2008年07月31日

村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』

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 久しぶり村上春樹さんの本を読む。私は以前せっせと村上さん本を読んでいたのだが、どういう訳かいつの間にか敬遠し始めるようになった。別に嫌いになった訳じゃないのだが、何となく読みたいという気分になれずにいたのだ。でも、自分の本棚を眺めているうちに読んでみようかなという気分になり、まずこの本を手にした。

 私は村上さんの“個人主義”を貫く生き方が好きである。“個人主義”というと語弊があるかもしれない。何と言っていいのかうまい言葉が見つからないが、あえて言えば、自分のやりたいことのためには、余計な雑用を極力避けて、それに専念する生き方とでも言えばいいのだろうか。
 この本は村上さんが走ることが自分の性に合っていることから、それをやり続け、そこから学んだ生き方を語る。そして専業作家になってから、走ることをはじめ、50代になって身体の衰えを感じ、老いについても考える。
 まずは何故村上さんは走るのか?「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」とよく言われるらしい。村上さんは、そもそもそんな質問は、小説を書く行為が不健康な行為であって、作家たるものは公序良俗から遠く離れ、できるだけ健全ならざる生活をすることで、作家は俗世と訣別し、芸術的価値を持つ純粋な何かに近接することができるといった通念から発せられたものだろうと認識する。その上で、「要するに芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕はそれを進んで認める。だからこそ作家(芸術家)の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣裳をまとう人々が少なくない。それも理解できる。というか、そのような姿勢を決して否定するものではない。
 しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなければならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなければならない。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?」と言う。だから走るのだと言う。
 その上で「僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったときに、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする」と言う。
 走ることと、小説家であることが、村上さんの中では何の矛盾なもなく、同一のレベルで併存しているのだ。でも走ることに確固たる結果を求めていない。走ること、あるいは走る過程に意味があるとする。村上さんはフル・マラソンやトライアスロンの苦しさをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端をその過程に見いだすことができ、生きることのクオリティーを、成績や数字や順位といった固定的なものではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くことができると言うのだ。
 これがこの本の結論である。そこには華々しい結果が待っているわけではない。村上さんが言うように『ロッキーのテーマ』はどこからも聞こえてこない。向かっていくべき夕日もどこにも見えない。けれど自分が好きで走るという行為そのものに生きる価値を見いだしているように思える。
 ところで村上さんがこうだから、だから走ることを他に勧めるかといえば、そんなことはしない。これはあくまでも村上さんのやり方なのだ。村上さんは次のように言う。「しかし人には向き不向きがある。フル・マラソンに向いている人もいれば、ゴルフに向いている人もいれば、賭けごとに向いている人もいる」と。
 ここから話は学校教育あり方や、自分の学生時代の話に及んでいく。「学校の体育の時間に、生徒全員に長距離を走らせている光景を目にするたびに、僕はいつも「気の毒になあ」と同情してしまう。走ろうという意欲がない人間に、あるいは体質的に向いていない人間に、頭ごなし長距離を走らせるのは意味のない拷問だ。無駄な犠牲者が出ないうちに、中学生や高校生に画一的に長距離を走らせるのはやめた方がいいですよと忠告したいんだけど、まあ、そんなことを僕ごときが言っても、きっと誰も耳を貸してはくれまい。学校とはそういうところだ。学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、『もっとも重要なことは学校では学べない』という真理である」と。
 これには異論はないわけでもないが、一つの真理はついている。村上さんは「小学校から大学にいたるまで、ごく一部を例外として、学校で強制的にやらされた勉強に、おおよそ興味が持てなかった。これはやらなくてはならないことだからと自分に言い聞かせて、ある程度のことはやってなんとか大学まで進んだけれど、勉学を面白いと思ったことはほとんど一度もなかった」と言い、「僕が勉強することに興味を覚えるようになったのは、所定の教育システムをなんとかやり過ごしたあと、いわゆる「社会人」になってからである。自分が興味を持つ領域のものごとを、自分のペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだとわかった」と言うのだ。

 一方で長いこと走り続けていると、いつの間にか自分の身体の変化に気がつく。
「(フル・マラソンは)今回はちょっと失敗したなというときでも、3時間40分台では走れた。ほとんど練習をしなくても、体調が多少悪くても、タイムが4時間を超えるようなことはまず考えられなかった。そういう時期が安定した台地のようにしばらく続いた。ところがそのうちに雲行きがおかしくなってきた。前と同じように練習していても、3時間40分台で走ることがだんだんつらくなり、1キロ5分半のペースになり、そしてついには4時間すれすれの線に近づいてきた。これはショックだった。いったいどうしたんだろう?それが年齢的なものだとは思いたくなかった。自分が肉体的に衰えつつあるという実感は、日常生活の上ではまだまったくなかったからだ。しかしどれだけ否定しようと、無視しようと、数字は一歩また一歩と後退していった」
 このように身体の衰えは確実に村上さんの身体にも忍び寄っていく。だから「若いときならたしかに『適当にやって』いても、なんとかフル・マラソンを乗り切れたかもしれない。自分を追い込むような練習をやらなくても、これまで貯めてきた体力での貯金だけで、そこそこのタイムは出せたかもしれない。しかし残念ながら僕はもう若くない。支払うべき代価を支払わなければ、それなりのものしか手にできない年齢にさしかかっているのだ」という考え方に至ることになる。
 そうなると残された人生の使い方にも考えが及び、「本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきちっりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう」、自分の人生の帳尻をどうしたらうまく合わせられるかを考えるようになる。
 この気持ちよくわかるんだな。特に最近私はそんなことをよく考えるようになってきた。
 体力も精神力もある日突然(そう急にだ!)減退する。ちょっと前なら難なくできたことができなくなってくる。昔時間なんて考えたことがなかったのに、今は残りの時間をふと考えるようになってきた。あと何年かと・・・。もちろん私はまだ時間はある方だろう。けれど20年あるかどうか?このことを考えるのは結構こたえる。できる限り自分がやりたいことを優先して考えていかないといけないような気がするのだ。この本を読んで改めてそんなことを思った次第だ。


評価
★★★


書誌
書名:走ることについて語るときに僕の語ること
著者:村上 春樹
ISBN:9784163695808 (416369580X)
出版社:文藝春秋 (2007-10-15出版)
版型:241p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年07月27日

阿刀田高著『私のギリシャ神話』

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 ギリシア神話の仕上げとしてこの本を読む。今回もこの本を読んで知ったギリシア神話の知識を残したいので、自分備忘録として書くことにする。そしてヨーロッパ絵画や彫刻にギリシア神話をテーマにした作品がたくさんあるようで、この本を元にして、ネットで転がっているその絵や彫刻探して、一緒にしてみた。そうすれば関連づけて忘れないんじゃないかなと思ったのである。

 ギリシア神話といえばやっぱりゼウスであろう。ゼウスの生い立ちは以前にも書いたけれど、重複するがやはり書いておく。
 

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   アニバール・カラッチ「ユノ(ヘラ)とジュピター(ゼウス)」

 ゼウスの父クロノスは姉であるレイアを妻にしていたが、「おまえの子はおまえを滅ぼす」という予言を受けたので、自分の子であるヘスティア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを飲み込んでしまう。レイアは今度生まれた子を山の妖精に預けた。それがゼウスである。ゼウスは無事に成長し、父親に吐剤を飲まし、彼らを助け出す。その結果ゼウスが地上を含む天界、ポセイドンは海を、ハデスが冥界を統治することになった。ゼウスは姉のヘラを妻にし、ヘラとの間に軍神アレス、鍛冶の神ヘパイトスが生まれる。またゼウスが激しい頭痛で苦しんで「頼む。頭をかち割ってくれ」といったとき、頭を割ったのはヘパイトスの斧であった。そこから生まれたのが知恵と勝利の女神で、ギリシア最大の都市アテネの守護神であるアテネである。
 ゼウスの姉ヘスティアは竈の女神。またゼウスの祖父ウラノスの精子から生まれたのがアフロディテであり、これは美の女神。アフロディテはヘパイトスと交わってエロスを生んだ。エロス、英語名でキューピッドで、この坊やが放つ矢で胸を射抜かれると恋心に歯止めがきかなくなる。


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   ボティチェリ「ビーナスの誕生」

 ハデスの妻はペルセポで、母は豊作の女神デメテルで、ゼウスの計らいを得て、ハデスが略奪してきた。デメテルは一人娘を奪われた悲しみのあまり、自分の仕事をおざなりにしてしまい、お陰で地上の大地の作物は枯れ果て飢饉が起こり始める。こうなるとゼウスも困惑し、ハデスにかけあいに行き、一年の三分の二は里帰りしてよくなり、三分の一は冥界で過ごすことになった。ペルセポが戻って来たときは母のデメテルは歓喜に浸り、去った後は悲しみに沈む。地上に作物の実る季節と、実のならい季節がこのためである。


