2007年10月27日

宮部みゆき著『楽園』下

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 一気に読んでしまった。後半は結果を急ぎすぎた感じがしないでもないが、案外『模倣犯』より面白かったかもしれない。例によってこの手の話のあらすじを書いてしまうと、ネタバレになってしまうので、毎度悩んでしまう。思うがままに書きつづってもいいのだけれど、それじゃあまりにも身勝手だから、何とかうまく書ければいいのだが、ちょっと頑張ってみよう。

 あの『模倣犯』の事件から9年がたっても、前畑滋子はあの連続殺人を未だに引きずっていた。滋子のショックは完全に癒えていなかった。それでもフリペのライターとして仕事を始めていた。
 そこへ萩谷敏子という女性が現れる。彼女は交通事故で死んだ12歳の息子、等が書き残した不思議な絵について、滋子に調査を依頼しにきたのだ。その絵には16年前に殺された少女の遺体の発見場所が描かれていた。
 その少女は手に余ったため実の親に殺され、自宅に床下に埋められていた。自宅が火事になり、半分が消失したとき、土井崎夫妻は娘茜を殺害し、床下に埋めたことを警察に自白した。そのとき、事件が初めて明るみに出のだ。なのに等はそれ以前に知ってしまったのだ。どうして等はまだ明らかになっていない少女の遺体がある場所を知り得たのか?
 等の描いたその他の絵を見た滋子は愕然とする。なんと網川浩一たちがいたあの山荘が描かれた絵があったのだ、そこには関係者以外知り得ないことが描かれていた。滋子には様々な疑問が生まれてくる。

等はどうして茜の遺体があった場所やあの山荘を描けたのだろうか?
土井崎夫妻はなぜ茜を殺害したのか?
さらに16年隠し続けたのはなぜなのか?
そして自ら自白しなければ茜の遺体は発見されなかったはずなのに、ここに至ってなぜ自白したのか?

 滋子は土井崎夫妻の事件の真相調べることで等の不思議な能力を解明しようとする。
 滋子は等が「意味がわからず、解釈ができないまでも、他人の記憶と心の奥を不用意に覗き込んでしまうことを、等は物心つく以前から繰り返してきた。そこにあるのは美しい光景ばかりではなかった。秘密は常に暗く、常に危険をはらんでいる。萩谷等が生きて成長してゆくことは、そのエネルギーに抗するために、自分を駆り立ててゆくことだった」と知る。
 等は土井崎夫妻以外に茜の遺体がある場所を知っている人物とある時接触し、その人物の記憶や心の奥を覗いてしまい、それを描いたのがあの絵であった。等はそのエネルギーがあまりにも強いため、殴り書きをしたような勢いで描いた。

その人物とは誰なのか?
その人物がなぜ茜が殺され自宅の床下に埋められたことを知ったのか。
その人物は16年間もなぜそのことを黙っていたのか?
そして等との関係は?

 その人物が明らかになったとき、滋子たちは等の特別な能力を確信する。土井崎夫妻がなぜ茜を殺し隠し続けたことがわかってくる。
 しかし宮部さんは『模倣犯』にしても、この本にしても、どうしようもない男、最悪の男をこれでもかというくらい描く。その最悪さを知れば知るほど、男として嫌になってくる。


評価
★★★★


書誌
書名:楽園〈下〉
著者:宮部 みゆき
ISBN:9784163263601 (4163263608)
出版社:文藝春秋 (2007-08-10出版)
版型:361pp 19cm(B6)
販売価:1,699円(税込) (本体価:1,619円)

2007年10月25日

宮部みゆき著『楽園』上

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 こちらも久しぶりに宮部さんの本を読む。詳しいことは下巻を読んでから書きます。まずは上々の滑り出しというところか・・・。読む方もこれからどんな展開になるんだろうと、ハイピッチでページが進む。


評価
★★★


書誌
書名:楽園〈上〉
著者:宮部 みゆき
ISBN:9784163262406 (4163262407)
出版社:文藝春秋 (2007-08-10出版)
版型:413p 19cm(B6)
販売価:1,699円(税込) (本体価:1,619円)

2007年10月23日

司馬遼太郎著『街道をゆく 夜話』

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 今年の5月以来司馬さんの本を読む。この文庫は今月の新刊で、広告には文庫オリジナル、『街道をゆく』の入門書と書かれていたので、私としては読まないわけにはいかなかった。
 文庫オリジナルといっても司馬さんはもう亡くなられているので、新たな文章などあるわけがなく、生前、雑誌などに書かれたものをかき集めたものである。主に司馬さんの紀行文が集められているため、『街道をゆく』の入門書といっているのだろう。

 さて、この文庫の文章にあった言葉が気になる。それは「一隅を照す。これ則ち国宝なり」というものである。これは最澄がいった言葉と聞いている。私が初めてこの言葉を聞いたのは、中学校の修学旅行で根本中堂の関係者が修学旅行の団体客に説明するガイドからだった。
 そのときはこの言葉がどんな意味なのか聞き漏らしたのだが、どういう訳か「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉がただフレーズとして心に残っていた。その後何度か本などでこの言葉を目にしたので、今はもちろん言葉の意味は知っている。
 今回司馬さんの文庫本を読んでまたこの言葉を目にしたので、ちょっと詳しく調べてみようと思った。
 正確には、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という。最澄の「天台法華宗年分学生式」の冒頭に出てくる言葉だという。最澄の師、唐の湛の著「止観輔行伝弘決」にある話を踏まえているという。昔魏王が「私の国には直径一寸の玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」と言ったところ、斉王が「私の国にはそんな玉はない。しかし、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」と答えたという。これをふまえて、 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人一人がそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるという意味なんだそうだ。これに感銘した東洋思想家の安岡正篤は「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。別に偉い人になる必要はないではないか、社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」との見解を述べているという。
 まぁ例によってネットで調べてみるとそういうことになる。

