2008年05月31日

ベルンハルト・シュリンク著『朗読者』

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 やっと自分らしい本を読む。
 ミヒャエル・ベルクは15歳の時、学校の帰りに気分が悪くなり吐いてしまう。その時介抱してくれたのがハンナ・シュミッツという38歳のミヒャエルの母親といってもいいくらいの女性であった。ミヒャエルは黄疸であった。
 病状も何とか回復して、その時のお礼にハンナのアパートに向かう。彼女と話し、帰ろうとすると、彼女も出かけるから、一緒に出ようという。その時ミヒャエルは彼女の着替える姿、ストッキングはく姿を見てしまい、視線をそこから離すことができなかった。自分の視線を悟られたミヒャエルはあわててそこから逃げ出すが、一週間後またハンナのもとを訪ねる。
 暖房用のコークスを取ってくるのを手伝ったミヒャエルは黒く汚れてしまい、ハンナに風呂を勧められる。いつの間にかハンナも裸になり、「おいで!」「このために来たんでしょ!」とミヒャエルの下心を見抜き、彼女に抱かれる。
 ミヒャエルは彼女との性的関係を続けるうちに、ハンナがその前に本を読んで欲しいと言い出す。朗読と性的関係の不思議な状態が生まれる。関係を続けるうちに、彼女が路面電車の車掌であることがわかる。

 この本はこういう展開をする話だったのかとちょっとがっかりした。しかしそれは違った。突如話は複雑になっていき、ハンナの悲しい過去が明らかになると同時に、違った局面を見いだす。

 ハンナは突然失踪する。ハンナに失踪されたミヒャエルは最初彼女の姿がないことに苦悩するが、それを忘れるために大学での勉強に精を出す。ある日法学のゼミの課題として強制収容所の看守を裁く裁判を傍聴に行く。
 ミヒャエルはその裁判を傍聴することによって、自分たちのような後から来た世代の人間はユダヤ人絶滅計画にまつわる恐ろしい情報の前で、何を始めるべきなのだろうか?戦犯を明らかにし、責任者を糾弾することで、自分たちが今感じる恥ずかしさから逃れようとしていないか?恥じる者の苦しみを逃れるために戦争責任者を攻撃していないかと自問する。
 このあたりは訳者のあとがきによると、そういう時代「六八年世代」に著者が感じた時代の雰囲気なんだそうだ。ドイツにとって精神的に苦しい時代だったのだろう。

 その法廷でハンナの姿を見た。ハンナは21歳の時親衛隊の募集に応じ、強制収容所の看守になっていた。戦況が悪化したとき、囚人達を移動させたが、たまたま囚人達を泊めた教会が爆撃にあい、ほとんどの囚人が火事で死んでしまった。戦後生き残った者が本を出版し、ハンナたちの犯罪が裁かれることとなった。
 裁判ではハンナが収容所で若くて弱い女の子を一人選び、自分の保護のもとに置き、その子が働かなくてもいいようにし、ベッドも食事も与えた。そして夜になると、毎晩女の子を呼び本を朗読させた。そして飽きると、アウシュビッツに送ったと明らかになっていく。
 このことを含め、裁判ではハンナの立場がどんどん悪るくなっていく。以前何かの本で読んだことがあるが、ナチスの戦犯を裁く裁判では、必ず「それは命令であったから、逆らうことはできず、仕方がないことだった」と自分たちがしたことを正当化するのが常套手段で、ハンナ以外の被告もそう主張した。しかしハンナはたとえそれが命令であっても、自分が犯した罪は認めた。それをいいことに、あるいはハンナ一人が罪を認めたいらだちから、他の被告はハンナにすべての罪をなすりつけ、あの夜の事故の報告書は間違いで、それを書いたのはハンナだと主張し始める。
 実際その報告書を書いたのがハンナであるかどうか、筆跡鑑定をするということになったとき、ハンナはその報告書を書いたのは自分だと突然態度を変えて認めてしまう。判決が下り、他の被告は軽くすんだのにハンナは無期懲役となる。
 ミヒャエルは気づく。ハンナはおそらく貧しい境遇のため文字を読むことも書くこともできなかったことを。ハンナは文盲ではあったが、知識に飢えていた。だからミヒャエルや収容所で女の子に本を朗読させたのだ。そして文盲であることを恥ずかしく思っていた。それがあからさまになることをおそれていた。筆跡鑑定をされれば、自分が文盲であることがばれてしまう。だから一転して報告書を書いたのは自分だと認めたのだ。あるいはミヒャエルと旅行へ出かけたとき、朝ミヒャエルが食事を取りに行くというメモを残して、ハンナを一人にしたとき、一人にされたことを怒り、メモなどなかったと主張したのだ。さらにハンナ失踪したのも、会社がハンナに運転士の資格を取らしてやろうと提案したからで、車掌でいる間は自分の文盲を隠せたかもしれないが、運転手の訓練を受ければ、それがばれてしまうことをおそれ、会社から失踪したのであった。
 ミヒャエルはその事実を裁判長に言うかどうか迷い、哲学者である父親に相談する。父親は「他人がよいと思うことを自分自身がよいと思うことより上位に置くべき理由はまったく認めないね」というのであった。それは人が生きていく上での尊厳の話であった。たとえハンナの罪が軽くなったとしても、ハンナにとって文盲がばれることは自分の尊厳を失うことになる。それが耐えられなかったのである。
 ミヒャエルは司法修習生の頃、同じ道を歩むゲルトルートという女性と結婚し一人娘をもうけるが、離婚してしまう。結局ミヒャエルはハンナから解放されることはなかった。
 離婚後、ミヒャエルがハンナにまた朗読をしてやろうと思い立ち、ハンナに録音したカセットテープを送る。しかし彼はテープは送るが自分の言葉を吹き込まなかったし、手紙も添えなかった。そして四年目に「坊や、この前のお話は特によかった。ありがとう。ハンナ」という自筆の手紙が届く。ミヒャエルは歓喜に満たされその手紙を読んだ。なぜなら彼は、文盲の人たちが、日常生活を送る際の寄る辺のなさ、道や住所を見つけることの困難さ、レストランで料理を選ぶときの大変さ、そして何よりも読み書きができないということを隠すために、本来の生活とは関係ないところで費やされる余計なエネルギー、文盲であることは、市民として成熟に達することができないことを知ったからであった。
 不器用でぎこちないハンナの文字を見て、それだけを書くのにどれほど苦労したかを知るのであった。しかしそれまで長い間拒んだり、拒まれたりしたことは「遅すぎる」と彼は感じたが、一方で単に「遅い」だけでやらないよりやった方がましだろうかとまた自問する。
 しばらくミヒャエルの朗読を吹き込んだカセットとハンナの短い手紙のやりとりが続いたが、服役18年で恩赦があり、ハンナは出獄することとなった。ミヒャエルは身寄りのないハンナの社会復帰を助けるため、出所一週間前に彼女を訪ねていく。二十数年ぶりの対面である。ハンナはもう一人の老女だった。短い会話を交わし、来週の出迎えを約束した。それが最後だった。
 出所の朝、ハンナは首を吊り、自殺したのであった。どうしてハンナは自殺をしたのか。このあたりは私にはよくわからない。ハンナがいた部屋にはミヒャエルが送ったカセットテープがきちんと整理されて残され、ベッドある壁にはミヒャエルがギムナジウムをを卒業したとき、何かの賞を校長から受けている彼の写真が載っている新聞写真が貼ってあった。ミヒャエルはこみ上げてくる涙と戦っていた。刑務所の所長はハンナの遺書を読む。そこにはお茶の缶に入っているお金と銀行に入っている七千マルクお金をあの教会の火事で生き残った母と娘に渡して欲しいと書かれていた。

