2008年03月29日

長谷川博隆著『シーザー』

2008_03_29_01.jpg


 先日買ってきたこの本を読む。買うときは何か面白そうというのと、100円という安さ、それに昔懐かしい箱入りの旺文社文庫ということで買ったわけだが、読んでみたら意外と面白かった。
 私は古代ローマ史はある意味門外漢なので、シーザーという人物がどういう人物だったのか詳しく知らなかった。でもこの本を読んで、英雄も案外泥臭く、そして当然というか、結構したたかであったんだなと知らされた。「サイは投げられた」とか、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」とかいう歴史的名文句を残している。ほかにもシーザーの名文句はあるようだが、著者が言うように「シーザーはたしかに軍人であり、政治家であった。しかしそれだけではなかったのだ。シーザーは第一級の文章家だったのである」

 でも、シーザーが生きた時代がどんな時代で、またシーザーがその中でどう生きてきたかを考える場合、やはりなぜ、シーザーは殺されなきゃならなかったのか。それを考えるとよくわかりそうである。まずは「ブルータス、お前もか」と、シーザーの暗殺の立役者であったブルータスがどういう人間であったかみればその一端が見えてくる。


2008_03_29_02.jpg


 ブルータスは、カトーの甥であり、カトーを模範として生きていこうとしていた。ここに出てくるカトーとはあのハンニバルの時に出てきたカトーの曾孫にあたる。ひいおじいちゃんのカトーと区別するため小カトーと歴史上呼ばれる。ひいおじいちゃんのカトーもポエニ戦争の時カルタゴを滅ぼさなきゃならないと、結構過激な発言をし、元老院で大きな顔をしていたが、曾孫のカトーも保守的で元老院でなんだかんだといってシーザーのやることなすこと横やりを入れていた。まぁローマの共和制のドンといったところかもしれない。ドンだけあって、結構過激で、最後まで反シーザーの立場を貫き、シーザーの残党狩り開始の報を受けて割腹し、後に自らの内臓を掴み取っての自殺という壮烈な方法で自決した。 新渡戸稲造が欧米人に日本の切腹を説明する時、カトーを例にしたという。
 まぁカトーのことはどうでもいい。ブルータスである。なぜシーザーはブルータスに目をかけていたかである。一説にはブルータスの母親セルウィリアとシーザーが恋仲で、ブルータスはシーザーとセルウィリアの子だという噂もあったらしいが(これがでたらめな話だそうだ)、保守的で、共和制支持者のブルータスを自分の腹心に加えることが、シーザー自身の共和制ローマの伝統を尊重するというイメージアップにつながるからであった。
 シーザーは、もうローマは共和制ではやっていけないことがわかっていたが、過激にそれを否定できない時代でもあった。いわば過渡期であった。だからシーザー自身がやろうとしている「一人支配」をいきなりできないため、保守派のブルータスを自分達のなかに組み入れ、宥和政策をとらざるを得なかったのである。いってみればシーザーの生きた時代はまだシーザーのやりたいことがそのまま受け入れられない時代でもあった。だからいつでもシーザーは保守派に気を使い、駆け引きをし、物的約束をし、人心掌握に努めざるを得なかった。そのためには借金までして金をばらまくのである。
 シーザーが生きた時代は、ローマにとってその支配方法の転換期だった。都市国家だったローマがローマ帝国として拡大していく中で、その政治方法である元老院を中心とした共和政にほころびが見え始めていた。つまり都市国家が領土国家に変換するにあたり、共和制では国家の運営が難しくなってくる。領土が拡大すればするほど、一人の絶対的権力を持った支配者が統治していかなければやっていけない。シーザーはそれを知っていた。しかしそれはいきなりやってしまえば、当然反感を買う。だからまずはシーザーとポンペイウス、クラッススと組んで三頭政治を始める。しかしクラッススが戦死し、この三頭政治は崩壊し、ポンペイウスとシーザーの戦いに突入し、シーザーが勝利する。しかしまだシーザーの一人支配はローマでは受け入れられなかった。それがブルータスらのシーザー暗殺とつながっていった。
 時代の流れは、共和制ではもうローマを運営できないことは事実で、シーザーはこれからのローマの政治体制がどうあるべきか、そのレールを引いたことになる。その後カエサル暗殺後の動乱の中、二回三頭政治がオクタビアヌスとアントニウスとレピドゥスによって行われた。そしてシーザーの姉ユリアの孫、シーザーの養子で相続人であるオクタビアヌスが初代ローマ皇帝となり、ローマは帝政に移行する。

 と、ここまでの記述はシーザーが偉大な政治家で英雄であるという前提で書いている。ただ一方でこの本を読んでいると、案外私利私欲で動いていたんじゃないかと思えるところもある。つまりやり方結構きわどい。まぁ、いつの時代においても政治はきれいなもんじゃないから、そんなもんだといってしまえばそれまでなのだが、ルビコン川を渡ったのも保身のためとも言えなくもない。もっともやらなきゃやられるという時代だったことも事実ではあるが・・・。
 ただ、著者が興味深いことを書いている。「少なくとも、シーザーの偉大さは、内政的・党派的なさまざまの葛藤の中にとじこもらない視野の広さにあったことはだれも否定しないであろう。シーザーの政治活動の対象となってきたのは、ただ単なる『都市ローマ』ではなく、もっと広い世界であった」と。つまりシーザーは「世界帝国の理想」を持っていたのではないかということである。なぜそうした理想を持つようになったかといえば、それはガリアなど長いことローマ以外の土地で暮らしたことによって、それまでのローマ支配者とは違った考えを持つようになっていったからだ。その理想の実現のために、金のばらまき、寛恕政策、宥和政策していったのだろうと著者はいう。たぶんそうなのだろう。いい意味でも、悪い意味でも歴史上の人物の二面性がうまく表されていて、この本は面白かった。


