2008年06月30日

レスリー・アドキンズ/ロイ・アドキンズ著『ロゼッタストーン解読』

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 中島敦に『文字渦』という短篇小説がある。古代アッシリアのアシュル・バニ・アパル大王の頃、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという妙な噂がニネヴェの宮廷で飛び交う。大王はナブ・アヘ・エリバ老博士に調査をさせる。彼は図書館にある書物から文字の霊について説を見いだそうとするが、文字を見つめているうちに、妙なことが起こり始める。「一つの文字を長く見詰めている中で、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としてしか見えなくなって来る。単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る」のであった。「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味を有たせるのは、何か?ここ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた」のである。つまり単なる線の交錯が文字として、音と意味を持たせるのは文字の霊だと思い至るのである。以来老博士は文字の霊に取り憑かれる。
 ある若い歴史家が、「歴史とは何ぞや?」と老博士に尋ねる。老博士は「歴史とは、昔在った事柄で、且つ粘土板(当時文字は粘土板に書かれた)に誌されたものである」と答える。更に若い歴史家はそこに書かれなかったものはどうなのだと聞く。老博士は「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」と答える。

 中島敦の短篇をいきなり引っ張り出したのは、この本を読んで思い出したからである。この本の原書名は『THE KEYS OF EGYPT』という。まさしくヒエログリフ解読がエジプト古代史の“鍵”で、ジャン・フラソワ・シャンポリオンがヒエログリフを解読したことによって、古代エジプト学が明らかになった。この本はシャンポリオンがどのようにヒエログリフを解読していったか、その経過をつづったものである。
 ヒエログリフの解読に役立ったものが「ロゼッタストーン」である。これはナポレオンのエジプト遠征時、ロゼッタの北西数キロのところで、ドプールという兵士が片面に碑文のある暗緑色の石版を発見した。この石版を調べると、三つの異なった文字が記されている碑文であることがわかった。一つがヒエログリフで、後はデモティク文字、ギリシア文字であった。



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 私が高校時代の世界史で習ったことは、この「ロゼッタストーン」の発見で、簡単にヒエログリフが解読できたように習った。多分ギリシア文字を追っていけば、ヒエログリフがどれに該当するかわかるからだろうと思うのだが、この本を読むとそう簡単な話ではないようである。シャンポリオンをはじめ、イギリスの学者が競って、ヒエログリフの解読に挑んだが、なかなか読めずにいた。
 しかもシャンポリオンが生きた時代はフランス革命の動乱の後、ナポレオンが帝位につき、その後失脚し、ルイ王朝が復活しためまぐるしく歴史が変わる時代であって、シャンポリオンもその政治体制に翻弄される様子が描かれる。つまりヒエログリフの解読に精を出していればいいものを、何故かシャンポリオンは政治に関わっていく。またヒエログリフ解読はシャンポリオンだけでなく、さまざまな学者(特にイギリスのトーマス・ヤング)が挑み、我こそが正しいと主張するだけでなく、相手を非難中傷する世界でもあった。このあたりは何時の時代でも醜い争いがあるようで、シャンポリオンの時代も例外ではないようだ。
 さてシャンポリオンはどのようにヒエログリフを解読したのだろうか?このあたりは私の頭ではよく理解できなかったが、まずは表音の確定から始まったようである。
 シャンポリオンは「ロゼッタストーン」から、カルトゥーシュ(楕円形の枠)から「プトレマイオス」という固有名詞を得る。

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 さらにウィリアム・ジョン・バンクスという古物研究者が女神イシスを祀ったフィラエ島にあった倒れたオリベスクを持ち帰り、そこにヒエログリフの碑文があり、そのテキストをシャンポリオンは入手する。そこには「クレオパトラ」の名が書かれただろうヒエログリフを見いだす。

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 そして、この二つのヒエログリフを比較することで、「P」、「O」、「L」、「I」に該当するヒエログリフを発見するのである。



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 以後それをきっかけとして、シャンポリオンはヒエログリフには表意文字と、表音文字の二種類があることを突き止める。やっかいだったのは、ヒエログリフが音の持たない意味だけの文字(「決定詞」という)の存在であった。これは他のグループのヒエログリフの意味を明確化する機能だけを持ったヒエログリフらしい。
 ということで(これ以上は私には説明できないので、先に進む)シャンポリオンはヒエログリフの原理を見いだす。それを見いだしたとき、シャンポリオンは兄ジャック・ジョセフのところへ息絶え絶えに興奮しながら行って、「わかったよ!」と叫んだが、何がわかったのか説明する前に、死んだように床に倒れた。伝説によると卒倒したシャンポリオンはまる五日間、一種の昏睡状態でベッドに横たわっていたという。