 私はミヒャエルが貧困と戦争に翻弄されたハンナの悲しい人生をつづるこの物語に圧倒されてしまった。時には自尊心は自らを苦しめることを知らされたし、正義心は時には、その人のために必ずなるとは言い切れないこともあるんだと思った。ミヒャエルは父親の助言を受け入れることは、ハンナの生き方を尊重することになるが、逆にハンナを苦況に陥れることもわかっていたはずだ。だからミヒャエルはハンナと追従しようとしたのではないか。あるいは無意識にそうせざるを得なくなったのではないか。だからハンナから一生解放されることもなく、また朗読を始めたのではないかと思った。
 ハンナが短い手紙を寄こしたとき、ミヒャエルはハンナを苦しめていたものから解放されると感じたはずだ。そしてそれはある意味ハンナと追従してきたミヒャエル自身の解放ともなり得たのではないか。そんなことを感じた。しかし物語はハッピーエンドでは終わらず、ハンナの自殺で、ミヒャエルのみ背負ってきたものから解放されずに生きていくはめになったような気がする。他人の人生の一部を共有してしまっための悲劇とでもいうのであろうか。


評価
★★★★★


書誌
書名:朗読者
著者:シュリンク,ベルンハルト、松永 美穂訳
ISBN:9784102007112 (4102007113)
出版社:新潮社 (2003-06-01出版) 新潮文庫
版型:258p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年05月28日

泉嗣彦著『医師がすすめるウオーキング』

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 五街道という万歩計を買ってもう11日たった。今東海道をバーチャルで歩いているのだが、11日でやっと保土ヶ谷までたどり着いた。距離にして約35キロ歩いたことになり、歩数を累計すると110、000歩弱となる。目標数字、一日平均一万歩は何とかクリアーしている。私は早朝ウオーキングをしている。つまり朝、いつも使う駅より一つ先に駅まで歩いている。そのお陰で一日一万歩歩けることになるのだ。たとえば天気は悪くて、朝歩けない日にはだいたい半分の五千歩が通常私が一日歩く歩数だから、早朝ウオーキングのお陰で目標数字に達している。
 もともと本屋で働いていた頃は、仕入にチャリを使って、動き回っていたから、体重も軽かったし、その分身体の切れもあった。ところがこうして事務仕事をするようになって、毎日パソコンの前で仕事をするようになると、食べるだけで、エネルギーの消費が少ないから、どんどん太る一方になった。詳しいことはよく知らないが、健康診断の数値も悪くなっていった。仕方がないとはいえ、やはり気になるし、何よりも身体の切れが悪いことは自覚できるので、これはなんとかせにゃならんわいと思い、唯一自分ができることといえば歩くことしかないため、歩くことを始めた。もうかれこれはじめて二年以上なる。お陰で一時六十八キロあった体重は現在六十一キロを割るまでになってきて、身体の切れはいい。おそらく健康診断の数値も改善していると思う。
 もともと無理はしていないので、天気の悪い日や暑い日、寒い日は歩かないし、もちろん体調の悪い日も歩かない。気分次第で気ままに歩いているから、今は歩かなきゃという義務感や、あるいは健康のためとか、大義名分で歩いていない。歩きたいから歩くというようになっている。歩いてうちに、いろいろなことを考えたり、普段意識しない街路樹や植え込みの花などに気がいったりして、結構楽しんでいる。いい気分転換なのである。
 そんなものだから、この本が気になった。著者はもともと消化器の専門医であったそうで、それが人間ドッグの仕事に関わるようになってから、いわゆる「生活習慣病」と向き合わざるを得なくなった。「生活習慣病」とは、不適切な生活習慣を長年続けることが、病気の発症・進行に関与する、いくつかの疾患の総称で、これは医師や薬で治す病気ではなく、具合が悪くなった人自身が、自分で生活習慣を改めることが最も重要となる。しかし今まで続けてきた生活習慣を改めるというのはそう簡単なものではなく、著者もそのことは痛感されていた。
 人間ドッグを受けた人に何か運動をしていると言った人で、その運動の中身を聞いてみると、ウオーキングと答える人が多く、また運動しない人でもやってみたい運動はないかと聞くとウオーキングと言う人が過半数を占めるという。だいたい人間ドッグを受ける人は中高年が多いからこういう結果になるのだろうと著者もいっているが、それだけウオーキングが中高年にとって手軽な運動ということになる。実際問題私もそうなのである。要は身体を動かすということに重点を置けばいいのだから、それを考えるとウオーキングはずぼらな私でもすぐ思い浮かぶのだ。
 しかし人間ドッグの検査値をすべて改善するためにはウオーキングを一日一万歩を目安にして行い、できればそれ以外にも週一回のジョギング、水泳、サイクリングなどの有酸素運動をすればいいという。そんなの何も運動しなかった人には無理な話である。「非日常の行為はなかなか実践できない」ものである。そこで今より少しだけ多く歩いてみましょうと提案する。一日千歩、およそ十分多く歩きましょうと検査値の数値が悪い人に提案することとなった。これが著者のいう「ライフスタイルウオーキング」というものである。これはわざわざ運動の時間を取るのではなく、生活すべての行動に含まれる「歩く行為」を増やしなさいということである。そのため以下の点に注意する。

1.日常生活の中で、意識して活動的に身体を動かし、歩く
2.家事や仕事をしながら、室内でもより多く歩く
3.移動するときは機敏に動く
4.なるべくエレベーター、エスカレーターに乗らず階段を使う
5.近い距離なら、バスや車、電車に乗らず、せっせと歩く
6.ある程度連続して歩くときは、活発に。前を歩いている人がいるなら、その人を追い越すように心がけて、さっさと歩く
7.強度、時間、距離、頻度より歩数をどれだけ増やせたかを重視する

 そして天候や体調や仕事の都合で一日千歩歩けなくても、一週間で七千歩歩けばいいのだから、歩けるときに不足分を補えばいいと非常にやさしいのである。
 更にそれを習慣化するために、記録をつけるとよいといっている。実は私は万歩計を買ってから、パソコンで記録しているのである。というのも私が買った万歩計は、五街道を歩くというのを基本としているので、歩いた総歩数と総距離はカウントするが、一日どれだけ歩いたかは記録しないちょっとかたておちな代物なので、仕方なしにエクセルを使い、当日の総歩数、総距離から前日の総歩数、総距離を差し引いて、一日の記録を出している。そして備考欄を作り、たとえば「品川に到着」とか書いておく。更にエクセルはすぐグラフにできるので、一週間単位でグラフに残している。
 確かに記録を残すと、おお、やっとここまできたかとか。何とか一日平均一万歩クリアしているなとかわかり、励みにもなる。案外こういう暗い作業は、持続するという点においては必要なのかもしれないなと思う。
 とにかく歩くことで、生活習慣病の予防、改善は間違いなく進むらしく(ただし、そのメカニズムは解明されていないらしい)、まずは歩きなさいということらしい。そしてこうした日常での歩数確保を目指す「ライフスタイルウオーキング」を実行すれば、それが「日常のウオーキング化」という習慣化することで、生活意識も変わっていきますよと言っている。自分はどうなのかちょっと考えてしまうところはあるけれど、ただ身体の切れは重くないので、いい感じだ。だから毎日歩いている。


