2007年12月27日

高見順著『死の淵より』

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 どこのマンションのコマーシャルか知らないが、本棚に囲まれた部屋を、女の子が歩き回り、一冊本を取り出す場面がある。本棚にあるの本はいかにも古そうな本で、しかも洋書みたいな感じだ。そのコマーシャルが流れると、食い入るように見てしまう。とにかく古い本が好きだ。時間を経た本には、それだけで価値がありそうな感じがしてしまう。ふと自分の本棚を見ると、思わずまだまだだななんて思ってしまう。

 さて、ここのところスランプに落ち込んでいる。毎年何回か、あまり本を読みたくないな、なんていう気分になる時があるのだが、それはそう長く続くことはない。だいたい一週間程度本を読まなければ、すぐ本が読みたくなり、元の生活が復活する。しかし今回は重傷だ。本が読めない状態が長く続いている。
 そんなもんだから、ここのところ更新ができないでいる。しかもやっとのことで一冊の本を読んでも、今度はそれについて書くことができない。どう書いたらいいかわからなくなり、完全にパニックに陥ってしまう始末。
 だからというわけじゃないのだが、本棚の整理でもすれば、読みたい本が出てくるかもしれないと思い、棚を眺めつつ、棚に収まっていない本を収納する。
 そんなことをやっていたら、この詩集を見つけた。本の画像を見てもらえば分かる通り、かなり保存状態が悪い。箱が日焼けしてしまっている。この本は古本屋で100円均一のワゴンに収まっていたのを買った。本の状態から考えれば当然である。ただ、箱入りのため、箱は傷んでいるが中身の本は結構きれいだ。
 実はこの高見さんの詩集は高校時代に読んでいる。当時あった文庫本で読んだ(普通の講談社文庫であった。今は講談社文芸文庫にある)
 この詩集を知ったのは岩波新書の時実利彦さんの『人間であること』に高見さんのこの詩集が紹介されていて、気になって続けて読んだと思う。ただ親本である単行本のこの本は読んだかどうか覚えていないので、読んでみることにした。長い話にはついて行けないけれど、詩集なら何とか読めるかもしれないと思ったのである。

 この詩集は高見さんが食道ガンに冒され、入院し手術したときの前後に書かれたものである。ガンと闘いながら、自分に近づきつつある“死”におびえ、あるいは開き直り、諦める。その気持ちを詩に託している。まずは「死者の爪」という詩からこの本は始まる。以下気にかかる詩や、気にかかる語句がある詩を抜き出してみる。

<死者の爪>

つめたい煉瓦の上に
蔦がのびる
夜の底に
時間が重くつもり
死者の爪がのびる


<ぼくの笛>

烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる


<帰る旅>

(略)

この旅は
自然に帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器のような副葬品を

(略)


<泣きわめけ>

泣け 泣きわめけ
大声でわめくがいい
うずくまって小さくなって泣かないで
膿盆の血だらけのガーゼよ
そして私の心よ


<魂よ>

魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分かった
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう

(略)

魂よ
おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ
口さきばかりの魂をひとつひっとらえて
行為だけの世界に連れて来たい
そして魂をガンにして苦しめてやりたい
そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うのだろう


<望まない>

たえず何かを
望んでばかりいた私だが
もう何も望まない
望むのが私の生きがいだった
このごろは若い時分とちがって
望めないものを望むのはやめて
望めそうなものを望んでいた
だが今はその望みもすてた
もう何も望まない
すなわち死も望まない


<過去の空間>

手ですくった砂が
痩せ細った指のすきまから洩れるように
時間がざらざらと私からこぼれる
残りすくない大事な時間が

(略)


<巡礼>

人工食道が私の胸の上を
地下鉄が地上を走るみたいに
あるいは都会の快適な高速道路のように
人工的な乾いた光りを放ちながら
のどから胃に架橋されている
夜はこれをはずして寝る
そうなると水を飲んでももはや胃へは行かない
だから時には胃袋に睡眠薬を直接入れる
口のほかに腹にもうひとつ口があるのだ
シュールリアリズムのごとくだがこれが私の現実である