 ヒエログリフがわからない人にとっては単なる線(この場合絵かな?)の集まりでしかなかった。しかし文字の霊(それが意味をなす原理原則)がわかることによって、意味をなす。その霊を解読したのがシャンポリオンだったのではないだろうか?
 その意味がわかると、歴史がひもとかれる。そしてひもとかれた古代エジプトでは、文字がいかに大切なものであったかがわかった。
 この本によると、古代エジプトでは書記をもっとも重要な人間(ファラオが書記であった)と見なし、書記は同時代の人々だけでなく、後世の人々のためにも書かれてていたのだ。解読された『死せる著者への賛辞』には、「人間は滅び、死骸は塵となり、人びとは土地からさるが、一人の語る者の口に彼をよみがえらせるのは一冊の本である。建てられた家よりも、西方の礼拝堂よりも遙かに偉大なるものは[パピルス]巻物である」と書かれていたという。そうして残された巻物は、今、古代エジプトをよみがえらせたのだと思うと文字はすごいなと思う。


評価
★★★


書誌
書名:ロゼッタストーン解読
著者:レスリー・アドキンズ/ロイ・アドキンズ/木原 武一訳
ISBN:9784102168318 (4102168311)
出版社:新潮社 (2008-06-01出版) 新潮文庫
版型:471p 15cm(A6)
販売価:780円(税込) (本体価:743円)

2008年06月24日

北尾トロ著『男の隠れ家を持ってみた』

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 正直あまり期待はしていなかったのだけれど、読んでみてちょっと考えさせられるところがあった。
 今回も「裏モノJapan」の企画もので、「どこかで、アパートを借りて、しばらく通ってみる」というテーマ。最初は企画に行き詰まって、こんな企画しか出てこないから、仕方がないかという感じでいたのが、いつの間にか知らない町で部屋を借りてみるというアイデアが頭から離れなくなる。
 トロさんは家庭もあり、西荻に仕事場をもっており、そこには仕事関係者や友人が多くいるのだが、今回そこから離れて、まったく関係ない土地である足立区のアパートの一室を借り、北尾トロではなく、本名でそこで人間関係を築きたいと考えるようになる。
 ことのきっかけは、トロさんに娘さんが生まれたことから始まる。友人達が娘さんの誕生を「おめでとう」と祝ってくれるのだが、そのお祝いに言葉にトロさん自身違和感を感じ始める。
 仕事も順調、夫婦仲も円満、欲しかった子供もできた。子供のために頑張らねばとモチベーションも上がるが、一方で「父親になってから急速に、この先の人生が見えてきちゃった感じがする」のである。つまり自分が“つまらないオヤジ”になりかけていて、このままズルズルと守備重視型の人生に突入していくことに、ものすごい恐怖感を感じ始めるのだ。しかしそれが普通なのだが、“つまらないオヤジ”、冗談じゃねぇ!と強がるところがあった。それは“北尾トロ”がそう思わせていた。トロさんには“北尾トロ”という虚構の人生がある。ライターとしてのペンネームが都合よかった。それに寄りかかっていれば、見たくない自分を見なくていいからだ。しかし生身のトロさんも“北尾トロ”も同じ人間である。生身のトロさんが感じる現実と、それに抵抗しようとする“北尾トロ”がいるのである。多分トロさんが感じる違和感はそこから生じるものなのだろう。
 本名でアパート暮らしをし、近所の人たちと人間関係を築きたいといったって、そう簡単にできるもんじゃない。だって、月に何回かこのアパートで暮らしても、基本ここがトロさんの定住地じゃないからだ。それにこのアパート暮らし自体雑誌の企画なのだから、周りの人間と本名でつきあえるわけがない。つきあいができたって、すぐ破綻する。だから基本何も起こらないで、この企画は終わる。
 ただこうした生活を続けた結果、「周囲が北尾トロとしか接しないのではなく、自分がラクをするために、北尾トロとしてふるまうことが日常的になっていたのだと思う。臭いものにフタをするように、私生活の部分まで北尾で埋め尽くせば、現実を先延ばしすることだってカンタンだから。
 それだけのことを理屈ではなく、実感としてわかるために十ヵ月かかったのかぁ・・・」と悟るのである。ペンネームを持てば、別人格の人間ができるところはあるかもしれないが、所詮それはペンネームしかすぎない。なまじペンネームで仕事をすると、それが生身の人間と同じようになってしまう誤解があるんだなと知らされる。現実は現実だし、同じ人間なのだから、そこから逃避することはできないのだとも改めて知らされる。もちろん逃げたくなる気持も分かるけれど・・・。むしろそれが“北尾トロ”という名前を持ったことでできたことが、逆にうらやましくも感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:男の隠れ家を持ってみた
著者:北尾 トロ
ISBN:9784101282534 (4101282536)
出版社:新潮社 (2008-06-01出版) 新潮文庫
版型:171p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)

