2008年08月31日
司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 2
明治という新国家に内蔵している問題を司馬さんは次のようなものだったと言う。
「歴史的にいえば明治政府ほどつらい政権ない。どの時代の革命政権も前時代より租税を安くするところから施政を出発させるのが普通であるのに、旧幕府よりもはるかに民衆の財政負担を重くせざるをえなかった。その最大の理由は明治革命の主目的が近代国家になるためのものであったからだ。やってみたものの、近代国家というのはべらぼうに金がかかるものだった」
「それらの無理は、百姓たちにしわよせされた。このため各地で一揆がしきりにおこった。軍費を負担させられるだけでなく、旧幕府もそれをしなかった徴兵の義務を百姓に課したのである」
しかも始めたばかりであったから、体制が整っていない。その上幕末から大して時間が経っていないものだから、意識として未だ江戸時代をを引きずっているといっていい。そこに征韓論の是非の根拠がある。つまり大久保側からすれば、国としての体制も整っていないし、金もない状態で征韓論を認めれば、戦争に行きつくことは必死である以上、そんなことができるわけがないと主張する。大久保は国家を数量計算で見ようとする実際面から離れず、西郷の主張するところと次元を異にしていた。
一方で「西郷の立論は現実への把握がとぼしく、多分に実際面において堅牢でなかったが、しかし西郷の哲学的論理からすればそれこそ実際的であり、なぜなら日本民族はこれによってこそ苦難を経て草木とともに一新するだろう、維新の意義はそこある、極端にいえば日本民族の半ばが戦火に倒れるともアジアの一新に役立てばそれでよい」といわゆる精神論で征韓論を主張する。
要は征韓論の是非は現実面でいくか、精神面でいくか、それによってスタンス決まってしまうのであった。しかし「廟議は、討論において結局大久保が優位に立った。金がないからだめだ。という、財政面から押しつづけてゆけば、いかにすぐれた政策案でも無力にならざるをえない」のである。
が、征韓論は一度勅許が条件付きで降りている。西郷にすれば、これ以上何をする必要があるかというのが心情であった。だから西郷は以前のような行動はしない。その点、前に私は不思議だと書いた。そうした態度を西郷が取ったのは「『公明正大の正論が堂々とまかり通る政府であるはず』というのが、西郷の多分に願望をこめた政府観で、そういう政府をつくるためにおびただしい流血のすえに成立した政府なのである。その政府を作った西郷としては、太政官政府を幕府のように見たくはなく、まして幕府を倒したときのやり方をこの政府に対して試みようとは思わなかった」からだと司馬さんは説明する。なるほど。自分が作った新政府は、誠意を持って主張すれば意見の通る政府であって欲しいし、そうでなければならないはずだとする西郷のなら、これ以上余計なことはする必要はなかったのだろう。
閑話休題
この巻は征韓論を通して西郷と大久保の意見の戦いを描くことメインにしているが、同時に西郷、大久保の人物像にも当然ふれる。司馬さんはまず大久保について次のように言う。
「かれは日本国の政綱を攪るにあたって、一見無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それにむかって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷といえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。にべもなかった」と。だからこそ「やがて大久保は、彼が予感したように、殺されるべき人物であった。大衆は政治についてのこのような生真面目な明晰者を好まないというおそるべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった」という。