評価
★★★


書誌
書名:医師がすすめるウオーキング
著者:泉 嗣彦
ISBN:9784087202878 (4087202879)
出版社:集英社 (2005-04-20出版) 集英社新書
版型:190p 18cm
販売価:693円(税込) (本体価:660円)

2008年05月26日

メンタルケア協会編『人の話を「聴く」技術』

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 今度は精神対話士の話である。もちろん精神対話士という職業名を聞いたのは今回初めてである。「精神対話士という資格制度は、1993年慶應義塾大学医学部出身の医師たちが中心になって立ち上げられました。医療行為、精神療法を用いることなく、あくまでも対等な立場で、会話(対話)を通して人の心のケアを行うメンタルケアのスペシャリストです」とこの本のはじめに書かれている。まぁ、いろいろな職業があるもんである。
 とにかくワンクール八十分徹底して、それこそ「身を差しだして」クライアント(ここでもクライアントである)の話を聞き、受け止め、対話することことだけである。そうすることで、人を苦しみから救いだし、心を癒すことをする。
 この本はそうした精神対話士がクライアントとどうのように接し、対話をするかを語ることで、普段人との会話にもそれを応用し、人間関係がスムースに運ぶテクニックを披露している。
 確かに異論があっても、説教したくても、それをせずに徹底して話を聞いてくれれば、話す相手は気分が良くはなるだろう。その上で口が滑るじゃないが、多くを語らせることによって、ことの本質が見えてくることも、言われればわからない訳じゃない。だけどそれはかなり難しいと思うし、少なくと私にはできない。たとえば外は雨が降っていても、相手が「今日はいい天気ですね」と言ったら、聞く相手は「そうですね。優しい雨が降っていますね」と言うべきだという。これは私にはできない。どこがいい天気じゃ!雨が降っているじゃないかと絶対に言ってしまう。まして気を利かせて優しい雨が降っていますねなんて言えるわけがない。だから私は精神対話士にはなれない。
 しかしクライアントは自分の話をとことん聞いてくれると、安心し、信頼し、話していくうちに問題の本質に自分で気づき、心の平安を取り戻していく。
 何かに苦しんで悩んでいる人は、そういう人がいてくれるだけでかなり気分が違うのだろう。だけど日常会話でこれを実践された場合、これは話を聞き出すテクニックであり、そこには当然何らかの下心が潜んでいるのではないかと思ってしまいそうである。だからおいおい何考えてんだ?と言ってしまいそうである。何か目的かあるんだろうと疑ってかかってしまいそうだ。
 もともと私は人と話すのが苦手である。できれば相談なんてもってきて欲しくないさえ思っている。だって正直自分が生きるだけで精一杯なのだから、人の話を聞いてやる余裕など持ち合わせてなんかいない。だから、人と話す場合、親しい仲の人ならともかく、あまり関係の深くない人と話す場合、だいたい攻撃的である。どちらかといえば話のイニシアティブを取ろうとして、まずは自分の方から言いたいことが言えるチャンスがあれば、しゃべってしまう。だって言いまくった方が楽だもの。人の話を聞いていて、言いたいことや文句もあるのに、それが言えないなんて耐えられないな。とにかく何か一言言わないと気がすまないタイプなので余計である。ということは、会話上手というのではない。でも、少しは人の話を聞く余裕は必要だよなとは思う。特にこの本を読んでそう思った。できるかどうかわからないが、まずは聞きましょうという姿勢はこれから持つことにしたい。でもかなりストレスがたまりそう!
 しかし話をするにしても、聞くにしても、やはり教養は必要なことはこれまでの三冊の本を読んで思った。それは自分の専門分野だけでなく、広い視野で物事を考えられるものが、話の内容を更に濃くするような気がする。臨床心理士にしても、精神対話士にしても技術としての内容だけでなく、広く知識を身につけないとやっていけない職業のようで、なかなか大変な職業のようだ。

 以上三冊は私としては毛色の変わった本を読んでみた。実はこの三冊は息子が大学でレポート提出のために読むべき本であったようだ。息子はレポートを提出したのだろう。もう用なしの感じで放り出してあったこれらの本を見て何となく読んでみたくなったのだ。読んでみて専門的な本ではなく、入門書的要素の強い本なので、まずは手始めにという感じで指定された本なのだろう。まぁ息子が今どんなことを大学でやっているのか、その一端でも知れればなんて思って読んでみた。今度息子とこれらの本の話でもしてみたいと思っている。


評価
★★


書誌
書名:対話で心をケアするスペシャリスト“精神対話士”の人の話を「聴く」技術
著者:メンタルケア協会【編著】
ISBN:9784796654531 (4796654534)
出版社:宝島社 (2006-10-05出版)
版型:189p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年05月25日

信田さよ子著『カウンセリングで何ができるか』

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 今度はカウンセラーの話である。今回の場合、臨床心理士がどういう仕事はどういう仕事なのかを知った。私は元々この世界には幸か不幸かうといので、精神科医、臨床心理士、そして今読んでいる、精神対話士がどう違うのか詳しいことを知らない。
 この本を読んでいて、「おや?」と思ったことがある。それはカウンセラーを受けに来る人をクライアントと呼んでいることである。患者さんではないのである。これは私のとって驚きであった。というのも、カウンセラーを受けに来る人は、こころの病気に困っている人だから、患者さんではないかと思っていたのである。
 しかしよくこの本を読んでみると、いわゆるカウンセリングを行う臨床心理士は医者ではない。つまりこころの病気といっても、それに病名をつけて、診察したり、治療するのは精神科医であって、臨床心理士はそれが許されていない。だからカウンセリングを受けに来る人は、病気ではないことになる。著者はこのことを次のように言う。「私たちが関わる多くの問題は、わかりやすく表現を使えば家族のゴタゴタであり、友人関係のトラブルです。その人の内面(こころの問題)ではない」と。そしてそのゴタゴタや人間関係のトラブルを突き詰めていくと、「金銭問題」にほぼ突き当たるという。つまり生々しい現実ということなのだろう。ただ「実は内面のこころの問題は人との関係のゴタゴタほとんど相似形で、人間関係の混乱が自分の葛藤になっている。こころは独立しているのではなく、必ず現実の関係の投影であり、分かちがたくつながっている」ので、こころの問題とは完全に切り離せるものでもないとも言っている。だろうなぁと思う。私がカウンセリングを受ける人を患者さんと勘違いする原因はこのあたりありそうである。
 著者によるとカウンセリングとは簡単にいうと「相談」であるという。カウンセリングで大切なことは、その人の話を聞きながらその人の問題をリアルにイメージすることであって、そのためには納得できるまで聞く。感情レベルで寄り添うのではなく、論理を組み立てること。それに伴うイメージを描くこと。そのために必要なのがこちらからの質問することにつきるという。その上でイメージ・像・物語をつくる。これを「見立て」といい、医療では診断にあたる。そして相談にのっていく。
 現代日本社会は、家族機能がうまく機能していない社会である。そのためカウンセリングはその家族機能の補完のため、手軽で身近にあるサービス機関として機能すべきで、コンビニほどカウンセリング機関を利用できるようならなければならないという。そのためのサービス業だという。それを著者は「カウンセリング=コンビニ」論という。
 ではなぜ現在家族機能がうまく機能しなくなっているのだろうか?ここでもあの問題が浮かび上がってくる。1991年のバブル崩壊後、日本の家族が大きく変わったというのだ。バブル崩壊後、企業が終身雇用制を徐々に捨て、年功序列制度が崩れるはじめる。これらの制度は経済的に問題はあっただろうが、終身雇用制や年功序列制度の維持は、企業が家族を丸抱えにして、それを守っていた。多くの中流意識の人を生み、守ってきたと言っていいかもしれない。その人たちが社会のクッションともなっていた。
 ところが小泉政権以後、富めるものはより富めるようになり、貧しいものはより貧しくなっていき、規制緩和がさらに拍車をかける。その結果それまで日本にあった中間層がどんどん貧しくなっていく。そのことは社会のクッション役を果たしていた中間層を減らし、現実をあからさまにせざるを得なくなっていく。そこには家族問題の悪化も含まれ、今まで自分たちの中で処理できていたものが、精神的、経済的にできなくなってきてしまっているのである。
 人間関係も同様である。今から四~五〇年前に黙々と絵を描いたり、積み木ばかりで遊んでいる子供を見て「あの子は、将来エジソンみたいになるかねぇ」と言われたのが、今では発達障害や不適応というラベルを貼られてしまう。個性尊重と言われながら、実は個性的な人は非常に生きづらい時代にしてしまった。
 こういう世の中では人間関係を築くスキルが大きな意味を持ち始める。それさえうまくいけば何とか生きてけるからだ。だがそのスキルのハードルはどんどん上がっていくので、カウンセリングを受けたいというクライアントは増えていくばかりだろう。まったくもって嫌な社会にしてしまったものだと思う。