2008年06月23日

角田光代・岡崎武志著『古本道場』

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 この本単行本の時も気になっていた本であった。それが今回ポプラ社が文庫本を創刊することになり、第二弾としてこの本がラインアップされた。早速購入する。ポプラ社が文庫を創刊することに関しては、少々期待している。ポプラ社はいい本を資産としてもっているのだから、今風のネットで話題になっているものなど文庫化するより、もっているいい本をどどんどん文庫化して欲しいなと思う。

 さて、この本は師匠役の岡崎武志さんが弟子として作家の角田光代さんに場所を指定して、特色のある古本屋さんで指令の通り本を探させる。そして角田さんが古本屋さんで感じた疑問の答えや購入してきた本の解説を岡崎さんがしてくれるというもの。
 訪ねる古本屋さんは最初は神保町で、次に代官山・渋谷、さらに東京駅、銀座、早稲田、青山・田園調布、西荻窪、鎌倉、そして再び神保町に戻る。
 私はまずはビジネス街の東京駅地下街に古本屋さんがあること自体驚いた。それと地べたの高い銀座にも古本屋さんがあることも。 そういう町で古本屋巡りするにあたり、岡崎さんは「最短距離を、迷わず行きつくことが要求されるのはビジネスの世界。古本屋巡りは元来、資本主義の原理とも経済効率とも無縁だからな。見知った町を迷宮に変えてしまう。これこそが古本の力なり」といい、お店を探すのに迷うことも古本屋巡りの醍醐味の一つであると教える。
 角田さんの古本に寄せる文章もいい。まずは古本屋さんの百円均一の棚について書かれたものから。「百円棚は、やっぱり『用無し』本が圧倒的に多いのだ。とうに文庫になった単行本とかさ。時代に置いていかれた本というか、あるいは時代には切実に求められていたのだが、それ故に、時代が変わるとまったく用無しになってしまうもの。百円棚にあるのはそういうものだ」と書く。だから百円均一の棚にある本は「時代の置きみやげ」、「だれかの成長の軌跡」だというのはうまい言い方だな感じた。
 あるいは店内にある本から「そうなのだ、店内を歩いていると、だれかの生活に触れているような錯覚を抱く。この膨大な本をそれぞれ所有していた人たちの、本を読むという、ゆたかな時間の切れ端が、そこここにちりばめられているみたいだ」と表現する。
 あるいは古本屋さんの店内を「高田馬場に向かいながら、今日一日見せていただいたお店の前を通りすぎる。どこも戸を開け放ち、現実と微妙にずれた静寂の時間が、その向こうに広がっている」と表現する。

 そうなのだ。古本屋さんを巡って歩くときいつも感じるのは、せわしい日常を忘れさせてくれ、ふと立ち止まって、昔読んだ本のことを思い出させてくれるし、あるいは好きな作家の知らなかった本を教えてくれることだ。だから、読んだ本でも、もう一度読んでみようかなと思ったり、古い単行本そのものに、新しい発見をして、驚いたりする。それが楽しいのだ。
 また角田さんが書かれているように、ここにある本は以前の持ち主の切れ端でもあるし、あるいは時代の証言者でもある。だから新刊とは違う付加価値を、好むと好まざるに関わらず、もっている。それを探るのも楽しい。それを感じるだけで、自分の豊かな時間を過ごせるような気がするのである。私は何年か古本屋巡りをするに当たり、そうした雰囲気を味わってきた。それがたまらなく幸せ気分であった。だから角田さんがこのように言うのがうなずけちゃうのだ。