評価
★★★


書誌
書名:シーザー-古代ローマの英雄-
著者:長谷川 博隆
ISBN:
出版社:旺文社 (1967-01-20出版) 旺文社文庫
版型:264p 15cm(A6)
販売価:入手不可。ただし講談社学術文庫で同じものがあり

2008年03月26日

司馬遼太郎著『アメリカ素描』

2008_03_26_01.jpg


 この本は読んだと思っていて、本棚を探したのだが見あたらない。そして自分の記憶を探ってみても、なんだか読んでいないように思えてきた。多分読んでいなかったのだろう。ということで、文庫本をさっそく買い込み、読み始める。
 司馬さんがアメリカをどのようにとらえるのか興味のあるところであった。つまり“司馬史観”はアメリカをどう見るんだろうというところが、今回の主題である。
 しかしこの旅はかなり疲れたことだろうと思う。通常の旅なら、たとえば観光地の景色や建物、あるいは食べ物(ただし司馬さんの紀行文には食べ物に関しては自身が言われているように興味がないらしく、ほとんどこだわっていないのが特徴だ)を楽しむのだけれど、今回はいわゆる思索の旅に終始している。
 司馬さんには「文明は大陸の多民族国家でおこるもの」だという考えがあり、その点多民族国家のアメリカという国はそれを考えるにはもってこいの国なのである。だからこの本は司馬さんが見たアメリカから、一貫して文明と文化について考察されている。

 この本はカリフォルニアとアメリカ東部諸州を四十日ほど旅した記録であり、そのため二部構成になっているが、アメリカがどういう形で国作りをしてきたかをまず考える。
 知っての通り、アメリカはヨーロッパからの移民から始まり、それ以後たくさんの移民を受け入れてできあがった国である。だから本来その土地にある固有の「文化」というものが抜けている。つまり現在のアメリカ以外の国は「古代以来の文化が累積し、近代に入ってやっとその上に法が載るようになった。法によって日本や韓国やデンマークなどができたのではなく、もともとそこに人間の組織があって、近代に入ったがために近代の法で再秩序づけされたにすぎない」。
 ところが「アメリカだけが逆だった。広大な空間を法という網でおおい、つぎつぎに入ってくる移民に宣誓させ、その法に従わせるということで、国家ができた」。司馬さんはアメリカを「巨大な体育館のような国である」とたとえるのである。
 ところで「文化」とは何であろうか?あるいは「文明」とは何であろうか?司馬さんは「文化とは基本的には、人と共にくらすための行儀や規範のことで、母親の子宮内では養われず、出生後の家庭教育や村内での教育による」といい、その地域で生きるための“第二の子宮”だと定義する。
 一方文明は他民族に共有されてこそ文明なのであるとする。ただそのためには「文明が興る大地が、それら多様な諸民族を収容して食わせうるだけの農業的ゆたかさをもっていなければならない」。アメリカにはその条件がある意味そろっていた。その上で「多民族国家であることのつよみは、諸民族の多様な感覚群(つまり文化)がアメリカ国内において幾層もの濾過装置を経てゆくことである。そこで認められた価値(文明)が、そのまま多民族の地球上に普及することができる」というのである。だから「習慣が文化であるとすれば、体育館の屋根(法)は万人のために雨露をふせぐという点で普遍性そのものである。その意味で法は文明の典型的なあらわれ方であろう」というのだ。
 アメリカ人は自分の国を「ザ・ステイツ(the States)と呼ぶ」。それは「アタシの人工的な国家は」と響くと司馬さんはいう。従って「韓国やアイルランドや日本のように文化の累積でできあがった国は、Statesではない」。
 アメリカ内で濾過された文明はどの地域でも通用する普遍性を持っているはずだから、だからアメリカは自分の国のようになれと、「たのまれることなく、世界の世話を焼かなければならぬと思っている」のではないか。それを司馬さんは「アメリカ的善意」といい、「国家を越えた世話好きも理解できる」というのである。
 しかし、と考えてしまう。その地域独自の文化が抜け落ちてしまった制度は人を生きやすくするのであろうか?保障はしてくれても人を育てたり、精神の安らぎを与えてはくれないんじゃないだろうかと思うのだ。今の日本の現状を考えるとき、アメリカナイズされた制度や思想がはびこりすぎたために、たがいに孤独で、自分勝手になってしまっているような気がする。だからアメリカの社会のように危険な状態に陥り、平気で人を殺したりするようになったんじゃないかなんて思うのだ。

