2008年08月31日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 2

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 明治という新国家に内蔵している問題を司馬さんは次のようなものだったと言う。
「歴史的にいえば明治政府ほどつらい政権ない。どの時代の革命政権も前時代より租税を安くするところから施政を出発させるのが普通であるのに、旧幕府よりもはるかに民衆の財政負担を重くせざるをえなかった。その最大の理由は明治革命の主目的が近代国家になるためのものであったからだ。やってみたものの、近代国家というのはべらぼうに金がかかるものだった」

「それらの無理は、百姓たちにしわよせされた。このため各地で一揆がしきりにおこった。軍費を負担させられるだけでなく、旧幕府もそれをしなかった徴兵の義務を百姓に課したのである」

 しかも始めたばかりであったから、体制が整っていない。その上幕末から大して時間が経っていないものだから、意識として未だ江戸時代をを引きずっているといっていい。そこに征韓論の是非の根拠がある。つまり大久保側からすれば、国としての体制も整っていないし、金もない状態で征韓論を認めれば、戦争に行きつくことは必死である以上、そんなことができるわけがないと主張する。大久保は国家を数量計算で見ようとする実際面から離れず、西郷の主張するところと次元を異にしていた。
 一方で「西郷の立論は現実への把握がとぼしく、多分に実際面において堅牢でなかったが、しかし西郷の哲学的論理からすればそれこそ実際的であり、なぜなら日本民族はこれによってこそ苦難を経て草木とともに一新するだろう、維新の意義はそこある、極端にいえば日本民族の半ばが戦火に倒れるともアジアの一新に役立てばそれでよい」といわゆる精神論で征韓論を主張する。
 要は征韓論の是非は現実面でいくか、精神面でいくか、それによってスタンス決まってしまうのであった。しかし「廟議は、討論において結局大久保が優位に立った。金がないからだめだ。という、財政面から押しつづけてゆけば、いかにすぐれた政策案でも無力にならざるをえない」のである。
 が、征韓論は一度勅許が条件付きで降りている。西郷にすれば、これ以上何をする必要があるかというのが心情であった。だから西郷は以前のような行動はしない。その点、前に私は不思議だと書いた。そうした態度を西郷が取ったのは「『公明正大の正論が堂々とまかり通る政府であるはず』というのが、西郷の多分に願望をこめた政府観で、そういう政府をつくるためにおびただしい流血のすえに成立した政府なのである。その政府を作った西郷としては、太政官政府を幕府のように見たくはなく、まして幕府を倒したときのやり方をこの政府に対して試みようとは思わなかった」からだと司馬さんは説明する。なるほど。自分が作った新政府は、誠意を持って主張すれば意見の通る政府であって欲しいし、そうでなければならないはずだとする西郷のなら、これ以上余計なことはする必要はなかったのだろう。


閑話休題
 この巻は征韓論を通して西郷と大久保の意見の戦いを描くことメインにしているが、同時に西郷、大久保の人物像にも当然ふれる。司馬さんはまず大久保について次のように言う。
 「かれは日本国の政綱を攪るにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷といえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。にべもなかった」と。だからこそ「やがて大久保は、彼が予感したように、殺されるべき人物であった。大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった」という。
 一方西郷は「本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。(略)げんにかれは幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をも集団をもまた世の中をもうごかした。西郷が放射するその雲間のきらめきのようなものを、ひとびとは政治的人間の徒類のなかでほとんどありうべからざるものとして感じた。西郷においてひとびとがなにか神聖なものを感じていたのは、そういうことであろう」と人々が西郷に引きつけられる理由の一つを説明する。さらに、「西郷は単なる仁者ではなく、その精神をつねに無私な覇気で緊張させている男であり、その無私ということが、西郷が衆を動かしうるところの大きな秘密であった。人間は本来無私ではありえず、ありえぬように作られているが、しかし西郷は無私である以外に人を動かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常な姿にひきすえることはできないと信じている男だった」。西郷の人望は西郷の無私によって動かされたものによるのだろう。
 ところで西郷たち革命家には革命家が持つ特別な精神体質があるように思えると司馬さんはいう。曰く「革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。西郷、大久保、木戸などは、旧幕府が一見盤石な重みをもっていたときに志をおこし、奔走し、法網と偵吏と刀槍のなかをくぐりぬけるという血みどろの前歴もっている。同時代でかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者いたが、しかしそれらのひとびとが日常の常識的世界の安らかさのなかで過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治以後である。交わりつつも、ついに交わりきれないものがあるのは、この連中を動かしてきた志ーある種の肉腫ーのようなものが邪魔をするのかもしれない。さらに西郷のように、その肉腫の疼きで行動してきた過去のさまざまな過程において、結果として旧主の島津久光を裏切るかたちになったり、あるいは生死を共にした多くの下僚(桐野ら)とのあいだに理屈を越えた恩愛の情が生じてしまっている」という。(その点「板垣退助や副島種臣にはその前歴が革命家ではなく、単に藩勢力の代表者として入閣していたに過ぎないので、そういう過去から持ち越してきた厄介な荷物はなかった」と彼らとは人間が違うんだよといっている)
 伊藤博文に関しても、「この時期の伊藤には軽快な政治処理能力はあるにしても、西郷や木戸が持ち、むしろそれによって苦しんでいる哲学は持たなかった。志士仁人の時代は過ぎ、すでに処理家の時代がきている。新国家に山積している解決困難な諸問題や諸事務を解決するにさしあたっては哲学は不要であり、処理家の手腕を必要とした。伊藤が、西郷退治の黒子として活躍しているのは、処理家が登場しようとしている新時代を象徴しているといっていい」と伊藤の台頭を説明する。西郷自身「自分はもはや世の進運に役立たぬ旧物」と感じていたが、そんな中征韓論は西郷にとって最後の情熱を傾けられるものであったし、存在感が示せるものであった。しかしそれは明治政府にとって命取りになるので、何とか阻止せねばならないことでもあった。西郷は「旧幕府より明治政権を小さく見ていたが、旧幕府がすでに歴史的生命をうしなっていたのに対し、明治政権は弱小ではあったが、誕生してまだ若々しくある。若いというのは、この誕生したばかりの権力を懸命に守ろうとする情熱が権力内部に横溢していた」ことを軽く見ていたのだろう。それが西郷の敗北につながったわけだ。

