2008年09月29日

文芸春秋編『目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛』

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 確か文藝春秋デラックスというムックがあったのだけれど、今もあるのだろうか?なんか最近本屋さんで見たこともあるけれど、ちょっと昔のやつとは違うような感じだ。昔のは内容がもっと“俗っぽい”かったし、サイズも大きかったような気がする。
 この本はそれを文庫化したもので、当時NHKの大河ドラマで「翔ぶが如く」が放映されるのにあやかってというか便乗して出版されたものだろう。もちろんこんな本、今では本屋では手に入らない。きわものぽいもね。
 で、なんでこんな文庫本が私の手元にあるかといえば、以前『翔ぶが如く』を読もうととして、古本屋さんの均一本コーナーで各巻を集めていたときに、この本も見つけたので買っておいたのだ。
 今回やっと『翔ぶが如く』を読み終えたので、この本のことを思い出し、手に取った次第だ。便乗本?にしては面白かったし、内容もしっかりしている。特に明治時代の写真が興味深い。『翔ぶが如く』に出てくる人物たちの肖像写真もあって、「へぇ~、桐野利秋はこんな顔をしていたのか」とか、大久保利通が新築した邸宅の写真を見て、「ふ~ん、これが『大久保はこんな豪邸を建てやがって』と帰郷した薩摩士族に反感を買った家なのか」としげしげと眺めてしまった。
 西郷たちが最後に籠もった城山の写真があったが、竹を組んで土嚢を積み上げ、政府軍の攻撃を防ごうとしている状況がよくわかる。ちょっとした万里の長城みたい。
 後は当時の錦絵がいくとも掲載されているが、それがカラーじゃないのが残念だなと思った。昔「別冊太陽」で明治の新聞や錦絵などがたくさん載ったものを持っていたのだけれど、古本屋さんに売っちゃった。今にして思えば残しておけばよかったなぁ。
 さて、写真も面白いけれど、この本に寄稿している作家や評論家などの文章にも面白ものがあった。特に「鼎談書評」として木村尚三郎さん(いやぁ~懐かしい名前だ)、丸谷才一さん、山崎正和さんの鼎談は興味深かった。
 例えば丸谷才一さんが「(司馬さんは)明治維新以前の西郷への高い評価と、以後の彼に対する極度に低い評価との間で、困りながらこの七冊(『翔ぶが如く』)の本を書いた。この本の最大の読みどころは、その司馬さんの困り方です」といっているのが、確かに!と思ったのだ。そのギャップがあまりにもあるので、司馬さんは『街道をゆく』では「西郷の不思議さ」といっているのだが、それをいろいろな方向からなんとか説明したい、あるいは司馬さん自身納得したいという思いで、この本がこうも長くなってしまったんじゃないかと思うくらいだ。しかし結局司馬さんもそして読む我々も、西郷の極端な変化に理解が及ばない。「こうだから西郷は維新前と維新後で変わらずを得なかった」という説明が出来ない。それを丸谷さんは司馬さんが困っているといっているのである。それがよくわかったのである。

 さらに、山崎正和さんが明治維新という革命の性質をうまいこと言い当てているなと感じた言葉がある。

 「やってみて悪ければまた考える、というやり方で一貫して明治維新はおこなわれた。ですからそれは西洋流の革命とはまったく性質を異にしたものだと考えていいですね。
 西洋流の革命というのは、マルクス主義の革命もそうですし、ナポレオンの革命ですらそうですけれども、最初にイデオロギーがあり、一つの政体に対する青写真というものがあった。それについては動かない信念があったから、革命家は敗けたら敗けっきり、勝てば官軍です。
 ところが日本の場合、寄り合って相談しながらあっちへ行こう、こっちへ行こうといっているうちにだんだん現状が成り立った。そういう意味ではわたしは西洋流の革命が宗教的革命であるのに対して、日本の革命は自然科学的な革命だと思うんです。しかしこれを裏返していうと、ある短い時点の中では全員が裏切り者になるという性質がある。西郷自身も島津久光から見ればたいへんな裏切り者なんですね。そして、西郷はやがて明治維新に対する裏切り者にもならざるを得ない。そういう必然性がすでに明治維新を用意する運動の中にあったという印象をもちました」

 つまり西洋流革命はぶれないけど、日本の明治維新は試行錯誤しながら変化し発展していくから、状況が刻々と変化していく。最初は革命側であっても、いつの間にか反革命側になりかねない部分があるというのである。これは幕末から明治、あるいは西南戦争まで歴史を追っていくと「なるほど」と頷ける。たとえば西郷が作り上げた明治政府に自ら失望し始めると、今度は西郷が反政府側に立っているというのを見るとますます頷けちゃう。
 それは基本的にしっかりしたイデオロギーが根付いていないからそうなってしまうのだろうけど、その変化についていかないといつの間にか自分が反革命側あるいは反政府側に立っていることになってしまうから恐ろしい。
 それは現代の日本社会まで続いている。体制側にいると思っていたあなた、いつまでも今の地位に安穏としていると、気がついた時は反体制側にいることになりかねませんよ。日本という国はそういう国なんだから。