 角田さんが早稲田の古本屋さんで、「なんだなんだ、この感じ・・・。しかしなんだかわからない。奇妙な胸騒ぎを抑えつつ棚に目を這わせると、あああっ!すごいものを見つけてしまった」と開高健さんのサイン本を見つける。値段が2,500円だったという。これを読んだとき、えっ!いいなぁ!と素直にうらやましく思った。こういうこともあるんですね。師匠の岡崎さんも「やられたな」と嫉妬したくらいだ。岡崎さんも開高さんのサイン本はもっていないらしい。もちろん私もだが・・・。
 その開高さんの古い本、たとえば芥川賞受賞作品の『裸の王様』は“文藝春秋新社”から出版されている。私はこの“文藝春秋新社”って何だろうとかねがね思っていた。
 たとえば現在“河出書房新社”という出版社がある。この出版社は河出書房が倒産して、再度立ち上げたので“河出書房新社”と名乗って、現在に至っている。ところが文藝春秋は現在“文藝春秋新社”ではなくて、“文藝春秋”である。どういう経緯があるのだろうか?角田さんもこのことを疑問に思っていて、それを岡崎さんが答えてくれている。それを読んで長年の疑問が解けたので、書き置いておこうと思う。
 『文藝春秋』は当初菊池寛が私費を投じて創刊した雑誌であった。社名は“文藝春秋社”である。ところが戦後出版および用紙割り当ての実権を握っていたのはGHQで、雑誌が出せなくなってしまった。昭和二十一年、四,五月合併号の発行をもって文藝春秋社は解散する。しかし佐々木茂索を社長に、雑誌『文藝春秋』を引き継いで発行される。その際社名を“文藝春秋新社”とした。この社名は昭和四十一年四月号から社名変更として“文藝春秋”になるまで続いた。だから昭和二十一年から約二十年間に刊行された出版物に“文藝春秋新社”発行と書かれている。ということらしい。なるほどね。

 こうして古本屋さんの本を読んでいると、まだ行っていない古本屋さん、特に中央線沿線に興味が行く。時間があれば行きたいものだ。


評価
★★★


書誌
書名:古本道場
著者:角田 光代・岡崎 武志
ISBN:9784591103494 (4591103498)
出版社:ポプラ社 (2008-06-05出版) ポプラ文庫
版型:279p 15cm(A6)
販売価:588円(税込) (本体価:560円)

2008年06月20日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』下

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 どうも感激がわかない。出版された当時はきっとワクワク、ハラハラしながら読んだに違いなのに、今回読み直してみると、それほどでもない。

 1990年8月にイラクがクエートに武力侵攻し、国連の度重なる撤退勧告を無視したため、翌1月17日にアメリカを中心とする多国籍軍によるイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )が始まった。この本はいわゆる“湾岸戦争”を舞台にした話である。
 もともとイスラエルの情報機関モサドが抱えていた内部通報者で、イラクの幹部である“ジェリコ”から、湾岸戦争でイラクが何を考え、どんな兵器をもっているかという情報を今度はイギリス、アメリカの情報機関が彼から得ようとする。その情報の直接の受け渡しするのがマイク・マーティンである。マイクは最初クエートに入った経緯は先に書いた通りで、その後バクダッドに潜入する。ジェリコは多国籍軍に貴重な情報をもたらしてくれるが、その情報の中にフセインが核兵器を所有して、発射準備をしているという情報が入った。それがフセインのとっておきの兵器“神の拳”であった。
 詳しいことはわからないが、核兵器を自国で作る場合、濃縮ウランを作る必要性があり、それには時間がかかる。多国籍軍は計算からイランが核兵器を持てるわけがないと推定していたが、それが可能であるとわかると、空爆後、歩兵を投入すれば、甚大な被害が及ぶ。マーチンらは核弾頭を積んだロケット基地の正確な位置を知らせるため、一度バクダッドを脱出した後、再度イランに入る。

 この本は今読むと、明らかに失敗作であろう。というのもイランはその後大量破壊兵器である核兵器も生物兵器も所有していないことが明らかになったからだ。
 ここにフォーサイスの現代の紛争地域を舞台にした小説そのものが、ただ単に情報戦のすごさや兵器のすごさを描くだけになってしまっている不満がある。確かに当時としてはタイムリーで、新鮮味もあっただろうが、結局こうして時間が経って読み返してみると、古びたエンターテイメントとしてしか楽しめない。正直な話、読み返すに耐えないものになってしまっている。風化してしまっているように思えてならないのだ。
 最初からフォーサイスの作品はこんな危ない要素を含んだ作品ばかりだったのだろうか?違うと思う。少なくとも初期の三部作はそうではなかった。少なくとも歴史というものに濾過された事実を駆使して、描かれた作品は今でも読み応えがあると思うのだ。歴然たる事実の重みとでもいうものが、ものを言うものだから、読んでいても読み応えがある。
 今の時代を描くエンターテイメントを要求されると、こういう結果にならざるを得ないのかもしれない。トム・クランシーが兵器のすごさばかりを描くことで、一時話題になって、もてはやされたけれど、いつか結局それだけじゃないかということで、飽きられしまった。それとも一過性のものとして、命をかけるプロの仕事を楽しめばいいのだろうか?なんかフォーサイスもトム・クランシーと同じ道を歩みつつあるんじゃないのかなと心配してしまう。


