2008年01月21日

佐野真一著『東電OL殺人事件』

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 1997年(平成9年)3月19日午後5時半頃、東京都渋谷区円山町の木造2階建てのアパート「喜寿荘」の1階101号室の空き部屋で、東京電力に勤める渡邉泰子(39歳)が絞殺死体で発見された。捜査本部は殺害現場となった「喜寿荘」の隣りの粕谷ビル401号室に仲間4人と一緒に住でいたネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)を同年5月20日逮捕した。詳しくはゴビンダはオーバーステイで、入管難民法違反(不法残留)で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた後、その日の午後、すぐに警視庁により泰子殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴される。

 私はこの本に以前から興味を持っていて、読んでみたいと思っていた。
 この本は事件発生から、東京地裁でゴビンダの判決(一審無罪)の判決が出るまでの三年間をゴビンダが無実であることを詳しく証明して歩いた記録である。著者はこの事件を調べれば調べるほどゴビンダが無実の罪で逮捕された冤罪だと確信を得て、そのことを中心に記述が進む。が、それよりも私はなぜ地位も名誉もある東電のエリートOL渡邉泰子がなぜ渋谷のラブホテル街で一人で立ちんぼをして売春を行っていたのかそっちの方が興味があった。しかもこの本を読んでいると、泰子の奇行は、私には“どうして?”としか言いようがないほど異常であった。
 泰子は東大出の父親と、日本女子大出の母を持つ、高学歴の家庭の長女として生まれた。地元の公立中学校から慶応女子校、慶応大学経済学部と進み、昭和五十五年東京電力へ入社した。配属は企画部調査課であった。その後経済調査室副長という管理職に抜擢された。いずれの部署も当時の通産省や資源エネルギー庁との情報交換や経済動向の分析などが主な仕事であった。
 大学時代同じ東電に勤めていた父親を亡くしたが、学生時代はかなりの堅物だったようである。その上父親の溺愛からかファザコン傾向があったようであった。
 そして彼女がクラブホステスのアルバイトを始めたのは平成元年の頃で、東京電力本社を毎日午後5時20分に定時退社していたのに帰宅はほとんど深夜だった。1991年(平成3年)ころから勤務後は渋谷区円山町界隈に出没し、すぐ近くの道玄坂のホテル街で売春したり、なじみの客と待ち合わせをしたりして、一日に客を四人取るノルマを自分に課していた。しかし毎日きちんと最終に乗って自宅に帰ってきている。
 この間の泰子の行動にはかなりの異常性が見られる。コートの裾をたくし上げて路上で放尿したり、道に落ちているビール瓶を拾って酒屋で1本5円に換金し、その小銭を集めて、百円玉に、それがたまると千円札に、さらに一万円札にと“逆両替”をする。ホテルで布団を大便や小便で汚して出入り禁止になっても性懲りもなく利用する。帰りの終電の中で菓子パンをほおばる等々。
 泰子が売春を始めたのは三十代であったが、その行為はビルの陰、公園、駐車場と所かまわずで、最後には二千円で客を取っていた。そしてその行為は克明に自分の手帳に記されていた。
 ゴビンダはネパールで自分の家を建てるために、オーバーステイしてまでも日本で働いていた。その得た給料をほとんどネパールへ送金してい。そのため金銭的にはかなりきつかったはずであるが、それでも彼の性欲は旺盛で、わずかに手元に残っている金額で彼の性欲を満たしてくれる女性を渋谷界隈で物色していた。泰子とも3回会って性交渉を持っている。
 しかしすさまじいのは泰子に方で、一回目の性交渉を持った後、突然訪れて来て「今日もセックスしませんか」と誘ったという。マスコミはこうした泰子の行動を当然放っておくわけがなく、当時かなりおもしろ半分に報道した。
 著者は泰子のこうした異常性を探ろうと試みてはいるのだが、如何せんあまりにも裏表の激しい泰子の生活に踏み込めない状態である。結局ジグソーパズルのはめ込まれないままのピースように、泰子の行動に、これという確信を得られなかった。でもこれはやっぱり無理のようにも思える。精神的に異常を帰してしまっていると、言い切ってしまえばそれで済んでしまうことかもしれないが、それがどうして起こったのかは説明できない。間接的な理由を泰子の生い立ちから見いだせるかもしれないが、“これだ!”というものは見つけられないだろう。しかしそれは当然のような気がする。ジグソーパズルははめ込まれないまま残しておくしかなかった。だからゴビンダの無実をせっせと証明しようとこの本はなってしまっている。
 それはそれで仕方のないことと思うので、このまま残しておいていいのだと思っていたのに、安直に精神科医の意見を求めたところは残念だし、妙に納得してしまった著者の姿勢はどうもいただけない。いただけないついでに、「ファーストフード」もまずいでしょう。