(略)


 この詩集には“赤”という言葉が何回か出てくる。“血だらけのガーゼ”、“赤いザクロの実”、“赤インク”、“カエデの赤い芽”、“車輪が赤く錆びて行く”等々。
 “赤”は病気であり、あるいは苦しみながら生きている証拠なのではないかと思った。特に本自体が古さのため薄く黄ばんでいるので、“赤”という文字が余計に際だって感じられた。

2007年12月12日

万引き

 毎月一回、書店組合から「TKYO書店人月報」がFAXで届く。普段ほとんど気にもしないのだが、今回ふと目にとまった記事があった。そこには「コミック本101冊万引き容疑」とある。書店もクリスマス、正月と忙しくなるから、万引きにご注意!という配慮からこの記事を掲載したのだろう。しかしそれにしても101冊とはすさまじい。いったいどういうことなのかよく読んでみると、被害にあった書店は私が住んでいる江戸川区の書店だと書いてある。そこを読んで俄然興味がわいた。だって101冊も万引きされたなんて、何と間抜けな本屋なんだと思っても当然でしょ。で、例のごとくネットで詳しく調べてみた。

 逮捕されたのは東京都江戸川区東小松川1丁目、米畑陽一容疑者(23)。小松川署の調べでは、2007年11月3日午後4時20分~40分ごろ、東京都江戸川区中央2丁目の「TSUTAYA江戸川中央店」でコミック計101冊(販売価格計約6万円)を万引きした疑い。作品ごとに買い取り価格を記した表を古本店で事前に入手したうえ、TSUTAYAの本売り場で約30分間、高く売れる本を下見して、店員や客がいなくなったすきに、縦約50センチ、横約40センチの袋いっぱいに本を詰めて持ち出し、駐車場に積み上げると再び入店し、また万引きした。調べに対し「借金返済に困っていた。高く買い取ってもらえるシリーズ本を狙った」と話しているという。盗んだコミックは「名探偵コナン」や「花より男子」などだった。これで101冊で6万円になるのかという素朴な疑問がわくが、まぁ他の本も盗んだのだろう。
 まんまと盗まれた本屋も間抜けだけど、実はこの犯人も間抜けであった。この犯人せっせと本を運び、古書店に売るために駐車場で本のビニールカバーを破いていた。それを近くの自動車販売店の店員が見ていて、「何だか本を大量に持ってきて外でゴソゴソやっている男がいる」と警察に通報され、御用となった。
 実は「TSUTAYA江戸川中央店」を知っている。というよりうちの息子はよくここでCDやDVDを借りている。私も一度ここに行ったことがある。だから何となく店のレイアウトも思い浮かぶし、駐車場の状況もわかる。だからあそこの駐車場でコミックに巻き付けてあるビニールを破っていたんだなと想像がつく。

 ブックオフに行くと、棚にある本にボウズ(売り上げスリップ)がそのままはさまった本をよく見かける。通常ブックオフにある本は一般読者が、書店で本を買い、それを売る。だからそこで売られる本には絶対に売り上げスリップがはさまっていない。(たまに本屋が忘れたり、売り上げスリップがちゃんとはさまっていなかったことで、スリップがなくなったものとして、売ってしまうことがある)それがちゃんとはさまったままブックオフの棚にあるということは、明らかに盗品を買い取って、売っていることになる。
 実際近所にブックオフが出来ると、万引きが増えるといって、組合で問題になったこともある。佐野眞一さん本にも、紀伊国屋の社長がこのことに触れていたはずだ。買い取ってくれ、すぐ現金化できるブックオフは万引きにとってとてもいい場所だろう。