 なんでこの「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉を持ち出したかというと、この本にはそういう人物が書かれているからである。
 歴史上有名な人物はたくさんいる。それぞれの功績によって名を残したわけだが、でもそういうたくさんの有名人に隠れてしまい、光が当たらない人物もいたということを言いたかったのだ。そしてそれが目立たないのは、やってきた仕事が地味であったり、報われなかったことももちろんだけれど、それだけでなく、その人物が奥ゆかしい部分がそうしているのではないかと思ったのだ。
 たとえば秋月悌次郎という人物がいる。秋月はいってみれば幕末、会津藩の外交官であった。幕末、会津藩はやりたくもない京都守護職を引き受けた。当時京都は薩長の志士がたくさん集まっており、治安が悪化していた。その京都の治安を守るのが京都守護職であった。京都の治安を安定したものにするために、新撰組と一緒に薩長の志士を斬った。そのため戊辰戦争で会津藩は恨みを買い、あの凄惨な会津戦争となり、その後も新政府にいじめられてきた。
 京都守護職を会津藩が引き受けたとき、秋月悌次郎が抜擢された。その理由がふるっている。秋月が機略縦横の才があることではなく、むしろ無さすぎることがその理由だろうと司馬さんは言う。ただ江戸である昌平黌に長いこと在籍したため、寄宿舎の舎長になり、全国各藩から来る者と顔見知りになり、知人を多く持っていた。こうした経歴が秋月を抜擢した理由だっただろうと司馬さんは推測されている。
 当時京都では薩長の志士がたむろしていたと書いたが、最初は長州藩が京都で幅をきかせていた。それが面白くなかった薩摩藩は敵である国家警察の会津藩と手を組んだ。「薩会同盟」である。この同盟を結ぶために薩摩の高崎佐太郎が秋月悌次郎のもとへ訪ねてくる。以後同盟はなり、長州藩は一時京都から追い出される。しかしご存じの通り、坂本龍馬の斡旋で今度は薩摩と長州が手を結び、倒幕運動となり、会津は朝敵とされ、凄惨な目に遭う。
 維新後秋月はその人望により東京に呼ばれ、仕官したが、旧会津藩がひどい目に遭っているのに自分だけが官を得るのは忍びないとやがて辞する。その後熊本で漢文の先生をする。秋月は小泉八雲から「神様のような人」と称されるが、「ある日、秋月は教壇にたって、いつものように本をひろげることもせず、よほど時間が経ってから、じつは昨夜、文久三年以来三十年ぶりに友人が訪ねてきて、そのため終夜、痛飲してしまった、といった。秋月が詫びているのは、要するに下調べができなかったために今日は授業を勘弁してもらいたい、ということで、かれはていねいに一礼すると教室を出て行った」。
 このとき訪ねてきた友人というのが高崎佐太郎であったという。司馬さんは秋月が痛飲したのは「薩会同盟」の当時を語り合ったためだろうという。しかし「薩会同盟」は結局薩摩藩にだまされたのと同じなのだが、「秋月は高崎を前にしてそういう恨みもいわず、ひたすら当時を懐かしみ、翌日の授業もできないほど飲んでしまった」という記述を読んで涙が出そうになってしまったのである。
 こういう話のたぐいはおそらく歴史というものの中にかなりの数が埋もれているのだろう。秋月悌次郎は人物として面白みはないかもしれないが(事実司馬さんは秋月を小説として書けないといっている)、人物であった。薩摩の高崎佐太郎にしたって、薩摩藩からすれば二流の人物だ。その高崎に藩の一大交渉を任せたのは、もし何かあった場合、高崎に詰め腹を切らせればいいということで人選されたようだ。しかし二人は当時すべき仕事をしたのである。そういう意味で二人は会津藩にしても薩摩藩にしてもなくてはならぬ人物だったのだろうと思う。ただ結果が悲惨であったということだ。それだけに晩年のこの再会は悲しい。
 私はこの文章を読んだだけでこの本に満足した。


評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく 夜話
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022644190 (4022644192)
出版社:朝日新聞社 (2007-10-30出版) 朝日文庫
版型:381p 15cm(A6)
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

2007年10月20日

DS文学全集

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 新聞によると、任天堂の携帯ゲーム機のニンテンドーDS(ニンテンドーDS Liteを含む)が約348万台も売れているらしい。(このデータは総合ゲーム雑誌「ファミ通」に協力する全国3500店のゲーム機やゲームソフトの3月26日から9月23日(26週間分)までの売り上げデータをもとに、エンターブレインが集計したもの)もちろんダントツである。さもありなんと思う。ちなみにPSP(プレイステーション・ポータブル)は約107万台だという。
 ヨドバシに行くと、DSのソフト、周辺機器がかなり充実しているのを見てもわかる。面白いのは客層である。DSの方はいい大人、それこそおばちゃんまでせっせとソフトを見繕っているけれど、PSPの方はいわゆるアキバ系のリュックをしょった、うさんくさい奴がたむろしている。ハードゲーマーという感じの奴だ。
 で、私はいい大人なので、今回DS文学全集をポイントで買った。さすがマリオだけしか持っていないんじゃまずいと思っていたので、今回このソフトに飛びついたわけだ。テレビのCMを見て、かなり興味を持ってしまったのだ。
 早速家に帰ってから、ソフトをブッチと差し込んで、電源を入れてみると、最初このソフトの使い方が出てくる。ふむふむと納得しながら、収録作品を見てみる。おお、すごい!100冊というか、100作品がラインアップされている。