 話はちょっとずれるけれど、私は小泉内閣が残した負の遺産が今の日本の社会をおかしくしていると思っている。小泉内閣は民でできるものは民でというのがその政治思想であった。そして競争社会を是としたのである。そのモデルはアメリカに求めたのだろう。しかしそれを急激にやってしまったものだから、国民はついて行けなかった。どうしていいかわからなかったのではないかと思うのだ。 司馬さんは面白いことを言っている。「文明は大陸の多民族国家でおこるものだから、孤島に住む日本人は、それをみずから興すことを半ばあきらめている。むしろ、受益者になろうとしてきた。ただし、みずからを失うまでに受容したことは一度もなかった」と。 ところが今は自ら自分を失うほど、アメリカのやり方を受け入れてしまったのだ。だから「金儲けは悪いことですか」と平気で口にする輩が出てきたり、「金で買えないものはない」と言う人間が出てきたりする。
 もちろん金儲けが悪いはずはない。また金があれば何でも買えることは事実だけれど、それをあからさまに言うことと、やることは日本の慣習や文化が受け入れるはずがない。
 日本が受け入れた金儲けの仕方は、アメリカ流の金儲けの仕方を形だけをまねただけで、ただの成り上がりでしかなく、一個人の懐に貯まることである。社会に還元しないところが問題なのだ。
 欧米ではお金を持っている人たちが、社会のためにということで寄付をしたり、慈善事業を興したりして、そのお金を人が生きるために意味あるものに変えている。だからそうした人たちは尊敬をされる。ただ日本にもちょっと前までそうした気風があった。
 小村寿太郎という外務大臣がいた。彼は日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。そのとき会場を提供した州にお世話になったということだけで、当時のお金で一万ドルを寄付した。これにあわてたロシアのウィッテも同額のお金を寄付し、「露日基金」というものができた。基金は日露両国の国債に投資し、その利息で病院や老人ホームなどを作った。
 ロシア革命後ロシアの国債が債務不履行となり、以後ロシアから利息は来なくなったが日本は利息を送り続けた。さすがに日米開戦後九年間は日本も利息の支払いは停止したが、敗戦後その九年間の債務不履行を補うために倍額の利息を払ったという。現在この基金はソ連から利息の支払いがないので、「日本慈善基金」と改称されたという。
 また競争社会を是とすることは資本主義社会である以上当然であるけれど、そこからドロップアウトした人をそのままにすれば、社会は荒むだけである。
 形だけアメリカ流の文明を受け入れても、結果として日本にうまく根付かなければ意味がない。改革は痛みを伴うものであるとしても、その痛みに見合うものがなけりゃ、いつまでも我慢ができるわけがない。せめて未来のビジョンを見せてくれれば、納得できる可能性はあるかもしれないのに、それさえも見せてくれない。
 日本がそれまで持っていた文化というのは一見不合理で窮屈であるけれど、うまく機能していた部分がたくさんあった。すべてを非効率的だと否定したところに、今の日本社会、経済が、あるいは地域社会がおかしくなった原因じゃないかと思っている。
 司馬さんが見たアメリカは「人間は文明だけでは生きられない」と感じ始め、「文明」に疲れた神経を癒やそうとして、「文化」個々に探し求めているといっているのは、そういうことの現れじゃないかと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:アメリカ素描
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784101152363 (4101152365)
出版社:新潮社 (1989-04-25出版) 新潮文庫
版型:405p 15cm(A6)
販売価:660円(税込) (本体価:629円)

2008年03月21日

阿刀田高著『怪談』

2008_03_21_01.jpg


 ちょっと阿刀田さんの作品は休憩しようと思ったのだが、どうも気にかかるので読むのを再開する。それにしてもかなりのボリュームのある本だ。最初読み切れるかなという不安があったが、結構ページが進んだ。ページが進んだといってもちょっとイライラしながら読んだという感じだ。詳しいことはおいおい書く。
 物語は、警備員のアルバイトをしながらボランティアで小説の朗読をやっている朝倉恒一は、NHKでラフカディオ・ハーンの怪談を読んでいた。そんなときスタジオにハーンの勉強をしているという日枝田洋子が訪ねてくる。
 雑司ヶ谷にあるハーンのお墓で再会し、以後お互いがハーンに興味を覚えていることを知り、ハーンゆかりの地を二人で訪ねていく。
 まずは東京にあるハーンのゆかりの地から、次に焼津、明治村のある犬山、出雲、そしてハーンが日本に来る前に愛した土地であるカリブ海のマルチニークと二人で訪ね歩く。最初は“散歩学”と称して、次に日帰り旅行の“小さな旅”、そして本格的な旅と二人は続けていく。
 旅が本格的になっていくと、恒一は洋子に対して気持が好意から恋愛感情へと変わっていく。しかし洋子にはどこか不思議な部分があって、恒一にははかりきれない。そのため思うような行動がとれない。それが妙に焦れったくて、読んでいておいおいしっかりしろよと思いつつ、いつ恒一は洋子に対して自分の気持ちを伝え、成就させるのかと、“次こそは”と半ば期待しつつ、ページをめくることとなった。それがイライラして読んでということなのだ。
 一方ハーンゆかりの地を歩くためには当然下調べが必要になってくるのだが、それがハーンの詳しい解説となっている。私はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲のことをあまり知らなかったので、結構面白く読ませてもらった感じである。そして私もハーンに興味を持ってしまった。
 私が知っている小泉八雲は日本の怪談を集めた人という程度の知識しかないのだが、それはハーンがアイルランド人のチャールズ・ブッシュ・ハーンを父とし、母がローザ・アントニア・カシマチがギリシア人であることに関係があるんじゃないかということで興味を持ってしまった。なぜならハーンの父親はケルト神話のアイルランド人、母親はギリシア神話の土地の人である。親二人がそういう土地の人だったから、ギリシアで生まれたハーンはそういう昔の話が遠い記憶として無意識のうちにあったのではないかと思えてきたのである。それは“血の記憶”として見たこともないし、行ったこともないのにハーンのどこかに記憶として伝承されたものであり、それが日本の昔話を身近に感じさせ、共感を覚え、のめり込んでいったのではないかと思えたのだ。
 そして恒一にも洋子にもそうした“血の記憶”というべきものを深く感じる部分があって、それがハーンに結びついたのだろう。更に言わせてもらえば、もしかしたらだれでも昔から受け継いできたものが、無意識のうちに物語や記憶としてあって、何かその人に作用するものがあるんじゃないかなんて思ったりした。それが“血の記憶”というもので、科学や常識では説明できない。あるいは昔話や伝承というものはそういう“血の記憶”で成り立っているのかもしれないと思ったのだ。それをハーンの生い立ちや功績、あるいは恒一や洋子の行動に感じたのである。


