っていれば安全だと信じ込んでいるからで、自分自身の経験と判断を失ってしまっているかそうなるのだというのである。イヌやネコだって車が来なければ赤信号で横断歩道を渡るじゃないか。それが自然だというのである。
更に飲酒運転やスピード違反で捕まえるのもおかしいという。これは一種の予防拘束であり、悪法だ言う。少々酒を飲んでも事故を起こさない人もいるし、状況によってはスピードを出しても安全なところもあるではないかというのである。要はケースバイケースでいいではないか。その方が自然的だというのである。
ここまでくると毒舌である。根本的に考え方がおかしい。生物学のドグマに犯されてしまっているから、こういう考えが生まれるのではないか。専門馬鹿と言っていいかもしれない。そもそも法律や習慣、あるいは慣習というのは不自然なものなのだ。生物学的本能をそのままにしておけば、社会が成り立たないから、わざわざ縛りを設けている。不自由にさせているのだ。それが社会である。このことをを知るべきだ。自分一人が事故を起こして死ぬならそれでもいいが、事故は絶対に他者に迷惑をかけるか、命を奪う。
あるいは、「国家は道具である」と定義する。しかし現行の国家は一部の人々だけに都合のよい道具になっているから、それをみんなに開放すべきだというのである。国家は人々の自由と平等を守るために、必要最小限のことだけをすればよく、それ以上は必要ないし、それ以上するのは罪悪だというのである。 もともと役所は国民はバカだと思っているので、ああせい、こうせいとお節介を焼く。国民がそれ相応に賢くなれば、自己決定、事故責任で行動できるはずだと言い切る。
国家を人々の使い勝手のよい道具にするには、国民のために必要最小限のことだけすればよく、小さな政府で、できる限り民営化し、補助金の全廃、役所の許認可権の撤廃、どんな商売をするにも資格のいらない社会を目指せば、国家はみんなにいい道具となりうるというのである。
そしてここから毒舌となる。だから医者も国家免許制にする必要もない。教育も同様で、だれがどんな学校を作ってもかまわないし、どんな先生を雇ってもかまわない。自由参入、自由競争の中に入れてしまえば、賢くなった国民が主体になって判断されるから、自然ヤブ医者は淘汰されるし、しょうもない学校は潰れていく。
完全個人主義に徹底すべきと池田さんは言う。だから社会保険料など払う必要もない。医療費は全額自己負担が当たり前。もちろん自分の老後のために計画してお金を作るのが当たり前だから、国民皆年金制度などといって国が口を出すのは余計なお世話だ。そもそも若い人から集めたお金を老人に注ぎ込むこと自体おかしいというのである。国の医療制度、年金制度が破綻するのがはっきりしているのだから、破綻する前にどうやって止めるかを考えるべきという。
そうすれば社会保険庁解体なんてこざかしいことなど考えなくても、なくてもいいわけだし、厚労省だって文科省だって不要になるという。
う~ん、確かにそうかもしれない。その方がいいかもしれないなんて思ったりする。ただそれは徹底した個人主義に徹することができるならばの話である。私には確かに国のお節介もうっとうしい部分があるし、かといって今必要なことをしてくれているかといえばそうとも言い切れない部分を感じているので、だったらこの方がいいかもしれない。
けれど、もしこうなったら、まず国としてのまとまりが完全に崩壊する。自己決定、自己責任というのは、余りにも幅がありすぎて、曖昧だ。ある人にとってみれば、それは自己責任で決めたことだからといって行動しても、それが他者にとって迷惑、命取りにさえなりかねない。この論理はアーナキズムになってしまう。自分のことを真剣に考えるように他者にも同様に考えられるかと思うのだ。それほど人間は賢くなれるのかと思うのだ。だからこそ、法律や慣習法など決めて、それに従っているんじゃないかなんて思う。そうしないとやりたい放題やって、最後は滅びることになる。それを分かっているから、わざわざまどろっこしいもの作ることによって、自分たちを守っているんじゃないかなんて思うのだが、どうだろう。ここにはそれでも我慢しなければならないことがあるという意識が抜けている。
評価
★★
書誌
書名:他人と深く関わらずに生きるには
著者:池田 清彦
ISBN:9784101035222 (4101035229)
出版社:新潮社 (2006-05-01出版) 新潮文庫
版型:191p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)
- by kmoto
- at 20:39
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