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   ジャン・ロレンツオ・ベルニーニ「ペルセポネの略奪」


 ゼウスのアバンチュールをつづる。
 ゼウスは「いい女、いないかな」と物色していたとき、レトという美女を口説き落とす。レトは懐妊したがヘラの怒りを買い、何人もレトのために子どもを生む土地を与えてはならないとお触れを出した。レトは困り、それを憐れんだポセイドンがレトをエーゲ海の浮島ディロスに誘った。ここは浮島なので“土地”はない。だからヘラの命令に背かない。レトはここで、狩猟と豊饒の女神アルテミスと芸術と医術の神アポロン産み落とす。
 そのアポロンのエピソードとしてはダプネとの恋がある。
 ある時アポロンはエロスに出会い、エロスの弓をからかった。エロスは二本の矢を放った。金の矢はアポロンの胸に、鉛の矢はダプネの胸に刺さる。金の矢で射られると恋の虜となる。逆に鉛の矢で射られると相手が嫌いになる。アポロンはダプネに激しい恋情を抱くが、ダプネ逃げ出す。ダプネは父親に「たとえどんな姿に変えても、いつまでも清らかな体でいたい」という願いを聞いた。ダプネの腕は指先から枝に変わり葉に変わり、一本木に化した。ダプネは月桂樹になった。アポロンは三日三晩泣き続け、月桂樹の枝を切って、輪を作って頭に飾った。これがオリンピックの勝者の頭を飾る月桂樹の由来である。


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   ジャン・ロレンツオ・ベルニーニ「アポロ と ダフネ」

 さらにゼウスは女神マイアと交わってヘルメスが生まれる。ヘルメスはゼウスの秘書的存在であり、商業の神であり、泥棒の守護神。
 ゼウスのアバンチュールはさらに続き、フェニキアの王女エウロペに魅せられ、ゼウスは美しい雄牛に姿を変えてエウロペに近づき、クレタ島まで連れ込んで交わる。生まれた子がクレタのミノス王である。ちなみにエウロペは“ヨーロッパ”の語源。


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   ティツィアーノ「エウロペの略奪」

 そのミノス王ついては、王位継承のときポセイドンに「私を王位につけてくれたら、立派な雄牛を生け贄に捧げよう」と約束する。しかし自分が王位についてしまうと立派な雄牛あげるのが惜しくなり、惨めな牛を捧げた。当然ポセイドンは怒り、ミノス王の王妃パシパエの心狂わせ、立派な雄牛に恋情を抱くようにしてしまう。王妃は雄牛と交わり、頭が牛、体が人間の男の半人半牛の子を産む。すなわちミノタウロスである。ミノス王は建築家のダイダロスに複雑な迷路を持つ迷宮ラビュリントスを造らせ、ミノタウロスを閉じこめる。ミノタウロスはここで成長し人間を餌とする。
 折しもクレタとアテネの間で戦争があり、アテネが負け、講和の条件として、毎年ミノタウロスの餌として七人の青年と七人娘差し出すことになった。アテネもこのままではたまらない。アテネの王子テセウスは自らを人身御供に加えてくれるよう頼み込む。クレタに送り込まれたテセウスはその日のうちにミノス王の王女アリアドネの心つかむ。アリアドネはダイダロスに迷宮の出方を教わるが、ダイダロスはその設計図を焼いてしまったので、わからない。けれど、糸玉の一端を出入口に結んでおいてそれをたぐっていけばいいと教わる。
 何とかミノタウロスを退治して、テセウスはアリアドネとクレタ島から逃げる。ミノス王はアリアドネが手助けしたことを怒ったが、アリアドネに知恵を与えたとして、ダイダロスとその息子イカロスを迷宮に閉じこめた。この迷宮から脱出するには鳥のように空を飛ぶのがいいと、二台の飛行機を造って脱出したが、イカロスはダイダロスの注意も聞かず、どんどん高く上っていき、太陽に近づいてしまう。そのため接着剤として使っていた蝋が溶けてしまい、イカロスは墜落死する。ダイダロスの方は何とかシチリアに逃れたという。
 次にゼウスはアルゴス王の一人娘ダナエに近づく。ダナエは「王の子孫が王を滅ぼします」という神託により、男が近づかないように閉じこめられていた。ある日黄金の雨に化けたゼウスが近づき、「なんてきれいな雨」とダナエが窓を開け、さっさと交わる。生まれた子がギリシア神話屈指の英雄ペルセウスである。
 さらにさらに、スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれる。彼女の存在はトロイア戦争の原因ともなる。


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   ルーベンス『パリスの審判』

 その他、ヘラクレスとプロメテウスやパンドラのことも書いておく。
 ゼウスとレダの子であるペルセウスの息子に、エレクトリュオンがいて、そのエレクトリュオンの娘アルクメネがいた。アルクメネはアムビトリュオンと婚約をしていたがゼウスはそのアムビトリュオンに化けて、閨房に入る。それで生まれたのがあのヘラクレスである。

 プロメテウスとパンドラのことは以下の通り。
 ゼウスが人間界より火を隠すが、プロメテウスは再び神々の元から火を盗んで人間たちに与え、その利用方法教える。当然ゼウスはプロメテウスを怒る。ところがプロメテウスは「いいんですか、私はあなたの秘密を知っているんですから」と逆に脅しにかかる。するとゼウスは泥を練ってパンドラを造りプロメテウスのところへ放つ。彼女は神々からすべての贈り物を委ねられた。パンドラの“パン”はすべて、“ドラ”は贈り物という意味だそうだ。
 パンドラがプロメテウスを訪ねてきたときは留守にしており、弟のエビメテウスという弟がいた。エビメテウスはパンドラが気に入り妻とする。エビメテウスはパンドラが預かってきた贈り物である壺が気にかかる。パンドラが開けてみる?と言うと、疾病、戦争、貧困、嫉妬、飢餓、涜神、残虐、好色といったありとあらゆる悪が黒い煙となって飛び散った。慌てたパンドラは蓋を急いで閉めたが、時既に遅く、壺の中に一つだけ残っていた。それは“希望”であった。このため人間たちはどんな悪に苛まれても、希望だけは持てるようになっている。


評価
★★★


書誌
書名:私のギリシャ神話
著者:阿刀田 高
ISBN:9784140804902 (4140804904)
出版社:日本放送出版協会 (2000-01-25出版)
版型:253p 19cm(B6)
販売価:入手不可。集英社文庫であり

2008年07月24日

阿刀田高著『ギリシア神話を知っていますか』

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 続いて阿刀田さんのギリシア神話の本を読む。読んでいてギリシア神話の奥深さをひしひしと感じた。この本によるとギリシア神話は大きく分類すると次のようになるらしい。

1.オリンポスの神々の伝説
2.アルゴー丸遠征隊の伝説
3.英雄ヘラクレスの伝説
4.テーバイの伝説
5.トロイア戦争の伝説
 
 私がある程度親しみやすかったのは、やはり「トロイア戦争の伝説」であろう。だってそれまでその関係の阿刀田さんの本を読んできたのだから当然である。だからこの本でも「トロイア戦争の伝説」に出てきた神々の記述があれば、あああれだなと話の流れが読めて楽しかった。
 しかしトロイア戦争以外に出てくるギリシアの神々もたくさんいるわけで、話の内容は知らなくても名前や固有名詞は私たちの日常中でよく使われる言葉としてある。そのためそんな名前が出てくると、その由来はここから来ていたのかと納得する。阿刀田さんも「私はギリシア神話と聖書の二つを古典として持っているヨーロッパ文明の、奥行きの深さ、バラエティの華麗さを思わずにいられない。自国の文化を過小評価するつもりは私にはいささかもないけれど、民族の古典の中に寓意に富んだ人物、事件、思考を持っているという点では、やはり、彼の国の文化の中に一日の長を見ないわけにはいかない。私がギリシア神話に興味を抱く理由もそこにあるのだろう」と言う。確かに古典が、例えば言葉の由来や、絵画などのテーマとして使われているのも、それだけ普遍的な人間性がその古典の中にあるからだろう。だからそれを自分たちの文化として大切にしているような気がする。そんなことを考えると、一体日本はどうなっているんだと思わざるを得ない。自国の文化をあまりにも粗末に扱ってはいないだろうか?
 ただ残念なことはここにはたくさんの神様が出てくるものだから、なかなか頭の中に残らないことだ。だからこの後も阿刀田さんの書いたギリシア神話の本を読もうと思っている。