評価
★★★


書誌
書名:怪談
著者:阿刀田 高
ISBN:9784344400894 (4344400895)
出版社:幻冬舎 (2001-04-25出版) 幻冬舎文庫
版型:765p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月16日

梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』

2008_03_16_01.jpg


 前作『ウェブ進化論』がインターネット世界がどのように進化し、社会を変えつつあるか、大まかな展望をみていたのに対し、今回はじゃあインターネットで変質した社会をどうやって生きていくべきか、「その時代に生まれる新しい生き方の可能性」を模索したのがこの本である。まぁ今度は実践編というところなのだろう。
 インターネットは私たちの「時間」と「距離」と「無限」についての概念を揺さぶる。つまりインターネットは私たちに「距離」の制約を感じさせない。情報が瞬時に伝わるため「時間」の感覚さえ感じさせない。不特定多数が参加するため、情報が「無限」でしかもコストがゼロだ。だからインターネットを利用すれば、どこにいようとも、ある分野を極めたいという志さえあれば、効率よく、スピーディーに吸収できる。そのためネットに「住むように生きる」ことができるようになってきて、まるで別世界に住んでいるかのように、「もうひとつの地球」に住み、暮らすことが可能になる。
 そしてそうした世界に住んでいる人たちは、リアル社会において、もうひとつの生き方を提唱するのだ。つまり既存の社会は年寄りが威張り、支配し、自分たちが思うようなレールを引いて、若い人たちをその上に強引に乗せ、強要する。しかし世の中には「大組織適応性にすぐれた人たち」ばかりでできているものではない。日本の教育システムにあまりあわず、大組織適応性がなくても、社会性に富み、創造的で質の高い仕事ができる若者もたくさん日本にいる。そういう若者たちが「好き」でやってきたことをどんどんやっていき、さらに創造的で独創的なものを生み出し、違った価値観を生み出す。
 たとえば“働く”ということ一つとっても、リナックスを例にとり、情報が共有され、公開され、個人でそこに参加できる。その個人の成果、貢献度だけが評価され、他者から注目され、賞賛される。今までは“働く”というは労働に対して、金銭に換算されたものをいってきたが、評価され、注目され、賞賛された個人ははそのことが満足感となり、無償で“働く”という価値観を生み出すという。
 確かにインターネットは、それまでのわれわれの常識を打ち破りつつある。そのためわれわれがそれまで持ってきた価値判断や常識では計りがたい状況を生み出している。ネットの社会は「もうひとつの地球」を作り、そこに「住むように生きる」ことができるようになりつつあるのかもしれない。だからわざわざ既存の社会を「リアル社会」と別けるのだろう。
 しかし私はこの本を読んでいてどこか違和感があった。著者は今ネットが変えつつある、個人の意識を最大限に評価し、賞賛するのだが、それは著者自ら言っているように“オプティミズム”以上のものがありはしないだろうかと思うのだ。
 元々ネット社会を強調するために、既存の社会を「リアル社会」と言い放つこと自体、私は好きになれない。既存の社会を「リアル社会」というなら、ネットの社会はバーチャルな社会ということになる。「リアル社会」がなければ、著者が言う「もうひとつの地球」は成り立たないはずだ。なぜならネットの社会で「住むように生きる」人たちは仙人じゃないのだから、かすみを食って生きていけるものじゃないだろう。「リアル社会」に必ずどこかで依存して、たとえば広告収入などに、生きているはずだ。つまり「リアル社会」に許容力があるからネットでの価値観を認めるんじゃないのかと思うのだ。あるいは「リアル社会」が行き詰まっているから、ネットが生み出す価値観を受け入れているんじゃないかと思うのだ。そこにある何らかの可能性を「リアル社会」が求め、組み入れたいという意識がネットを支えているようにおもえるのだがどうだろうか。そもそも人が生きること自体、リアルなんだから、「もうひとつの地球」に生きるなんておかしな話だ。
 といっても私はネットの可能性は否定しないし、ネットが生み出す技術や価値観、あるいは機会均等性は評価するつもりだ。しかしそれでさえ、「リアル社会」に足をしっかりついていての話であって、より良い「リアル社会」のためであることがネットの存在感だと思っている。
 さらに何でもかんでも年寄りが支配する、ある意味生き方を強制する社会だから、それからドロップアウトした人たちは能力が劣るとは思っていない。が、社会というものは、自分勝手にやっていては成り立たないものである以上、人それぞれ得意分野で社会に参加すべきであるべきであって、その得意分野がネットの世界ならそれで社会に参加すればいい。それだけのことじゃないかと思うのだ。わざわざ「リアル社会」とは別に「もうひとつの地球」を意識して作り上げ、そこに暮らす必要性はない。この本はどこかネットのすべての面で変化や可能性を肯定し、それがベストと言っているように思えてならなかったのだ。あくまでも「リアル社会」で生きるための一つの生き方にネットがあると言うべきだったんじゃないのかと思う。ネットの可能性を強調しすぎる傾向があり、ネットも「リアル社会」があるから成り立っていることをきちんと言うべきだったんじゃないのかと思うのだ。