001 羅生門 芥川龍之介
002 地獄変 芥川龍之介
003 奉教人の死 芥川龍之介
004 杜子春 芥川龍之介
005 藪の中 芥川龍之介
006 トロッコ 芥川龍之介
007 河童 芥川龍之介
008 或阿呆の一生 芥川龍之介
009 カインの末裔 有島武郎
010 生まれいずる悩み 有島武郎
011 或る女 有島武郎
012 外科室 泉鏡花
013 高野聖 泉鏡花
014 婦系図 泉鏡花
015 夜叉ヶ池 泉鏡花
016 野菊の墓 伊藤左千夫
017 蠅男 海野十三
018 東京要塞 海野十三
019 海底軍艦 押川春浪
020 老妓抄 岡本かの子
021 玉藻の前 岡本綺堂
022 金色夜叉 尾崎紅葉
023 夫婦善哉 織田作之助
024 死者の書 折口信夫
025 子をつれて 葛西善蔵
026 檸檬 梶井基次郎
027 城のある町にて 梶井基次郎
028 父帰る 菊池寛
029 恩讐の彼方に 菊池寛
030 藤十郎の恋 菊池寛
031 俊寛 菊池寛
032 「いき」の構造 九鬼周造
033 牛若と弁慶 楠山正雄
034 武蔵野 国木田独歩
035 牛肉と馬鈴薯 国木田独歩
036 出家とその弟子 倉田百三
037 耳無芳一の話 小泉八雲
038 五重塔 幸田露伴
039 無惨 黒岩涙香
040 蟹工船 小林多喜二
041 堕落論 坂口安吾
042 桜の森の満開の下 坂口安吾
043 夜明け前 島崎藤村
044 次郎物語 下村湖人
045 古事記物語 鈴木三重吉
046 瀧口入道 高山樗牛
047 日本三文オペラ 武田麟太郎
048 富嶽百景 太宰治
049 走れメロス 太宰治
050 斜陽 太宰治
051 人間失格 太宰治
052 オリンポスの果実 田中英光
053 蒲団 田山花袋
054 黒髪 近松秋江
055 狂乱 近松秋江
056 あらくれ 徳田秋声
057 縮図 徳田秋声
058 不如帰 徳富蘆花
059 山月記 中島敦
060 李陵 中島敦
061 土 長塚節
062 吾輩は猫である 夏目漱石
063 坊っちゃん 夏目漱石
064 草枕 夏目漱石
065 三四郎 夏目漱石
066 門 夏目漱石
067 彼岸過迄 夏目漱石
068 行人 夏目漱石
069 こころ 夏目漱石
070 明暗 夏目漱石
071 ごん狐 新美南吉
072 手袋を買いに 新美南吉
073 花のき村と盗人たち 新美南吉
074 新版 放浪記 林芙美子
075 セメント樽の中の手紙 葉山嘉樹
076 夏の花 原民喜
077 たけくらべ 樋口一葉
078 にごりえ 樋口一葉
079 学問のすすめ 福沢諭吉
080 浮雲 二葉亭四迷
081 いのちの初夜 北條民雄
082 美しい村 堀辰雄
083 風立ちぬ 堀辰雄
084 病牀六尺 正岡子規
085 注文の多い料理店 宮沢賢治
086 オツベルと象 宮沢賢治
087 よだかの星 宮沢賢治
088 風の又三郎 宮沢賢治
089 銀河鉄道の夜 宮沢賢治
090 セロ弾きのゴーシュ 宮沢賢治
091 伸子 宮本百合子
092 ヰタ・セクスアリス 森鴎外
093 雁 森鴎外
094 阿部一族 森鴎外
095 山椒大夫 森鴎外
096 最後の一句 森鴎外
097 高瀬舟 森鴎外
098 少女地獄 夢野久作
099 蠅 横光利一
100 機械 横光利一