 ところで先の林直樹さんの本とこの信田さんの本を読み比べて思ったことがある。うまく言えないのだけれど、ただそう感じたということがある。林直樹さんの本では、こころの問題をすべて病としてしまうように感じたのである。もちろんそうしない現行の保険制度では生計が成り立たない以上仕方がない。だから本質はそこになくても病名をつけることで、何とか患者を納得させようとはしていないだろうか?患者さんが本当は何で困っているのか、何を望んでいるのか、それを知ろうとしていないんじゃないかななんて思うのである。きっと現行の保険制度がそうさせているのだろう。
 ところが信田さんのような臨床心理士は保険をつかって仕事をすることができない。だからカウンセリングがクライアントの満足のいく結果をもたらすこと、そのことがエビデンスとして示されることが、それが自分たちの収入を確保する道だとはっきり自覚されている。自分たちの仕事をサービス業だと自覚されている。だからこそクライアントが何に悩んでいるのか徹底的知ろうという姿勢が感じる。だってそうしなければ生計が成り立たないのだから当然である。何でもかんでも保険制度が満足のいくものではない一例かもしれない。


評価
★★


書誌
書名:カウンセリングで何ができるか
著者:信田 さよ子
ISBN:9784272360604 (4272360604)
出版社:大月書店 (2007-12-14出版)
版型:174p 19cm(B6)
販売価:1,575円(税込) (本体価:1,500円)

2008年05月23日

林直樹著『リストカット』

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 どうも釈然としない。人間のこころという不定形で確かめようのないものを論理であるいは図形で示そうとすると、多分こういうことになるのだろうと感じた。
 たとえば、病気の根源がガンのようにはっきりしたものであれば、それを取り除けばいい。だけど、じゃあそのガンは何でできたのと質問すれば、遺伝的要素、外的要因、生活環境などさまざまなものが、それこそからみ合って、ガン細胞が生まれたと説明を受けるに違いない。よほどのことがなければ、「これだ!」という原因が突き止められないのではないか?つまり人間の身体やこころはそう簡単に病気の根源を突き止めていけるほど単純じゃないだろうと思うのだ。特にこころの問題はさまざまな要因がからみ合って問題を起こしているものだと思うので余計である。
 この本を読んでいてリストカットを含む自傷行為がなぜ生じるのか、わかりやすく図を用いて説明してくれるけれど、たとえば正常な精神(これだって何をもって正常と判断するのかよくわからないが・・・)では図の中ではそのバランスが保たれているから、正常であって、そのバランス崩れると、自傷行為が生じ、自殺へと進むのだとあまりにも短絡的に説明しているように思えてならなかった。
 もちろんその図を作成するに当たり、膨大な臨床例をもって、それを分析して作られたものであろうことは理解できるけれど、だからといってあなたは今この図ではこの位置にいますと言い切れるものなのだろうか?そんなに一般化できちゃうものなのだろうかと思うのだ。(逆を考えれば、それだけ複雑な生き物だから、人間はこころの病を発症するのだろう)
 この本が新書というスタイルをとっているので、誰にでもわかりやすい入門書的要素が要求されていることもわかる。また治療という行為は、何らかの病名を確定しなければ先に進めないし、診療報酬や調剤報酬が得られない保険制度だから仕方がないにしろ、人間ってそんな簡単な生き物じゃないだろうと思いたい。

 基本的に、私は自分の身体を傷つける行為というのはよくわからない。どうして自分の身体を傷つけようとするのだろう?たとえばこの本に説明されているようなリストカットは、自分が抱え込んでいる悩みや苦しみから解放されるためとか、リストカットをすることで、他の人に苦しんでいる自分をわかってもらいたいという気持から、そうした行為に走るというのも、よくわからない。まぁ自傷行為自体、よっぽど悩んで、苦しんでいるから、そういう行為に現れるのだろうとは思うのだが、それを自分の身体傷つけることとどう関係があるのかわからないのである。むしろストレートに自殺の方向に行ってくれる方が他人事とはいえ、わかりやすい。あるいは自殺への前段階に自傷行為があるといわれれば、納得できないこともない。ということは、自傷行為はまだ死ぬことはちょっと怖いという意識がその人にはあって、糸が完全に切れたとき自殺となるということなのだろうか。であれば、自傷行為は自殺へのシグナルを発している可能性がある。
 そういう意味で自傷行為をとらえるなら、何とかできないものだろうかとやっぱり思う。自傷行為がこころの病から発しているものなら、まずはその治療が先決となる。この本を読んでいると、こころの病を病んでいる人や自傷行為に走る人は「私」の存在をなくしてしまっている人のように思える。だけどそう簡単に「私」の存在はなくなるものではなかろう。勝手にそう思いこんでいるだけであって、その人にはその人を大切に思う人が必ずいるものだと思いたい。なぜなら人間はきっと一人では生きていけるものではないから、必ずどこかで人間関係がつながっているはずだ。そういう人たちの気持ちを無にして、自分だけが苦しいから、自分の身体を傷つける、あるいは自殺するなど、とんでもないと思う。偉そうなことは言いたくないけれど、あなたの身体やこころはあなただけのもんじゃないですよと言いたい気持がある。ここでも生きることは大変なことなんだなと思った。