 さて、廟議は翌日に持ち越されたが、西郷、大久保とも一歩も引かず、三条が「万策尽きました」と西郷の征韓論に決定したのであった。
 どの後大久保は紋服を着用して三条に自ら辞表を手渡した。三条は封書の中身を見て絶句する。とりあえず詳しい話を聞きたいと、大久保を中に招き入れようとするが、大久保は「いいえ、ここで失礼します」、「これにて」と背をひるがえした。大久保にとって、自分が西郷と対決するにあたり、参議となり、しかも信用おけない三条や岩倉が反征韓論の立場に豹説しないという念書まで書いたのに、それを裏切った。だから大久保にとってこの態度は当然であった。
 ところが三条がこのあと倒れてしまう。伊藤は三条が偶然にしろ倒れたことをいいチャンスとして利用する。三条の代理をしたのは岩倉具視であった。岩倉に太政大臣職を代理すべき旨の勅命が下る。
 そんな岩倉の元へ副島種臣、江藤新平、板垣退助らは西郷を誘い、訪れる。廟議で決定した征韓論を早く上奏しろというのである。岩倉は「あすにも上奏いたす」と四人に言うが、それは岩倉自身に説を上奏するということであった。つまり岩倉も征韓論が愚論と考えているが、とりあえずそれを実施するには日本海軍、陸軍の整備が整うまで猶予するというものであった。これに対して江藤新平は岩倉は三条の代理なのだから、三条が決めたことを実行すべしと迫る。そうでなければ三条へ不忠実であり、廟議を侮辱するものだと言い切る。
 ところが岩倉も腹を据えている。岩倉は三条より代理を頼まれたわけではない。もしそうなら江藤の言うとおりであろう。しかし自分は天皇より代理を命じられた。代理という名称はついているけれど、岩倉は三条から独立した存在であって、政治の最高責任者が変わったのだから、自分の考えを天皇に上奏できると主張するのである。
 このとき別室ではこのやりとりを聞いている人物がいる。桐野利秋である。西郷がこのとき連れてきた。岩倉への脅しである。桐野は幕末中村半次郎といい、「人切り半次郎」と恐れられるほど、多くの人を切ってきた人物である。こんな人物が別部屋で岩倉と西郷らの話を聞きながら、刀の柄をかちゃかちゃやっているのだからたまったもんじゃない。しかし岩倉は耐えた。そして話が尽きた頃、一座をにらみまわし、「わしのこの両目の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思ってもそうはさせんぞ」岩倉の生涯の中でもっとも凄味のある一言を吐く。これで勝負は決まった。四人の参議は席を立つ。そのとき西郷は「右大臣、よく踏ん張り申したな」と言ったという。まさしくその通りであり、たぶん西郷の性格柄、このときの岩倉に感動したのだろう。「もうなにも申さぬ。勝手になされ」と辞した。岩倉はちゃらちゃらした公家ではなかった。幕末動乱の中を生き抜いてきた人物であった。だからこそこの言葉には凄味がある。
 このあと西郷は東京をひきはらうべく行動する。ただ一人暇乞いに行く。幼なじみであり、維新ではともに戦い、征韓論では政敵となった大久保利通である。このとき大久保のもとには伊藤博文がいたが、伊藤が席を外そうとすると西郷はかまわないという。西郷は大久保に次のように言う。
「一蔵(大久保)どん、おいはくにへ帰っど」
「辞表を送っておき申した」
「今後の国事(あとのことは)、よろしゅう頼んみやげ申す」
これに対して大久保は、怒気をみせ、「それは吉之助どん、おい(俺)の知った事か。いっでんこいじゃ(いつでもこうじゃ)。いまはちゅう大事なときにおまんさぁ、逃げなさる。後始末はおい(俺)せなならん。もう、知った事か」と言い放つ。西郷は「仕様がない」とつぶやいて立ち上がった。
 この日が両者の永遠の別れとなる。私はこの場面思わず絶句してしまう。妙に二人のこの会話に感動してしまった。

 この二人には征韓論に関しては妥協点が見いだせなかった。相反するだけである。結果として大久保が勝ち、大久保は自分が描く国家建設に邁進する。日本が近代国家となるためには、まだ国内に国民意識がない。だから制度もそうだけど、国民の意識も近代的なものに変えていかなければならない。その面倒を国が見るようにするのである。言ってみれば国民は馬鹿だから、国や政治家、役人が教え、面倒見てやるということである。確かに維新直後ではそうする必要があったかもしれない。けれど大久保が倒れた後、その意志を歪曲して継いだ山県有朋がおかしくしてしまい、その意識は現代になっても残っている。日本が今でも政治家、役人がやり放題の国家なのはこのためである。彼らの国民を小馬鹿にした態度も未だ持ち続けているのも、明治以来のものではないかと思う。
 もし西郷の征韓論が通っていたら(この時点で現実にはあり得ないのだが)、西郷がもっていた精神のあり方が日本人に植え付けられていたかもしれない。そうすれば、今の日本人はもっともっと自分たちに自信を持ち得たかもしれないし、もっと謙虚であり得たかもしれない、と思ったりする。


書誌
書名:翔ぶが如く 2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617206 (4163617205)
出版社:文藝春秋 1985/08出版
版型:354p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)