評価
★★


書誌
書名:ウェブ時代をゆく―いかに働き、いかに学ぶか
著者:梅田 望夫
ISBN:9784480063878 (4480063870)
出版社:筑摩書房 (2007-11-10出版) ちくま新書
版型:244p 18cm
販売価:777円(税込) (本体価:740円)

2008年03月13日

阿刀田高著『ことばの博物館』

2008_03_13_01.jpg


 これで今まで手に入れた阿刀田さんのエッセイ集はすべて読んだことになる。で、こんなに立て続けに読まなきゃよかったと後悔している。だんだん面白くなくなってきてしまったのだ。そりゃそうだよな。好きな食べ物も毎日食べていたら飽きるのと同じである。それに話の内容が重複するのが気になって仕方がなかった。あれ?この話前の本で読んだぞといった感じである。
 
 この本は書名の通り、世間一般に使われていることば、特に故事成語の意味を阿刀田流に解説してくれている。しかし故事成語ばかり並べている訳じゃない。それだと故事成語辞典になっちゃうから、今風のことばも加えている。まぁ先に読んだ『左巻きの時計』ほど下半身にこだわっていない感じの本と思えばいいかもしれない。
 でも読んでいて、「へぇ~」と思うことや、「確かに!」と感心してしまう部分があった。
 まずは問題です。最後の肝腎なところで手落ちがあることを中国の故事で何といいますか?
答えは「画竜点睛」といいます。で、これを何と読みます。ガリュウテンセイと読んだら間違いです。正しくは「ガリョウテンセイ」と読みます。リュウではなくリョウなのです。坂本龍馬もサカモトリョウマと読むでしょう。それです。私もリュウと読んでいました。そして点睛のセイですが、晴ではないことも知りました。意味は瞳のことだそうです。ですよね。意味から考えれば、晴ではおかしい。
 最近テレビで日本語に関するクイズ番組が流行っている。これを見ていると、自分では正しいと思っていても結構間違った読み方や意味で覚えていることが多い。これもいい例かもしれない。
 また「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉がある。よく中学や高校の体育の先生が言いそうな言葉なのだが、これは有名な誤訳だという。確か中学時代読んだ五木寛之さんのエッセイにも同じことが書いてあったのを思い出す。これだと身体が丈夫な人しか健全な精神はもてないことになるじゃないかと疑問を呈していて、それが誤訳であることを教えてくれた。
 阿刀田さんも同じ疑問を持っている。この言葉の出典となったのは、古代ローマ風刺詩人ユベナリスという人の詩の一節で、そこには「賢者が神に願うものは、健全な身体に宿った健全な精神であって、この二つさえあれば、それだけで満足すべきものだ」と言っているそうだ。どこをどう押しても健全な身体に自動的に健全な精神が宿るなんていっていないのだ。
 「日本は人格者が多いのか、偽善者多いのか、外国の名言を日本語に訳すとき道徳教育のたしになるように訳すのが大好き」だからこういうことになるのだと阿刀田さんは言っている。そうかもしれない。人格者や偽善者の都合のいいように訳された名言なるものはある意味迷惑な話である。案外こんなことは多くあるようで、この本ではその間違いを指摘してくれている。

 感心したこともいくつかある。面白かったのは、世界の国々の人々の特徴を言い表す言葉。たとえば「フランス人が作曲し、ドイツ人が演奏し、イタリア人が歌い、イギリス人が聞き、アメリカ人が金を払う」とか、「フランス語で恋を語り、ドイツ語で神を説き、英語で演説し、ロシア語で馬を叱る」とか、「ある夜、女性ばかりのキャンプに暴漢が押し入った。日本の娘は処女を失ってメソメソ泣きくずれた。イギリスの娘は風聞をおそれて、けっして秘密を漏らすまいとみんなにもちかけた。ドイツの娘は犯人をつかまえて断固制裁を加えるべきだと主張し、フランスの娘は・・・・べつに気にもかけなかった」というもの。それぞれのお国柄や民族性をうまいこと言い表している。
 また「蛍の光、窓の雪」とい歌があるが、もともとはスコットランド民謡にそんな歌詞をつけたもの。むかし中国の晋の国に孫康という男がいた。幼いときから勉学の志が強かったが、家が貧乏で油が買えない、それで雪明かりをたよりにして本を読んで勉強していた。さらに同じ晋の国に車胤という男がいて、この人物も勉強が好きであったが、やはり貧乏で油が買えなかった。そこで蛍を捕まえて絹の袋に入れて書を読んだ。二人ともこうして苦学して役人となる。
 ここから阿刀田さんの皮肉が始まる。この二人は刻苦勉励して宇宙の深遠な心理を突き詰めたというならともかく、結局たかが官僚的立身出世主義の権化でしかないという。それよりこの二人は雪のない季節や蛍のいない季節はどうして勉強したんだ?とそっちの方が気にかかるという。雪や蛍のいない季節の方が遙かに長いじゃないかと皮肉るのである。確かにそうだ。こういうスタンスは好きだな。