評価
★★


書誌
書名:リストカット―自傷行為をのりこえる
著者:林 直樹
ISBN:9784062879125 (4062879123)
出版社:講談社 (2007-10-20出版) 講談社現代新書
版型:190p 18×11cm
販売価:735円(税込) (本体価:700円)

2008年05月17日

藤原正彦著『決定版 この国のけじめ』

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 歳をとってくると、世の中のことに何かと文句をつけたくなるのか知らないが、“何かおかしい”あるいは“それは違うんじゃないか”と感じることが多くなってきている。おそらくそうした感情が生まれる背景には、私自身がこれまで生きてきた年月やその中で経験したことが今の世の中の出来事とずれてきているからそう感じるのだろう。いいとか悪いとかそういう問題ではなく、価値観に違和感を覚えるのが今日この頃なのだ。
 しかしちょっと前まではそんなことは感じなかったし、アメリカ式小泉改革を支持していたところがあった。能力のあるものはそれなりの報酬を得るのは当たり前だと思っていたし、できる者ができない者に足を引っ張られることはおかしいと考えていた。また支払うものを支払わないで、自己主張するやつはとんでもないと思っていた。もちろん今でも基本的にはこの考えに変わりはない。が、最近はそれだけでいいのだろうかと思うことが多くなってきたのはなぜなんだろうと思うのだ。ただ単に歳をとったからだけでは自分の中で説明できなくなってきているところがある。
 特に小泉首相が唱えてきた「構造改革」は間違いじゃなかったのかと、最近思うようになってきた。確かに不具合は修正しないとならないだろうけれど、改革という名の下で、それまで日本に存在していた文化、伝統、道徳、倫理を壊し、グロバールスタンダードということで市場原理主義に走ったことは、果たして正解だったのだろうかと思うようになっている。この点藤原さんは、くどいくらい市場原理主義が日本という国家をだめにし、国としての品格のない国家を生んでしまったことを主張している。
 戦後、日本はアメリカの言いなりになって、アメリカ式民主主義を取り入れた。そして戦後の復興を成し遂げ、成長してきた。その間はまだマシだったかも知れない。まだ日本的情緒は残されていた。けれど、バブルで踊らされ、それがはじけると、長い不況となる。国民も経済界もこれに苛立ち、何とかしようとするところに小泉さんが出てきた。
 小泉さんは構造改革という名の下で、「官から民へ」「中央から地方へ」「小さな国家」という構造改革を始めた。つまりできる限り市場原理主義に任せ、国の規制を緩和し、極端なことを言えば、国家という枠を取っ払い、自由にやらせようとした。そのことが逆に日本という国を愛する気持を希薄にし、国歌の君が代さえ歌わない状態を生む。そういう人がどうして靖国神社参拝にこだわるのか不思議といえば不思議なのだが、とにかく自由ということなら君が代を歌う歌わないは個人の自由だろうということになる。けれど、少なくとも生徒がそう判断したならともかく、それを学校の先生が言っちゃまずい。国を大切に思わなくなったら、自分の今いるところも意味がなくなる訳だし、自分たちが根なし草になってしまう。そうなったときどこに自分たちのアイデンティテーを求めるのだろうか?すべては個人の理性とやらに絶大な信頼を置いて判断することになるのだろうが、それって、そんなに確固としたものなのだろうか。さらにそうしたことは自分さえよければそれでいいということになりかねないし、事実そうなってはいないだろうか?
 「改革」という言葉の響きはいい。日本人は特にそういう言葉に踊らされやすいところがあるものだから余計である。今騒がれている「後期高齢者医療制度」だって、小泉時代に言われたものだ。それを実際施行されれば「老人は死ねということか!」と文句を言う。私たちは小泉さんを「純ちゃん」といってもてはやしたんだから、文句を言える筋合いのものじゃない。藤原さんはこの本で、「民主主義は国民の総意に基づいて物事を決めていくのだから、その国民に判断力がないと衆愚政治となる」といっているが、まさしくその通りで、私たちが馬鹿なマスコミが垂れ流す情報に踊らされ、考えることしなかっただけのことである。

 さて、藤原さんがその市場原理主義というものがいかに日本をダメにしたのか、その主張を書いてみたい。たとえば株式である。日本の会社は従業員の愛社精神で存続していたところがある。従業員が自分のいる会社で一所懸命汗水流して働いてきたから、日本は成長してきた。会社もそうした従業員の気持に応えるために終身雇用制度、年功序列を維持してきた。もちろんこの制度がいつまでもそのまま維持できるとは私も思わないが、市場原理主義の下では会社は株主のものになってしまう。だからどうしても株主の期待するキャピタルゲイン生まなければならない。そのため経済が衰退しつつある現在、利益はそう生まないから、成果主義、リストラと経営者は走りざるを得なくなってしまった。
 本来会社は従業員のためにあったはずなのに、いつの間にか株主のためにあるようになってしまった。それを藤原さんは「市場原理主義とは論理が情緒の上位に立つというものである。情緒を徹底的に排斥し論理を徹底的に貫くというものである。だから従業員の情緒を無視したうえで会社は株主中心となる。経営者社員の間に情緒はなくなり、そこにあるのは単に雇用関係という論理だけだから、論理さえ整えば自由にリストラする。そうして利益を株主に配分する」と分析する。
 このため働きたくても正規社員として働けないし、いつリストラされるかもわからないので、会社に勤めたい若者が激減するのは当たり前の状態になる。
 このような利益の出し方は対処療法であって、このまま市場原理主義を貫き、リストラや非正規社員やパート・アルバイトの依存は失業者やニートを増やす。しいては消費の減退(当たり前だ。収入がないだから)税収不足となり、経済の衰退を招く。実際今の日本はそうなっている。そして個人の収入減は、気持の余裕さえもなくし、ぎすぎすしてくる。そもそも市場原理主義は競争社会だから、勝つか負けるかになるわけで、いつも目くじら立てて競っていなければならない状態になる。その結果勝者は一人だけれど、敗者は九人といった状態を生み出し、格差が広がる一方となる。それはアメリカを見れば歴然としており、上位1パーセントの人が国富の半分を占める状況になり、一方では極端な貧困層を形成する。アメリカは弁護士数が人口当たり日本の二十倍、精神カウンセラーが同じく六十倍という世界である。戦いとストレスの世界である。効率のよい世界かも知れぬが、もはや平穏な心で微笑んでいられるようなところではなくなる。敗者はやけにもなる。最近の日本の世情の物騒なことや、自殺者が絶えないことなどはここに原因がある。
 さらにすべての国民は消費者であるという消費者至上主義に陥り、消費者のためなら何でもありという状況を生み出す。たとえば食品など国産より輸入品の方が安いから、そうした方が消費者は喜ぶ。その結果日本の農業は壊滅に瀕し、自給率が四十パーセント切ることになる。毒入り餃子ではじめて、そうしたことを知ってあわてる始末である。戦争でもあったらこの自給率では国が維持できないこと知るべきで、高くても、無駄でも、日本で生産することを国を挙げて真剣に考えないととんでもないことになる。それに農業が廃れば、日本の自然だって崩壊する。
 そして市場原理主義は経済分野だけではなく、あらゆる面で影響を及ぼす。それを藤原さんは「市場原理主義は共産主義にも似て、単なる経済上の教義ではなく、経済の枠を越え、あらゆる面に影響を及ぼすイデオロギーである」と言い、「市場原理主義は経済だけなく、不効率ということで、人類が築いてきた文化、伝統、道徳、倫理を壊し、人々がそれぞれの土地で穏やかな気持で暮らすことを困難にさせている。市場原理主義は人類を不幸にする」と言い切る。
 こうなってくると修正なしのアメリカ式民主主義、あるいは市場原理主義の単純な導入は、日本という国を経済だけでなく文化も崩壊させるかもしれない。もちろんだからといって武道精神の「武士は食わねど高楊枝」だけでは生きてはいけない。やせ我慢には限界があるはずだ。しかし国家として日本を存続するには、経済もしっかりしなければならない。それと同時に日本人である以上、日本が本来もっていた文化や伝統、あるいは習慣など維持し、自分たちが日本人であることの誇りを持たさなければならない。
 経済のグローバル化のためだといって小学校から英語を教えるのも、日本がアメリカの51番目の州ならともかく、自分たちの国のことをおろそかにして英語教育はないだろうとは思う。それに仮に英語がぺらぺらしゃべれても、話す内容に中身がなければ、相手にされないはずだ。英語は意思の伝達手段と認識すべきだ。藤原さんは「人間には主軸が必要である。これがしっかりしていないと、精神は根なし草の如く頼りないものになる。この主軸を獲得するには、母国語の完全習得とそれに支えられた豊かな読書を通して、文化・教養を吸収することが不可欠である。これは並大抵のことではなく、小学校くらいまで全時間の半分くらい国語に費し、その後も読書などに励まねば覚束ない。
 日本人として育てるなら、小学校で外国語を導入するのは愚かである」というのは正論であろう。まずはそこからスタートしなければいけないような気が私もする。