2008年08月29日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 1

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 西郷隆盛のことを知りたいと思った。それでこの本を読みはじめる。実はこの本を手に入れてから三巻までは読んでいる。ところが明治政府の台湾出兵あたりから面白くなくなってしまい、頓挫してしまった。今回は気合を入れて読んでみようと思っている。
 さて、この巻で気になる問題は征韓論と、明治維新を成し遂げ、新国家を建設した志士たちがどういう人物たちであったかである。
 まずは征韓論である。征韓論がわき上がる背景にはいくつかの理由がある。征韓論は「日本の幸福」と「韓国の幸福」ももたすものだと考えられていた。
 日本は明治維新をやって富国強兵をめざした欧化政策をとった。それを朝鮮に向かって「貴国もそうせよ」と迫ったのである。それは革命の輸出であった。「『韓国の幸福』とは韓国の国家組織も社会制度も世界から見れば老化しており、このままだと、ロシアの南下によって併呑されてしまう。そうなる前に韓国を開国させ、世界性をもたせ、ともに列強の侵略ふせぐことであった」。そのためには「朝鮮の政府を伐って朝鮮人民の目を醒ませ、この人民に維新政府をつくらせてそれと同盟するよりほかない」という考えに至るのである。
 最初朝鮮側に対して、「日本側はあくまでも鄭重な折衝法をとった。しかもいささかの野心もなく、友好と親切から出た働きかけであった。しかし朝鮮にとっては余計なお節介であった。朝鮮国の支配者にすれば、開国すれば国内体制がくずれるのである。どの国の支配階級が、自分の支配体制の崩壊を賭けてまでして他国の変な親切をうけいれるであろう。
 折衝は明治初年から足かけ六年つづいた。朝鮮側は毎度峻拒し、毎度罵倒した。結局は日本の壮士気分を激発させる結果をみた」。
 日本のこの気分は秀吉の無知の段階から少しも出ていない。朝鮮人が「倭奴(ウエノム)」と呪いの言葉を持って日本人を見るようになったのは豊臣秀吉の朝鮮討入の「壬辰倭乱」以後であったが、加害者である日本側はその後朝鮮とその民族を知ろうとする努力怠っていた。
 その上「日本における外交問題は、他の国におけるそれとはよほどちがった概念と性質をもっているといえるかもしれない。外交が技術であるよりも国民的情念の表現、もしくは情念によるヒステリー発作というにちかい性質をもっているのではないかとさえ思える」と司馬さんが言うように、特に「革命早々の日本国家の運営者たちは、むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きかった」から、征韓論は日本における重要な課題となっていったのである。その急先鋒が西郷隆盛であった。
 西郷は征韓論が「日本の幸福」をもたらすと考えていた。そもそも倒幕運動や明治維新はあまりにも短時間で達成してしまったため、薩摩軍人たちはふりあげたコブシのやりばもなくて鬱屈していたし、旧幕府側の士族階級もこの後行われる政策、「たとえば諸大名の版籍奉還があって、のち諸大名および士族階級が土地人民の支配権をうしなうという廃藩置県がおこなわれた。これらに並行して徴兵制度が布かれ、士族階級の最後の名誉であった武の特権までうばわれ、庶民に転落した」事実は当然不満の種となった。
 変な言い方であるが、もう少し倒幕運動や明治維新に時間がかかっておれば、多くの志士や士族階級たる武士に犠牲が出ていただろう。そうなれば、彼らの存在そのもの数がぐっと減ってしまい、維新後起こる彼らの不平不満など少数意見になっていたかもしれない。もちろん会津などには多大な犠牲が出たけれど、総じてあっけなく明治維新がなってしまったことが、後で大きな問題を抱えることなったわけである。
 西郷隆盛はそうした不満や悲鳴をある程度仕方がないと理性では思うのだが、一方でそれを見るに忍びなかった。それは司馬さんが言うように「西郷は『旧階級と旧階級の精神』というものを率いて幕府を倒した。ところがそれによって出来あがった新国家が自分を生んだ『旧階級と旧階級の精神』を圧殺した」ことの煩悶でもあった。
 確かに革命にはある程度の犠牲はやむを得ないところがあることは事実であるが、その犠牲を単に仕方がないことだとは西郷は受けいられなかったのである。不満や悲鳴の声を西郷は聞いてしまったのであった。「西郷は革命の成功者でありながら、革命が当然ひきおこすおびただしい惨禍のほうを一身でひきうけよう」とし、「巨大な感情量をもって幕府を倒した西郷は、革命の成功で無用になったその超人的感情量を、維新によって没落した士族階級への憐憫にむけたのである」と司馬さんは言う。
 そんな西郷の自己矛盾(革命には犠牲がつきものというのと、それを放っておけないという気持)と、志士たちの高揚した気分のはけ口と全国二百万人以上といわれる没落士族を救う解決策が征韓論であった。西郷はそれに飛びついた。
 さらに言えば、明治新政府の誕生と、廃藩置県は薩摩藩の島津久光に対しての裏切りでもあった。事実久光自身、西郷や大久保を裏切り者と罵っていた。特に西郷は久光の罵倒に自分の身の置き場所がなく、絶えずそれを探していた。つまり西郷自身自分が死ぬことを望んでいた。自分が遣韓大使として朝鮮に渡れば、必ず殺される。それはそれでいいと思っていた。いやそうあって欲しいと願っていたところがある。西郷が朝鮮で殺されれば、日本の重鎮が殺害されたのだから、朝鮮出兵の大義名分も整うことにもなると考えていた。
 ここで面白いと思うのは、西郷は明治革命政府で陸軍大将、近衛提督で明治の陸軍を掌握していた。やろうと思えば、これらの軍事力をもっ自分の主張する征韓論を簡単に押し通すことが出来たのに、ただ自分を遣韓大使に任命してくれと閣議でひたすら哀願泣訴するのである。幕末あれほど根回し、策を弄し、力にものを言わせた人物がただ嘆願するのである。この豹変ぶりはどうしてなのだろうかと思うくらいである。
 この巻では岩倉具視が参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通らを伴って欧米諸国を巡っている間(いわゆる岩倉使節団のこと)、その留守を預かっていた三条実美に西郷が迫り、困り果てた三条は西郷を遣韓大使として派遣する旨を了解し、天皇の勅旨を得るまでで終わる。但しこれには岩倉らが帰国するまで待って、再度討議するという条件がついていた。西郷はそれでも天皇の許可が下りたのだから、自分は遣韓大使として派遣されるだろうと思っていた。

 ところで明治維新で活躍した人物たちを司馬さんはどう書いているだろうか。例によってわざと話を逸脱したり、あるいは休んで登場人物たちについて語る手法でこの小説は書かれているが、それが面白いのでいくつか書きたい。
 まずは西郷隆盛である。司馬さんは西郷を「幕末の西郷には維新後の国家設計の青写真などなかった。せいぜいうちに王道楽土をつくり、外は列強のあなどりを防ぐ、というだけの輪郭の不明瞭なものであった。倒幕についての政略ではあれだけ緻密で雄大な構想と着実で地道な実行形態をとりつづけたこの人物が、新国家設計については一見まるで手ばなしの無能な姿を見せる」と言い、「西郷は政治は才略より人格であるという考えをとった」と語る。
 一方大久保利通については「大久保は、官僚専制思想家である。日本の町人百姓はまだ、欧米の人民ではない。未熟なること犬猫同然である。
 と大久保は考えていた。犬猫を欧米なみの『人民』に向上させるまでに三十年かかる。憲法も自由も権利もそれからのことだ、それまでは有司(官吏)専制という指導主義でゆかざるをえず、内務省は犬猫的な日本を欧米なみの日本たらしめるための強力な権力機構たるべきである、というのが大久保の思想であった」と言う。
 木戸孝允は「つねに大困りの憂鬱屋であったが、包容力もあった。木戸は意見の人であったが、しかしその意見に長者の風があったことは、これは一つの根から出ているとみていい」と評する。
 三条実美に関しては、「その実歴からどういう抱負も器量も能力もひき出せない。ただ誠実であった。この誠実さは富家の婿養子に適いていたが、しかし一国の太政大臣としては悲劇的なほど無能であった」と手厳しい。
 山県有朋や伊藤博文に関しては、司馬さんは結構厳しい評価を下しているように思える。司馬さんはまず、「(幕末)その奔走家としては西郷や大久保のほかに長州の木戸孝允、土佐の坂本龍馬などがいて、幕府をたおした。倒したあと、かれらのうごきがにわかに鈍くなり、代わってうごきが活発になるのはかれらの後輩たちで、そのうち頭をあげてくるのはみな議論下手だがしかし実務の才の横溢した連中であった。とくに長州人が多い。伊藤博文と山県有朋がその双璧であろう」と言う。半ば皮肉混じりで「革命期に最後まで生き残るのは、この種の実務的な出世主義者であるかもしれない」と自分の思いを語る。
 特に山県に関しては「日本の三権分立の政体をやがて破壊するにいたる『軍人勅諭』を山県憲法発布に先立って明治十五年実現している。(これは)軍隊をもって天皇の私兵であるかのごとき印象をあたえしめている。(略)昭和期に入ってこの勅諭が政治化した軍人をして軍閥をつくらしめ、三権のほかの『統帥権』があると主張せしめ、やがて統帥権は内閣をも議会をも超越するものであるとして国家そのものを破壊せしめるもとをつくった」と言い、さらに「国権主義は山県がまず種をまき、大久保がそれを苗にした。やがて西郷・大久保・木戸の死後、権力を得た山県がおもう存分ふるまってそれを鬱然たる大樹に仕上げてしまったのだが、この国権主義というのは、国民を国家という鋼鉄のたがで締めあげ、締めあげることによって近代国家を速成でつくりあげようとする思想で、結局はこれが日本国家をつくり、太平洋戦争の敗北によって敵国から打ちくだかれるまでつづく」と言い切る。
 これは多分司馬さんが常々言っている「あの馬鹿な戦争(太平洋戦争)を起こしたのは誰なんだろう?」と自分が体験した戦争経験を振り返ると、多分ここに突き当たるのではないかと思う。その思いが山県に批判的なるのではないだろうか。司馬さんが描いてきた幕末の志士たちには、志があって、熱い情熱があり、更に「滅びの美学」を持ち合わせた人物たちであった。決して伊藤博文や山県有朋などの実務家など描きたくもなかったのではないかといつも思う。