 実は私は万引きに間違えられたこともあるし、万引きを捕まえたこともある。万引きに間違えられたのは、まだ私が本屋でアルバイトして間もない頃であった。自分が注文した本がまとめて入荷したので、それを店の紙袋に入れて持ち帰った。途中、買い忘れた本があったので、当時錦糸町の駅ビルにあった本屋さんに立ち寄った。別に店の中をうろうろしたつもりはなかったのだけれど、目的の本を買ってから、階段の踊り場に出たとき、警備員に呼び止められた。私が店の本を万引きしたと思ったのだろう。紙袋の中にある本を見せろというのだ。運が悪いことに、そこにあった本には売り上げスリップがついたままであった。当時いた店では、客注品で報奨金がついていない売り上げスリップは抜かずに、そのまま渡していた。その関係で私が買った本も売り上げスリップを抜かずに、紙袋に入れていた。しかも、買ったといっても、ツケで買ったものだから、レシートがある訳じゃない。あるのは自分で書いた店の納品書で、しかも自分のものだから、書名など書かずに、金額だけ書いたものであった。
 今だったら、そんな疑いをかけられたら、それこそ大げんかになっているだろうけど、当時はまだうぶだったので、かなり困った。自分が新橋の本屋の店員であること、そしてこの本は自分の店で買ったこと。売り上げスリップがついているのは店の事情であることを説明して、なんとか疑いを晴らした。
 それ以来、本屋に行くときは、自分が読んでいる本は、たとえカバーがついていても、鞄に入れておくこと。また本屋の責任者になってからは、店の者には、どんな本でも売り上げスリップは抜くことを指示した。
 
 万引きを捕まえたこともある。これは以前のブログで書いた。万引きを捕まえてそのまま警察に引き渡したのだけれど、私も一緒に警察に行く羽目になった。はっきり言って、万引きは許せないけれど、人を犯罪者として引き渡すのもいい気分じゃない。最初は万引き犯を捕まえて警察に引き渡したということで、何か正義を全うした感じでいたのだけれど、万引き犯と一緒に警察に行くと、これで良かったのだろうかと思い始めた。何と言えばいいのかよくわからないが、この万引き犯の人生に何らかの汚点をつける現場に立ち会ったことの気分の悪さを感じたのである。(私が捕まえた万引き犯は初犯であった)
 幸いそれ以後万引き犯を捕まえることはなかったのだけれど、やっぱりやめて欲しいな。捕まえた方も気分が良くないのだから・・・。

2007年12月07日

雫井脩介著『犯人に告ぐ』

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 いや~、おもしろかった。今年どれだけミステリーを読んでいるかわからないけれど、少なくとも今年一番の本であった。さすが2004年のベストミステリーにあげられるだけのことはあった。