 さて、私は大神ゼウスの女好きが気にかかる。手当たり次第、美しい女性がいれば自分のものにしてしまい、子供を孕ませる。阿刀田さんによれば、「ギリシア神話の常識に従えば、神々の不貞は許されるべきものであり、その寵愛を受けることは、むしろ名誉に値することでもあった」らしいから、いい気なもんである。それでいてゼウスは妻であるヘラの眼をいつも気にしていて、浮気をしているところが面白い。ヘラがゼウスの浮気を怒るものだから、隠れて子供を産ませてしまったりするのである。このあたりはきわめて人間的で、キリスト教みたいに、神様がセックスして子供を作ったなんて言ってはまずいのというので、処女懐胎なんて言ってきたけれど、そんな不自然なことは一切言わないのがいい。
 ゼウスが浮気をして、自分の子供をたくさん作るにはそれなりの理由がある。それはギリシア神話そのものが、それ以前にあった土地土地の民話の神様を融合してできあがったものだから、神様がたくさん必要であったのだ。ゼウスを中心にしてまとめるには、どうしてもゼウス自ら子供を作って、それを以前にあった神様として振り分けた感じだそうだ。なるほどね。
 ところで、もう少しギリシア神話に詳しくなれば、絵などを見る目も変わるかななんて思っている。だってヨーロッパの絵画にはギリシア神話をテーマにした絵がかなりあるからだ。それを今まで、ただ美しい、きれいだということだけを基準に鑑賞していたけれど、そこに描かれたテーマを知ればもっと楽しめそうな気がするのである。


評価
★★★


書誌
書名:ギリシア神話を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255040 (4101255040)
出版社:新潮社 1984/06出版 新潮文庫
版型:241p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)

2008年07月22日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 休み前になると、この本を読もうと決めるのだが、どういう訳か、きちんと読めない。むしろ平日の時間がない方がきちんと本を読む。休みだと時間があるものだから、だらだら過ごして、気がついたら一日が終わっていたというパターンが多いのだ。結局緊張感の欠如がそうさせるのであろう。
 しかし今回は違った。三連休である。しかも連日真夏日が続いている。これは家にいて本を読む方がいいに決まっている。で、手にした本がこの本で、厚さといい、ちょうど三連休に読むにはもってこいの本だ。
 というわけでさっそく読み始める。面白い。やめられなくなってしまう。久しぶりに休みに本を読んだという充実感を味あわせてもらった。
 実はこの本以前にも手にしたのだが、なかなか先に進まない。そのため、他に読みたい本もあったものだから、後回しにしてしまった経緯がある。しかし今回は違った。話がよくわかるのである。先に読んだ『ホメロスを楽しむために』を読んでいたものだから、知識がちゃんとあるからだ。読んでいて、“ああ、ここはあそこのあった話だな”と察しがつくのがいい。
 話はアイネイアスを主人公にしたトロイア戦争とトロイア崩壊後、西に向かい、イタリアでローマ建国の素地を開くまでの話である。これだけでもトロイア、ギリシア、そしてローマと雄大な話である。そしてたくさんの英雄が活躍する。読んでいてワクワクしてくる。
 あとがきで阿刀田さんは、日本人が外国の歴史的ヒーローを小説化するのは珍しい。しかし今日日本は欧米化しているのだから、歴史小説も「何も宮本武蔵ばかりでなくてもよかろうに」とこの本は書かれたという。しかしこの本は「現代の日本人アイネイアスの物語」だとも言い切る。だからというわけじゃないけれど、トロイア、ギリシア、ローマの英雄譚であっても、確かに英雄たちの行動は迫力があって非日本人的ではあるけれど、その思考回路はきわめて日本人的である。だからストレートに英雄たちの気持が伝わってくる。例えば、アイネイアスがヘレネがトロイア崩壊後、メネラオスのもとに戻った(トロイア戦争がヘレネの略奪から始まり、トロイアが破れ、ヘレネが元の鞘に戻った)と聞いたとき、「あの戦争は何だったのか」と思うところは英雄らしくない。むしろ日本人がよく持つ感情のような気がする。もちろんそれもいいんだけどね。
 それでも日本の歴史小説は理屈や道理が通っていないと、受け入れがたい部分があるけれど、この話は「世間では、事実ではないけれど、皆で事実と認め合っていることがある」として、それでいいではないかとしているところが話を面白くしているような気がする。少なくとも私はそれを堪能した。だってお話だもの。
 そしてここでは人間のモラルが法や慣習より優先された社会が描かれる。
「古代社会では、信頼と報復が人間のモラルを強く規制していた。知己であることはの意味は重い。その分だけ裏切りは、最も忌むべき悪として憎まれ、報復も厳しい。普遍的な法制が存在しない以上、人間同士の結び付きは信頼するか否かに懸かっていた。アイネイアスたちが、ディロス島で歓迎された理由は(アイネイアスが差し出した金銀の効能とは別に)黒耳のルドンが浜長のアニウスと懇意であったからであり、更にまたアニウスの肝煎りでキドニアへ行くことは、同じ意味合いで安全を期待できる事情であった。『俺の知り合いだ。よろしく頼む』という言伝てには想像以上の価値があったのである」と西に向かう航海で各地の知り合いが、アイネイアスの安全を保障する。それは単に信頼できる知り合いだから当然である。ただそれだけなのだ。だからこそ裏切りは信義に反する訳だからそれは死を持って償わなければならない。この話に登場する英雄たちはすべてこの単純な、信用できるか否かの人間関係でつながっている。小賢しい屁理屈などまったくない。それがなんか心地よかった。

 しかしトロイの木馬は我々が知っているようにトロイアの城内に引き込んで欲しかったなぁと思う。ここでは、木馬(トロイアでは馬がトロイア人のシンボルだから)を生贄して燃やせと言う神託で、そのようにしている。結果地震が起きて、城砦の一部が崩れ、そこからギリシア人がなだれ込むという話になっている。これはトロイの木馬の伝説が、今考えればおかしいという理由だかららしいが、お話なのだから、やっぱり燃やすのではなく、ギリシア人が忍び込んだみ木馬をトロイア人自ら城内に引き込んで、その扉をヘレネが開ける方が面白いような気がするのだが、どうであろう?
 でも、知っているたくさんの英雄たちが活躍し、戦い、そして死んでいく。生き残った者はアイエネアスを中心にトロイアの再興を求め、イタリアに向かい、それがローマ建国の先駆けとなる話は雄大で、本当に面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062636582 (4062636581)
出版社:講談社 (1997-12-15出版) 講談社文庫
版型:697p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年07月17日

阿刀田高著『ホメロスを楽しむために』

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 ここのところ、シャンポリオンからシュリーマンと古代史に興味を持っちゃって、自分でもどうなっちゃっているんだと感じている。シュリーマンとくれば、ホメロスということになるので、ではホメロスはどんな人物で、どんな作品を残したんだと知りたくなった。かといって、『イリアス』や『オデュッセイア』はきっと読めないだろうなぁと思ったので、阿刀田さんのこの本を手にした訳だ。 とにかくやさしく解説してくれて、しかも面白い。
 基本的にこの『イリアス』や『オデュッセイア』がどういう話なのか私は知らなかったので、この本から知ったことを書く。まずは『イリアス』からである。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎていて、「これはまずいぞ」と思うところから始まる。ゼウスは人口を減らすにはどうすればいいかと考え、戦争を起こせば、人が多く死ぬからこれがいいと考える。周囲を見渡すと、折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。そこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。特にゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテが激しく争う。そこでこの三人(神)は誰がこの中で一番美しいか、トロイアの王家の第2子として生まれたパリスに決めてもらおうとする。もちろん誘惑付きでである。自分を選んでくれたら、ヘラは「世界の王者にしてあげよう」と言い、アテネは「すべての戦の勝利者にしてあげよう」と言う。アフロディテは「世界一の美女をあげよう」言って、判断を自分の方へと誘い込む。結局パリスはアフロディテを選んだ。この時点でトロイはアフロディテを味方にし、ヘラとアテネを敵に回すこととなった。
 パリスはこの時不吉なことは起こると言って、山の中に捨てられちゃって、羊飼いをやっていたが、何とか復帰した。父プリモアスの命を受け、スパルタへ赴く。そこには世界一の美女で名高い王妃ヘレネがいた。ヘレネは大神ゼウスと白鳥を愛でる王妃レダとの間に生まれた子であったが、とにかく求婚の申し出が多い。そこでヘレナの養い親は花婿の決定はヘレナに委ねるからそれに従って欲しいと言う。それに不服な奴は今回の花婿候補者が一致して制裁を加えると決める。そんなときパリスはアフロディテの計らいもあって、たちまちヘレネを見そめ、彼女を国外へ連れ出してしまった。スパルタの王メネラオスは当然これに怒った。メネラオスの兄は当時ギリシアきっての実力者であったミケイナ王アガメムノンであった。ここにアガメムノンを総大将にしてギリシアの王侯貴族や勇者がトロイに向けて船を出し、トロイア戦争の火ぶたが切られたのであった。
 