書誌
書名:翔ぶが如く 1
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617107 (4163617108)
出版社:文藝春秋 1984/02出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)

2008年08月21日

司馬遼太郎著『殉死』

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 歴史というのは非情なもので、ある程度時間が経って、その後の変化などを加味して時代考証をしたとき、例えば指揮官が有能な人物であったか、あるいは無能であったか、はっきりとしてしまう部分がある。そういう意味では乃木希典という人物は指揮官としては無能な人物であったようである。ただ明治天皇が崩御した後、追って殉死したという一点のみで、乃木という人物を過大評価してしまったところがあるようである。
 司馬さんはこの本で乃木希典という人物がどういう人物であったかをこの本で語る。従ってこの本は小説とは違う。これは推測なのだが、長編『坂の上の雲』で集められた資料から、乃木希典のことが独立して、この人物評伝となったのではないだろうか?
 乃木希典はわずか六カ月しか洋式軍事教育を受けていない。ただこの時代他の者もこの程度の軍事教育しか受けていないから、乃木だけがひどいというわけではないらしい。しかし乃木の筋目がものをいった。つまり乃木は長州人であったことが大きく、しかも乃木は吉田松陰の師匠玉木文之進と濃い縁続で、乃木が十六歳の時玉木文之進の内弟子となったため、松陰の相弟子でもあった。この筋目は明治という時代のとって抜群の筋目であった。つまり乃木の出世は自分の出自が明治新政府でものをいったからなったものであった。決して能力や才能で出世した人物ではなかった。そのため司馬さんは「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかった」と断言する。ただ「詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」と皮肉混じりで付け加える。
 「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人物として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できる」タイプで、「自己美の完成のために絶えずそこに意識を集中してきた。かれは軍事技術者よりも自己美求道者であった」。「乃木はもともと死のなかに唯一華やぎを求める思想家であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる低の行者であった」から、「自分の軍事能力に(あるいは不運に)絶望するとき、つねに自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救いだし、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射的におこるようであった」。
 こんな軍人らしくない人物を指揮官にし、日露戦争の旅順攻撃を任せたのである。もともとこの戦争では旅順は陸軍の目標にはなっていなかったらしい。ただ海軍の要請で、旅順を攻撃目標にした。陸軍が旅順に停泊している軍艦をたたいてくれれば、海軍はやがてやってくるバルチック艦隊だけと戦えばいいからである。乃木は旅順に到着し、一日かせいぜい三日もあれば陥落できると大本営に連絡したが、完全要塞化している旅順は落とせなかった。何と陥落に百五十余日もかかり、六万人死者を出したのであった。しかも児玉源太郎力がなければ、攻略さえ難しかった。これを無能と言わなければ何と言えばいいのかと言いたくなる。
 そして自分の能力なさを自殺することで自らを救おうとし、銃弾がばんばん飛んでくる前線に何度も立とうとするのであった。そのたびに部下が止めにかかる始末であった。
 乃木希典とはその程度の人物だった。こんな人物を指揮官として頭に置き、戦ったのである。部下や兵士たちはたまったもんじゃない。
 ただそう思うのは現代の私たちである。乃木に従った部下や兵士たちは「封建の世が去ってまだ遠くなく、しかも封建の世に躾られた節度と、権威への服従心と、つねになにごとかを仰ぐ心をもち、つねに崇敬すべき対象をもち、もしその崇敬すべき心がわずかでも自分において薄らげば天地がくずれるのではないかという畏怖心をあわせもっていた」人々であった。だから乃木に従ったのである。そういう意味ではたとえ乃木が無能であっても関係なく、もともと「動機が美であれば結果はさほど重視しなくてもよい」という倫理観で人間関係が成立していたのである。
 そして乃木もそうした倫理観を明治天皇にもっていた。だから天皇が崩御すれば、殉死するしかなかったのだろう。乃木が天皇を崇敬すればするほど、天皇は心地よかったに違いない。明治天皇は乃木の無能さをたぶん知っていたのであろう。しかし乃木が持つ倫理観は天皇にとってみれば「ういやつ」という気持ちにさせたに違いない。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などは能力の提供者として明治天皇に仕えたが、乃木希典は誠実の提供者として仕えただけであったと司馬さんは言い切る。
 そして殉死は先にキーンさんが言ったように、乃木をして天皇や皇室への忠義者とさせた。これは昭和の軍閥には有り難い存在であった。能力もないのに自分が作り上げた「美」に酔いしれるだけでもたちが悪いのに、殉死までも忠義の体現者と崇められるのだから、余計にたちが悪い。


評価
★★


書誌
書名:殉死
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163006208 (4163006206)
出版社:文藝春秋 1981/08出版
版型:206p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)