評価
★★


書誌
書名:ことばの博物館
著者:阿刀田 高
ISBN:9784167278106 (4167278103)
出版社:文芸春秋 (1989-06-10出版) 文春文庫
版型:234p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月09日

阿刀田高著『雨降りお月さん』

2008_03_09_01.jpg


 さすがにこれだけ阿刀田さんのエッセイを読んでくると、鼻につき始めてきた。そろそろ一休みしていい頃かもしれない。でも後一冊エッセイが残っているので、これを読んで一休みする予定だ。
 今回のエッセイは先の本とは違い、それまでの感じに戻っている。個人的にはこの方が好きである。

 「お金儲け考」というエッセイで、阿刀田さんのところに「お金を儲けさせてあげましょう」という電話があるという話なのだが、要するに投資の話を持ちかける勧誘の電話のことだ。そんな電話には「お金儲けには興味がないので」と応えるという。もちろん世の中には金儲け興味のない人などいるわけがないし、阿刀田さん自身もお金は好きだと言っている。
 だけど、お金を増やすやり方が自分が持っているポリシーとあわないから、そう答えることにしているというのだ。阿刀田さんは言う。「お金儲けというものは、自分で頭を働かせるか、体を動かすか、なにかしら労力を支払って、はじめて可能のことである。私はかたくなにそう信じている」と。
 こういう考え方をする人は個人的に好きなのだ。確かに投資という手段でお金を増やす方法は否定はしないけれど、他人にお金だけを預けて、自分はそれ以外何もしないというやり方が私も気に入らないところがある。もちろんそれなりにリスクも負っているんだと言われそうだけれど、やはり自分が得るお金は自分の汗が伴わないとまずいんじゃないかと個人的に思う。何を青臭いことを言っているんだと言われても、そう思うのだから、仕方がない。
 ちょっと前に投資ファンドの代表が「金儲けは悪いことですか」とインタビューしているマスコミに逆に問いかけていたのを思い出すが、あの人がたたかれたのは、あからさまにそれを言ってしまったことだと思っている。正当な手段、あるいは合法的な金儲けが悪い訳がない。ただ世の中の大半が自分で汗をかいて、人生をすり減らして、金銭を得ている以上、あの人のやり方はどこか受け入れがたい部分がある。そう思う。あの代表の言い方は、どこか苦労してお金を得たきたことを否定するところを感じてしまうのだ。
 お金に対する考え方の相違だからどうしようもないけれど、私も汗とお金は結びついているものと思っているから、阿刀田さんの考えにいたく同調するのである。
 それと多少関係あるかもしれないが、「酔いをめぐって」で、「このごろのカレンダーは、日曜日から一週間が始まっている。あれは気に入らない。初めに休んで、それから働く。そういう思想」が阿刀田さんは嫌いだという。私もそうだ。やはり一週間は月曜日から始まり、土曜日まで働き(最近は週休二日だから金曜日まで働き)、そして休むというのが個人的にしっくりくる。カレンダーのデザイン上そうせざるを得ないのかよくわからないけれど、やっぱり一週間は月曜から始まって欲しい。まずは働き、そのご褒美というか、お疲れさんという意味で土日の休みが意味をなすと考えるのが普通じゃないかと思うのだ。休みから始まって、それから働けというのはどうも納得できない。
 最近のカレンダーの表記には、先の投資の話とどこか似ているように思えてならないのは私だけであろうか?おそらく大半の人たちが働くことでお金を得て、そして休むというのが、普通なのではないかと思うのだ。
 阿刀田さんがそうして小市民的な視線を持っておられるところに、共感を覚えるし、だからこそ作品を読んでみたいと思うのではないかと考える。

 最後にここのところ阿刀田さんのエッセイを立て続けに読んでいるのだけれど、どの文庫にも最後に阿刀田さんの作品目録が内容ごとに細かく表記されている。最初はこれは便利だなと思っていて、出版社の親切からこうした文献目録を載せてくれていると思っていた。ところがそうじゃないらしい。
 阿刀田さんは様々なジャンルの作品を書かれている。だから読者が阿刀田さんのミステリーを期待して読んでいたのが、いつまでも殺人が起こらないという不満が出てくる。そうならないように一計を案じ、各社で発行する文庫本すべてに分類目録つけることにしたらしい。多彩な才能を持っているとこういう問題が出てくるんだと思った次第だ。


評価
★★


書誌
書名:雨降りお月さん
著者:阿刀田 高
ISBN:9784122016422 (4122016428)
出版社:中央公論社 (1989-09-10出版) 中公文庫
版型:241p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月07日

