2008年01月09日
阿刀田高著『魚の小骨』
今年第一弾として、阿刀田さんのエッセイを読み終える。阿刀田さんのエッセイを読むのはこれで二冊目だ。
まずは共感したところから書きたい。「リポーターの心得」では、阿刀田さんは短編小説を書くときに、山登りにたとえて、九合目までは読者と一緒に歩き、八合目まで来たときに読者が“この小説どうなるのかな”と思い始める九合目で読者と別れ、読者の想像を広げてもらい、自由に楽しんでもらう。そういう気持で短編小説を書かれているという。
ところがテレビのリポーターは最後まで視聴者に付き合ってしまい、リポーター自身感動を表してしまう。画面だけがやたら興奮している状況が多いというのだ。
これは特に最近のテレビ番組によく見られる傾向だと思う。しかもレポーターだけじゃなくて、司会者も同じだ。本来なら視聴者に考えさせなければならないところを、自分の意見を余すとこなく披露し、悦に入ってしまっている。何もかもテレビでやってくれるものだから、視聴者は自分で考えることさえしなくなる。ますます馬鹿になるだけだ。
さらに腹立たしいのが、それが世論を代表した意見のように大上段にものを言うところだ。時たま“おまえは何様なんだ”と思うことがある。そういうレポーターや司会者を喜んで受け入れている我々の民度の低さを憂ってしまう。
次の「返してくれよォ」では小説家の長部日出雄さんが新聞社に勤めていた頃、“返してくれよォ、返してくれよォ”というだけの電話を取った時のエピソードを載せている。長部さんは電話の声は記事によって台無しにされた“私の人生を返してくれよォ”と訴えているかもしれないと思ったそうである。
なぜそう思ったかというと、ジャーナリズムというものは個人の一生を台無しにしかねない側面を持っていて、取材の配慮が足りなかったり、思いこみや思い違い、取材不足で人を傷つけてしまうことが大いにある。しかしこの危険性をおそれていてはジャーナリズムは成立しないのだが、阿刀田さんはこれをやむなしと思うことはおごりであるという。報道に携わる者はいつも人を傷つけることの罪深さを、深く、深く、肝に銘じて意識し続けなければなるまいと言うのである。そのため長部さんのエピソードあげたのだ。
これは先のレポーターや司会者にももちろん言えることだし、最近の報道を見ていると、正義の味方づらした記者が多すぎる。報道の自由、知ることの権利を水戸黄門の印籠のように掲げて、それさえあれば何でも許されるというところはないだろうか?
またこの本では阿刀田さんの「旅」に関する考えが書かれていて、それが“なるほどね”と思えるところがあって、ちょっと書いてみたくなった。
松尾芭蕉の「夏草やつはものどもの夢の跡」から、阿刀田さんは芭蕉が訪ねた時は平泉には何も残ってはいなかったはずだけれど、ただここで義経が最後を遂げたのだという思いを馳せたことがこの俳句を名句としていると言い、こういう旅がいいとも言っている。「美しい風景を見て歩く旅も楽しいが、私としてはむしろ歴史の跡を残す土地を訪ねるのが好ましい。いや、歴史の跡などなにもなくてもかまわない。この地で人間たちの大きな営みがあった、と、その事実だけでよい。思い描くさまざまな妄想がうれしいのである」と。きっとこういう旅は楽しいだろうなと思う。
ところで阿刀田さんは取材旅行として歴史の現場へ行かれる。しかし歴史のくさぐさを知るためには、自分の書斎や図書館の方が役に立つ。けれど、いくらそれら資料を駆使して書いても、何かが足らない。納得できないという。作品としてはほとんどできあがっているのだけれど、書斎で得られない貴重な一行が現場で得られるかもしれないからだという。私はたぶんそれが作品の深みを醸し出すのかもしれないと思った。ちょっと阿刀田さんの作品をもう少し読んでみようかなんて思った。
評価
★★★
書誌
書名:魚の小骨
著者:阿刀田 高
ISBN:ISBN:9784087484045 (4087484041)
出版社:集英社 (1995-11-25出版) 集英社文庫
版型:264p 15cm(A6)
販売価:470円(税込) (本体価:448円)
- by kmoto
- at 18:49
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