 ちなみにゴビンダは一審では疑いの余地はあるが、無罪となった。そして直ちに検察は控訴、再勾留を要請し、最終的に裁判所もこれを認めた。2000年(平成12年)12月22日、東京高裁で判決公判が開かれ、「原判決を破棄する。被告人を無期懲役に処する」という判決が出る。2003年(平成15年)10月20日には最高裁が上告が棄却され、無期懲役刑が確定する。現在、横浜刑務所に服役しながら、無実を訴え、2005年3月24日、再審請求を提出したという。建設が一時止まってしまったネパールのゴビンダの家はどうなっているのだろうか?


評価
★★


書誌
書名:東電OL殺人事件
著者:佐野真一
ISBN:9784104369010 (4104369012)
出版社:新潮社 2000/05出版
版型:444p 20cm(B6)
販売価:絶版のため入手不能。新潮文庫ならあるようです。

2008年01月15日

阿刀田高著『海の挽歌』

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 最近些細なことで腹が立って、感情むき出しに怒っていた自分が、なにバカなことをしてるんだろうとか、言っているんだろうと、少し引いて物事を見るようになっている。ただ、それはやっとこの歳になって大人になったということじゃない。そんなことにいちいち付き合っておれんという気持ちがあって、もっと自分のやりたいことに自分の全神経を傾けたい、と大げさじゃなくて、そう思うようになったということである。だから、つまらんことに関わるのが時間の無駄という気持ちになってしまうのだ。それでいて本を読んでいると、その中に出てくる言葉や文章に妙に心惹かれ、こだわり、考え込んでしまうところがある。
 今回もこの本を読んで次の文章が引っかかってしまう。

 「人生なんて、右へ行くか左へ行くか、分岐点の連続だろ。あのときあっちの道を進んでいたら、どうなっていたか、その後の人生がまるで変わっているようなことって、いくらでもあるんじゃないか」

 「一つの道を選ぶたびに、無数の可能性を消していく。一つの人生の陰には、こうして消えていった人生の幻が山のように存在しているわけだろ。一種の亡霊だな。実態はなにもない。ただ、もしかしたらあったかもしれない人生がいっぱいさまよっている」

 このように主人公である宮島麦彦は元恋人の朋子の前で自分の人生を振り返る。麦彦と八年前別れた朋子は古代カルタゴという海洋民族が建てた国があったチュニジアにいた。麦彦は三十五歳、妻もいれば一人娘もいるサラリーマン。昔西洋史学を学んだ。不倫というものじゃない。ただ八年前急に別れた朋子に会いたかっただけのことだろう。偉そうなことは言えないけれど、男って、そういうところがある。今の生活を壊そうなんていう意識は全くない。ただ別れた彼女がどうしているだろうかとふと会いたくなるときがある。あるいはそれも捨ててきた人生の一つなのかもしれない。きっかけがあれば会ってみたいと思う気持ちは何となく自然なような気がする。麦彦にはそのきっかけがあった。だから朋子のいるチュニジアに向かう。

 基本的に歴史に“もし・・・”というのはあり得ない。ただそう想像を楽しむことは自由である。麦彦が思うように、「あのときあっちの道を進んでいたら、どうなっていたか」を自分が昔専攻していた西洋史のなかで、カルタゴのハンニバルに置き換えてみる。麦彦は朋子と僅かに残されたカルタゴの遺跡をたどる途中で、次のように言う。

「ハンニバルがローマに勝っていたらローマ帝国は存在しなかったろ、きっと。ローマ帝国がなければ、その後の歴史はまるで変わる。中世の歴史が変わり、ルネッサンスだってあったかどうかわからないし、フランス革命もなさそうだし、現在の世界地図だってちがっているね。歴史も個人も、いくつもの分岐点を通り抜けて現在に至ってるわけだけど、そのプロセスで“あっちの道へ行ってたら”という無数の可能性を捨てて来ている。実現されたものより、捨て去られて日のめを見なかったもののほうが、よっぽど多いんだ。死屍累々、そんな光景が見えて来る」と。