評価
★★


書誌
書名:神の拳〈下〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912205 (4047912204)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:425p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2008年06月16日

フレデリク・フォ-サイス著『神の拳』上

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 急遽忘れてしまったフォーサイスのこの本を読むことにした。まぁ、14年前に読んだ本を、主人公を忘れたということで、慌てて読む必要もないとは思うのだけれど、気になるので読むことにしたわけだ。
 今回も詳しいことは下巻を読んでから書きたいと思うのだけれど、一つだけ書きたい。
 主人公のマイク・マーティンには学者である弟がいる。名前はテリー・マーティンという。テリーは中東の学者で、アメリカやイギリスの情報機関のオブザーバー的存在で、中東で何かあると、それらの情報機関から意見を求められる。先に読んだ『アフガンの男』でも、アフガンでアルカイダが9.11以降の大規模なテロが行われる可能性が出てきて、アフガニスタンでの情報が欲しいということで、情報機関の人間を忍び込ませたいが、適当な人間がいないかと意見を求められ、兄のマイク・マーティンがいると言ってしまう。
 マーティン兄弟の母方の祖父はインドのダージリンにお茶の栽培のため入植したイギリス人であった。この祖父インド人の娘と恋に落ち結婚してしまった。当時イギリス人はインドの植民地支配者だったので、インドの娘と結婚することは驚天動地の騒ぎとなった。
 祖父テレンス・グランガーとインド人の娘の間に、一人娘のスーザンが生まれた。スーザンはイラク石油会社の経理をしていたナイジュエル・マーチンと結婚しバクダッドで暮らし、二人の男の子をもうけた。それがマイクとテリーである。マイクは母方の遺伝子を受け継いで、髪と眼は黒く、肌はオリーブ色で、当時のイギリス人コミュニティーの悪童から“アラブ人そっくりだ”と冷やかされた。
 マーティンはパブリックスクールを卒業した後、パラシュート部隊入隊し、その後厳しい訓練の後、SAS(空軍特殊任務連隊)に配属される。バクダッドで子供時代を過ごした関係で容姿もそうであるが、アラブ人並みにアラビア語がしゃべれた。
 だからテリー・マーティンはアフガンに潜入する人物として兄のマイク・マーティンが適材と言ったのだ。しかし危険きわまりない地域でスパイ活動するわけだから、見つかれば命はない。自分の兄を推薦したことをテリーはひどく後悔し涙する。
 ところがテリーのおしゃべりはこれが初めてではなく、実はこの本でも同じことをしているのだ。いやこの本が最初であった。イラクがクエートに侵攻したとき、クエートの情勢を知るために、スパイとして適している人物として、兄のマーチンを推薦しているのだ。そしてひどく後悔する。
 こんな危険なところに自分の一言で兄を派遣させてしまったことを後悔したら、普通二度と同じことはしないんじゃないのかなぁと思うのだが、どうだろう?それをいくらそそのかされたとはいえ、また自分の兄の名前を出しちゃうなんて、一体テリー・マーティンという人物はどういう神経をしているのか、正直呆れかえるばかりであった。
 それともマイク・マーティンを再び『アフガンの男』で使うためには、フォーサイスとしては同じ手を使うしかなかったのだろうか?それにしてもちょっと安易すぎないか?と思った次第だ。


書誌
書名:神の拳〈上〉
著者:フレデリック・フォーサイス・篠原 慎 訳
ISBN:9784047912199 (4047912190)
出版社:角川書店 (1994-06-01出版)
版型:414p 19cm(B6)
販売価:入手不可 文庫ならありそうです。

2008年06月10日

フレデリク・フォ-サイス著『アフガンの男』下

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 おいおい、これでおしまいかよ。ここまで盛り上げておきながら、この結末はないんじゃないの?しかし何となくこうなるんじゃないのかなあと感じていた。アルカイダが9.11以降大規模なテロを計画し、実行する。そしてそれがどんなテロなのか、アメリカやイギリスの情報局が探りを入れ、阻止しようとするのがこの本の話なのだが、そのテロに使われたのが船であるところに、話の面白みに限界があるように思える。
 だって、テロリストが船に乗ってしまえば、そこに潜入したSASのマイク・マーティンには、そのテロがどんなものなのか伝える手段がないし、阻止するにもマイク自身がするしかない。なぜなら外は大海原なのだし、船の中には自分以外テロリストしかいないのだから、必然的にそうならざるを得ない。だからテロが進み始めると、話は行き詰まってくる。ということは読む側にとって話が見えてしまうし、実際その通り話が終わる。
 しかも、実際のテロが進行する場面は下巻の後半の後半で、もうすぐ終わっちゃうよと心配したくなるところからで、ぎりぎりまでクライマックスがこない。そしてそのクライマックスも“これだけ?”と言いたくなるくらい。
 まぁ、結果は尻つぼみだったけれど、その過程は充分楽しめたので、“よし”とするしかないかと思うことにした。