 話は、神奈川県警管轄内で、4人の男の子が殺害される「川崎男児連続殺害事件」が未解決であった。犯人は4人目犠牲者の時、テレビ局に声明文を送りつけ、新たな現場を明かすとともに女子アナを脅した。新たに赴任した県警本部長はこの犯罪を「劇場型犯罪」という。
 そして捜査が膠着したこの事件を解決するためには対抗処置として「劇場型捜査」を指示する。すなわち捜査官がテレビのニュース番組に出演して、事件の情報を得るともに、「バッドマン」と自ら称する犯人をこの劇場に再度登場させ、しっぽをつかむことであった。
 この事件の捜査を任されたのが、巻島史彦であった。巻島は以前神奈川県警にいた。この事件の6年前、児童誘拐事件捜査に失敗し、誘拐された男の子を死なせてしまった。しかも記者会見でマスコミとやり合ったために、徹底的にマスコミにたたかれる。巻島は事件の責任を取らされて、県警本部から飛ばされていた。
 巻島はテレビのニュース番組に出演し、事件後沈黙していた「バッドマン」を再度登場させることに成功する。当然このニュース番組は視聴率が上がっていき、他局のニュース番組は低迷することなる。その他局のニュース番組に巻島の上司、植草荘一郎の大学時代別れた恋人、杉村未央子が局アナとして出演していた。植草は未央子との縁を復活させるために、自分が巻島の上司であって、「川崎男児連続殺害事件」を扱っていることを伝える。未央子にすれば巻島が出演するニュース番組に視聴率を取られている以上、植草から情報は願ってもないことであった。植草にしても未央子との復縁を願っている以上、捜査の情報を未央子に流し始める。
 しかし流された捜査情報は巻島たちの捜査をじゃますることとなる。巻島は未央子の番組から流れる情報が、どうも内部から漏れたものではないかと思い始め、植草に罠をかける。
 犯罪捜査とテレビの視聴率争い、そして内部情報漏洩者狩りと三つどもえで話はどんどん進んでいく。そして「バッドマン」を追い詰めたとき、巻島の孫の一平が誘拐される。犯人は新宿、原宿、そして横浜と6年前の誘拐事件で犯人が指定した場所と同じ場所を巻島に指示する。そして一平の前で刺される。刺したのはあの男の子の父親、夕起也であった。
 「川崎男児連続殺害事件」の捜査が大詰めのところに来たとき、巻島は最後にテレビに出演し、「余興は終わった。これは正義をまっとうする捜査であり、私はその担い手だ」と「バッドマン」に告げた。それを聞いた夕起也は正義の担い手が自分の息子を殺した。怒りは頂点に達したのである。夕起也は巻島に土下座して謝れと迫る。巻島は「謝るときは自分の意思で謝る。指示されて謝るつもりはない」と突っぱねた。
 巻島は何とか命を取り留め、そこへ夕起也の妻、桜川麻美が謝罪に来た。巻島は麻美に呼びかける。

「もうすぐ、健児君の七回忌ですね・・・・」
「はい・・・・」麻美は小さな涙声で応えた。
「麻美さん・・・・」
 巻島は呼んで、歯を食いしばった。
 喉の奥で嗚咽が砕け・・・・。
 その声が言葉となって、巻島の口からこぼれる。
「申し訳・・・・ありませんでしたっ」
 天井がぶわりにじみ、涙が目尻の堰を一気にきった。
「私は・・・・」
 巻島はひくついた喉から、昴ぶったままの声を必死に絞り出した。
「私は・・・・自分の力不足で・・・・あなたから大事な命を・・・・かけがえのない宝物を奪い取ってしまいました」
 巻島はきっと眼を見開いて、流れる涙に悔恨の思いを乗せた。
「ごめんなさい・・・・本当に、本当にごめんなさい」
 とめどない嗚咽が喉を震わせ続ける。しかし、それでも言わねばという思いだった。自分の懺悔が一掬の救済となって彼女の耳に届くことを信じ・・・・巻島は顔を歪めて言葉を続けた。
「私も背負ってますから・・・・ずっと・・・・今までも・・・・だから、お願いです。あなた方だけで背負い込まないで下さい・・・・私も背負います・・・・これからも・・・・ずっと背負いますから・・・・」
 巻島はそれだけを精一杯言うと、あとはもう嗚咽に抗するのをやめ、ただ涙込み上げるままに泣いた。

 巻島は「川崎男児連続殺害事件」の間も、そしてこの6年間健児のことは忘れることは出来ずにいたのだ。この場面はちょっとやばかったなぁ。
 それと巻島と一緒に捜査にあたっていた津田もいい味を出している。その津田が昔の極悪人が廃人すれすれの生活をしているのを巻島に見せて言う言葉もいい。

「ああいう人の道すれすれで生きていると、いずれは一線越えてしまうってことでしょう。ちょっといつもより針が大きく振れたってことでしょう」と。


評価
★★★★★


書誌
書名:犯人に告ぐ
著者:雫井 脩介
ISBN:9784575234992 (4575234990)
出版社:双葉社 (2004-07-30出版)
版型:367p 19cm(B6)
販売価:1,680円(税込) (本体価:1,600円)