 確かにそうだろう。もしハンニバルがしっかりした後方支援を持っていたらローマはどうなったかわからなかった。けれど、史実としてハンニバルは局部戦ではローマに勝ったかもしれないが、結果としてローマに敗れた。そいうことなのだ。後になっての“可能性はあったかもしれない”は成り立たない。それは多分人生においても同じだろうと思っちゃう。今の人生がたくさんの可能性を消し去ってあっても、もう消し去ったものは消し去ったものなのだ。想像することは出来ても消し去ったものは復活しない。リセットはほとんど出来ない。仮にリセットを試みようとすれば、失敗するのがおちだ。それに歴史においても人生においても変えられない何かがあって、そう進むしかない“意思”があるように思える。つまりなるようにしかならないのではないか。あるいは変わっていたかもしれないけど、根本的には変わらなかったかもしれないのだ。朋子の言葉が印象的だ。

 「あのね、ハンニバルが勝っていたら世界は変わっていた・・・・と、私も考えたわ。でも、本当にそうなのかしら。たしかにローマ帝国はなかったでしょうし、カルタゴ帝国があったかもしれない。だけど、イエスは生まれ、キリスト教は広がり、マホメットは生まれ、イスラム教は広がり、地中海沿岸は同じような歴史をたどったでしょうね。ヨーロッパの平野に似たような国が興り、ナポレオンが出現し、革命が起こり、アメリカはさまざまな民族を集めた合衆国になり、世界戦争が勃発して原子爆弾が落ちる。こまかい部品の組合せはちがっても人類は同じような歴史をたどったように思えるの。どんな英雄の力でも変えられない、大きな歴史の意思のようなものを感じたりするのね、私は」

 麦彦も朋子と別れてから、同様のことを思う。
 
 「ハンニバルが勝っていたら世界はどうなっていたか。ローマ帝国の誕生はなく、世界の様相はまるで変わっていたように思えるけれど、案外、歴史の進行にはゆるぎない法則があって大綱はそれほど変わらないのかもしれない。
 同様に個人の生活でも、さまざまな分岐点を通過したあとで、
 -あのとき、あっちの道へ行っていたら-
 と、後悔を覚えることも多いけれど、同じ人間がやることなのだから、五年、十年の長さで考えてみれば成功も失敗も同じように遭遇して結局はよく似た道をたどり似たような状況に落ちつく。ちがうだろうか」と。

 最近私はこれでよかったのだろうか思うことがたくさんあって、思い悩むことが多い。たとえ違う選択肢があっても結果として、今と似たような状況になるのかもしれないなんて、半ばあきらめつつ、自分なりの結論を出している矢先にこの本を読んだものだから、やっぱりそうかもしれない、なんて思った次第だ。もちろん違う道もあったかもしれないけれど、もうそれはどうしようもできない。だから麦彦が考え至ったことは痛く同感しちゃうのだ。

 この本は先に読んだ阿刀田さんのエッセイで知った。読んでよかったと、本を閉じるとき素直に思った。人生の機微も充分感じさせてくれた。
 更にカルタゴの歴史も詳しく知ることができた。ローマによって徹底的に破壊された文明が確かにここにあった。けれどカルタゴ自身も優れた表意文字(アルファベットの起源となる)持ちながら、自分たちのことは多くを語らなかった。だから朋子がこの本で語るカルタゴをモチーフにした自作の物語は面白さの中に哀しみもあって、いいなぁと思った。
 とにかく新年早々いい本を読んだ。


評価
★★★★★


書誌
書名:海の挽歌
著者:阿刀田 高
ISBN:9784163132105 (4163132104)
出版社:文芸春秋 (1992-05-15出版)
版型:286p 19cm(B6)
販売価:どうやらこの本も新刊書店では手に入らないようです。

2008年01月12日

ギャヴィン・デ・ビーア著『アルプスを越えた象』

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 この本は先に読んだ阿刀田さんエッセイで知った。さっそく手に入れ読んでみた。この本について感想を述べる前に、私にとっても復習の意味で、ポエニ戦争の歴史的背景を簡単に押さえておく。
 ポエニ戦争とはローマ人とフェニキア人のカルタゴと、地中海の覇権をめぐって三回に分けて戦われた戦争である。