 フォーサイスはいつもそうなのだが、実際あった事実と、今進行しつつある現実の中に物語の登場人物を組み込み、しかも何の不自然さもなく、いつの間にかその事実や現実に登場人物がいたようしてしまう。だから過去にあった、あるいは現在進行しつつある戦争や紛争の中で、リアルに行動しているように感じさせる。それはフォーサイスが膨大な情報を駆使しているため、当然あってもおかしくない状況をうまく生み出すからだろう。
 たとえば主人公であるマイク・マーティンがアフガニスタンに潜入するとき雇った地元のガイドのイズマート・ハーン(後にタリバン戦士となる)が当時のソ連軍のヘリに銃撃され、イズマート・ハーンが足に大けがをする。何とかとある洞窟にたどり着く。その洞窟内部には兵舎、モスク、図書館、厨房、商店、外科病院まで設備されていた。イズマート・ハーンはそこで手術を受けた。手術後病室に入ってきた男がイズマート・ハーンに「年若いアフガンの闘志の気分はどうかね?」尋ねる。その男はオサマ・ビン・ラディンで、手術をしたのが、アルカイダのナンバーツーのアイマン・アル・ザワヒリ医師であった。今世界で最も危険な人物たちが、こうしてさりげなく登場するのである。(後にこのことがイズマート・ハーンの勲章となり、彼に扮したマイク・マーティンがアルカイダに潜入できるきっかけとなる)
 私はアフガニスタンの政治状況についてまったく疎いのだが、この本を読んで、ちょっと勉強になったこともある。アフガニスタンからソ連が撤退した後、何千人もの若いアフガン人は学業を終えるためにパキスタンにある神学校(マサド)に戻っていった。そこでワッハーブ派による洗脳を受けた。ワッハーブ派は極めて厳格なイスラム原理主義に基づく宗派であった。現在もサウジアラビアの国教であり、オサマ・ビン・ラディンもその信徒であった。
 アフガニスタンの政局は不安定で、中央政権が倒れてしまった後、軍は一番お金を払ってくれる地元の軍閥に身売りしていく。軍の無法状態が続いた。カンダハルの郊外で村の娘二人が連れ去られ、輪姦された。村の宗教指導者は報復のため立ち上がり、基地に乗り込み、兵士達を殴り倒し、司令官を戦車の砲身で吊し首のした。この指導者がハンマド・オアマール、いわゆるオマール師である。彼は地方の英雄となった。彼の下に一万二千人もの男達が集まり、彼が巻いた黒いターバンを自分たちまねて巻いた。自ら弟子と称した。パシュート語では弟子をタリブといい、その複数形がタリバンである。彼らはどんどん巨大になり、カンダハルに代替政府樹立する。タリバン政権はイスラムの価値観に基づいたアフガニスタンの復興を目指したが、イスラムの名のもとに国民に女子教育禁止など極端な人権侵害を行ったため国際的に孤立した。さらにアメリカ合衆国に対するテロ行為の黒幕と目されていたサウジアラビア人オサマ・ビン・ラディンを客人として迎え入れてかくまったことから、アメリカと激しく対立する。
 オサマ・ビン・ラディンは9.11の首謀者としてみなされ、タリバンはアメリカにオサマ・ビン・ラディンの身柄の引渡しを要求されるが、オマールはこれを拒否した。このためターリバーンは米軍の攻撃対象とされ、米軍と北部同盟の攻撃により2001年12月までに政権は崩壊した。

 この本は最後に欲求不満がのこるけれど、フォーサイスがストリーテラーとしての醍醐味は随所に健在だし、このようにちょっと勉強になることもあったので、読んでよかった。
 それはそうと、この本の主人公マイク・マーティンはフォーサイスの前の本『神の拳』にも登場していたことを解説(いつも解説は訳者の篠原さんが書かれて、本の裏話やフォーサイスの近況などを教えてくれるのだけれど、今回は書かれていない)を読んで知り、愕然とする。フォーサイスファンとしては当然覚えていていい名前であったはずなのに、まったく記憶に残っていなかった。
 『神の拳』は確か湾岸戦争を舞台にして、サダム・フセインの大統領親衛隊との戦いを描いたものだったと思うのだが(これもあやふやなので自信がない)、まさかこの本の主人公がマイク・マーティンだとは思わなかった。この本が書かれたのは1994年だというから、もう14年前に読んだものだ。だから忘れても仕方がないけれど、あわてて本この本を取りだし、再度読むことにした。