☆現在品切れのようです。文庫本ならあります。

2007年12月03日

日垣隆著『そして殺人者は野に放たれる』

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 この本は刑法39条による悪法がいかに犯罪者を野放しにしているかを、実際あった事件やその判決から語っている。あとがきによると著者の弟さんも理不尽に殺され、またお兄さんも長いこと精神分裂病あったことから、被害遺族として、また身内に精神障害者いることで、この刑法39条の理不尽さと取り組むことになったという。
 刑法39条とは1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。というものである。詳しいことは知らないが、この本を読む限り、この三九条は明治に刑法が制定されたときからそのまま残っているようである。
 心神喪失というのは、犯行時における是非弁別を全くできない場合をいい、心身喪失ではないが充分な弁別ができない状態にある場合を心神耗弱(しんしんこうじゃく)というらしい。
 そしてわれわれは最近の凶悪犯罪の裁判でこれが乱発されていることに憤りを感じているはずだ。日本という国は加害者を一所懸命守るけれども、その被害者の救済にはほとんど手がつけられていない状態だといってもいい。ちなみにこの本によると「この年(1996年)、日本全体で加害者には総計46億円の国選弁護報酬と食料費+医療費+被服費に300億円も国が支出した。対照的に、被害者には遺族給付金と障害給付金を合計して5億7000万円しか払われていない」という。しかも加害者が精神障害もしくは責任能力がないと思われたら、その時点で加害者の名前は伏せられ、被害者の名前が大々的にマスコミで報じられる。
 この刑法39条があるおかげで、犯罪者は訳のわからないことをつぶやけば精神的に問題があるのではないかということになり、お得意の「精神鑑定」が行われる。その鑑定で異常があると言われれば、無罪、あるいは刑が軽減されることとなる。従って「何度もの刑事被告人体験なのかで、『ほとんど記憶がない』『異常な泥酔状態にあった』『覚醒剤を打っていた』ことが、罪科の加重ではなく、逆に日本では無罪や刑減軽の理由になると知った者たちが、この“救済”法を重大事件に際して思い浮かべるのは、むしろ自然なこと」になる。いわゆる詐病である。裁判でこの通りいって、刑が軽減された被告人が「ニヤっと笑った」という記述がこの本にはある。
 著者によると、「思慮分別のない犯罪を、日本の刑法は心神喪失と読んで特別扱いをしてきた。欧米では、ただ精神異常と呼んでいる。この国では心神喪失があまりにも安易に乱発され、不起訴または無罪放免となる殺人者だけで毎年百数十人にも達する。犠牲者数は、無論これより多い」という。
 著者は精神鑑定が害悪で、時間の無駄と断罪するが、その理由を次のようにあげる。

1.精神鑑定は必ず刑を減ずる。または事件そのものがなかったことにする方向で作用する。日本裁判史上、精神鑑定により刑罰が加重された事例は一つもないということ。

2.精神鑑定が惹起されるような事件は、そうでないものに比べて、その異常性において異彩を放っている。精神鑑定を「やむをえないこと」とする発想は、より凄惨かつ不可解な事件を「なかったこと」として闇に葬り去る役割を果たしてきた。

3.事件の深層は精神鑑定がなすべき務めではなく、刑事裁判全体が果たすべき任務。

4.精神鑑定は科学的検証に全く耐ええない。結論は専門家によって異なる。あるいは学派によってあらかじめ決められている。精神鑑定は科学ではなく、証拠でもなく、事件が起きた過去の一時点における精神状態を推理することにほかならないこと。

5.従ってというか、精神鑑定をしても「結局わからない」のが本音なのだが、それをわからないとは書けない。あるいは医師である以上病者の味方であり、いかに治療し、助けてあげられるかというイデオロギー的観点から精神鑑定を引き受けている者もいる。さらに精神分裂病は病気であり、病人に刑罰を課すことは意味がなく、それよりも治療を行うべきという考えに基づく。しかし日本には精神障害者を処遇する施設は一つもなく、結果的に「野放し」を常態化させることになる。また39条が廃止されると、多数の凶悪犯罪を無罪化する“弁護士のお仕事”がなくなるから、日弁連も強行に反対していること。