第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)
 当時、シチリア島は西半分をカルタゴが押さえ、東半分がギリシア人勢力の押さえていた。ここでの小競り合いから、ローマとカルタゴが地中海の覇権をめぐって23年間にわたって争うこととなる。
 陸上ではローマ軍が優勢であったが、如何せん当時のローマ軍は海軍を持っていなかったため、カルタゴの補給線を絶つ事ができなかった。ローマはギリシア移民の多い同盟諸国から軍船を供出してもらい、更に「カラス」とよばれる桟橋を用いて敵の船に乗り込む戦術によって海戦を歩兵同士の戦いに変え、カルタゴ海軍を撃破する。
この第一次ポエニ戦争の結果はローマの勝利となり、ローマはカルタゴに厳しい講和条項と多額の賠償金を課した。またローマはカルタゴに代わって地中海を支配する国になった。

第二次ポエニ戦争(紀元前219年 - 紀元前201年)
 いわゆるハンニバルによるローマ侵攻である。ハンニバルは諸部族をまとめて軍隊を養成。5万の兵と37頭の象を連れ、アルプス山脈を越えてイタリアへ進軍し、第二次ポエニ戦争が開戦する。イタリア半島各地でローマ軍を撃破し、紀元前216年のカンネーの戦いではローマを完敗させたもののすぐにローマ攻略へは向かわず、一進一退の膠着状態が続いた。その後ハンニバルはスキピオ・アフリカヌスにザマの戦い(紀元前202年)で敗れ、第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。

第三次ポエニ戦争(紀元前149年 - 紀元前146年)
 カルタゴは二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、ローマへの高額の賠償金を繰り上げて完済した。その驚くべき経済力と復興力はローマにとって脅威であった。ローマ内では大カトーを始め、ローマへの将来の禍根を断つ為、いつかカルタゴを徹底的に破壊すべき、という意見が増え始めた。そして大カトーの主張が通り小スキピオによるカルタゴを完全に滅ぼし、ローマ軍は住民のほとんどを殺すか奴隷にした。さらに土地を塩でまき、不毛の土地にしてしまった。

 以上がポエニ戦争の概略である。そしてこの本は第二次ポエニ戦争で、ハンニバルがアルプス越えをどのようなルートで越えていったかを考察した本である。


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 だいたいハンニバルが象をつれてアルプスを越える奇襲作戦は知ってはいたが、そのルートはどこだったのかなんて考えたこともなかったし、そんなことなどもうわかっているものだと思った。しかしそのアルプス越えのルートは今もって確実なルートは解明されていないという。その理由が、残っていただろうハンニバルのアルプス越えの記録がなくなってしまっていることによる。
 訳者のあとがきによると、ヨーロッパの人々はハンニバルに強い関心を今でも持っているらしく、ハンニバルが象を連れてどのルートでアルプス越えをし、ローマにたどり着いたのかというのを、日本で邪馬台国がどこにあったのかとか義経の墓探しに夢中になるようなところと同じだという。
 この本の著者はその後の歴史家ポリュビオスとリウィウスらが彼ら以前に残っていた歴史の記録から彼らが残した歴史書を元にしている。それらと他の歴史家が残した歴史書と比較しながら、気象学的、地形学的要素を取り入れて、ハンニバルのアルプス越えのルートを探っていく。
 ところでこの本の著者の経歴が気になる。いったいギャヴィン・デ・ビーアという人物はどうな人物だったのだろうか。ギャヴィン・デ・ビーアはイギリスの生物学者で発生学の大家で、大英博物館(自然史)の館長を務めた人である。つまり純粋な歴史家ではないようだ。在野の著者がハンニバルのアルプス越えを解明するのは、やはりハンニバルのアルプス越えがヨーロッパの人々にかなりの関心があることをしめすものなのかもしれない。