 これだけの作品を2,660円で買えるとはすごい(私の場合ただなのだけれど)。しかも親切にそれぞれの作品にはあらすじがついていて、まずはこれを読んで、興味がわいたら本文を読んでねといった感じだ。しかもあらすじもしっかりしてそうだ。
 収録されている作品のうち、もちろん読んだものもあるし、話の内容を知っているものもあるが、案外読んでいない作品が多い。これを全部読んだら結構すごいことじゃんなんて思ったりしている。タッチペンを左から右へずらすとページがめくれる。それが本当にページをめくっている感じなのがちょっと感心しちゃった。しかもニンテンドーWi-Fi コネクションを使えば、更に作品がダウンロードできるという。
 ふと思い出したのだけれど、最近文庫の目録を数社分手に入れて、眺めていたら「電子文庫パブリ」の目録も収録されていた。要は品切れの文庫本をダウンロードしてパソコンで読むというやつだ。もちろんダウンロードした作品はお金がかかる。お金はともかくとして、ちょっとパソコンの画面で本を読むというのは大変だ。しかしDSを端末として使うことで、もっと手軽に本が読めるんじゃないか。DSがどれだけ普及しているのか知らないけれど、わずか6ヶ月で約348万台も売れているのだから、かなりのユーザーがいるんじゃないかなんて思う。だったら余計にこれを使わない手はないんじゃないか。ゲームばかりやっていないで、たまには秋の夜長、DSで読書なんていいと思う。そういう意味でこのDS文学全集の企画は面白い。版権の切れた文学作品をこうして安価に提供してくれるなんてすばらしい!
 そして思うのだ。本屋さんがこのソフトを扱っているのだろうかと。ゲーム屋さんだけじゃなくて、このソフトは本屋さんも扱うべきなんじゃないかと思う。本というものに作品を読むこと以外に付加価値を求める人もいれば、世の中には読むという行為にメディアにこだわらない人もいる。こうした文学作品を読むことができるものなら、本屋さんは積極的に取り込んでいかないと、ますますじり貧になるような気がする。書店組合もどこかの5万か6万もする新しい世界文学全集をセットで売ることばかり推奨しないで、こういう新しいことに目を向けるべきだ。いい加減、何とか売り上げを伸ばそうと手近なセットものに手を出すのはやめるべきだ。
 私はもう一つ欲しいDSのソフトがある。それは「山川出版社監修 詳説世界史B 総合トレーニング」である。

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 先日お茶の水の丸善によったら、レジのカウンターにこのソフトが置いてあった。さすが丸善と思った次第だ。
 ところでこのDS文学全集には中経出版と出てくる。なんだ中経出版とは?もしかしたら中経出版がこのソフトの監修をしたのだろうか?私の場合、秋の夜長、本を読んだり、DSで文学作品のあらすじを読んだり、マリオやったり、ノートパソコンをいじったり、あるいは野球のクライマックス・シリーズをセ・パ両方見たり、結構忙しい。

2007年10月18日

リチャード・ローズ著『死の病原体プリオン』

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 最近は狂牛病のことをあまりうるさく言わなくなっているけれど、そもそも狂牛病って何なのだろうか。そしてそれがプリオンによって起こされるという。ではプリオンって何なんだ。
 ということで、この本を読んでみた。この本はいわゆる異常プリオンがどのように発見され、この本が発刊されるまでどのように解明されていったのかをつづったドキュメントである。まずはプリオン病といわれる病気を記してみる。

 ニューギニア東部高地フォアというところでクールーという病気に罹っていた患者がいた。歩行障害と病的笑いをする意識障害を起こしていた。この本の主人公であるD・カールトン・ガイデュシュックがこのクールーの解明のため1957年にニューギニア東部高地フォアへ乗り出すところからこの本は始まる。クールーの症状は欧米で見られるパーキンソン病、アルツハイマー病、多発性硬化症、筋萎縮性側索硬化症などの脳の退化に類似していた。このクールーはこの地域の女性や子供を中心に見られた。そしてここには食人慣習が残っていた。人を食べていたのが女性と子供でった。つまりクールーで死亡した遺体を調理して食べていたのである。ガイデュシュックはクールーで死亡した患者の脳を調べてみると、小脳およびその下部にある神経細胞が破壊されていることがわかった。

 1913年ブレスラウ修道院で下働きをしていたベルタ・エルシュカーが突然倒れた。神経学者のアロイス・アルツハイマーの助手のハンス・ゲルハルト・クロイツフェルトがベルタの病歴を記録した。ベルタは明らかに脳に障害があると判断された。死後、解剖し脳を調べてみると数百万という脳細胞が破壊されていた。クロイツフェルトは戦後学会にこれを報告した。その論文をヤコブ博士も見ていた。ヤコブ博士も同様な患者を診ていた。これは未知の病気で、クロイツフェルト=ヤコブ(CJD)と名付けられた。この病気の特徴は脳にスポンジ状たくさんの孔が見られることであった。

 スクレイピーという羊の病気がある。イギリスでの記録は1730年にさかのぼることができるらしい。この病気の症状は体がかゆくなるため体を壁や木にこすりつける。そのため毛が抜ける。さらに進行すると歩行が不安定になり、痙攣し、失明し、死んでいく。その脳を調べてみると、神経細胞は萎縮するか、消滅していた。スポンジ状態は小脳だけでなく大脳皮質まで及んでいるという。

 スクレイピーを調べた獣医学者のウィリアム・J・ハドローはミンクがたくさん死んでいるという報告を受ける。調べてみると、汚れたミンクが後ろ足を引きずり、檻の中をぐるぐる回っている。脳を解剖してみると、脳がスポンジ状になり、神経細胞が消失していた。この病気は感染性ミンク脳症(TME)と名付けられた。TMEは野生のミンクには見られない。

 1985年、イギリスの農家の一人が獣医のコリン・ホイッタカー電話をかけてくる。飼っている牛がおかしいと。普段おとなしい牛が攻撃的になり、全身の動きがばらばらで、よろめき、倒れ、もがいていた。他にも同じ症状の牛が見つかる。脳を調べてみると、スポンジ状の病変と星状グリア細胞が変性した茶色の斑点が確認できた。この病気は牛スポンジ状脳症(BSE)と名付けられた。ただマスコミがおもしろがって、この病気に罹った牛が攻撃的で、神経過敏になることから、「狂牛病」と呼びはじめた。