 ふむふむ、なるほどね。
 
 ところでトロイア戦争といえば、アキレウスの存在が気になる。アキレウスは何者かというと、先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせた経緯がある。

閑話休題
 ここで知ったオリンポスに住むギリシアの神々のことを備忘録として書いておきたい。まずは大神ゼウス。ゼウスの家系は父がクロノス。クロノスの父がウラノスで、代々息子が父親を斃して自分が支配者となった。そのためゼウスの父親クロノスは我が子に斃されるのを恐れて、妻レアが生む子どもたちを次々と飲み込んでしまったが、ゼウスだけはその難を逃れた。ゼウスは父親に薬酒を飲ませ、父親の体内に飲み込まれた兄弟姉妹を助け出す。助け出された兄弟姉妹たちは男神ポセイドンとハデス、女神はヘラ、デメテル、ヘスティアである。兄弟たちはクロノスを亡ぼし、ゼウス(ローマ神話ではユピテル。英語でジュピター)が天と地の支配者となり、ポセイドン(ローマ神話ではネプトゥヌス。英語でネプチュン)が海を、ハデス(ローマ神話ではプルトン。英語でプルート)冥界を支配することとなった。
 ゼウスは姉のヘラと結婚し、アレスとヘパイトスが生まれ、またゼウス頭の中からアテネが誕生する。さらに浮気者のゼウスはレトという女神を愛し、アポロンとアルテミスの双子が生まれた。さらにさらにゼウスはマイナという女神と交わってヘルメスが生まれる。そしてゼウスの祖父ウラノスの精液から生まれたのがアフロディテである。要するに男神は1.ゼウス、2.ポセイドン、3.アレス、4.ヘパイトス、5.アポロン、6.ヘルメス、女神は7.ヘラ、8.デメテル、9.ヘスティア、10.アテネ、11.アルテミス、12.アフロディテの十二神である。どうしてか知らないが、ハデスは通常この十二神に含まれないらしい。ハデスが冥界の支配者だからだろうか?

 話を元に戻して、アキレウスといえば“アキレス腱”という弱点が有名だけれど、それは次の理由でアキレス腱が弱点となった。母親のテティスはアキレウスを不死身にしようと思い、その効能がある冥府の川に幼いアキレウスをくるぶしを握って浸けた。当然くるぶしは霊験あらたかな霊水が触れないわけだ。ここが弱点となり、“アキレス腱”となった。
 そのアキレウスである。テティスを仕方なしに諦めたゼウスとポセイドンは二人はうまくやっているかなあと気にかける。この心理を阿刀田さんは「下世話な話をするならば、あなたの知りあいに、とてもすてきな娘がいた。しかし、あなたはしかるべき事情があって、彼女を妻にすることができない。そこで、知りあいのよい青年を彼女に紹介する。二人は結婚し、
ー幸福にやっているかなー
 とあなたは気にかけるようになる。一種の代償行為かな。彼女に子どもが生まれれば、わけもなくその子がかわいかったりする」と説明する。あははは!これはうまい言い方だ!とにかくアキレウスは神々の寵愛を受けていたわけだ。
 この本によると、アキレウスも最初アガメムノンと一緒にギリシア側で戦っていたようだ、トロイの近くにアポロンの神殿があり、ギリシア軍はこの町を攻め、戦利品として神官の娘を奪い取った。娘はアガメムノンの所有物となった。神官は娘を返して欲しいというアガメムノンに願い出たが、拒否されたので、アポロン祈ってギリシア軍を懲らしめて欲しい頼み込む。アポロンを敵に回すとまずいので、アキレウスが中心になって娘を返すことになったが、アガメムノンは自分だけ戦利品がないのはなにごとじゃと言うことで、アキレウスが戦利品として得た女ブリセイスを横取りしてしまう。アキレウスはブリセイスを妻のように可愛がっていたので怒り出す。アキレウスは、“もう俺は戦わない”と戦線離脱をしてしまう。
 もっともアガメムノンとアキレウスの不和はそれ以前にさかのぼって原因があるらしい。トロイを討とうとギリシア軍が立ち上がって船を出したとき、逆風で船が出陣できない。それは女神アルテミスの怒りのためであった。アガメムノンがアルテミスに不敬を犯したのである。アガメムノンはどうすれば女神の怒りが解けると占い師に尋ねると、アガメムノンの長女イピゲネイアを人身御供として捧げなさいと言われる。イピゲネイアはアキレウスの花嫁にするからと言われ故郷から呼び出されたのだ。アキレウスは自分がだしに使われたことで激怒した。これがアガメムノンとアキレウスの不和の最初の原因らしい。とにかく勇者アキレウスがいないギリシア側は戦況が悪化してくる。
 トロイヤ王プリアモスの長子ヘクトル。これがめちゃめちゃ強い。ばったばったとギリシア軍を斃していく。瀕死の重傷を負っても、アポロンの加護を受けて復活するし、そもそも大神ゼウスもちょこっとトロイヤの側についているものだから、ますますギリシア側は不利な状況になっていく。そこでアガメムノンは重臣たちを集めて作戦会議を開く。そこで重臣たちはアキレウスに贈り物をして、何とか気分を宥め、戦場に戻ってきてもらおうとする。アキレスのもとに大アイアスとオデュッセウスが使者として向かう。が、気分を損ねたアキレウスはなかなか戦場に戻ろうとはしない。そもそもアキレウスの運命は、トロイヤを攻めれば不朽の名誉を得るが、自分の命を失う。戦わず故郷に帰れば長生きできるとテティスから予言されていたのだ。
 しかし友人のパトロクスが討たれ、アキレウスは自分の命がなくなるのも顧みず、戦場に復帰する。そしてヘクトルとの一騎打ちに勝ち、パトロクスの仇を討つ。
 この後ヘクトルの亡骸を巡ってすったもんだあるのだが、トロイヤ王プリアモスがアキレウスに泣きついて何とかヘクトルの遺体を返してもらい、葬儀が行われた。ここで『イリアス』は終わる。

 あれ?

 トロイの木馬の話はどうなっているんだ?

 『イリアス』には以後何も書かれていないそうだ。実はホメロス以外の詩人がトロイヤ戦争やその周辺のことを唱っていて、そこにトロイの木馬の話があるらしい。その前にアキレウスの死について書いておく。アキレウスはアマゾネスの女王ペンテシレイアを殺し、エチオピアの王メムノンを斃し、周章狼狽するトロイヤ勢を追って城内に攻め込む。トロイヤの敗北が決定的と思われた時、アポロンが現れて、パリスの矢でアキレウスの踵を射抜き、その後胸を射され、アキレウスは死ぬ。アキレウスの死後アキレウスの武具を誰に与えるかでオデュッセウスと大アイアスとが争いになり、結局オデュッセウスに渡るが、それよりもアキレウスがいなくなったギリシア軍は戦果あげられず、もうやめようかという話になりつつあった。“これはまずい”ということで、アテネ女神がオデュッセウスに木馬の建造を吹き込み、木馬に隠れてトロイヤ城内に入ることを勧める。ギリシア軍は撤退を装い、トロイヤ側は木馬を城内に引き込んでしまった。木馬の中にはオデュッセウスらが忍び込んでいて、あの駆け落ちをしたヘレネの合図で木馬の蓋が開けられ、以後はご存じの通りである。
 なぜヘレネがオデュッセウスに協力したのか、この後の『オデュッセイア』に書かれている。これが笑っちゃうのだ。父オデュッセウスを探すために息子のテレマコスがスパルタを訪れた時、ヘレネに会う。その時ヘレネは次のように言う。

 「あのとき、私、ひどく後悔しておりましたのよ。女神アフロディテのせいで、心を迷わされ、故郷を捨て、非のうちどころない夫を忘れ、かわいい娘まで残してトロイアまで行ってしまったことが、くやしくてくやしくてたまらなかったわ。だから、オデュッセウスに協力してあげましたの」と。