 まぁ、詳しいところはヨーロッパの地形が詳しくないので、正直なところ理解できなかった。この本にはそのルートを示した地図が載っているのだが、非常に見づらいし、地形がよく読み取れない。ネットで調べてみると、「ハンニバル・バルカが象と越えた峠はどこか?」とうサイトがある。(http://www.eu-alps.com/i-site/hannibal/hannibal0011a.htm)ここに色つきでハンニバルが通ったルートが示してあるので、何とか読み取れる。ただハンニバルが象を引き連れてアルプスを越えたのだから、地形図があればもっとリアルにそのルートを感じることができる。幸いGoogleマップ
でそのルートをたどることができる。
 この地図の太い赤い線で書かれたルートがこの本の著者が推測したルートである。うまい具合に山間を抜けているのがわかるけれど、ただその行程は生易しいものじゃなかったようである。ハンニバルは本当はもう少し南(地図の下の方)のラルシュ峠を越えたかったらしい。しかしそこよりも標高が高いトラヴェルセッテ峠を越えている。これは案内人にだまされてここを通る羽目になったようだ。当然危険がかなり増す。峠を越えたのは10月頃と推測されている。ここはまだ前年の残雪もまだかなり残っているし、その上に新雪が降り、兵隊、馬などが滑り落ちた。
 また大きな岩が道をふさいでいた。面白いと思ったのはこれを取り除くために、岩の周りで火をたき、酢をかけてたたき割ったらしい。
 ハンニバルに立ちふさがったのは自然だけではない。ハンニバルが通る道には先住民がおり、彼らにとってみれば、ハンニバルの進行は、いわば自分たちの縄張りを土足で上がっていくようなものである。当然彼らと戦いながらアルプス越えをすることなる。つまりハンニバルはローマと戦う前に、その行路で先住民と戦いながら進まざるを得なかったのである。
 ハンニバルは最初歩兵三万八千人、騎兵八千騎、象三十七頭(南フランス・アルル付近でローヌ川渡った時点)が、ポー川の平野に出たときは、一万八千の歩兵と二千人の騎兵を失った。象は何頭失ったのか、あるいは失わなかったのかその記録が残っていない。
 しかしこうして苦労して象を連れてきたのに、ローマと戦ってすぐ、一頭を残してすべての象は凍死してしまった。残った最後の一頭にハンニバルは乗って軍を指揮した。ハンニバルはイタリアに十五年間とどまり、ローマと戦ったが、最初こそは奇襲作戦が成功して、勝利を納めたが、いかんせん後方支援を持たない彼はその後苦戦を強いられる。そして今度はカルタゴがローマに攻められ、本国に戻る。
 帰国後ハンニバルは政治家となりカルタゴの行政改革、財政再建の為に経費節減による行政改革を徹底させて賠償金返済を完遂させた。しかし国内の彼の成功は反感者も生み出し、ローマに内通するものもあって、ハンニバルはカルタゴを脱出し、セレウコス朝シリアのアンティオコス三世の許へ走らざるを得なくなってしまう。ハンニバルはシリア軍を率いてローマと対峙するが結局は敗北する。ハンニバルは逃亡し、クレタ島、そして黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命、その後服毒自殺した。

 ところでハンニバルが率いていた象はアフリカ象であったのか、それともインド象であったのかという論争がまじめに行われているらしい。私からすればどう考えてもインド象であり得るわけがないと思うのだが、それがそうとも言い切れないらしい。もちろんそのほとんどがアフリカ象であることはスペインで発行されたカルタゴの硬貨の図柄から検証できる。
 ところでエジプトのプトレマイオス王朝はシリアと戦争を繰り返していた。シリアは象を武装戦闘動物して使っていたが、その象が全部インド象であった。エジプトシリアと戦ううちにシリアのインド象を手に入れた。一方エジプトとカルタゴは友好関係にあり資金援助と象も送っているという。だからハンニバルがインド象を率いていなかったとは言い切れないらしい。学者の中にはハンニバルが率いていた象のうち一頭はインド象であったという人もいるそうだ。

 この本はいろいろな意味で面白かった。まったく気にもしなかったハンニバルのアルプス越えに興味を持たせてくれたし、それ以上にカルタゴやハンニバル自身に興味を持ってしまった。
 話は変わるけれど、ジャック=ルイ・ダヴィッドが描いた「アルプス越えのナポレオン」の絵の左下にはハンニバルの文字が見える。ナポレオンにしてみれば、自分もハンニバル同様アルプスを越えたことを示したかったのだろうか?