 1993年少女ヴィクトリア・リンマー学校から帰宅したところで倒れた。彼女は普段羊の肉を食べていたが、たまにはコーンビーフやハンバーガーを食べることもあった。生検の結果、大脳皮質にスポンジ状の病変があり、斑点も多数観察された。生検組織はプリオン・タンパク(PrP)の抗体には反応したが、アルツハイマー病の指標となるアミロイド抗体には反応しなかった。少女は1995年死亡した。解剖の結果、彼女の脳にはスポンジ状の病変と星状グリア細胞が大量に観察された。1996年初頭になると、彼女の他2名の青年、さらに7人もの若い人たちがBSEで死亡もしくは重傷に陥っていった。

 以上がこの本に書かれている異常プリオンに関する病気の経過である。そしてこれが恐ろしいのは、種の壁を越えて感染するということである。たとえばクールーに感染した人の脳をマウスやチンパンジーに投与すれば、脳がスポンジ状態になってしまうし、BSEが人間に感染することは今では周知の事実である。しかも動物(ヒトも含む)の身体を食べることによって引き起こされる。
 この病気を起こすのは、最初、遅発性ウイルス(スローウイルス)感染症だと考えられていた。しかし調べていくうちに、このこのウイルスには自分が増殖していくため遺伝子情報を持つ核酸がない。DNAあるいはRNAしかないのであった。そのためこれはウイルスではないとわかってきた。核酸がないため、ホルマリン,熱,紫外線に対して強い抵抗性をもっている。だから処理するのがかなり手間がかかる。
 現在ではこれらの病気はプリオンによって引き起こされるものだと考えられている。プリオンは感染性のあるタンパク粒子で,ウイルスとは別物である。命名したのは、スタンリー・ブルシナーという学者で、「プリオン」とは感染性タンパク粒子のことであって、タンパク質(Protein)と感染性(infaction)を組み合わせた造語だという。
 詳しいことはわからないが、このプリオン・タンパク(PrP)は通常神経細胞の膜の中で生産されているものらしい。この本ではこのPrPが何に使われているのかわからないとあったが、今は神経細胞の形を整えたり、神経の情報伝達に関わったりしているものと考えられているという(大野さんから聞いた)そしてこれは古くなると細胞内で分解され排除されていくらしい。
 ところがここに異常なPrPが入ってくると、自分のPrPが変質し、分解されず、蓄積していく。そして重要な細胞機能を阻害し、破壊していく。最終的には脳の細胞は死滅し、スポンジ状の孔ができることになる。これが先に挙げた病気の生成過程らしい。しかもやっかいなことに、変質したのは自分のPrPなので免疫反応が起こらないということなのだ。

 ここまでの記述は「というふうに考えられる」というもので、私が理解できたこの論理?はガイデュシュックの考えによる。面白いと思ったのは、ガイデュシュックがこのプリオン病が起こる過程のヒントを得たのが、カート・ヴォネガットというSF作家が書いた『猫のゆりかご』だったということだ。この本に登場するブリート博士が次のように言う。

「われわれがスケートをしたり、ハイボールを作ったりする氷は、たくさんある氷の形態の一つにすぎないんだ。これをアイス・ワンとでもしよう。地球上ではいつもアイス・ワンしかできない。その他の形態であるアイス・ツー、アイス・スリー、アイス・フォー・・・をどうやって作るかという種がないからなんだ。そこで考えてみてくれ。ここにわれわれがアイス・ナインと称する形態があるとする。この机ぐらい固い結晶で、融点は、そう、五五度cだ。もし雨が凍って、小さなアイス・ナインの粒になって降ってきたら、多分この世は終わりだよ」

 つまり異常プリオンとなる成核剤がアイス・ナインなのである。今まで知られていない変化が起こったことで、プリオン病が起こったとしたのだ。
 私が面白いなぁと思ったことは、その専門分野で超一流といわれる学者がSFを読んでいて、それをヒントに自分の考えを構成していったということなのだ。おそらくそれしかわからない専門馬鹿じゃこういう考え方はできなかったんじゃないかと思ったりする。
 最後にこの本にふれられていることで怖いと思ったことを書く。「ハイテクの中の新しい食人現象」に書かれていた。この表題を読めば何のことを言っているかおおよその見当がつくかもしれない。
 ニューギニアで食人慣習が行われていたことで、クールーという病気が発生した。人を食べることによって、異常のあるプリオンを体内に入れてしまったことから起こった病気であった。ここは未開文明の地域だからそうした野蛮な行為(といっても彼らにとっては貴重なタンパク源なのだ)が行われていたからだと簡単に言い切っちゃうことはできない。
 今医療行為としてたとえば死亡した人の角膜を移植したり、他人に使った検査器具の消毒が不完全だったことで、その人がCJDだったら、角膜を移植された人や消毒が不完全な器具を使われた患者は、後にCJDで亡くなってしまう医原病が起こっている。また医療分野で次の技術革新として期待されているのが、異種臓器移植技術だと言われている。つまりブタなど臓器を人間に移植するというものだ。ここには得られる利益の方が危険性よりも大きいからという理由で進められているが、こうしてプリオン病に関する記述を読んでいると、本当に危険はないのかと思ってしまう。人はやってはならないことに手を出し始めた結果、罰が当たり始めているんじゃないかと思ったりする。
 ガイデュシュックは「ヒトの体組織そのものが感染病の原因のひとつであることを忘れてはならない。ある人から別の人に組織を移植することは、同時に感染症を移す危険が伴うのである」と警告している。
 もちろん食の危険性も充分考えないとならない。BSEは「CJDの潜伏期間を平均二五~三〇年とすると、ヒトの間での流行のピークは二〇一五年あたりになるだろう。新型CJD患者が平均年率五〇パーセントで増加していくものと仮定する。それほどありえない仮定ではない。そうすると二〇一五年に年間約二〇万人が罹病する」という最悪のシナリオも描かれているらしい。後8年後には本当にこうなるのだろうか?