 これに対して阿刀田さんの言い方が最高である。

「おい、おい、ヘレネの、この言い分をテレマコスがどう聞いたかともかく、われ等、後世の読者は釈然としないぞ。少なくとも私は、
 ーあんた、それを本気で言うの。絶世の美女ともなると、すごいもんだねー
 と考えてしまう」

 「『私も被害者なの。だから裏切ってやったわ』と言われたら、どうにもやりきれない。そもそもトロイア戦争はヘレネの出奔から始まったことではないか」と。

 まさしくその通りだ。ギリシアの神様もわがままで、勝手放題のことをやっているけれど、王や王妃もやりたい放題。言いたい放題だね。だから面白いといえば面白いのだけれど・・・。

 さて、トロイア戦争のことでこんなに長くなっちゃった。『オデュッセイア』のことが書けなくなった。『オデュッセイア』は十年かかったトロイア戦争後オデュッセウスが故郷に帰るまでの話である。
 故郷のイタキ島には妻のペレロペイアがいるが、オデュッセウスがなかなか帰ってこないので、もう死んでしまったのではないということで、ペレロペイアに言い寄る狼藉者がたくさんいた。オデュッセウスの館で好き勝手なことをし始める。女中に手を出したりもする。
 一方オデュッセウスは怪獣たちと戦ったり、冥府に行ったりして、やっとの思いで帰ってくれば、そんな状態であった。オデュッセウスは彼らを成敗してめでたしめでたしというところか・・・。

 長くなったついでというわけじゃないけれど、ちょっと思うところがある。それは歴史って“振り子”のようだなと思ったのである。どういうことかといえば、この本に書かれているギリシアの神様たちはきわめて人間くさいと感じたのだ。確かに阿刀田さんの解説がそう思わせるところがあるかもしれないが、それにしてもここに登場する神様たちは、時に人間と区別がつきにくい。ということは人間的と言ってもいいんじゃないかと思う。ギリシア彫刻や絵画などをがそれを如実に表しているような気がする。
 だから、ギリシア・ローマ時代が人間性を謳歌するように、振り子がそちらに大きく振れれば、その反動で、今度は中世のようにキリスト教にがちがちに縛られ、神を絶対的存在として崇め、人間の生活自体もストイックになっていく。そしてそっちの方向に振り子が大きく振れれば、今度は元に戻って、人間性の復活としてルネサンスや宗教改革が起こってくる。そんな流れを歴史に感じてしまった。案外人間の歴史というのは、その程度のものでしかなく、回り回って、振って振られて、今はトロイア戦争時代のように、大神ゼウスが人間が増えすぎて困ったなと思って、地球環境を悪くしたりして人類を減らしているんじゃないかなんて思ったりした。


評価
★★★★★


書誌
書名:ホメロスを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255248 (4101255245)
出版社:新潮社 (2000-11-01出版) 新潮文庫
版型:368p 15cm(A6)
販売価:579円(税込) (本体価:552円)

2008年07月15日

阿刀田高著『陽気なイエスタデイ』

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 なんだか知らないけれど、阿刀田さんのエッセイを読んでいると、気持が和らぐというか、ささくれだった気分が、おさまるような気がしてくる。でもさすがにこれだけエッセイを読み続けていると、目立って新しいことはない。以前読んだエッセイにも書かれていたことがここにも何度も登場する。そろそろ阿刀田さんのエッセイは卒業していいのかもしれないが、まだ数冊残っているので、これを読んでから、小説に入ろうかと考えている。
 で、目新しいことはここにはないのだけれど、蔵書のことについて書かれていたことが気になったので、そのことを書く。
 私は今自分の持っている本の整理をやっている。というより、雑本の処分といった方がいいかもしれない。先日も読んだ古い文庫本を中心に、もう絶対に読まないだろうなという本をブックオフに売り飛ばした。というより処分してもらったといった方がいいかもしれない。
 話は急に変わっちゃうのだけれど、先日朝日新聞に「図書館が本の処分場になっている」という記事が一面に載っていた。どういうことかというと、公立図書館が財政難のため貸し出し希望が多いベストセラー本も多数は購入できないので、市民から寄贈を募っているという。ところがそこに持ち込まれるのが、どうしようもない本ばかりで、廃棄するしかないものばかりだという。どうしてこういうことになるかというと「本を寄贈する人は本が好き。捨てることに罪悪感があるから、読まない本を図書館に持ってくる」とみる。中には亡くなった旦那さんの蔵書200冊以上の寄贈の申し出たがあったが、「専門的な教育本などが多く、図書館向きでなかった」ということで、引き取ったのは50冊だけだったというのもある。
 確か持っている本には愛着がどういう形であれあるから、むやみやたらに捨てられない。だったら図書館に寄贈して、誰かに読んでもらえれば有り難いなと思うのだろう。だけど図書館側が求めているのはベストセラー本で、それ以外はいらないという姿勢だから寄贈する本がたとえ貴重な本でも、捨てるしかない。こういう図書館の姿勢もどうかと思うけれど、市民が望んでいるのだから仕方がない。“公立で無料の貸本屋さん”化している所以であろう。
 ということで、私はブックオフで処分してもらう。だから引き取り金額などどうでもいい。そもそも私が自分の持っている本の整理を始めたのは、本の収納場所がなくなってきたことが大きいのだが、それよりも、私が死んだらこの本の処分をどうするかという問題を突きつけられたからだ。突きつけたのはかみさんである。確かにそうだと思う。ここにある本は私という所有者がいるから価値があるわけで、その人間がいなければ、ほとんど意味をなさない。そういう本しか置いていないからだ。阿刀田さんは父親から「おれが死んだら、この本が役立つぞ」といわれたけれど、父親の死後これらの本は役には立たなかった。古本屋に売っても居酒屋でちょっと飲む程度しかなかった。それなら父親が本に支払った金額を生命保険に回してくれた方がまだマシだった言い切る。「蔵書というものは、それを入手して保持した人の性格や趣味と深く関わっている」から、たとえ家人でも無用の長物になりかねない。それなら棚に入り切らなくなった本がある以上、今棚に収まっている本の中で、無用の本は少しでも自ら処分したほうがいいと思ったのだ。さすがに全部捨てることはできないけれど、自分が死んで本が処分されることを想定した場合、どう考えても一銭のお金にもならない本は、今の内に処分した方がいいと思ったのだ。多分私の本はかみさんか息子が処分することになるのだろうけど、その時「けっ!こんなつまらん本ばかり残しやがって」なんてあまり言われたくない。そんなことを考えながら本の整理を今やっている。それでも残った本はそれほど価値を生む本とは限らないから、結局無駄かもしれないがとも思うが・・・。それはそれで仕方がない。実際そんな本ばかり読んでいるんだからね。諦めてもらうしかないだろう。
 昔、読書家や作家、あるいはその道の学者さんなどの本棚や書斎を紹介した本があったが、それを見たとき“いいな!”と思ったものだ。こんなに本意囲まれ、それこそリクライニングチェアなどに座って本を読める環境がうらやましかった。またそこに写っている本にも箱入りの豪華全集などがあって、いつか自分もそんな本棚や書斎を持ちたいものだと思っていた。
 でも最近は、阿刀田さんがここで言うように、「おれはこんなたくさんの本に囲まれ、これを資料にしているんだ」という文筆家が陥りがちな儀式的、自己暗示的な蒐書は極力避けたいから、せっせと本を処分しているという姿勢が本当は正しい姿じゃないかと思うようになってきている。文筆家でなくても本を読む人の本棚には自己主張や自己満足がはびこり、あまりかっこいいもんじゃないななんて思うようになってきている。
 


評価
★★


書誌
書名:陽気なイエスタデイ
著者:阿刀田 高
ISBN:9784167278229 (4167278227)
出版社:文芸春秋 (2004-03-10出版) 文春文庫
版型:252p 15cm(A6)
販売価:539円(税込) (本体価:514円)