評価
★★★


書誌
書名:アフガンの男 下
著者:フレデリク・フォ-サイス・篠原慎訳
ISBN:9784047915596 (4047915599)
出版社:角川書店 (角川グル-プパブリッ) 2008/05出版
版型:269p 20cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年06月07日

フレデリク・フォ-サイス著『アフガンの男』上

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 久しぶりのフォーサイスの新刊、やっぱり面白いな。ぞくぞくしながら読み進む。あっという間に上巻を読み終える。詳しいことは下巻を読んでから・・・。


書誌
書名:アフガンの男 上
著者:フレデリク・フォ-サイス・篠原慎訳
ISBN:9784047915589 (4047915580)
出版社:角川書店 (角川グル-プパブリッ) 2008/05出版
版型:255p 20cm(B6)
販売価:1,785円(税込) (本体価:1,700円)

2008年06月05日

開高健著『一言半句の戦場』

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 本当に久しぶりに開高健さんの文章にふれる。開高さんの死後、追悼の意味も込めて、さまざまな本が出版され、どこから探してきたにかと思えるくらい、開高さんが書かれた文章を引っ張り出し、あるいは以前書かれたものを再度収録し直して、本が出版された。だからもう未収録の開高さんの文章などないだろうと思っていたら、まだこんだけあったのかと驚いた次第だ。そしてこの未収録の文章を集めたNPO法人の開高健「単行本未収録作品集成」編集委員会なるものがあること自体驚きであった。
 A5版の3段組で590ページもある本に少々たじろきながら読み始める。確かに分厚いけれど、各ページにイラスト、カットがちりばめてあるし、写真も数多く載っているので、ページの割には内容はそれほどでもない。こんなにイラストや写真はいらないんじゃないかと思えるし、トリス時代のコピーを二ページにわたり大きく掲載しているけれど、まぁ遊び心として許してもいいかと思うことにした。しかしあの「『人間』らしくやりたいナ トリスを飲んで『人間』らしくやりたいナ 『人間』なんだからナ」と名コピーを大きく掲載されると、なんか相田みつをみたいな感じがしないでもない。
 さて、今まで出版された本に未収録のものばかり集めたものだから、全体として統一感がないのは致し方ない。また対談などには同じフレーズが何度も出てくるけれど、それもご愛敬ということで読み進める。しかし大学時代よく開高さんの本を読んでいたので、やっぱり懐かしい。当時は何でも開高さんの書かれた文章や言葉を受け入れていたところがあったが、さすがこの歳になってくると、警句や膨大な語彙から選び抜かれた形容詞や比喩は多少鬱陶しく感じないでもない。けれど選びに選び抜かれた形容詞や比喩は今もさび付いていない。開高さんが「小説は形容詞から朽ちる、生物の死体が眼やはらわたから、もっとも美味なところからまっさきに腐りはじめるように」と言ったけれど、開高さんが選んだ形容詞は、この本では、今でも朽ちていない。