一方西郷は「本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。(略)げんにかれは幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をも集団をもまた世の中をもうごかした。西郷が放射するその雲間のきらめきのようなものを、ひとびとは政治的人間の徒類のなかでほとんどありうべからざるものとして感じた。西郷においてひとびとがなにか神聖なものを感じていたのは、そういうことであろう」と人々が西郷に引きつけられる理由の一つを説明する。さらに、「西郷は単なる仁者ではなく、その精神をつねに無私な覇気で緊張させている男であり、その無私ということが、西郷が衆を動かしうるところの大きな秘密であった。人間は本来無私ではありえず、ありえぬように作られているが、しかし西郷は無私である以外に人を動かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常な姿にひきすえることはできないと信じている男だった」。西郷の人望は西郷の無私によって動かされたものによるのだろう。
ところで西郷たち革命家には革命家が持つ特別な精神体質があるように思えると司馬さんはいう。曰く「革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。西郷、大久保、木戸などは、旧幕府が一見盤石な重みをもっていたときに志をおこし、奔走し、法網と偵吏と刀槍のなかをくぐりぬけるという血みどろの前歴もっている。同時代でかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者いたが、しかしそれらのひとびとが日常の常識的世界の安らかさのなかで過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治以後である。交わりつつも、ついに交わりきれないものがあるのは、この連中を動かしてきた志ーある種の肉腫ーのようなものが邪魔をするのかもしれない。さらに西郷のように、その肉腫の疼きで行動してきた過去のさまざまな過程において、結果として旧主の島津久光を裏切るかたちになったり、あるいは生死を共にした多くの下僚(桐野ら)とのあいだに理屈を越えた恩愛の情が生じてしまっている」という。(その点「板垣退助や副島種臣にはその前歴が革命家ではなく、単に藩勢力の代表者として入閣していたに過ぎないので、そういう過去から持ち越してきた厄介な荷物はなかった」と彼らとは人間が違うんだよといっている)
伊藤博文に関しても、「この時期の伊藤には軽快な政治処理能力はあるにしても、西郷や木戸が持ち、むしろそれによって苦しんでいる哲学は持たなかった。志士仁人の時代は過ぎ、すでに処理家の時代がきている。新国家に山積している解決困難な諸問題や諸事務を解決するにさしあたっては哲学は不要であり、処理家の手腕を必要とした。伊藤が、西郷退治の黒子として活躍しているのは、処理家が登場しようとしている新時代を象徴しているといっていい」と伊藤の台頭を説明する。西郷自身「自分はもはや世の進運に役立たぬ旧物」と感じていたが、そんな中征韓論は西郷にとって最後の情熱を傾けられるものであったし、存在感が示せるものであった。しかしそれは明治政府にとって命取りになるので、何とか阻止せねばならないことでもあった。西郷は「旧幕府より明治政権を小さく見ていたが、旧幕府がすでに歴史的生命をうしなっていたのに対し、明治政権は弱小ではあったが、誕生してまだ若々しくある。若いというのは、この誕生したばかりの権力を懸命に守ろうとする情熱が権力内部に横溢していた」ことを軽く見ていたのだろう。それが西郷の敗北につながったわけだ。
さて、廟議は翌日に持ち越されたが、西郷、大久保とも一歩も引かず、三条が「万策尽きました」と西郷の征韓論に決定したのであった。
どの後大久保は紋服を着用して三条に自ら辞表を手渡した。三条は封書の中身を見て絶句する。とりあえず詳しい話を聞きたいと、大久保を中に招き入れようとするが、大久保は「いいえ、ここで失礼します」、「これにて」と背をひるがえした。大久保にとって、自分が西郷と対決するにあたり、参議となり、しかも信用おけない三条や岩倉が反征韓論の立場に豹説しないという念書まで書いたのに、それを裏切った。だから大久保にとってこの態度は当然であった。
ところが三条がこのあと倒れてしまう。伊藤は三条が偶然にしろ倒れたことをいいチャンスとして利用する。三条の代理をしたのは岩倉具視であった。岩倉に太政大臣職を代理すべき旨の勅命が下る。