評価
★★★

書誌
書名:アルプスを越えた象―ハンニバルの進攻
著者:ギャヴィン・デ・ビーア
ISBN:9784783501855 (4783501858)
出版社:思索社 (1991-03-25出版)
版型:147,18p 21cm(A5)
販売価:どうやらこの本は新刊書店では手に入らないようです。。

2008年01月09日

阿刀田高著『魚の小骨』

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 今年第一弾として、阿刀田さんのエッセイを読み終える。阿刀田さんのエッセイを読むのはこれで二冊目だ。
 まずは共感したところから書きたい。「リポーターの心得」では、阿刀田さんは短編小説を書くときに、山登りにたとえて、九合目までは読者と一緒に歩き、八合目まで来たときに読者が“この小説どうなるのかな”と思い始める九合目で読者と別れ、読者の想像を広げてもらい、自由に楽しんでもらう。そういう気持で短編小説を書かれているという。
 ところがテレビのリポーターは最後まで視聴者に付き合ってしまい、リポーター自身感動を表してしまう。画面だけがやたら興奮している状況が多いというのだ。
 これは特に最近のテレビ番組によく見られる傾向だと思う。しかもレポーターだけじゃなくて、司会者も同じだ。本来なら視聴者に考えさせなければならないところを、自分の意見を余すとこなく披露し、悦に入ってしまっている。何もかもテレビでやってくれるものだから、視聴者は自分で考えることさえしなくなる。ますます馬鹿になるだけだ。
 さらに腹立たしいのが、それが世論を代表した意見のように大上段にものを言うところだ。時たま“おまえは何様なんだ”と思うことがある。そういうレポーターや司会者を喜んで受け入れている我々の民度の低さを憂ってしまう。
 次の「返してくれよォ」では小説家の長部日出雄さんが新聞社に勤めていた頃、“返してくれよォ、返してくれよォ”というだけの電話を取った時のエピソードを載せている。長部さんは電話の声は記事によって台無しにされた“私の人生を返してくれよォ”と訴えているかもしれないと思ったそうである。
 なぜそう思ったかというと、ジャーナリズムというものは個人の一生を台無しにしかねない側面を持っていて、取材の配慮が足りなかったり、思いこみや思い違い、取材不足で人を傷つけてしまうことが大いにある。しかしこの危険性をおそれていてはジャーナリズムは成立しないのだが、阿刀田さんはこれをやむなしと思うことはおごりであるという。報道に携わる者はいつも人を傷つけることの罪深さを、深く、深く、肝に銘じて意識し続けなければなるまいと言うのである。そのため長部さんのエピソードあげたのだ。
 これは先のレポーターや司会者にももちろん言えることだし、最近の報道を見ていると、正義の味方づらした記者が多すぎる。報道の自由、知ることの権利を水戸黄門の印籠のように掲げて、それさえあれば何でも許されるというところはないだろうか?

 またこの本では阿刀田さんの「旅」に関する考えが書かれていて、それが“なるほどね”と思えるところがあって、ちょっと書いてみたくなった。
 松尾芭蕉の「夏草やつはものどもの夢の跡」から、阿刀田さんは芭蕉が訪ねた時は平泉には何も残ってはいなかったはずだけれど、ただここで義経が最後を遂げたのだという思いを馳せたことがこの俳句を名句としていると言い、こういう旅がいいとも言っている。「美しい風景を見て歩く旅も楽しいが、私としてはむしろ歴史の跡を残す土地を訪ねるのが好ましい。いや、歴史の跡などなにもなくてもかまわない。この地で人間たちの大きな営みがあった、と、その事実だけでよい。思い描くさまざまな妄想がうれしいのである」と。きっとこういう旅は楽しいだろうなと思う。
 ところで阿刀田さんは取材旅行として歴史の現場へ行かれる。しかし歴史のくさぐさを知るためには、自分の書斎や図書館の方が役に立つ。けれど、いくらそれら資料を駆使して書いても、何かが足らない。納得できないという。作品としてはほとんどできあがっているのだけれど、書斎で得られない貴重な一行が現場で得られるかもしれないからだという。私はたぶんそれが作品の深みを醸し出すのかもしれないと思った。ちょっと阿刀田さんの作品をもう少し読んでみようかなんて思った。


評価
★★★


書誌
書名:魚の小骨
著者:阿刀田 高
ISBN:ISBN:9784087484045 (4087484041)
出版社:集英社 (1995-11-25出版) 集英社文庫
版型:264p 15cm(A6)
販売価:470円(税込) (本体価:448円)