2008年09月29日
文芸春秋編『目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛』
確か文藝春秋デラックスというムックがあったのだけれど、今もあるのだろうか?なんか最近本屋さんで見たこともあるけれど、ちょっと昔のやつとは違うような感じだ。昔のは内容がもっと“俗っぽい”かったし、サイズも大きかったような気がする。
この本はそれを文庫化したもので、当時NHKの大河ドラマで「翔ぶが如く」が放映されるのにあやかってというか便乗して出版されたものだろう。もちろんこんな本、今では本屋では手に入らない。きわものぽいもね。
で、なんでこんな文庫本が私の手元にあるかといえば、以前『翔ぶが如く』を読もうととして、古本屋さんの均一本コーナーで各巻を集めていたときに、この本も見つけたので買っておいたのだ。
今回やっと『翔ぶが如く』を読み終えたので、この本のことを思い出し、手に取った次第だ。便乗本?にしては面白かったし、内容もしっかりしている。特に明治時代の写真が興味深い。『翔ぶが如く』に出てくる人物たちの肖像写真もあって、「へぇ~、桐野利秋はこんな顔をしていたのか」とか、大久保利通が新築した邸宅の写真を見て、「ふ~ん、これが『大久保はこんな豪邸を建てやがって』と帰郷した薩摩士族に反感を買った家なのか」としげしげと眺めてしまった。
西郷たちが最後に籠もった城山の写真があったが、竹を組んで土嚢を積み上げ、政府軍の攻撃を防ごうとしている状況がよくわかる。ちょっとした万里の長城みたい。
後は当時の錦絵がいくとも掲載されているが、それがカラーじゃないのが残念だなと思った。昔「別冊太陽」で明治の新聞や錦絵などがたくさん載ったものを持っていたのだけれど、古本屋さんに売っちゃった。今にして思えば残しておけばよかったなぁ。
さて、写真も面白いけれど、この本に寄稿している作家や評論家などの文章にも面白ものがあった。特に「鼎談書評」として木村尚三郎さん(いやぁ~懐かしい名前だ)、丸谷才一さん、山崎正和さんの鼎談は興味深かった。
例えば丸谷才一さんが「(司馬さんは)明治維新以前の西郷への高い評価と、以後の彼に対する極度に低い評価との間で、困りながらこの七冊(『翔ぶが如く』)の本を書いた。この本の最大の読みどころは、その司馬さんの困り方です」といっているのが、確かに!と思ったのだ。そのギャップがあまりにもあるので、司馬さんは『街道をゆく』では「西郷の不思議さ」といっているのだが、それをいろいろな方向からなんとか説明したい、あるいは司馬さん自身納得したいという思いで、この本がこうも長くなってしまったんじゃないかと思うくらいだ。しかし結局司馬さんもそして読む我々も、西郷の極端な変化に理解が及ばない。「こうだから西郷は維新前と維新後で変わらずを得なかった」という説明が出来ない。それを丸谷さんは司馬さんが困っているといっているのである。それがよくわかったのである。
さらに、山崎正和さんが明治維新という革命の性質をうまいこと言い当てているなと感じた言葉がある。
「やってみて悪ければまた考える、というやり方で一貫して明治維新はおこなわれた。ですからそれは西洋流の革命とはまったく性質を異にしたものだと考えていいですね。
西洋流の革命というのは、マルクス主義の革命もそうですし、ナポレオンの革命ですらそうですけれども、最初にイデオロギーがあり、一つの政体に対する青写真というものがあった。それについては動かない信念があったから、革命家は敗けたら敗けっきり、勝てば官軍です。
ところが日本の場合、寄り合って相談しながらあっちへ行こう、こっちへ行こうといっているうちにだんだん現状が成り立った。そういう意味ではわたしは西洋流の革命が宗教的革命であるのに対して、日本の革命は自然科学的な革命だと思うんです。しかしこれを裏返していうと、ある短い時点の中では全員が裏切り者になるという性質がある。西郷自身も島津久光から見ればたいへんな裏切り者なんですね。そして、西郷はやがて明治維新に対する裏切り者にもならざるを得ない。そういう必然性がすでに明治維新を用意する運動の中にあったという印象をもちました」
つまり西洋流革命はぶれないけど、日本の明治維新は試行錯誤しながら変化し発展していくから、状況が刻々と変化していく。最初は革命側であっても、いつの間にか反革命側になりかねない部分があるというのである。これは幕末から明治、あるいは西南戦争まで歴史を追っていくと「なるほど」と頷ける。たとえば西郷が作り上げた明治政府に自ら失望し始めると、今度は西郷が反政府側に立っているというのを見るとますます頷けちゃう。
それは基本的にしっかりしたイデオロギーが根付いていないからそうなってしまうのだろうけど、その変化についていかないといつの間にか自分が反革命側あるいは反政府側に立っていることになってしまうから恐ろしい。
それは現代の日本社会まで続いている。体制側にいると思っていたあなた、いつまでも今の地位に安穏としていると、気がついた時は反体制側にいることになりかねませんよ。日本という国はそういう国なんだから。
さて、話は変な方向に行っちゃいかねないので、もう一つこの鼎談で木村尚三郎さんがいっていることも懐かしかった。「辺境改革説」(ここでは「辺境理論」といっている)である。
木村さんは、なぜ薩長が明治維新を成し遂げたかを説明するに当たり、彼等が「野蛮」であったからだというのである。その説明が以下の通り。
「知的エリートは、たしかに江戸にいたわけです。そういう人たちは都会化され、野蛮性を失っていたからこそ、逆に力にならない。こうすればこうなる、ああすればああなる、ということがみんなわかっていると指導力を発揮できず、結果として何もできないわけですよ。
歴史はいつもそうですよ。都市文明が進むと女性化して野蛮にやられてしまう。ローマが都市文明化すると全く無知蒙昧なしかし男性的なゲルマン人にやられるわけですよ。そのゲルマンの中でさらに田舎のイギリスが近代になって大陸を押さえつける。さらにイギリスの中の野蛮な連中がアメリカに渡って、これがカンカラで豆なんか煮て食って、頑張った。そして二十世紀の初めからヨーロッパを押さえつけるようになった。もちろんこの「辺境理論」で歴史のすべてが理解できるわけではありません。しかし、明治維新も、その一つの典型的な例のように思えるわけです」
これ昔、大学時代にえらく感動した理論だったのだ。文明はいつまでも続かない。腐敗などが起こり、内部崩壊していく。その文明が成熟していればしているほど、腐敗から逃れられない。その文明から一定の距離をおいている(これは肝腎です。だって全く関係のないところから次を担う文明が生まれるわけがないからだ)他の文明が、その成熟した文明の一部を取り入れつつも自分を見失わないところで(要するに新しい血が入ることで)、次の文明が生まれていくというものなのだ。それが歴史的に説明できるというので、えらく感動したのである。それをまさかここで読むとは思わなかったので、ちょっと懐かしくもあったのだ。
評価
★★★
書誌
書名:目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛
著者:文芸春秋【編】
ISBN:9784168104060
出版社:文芸春秋 (1989/11/10 出版)文春文庫―ビジュアル版
版型:277p 15cm(A6)
販売価:入手不可
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- by kmoto
- at 16:56
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