6.精神鑑定が推測に基づく意見にすぎないにもかかわらず(参考にはなるとしても)、これを責任能力鑑定として検察庁または裁判所が真に受け、または鑑定書を言い逃れの担保として、心神喪失的事件の8割不起訴、2割が裁判で心神耗弱が認められて刑の軽減が図られる不条理さがあること。

7.仮に精神鑑定や刑法39条を是とするなら、「①故意に、みずから精神の障害を招いて罪となるべき事実を生ぜしめた者には、前条の規定を適用しない。②過失により、みずから精神の障害を招いて罪となるべき事実を生ぜしめた者についても、前項と同じである」という条文を至急追加すべきであること。(順不同)

 以上のことから刑法39条は廃止しても、「《罪を犯す意思がない行為は、罰しない》(刑法38条)および《犯罪の情状に酌量すべきものがあるとき、その刑を減軽することができる》(刑法66条)があれば必要かつ充分なのである」と言う。その上で「何人も、故意に基づく凶悪犯罪に対して、責任と刑罰を免れるべきではない。傷害や死亡事件が明らかに病のみを原因とする過失であるならば、まさに過失犯(刑法209条、210条)として裁けばよい。裁判に耐えられないほどの重篤な病に罹患している被告に限って、現行どおり強制入院を命じれば足りる」と言い切る。
 そもそもこの世の凶悪犯罪で正常な犯罪など存在するはずがない。それに素朴な疑問として重篤な精神病患者はそれなりの病院や施設に入所しているはずだ。巷で事件や事故など起こしようもない。あった場合はそれこそ監督責任を問えばいい。
 問題は軽度の精神病患者や刑法39条を盾にとって神病患者を演じる奴や覚醒剤常習者、飲酒などによる異常性を発揮する場合も、この刑法39条が適用されることの方が問題である。
 ところで司法試験には「原因において自由な行為」というのがあるらしい。要するに飲酒やシンナーなどは自らの意思によって為した行為であり、たとえそれが犯罪を結果したとしても、その「原因」となった行動を為すか為さないかは「自由」に選べたはずだから、したがって免責すべきでないという理論である。私はこれは正論だと思う。それにたとえば飲酒運転で死亡事故を起こした場合、有無も言わさず危険運転致死傷罪で逮捕するのだから、同様の理由で覚醒剤、飲酒で精神的におかしくなっていたとしても、それを打ったり、飲んだりするのは自由意思であって、その後精神的におかしくなっていたとしても、それはその結果だから、そのとき正常な判断がつかない状態だったとしても、問題外である。むしろ罪を加重すべきことであろう。
 そうあるべきなのに、「被告弁護側が心神喪失(異常)を、検察側が完全責任能力(正常)を主張し、裁判所その中間(心神耗弱)をとる、という実に安易で退廃的な判決が頻出する。正常と異常のあいだが心神耗弱なら、ほとんどすべての凶悪犯罪はその罪を減じられることにならざるをえない」ことになる。裁判って落としどころを探しているもんじゃないだろう。中間地点が心神耗弱なんて、いかに馬鹿げた法的屁理屈であるか!
 それに責任能力のない者を裁くことが人権無視というなら、事件や犯罪者をないものにしてしまって、無罪にする方が人権無視ではないかと思うのだ。だって「あなたは正常じゃないのだから」と公にしているのだし、そもそも事件がなかったことにされたら被害者の人権だって無視していることになるはずだ。
 著者の言うとおり、「刑法39条1項は、即刻廃止するのが人道的である」。それでなくても現在精神鑑定の乱発(日本では年間650件以上!)というのだから、余計である。


評価
★★★


書誌
書名:そして殺人者は野に放たれる
著者:日垣 隆
ISBN:9784104648016 (4104648019)
出版社:新潮社 (2003-12-20出版)
版型:253p 19cm(B6)
販売価:1,470円(税込) (本体価:1,400円)