2008年07月12日

柳広司著『黄金の灰』

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 ネットでシュリーマンやトロイなど調べていたら、こんな本があることを偶然知り、面白そうと思い、さっそく読んでみた。
 読んでみて、全体で感じたことは、奇妙な推理小説だなということである。とにかく話にまとまりがなく、面白い展開になったと思ったら、明かされた推理はそのままにして、次に進んでしまい、じゃあこれはどうなるのだと思っていたら、それで話が終わってしまう。
 話はシュリーマンがトロイでプリアモスの財宝を発見したことから始まり、それが盗まれ、二人の人間が殺される。シュリーマンたちが盗まれた財宝を探しだし、二人の人間を殺した犯人を捜すことになる。その経過をシュリーマンの婦人ソフィアを通して語られる。まあ、史実の縛りがあるから結果の嘘は書けないだろうけど、結果としてシュリーマンがプリアモスの財宝を発見したことが揺るがなければ、その間一時的にその財宝が盗まれ、人が殺されても、事件が解決すれば、シュリーマンの手元に財宝が戻る訳だから、お話の世界は成り立つ。だからそれはそれでいい。
 問題は話の中に密室殺人あり、そのトリックを『モルグ街の殺人』からヒントを得たと言ってみたり、トルコの民族解放問題あり、キリスト教の神学問題あり、果てはフロイトの無意識の問題ありとなんでも知っていることを盛り込んじゃった感じで、話に脈絡がない。
 面白そうと思ったこともある。シュリーマンが地元のギムナジウムを退学して商人の徒弟になり、体調を崩し、首になり、南米に渡って仕事を探そうとしたとき、その船が難破した。シュリーマンはその自伝で「船は難破したが、死者はいなかった」と書いている。これに疑問をもったアメリカの旅行者トマス・ブラウンは、船が難破したのは12月11日の北海である。この時期、海水の温度は零度近くなるはずだから、そんなことはあり得ないという。そしてこの船にはシュリーマンとよく似ていた少年がもう一人乗っていた。ブラウンはここから今ここにいるシュリーマンは本物のシュリーマンじゃないのではないか。つまりこの難破事故で、本物のシュリーマンは死亡し、すり替わってもう一人の少年がシュリーマンとなったのではないかと。
 だからすり替わったシュリーマンは以後故郷に帰ろうとはしなかったし、初恋のミンナに結婚を申し込もうとした数日前にミンナが結婚していて、悲しみにくれたと言っているが、本当はミンナが結婚した事実を確かめてから、結婚を申し込もうとしたしたのではないか。そして幼い弟呼び戻したけれど、アメリカにいるルイスは呼び戻さなかった。それらすべてが、自分が本物のシュリーマンではないことがばれてしまうからそうしたんじゃないかというのである。
 この展開は「おお!」と思ったのだけれど、しかしこのルイスの推理は以後話に出てこない。だったら何でここでこんなことを持ち出したのか、作者の意図がよくわからない。しかもこれを使えば話は面白くなりそうなのに、何かもったいない感じがしてしまった。もっともこの推理を展開しちゃうと史実と食い違ってしまうから、それまでにしておいたのかもしれない。とにかく史実に縛られてしまい、せっかくいいアイデアがあるのに生かし切れずいるのは残念だ。
 それとここに出てくる人物のしぐさがどうもヨーロッパ人ぽくないのだ。たとえばシュリーマンがプリアモスの財宝を見つけ、それを遺跡現場から密かに持ち出したとき、ブラウンにどうしてそんなこそこそするのかと問われる場面。

「黄金が発掘された事実を、この土地の者や、ましてトルコの役人に知られたら、とても面倒なことになるのです。だから・・・」
「なるほど」ブラウンはぽんと額を打つとハインリッヒに向き直り、なお興奮さめやらぬ口調で尋ねた。「で、いつ見つかったのです?」

 ヨーロッパ人がポンと額を打つか?何か落語の長屋での会話で出てくるしぐさに似ていていないか。この後もう一度ブラウンは同じしぐさをする場面があるから、それは癖なのかもしれないが、何かおかしい。もうちょっとスマートやってほしいな。それにいろいろ持ち出して、話を複雑にしても、すぐ犯人の見当がついちゃったしね。これは失敗作だな。それにこの本の解説も何を言いたいのかよくわからなかった。


評価


書誌
書名:黄金の灰
著者:柳 広司
ISBN:9784488463021 (4488463029)
出版社:東京創元社 (2006-11-30出版) 創元推理文庫
版型:390p 15cm(A6)
販売価:780円(税込) (本体価:743円)

2008年07月08日

阿刀田高著『殺し文句の研究』

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 例によって、書名がこの本全体を意味しない。さまざまな雑感集である。
 阿刀田さんは自分の小説のアイデアや書き方を“工房”と称して、その手の内をよくエッセイで披露してくれる。今回「作家の企業秘密」で、阿刀田さんの文章作法が書かれている。
 そこには阿刀田さんは子供の頃から作文は苦手であったことが書かれており、その阿刀田さんがどうやって文章能力を磨いたのか?そこにはこれといって努力をしたわけではないことが書かれている。ただ、本を読むことはよく読んでいた。そこで自分の体験から「たとえほとんどペンをとることがなくてもよい文章を読み続けてさえいれば、書く能力はそれなりにつちかわれるのではあるまいか」という。
 こんな文章を書いてみたいなと思う作家を見つけ、その人の文章をよく読むこと。ときには作品の数ページを書き写してもよい。息使いや句読点の打ちかたまで、おもいのほか得ることが多いという。そして今でも自分の文章が荒れているなと思ったときは、自分の好きな作家の文章を読んで軌道修正をしているという。
 なるほどそうすれば私も少しはマシな文章が書けるのかななんて思った。しかしこうしてパソコンで文章を手軽に打っていると(パソコン自身お節介なほど親切なので)、いつまでたってもうまい文章は書けないかもしれないなんて思うところもある。やっぱり文章が少しでもうまくなりたいなら、手書きで書いてみるのがいいのかな、なんて思うのである。(一時やっていたんだけど、面倒になってやめちゃった)

 「殺し文句の研究」の中でも面白いものがあった。アメリカの海軍当局の兵士募集に「ニューヨーク市民になるより、アメリカ海軍に属するほうが安全です」という求人広告。この文句は「統計というものの恐ろしさを説明する材料としてよく引きあいに出されるものだ」そうだ。ニューヨーク市民の死亡率より海軍の死亡率が低いから安全だというのは論理は面白い。どう考えても海軍の死亡率のほうが高そうだし、その分危険であることは間違いないのだろうが、どうしてニューヨークより海軍の死亡率の方が低くなるか?それはニューヨーク市民の死亡率は幼児から老人まですべて含めて計算してあるところによる。もし正しく比較するなら、海軍が占めている屈強の若者たちの年齢で比較しなければ話にならないはずだ。
 これと似たような統計の話が最近ある。コンビニの深夜営業自粛の話である。二酸化炭素排出規制のため、コンビニの深夜営業自粛せよとうムードが高まっている。これに対して、日本フランチャイズチェーン協会は、深夜帯も冷蔵庫などは稼働せざるを得ず、CO2削減効果は照明・空調など4%程度と低いからあまり意味がないと反論する。(これ不思議なのだけれど、最初この数字が出たときは、CO2は0.0009%くらいしか削減されないと言っていたはずなのに、いつの間にか4%になっているのはどういうことなのだろうか?)
 いずれにせよ、この4%にどれだけの意味があるのか疑問なところがある。もしこの数字をもっともっと低くしたければ、例えば分母を世界中の二酸化炭素排出量をもってくれば、更に低くすることができる。つまり作為的にどうでもなる数字ではないだろうか。
 そもそもコンビニが深夜に訪れる奴は、意味もなく遅くまで煌々と電気をつけて起きていて、腹が減ったからコンビニで何か買おうかなんて思う奴だろう。それだけでもCO2を盛んに出していることになるし、まして車で出かければそれ以上の無駄なCO2を排出することになる。つまりコンビニが自身排出するCO2だけが問題なのではなく、深夜活動する人間がそこを訪れる際のCO2排出も当然考慮しなければなるまい。それを考えたら、4%以上の数字が出てくるに違いないと思う。
 更に防犯面でも女性の駆け込みなどが年間約1万3000件あり、社会のインフラにコンビニがなっているとさえ言う。これだって、深夜まで遊び回っているから、そういう危険な状況に追い込まれるわけで、コンビニを含め、深夜営業している業種すべてがそれを止めれば、遊びたくたって、遊ぶ場所がなければ家にいるしかないだろう。そして早く寝ればいい。
 コンビニだけがやり玉にあがっているのは“魔女狩り”だという主張は、確かにそうかもしれないけれど、むしろコンビニ業界が率先して、深夜営業自粛をすべきリーダーシップを取って欲しいと思うのだ。“魔女狩り”だとしか言えない方が情けない。
 もちろん24時間テレビなんていうのもやめるべきだ。だいたい付きっきりで24時間テレビを見ている視聴者がいるか、と思うのだ。「愛は地球を救う」なんていったって、地球環境をおかしくしちゃったら、愛もへったくれもないじゃないか!テレビでは地球温暖化、環境破壊など声高に言っているのに・・・。言っていることとやっていることが矛盾している。