評価
★★★


書誌
書名:決定版 この国のけじめ
著者:藤原 正彦
ISBN:9784167749019 (4167749017)
出版社:文藝春秋 (2008-04-10出版) 文春文庫
版型:346p 15cm(A6)
販売価:559円(税込) (本体価:533円)

2008年05月12日

矢口敦子著『償い』

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 話は医師日高英介は子供の病死と妻の自殺で絶望し、「私」が「男」という普通名詞扱いになるホームレスとなった。ホームレスとして暮らす土地で、火事を最初に見つけた。それが日高が経験する連続殺人事件の始まりとなった。日高はホームレスという身分のためその火事の第一発見者にもかかわらず、放火犯人として警察で取り調べを受ける羽目となる。しかしその後殺人事件が続き、日高は山岸という刑事の依頼を受けて、事件を調べ始める。
 連続殺人事件を調べているうちに、日高が十二年前医師の国家試験を合格し、長期休暇でデートをしていた頃、誘拐魔に殺されそうになった幼児、草薙真人と偶然知り合う。そして何度か草薙と話しているうちに、日高はこの十五歳になった少年が犯人ではないかと疑い始める。
 日高にとって医師としての仕事も子供も妻も失ったばかりだから、せめて十二年前に助けた幼児が助けたということで、唯一意味があったことなのに、それさえも意味がなくなりつつあり、自分が助けたばかりに草薙は連続殺人犯になってしまったのではないかと苦しみ始める。
 そして事件を調べていくうちに、日高は普通名詞の「男」から「日高英介」という固有名詞の男を取り戻しつつあることを自覚する。何もかも捨てて、なげやりになっていた自分を事件解決にあたって、とにかくまっとうに生きていこうとする。

 この本は書評や店頭のPOPなどでは“いい本”と好評なのだけれど、読んでみて、はたしてそんなにいい本だったかなと思った。話は連続殺人事件と登場人物の心の傷が両輪として話が進むのだが、作者の意図がその傷で感動を呼ぶような構成になっている気がしてならなかった。どこか白々しさが感じてしまい、ここが感動するところですよと言われている気がしてしまった。そしてこの本が“いい本”と感動する人は、作者の意図にはまった人じゃないかと穿った見方をしてしまう。
 もちろん読んでどんな感想を持ってもいいのだけれど、やっぱりミステリーなら、話の必然性をリアルにわかるようにぐいぐい読ませてくれる方がいい。そんな気がしたのである。あんまりミステリーに魂の救いを求めてほしくないなぁ、やっぱり。
 それにしても書店員はどうしてこういう魂の救い、あるいは心の荷物を下ろしてくれる本が好きなんだろうか?たまにはいいかもしれないが、毎度毎度だと、甘ったるいケーキを食べさせられている感じがしてしまう。


評価
★★


書誌
書名:償い
著者:矢口 敦子
ISBN:9784344403772 (4344403770)
出版社:幻冬舎 (2003-06-15出版) 幻冬舎文庫
版型:450p 15cm(A6)
販売価:680円(税込) (本体価:648円)

2008年05月07日

高野和明著『13階段』

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 樹原亮介はガードレールにバイクをぶつけ、バイクは大破し、樹原も大けがをした。それを発見した宇津木啓介夫婦は、警察に連絡するために実家に戻る。そこでは啓介の両親が頭を割られ死んでいた。その死体は犯人との格闘のためか、腕は筋肉組織一本を残しぶら下がったまま、指は全部飛散し、眼球が飛び出した、悲惨な状態であった。
 樹原亮介は保護観察処分を受けており、樹原の保護司は宇津木啓介の父親耕平であった。病院に運ばれた樹原は宇津木耕平のキャッシュカードをもっており、衣服からは被害者の血痕が検出された。樹原は宇津木耕平夫婦殺害容疑で逮捕された。
 樹原は事故の衝撃で犯行時刻の記憶を喪失していた。そのため犯行当時の記憶がなく、改悛の情で裁判官に減刑の意思表示ができず、逆に反省の色がないということで、一審で死刑が言い渡され、二審で控訴棄却、最高裁でも上告棄却となり、樹原の死刑が確定した。
 松山刑務所の刑務官南郷正二と、傷害致死で二年の刑を終えた三上純一は、樹原が冤罪の可能性があるという調査依頼を受けて、事件を調べ始める。しかも樹原の死刑執行はまもなく行われる可能性があり、時間との戦いであった。手掛かりは、死刑囚の脳裏にわずかに甦った「階段」の記憶しかない。

 この本は先に読んだ阿刀田さんのエッセイに紹介されていたものである。話の内容はこれ以上書くとネタ晴らしになってしまうので書かないが、それよりもこの本の醍醐味は、死刑がいかに執行されるかが詳しく書かれていることである。そのことが樹原が冤罪事件に巻き込まれ、死刑に処される怖さを読む側に与え、さらにタイムリミットが近いことが、恐怖を醸し出していく。
 13階段とは死刑台に上る階段のことかなと思ったのだが、そうではなく、死刑確定囚が実際死刑に処されるための手続きが13段階あることを言っている。
 この本によると、日本では現在、目隠しされた死刑囚の首に縄がかけられた直後、床が二つに割れて地下に落下する「地下絞架式」で処刑されるらしい。さらに死刑囚がいるのは、刑務所ではなくて、拘置所なんだそうだ。というのも、彼らは死刑になって初めて刑を執行されることになるので、それまでは未決囚として拘置所に収監されているという。
 死刑が実行されるとき、その刑を執行する刑務官の選定が行われる。選考基準は職務執行が特に優秀で、本人はもちろん家族にも持病がない者。妻が妊娠中でない者。喪中でない者とあるらしい。そしてこれらの基準を満たした七名の刑務官が、死刑執行前にリハーサルをする。たとえば、落下したとき、死刑囚の足が床から三十センチの高さに来るように調整したりして、実際に刑務官を死刑囚に見立てて行う。床を割るためのスイッチであるボタンは三つあり、三人の刑務官が同時にボタンを押す。三つのボタンのうち一つが本物スイッチなのだが、それが三つのうちどれかはわからないようになっているらしい。
 死刑が執行された死刑囚は、まず心肺停止を確認され、その後五分間縄にぶら下がった状態にしておかれるらしい。

