2008年08月21日
司馬遼太郎著『殉死』
歴史というのは非情なもので、ある程度時間が経って、その後の変化などを加味して時代考証をしたとき、例えば指揮官が有能な人物であったか、あるいは無能であったか、はっきりとしてしまう部分がある。そういう意味では乃木希典という人物は指揮官としては無能な人物であったようである。ただ明治天皇が崩御した後、追って殉死したという一点のみで、乃木という人物を過大評価してしまったところがあるようである。
司馬さんはこの本で乃木希典という人物がどういう人物であったかをこの本で語る。従ってこの本は小説とは違う。これは推測なのだが、長編『坂の上の雲』で集められた資料から、乃木希典のことが独立して、この人物評伝となったのではないだろうか?
乃木希典はわずか六カ月しか洋式軍事教育を受けていない。ただこの時代他の者もこの程度の軍事教育しか受けていないから、乃木だけがひどいというわけではないらしい。しかし乃木の筋目がものをいった。つまり乃木は長州人であったことが大きく、しかも乃木は吉田松陰の師匠玉木文之進と濃い縁続で、乃木が十六歳の時玉木文之進の内弟子となったため、松陰の相弟子でもあった。この筋目は明治という時代のとって抜群の筋目であった。つまり乃木の出世は自分の出自が明治新政府でものをいったからなったものであった。決して能力や才能で出世した人物ではなかった。そのため司馬さんは「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかった」と断言する。ただ「詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」と皮肉混じりで付け加える。
「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美のなかに置き、劇中の人物として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できる」タイプで、「自己美の完成のために絶えずそこに意識を集中してきた。かれは軍事技術者よりも自己美求道者であった」。「乃木はもともと死のなかに唯一華やぎを求める思想家であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる低の行者であった」から、「自分の軍事能力に(あるいは不運に)絶望するとき、つねに自殺を思い、自殺によって自分を恥辱から救いだし、別の場所で武人としての美の世界に入ろうとする衝動が、反射的におこるようであった」。
こんな軍人らしくない人物を指揮官にし、日露戦争の旅順攻撃を任せたのである。もともとこの戦争では旅順は陸軍の目標にはなっていなかったらしい。ただ海軍の要請で、旅順を攻撃目標にした。陸軍が旅順に停泊している軍艦をたたいてくれれば、海軍はやがてやってくるバルチック艦隊だけと戦えばいいからである。乃木は旅順に到着し、一日かせいぜい三日もあれば陥落できると大本営に連絡したが、完全要塞化している旅順は落とせなかった。何と陥落に百五十余日もかかり、六万人死者を出したのであった。しかも児玉源太郎力がなければ、攻略さえ難しかった。これを無能と言わなければ何と言えばいいのかと言いたくなる。
そして自分の能力なさを自殺することで自らを救おうとし、銃弾がばんばん飛んでくる前線に何度も立とうとするのであった。そのたびに部下が止めにかかる始末であった。
乃木希典とはその程度の人物だった。こんな人物を指揮官として頭に置き、戦ったのである。部下や兵士たちはたまったもんじゃない。
ただそう思うのは現代の私たちである。乃木に従った部下や兵士たちは「封建の世が去ってまだ遠くなく、しかも封建の世に躾られた節度と、権威への服従心と、つねになにごとかを仰ぐ心をもち、つねに崇敬すべき対象をもち、もしその崇敬すべき心がわずかでも自分において薄らげば天地がくずれるのではないかという畏怖心をあわせもっていた」人々であった。だから乃木に従ったのである。そういう意味ではたとえ乃木が無能であっても関係なく、もともと「動機が美であれば結果はさほど重視しなくてもよい」という倫理観で人間関係が成立していたのである。
そして乃木もそうした倫理観を明治天皇にもっていた。だから天皇が崩御すれば、殉死するしかなかったのだろう。乃木が天皇を崇敬すればするほど、天皇は心地よかったに違いない。明治天皇は乃木の無能さをたぶん知っていたのであろう。しかし乃木が持つ倫理観は天皇にとってみれば「ういやつ」という気持ちにさせたに違いない。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などは能力の提供者として明治天皇に仕えたが、乃木希典は誠実の提供者として仕えただけであったと司馬さんは言い切る。
そして殉死は先にキーンさんが言ったように、乃木をして天皇や皇室への忠義者とさせた。これは昭和の軍閥には有り難い存在であった。能力もないのに自分が作り上げた「美」に酔いしれるだけでもたちが悪いのに、殉死までも忠義の体現者と崇められるのだから、余計にたちが悪い。
評価
★★
書誌
書名:殉死
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163006208 (4163006206)
出版社:文藝春秋 1981/08出版
版型:206p 19cm(B6)
販売価:1,500円(税込) (本体価:1,429円)
- by kmoto
- at 21:02
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