2008年08月19日

ドナルド・キーン著『明治天皇』〈4〉

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 やっと全巻読み終える。この巻は日露戦争、日韓併合、伊藤博文暗殺、そして崩御と描かれる。日露戦争は司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』に詳しく書かれているのを読んでいるので、若干その記述に物足りなさを感じてしまうけれど、この本の性格上仕方がないことだろう。それよりも面白いなと思ったのは、この戦争で勝ったことよりも、国民の多大な犠牲にもかかわらず、戦果が大して得られなかったことによる、「煩悶的厭世思想」がはびこったことである。その結果日本国民が不機嫌になり、現状への憂鬱感、幻滅となって表れ、精神の弛緩となり、軽佻浮薄に流されることとなったというのである。このことは明治天皇も心配するようになる。ただこうした世の中に幻滅感や憂鬱感がはびこると、文学が開花してくる。「(日露戦争終結後十年間で)夏目漱石は、この時期に彼が最高の(そして最も沈鬱な)作品を書いた。森鴎外、石川啄木、島崎藤村の名を留めている傑作群は、主としてこの時期に登場した。この時期はまた、永井荷風、志賀直哉、芥川龍之介、谷崎潤一郎が彼らに最初の名声をもたらした作品を発表した時期でもあった」という。やはり文学というのは「あだ花」的要素があって、世の中に不平不満が強くなってくると、名作が生まれるのだろう。(だったら今も名作が生まれていい素地があるような気がするが、果たして名作といわれるものが生まれているのかどうか、疑問がわく)

 さて、私が興味があることは明治天皇が崩御したあと、乃木希典が殉死したことである。乃木の殉死は、やはり司馬さんの『殉死』に詳しいし、漱石の『こころ』にも重要なテーマとなるのだが、そもそも何故乃木は殉死しなければならなかったのか?
 西南戦争の時軍旗を失ったことを、いつまでも恥と思い、死してその償いをしようとしたが、その機会を得ることが出来ず、また日露戦争では旅順攻撃で数万人の兵士を死なせてしまったことで、慚愧の念に駆られたいたからだと言われている。
 乃木は旅順で多くの兵士を死なせてしまったことを償うために、割腹して詫びたいと明治天皇に申し述べたが、天皇は最初何も言わなかった。ただ乃木が退出するとき呼び止めて「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は朕能く之を知れり。然れども今は卿の死すべき秋(とき)に非ず。卿若し強いて死せんならば宜しく朕が世を去りたる後に於いてせよ」沙汰したという。
 この本によれば、確かに旅順攻撃に対して、たくさんの兵を失ったことを明治天皇は快く思っていなかったと書かれているが、それでも戦後乃木は学習院長に選ばれた。ただ乃木の殉死は、最初当時の知識人に受け入れられなかった。志賀直哉などは「馬鹿な奴だ」と言い切る。確か司馬さんも乃木という人物の対して、快く思っていなかったように思うし、人物としても能力のある人物とは見ていなかったのではなかったかと思う。(この辺は昔読んだ本なので、忘れてしまった。もう一度読んでみようかなとも思っている)いずれにせよ、「乃木は天皇に対する忠誠の権化となり、批判することが許されない伝説的英雄となった。乃木の忠義と皇室に対する献身の完璧な体現者として崇拝されることになった」わけで、この思想は昭和に持ち越されることになった。

 この本はキーンさんが明治天皇の伝記を書くことで、必然的に明治という時代を描くことになり、それはとりもなおさず、読む側に明治という時代がどういう時代であったかを教えてくれることにもなった。
 こうして読んでみると、この激動の時代にたとえカリスマ的存在であって明治天皇という人物が、いかに大きな意味を持った人物であったかよく知らされた。ヨーロッパ文化がどんどん入ってきて、西洋化、近代化する日本にあって、日本人が本来持って「日本的な部分」を失わずにいたのは、ある意味明治天皇のお陰と言っていいかもしれない。だから明治天皇が好きになった。
 そんなことをこの本で感じたものだから、北京オリンピックで「君が代」が流れるのを聞いていると私は妙に感動してしまうのだ。 
 最後に、この本の終章に明治天皇の素顔がまとめて書かれているので、それを書きたい。

「天皇は自分に対して厳しい人間で、めったに好き嫌いを見せることがなかった」

「暑さ、寒さ、疲労、空腹など普通の人間を悩ます類のことで天皇が不平を洩らしたことなど絶えてなかった」

「天皇は、ほとんど不自然なまでに何事に対しても平然としていた」

「父孝明天皇と違って、明治天皇は怒りに身をまかせることがめったになかったし、勝手気儘や無責任と思われる振舞いに及んだこともなかった」

「明治天皇には何か内なる精神力といったものが備わっていたようで、そのため自らが作り出した行動の規範にあまり逸脱することもなく従うことができた」

「明治天皇は全国津々浦々へ難儀な巡幸にも不平を洩らすことがなかった。また心身とも疲れ切っている時もなお、天皇は義務感に駆られて地方の物産や遺跡をつぶさに見て歩いた。特に道が悪く難渋した時など、天皇は『これが朕の国だ』と自分に言い聞かせていたかもしれない。今通り過ぎている国を統治してきた万世一系の歴代天皇の自分は末裔である、という事実を天皇は片時も忘れることはなかった。天皇は古代の『国見』の慣例に従って、国の隅々まで検分する義務があると感じていた。自分の祖先たちが作った先例に従うという決意を、天皇は一瞬たりともおろそかにしたことがなかった。天皇は細心の注意を払い、ひたすら祖先たちにの目から見て恥じない行動をするように努めた」

「天皇は例えば伊藤博文のような出自の低い人間を見下すようなことはしなかった。だから有能な人間は出自がどうであれ、立身出世することができた」

「外国人と接するにあたって明治天皇は常に丁重で、そこには誠意さえ感じられた。拝謁を賜る相手が誰であれ、天皇はいつでも進んで微笑みかけ、手を差し出すのだった」

「天皇はその治世の間に日本に洪水のように入ってきたヨーロッパ文物には反感を抱かなかったが、天皇は常に自分自身のためには金を使いたがらなかった」

「天皇は軍服を好んで着たことや陸軍演習を統監することが好きだったということとは裏腹に、天皇は心底戦争が嫌いだったという事実である」

「することなすこと他人の指示に従って動くことを、天皇は嫌ったのだった。しかし大体において、天皇は最後は説得に従った。従わなかった時は、後で謝った」

「恐らく天皇の最大の功績は、かくも長きにわたって君臨したことだった」


評価
★★★


書誌
書名:明治天皇〈4〉
著者:ドナルド・キーン/角地 幸男訳
ISBN:9784101313542 (4101313547)
出版社:新潮社 (2007-05-01出版) 新潮文庫
版型:501p 15cm(A6)
販売価:740円(税込) (本体価:705円)