 この本は開高さんの追悼集にもなっており、後半開高さんと生前交友が深かった人の文章も載せている。その中で谷沢永一さんの文章は大変興味深かった。「開高健の強運」と称す文章なのだが、開高さんが成功したのは、その作家としての才能の他に、開高さんの強運にあったのではないかというものなのである。
 たとえば開高さんが世に出るきっかけとなった作品『パニック』は平野謙という当代きっての評論家が絶賛したことに始まる。平野謙は「そんじょそこらの利いた風な口をきく甘ちょろい評論家とは格が違う」。その平野が絶賛したのである。しかも『パニック』が「新日本文学」という雑誌に掲載されていたが、「新日本文学」は、予算的な都合で常に発行が遅れた。平野はその発行が遅れた「新日本文学」が届くまで待って、開高さんの作品を見出し、絶賛したのである。
 文芸記事は毎日と朝日が争っていた時代であったらしく、当時朝日の執筆者であった臼井吉見の面目は丸潰れになり、そこから感情がもつれ、開高さんの次の作品を酷評したらしい。
 芥川賞選考においても、開高さんは強運を発揮したという。当時開高さんは大江健三郎さんと芥川賞を争っていた。評価が拮抗していた。どちらか決められない状態であった。そこで病気欠席していた宇野浩二に電話で意見を聞いた。編集者はなかなか結果が決まらず焦っていた。宇野浩二の口から「開高」という名前が出た時点で、すぐ電話を切った。芥川賞は開高さんと決まった。
 ところが谷沢さんが宇野浩二の性格からして、先に結論を言うタイプじゃないはずだと推論する。宇野浩二は「ううん、開高も良えけど、そやなあ、やはり大江やろうか」と言おうとしていたんじゃないか。それを編集者が焦っていたために、最初に開高さんの名前が出た時点で電話を切ってしまった。これで開高さんが芥川賞を受賞することになったのではないかというのである。これを読んだとき、へえ~そうなんだと思った。
 芥川賞受賞後次の作品を主催者である文藝春秋の文芸誌に発表するのが慣例となっていたが、開高さんは強度のスランプに陥り、一作も作品が描けない状態であった。開高さんはその前に講談社の文芸誌に発表する予定であった作品を横流し、発表した。当然講談社側は激怒する。以後、開高さんはきついお仕置きを科す。「開高は講談社から完全に干され続ける」と谷沢さんは書く。
 開高さんと講談社が仲が悪いというのは有名な話で、その原因がこれにあることは知っていた。私の知っている限り、講談社から開高さんの作品は『饒舌の思想』というエッセイ集しか出ていない。少なくとも私の蔵書で講談社から出ている開高さんの本はこれしかない。
 しかし他社は開高さんを見放さなかった。新潮社が「現代文学全集」の編集をするに当たり、開高さんの作品はそこにはなかった。ところが山崎豊子さんの盗作冤罪事件が起こり、急遽開高さん作品集とすり替えられたという。週刊朝日でもルポの依頼が来る。また当時潮出版にいた背戸逸夫さんに惚れられ、多くの“背戸本”と呼ばれるエッセイ集や対談集が出版される。私は何で開高さんの本が創価学会系の出版社から多く出版されるのか不思議であったが、こうした事情があったのかと知らされる。
 この後集英社の「週刊プレイボーイ」に身の上相談のコーナーを担当したり、そこから集英社のあの『オーパ!』シリーズが生まれる。
 要するに谷沢さんが言うように「彼が何らかの難局に当面するたびごとに、決定的な打開の道を与えられ、終生の理解者および庇護者が現れた」強運に恵まれていた。

 開高さんは小説家としては寡作な方だと思うが、一方で評論、ルポ、エッセイ、あるいは釣りの紀行文はよく書かれた。だから私もそっちんほうの結構付き合ってきた。もちろん小説も読んできたが・・・。
 開高さんのこれらの文章を読むといつも思うのだが、そこに書かれた文章には奥深さがあり、それを書かれた裏付けが途方もなく膨大な書物によるものだと知らされる。そしてそれを読んでみたいという気持になり、私の読書に幅が広がっていった。私のエッセイ好きも多分ここから始まっているのではないかと思っている。名エッセイは読んでいて楽しいのだ。そこに紹介された本は結構読んでいる。またそれも楽しかった。今度はどんな本を紹介してくれるだろうかと、ワクワクしながら開高さんの本を読んできた。
 いつの間にか私は開高さんの書かれるものから離れなくなった。たまたま本屋でアルバイトをしていたものだから、次から次へと開高さんの本を注文していった。ところが注文しても品切れ、あるいは絶版というゴム印の押された注文書が多く帰ってくるようになり、いつしか私は古本屋通いをはじめ、手に入らなかった開高さんの本を集め始めた。以来コレクターとして開高さんの著作が手元に数多く残ることとなった。苦労して手に入れた本だけに、私の宝物といっていい。もちろん読む楽しみも充分味わってきた。
 それが開高さんが亡くなってからはなくなってしまった。当然新刊もないから、楽しみを奪われた子供のように、つまらなくなり、開高さんから遠ざかってしまった。
 これが本当に最後の開高健の本なら、これで私のコレクターは終わることになる。後は手元にある本をじっくり読むことになるだけだ。古本で集めた本を再び読むか、それともゆっくり味わいたいと思って買い揃えた全集をひもとくか、とにかくもう一度腰を据えて読んでみたくなった。


評価
★★★★


書誌
書名:一言半句の戦場―もっと、書いた!もっと、しゃべった!
著者:開高 健・開高健「単行本未収録作品集成」編集委員会編
ISBN:9784087812770 (4087812774)
出版社:集英社 (2008-05-06出版)
版型:590p 21cm(A5)
販売価:3,360円(税込) (本体価:3,200円)