2007年10月23日

司馬遼太郎著『街道をゆく 夜話』

2007_10_23_01.jpg


 今年の5月以来司馬さんの本を読む。この文庫は今月の新刊で、広告には文庫オリジナル、『街道をゆく』の入門書と書かれていたので、私としては読まないわけにはいかなかった。
 文庫オリジナルといっても司馬さんはもう亡くなられているので、新たな文章などあるわけがなく、生前、雑誌などに書かれたものをかき集めたものである。主に司馬さんの紀行文が集められているため、『街道をゆく』の入門書といっているのだろう。

 さて、この文庫の文章にあった言葉が気になる。それは「一隅を照す。これ則ち国宝なり」というものである。これは最澄がいった言葉と聞いている。私が初めてこの言葉を聞いたのは、中学校の修学旅行で根本中堂の関係者が修学旅行の団体客に説明するガイドからだった。
 そのときはこの言葉がどんな意味なのか聞き漏らしたのだが、どういう訳か「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉がただフレーズとして心に残っていた。その後何度か本などでこの言葉を目にしたので、今はもちろん言葉の意味は知っている。
 今回司馬さんの文庫本を読んでまたこの言葉を目にしたので、ちょっと詳しく調べてみようと思った。
 正確には、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」という。最澄の「天台法華宗年分学生式」の冒頭に出てくる言葉だという。最澄の師、唐の湛の著「止観輔行伝弘決」にある話を踏まえているという。昔魏王が「私の国には直径一寸の玉が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ」と言ったところ、斉王が「私の国にはそんな玉はない。しかし、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国の宝だ」と答えたという。これをふまえて、 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい貴い国の宝である。一人一人がそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるという意味なんだそうだ。これに感銘した東洋思想家の安岡正篤は「賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。別に偉い人になる必要はないではないか、社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。その仕事を通じて世のため人のために貢献する。そういう生き方を考えなければならない」との見解を述べているという。
 まぁ例によってネットで調べてみるとそういうことになる。

 なんでこの「一隅を照す。これ則ち国宝なり」という言葉を持ち出したかというと、この本にはそういう人物が書かれているからである。
 歴史上有名な人物はたくさんいる。それぞれの功績によって名を残したわけだが、でもそういうたくさんの有名人に隠れてしまい、光が当たらない人物もいたということを言いたかったのだ。そしてそれが目立たないのは、やってきた仕事が地味であったり、報われなかったことももちろんだけれど、それだけでなく、その人物が奥ゆかしい部分がそうしているのではないかと思ったのだ。
 たとえば秋月悌次郎という人物がいる。秋月はいってみれば幕末、会津藩の外交官であった。幕末、会津藩はやりたくもない京都守護職を引き受けた。当時京都は薩長の志士がたくさん集まっており、治安が悪化していた。その京都の治安を守るのが京都守護職であった。京都の治安を安定したものにするために、新撰組と一緒に薩長の志士を斬った。そのため戊辰戦争で会津藩は恨みを買い、あの凄惨な会津戦争となり、その後も新政府にいじめられてきた。
 京都守護職を会津藩が引き受けたとき、秋月悌次郎が抜擢された。その理由がふるっている。秋月が機略縦横の才があることではなく、むしろ無さすぎることがその理由だろうと司馬さんは言う。ただ江戸である昌平黌に長いこと在籍したため、寄宿舎の舎長になり、全国各藩から来る者と顔見知りになり、知人を多く持っていた。こうした経歴が秋月を抜擢した理由だっただろうと司馬さんは推測されている。
 当時京都では薩長の志士がたむろしていたと書いたが、最初は長州藩が京都で幅をきかせていた。それが面白くなかった薩摩藩は敵である国家警察の会津藩と手を組んだ。「薩会同盟」である。この同盟を結ぶために薩摩の高崎佐太郎が秋月悌次郎のもとへ訪ねてくる。以後同盟はなり、長州藩は一時京都から追い出される。しかしご存じの通り、坂本龍馬の斡旋で今度は薩摩と長州が手を結び、倒幕運動となり、会津は朝敵とされ、凄惨な目に遭う。
 維新後秋月はその人望により東京に呼ばれ、仕官したが、旧会津藩がひどい目に遭っているのに自分だけが官を得るのは忍びないとやがて辞する。その後熊本で漢文の先生をする。秋月は小泉八雲から「神様のような人」と称されるが、「ある日、秋月は教壇にたって、いつものように本をひろげることもせず、よほど時間が経ってから、じつは昨夜、文久三年以来三十年ぶりに友人が訪ねてきて、そのため終夜、痛飲してしまった、といった。秋月が詫びているのは、要するに下調べができなかったために今日は授業を勘弁してもらいたい、ということで、かれはていねいに一礼すると教室を出て行った」。
 このとき訪ねてきた友人というのが高崎佐太郎であったという。司馬さんは秋月が痛飲したのは「薩会同盟」の当時を語り合ったためだろうという。しかし「薩会同盟」は結局薩摩藩にだまされたのと同じなのだが、「秋月は高崎を前にしてそういう恨みもいわず、ひたすら当時を懐かしみ、翌日の授業もできないほど飲んでしまった」という記述を読んで涙が出そうになってしまったのである。
 こういう話のたぐいはおそらく歴史というものの中にかなりの数が埋もれているのだろう。秋月悌次郎は人物として面白みはないかもしれないが(事実司馬さんは秋月を小説として書けないといっている)、人物であった。薩摩の高崎佐太郎にしたって、薩摩藩からすれば二流の人物だ。その高崎に藩の一大交渉を任せたのは、もし何かあった場合、高崎に詰め腹を切らせればいいということで人選されたようだ。しかし二人は当時すべき仕事をしたのである。そういう意味で二人は会津藩にしても薩摩藩にしてもなくてはならぬ人物だったのだろうと思う。ただ結果が悲惨であったということだ。それだけに晩年のこの再会は悲しい。
 私はこの文章を読んだだけでこの本に満足した。


評価
★★★


書誌
書名:街道をゆく 夜話
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784022644190 (4022644192)
出版社:朝日新聞社 (2007-10-30出版) 朝日文庫
版型:381p 15cm(A6)
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

trackbacks

trackbackURL:

comments

comment form

(どんなことがあっても、本が好き にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form