 ところで最近は死刑廃止の是非がとやかく言われているが、国際的動向に比べ、日本では死刑存続を是と考えている国民が大半だというところがある。それは被害者の心情を思うことから来る同情から、または、死刑が凶悪犯罪の抑止力となるというところからくるものだろう。実を言えば私もその考えに与している。しかし、被害者の家族でない者が、簡単に死刑と叫んでいいのだろうかとこの本を読んで思ったのだ。というのも、仕事として死刑を求刑しなければならない検事や、南郷のような実際に生身の人間を殺さなければならない立場の人間の苦しみを知ったからである。死刑は誰かが執行しなければできないものなのだということを改めて知らされた。 死刑囚がお呼びがかかって、その瞬間、慟哭し、嘔吐する場面がこの本では書かれているけれど、それは自分が招いたことだから、そうした恐怖を味わうのは当然のこととしても、たとえば罪を憎む検事や刑務官が自分の仕事を粛々とこなして、死刑囚を処刑するのだと簡単に言えないことを知る。
 特に実際に刑を執行する刑務官にとって、その精神的苦悩はものすごいものだとこの本で知った。生涯癒やされぬ深手を心に負う。また世間にも自分が刑の執行者と言えない、苦しみや後ろめたさをいつも感じながら生きていくことになる。そしてその家族もやはり人様に言えない苦しみを背負いながら生きることを強いる。だから南郷が「どうしてあんな馬鹿どもが、次から次へと出てくるんだろうな?あんな奴らがいなくなれば、制度があろうがなかろうが、死刑は行われなくなるんだ。死刑制度を維持しているのは、国民でも国家でもなく、他人を殺しまくる犯罪者自身なんだ」という言葉はかなり重みがある。

 この作品は第四十七回江戸川乱歩賞作品であるが、さすが江戸川乱歩賞作品である。ミステリーとしてのおもしろさと、死刑という制度が我々が簡単に見ているところがあることを戒めてもくれ、この制度を維持していく人たちの苦しみも教えてくれた。


評価
★★★★


書誌
書名:13階段
著者:高野 和明
ISBN:9784062748384 (406274838X)
出版社:講談社 (2004-08-15出版) 講談社文庫
版型:383p 15cm(A6)
販売価:680円(税込) (本体価:648円)

2008年05月06日

阿刀田高著『小説工房12カ月』

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 最近仕入れた阿刀田さんのエッセイを読む。この本は前半が新潟日報に掲載された文章で、子供の頃過ごした長岡市のことを中心に阿刀田さんの思い出が書かれている。
 後半が“小説工房”と称して、小説がどのように書かれているか、たとえば松本清張さんや向田邦子さんの作品を例にとって、自分の小説のアイデアをどのように見つけだし、それを生かして作品を作り上げていくかが書かれている。
 以前読んだエッセイにも日常の中で見え隠れする、小説に使えそうなアイデアが浮かぶとメモをとって、それを後でノートに清書したアイデア帳みたいなものを作られていると書かれていた。阿刀田さんの小説はアイデアが命なので、そこから取り出して小説を書かれているという。そのアイデア帳がもう十三冊にもなっているという。どんなものなのかちょっと見てみたい気がした。
 小説家が自分の作品がどのように生まれたか、あるいはどのように作品を作り上げているか、その手の内を明かすのは珍しいだけに、興味深かった。
 ミステリーにしても、小説にしても、だいたい書くべきことはほとんど書き尽くされているから、後は視点を変えて、同じものであってもちょっと違う側面が見えることがあるので、それを生かして使っているという。確かにこれだけ様々な作品が氾濫していると、もう書くべきことがなくなっちゃうだろうなとは想像がつく。だから新たな作品を生み出すことはかなり大変だろうなとは思うけれど、そんな中で、視点を変えれば同じことでも違う側面が見えてきて、ちょっと新しい作品が生まれるというのは面白い。
 阿刀田さんは特に文章修行をしたわけではないという。むしろ作文のたぐいは嫌いだったという。それでもこうして作家として一流の文章が書けるようになったのは「読書」のお陰だという。本を読んでいて、「この文章いいな」と感じたら、それを覚えたという。だからいい文章を書くには読書は必須で、憧れる文章を書き出してみることを勧めている。
 私の文章は悪文だと自分でも自覚しているが、こうして文章を書くにあたり、読んだ本の一部をノートに書き出してみると、その作家の文章の癖がわかることがある。そうすると自分の文章のひどいところがはっきりすることがある。たとえばこのようにワープロで文章を書いていると普段使わない漢字も簡単に変換してくれるものだから、それをそのまま採用してしまう。だけどそれが不自然であることを知った。
 司馬遼太郎さん文章を一時ノートに書き出したことがある。そうしてみると、司馬さんはむやみに漢字を使っていないことがわかった。それが自然に見えた。だからひらがなで充分なんだなと思った。ひらがなを馬鹿にしちゃいそうだけど、そんなことはない。だから私もむやみに漢字に変換させないことに最近はしている。不自然な漢字、普段使わない漢字が文章にちりばめられていると、読んでいる方は結構疲れることも最近わかった。
 また阿刀田さんも指摘しているけれど、ワープロで書かれた文章は長くなりがちだという。そうかもしれない。自分でもやたら文章が長いなと思うことがたびたびある。書きたいことが山ほどあるものだから、なんでもいいから続けて書いてしまうのだ。ワープロはそうした欲求を満たしてくれるけれど、やはり文章は綴る短い方がいい。そして長いものなら、ちゃんと一息いれるところあるべきだと最近は思っている。一気に書き上げてしまうのは、書く方はいいかもしれないけれど、読む方はつらい。そのうち何を言いたいのかわからなくなることもある。だから私もその点は気をつけてはいるのだけれど、どうであろうか?阿刀田さんが「まったくの話、明治以降<あるいは、その以前から>今日に到るまで、日本の知識人のあいだには、ありたいていに言えば“むつかしい文章を書くことが偉い人”という風潮があった。ことさらむつかしく書くことがりっぱと、なぜか信じられていた。私はかつて、一般の読者を対象にしている雑誌に、ひどく難解な文章が掲載されているのを知り、ゆっくり読み解いて、
-簡単に言えば、こうでしょ-
 と、かなり入念な考察を実験的におこなったことがある。
 みなさんは、ぜひとも悪しき風潮から遠ざかっていただきたい。よい文章を書こうと考えるなら、わかりやすく、平易な文章、べつな角度から言えば、相手の立場に立って親切な文章を意図することをお勧めしたい」といのは、まったくその通りなんだろうと思うのだ。
 私が本を読んで、こうして文章を書いているうちに、少しでもいい文章が書けるようになればいいのだがと思う。
 最後に、身辺雑記として「本とのつきあい」で阿刀田さんが小説家として、あと何年やれるかなと考えてあと十五年足らずと予測する。そしたらその十五年のあいだで絶対に手にいれないと思える本がたくさん出てきたという。決心してそういう本はどんどん処分することにしたと書かれていた。
 それを読んで、今自分が本棚の整理をしている中で思っていることと同じだと思った。もうこれは今後読まないだろうなと思える本。あるいは読んだけど、まず絶対に読み返さないだろうなという本は処分してもいいかもしれないと思いながら、今本棚の整理をしている。このあたりの気持ちはいずれもうひとつのブログで書きたいと思っている。


