2007年11月28日
正岡子規著『病牀六尺』
やっとこの本を読み終える。たかだか200ページにも満たない本にずいぶん時間をかけてしまった。それは内容のむずかしさからそうなったわけではなく、ただ単に私の精神的不調によるのと、文字の細かさに悩まされた結果そうなってしまった。
ここのところ老眼がかなり進んでいるようで、一昔買った本を読むのにかなり苦労するようになった。そろそろ眼鏡を作り直さないといけないかもしれない。
さて、この本である。まず前置きとして次のように始まる。
「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病寐が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、痲痺剤、わずかに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるような事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じはまずこんなものですと前置きして」
子規は明治21年8月、22才の時に喀血した。結核から脊椎カリエス侵される。子規は寝たきりの自分の世界をこのように「病牀六尺」と呼び、その病牀六尺から日常の出来事や感想などを新聞「日本」に連載した。明治35年5月5日に起稿され、死の2日前まで続いた。 この病気聞いたことがあったが、かなりの痛みを伴う。子規はその苦痛に煩悶、号泣する。その苦痛中、次のように書く。
「ここに病人あり。体痛みかつ弱りて身動きほとんど出来ず。頭脳乱れやすく、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を採ってものを書く事は到底出来得可くもあらず。しかして傍に看護の人無く談話の客無からんか。いかにして日を暮すべきか。いかにして日を暮すべきか」
「病床に寝て、身動きの出来る間は、あえて病気を辛しとも思わず、平気で寝転んでおったが、この頃のように、身動きが出来なくなっては、精神の煩悶を起して、ほとんど毎日気違のような苦しみをする。この苦しみを受けまいと思うて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無理に動かしてみる。いよいよ煩悶する。頭がムシャムシャとなる。もはやたまらんので、こらえにこらえた袋の緒は切れて、ついに破裂する。もうこうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。むしろ真の狂人となってしまえば楽であろうと思うけれどそれも出来ぬ。もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入ってようよう減じわずかに眠気さした時にはその日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思いやられる。寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」
子規の苦痛は看病している家人である母親や妹の律に半ば八つ当たりとも言える文章となって表れる。「我々の家では下稗も置かぬ位の事で、まして看護婦などを雇うてはない、そこで家族の者が看病すると言っても、食事から掃除から洗濯から裁縫から、あらゆる家事を勤めた上の看病であるから、なかなか朝から晩まで病人の側に付ききりに付いて居るというわけにもいかぬ。そこで病人はいつも側に付いていてくれという。家族の女共は家事があるからそうは出来ぬという。まず一つの争いが起る。また家族の者が病人の側に坐っていてくれても種々な工夫して病人を慰める事がなければ、病人はやはり無聊に堪えぬ。けれども家族の者にそれだけの工夫がない。そこでどうしたらばよかろうという問題がまた起って来る。我々の家族は生れてから田舎に生活した者であって、もちろん教育などは受けた事がない。いわゆる家庭の教育ということさえ受けなかったというてもよいのである。それでもお三どんの仕事をするような事はむしろ得意であるから、平日はそれでよいとして別に備わるを求めなかったが、一朝一家の大事が起って、すなわち主人が病気になるというような場合になって来た処で、たちまち看護の必要が生じて来ても、その必要に応ずることが出来ないという事がわかった。病人の看護と庭の掃除とどっちが急務であるかという事さえ、無教育の家族にはわからんのである。まして病人の側に坐ってみたところでどうして病苦を慰めるかという工夫などはもとより出来るはずがない。何か話でもすればよいのであるが話すべき材料は何も持たぬからただ手持無沙汰で坐って居る。新聞を読ませようとしても、振り仮名のない新聞は読めぬ。振り仮名をたよりに読ませて見ても、少し読むと全く読み飽いてしまう。ほとんど物の役に立たぬ女共である。ここにおいて始めて感じた、教育は女子に必要である」となってしまうのである。もちろん子規もそれが八つ当たりだと認識しているようで、「苦痛は誰も同じことと見えて黒田如水などという豪傑さえも、やはり死ぬる前にはひどく家来を吃りつけたということがある」として、自分もそうなっちゃったというところだろう。まあ病人は、自分の病気で精一杯で、得てしてわがままで、自分勝手だから、仕方がないのかもしれない。
しかし先日読んだ立川昭二さんの本には、「これほど痛み苦しんで子規が死んだ直後、長いあいだ看病していた母八重は、子規の遺体に触れたとき、『サア、もう一遍痛いというておみ』とかなり強い調子で言ったという。かたわらにいた河東碧梧桐は『水を浴びたような気がした』と書いているが、息子の痛みをわが身の痛みとして痛んできた母親のこの一言は、まさに鬼気迫るものがある」と書かれていている。
子規に言わせれば無教育の母や妹だったかもしれないけれど、子規の痛みを自分の痛みとして、家族として共有していたことは、これを読むだけでも充分わかる。子規の闘病生活は家族にとって凄惨なものであっただけに、子規の死をそう簡単に受け入れられない。子規に対する愛情からこうしたすごみのある言葉を発したのではないかと思うのだ。妹律は、子規の死後どこかの女子校の先生になったと確か司馬さんの本に書かれていたと思う。
それでもいつも苦痛に悩まされている訳でもなく、小康状態のときもあり、そんなときは俳句や絵の批評をしたり、自分で鉢植えの植物など写生したりしている。俳句のことはよくわからないけれど、子規が描いた絵はちょっと見てみたいなと思う。
また驚いたのは、元気なときの食欲である。
「(朝)牛乳一合、麺麭すこし。午後卯の花鮓。豆腐滓に魚肉をすりまぜたるなりとぞ。また昼寐す。覚めて懐中汁粉を飲む。晩飯、飯三椀、焼物、芋、茄子、富貴豆、三杯酢漬。飯うまく食ふ」とある。これを読んだとき、えっ、ご飯を三杯も食べたの!と思っちゃった。まあ食欲のあることはいいことだろうけれど、それにしてもすごい。私など晩飯でお茶碗一杯が関の山なのに。明治の日本人のたくましさを感じる。
評価
★★
書誌
書名:病牀六尺
著者:正岡 子規
ISBN:
出版社:岩波書店 1984/07出版 岩波文庫
版型:193p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)
☆この本は現在品切れのようです。
- by kmoto
- at 05:13
comments