2008年02月26日

阿刀田高著『夜の風見鶏』

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 ブックオフで一冊105円の文庫を三冊買った。すべて阿刀田高さんのエッセイ集である。
 私は新たに読もうとする作家がある場合、その人のエッセイ集を一番最初に読むことが多い。そして何冊か読んでその作家のイメージを自分なりに作り上げてから、本体の小説に取りかかる。そのためその人のエッセイが気に入ると、小説の方も好きになれる。
 最近阿刀田さんのエッセイが気に入っている。だから阿刀田さん小説もこれから読んでいきたいと思っているが、きっと気に入るんじゃないかななんて思っている。

 このエッセイは朝日新聞の日曜日の紙面(平成七年の六月から十ヶ月間)に掲載されたいたそうで、それを一冊にまとめたのがこの『夜の風見鶏』である。新聞に掲載されたエッセイだから、時事にまったく触れないことは出来ないようで、多少なりとも本文で触れている。しかしそれは大声で主張するのではなく、さりげなく触れられている。それこそちょっと“流している”といった感じで、読んでいて心地よい。ただ多少物足りなさも感じないわけでもない。
 そんな中、二編のエッセイが気になった。
 まずは「死刑廃止論の行方」である。このエッセイが収録された頃は、オウム事件の裁判の真っ最中だったので、先進国では死刑廃止が常識的と言われていても、日本では逆にその声を聞かなくなったというのだ。阿刀田さんは日本の大衆の意識は死刑廃止から遠ざかっているに違いないという。それは松本智津夫被告の侵した犯罪は極刑でなければ許せないというコンセンサスが国民的世論となっているからである。
 そして全く関係のない人々が訳もわからないまま殺されていく事件が頻発している現在も、そのとき以上に凶悪犯罪には死刑で臨むべきだという世論になっているのではないかと思う。それは人を殺したら自らの命で償うべきであって、そうすることで犯罪抑止力にもなるからと考えるからだ。
 そういう風潮の時、死刑廃止論を言いにくい。そんなとき死刑廃止論を持ち出せば、馬鹿じゃないのと言われるのがおちだ。しかしそれでいいのだろうかと阿刀田さんは言うのだ。ただ世論がそういう風潮だからそうであるべきという考え方は、ある意味日本国民が全員で間違いに進んでいるかもしれない。だから死刑廃止論者は人間的論理に反すると大上段にその論を展開するのではなく、なぜ松本智津夫被告を死刑に処してはいけないのか、その疑問に答えるべきだと阿刀田さんは言うのだ。それを多くの人に説いて欲しいという。少なくとも一般論で死刑廃止論を展開しても、個々の犯罪に対して強い憎しみがある以上、今の日本では死刑廃止論は進まないだろう。
 その上いつも裁判で思うことは、被告が人を殺めたことが動かしがたい事実なのに、それをないことにしてしまうこと。あるいはやむを得ないと殺人を肯定せざる得ない状況であったことを主張することで死刑を回避する論理の展開がどうしても納得できない。
 本来なら罪を認め、死刑が相当だとした上で、だけれども・・・という弁護士の話を聞きたいと私も思う。少なくと聞く耳は持っておきたいとは思う。ただしそれは裁判で小賢しい弁護を聞くことじゃない。それは当然人々の胸に響くものでなければならない。
 ただこれも私が事件の当事者でないからそう言えるのであって、関係者ならそんなことは多分言えないだろう。それを充分認識した上で、なぜ松本智津夫被告が死刑ではまずいのか。あるいは光市の母子殺人事件の少年が死刑じゃまずいのか。事実に反するといってつまらぬ証拠を次から次へと並び立てて死刑を回避しようとすよりも、死刑廃止論者を自認するなら、松本智津夫被告や少年が死刑じゃまずいのだと納得できる説明をして欲しいと思う。それを聞きたいと私も思った。

若干本筋からそれた。

 もう一つが「読書は楽しいぞ」というエッセイだ。これは今まで読んだ阿刀田さんの読書に関する意見と基本的には変わらないが、補足の意味で、確かにそうだと思ったので書くことにした。阿刀田さんと知り合いの文芸評論家が成人の何十パーセントが一ヶ月に一冊も本を読まないことに亡国の兆しだと嘆く。それに対して阿刀田さんはそれが直ちに亡国の兆しにつながるか疑問を呈す。本を読まなくても元気のいい国はあるし、大衆文化の様相も昔と今では大きく変わっているから、そんなことは一概に言えないという姿勢である。ただ本を読まない傾向は強まっているというだけである。
 あるいは読書は知識を広め、人格高揚に役立つ、というのは嘘ではないけれど、結果としてそうなると考えておいた方がいいというスタンスである。逆にそういうことをあまり口うるさくいうものだから、読書は勉強になってしまい、つまらないものになってしまうのだという。「知識なんかどうでもいい。人格なんか気にしない。とにかく『楽しんだぶんだけ得、得』と、これがよい」という。
 私は阿刀田さんの本に対するこういう考え方が好きである。どうも読書家といわれる人間は偉そうにぶりたくなところがあって、たかが本を読むことに、何でも大きくものを考えてしまうところがあるように思えてならない。私は本を読むことがそんなに偉いことなのかといつも思うので、阿刀田さんの意見に大賛成である。たかが読書じゃないかといつも思っている。
 阿刀田さんは、読書は習慣であって、本を読む習慣をつけたいと思うならば、身に合った本を読めばいいといい、自分が五十点の人間なのに八十点の本を読んでも長続きしない。むしろすぐ投げ出してしまい、読書そのものが嫌いになる。時にはポルノでもいい。人が何と言おうと好きなものを読めば、そのうち読書習慣なんて身についちゃうと言うのだ。まさしくその通り!(でも時には、こんな本ばかり読んでていいのかななんて思うこともある。そんなときはだいたい無理してむずかしい本を次に読んでいるが、だいたい後悔している)
 でも本は面白い。その美味を知ってしまうと、やっぱりそれを知らない人をあざ笑っちゃうのかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:夜の風見鶏
著者:阿刀田 高
ISBN:9784022641847 (4022641843)
出版社:朝日新聞社 (1999-03-01出版) 朝日文庫
版型:205p 15cm(A6)
販売価:どうやら新刊書店では入手不可のようです。

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