2008年08月15日

ドナルド・キーン著『明治天皇』〈3〉

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 さすがに自分の興味が薄れてくると、読むのに時間がかかる。何か惰性で読んでいる感じがする。暑さもあって、なかなかページが進まない。
 さて、この巻を読んでいて悲しくなってくるのは鹿鳴館の存在である。
 明治政府は江戸幕府が結んだ安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を引き継いだが、これらの条約は列強に治外法権を認め、関税自主権が日本にはない、不平等条約だった。列強に治外法権を認め続けることは日本が独立国としての体面を持っていないことになるし、関税自主権を回復し関税収入を増やして国内産業を発展させる必要がどうしても起こってくる。
 日本は列強各国と交渉をするが、思うようにことは運ばない。ヨーロッパ人たちにとって、日本で捕まると拷問にあったり、虐待されるのではないかという不安がいつもあった。それはそうだろう。ちょっと前まで、江戸時代であって、刀を帯びている武士が闊歩していたのだから。それでなくても幕末・明治維新にかけて、政情不安定で暗殺などが横行していたのだから当然である。自分たちを守ってくれるのは日本ではなくて、自分たちの領事館だという意識がそこにはあった。だからこの治外法権の撤廃には応じられなかった。
 そのため明治政府は日本は野蛮な国じゃないということを示す必要性があった。そこで出てきたのが鹿鳴館である。鹿鳴館が持つ機能は、「日本人が過去の古臭い慣習を捨てて、今やヨーロッパ式の食事の行儀作法、舞踏会での礼儀作法を自由に駆使できるようになったことを外国人に証明してみせる舞台であった」。
 鹿鳴館で華やかな舞踏会が催されることは、日本はそれだけヨーロッパと同水準の文化を持っていることの証明となり、そのことでヨーロッパ人の不安を払拭し、ヨーロッパと日本人は対等に扱われるべきであるという意識が鹿鳴館の落成式を開いた外務卿井上馨にはあった。鹿鳴館は治外法権の撤廃を意識して作られたものであった。
 しかしこれは猿まねでしかなく、ヨーロッパ人は日本がヨーロッパの先進諸国と対等になったとは誰も思っていなかった。むしろ「この国民には趣味がないこと、国民的誇りが全く欠けている」と言われてしまうのである。つまり日本の西洋化、近代化はその程度のものであったのだ。その西洋化、近代化は基本的に根付いている訳じゃない。形ばかりのものをせっせと持ち込み、顔色をうかがい、それを持って西洋化、近代化したと認じているだけであった。
 それでも中にはしっかりした人物もいた。ロシア皇太子であったニコライ二世が襲撃された大津事件で、犯人の津田三蔵に極刑を言い渡さないと、日本のメンツがなくなるし、国際的に何が起こるかしれたものじゃないという不安があった。ところが、日本には刑法116条に「天皇、三后、皇太子に危害を加え、または加えようとするものは死刑に処す」という規定があるが、それがニコライに適用できるどうかの問題があった。大審院長児島惟謙は刑法116条は外国の皇太子に適用する理由は何もないとそれを突っぱねる。元老、閣僚はそれは危険だと児島を説得するが、児島は司法権擁護のため次のように言う。
「諸外国は常に日本の法律の不完全さ裁判官の不適性ついて不平を鳴らしている。今を措いて、日本人の法に対する尊厳を示す時はない」と。状況によって法律を変えてしまうのでは、諸外国からの信頼など得られるはずがないというのである。結局津田は無期懲役を言い渡された。日本が信頼を得るのは、単にヨーロッパ文化の猿まねだけじゃまずいということをわかる人はわかっていたのだと思うとちょっと安心しちゃう。

 さて、この巻のメインテーマはやはり日清戦争となるだろう。この本を読んでいると、日清戦争のきっかけとなるのが朝鮮半島の情勢である。明治維新後、日本にとって、朝鮮半島の動向は国内の動向と絡んで問題視される。本来なら他国のことなのだから、気にする必要性もないし、干渉する必要性もないはずだ。ところが日本は明治維新を達成したことによって、アジアで西洋化、あるいは近代化を成し遂げたという思い上がりから、未だ鎖国をしている旧体制化の朝鮮にちょっかいを出す。またそこには国内の不安的要素を一気に朝鮮半島で解決しようという意図も見られ(第二巻にそのことは書いた)、さまざまな形で日本は朝鮮に干渉する。
 当然朝鮮の宗主国として任じている清と衝突せざるを得ない。その上台湾の帰属問題も絡まっている。これが日清戦争へとつながっていくことになる。先を急げば、この後、朝鮮はロシアと接近し始めるものだから、次は日露戦争と続いていく。
 私は当時の明治政府がなぜこれほどまでに朝鮮半島にこだわり、なんだかんだと口を挟むのかよくわからない。どう考えても思い上がりとしか言いようない態度である。日本は明治維新を成し遂げ、アジアで西洋化、近代化を唯一成し遂げたという意識から、隣国である朝鮮がいつまでも鎖国を続け、旧体制のままであることではまずいと主張するのは一体どういう意識なのだろうか?内村鑑三でさえ、『朝鮮戦争(日清戦争こと)の正当性』という英語の論文で「日本は東洋の『進歩』の擁護者である。その不倶戴天の敵である清国(救いがたく『進歩』を嫌う者)を除いて、日本の勝利を望まない者がどこにあろうか!」と結論づけている。
 あるいは朝鮮がロシアの侵略下に置かれるという脅威があるのだろうか?また清が隣国で覇権を及ぼしているという脅威から、朝鮮に干渉せざるを得ないということなのだろうか?
 どっちにしても、自分の国内の充実を図れば、たとえ西洋列強国が干渉し始めても、跳ね返せるくらいの考えはなかったのだろうか?どうも視点の置き場所が違うような気がしてならない。
 が、とにかく日本は戦争に勝った。勝って日本は世界の名だたる「帝国」となった。その統治者である明治天皇の株がど~んと上がる。明治二十七年(1894)十二月二十七日付けの「ザ・ニューヨーク・サン」の論説でヨーロッパ、アメリカの君主あるいは大統領と比べて「天皇に比すべき者殆どなし」、「天皇は真に古今独歩の君」であると言われ、歴史上の名君、例えばローマ皇帝のアウグストゥス、英国のアルフレッド、フランスのナポレオン一世、ドイツのヴェルヘルム一世の統治も明治天皇には「遙かに及ばざる所なるべし」とヨイショされるのである。
 さすがにこれは持ち上げすぎという感じがしてしまうが、それでも明治天皇の成長は著しい。読んでいると、即位したての頃は、小さな声で勅令を発していたり、外国の要人と話していたのが、それが積極的に要人と会い、政治にも積極的に自分の意見を言い、あるいは元老、閣僚に意見を聞くようになって、明治天皇は日本の威厳ある統治者となっている。
 それにしてもここまで明治という時代が進むと、幕末・維新時にあれだけの数の人物を排出したのに、伊藤博文しか人物が残っていないのが悲しい。天皇は政局が不安定になると、いつも伊藤を呼び出し、何度も内閣総理大臣に任命する。一体伊藤は何度総理大臣になって、やめていったのだろうか?また伊藤自身も自分がうまく立ち回れないと、天皇に勅令を出してもらって、助けてもらう位しか出来ない人物なのだから、この後日本が二流の人物たちに翻弄されるのも仕方がないことなのかもしれないなんて思ったりする。


