2008年07月31日
村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』
久しぶり村上春樹さんの本を読む。私は以前せっせと村上さん本を読んでいたのだが、どういう訳かいつの間にか敬遠し始めるようになった。別に嫌いになった訳じゃないのだが、何となく読みたいという気分になれずにいたのだ。でも、自分の本棚を眺めているうちに読んでみようかなという気分になり、まずこの本を手にした。
私は村上さんの“個人主義”を貫く生き方が好きである。“個人主義”というと語弊があるかもしれない。何と言っていいのかうまい言葉が見つからないが、あえて言えば、自分のやりたいことのためには、余計な雑用を極力避けて、それに専念する生き方とでも言えばいいのだろうか。
この本は村上さんが走ることが自分の性に合っていることから、それをやり続け、そこから学んだ生き方を語る。そして専業作家になってから、走ることをはじめ、50代になって身体の衰えを感じ、老いについても考える。
まずは何故村上さんは走るのか?「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」とよく言われるらしい。村上さんは、そもそもそんな質問は、小説を書く行為が不健康な行為であって、作家たるものは公序良俗から遠く離れ、できるだけ健全ならざる生活をすることで、作家は俗世と訣別し、芸術的価値を持つ純粋な何かに近接することができるといった通念から発せられたものだろうと認識する。その上で、「要するに芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕はそれを進んで認める。だからこそ作家(芸術家)の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣裳をまとう人々が少なくない。それも理解できる。というか、そのような姿勢を決して否定するものではない。
しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなければならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなければならない。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?」と言う。だから走るのだと言う。
その上で「僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったときに、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする」と言う。
走ることと、小説家であることが、村上さんの中では何の矛盾なもなく、同一のレベルで併存しているのだ。でも走ることに確固たる結果を求めていない。走ること、あるいは走る過程に意味があるとする。村上さんはフル・マラソンやトライアスロンの苦しさをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端をその過程に見いだすことができ、生きることのクオリティーを、成績や数字や順位といった固定的なものではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くことができると言うのだ。
これがこの本の結論である。そこには華々しい結果が待っているわけではない。村上さんが言うように『ロッキーのテーマ』はどこからも聞こえてこない。向かっていくべき夕日もどこにも見えない。けれど自分が好きで走るという行為そのものに生きる価値を見いだしているように思える。
ところで村上さんがこうだから、だから走ることを他に勧めるかといえば、そんなことはしない。これはあくまでも村上さんのやり方なのだ。村上さんは次のように言う。「しかし人には向き不向きがある。フル・マラソンに向いている人もいれば、ゴルフに向いている人もいれば、賭けごとに向いている人もいる」と。
ここから話は学校教育あり方や、自分の学生時代の話に及んでいく。「学校の体育の時間に、生徒全員に長距離を走らせている光景を目にするたびに、僕はいつも「気の毒になあ」と同情してしまう。走ろうという意欲がない人間に、あるいは体質的に向いていない人間に、頭ごなし長距離を走らせるのは意味のない拷問だ。無駄な犠牲者が出ないうちに、中学生や高校生に画一的に長距離を走らせるのはやめた方がいいですよと忠告したいんだけど、まあ、そんなことを僕ごときが言っても、きっと誰も耳を貸してはくれまい。学校とはそういうところだ。学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、『もっとも重要なことは学校では学べない』という真理である」と。
これには異論はないわけでもないが、一つの真理はついている。村上さんは「小学校から大学にいたるまで、ごく一部を例外として、学校で強制的にやらされた勉強に、おおよそ興味が持てなかった。これはやらなくてはならないことだからと自分に言い聞かせて、ある程度のことはやってなんとか大学まで進んだけれど、勉学を面白いと思ったことはほとんど一度もなかった」と言い、「僕が勉強することに興味を覚えるようになったのは、所定の教育システムをなんとかやり過ごしたあと、いわゆる「社会人」になってからである。自分が興味を持つ領域のものごとを、自分のペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだとわかった」と言うのだ。
一方で長いこと走り続けていると、いつの間にか自分の身体の変化に気がつく。
「(フル・マラソンは)今回はちょっと失敗したなというときでも、3時間40分台では走れた。ほとんど練習をしなくても、体調が多少悪くても、タイムが4時間を超えるようなことはまず考えられなかった。そういう時期が安定した台地のようにしばらく続いた。ところがそのうちに雲行きがおかしくなってきた。前と同じように練習していても、3時間40分台で走ることがだんだんつらくなり、1キロ5分半のペースになり、そしてついには4時間すれすれの線に近づいてきた。これはショックだった。いったいどうしたんだろう?それが年齢的なものだとは思いたくなかった。自分が肉体的に衰えつつあるという実感は、日常生活の上ではまだまったくなかったからだ。しかしどれだけ否定しようと、無視しようと、数字は一歩また一歩と後退していった」
このように身体の衰えは確実に村上さんの身体にも忍び寄っていく。だから「若いときならたしかに『適当にやって』いても、なんとかフル・マラソンを乗り切れたかもしれない。自分を追い込むような練習をやらなくても、これまで貯めてきた体力での貯金だけで、そこそこのタイムは出せたかもしれない。しかし残念ながら僕はもう若くない。支払うべき代価を支払わなければ、それなりのものしか手にできない年齢にさしかかっているのだ」という考え方に至ることになる。
そうなると残された人生の使い方にも考えが及び、「本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきちっりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう」、自分の人生の帳尻をどうしたらうまく合わせられるかを考えるようになる。
この気持ちよくわかるんだな。特に最近私はそんなことをよく考えるようになってきた。
体力も精神力もある日突然(そう急にだ!)減退する。ちょっと前なら難なくできたことができなくなってくる。昔時間なんて考えたことがなかったのに、今は残りの時間をふと考えるようになってきた。あと何年かと・・・。もちろん私はまだ時間はある方だろう。けれど20年あるかどうか?このことを考えるのは結構こたえる。できる限り自分がやりたいことを優先して考えていかないといけないような気がするのだ。この本を読んで改めてそんなことを思った次第だ。
評価
★★★
書誌
書名:走ることについて語るときに僕の語ること
著者:村上 春樹
ISBN:9784163695808 (416369580X)
出版社:文藝春秋 (2007-10-15出版)
版型:241p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)
- by kmoto
- at 05:33
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