評価
★★★★


書誌
書名:死の病原体プリオン
著者:リチャード・ローズ /桃井 健司・網屋 慎哉訳
ISBN:9784794208323 (4794208324)
出版社:草思社 (1998-07-06出版)
版型:286p 19cm(B6)
販売価:1,995円(税込) (本体価:1,900円)

2007年10月12日

いまニッポンの文庫はどうなっているのか!

 今月の『本の雑誌』の「いまニッポンの文庫はどうなっているのか!」という特集は面白かった。最初の部分は日本の文庫の歴史をうだうだと書いているのだが、結論は「そもそも文庫は古典、名作を安く手軽に読めるように作られた日本オリジナルのペーパーバックである」から、「『今月の新刊』だけではなく、長く読まれる作品を長く売り続けることが文庫版元の使命なのではないか」。それなのに「現実には毎月毎月新刊がばんばん出る一方で、絶版・品切れになっていく文庫も決して少なくない」。その生存率がどんどん落ちていく現状を嘆いている。
 この特集にあげられた表をここに示してみると、文庫創刊で華々しく花火を上げ、ラインアップを充実させて発刊したはずなのに、創刊当時の文庫は角川文庫と創元推理文庫にいたっては今は全く手に入らない状況なのである。つまり生存率ゼロなのである。


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 10年たつとハヤカワ文庫以外5割を超えているのは集英社文庫と創元文庫のみで、15年たって5割をキープしているのはハヤカワ文庫のみ。さらに20年たつと各社10%台で、ハヤカワ文庫の47.4%、岩波文庫38.3%は健闘しているということになる。結論として、欲しいと思う文庫は「刊行から五年以内に買っておかないと半分以上が入手できなくなってしまう」ということなのだ。ハヤカワ文庫は高い数字をキープしており、5年前でも10年前でも刊行された文庫本が100%手に入るという結果だ。だから著者としては作品が長生きさせたかったら、ハヤカワ文庫にラインアップしてもらえばいいということになる。
 こんな表を見せられなくたって、だいたいの予想はついた。とにかく品切れになるスピードが早い。簡単に目録から消えていく。ひどいものである。私などこの作品は確か○○文庫にあったはずだと昔得た知識で探してみるが、そのほとんどが手に入らない状況になっているし、自分の持っている文庫などはかなりの部分で目録から抹殺されてしまっている。
 だから発売されたら早めに買っておかないと、後で読みたいと思っても手に入らなくなってしまうから、せっせと買いだめしてしまうのだ。これが私が読む本がたくさんあるのに次から次へと新しい本を買ってしまう口実にもなっている。(実際かみさんにもそう言っているのだが、疑いの目で見られている)
 まぁ本を売る以上商売なのだから、売れない本をいつまでも作り続ける訳にもいかないのもわからないわけでもない。ここで思い出すのが、出版業界が再販制度反対の理由として、出版物は「文化」なのだから、当然再版制度が維持されなければならないという根拠である。もし出版物が「文化」ならこんなに品切れ・絶版にしていいのかということになるではないか。言っていることとやっていることが明らかに矛盾している。

 もう一つこの特集で面白かったのは、「文庫解説が減っている!?」という緊急レポートである。その表もあげてみる。


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 この表は大手5社の解説比率を対5年比で調べた数字だというが、どういう根拠かよくわからない。けれど単純に数字だけを見てみると、2002年と2007年では解説が減っていることはわかる。文庫解説の原稿料が一枚(原稿用紙のことか?)5,000円から6,000円で上限が10万円である。今どんどん初版の刷り部数が減っていて、初版1万部で800円の文庫に10万円の解説料を払うのはかなりのコスト負担になる。だから経費を削減するために文庫解説を減らして、せめて「訳者あとがき」などでごまかしているらしい。この「訳者あとがき」は翻訳料に含まれるので原稿料なしなんだそうだ。
 特に集英社文庫が解説が減っている理由は、集英社独自の文庫解説印税制度のためらしい。これは10万部を超えたものに0.5%印税が文庫解説原稿料とは別に支払われているからで、当然更にコストがかかる。だから著しく文庫の解説が減っているという。
 確かに解説は面白い部分もあるから、ないよりあった方がいいが、つまらんことをうだうだ書いているものや、自分の主張をこれでもかというくらいくどくど説明する解説なら、ない方がいい。でも、出版不況が文庫の解説にも及んでいるとは正直驚いた次第だ。