阿刀田高著『左巻きの時計』

2008_03_07_01.jpg


 更に続いて阿刀田さんのエッセイを読む。この本は夕刊フジに掲載されたエッセイというかコラムを一冊の本にしたものらしい。まぁ夕刊フジというくらいだから、おじさまの好きな下ネタ、男と女、セックスの話が全体にちりばめた感じになっており、今まで読んできたエッセイとちょっと趣が異なった感じであった。内容が落ちた感じになっている。
 たとえば、「五パーセントの科学」というエッセイでは、白雪姫の継母の「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは、だれ」というあの文句から、鏡というものは五パーセント実像よりよく映す傾向があるのではないかと阿刀田さんは考える。というのは鏡を見るときは、無意識のうちに自分でよい顔を作ってみているはずだからというのだ。だから実像は鏡を見ているときより、五パーセントぐらい下がっているはずだという。
 そしてここから話が波及し、男性の“いちもつ”の話になる。通常自分自身の“もの”を見るときは、真上から真下へ視線を送って眺めている。自分の“もの”を横から見ることは不可能だ。従ってこういう見方をすれば、当然実際の長さより短く見える。
 ところが他人様の“もの”はトイレや銭湯などで、横から垣間見るわけだから、実際の長さに近いものになる。だから人様の方が・・・・となるわけだ。
 そこで阿刀田さんは「顔は五パーセント引き、ペニスは五パーセント増しがよろしいのである」という結論を出す。

 ということで、この本全体がこんな感じである。なるほどね、とくすくす笑えるのである。お酒の席でここで披露される話をすれば、案外おもしろいかもしれない。


評価
★★


書誌
書名:左巻きの時計
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255071 (4101255075)
出版社:新潮社 (1986-05-25出版) 新潮文庫
版型:329p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月05日

阿刀田高著『まじめ半分』

2008_03_05_01.jpg


 続いて阿刀田さんのエッセイを読む。
 これまで読んだ文庫本の巻末に阿刀田さん著作リストが載っていたので、その中からエッセイを抜き出し、紙に書いて、探しにブックオフへ行く。うちの近くのブックオフには阿刀田さんの文庫本が結構あると思っていたのだが、エッセイ集と限定すると、それほど手に入らなかった。これは今後探す必要性が出てきたので、古本屋さん巡りをするときが楽しみである。
 さて、この本の題名はうまく名付けたと思い感心してしまった。まさにこのエッセイはまじめな部分半分、後の半分はジョークや笑いを誘う文章でうまく締めくられている。だから、確かにそうだ!と阿刀田さんが言わんとすることに感心したり、あるいはほほ~と阿刀田さんの博識なところを感心する。そして例のごとくちゃかした感じで笑わせてくれるところもちゃんとある。

 先に“笑いの半分”から。「女房と本棚」というエッセイ。
 人の本棚を眺めていると、その人が本当に興味を持っているのは何なのか、思考傾向や趣味嗜好まで大方見当がつくという話なのだが、確かにそれは言えているかもしれないと思ったのだ。
 たとえば竹村健一の本があれば、「ああ、なるほど。このあいだ核エネルギー問題について、いっぱしのことを言っていたけど、この本の受け売りだな。ちょっと軽薄だぞ」とか、小林秀雄の“本居宣長”なんかあれば、「へえ、驚いた。知的好奇心があるのは本当らしいが、新聞の批評なんかに踊らされて、こんな高価な本を買うところもあるんだな。インテリ性みえっぱり」と推察できるというのだ。確かに。私は他人の本棚なんか覗いたことがないので、こういう経験はしたことがないけれど、もし見る機会があれば、同じようにあれこれ推察しちゃうだろうなと思う。
 そして新婚まもない友人宅で謝国権(うわ!久しぶりにこの人の名前を聞いた!)の“性生活の知恵”が二冊もあったのを見かけて、阿刀田さんは次のように推察する。
「一冊は亭主が買ったもの。一冊は奥さんが買って実家から持ってきたもの。二人とも事前に一応研究したんだな。ご夫婦ともに文献でものごとをよく調査研究してから実行に移すタイプらしい。それにしても本棚の中にこの手の本をおいておくところを見ると、セックスについてはかなり開放的な考え方を持っているほうだろう。このぶんなら二人でいろいろ研究しているにちがいない」と。
 これはちょっと眉につばをつけて読まないといけないなとは思うけど、思わず大笑いしてしまった。
 そしてさらにこの夫婦には後日談があり、更に笑えるのである。
 それから一年半たった四月にこの夫婦に子供が出来た。その知らせを聞いた阿刀田さんは「うん、なるほど」と得心するのである。というのも、赤ちゃんを産むのに一番いいのは四月である。季候もよくなるし、充分成長してから幼稚園や小学校に入れることが出来るからだ。“性生活の知恵”をそれぞれ持参して研究する夫婦だから当然計画出産だろうというのだ。