 こんな、本とは直接関係ないことを書いたのは、この本読んでいるうちに何か読んだことがある本だなぁと感じたからである。よくよく調べてみると、本の末尾に、『夜の紙風船』と『雨降りお月さん』を合わせて、再編集したものだとわかった。腹が立ったから、最近おかしいなと思うことを書いちゃった。できればこういうのもやめて欲しいな。


評価
★★


書誌
書名:殺し文句の研究
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255286 (4101255288)
出版社:新潮社 (2005-01-01出版) 新潮文庫
版型:265p 15cm(A6)
販売価:459円(税込) (本体価:438円)

2008年07月06日

ハインリッヒ・シュリーマン著『古代への情熱』

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 この本は高校生の時に読んだ。とにかく子供の頃思い描いたことを一生かけて成し遂げていくシュリーマンの意志の強さと、そのために努力を惜しまない姿勢に、高校生なりに、感動していた。こんな人もいたんだというところである。
 あれから三十年以上の年月が経って、改めて読み返してみた。昔と同じ感想しかもてなきゃ、それだけ進歩していないことになるので、しゃくなところもあるけれど、やっぱり“すごいな”の一言に尽きる。
 この本の副題には「シュリーマン自伝」とついているが、シュリーマン自身が自分のことを書いたのは、「少年時代と、商人としての人生行路」だけで、後の部分は適当にシュリーマンが書き残して文章をはさんで、その後のシュリーマンの活動を描いている。最初の部分と、その後の文章が読んでいて、視点がが違うな、明らかに第三者が語っているなと感じたのは、こうした理由からである。この本の原題を直訳すると「死までを補完した自叙伝」となるらしいから、なるほどとうなずける。
 さて、ハインリッヒ・シュリーマンは1822年にプロイセン王国のメックレンブルク・シュヴェリン州(現メクレンブルク=フォアポンメルン州)ノイブコウ生まれ、父親はこの町のプロテスタントの牧師であった。シュリーマンはこの町に伝わるさまざまな伝承話に子供の頃から興味を持っていて、言い伝えで途方もない財宝が隠されているという話を聞いて、何で掘り出そうとしないのだと父親に尋ねていた。子供の頃からそんな傾向を持ち合わせていたようである。
 八歳の時ゲオルク・ルートヴィヒ・イェラーの『子どものための世界史』という本をプレゼントにもらい、そこにアイネイアースが父アンキーセースを背負い、アスカニオスの手を引いてトロイを脱出する挿絵を見て、トロイの遺跡の存在を確信する。以来シュリーマンはトロイのことを考え続け、いつかトロイを発掘するという夢を持ち続ける。
 しかし個人で遺跡を発掘するには莫大な資金を必要とする。シュリーマンはギムナジウムを退学して商人の徒弟になる。その後、オランダの貿易商社に入社した。以後クリミア戦争もあって、巨万の富を得た。
 その間トロイを発掘するための勉強は欠かさず、特に自ら考えた音読による文章を丸暗記し、多国語を理解する。覚えた言葉は、ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、アラビア語、トルコ語だという。
 そうしてトロイの発掘の資金が貯まると、さっさと事業をたたみ、トロイの発掘にかかることになる。ペロポネス半島のヒッサリクの丘にトロイがあるだろうと推測する。それは「彼にとってホメロスに関する言葉は福音書であり、彼は堅くそれを信仰していたから、『イリアス』の詩句にぼんやりと示される地形は、自由に創作する詩人の空想の産物にすぎないのではないかという学者たちの疑念など、てんから問題にしなかった」からである。ホメロスの記述がすべてであり、その合致しそうな地形があれば、それがトロイがあった場所であると信じて疑わなかった。そしてどんどんヒッサリクの丘を掘り進める。この本を読んでいると、この丘にはトロイだけでなく、その後ギリシア、ローマ時代にも町が作られていたようだ。シュリーマンはトロイの遺跡を発掘するのが究極の目的であったから、そうした遺跡を破壊してその下にあるだろうトロイ遺跡を発掘していく。しかしそのシュリーマンの発掘の仕方は現在批判されているようだ。
 1873年にいわゆる「プリアモスの黄金」(トロイアの黄金)を発見し、伝説のトロイアを発見した。また1876年にミケーネでアガメムノンの黄金のマスクを発見した。


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 シュリーマンはトロイ遺跡を発見し、(実際はシュリーマンがトロイの遺跡だとしたのは、それ以前のものだったらしいが)古代ギリシア以前にエーゲ海に文明が発達していたことを証明することとなった。
 ドイツ人のルードルフ・フィルヒョーは「正しい前提から出発したか、それとも誤った前提から出発したかということは、今日では無意味な問いである。成功によって彼が正しいと判定されただけではなく、彼の調査の方法も正しかったことが実証されたのだ。いや恣意的であったかもしれないし、しかしこの心情の欠点、これを欠点と言ってよければだが、この中にまた彼の成功の秘密もひそんでいたのである。たしかな、いや熱狂的な信念につらぬかれたこの人を除いて、一体だれが、長年にわたるああいう大事業を企て、資材からああも莫大な資金を投じ、果てしなく積み重なっているように見える廃墟の層を掘りぬいて、はるか下に横たわる原地盤に達したであろうか。もし空想力にスコップが動かされなかったら、焼けた町は今日なお地中深く埋もれているであろう」というのは、まさしくその通りである。
 それにしても先のシャンポリオンにしてもこのシュリーマンにしても何かにとりつかれないと、それもとことんとりつかれ、発見に到る。凡人にはただただ呆れるばかりなのだが、いってみれば狂気のなせるワザかもしれない。


評価
★★★


書誌
書名:古代への情熱―シュリーマン自伝
著者:ハインリッヒ・シュリーマン/関 楠生 訳
ISBN:9784102079010 (4102079017)
出版社:新潮社 (2004-09-05出版) 新潮文庫
版型:181p 15cm(A6)
販売価:380円(税込) (本体価:362円)

2008年07月04日

2008年ジャケ買い

 結局書泉さんでシュリーマンの自伝を買った。(何故かはもう一つの私のブログに書いてあります)買い換えるに当たり、思ったことは“できれば文字のサイズが大きいほうがいいな”ということであった。もし新潮文庫版がブックオフで買ったのと同じサイズの小さな文字だったら、他社の文庫で文字が大きいやつにしようとさえ思っていた。
 幸い平成20年4月の三十八刷りは文字が大きくなっている。平成6年のと比べて、かなり読みやすい。ちなみに前の文庫本はページがとれてしまったので、そのページを今回買った文庫と比べるとこんな感じになる。(ちょっと見づらいかもしれないけど)


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 文字が大きくなればページ数も当然増えるだろうと思い、比べてみると、平成6年版は145ページ。そして今回買った平成20年版は181ページとなっている。約2割5分ほど増えている。まぁこれはこんなもんかとしか言いようがない。ちなみに「新潮文庫のささやかな秘密」によれば、90年前の新潮文庫創刊時に使われていたのは、7.5ポイントで、戦後から昭和57年までは8ポイント、昭和60年に改版して文字を8.5ポイントへ拡大し、今年から9.25ポイントになったそうである。では既存の文庫はどうなっているかというと、版を改めて、現在販売している文庫の総点数の3分の2近くは、すでに9ポイント以上の大きい文字を使用しているという。そして8ポイント以下の小さな活字を使った文庫は、早ければ年内にもなくなる予定だそうだ。ふむ、ふむ。これはいい。頑張って欲しいなあ。


http://www.1101.com/shincho/05-07-05.html


 ところで、今年の新潮文庫の100冊に限定スペシャルカバーとなって発売されている。これがなかなかかっこいい。


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 限定というから、ついつい買ってしまった。いわゆる“ジャケ買い”である。去年は集英社文庫の『こころ』が女優の蒼井優がそれらしき雰囲気を出したカバーの文庫を買っている。


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 まったく同じ本を何冊も買ってどうすんのよ!と言われそうだけど(誰だかおわかりですよね)、まぁコレクターとして買ったのだから、許して欲しいものだ。でも、今回買った『こころ』と『人間失格』はまた読みたいなとは思っているけど・・・。