評価
★★


書誌
書名:明治天皇〈3〉
著者:ドナルド・キーン/角地 幸男訳
ISBN:9784101313535 (4101313539)
出版社:新潮社 (2007-04-01出版) 新潮文庫
版型:504p 15cm(A6)
販売価:740円(税込) (本体価:705円)

2008年08月08日

ドナルド・キーン著『明治天皇』〈2〉

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 2巻目を読み終える。この巻のハイライトは西南戦争であろう。西南戦争で西郷隆盛が死に、大久保利通も暗殺され、木戸孝允も病死することで、明治維新立役者が相次いで失われていく。以後、明治は西郷や大久保、木戸たちの腰巾着たちで運営されていくこととなる。
 実を言うと、私も幕末・明治維新の興味はこのあたりまでで、以後それほど興味がわかない。なぜなら彼ら維新の立役者以後出てくる人物たちは、明らかに品格の上でも、西郷や大久保、木戸たちに劣るからである。どうしても彼らより小さく感じてしまうのだ。彼ら以後出てくる人物の行動にはどこか小賢しい部分を感じてしまうし、それに威厳がない。明治天皇にしても、西郷や大久保、あるいは木戸に対する態度と明らかに違う態度で接しているし、中には小馬鹿にして、嫌っているところがここには記されている。
 確かに明治維新という大革命をなした人物たちと一緒に生きてきた天皇にしてみれば、彼らに頼るところは大きかったに違いないし、明治がある程度完成してくれば、今度はそれをどう動かしていくかに、移ってくるわけだから、実務的な政治能力が求められていく。いってみれば役人的存在感の人物が幅をきかせてくることになる。だからある意味人物が小さくなるのはやむを得ないのかもしれないが、その分つまらなくなる。
 明治はさまざまな問題をはらんでいた。まずは武士階級の没落である。この数の多さが明治のとりあえずの問題であった。そこで出てきたのが、朝鮮出兵である。朝鮮はまだ鎖国を続け、日本の度重なる要求にもかかわらず、開国をせず、日本を蔑んだ態度で接していた。そこへ西郷が乗り込んでいき、自らそこで殺されることで、朝鮮征伐の大義名分ができあがり、没落した士族をそこへ持っていくことで、士族の不満を解消しようとした。
 しかしその計画は却下され、西郷は鹿児島に去る。鹿児島では不満分子が西郷の元に集まり、政府にたてつくこととなる。これが西南戦争である。つまり明治という国家を完成するためには、どうしても士族の完全なる解消が必要であり、明治国家作り上げるに当たりどうしても通らなければならないものであったように思えてならない。江藤新平にしても西郷隆盛にしても、彼らと共に死ぬしかなかったように思えてくる。

 明治天皇は西南戦争が起こったとき、大和巡幸をしていた。本来ならすぐ東京に戻り、国家の危機に対処すべきはずなのに、巡幸を続けた。それは「西郷隆盛は、天皇自身とりわけ贔屓にしている維新の英雄である。その西郷が率いる鹿児島軍と政府軍が一戦を交える恐れが出てきた。この可能性を知った時、天皇はどんな反応を示したか。思えば明治天皇が脇目もふらず巡幸の日程をこなすことに専心していたのは、これらの雑念を頭から振り払うための苦肉の策であったかもしれない。残りの京都滞在を通じて天皇が見せた無気力な態度もまた、同じ理由から出たことだったかもしれない」とキーンさんは書いている。大久保が暗殺された時も「朕深ク股肱ノ良臣(最も頼みにしていた家臣)ヲ失フヲ悼ム国家ノ不幸之レニ過ルコトナシ」と言った。

 ところで読んでいて嫌だなと感じたことがある。明治維新を遂行し、国家の大変革なし遂げた日本の役人たちは、その原因となった西洋列強が日本に対して行った高圧的な態度を自ら清国や朝鮮に行ったことである。自分たちは西洋列強の高圧的な態度で苦しんできたにもかかわらず、それを忘れて、自分たちは天皇を中心にして西洋化し、近代化した。だから“あんたちもそうしないといけないよ”いつまでも旧習にしがみついていてはならないという態度に出るのである。どこか自分たちはお前らとは違い、優秀なんだという傲慢な態度がのぞく。おそらくこうした態度は、以後増長する一方で、第二次世界大戦の敗北まで日本は持ち続けることになるのだろう。
 確かに西洋化の促進は加速した。例えば明治九年に天皇が青森の小学校を訪問した時、生徒が「演説 ハンニバル士卒ヲ励スノ弁」や「演説 アンドル、ジャクソン氏合衆国上院ニテノ演説」を英語で話した。明治がなってわずか九年で、しかも青森の小学校でハンニバルやアンドリュー・ジャクソンについて器用に英語で話すのである。これには天皇も不快に感じた。日本の伝統に無知でハンニバルはなかろうということである。
 これに対して明治天皇は「去年の秋、各県の学校を巡覧し、親しく生徒の学業を視察したが、例えば農商の師弟が、その発言が高尚な空論に終始するものもいる。甚だしきに至っては西洋語が達者であるにも拘わらず、それを日本語に訳すことが出来ない。こういう学生は卒業後、家に帰っても再び本業に就きにくい。高尚な空論では、公職に就いても役に立たない。それどころか博聞を誇って目上を侮り、県の官吏を妨げるものとなるに違いない」と言う。さすがである。形ばかりの西洋化、近代化は器を立派にするけれど、中身がお寒い限りであると見抜いている。
 ヨーロッパやアメリカの思想を受け入れる器の大きさを持ち合わせているのは結構だけれど、自分たちを見失ってするもんじゃない。本来それらの思想はその土地で生まれたものであって、確かに一部は普遍的な部分は持っているかもしれないが、それがどこでもそのまま通用するとは限らない。それを勘違いして、何でも新しいものはいいとして、それまでの日本が持っていた美徳を忘れてしまうのは、そのまま現在まで続いているような気がする。
 この時の明治国家は器ばかり西洋化、近代化しているだけであって、他国に誇れる国家ではなかった。それを勘違いして、大国ぶる傲慢な姿勢は不快感ばかりが残る。幕末・維新で活躍し、死んでいった人物たちはそんな国家を夢見ていたんじゃないと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:明治天皇〈2〉
著者:ドナルド・キーン/角地 幸男訳
ISBN:9784101313528 (4101313520)
出版社:新潮社 (2007-03-01出版) 新潮文庫
版型:490p 15cm(A6)
販売価:740円(税込) (本体価:705円)