レイモンド・チャンドラ-著『ロング・グッドバイ』

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 同じ作品を訳者の違いで読み比べてみるということをしたのは今回初めてだ。以前『ライ麦畑で捕まえて』をやはり村上春樹さんの訳で再読したが、この場合以前の訳はだいぶ前に読んでいて、しかもほとんど内容を忘れちゃっていたので、読み比べたという感じはなかった。
 今回は続けて違う訳者で同じ作品を読んだことで、どんな違いがあるのか、その点多少興味があったが、私にはその違いがよくわからなかった。
 ただ話の内容をもう知ってしまっているので、ネタバレされた推理小説を読んでいる感じがしてしまい、なんかだらだらと読むことになってしまった。従ってもうこういうことはやめようと思っている。
 この本の最後に訳者である村上さんの長い解説があるのだが、そこに書いてあるところによると、先に読んだ清水俊二さんの訳は1958年のことであり、刊行後半世紀がたっているという。村上さんは翻訳を家屋にたとえ、25年たったら補修にかかり、50年で改築もしくは新築すべきだという。それは50年もたてば「選ばれた言葉や表現の古さがだんだん目につくようになってくる」からだという。
 また清水さんの訳にはかなり多くの文章の翻訳が意図的に省かれているらしく、今回村上さんは新築と完訳をめざす意図で、この本を訳されたらしい。
 ただ私には清水さんの訳と村上さんの訳とを比べてみてみる技量が欠如しているので、どこが省かれた部分であったかよく分からなかった。また清水さんの訳に「言葉や表現の古さ」をそれほど感じなかったし、むしろ言葉の使い方で以前からある清水さんの訳の方が今風でしっくりくるところもあるように思える。
 たとえばギャングのボスのメネンデスがマーロウが余計なことをさせないように脅かす時、「俺が誰だか知っているか、はんちく?」と言う。清水さんの訳だと「おい、チンピラ、おれがだれだか知っているか」となる。村上さんの訳の「はんちく」という言葉はなんかおかしく感じてしまった。ここは「チンピラ」の方がいい。だいたい「はんちく」なんていう言葉の意味さえ知らなかったし・・・。ちなみにこの「はんちく」を広辞苑で調べてみると「中途はんぱ」とある。半端もんというところだろうが、ギャングの脅し文句としてはちょっとぴんとこない。

 話の展開として、やっぱり不自然だなぁと思うのは、マーロウがたまたま訪れた駐車場で酔いつぶれていたテリー・レノックスと知り合い、その後何度かテリーと飲んだり、マーロウの事務所に訪ねてきたりしているけれど、そんなささやかな機会だけでテリーを自分の親友だと思い続けることである。そのためテリーが自分のふしだらな妻を殺したという容疑がかかり、逃亡に手を貸したり、彼が自殺した後(実際は違うが・・・)も彼をかばい刑務所にぶち込まれたりする。挙げ句の果てにテリーの無実を何とか証明しようとする。普通そこまでするかなぁと思えるのである。
 ただこうした不自然性を村上さんはチャンドラーがこの作品で試みた手法なんだと説明してくれている。それによると次のようになる。
「チャンドラーは自我なるものを、一種のブラックボックスとして設定したのだ。蓋を開けることができない堅固な、そしてあくまで記号的な箱として。自我はたしかにそこにある。そこにあり十全に機能している。しかしあるにはあるけれど、中身は『よくわからないもの』なのだ。そしてその箱は、蓋を開けられることをとくに求めていない。中身を確かめられることを求めているわけでもない。そこにそれがある、ということだけがひとつの共通認識としてあれば、それでいいのだ。であるから、行為が自我の性質や用法に縛られる必要はない。あるいはこうも言い換えられる。行為が自我の性質や用法に縛られていることをいちいち証明する必要がないのだ、と。それがチャンドラーの打ち立てた、物語文体におけるひとつのテーゼだった」
 つまりマーロウがテリー・レノックスとどのような友情関係を結んだかはここでは関係なく、友情関係があったという前提で話を構成するのである。そういう関係を細かく描写すれば(私はそれを求めたのだが)、よくわからないものを書くことになり、話が複雑になる。だからマーロウは事件の真相を細かく語るのである。そして物語の中の彼らの会話が、魅力的であればあるほど、マーロウとテリー・レノックスの間には友情関係があったのだということが読む側に伝わるということになる。

 確かにここに出てくる人物たちの会話の内容は魅力的だ。いくつかあげてみたい。まずはテリーがマーロウとバーに飲みに行った時の会話である。

「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。店の中の空気もまだ涼しくきれいで、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡の前に立ち、最後の身繕いをしている。ネクタイが曲がっていないか、髪に乱れがないか。バーの背に並んでいる清潔な酒瓶や、まぶしく光るグラスや、そこにある心づもりのようなものが僕は好きだ。バーテンダーがその日の最初のカクテルを作り、まっさらコースターに載せる。隣に小さく畳んだナプキンを添える。その一杯をゆっくり味わうのが好きだ。しんとしたバーで味わう最初の静かなカクテル-何ものにも代えがたい」