2008年07月03日

阿刀田高著『短編小説より愛をこめて』

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 また阿刀田さんのエッセイが読みたくなり、何でもよかったのだが、たまたま先月の新刊で発売されたこの文庫を手に取る。今年は阿刀田さんの本をできるだけ読んでやろうと意気込んでいるので、まずは私の読書方法であるエッセイ集をせっせと読んでいる。この文庫の最後に阿刀田さんの文庫目録が掲載されているのだが、エッセイ集も結構あるので楽しみである。ただ、例えばこの新潮文庫でも今書店で入手できるのは限られてしまっている。古いやつはリストから外れている。ということは品切れか絶版になっているのだろう。仕方がないので、せっせとブックオフに通い、集めている。
 この本は三部構成になっていて、一番目が書名にもなっている短編小説についての阿刀田さんの考察であり、二番目が阿刀田さんが得意とする“ギリシア神話”について書かれ、最後が、阿刀田さんの日々起こっている日常について書かれた雑感となっている。
 短編小説について阿刀田さんは自ら「短編狂」と言い、たくさんの短篇書かれてきたので、「短編小説と心中してもいいかなって思っているんですよ」とも言う。
 「長編の場合は、ときどき自分の好みに合わないものにめぐりあうことがあって、それでも、
ー今になんとかー
と読み進み、読み終えて、
ーまいったなあ。時間のむだだったー
 腹立たしく思うことが、けっこうまれではない。その点、短篇は礼儀正しい文学であり、長くはお邪魔しない。二、三時間くらいのことならトンデモナイしろものでも、
ーまあ、いいか。世の中には、こんなことを考えて書くやつもいるんだなー
と許容することができる」と言う。確かにそうかもしれない。ただ個人的には短編小説は物足りなさを感じてしまい、やはり長編を読み終えると、ああ、読んだなあ!とまず読み終えた充実感があるように思える。逆に言えば、それだけ私はいい短篇に巡り会えていないのかもしれない。好きな短篇はいくつか頭には浮かぶけれど、数えてみるとわずかだ。
 この章には短編小説のことだけでなく、小説を書くにあっての注意点や、読書は面白ければそれだけでいいという主張は、今まで読んできた阿刀田さんエッセイで何度もふれられている。ここでも面白いことが書かれている。
「日本人は生真面目だから、なにをやるにも“ためになる”“役に立つ”など大義名分を求めたがる。ただ“楽しいから”だけでは気が引ける。趣味のゴルフにしてからが、“健康によろしい”“商談に役立つ”なにか理屈がほしいのである。ノホホンとただひたすら楽しいだけでは我慢ができないのだ」これも確かにその通りだ。不健康で不摂生をしている私は、よく“健康オタク”のかみさんから、あれだけ本を読んでいて、健康や身体に関する本を読まないんだからとよく言われるのだ。冗談じゃない。何が悲しくて健康本を読まねばならないのだと思っている。読んだってちっとも楽しくないじゃないか。私は自分が楽しめるから、本を読んでいるのだ。それだけである。
 さて、ギリシア神話について書かれたものは、そのエピソードが面白い。大学時代、呉茂一さんの『ギリシア神話』を手にしたことがあったが、だんだんわからなくなってしまい投げ出した覚えがある。その人間関係(いや神様関係?)が複雑なので、頭の中ごっちゃになってしまった。今も読んでみたい思うけれど、多分ダメだろうなとも思う。阿刀田さんの著作にはいくつかギリシア神話に関して本がある。今度これらを読んでみようかなと思う。とりあえず、この本に書かれていたエピソード自分で書き出して、なるほどと感心している。
 最後の雑感については、肩を張らず書かれている。これといって感心したり、為になるとかそういったたぐいの話ではないけれど、読んでいて、ほんの少し感心したり、うなずいたりする楽しみを味あわせてくれる。やはりうまい文章だから、さらりと語られる事柄は、味わいがある。こういうのは好きだなぁ~。


評価
★★★


書誌
書名:短編小説より愛をこめて
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255316 (4101255318)
出版社:新潮社 2008/07出版 新潮文庫
版型:245p 15cm(A6)
販売価:420円(税込) (本体価:400円)

2008年07月02日

村井重俊著『街道をついてゆく』

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 この本は司馬さんの『街道をゆく』の編集担当であった村井さんがその6年間のエピソードをつづった本である。朝日新聞土曜日の夕刊に連載されていたものに加筆されたようだ。連載時楽しみに読んでいた。この『街道をついてゆく』という題名はうまくつけたものだと感心したものだ。
 だいたい有名作家が亡くなると、その作家の担当者やゆかりの人が、当時を偲んで思い出をつづった本が何冊も出版される。この本もそうした本である。言ってみれば“偲ぶ本”(私が勝手にそう名付けている)である。
 でも、贔屓にしている作家のことが書かれたこうした本は読んでいて楽しい。私は案外この手の本は好きな方である。特に愛読した『街道をゆく』の企画から、そしてどのように司馬さん一行が街道を歩いたのか、その担当者じゃなければ知り得ないものがここには書かれていて楽しかった。それは本文ではあまり関係ないから司馬さんの文章からも感じられないから、その裏側を知ると、“へぇ~、そうだったんだ!”感心してしまうのである。いわゆる番外編『街道をゆく』である。
 司馬さんにはいつもたくさんの出版社の編集者や新聞社の記者がついて回っていて、世の中に何か事件があると、司馬さんに意見や取材を求めてくるシーンが何回か出てくる。当然村井さんも週刊朝日の記者でもあるから、同じようにしていいのに、いつも他社の編集者や記者にスクープを持って行かれてしまう。せっかく“「街道をゆく」ファミリー”の一員になっているのだから、取材しやすいはずなのに、それをしない。むしろ司馬さんの奥さんであるみどりさんが気を利かせて教えてくれるのに、それさえもわからない。後になって自分は記者失格だと後悔する。このあたりは村井さんの性格なのだろう。
 でもそういう人だから、損得勘定なしに司馬さんとお付き合いされたのではないかとも思える。たぶんそうした村井さんだから多少呆れつつも、司馬さんはこころ許したように感じられた。村井さんは「本所深川散歩」、「本郷界隈」、「オホーツク街道」、「ニューヨーク散歩」、「台湾紀行」「北のまほろば」、「三浦半島記」、未完の「濃尾参州記」を担当された。私はこれらの街道はこのシリーズではちょっと異色なところがあると感じているが、だからこそ面白かった記憶がある。この間今まで一緒に旅をされていた須田剋太さんが亡くなられたり、移動距離もかなりあったし、そして司馬さんの死も経験される訳だから、担当は大変だったのではないかと思われる。
 司馬さんにゆかりのある人が司馬さんのことを書くとき、司馬さんからいただいた手紙をよく披露してくれる。その手紙の文章を読むとき、“あたたかくていいなぁ”といつも思っていた。こういう手紙をもらったらうれしいだろうなと思うのだ。そして街道を一緒に歩いている司馬さんの言動を読むと、なるほどこういう人だからあんな手紙が書けるんだなと思った次第だ。
 手紙は司馬さんの一つのキーワードである。司馬さんが文化功労者に選ばれたときの記者会見で「私の小説はすべて二十二歳の私にあてた手紙なんです」と語ったという。二十二歳の司馬さんは陸軍の戦車部隊に所属し、終戦を迎えたのである。作家になって「どうしてこんな馬鹿な戦いをしたのか、日本はそんなつまらない国だったのかと絶望した二十二歳の自分に対し、日本にもこんな歴史があって、こんな男たちがいたということを伝えたかった。でももう、その義務は果たしましたね」とも語ったという。村井さんはその記者会見の席にいたそうで、寂しいことを言う人だなと思ったという。
 そして「二十一世紀を生きる君たちへ」という文章にふれる。そこには「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない」と書かれている。村井さんはこの部分が好きではなかったという。私もこの本を読んだとき、えらいことを言う人だなと感じた。確かに司馬さんは二十一世紀を見ずに亡くなられたが、そうした覚悟というか、諦めは、悲壮なものがある。未来を見たくても見られない。自分には時間がない。そうしたことを切々と感じる歳になったとき、自分はどう考えるだろうかと思ったものである。
 話が横にそれた。この「街道をゆく」の裏話を読むと、このシリーズは司馬さんの下調べや興味に寄るところが大きいけれど、ただ司馬さんだけでできあがったものではなかったのだなと感じた。何人もの裏方がいたからこのシリーズはできあがったのだ。だから佐野眞一さんが『街道をゆく』を自らの足で歩かず、車に乗って、何人もお伴を引き連れた「大名旅行」だったと批判した文章を思い出し、更に腹がたってきた。いくら宮本常一を語りたいからといって、この言葉はないと思う。そもそも性質が違うものを比較するからこうした暴言を吐くのだろう。佐野さんは村井さんの本を読むべきである。


評価
★★★


書誌
書名:街道をついてゆく―司馬遼太郎番の6年間
著者:村井 重俊
ISBN:9784022504432 (4022504439)
出版社:朝日新聞出版 (2008-06-30出版)
版型:299p 19cm(B6)
販売価:1,470円(税込) (本体価:1,400円)