評価
★★★
 

書誌
書名:小説工房12カ月
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087746921 (4087746925)
出版社:集英社 (2004-04-30出版)
版型:337p 19cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年05月02日

井上ひさし著『ボローニャ紀行』

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 続いてイタリアについて書かれた本を読む。私がボローニャについて知っていることは、この本の最初にあるボローニャ大学の歴史についてである。昔ヨーロッパの大学がどのようにして生まれたのか興味があって調べたことがあるからである。再確認のため、この本に書かれているボローニャ大学の由来を書いてみる。
 ボローニャは大きな街道が交差するため、物資の集散が盛んで商業が栄えた土地であった。商取引が盛んになると、それまで使っていたゲルマン法では役に立たなくなってくる。というのはゲルマン法は慣習法であり、道徳や習俗が法と一緒になっている。しかも成文化されていない。これでは約束ごとや契約には役に立たない。そこで目をつけられたのがローマ法である。ローマ法は道徳や習俗といった社会規範と法切り離されている。公法と私法きっちり分けてある。しかも成文法であるから(文字に書かれているから)当てになる。商業にローマ法が適用される。当然商業が盛んなこのボローニャにおいてローマ法を研究する学問的欲求が興ってくる。これがボローニャ大学が生まれる最大の理由であった。
 ここでは懐かしい人物の言葉が引用されている。ルドルフ・フォン・イェーリングである。彼は近代法学者の第一人者であるが、“ローマは三度世界を統一した”とその著書で書かれている。三度とは、まずは武力で、次にキリスト教で、そしてローマ法で世界を統一したというのである。この言葉は大学時代何かの本で読んだのか、講義で聞いたのか忘れたが、言葉自体は思い出せる。
 当時の大学は校舎があるわけでなく、学生は街の広場や教会、あるいは教授の家に通って勉強していた。そのうち学生が組合を作って、学者を招いて講義をさせるようになり、それが1088年でボローニャ大学創立年となる。つまり当時の大学は学生が管理運営をしていて、教授の人選、給与、授業内容は学生が決めた。だから聴講生の少ない教授からは罰金を取ったし、最悪首にもした。ちなみにラテン語のUniversitasは自治的な組合のことで、これがUniversityの語源である。
 ボローニャ大学の卒業生は、カンタベリー大司教、ダンテ、ペトラルカ、エラスムス、コペルニクスがいる。あの『薔薇の名前』を書いたウンベル・エーコーはここの哲学科の教授であった。
 さてボローニャのことである。なぜ井上さんはボローニャに興味を持たれたのか。こうして本まで書かれたのか。それは井上さんが子供の頃、洗礼を受けた時の神父さんが聖ドメニコ教会の人であったことも関係しているかもしれないが(ボローニャにあるサン・ドメニコ教会は聖ドメニコ教会の発祥の地)、それよりも、ボローニャが戦後たどってきた歴史から、国家ではなく地方の存在価値をしっかりと見定めようとすることがこの本を書かせた理由ではないか。いわゆる「ボローニャ方式」によって、地域が活性化する方法があるんじゃないのかというのがこの本で言いたかったことなんじゃないかと思うのだ。
 ボローニャはレジスタント都市である。ナチスドイツやファシスト軍を市民の力で追い出した歴史がある。ただし、その歴史は悲惨な歴史でもあるが、市民や職人達は戦った。彼らの多くは共産党員や社会主義者であった。
 戦後このことが、右派キリスト教民主党が中央政権を握っていたために、政敵であるボローニャにはマーシャルプランからの資金提供がなされなかった。それだけでなく、露骨に嫌がらせをされた。ボローニャは生き延びるために自分たちで何とかしなければならなかった。ボローニャは自分たちが誇る精密機械の販路を海外に求めた。海外の顧客が何を求めているのか詳しく調べ、そのニーズに合わせたサービスを提供し続けた。やがてこうした努力がボローニャを中央政権と五分に争えるまで成長させた。そしてそのことが「自分たちがいま生きている場所を大事にしよう。この場所さえしっかりしていれば、人はなんとかしあわせに生きていくことができる」という熱い思いとなる。「過去と現在は一本の糸のようにつながっている。現在を懸命に生きて未来を拓くには、過去を学ぶべきだ」というボローニャ精神が生まれ、そこにある歴史的建造物を壊さず利用する。それは外観はそのままにして、内部は必要に応じて変えてしまう。そうして路線バスの車庫はホームレスの更正施設に、貴族の館は保健所や保育所や劇場に変え、女子修道院はヨーロッパ一の女性図書館に、王立タバコ工場は映像貯蔵センターに、証券取引所は図書館に、家畜市場は老人クラブやコンサートホールなどの複合施設に変えていく。こうした資金提供は企業に求める。企業は得た利益を地域に還元するという精神があるため、地域活性化のために作られたさまざまな組合に投資していくのである。井上さんは「ボローニャの人たちは、自分が得たものを街に返すことで、街そのものなっていくのだ、と。相手が国となるとあまりにも大きすぎて愛するのはたしかにむずかしい。しかし、自分が住むところなら、何とかなるかもしれない。となると、自分が現在、住んでいるところをまず愛するに足る場所にしなければ話にならないのではないか・・・」と考えるようになる。多分これが一番井上さんが言いたかったことなのだろうと思う。
 国家というシステムが動脈硬化を起こしている現在、自分たちが住んでいる街をいかに住みやすくしていくか。あるいは元気にしていくことが、人らしい生き方ができる環境を作っていくかになるんじゃないかといっているようである。
 先に読んだ宮本映子さんの本でも感じたことなのだけれど、イタリアの人たちは日常の楽しみや人生の目的をまず、自分たちの住んでいる街で見いだし、そのために協力していく。そういう精神ってものすごくうらやましいなと思うのだ。

 ところでネットでボローニャ大学や聖ドメニコ教会のことをネットで調べていたら、「イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!」というサイトを見つける。これがすばらしくきれいな写真を掲載されていて、思わず見惚れてしまった。どなたが作られているか知らないけれど、連休にゆっくりと見させてもらおうと思っている。URLは下記の通り。


http://italiashio.exblog.jp/


ボローニャ大学や聖ドメニコ教会は次のURLにあります。

http://italiashio.exblog.jp/5383444//


評価
★★★


書誌
書名:ボローニャ紀行
著者:井上 ひさし
ISBN:9784163690902 (4163690905)
出版社:文藝春秋 (2008-03-01出版)
版型:222p 18×12cm
販売価:1,249円(税込) (本体価:1,190円)