 これなどその日開店したばかりの店に入った時確かに味わえる。

 またテリーの妻の父親である億万長者のハーラン・ポッターがマーロウに言う件も今でも重みがある。
「まとまった額になると、金は一人歩きを始める。自らの良心さえ持つようになる。金の力を制御するのは大変にむずかしくなる。人は昔からいつも金で動かされる動物だった。人口の増加や、巨額の戦費や、日増しに重く厳しくなっていく徴税-そういうもののおかげで人はますます金で左右されるようになっていった。世間の平均的な人間は疲弊し、怯えている。そして疲弊し怯えた人間には、理想を抱く余裕などない。家族のために食糧を手に入れることで手一杯だ。この時代になって、社会のモラルも個人のモラルも恐ろしいばかりに地に落ちてしまった。内容のない生活を送る人間たちに、内容を求めるのは無理な相談だ。大衆向けに生産されるものには高い品質など見あたらない。誰が長持ちするものを欲しがるだろう?人はただスタイルを交換していくだけだ。ものはどんどん流行遅れになっていくと人為的に思いこませ、新しい製品を買わせるインチキ商売が横行している。大量生産の製品についていえば、今年買ったものが古くさく感じられなかったら、来年には商品が売れなくなってしまうのだ。我々は世界中でもっとも美しいキッチンを手にしているし、もっとも輝かしいバスルームを手にしている。しかしそのような見事に光り輝くキッチンで、平均的なアメリカの主婦はまともな料理ひとつ作れやせんのだ。見事に光り輝くバスルームは腋臭止めや、下剤、睡眠薬や、詐欺まがいの連中が作り出す化粧品という名のまがいものの置き場に成り果てている。我々は最高級の容器を作り上げたんだよ、ミスター・マーロウ。しかしその中身はほとんどががらくただ」

 警部のヘルナンデスが輪ゴムを取り上げ、どんどん引っ張っていき最後に輪ゴムがぱちんと音を立てて切れたときいった言葉。
「もうこれ以上伸びないという限界が、誰にもある」「どれほどタフに見えてもな。ご機嫌よう」

 あるいはその警察に向かってマーロウがいった言葉。
「ほら、すぐ黙れとくるんだ。一般市民はどなりつけておけってことか。いい加減にしろよ、バニー。ギャングや犯罪組織ややくざ連中がこうしてのさばっているのは、何も悪徳に染まった政治家がいて、そいつらの手先が市役所や議会に散らばっているからじゃない。犯罪は病気そのものじゃない。ただの症状なんだ。警官というのは脳腫瘍の患者にアスピリンを与える医者のようなものだ。もっとも現場の警官は治療のためにブラックジャックを使いそうだがな。アメリカ人はでかくて、荒っぽくて、金があって、向こう見ずな国民だし、犯罪というのは我々がその見返りとして支払わなくちゃならない代価なんだ。そいつはこれから先もずっと消えてなくなることはあるまい。組織犯罪は強い力を持つアメリカ・ドルの汚い側面なんだよ」

 自殺したと思われたテリー・レノックス偲んでマーロウがいった言葉。
「いや、けっこうだ。市のバスチーユ監獄から私を家まで送り届けてくれたときのことを覚えているか?私にはさよならを言うべき友だちがいたと君は言った。しかしまだ本当のさようならを言ってはいない。その写真複写が紙面に載ったら、それが彼に対するさようならになるだろう。ここにたどり着くまでに時間がかかった。長い、長い時間が」

「彼女に、自分自身を静かにじっくり見つめてもらいたかったのさ。そのあとどのような行動に出るか、それは本人の問題だ。私は一人の男の無実を晴らしたかったし、そのための手段の是非までかまっちゃいられなかった。誰に何と言われようとな。私を懲らしめたいと思うなら好きにすればいい。逃げ隠れはしない。ずっとここにいる」

 最後に、
「さよならを言うのは、少し死ぬことだ」


評価
★★★


書誌
書名:ロング・グッドバイ
著者:チャンドラー,レイモンド・ 村上 春樹訳
ISBN:9784152088000 (4152088001)
出版社:早川書房 (2007-03-10出版)
版型:579p 19cm(B6)
販売価:2,000円(税込) (本体価:1,905円)

2007年10月01日

レ-モンド・チャンドラ-著『長いお別れ』

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 私のもう一つのブログで古い文庫本を取り出し、読み始めたことは書いた。その取り出した本とはこの本である。そしてわざわざ棚の奥にあった本を取り出した理由もそこに書いた。
 最近やたらと昔の作品の新訳本が出回っていて、それがちょっとブームになっている。私はこの傾向は面白いと思っている。いつまでも古い文体で読まされるより、現代風の言葉で読んでみるのもいいのではないかと思うのだ。もちろん訳された当時のものが、今もそのままあるのは、出版社のお家事情もあるだろうけど、やはり訳がいいからそのまま残されていると思いたい。いわゆる「名訳」といわれるものだ。
 でもそれでも新しい訳本が出されるというところは、やっぱり何か意味あるものではないか、なんて思ったものだから、今回読み比べてみて、どう違うのか知りたいと思ったのだ。たとえばこの本は清水俊二さんの訳なのだが、それが今脂がのっている村上春樹さんが訳すと、どう変わるのだろうか。同じ作品でも様相ががらりと変わるのかどうか、それを知りたいと思ったのだ。
 で、まずは清水俊二さんの訳のこの本を読み終える。詳しいことはこれから読む村上春樹さんの訳本を読んでからまとめて書きたい。
 推理小説として話の構成は面白かったし、フィリップ・マーロウの生き方はちょっとかっこよかった。ただ映画の台本を読まされている感じがいつもつきまとうほど、彼の言動には不自然さがあるように思えるのだがどうだろう。まぁ映画を見ていると思えばそれでいいのだろうが・・・。


評価
★★★


書誌
書名: 長いお別れ
著者:レ-モンド・チャンドラ-・清水俊二訳
ISBN:9784150704513 (4150704511)
出版社:早川書房 1986/06出版 ハヤカワ・ミステリ文庫
版型:488p 15cm(A6)
販売価:882円(税込) (本体価:840円)