 あまりバカなことに大笑いしていると、私の人格が疑われそうなので、“まじめ半分”のこともちゃんと書いておかないとね。まずは「コンプレックス」というエッセイから。
 コンプレックスといえば劣等感の意味だと思っていた。要するに自分が他人よりおとっているという感情のことだ。しかしこれでは正解というわけではないらしい。本来の意味は「深層心理が抱く願望のこと、つまり自分では意識できないけれど心のどこかに、ある欲望が抑圧された状態で鬱積していて、それがいつか噴き出すチャンスを狙っている-そんな心理傾向を指して言う」ことらしい。だから劣等感もコンプレックスの一種と考えた方がいいのかもしれない。鬱積して噴き出すと劣等感に陥るというところか?
 ここで阿刀田さんが得意とするギリシア神話が出てきたのでギリシア神話の話を。
 エディプスというギリシア神話の英雄が父を殺して母と結婚したことから、男性は成長期において、自分では意識しないけれど、父親をライバル視して憎み、恐れ、母親を最初の異性として愛する心理傾向をギリシア神話の英雄のこの名前を借りてフロイトがエディプス・コンプレックスと名付けたという。

 ついでにギリシア神話の「パンドラの箱」についても。
 プロメテウスが神々の国から火を盗んで人間に与えたのを怒ったゼウスは、人間たちを懲らしめるために贈ったのがパンドラという女性だった。パンドラはゼウスから邪悪な贈り物を持参の箱の中に隠し持っていた。ゼウスからこの箱を絶対に開けてはならぬと言われていたが、気になり開けてしまう。すると怪しい煙が立ち上り、病気、戦争、悪意、嫉妬など、ありとあらゆるこの世の悪が飛び出した。人類の不幸はこのときから始まったとギリシア神話はしているのである。パンドラはあわてて箱のふたを閉めたが、時既に遅く、諸悪の根源はすべて飛び散ってしまったが、かろうじて箱の底に残ったものがあった。それが“希望”であった。人間がもろもろの悪にさいなまれながらも、希望だけを一縷の救いと持ち続けられるのも、このせいなのだ。さすがギリシア神話はよくできている。

 ということで、アホな笑いを楽しみながら、ちょっと物知りになれたのがこの本でった。


評価
★★★


書誌
書名:まじめ半分
著者:阿刀田 高
ISBN:9784041576021 (4041576024)
出版社:角川書店 角川文庫
版型:242p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年03月01日

阿刀田高著『三角のあたま』

2008_03_01_01.jpg


 阿刀田さんのエッセイも三冊目。そして偶然なのだが、この本がその三冊の中で一番古い本であった。親本は1990年に出版されているから、今から18年前になる。しかし内容はそれほど古さを感じさせない。確かに当時の世相に関した記述には、それ相応の風化がみられるけど、基本的に世相や事件などにこだわった記述をしていないので、全体として古びた感じがしないですんでいるというところだろうか。
 このことは阿刀田さんも心得ていて、「雑誌というものは、そのときそのときの時流を反映して作られているものだから、一年もたってしまえば、かならず古くなる。そこで、その雑誌に連載するエッセイはどうあるべきか、書き手にとってはないがしろにできない問題である。(略)執筆者が時事問題に精通した評論家のような人ならば、そのときのトピックスを大切にするだろう。一方小説家などは、あまり時流にはとらわれず、いつでも通用するようなテーマを扱うことが多いだろう。私も、どちらかと言えば後者のほうであった」という。
 そうだよな。「一番新しいものが、一番古くなる」のだから、この手のエッセイの難しさは、いかに話の内容を風化させないか、それにつきるんじゃないかとも思う。ということは、内容に新しさだけを求めすぎてしまうと、もう時間がたってしまえば、意味をなさない。
 その点小説家は、評論家と違い、“人の生きざま”を文字でつづることが職業であるから、たとえ時事問題に言及しても、それは本質ではなく、そこに映し出される人々にスポットを当てている。だから内容が風化しないのだ。

 今回続けて三冊阿刀田さんのエッセイを読んだわけだが、いずれも、阿刀田さんの小説の舞台裏が書かれていて、なるほどこうしてあれらの小説は書かれてきたんだとちょっと興味深かった。
 このエッセイでは小説の登場人物の名前がどのようにつけられているかを知った。阿刀田さんは基本的に「そのときの思いつき、苦しまぎれ」で名付けられているようで、それほど深い考えで登場人物の名前をつけているわけではないらしい。
 その際、同窓会名簿が役に立つという。つまりここから登場人物の名前を探すわけだ。思わずなるほどねと感心した。ただ名前をつければそれでいいというものでもないらしい。特殊な名前、あるいは実際の人物が特定されてしまうような名前は避けるという。たとえば車寅次郎はどう考えてもサラリーマンの名前に適さない。まぁ車寅次郎なんて名前は映画以外あり得ないけれど、たとえば車を外して寅次郎だけだって、フーテンの寅さんをイメージしてしまうだろうから、命名としてはちょっと難しいのはよくわかる。
 われわれ読者は小説の登場人物の名前を、ただその人物を物語の上で特定するだけに、記憶に残すが、命名する側にとっては、それなりの苦労があるようだ。

 これで先日買ってきた阿刀田さんのエッセイをすべて読んじゃったのだけれど、まだ読みたいなという気分になっている。今日は休みなのでまたブックオフであさってこようかななんて思っている。幸い私の近所にあるブックオフには結構阿刀田さんの文庫本があるので、いくつか探せそうである。


評価
★★★


書誌
書名:三角のあたま
著者:阿刀田 高
ISBN:9784041576151 (4041576156)
出版社:角川書店(1994/01出版)角川文庫
版型:292p 15cm(A6)
販売価:どうやらこれも新刊書店では入手不可のようです。