そんな岩倉の元へ副島種臣、江藤新平、板垣退助らは西郷を誘い、訪れる。廟議で決定した征韓論を早く上奏しろというのである。岩倉は「あすにも上奏いたす」と四人に言うが、それは岩倉自身に説を上奏するということであった。つまり岩倉も征韓論が愚論と考えているが、とりあえずそれを実施するには日本海軍、陸軍の整備が整うまで猶予するというものであった。これに対して江藤新平は岩倉は三条の代理なのだから、三条が決めたことを実行すべしと迫る。そうでなければ三条へ不忠実であり、廟議を侮辱するものだと言い切る。
ところが岩倉も腹を据えている。岩倉は三条より代理を頼まれたわけではない。もしそうなら江藤の言うとおりであろう。しかし自分は天皇より代理を命じられた。代理という名称はついているけれど、岩倉は三条から独立した存在であって、政治の最高責任者が変わったのだから、自分の考えを天皇に上奏できると主張するのである。
このとき別室ではこのやりとりを聞いている人物がいる。桐野利秋である。西郷がこのとき連れてきた。岩倉への脅しである。桐野は幕末中村半次郎といい、「人切り半次郎」と恐れられるほど、多くの人を切ってきた人物である。こんな人物が別部屋で岩倉と西郷らの話を聞きながら、刀の柄をかちゃかちゃやっているのだからたまったもんじゃない。しかし岩倉は耐えた。そして話が尽きた頃、一座をにらみまわし、「わしのこの両目の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思ってもそうはさせんぞ」岩倉の生涯の中でもっとも凄味のある一言を吐く。これで勝負は決まった。四人の参議は席を立つ。そのとき西郷は「右大臣、よく踏ん張り申したな」と言ったという。まさしくその通りであり、たぶん西郷の性格柄、このときの岩倉に感動したのだろう。「もうなにも申さぬ。勝手になされ」と辞した。岩倉はちゃらちゃらした公家ではなかった。幕末動乱の中を生き抜いてきた人物であった。だからこそこの言葉には凄味がある。
このあと西郷は東京をひきはらうべく行動する。ただ一人暇乞いに行く。幼なじみであり、維新ではともに戦い、征韓論では政敵となった大久保利通である。このとき大久保のもとには伊藤博文がいたが、伊藤が席を外そうとすると西郷はかまわないという。西郷は大久保に次のように言う。
「一蔵(大久保)どん、おいはくにへ帰っど」
「辞表を送っておき申した」
「今後の国事(あとのことは)、よろしゅう頼んみやげ申す」
これに対して大久保は、怒気をみせ、「それは吉之助どん、おい(俺)の知った事か。いっでんこいじゃ(いつでもこうじゃ)。いまはちゅう大事なときにおまんさぁ、逃げなさる。後始末はおい(俺)せなならん。もう、知った事か」と言い放つ。西郷は「仕様がない」とつぶやいて立ち上がった。
この日が両者の永遠の別れとなる。私はこの場面思わず絶句してしまう。妙に二人のこの会話に感動してしまった。
この二人には征韓論に関しては妥協点が見いだせなかった。相反するだけである。結果として大久保が勝ち、大久保は自分が描く国家建設に邁進する。日本が近代国家となるためには、まだ国内に国民意識がない。だから制度もそうだけど、国民の意識も近代的なものに変えていかなければならない。その面倒を国が見るようにするのである。言ってみれば国民は馬鹿だから、国や政治家、役人が教え、面倒見てやるということである。確かに維新直後ではそうする必要があったかもしれない。けれど大久保が倒れた後、その意志を歪曲して継いだ山県有朋がおかしくしてしまい、その意識は現代になっても残っている。日本が今でも政治家、役人がやり放題の国家なのはこのためである。彼らの国民を小馬鹿にした態度も未だ持ち続けているのも、明治以来のものではないかと思う。
もし西郷の征韓論が通っていたら(この時点で現実にはあり得ないのだが)、西郷がもっていた精神のあり方が日本人に植え付けられていたかもしれない。そうすれば、今の日本人はもっともっと自分たちに自信を持ち得たかもしれないし、もっと謙虚であり得たかもしれない、と思ったりする。
書誌
書名:翔ぶが如く 2
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617206 (4163617205)
出版社:文藝春秋 1985/08出版
版型:354p 19cm(B6)
販売価:1,600円(税込) (本体価:1,524円)
- by kmoto
- at 21:20
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