2008年08月04日

ドナルド・キーン著『明治天皇』〈1〉

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 長編が読みたくなった。まずはこの本からはじめることにした。
 出だしに次のような文章がある。
「明治天皇が日本史上最も偉大な統治者であると信じる日本人でさえ、その輝かしい名声に見合う天皇の業績一つ思い起こすのに苦労するありさまである。明治天皇という名前から、我々は当然のように近代日本の始まりを告げる『明治維新』を連想する。しかし、改元当時(1868年)の天皇は満十五歳に過ぎず、維新ならびにそれに続く数々の重大な変革に天皇が何らかの重要な貢献をなし得たとは考えにくい。明治天皇の名は、また日清・日露の戦争の勝利と日英同盟の締結とも結びつけられるが、これらの出来事に際しての天皇の役割は、明らかに政策や戦略の実際の立案者というよりは仁慈ある統率者ということであったろう。しかし明治天皇の治世を通じて、いや後世に至るまで、この天皇の存在が人々に非凡な勇気をある行為を演じさせということも確かな事実である。明治新政府の数々の変革をなし遂げた功臣たちにとって、明治天皇が常に心拠り所であったことは疑うべくもない事実だった」と。
 多分この本は明治天皇だけを語るのではなく、明治を作った非凡な人々が(それにしてもいつも不思議に思うのだけれど、どうしてこの時期だけにあれだけ多くの有能な人物を排出したのだろうか?)、明治天皇のブレーンとなって、新しい日本を作り上げたことを語るのだろうと思う。それは明治天皇が自ら立案、政策できる訳がないと思うからだ。だってそれまでは天皇は政治や外交の表舞台から遠ざけられていて、平安時代のままの生活をすることを強制されていたのだから当然であろう。
 しかし天皇は明治維新を推進する人物たちにとって、キーンさんが言うように心拠り所であった。例えば大久保利通に初めて天皇が謁見したとき、大久保は「余一身の仕合、感涙の外これなく候」と書いているし、木戸孝充にしたって「布衣にて天顔を咫尺に奉拝せし事、数百年、未嘗聞なり。感涙満襟」と書くくらい、天皇と会うことだけで涙しちゃうのだ。
 一方で明治天皇は都合のいい道具であり、中には自分たちが行動しやすくなるため、「玉」というものさえいた。少なくともこの巻では、いわゆる幕末志士の生き残りたちが、明治維新を遂行するために、幼い明治天皇を道具として使っている傾向が強い。

 この本は外国人が明治維新を語るため、いわゆる小難しい言葉の使い回しがないし、細かい背景を長々つづることもない。そのため比較的わかりやすい。それは以前読んだ大佛次郎さんの『天皇の世紀』と比べてみても明らかである。しかし、注は詳しく書かれ、それは結構面白い。

 まずは明治維新が始まるきっかけは、ペリーの黒船来航からである。それまで200年以上も鎖国を続けてきた日本は当然ペリーの来航は驚きであった。だからといって、強引なペリーの態度を蹴散らすほど、国力がなかった。鎖国の中で、長い間江戸時代が続き、戦もほとんどなくなり、武士が戦う集団としての実力が失なっていた。幕府はただ慌てふためくだけであり、どうしていいかわからなかった。自分たちで態度を決めかねてしまったのだ。そこで、助けを天皇に求めた。キーンさんは言う。「いったん天皇と協議する先例が出来てしまうと、かりに不可能ではないにせよ、もはや天皇の意思を無視することは難しいということを幕府は痛いほど知ることになった」と。
 当時の天皇は孝明天皇であった。この天皇、神聖な日本の土地に外国人がいるということ自体神々に対する言語に絶する屈辱であると考えていた天皇で、外国と交易をするなんて考えられないという思想の持ち主であった。いわゆる徹底した攘夷思想の持ち主であった。当然孝明天皇は攘夷を遂行しろと幕府に言う。
 ところがアメリカ、イギリス、フランスは武力を持って開国せよと迫る。「幕閣の中でも聡明な人々、例えば将軍後見職徳川慶喜、政事総裁職松平慶永は開国がもはや必死であることに気がついていた。しかし将軍家茂としては、孝明天皇に攘夷を遂行するという言質を与えるほか余地はなかった」。幕府は列強各国、天皇と板挟みになる。
 一方で孝明天皇は、幕府擁護側であった。あくまでも幕府が自らの主張である攘夷を遂行しつつ、政治・外交のイニシアティブを取るべしという態度である。孝明天皇には「尊皇攘夷」という考えはなかった。公武合体をして、この難局を乗り切れという考えであった。
 板挟みになった幕府はその権威がどんどん失墜していき、逆に天皇の存在感が大きくなっていく。将軍家茂は頻繁に上洛し、孝明天皇のご機嫌伺いをするようになる。孝明天皇は初めて自らの意思で、御所を出て、攘夷祈願のため賀茂下社へ行幸した。家茂も同行し天皇の乗る乗り物が家茂の前を通過するとき、馬から下りてひざまずいた。この時高杉晋作がここにいて、その光景を見て、芝居もどきに「よっ、征夷大将軍!」と声をかけた。このように揶揄されるくらい、将軍の権威は失墜していたのである。
 その孝明天皇は急死した。一説によると毒殺されたのではないかという噂がある。その犯人の可能性の最も高かった人物が、岩倉具視と言われているが、他にも大久保利通などの名前もあがっている。
 では何で毒殺説があるかといえば、孝明天皇の外国人嫌いによる。アーネスト・サトウもこのことを書いている。先に書いた通り、孝明天皇は徳川幕府の崩壊は望んでいなかった。キーンさんは次のように書く。
「もし孝明天皇が倒幕と王政復古を目指す人々の前に立ちはだかり、なおも妨害し続けたら、維新の実現は極めて難しいことになったに違いない。あるいは、その実現は不可能でさえあったかもしれない」と。
 確かに孝明天皇が生きていたら、維新は達成は難しかっただろうと思える。だから殺されちゃったといってもあり得ないことではないなと思うのだ。実際次の明治天皇に世になって、王政復古を目指す人々にとっては倒幕運動もやりやすかっただろうし、維新も達成できた。
 第一巻は、明治天皇誕生から、江戸城開城、そして幕府の残党狩りに進み、明治天皇が東京と改名された江戸に向かい、何度か江戸城入城するまでが書かれている。


評価
★★★


書誌
書名:明治天皇〈1〉
著者:ドナルド・キーン/角地 幸男訳
ISBN:9784101313511 (4101313512)
出版社:新潮社 (2007-03-01出版) 新潮文庫
版型:471p 15cm(A6)
販売価:700円(税込) (本体価:667円)