 さて、話は変な方向に行っちゃいかねないので、もう一つこの鼎談で木村尚三郎さんがいっていることも懐かしかった。「辺境改革説」(ここでは「辺境理論」といっている)である。
 木村さんは、なぜ薩長が明治維新を成し遂げたかを説明するに当たり、彼等が「野蛮」であったからだというのである。その説明が以下の通り。

 「知的エリートは、たしかに江戸にいたわけです。そういう人たちは都会化され、野蛮性を失っていたからこそ、逆に力にならない。こうすればこうなる、ああすればああなる、ということがみんなわかっていると指導力を発揮できず、結果として何もできないわけですよ。
 歴史はいつもそうですよ。都市文明が進むと女性化して野蛮にやられてしまう。ローマが都市文明化すると全く無知蒙昧なしかし男性的なゲルマン人にやられるわけですよ。そのゲルマンの中でさらに田舎のイギリスが近代になって大陸を押さえつける。さらにイギリスの中の野蛮な連中がアメリカに渡って、これがカンカラで豆なんか煮て食って、頑張った。そして二十世紀の初めからヨーロッパを押さえつけるようになった。もちろんこの「辺境理論」で歴史のすべてが理解できるわけではありません。しかし、明治維新も、その一つの典型的な例のように思えるわけです」
 
 これ昔、大学時代にえらく感動した理論だったのだ。文明はいつまでも続かない。腐敗などが起こり、内部崩壊していく。その文明が成熟していればしているほど、腐敗から逃れられない。その文明から一定の距離をおいている(これは肝腎です。だって全く関係のないところから次を担う文明が生まれるわけがないからだ)他の文明が、その成熟した文明の一部を取り入れつつも自分を見失わないところで(要するに新しい血が入ることで)、次の文明が生まれていくというものなのだ。それが歴史的に説明できるというので、えらく感動したのである。それをまさかここで読むとは思わなかったので、ちょっと懐かしくもあったのだ。


評価
★★★


書誌
書名:目でみる日本史 「翔ぶが如く」と西郷隆盛
著者:文芸春秋【編】
ISBN:9784168104060
出版社:文芸春秋 (1989/11/10 出版)文春文庫―ビジュアル版
版型:277p 15cm(A6)
販売価:入手不可

2008年09月27日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 7

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 ついに7巻全部読み通した。全体的な気分として重い。それはそうだろう。この巻は薩軍の敗走から始まり、最後は城山での自滅で終わるからだ。
 司馬さんはこの西南戦争の性質を「これは軍隊間の戦争というより、薩軍の場合は宗教一揆に酷似していた。総帥である西郷隆盛への宗教的崇拝心以外に政略も戦略もなく、あとは個々の殉教心をたよりにしているというところでは、まったくそれに似ているというべきであった」といい、その宗教一揆が凄惨な自己消耗のいくさをするように、薩軍も消耗のはてに全軍が消えてしまうのではないかというほどに激しく戦ったという。
 しかも面白いことに、薩軍が起つまえにあった士族の反乱、たとえば江藤新平の佐賀の乱や前原一誠の乱、あるいは神風連の乱にしても、「西郷が起つと聞けば六十余州の士族はことごとく起つであろう」と予想し、西郷に決起を促したのに、西郷はとどまった。結果として他の士族はたちあがらなかったので、自滅した。
 しかし今度自分たちが立ち上がったときはそれを信じ、それをもってして唯一の政略・戦略とした。西郷自身、そう信じた形跡が濃い。西郷のもつ一大声望が満天下を覆っていると信じていた。つまり西郷たちも江藤同様同じ失敗をしたわけである。
 薩軍には何度も言うように「勢い」という以外、戦略らしい思想はなかったし、財務的経略を持たなかった。薩軍は総合的な観点も配慮も準備ももたず、あたかも個人競技のように戦術的勇猛さだけで熊本城も押し潰せると思った。結局は駒とり将棋のように兵を駆けまわらせて政府軍の士卒を殺傷するだけが戦いという没戦略的運動から抜け出せなかった。その責任は西郷がテロリズムだけの経験と能力をもつ人間を将帥の位置に据えたことにある。司馬さんは「西郷は一介のテロリストだった桐野や書生にすぎなかった篠原を泥の中から掘り出して陸軍少将の軍服着せ、たれよりもこの両人を信頼し、結局はかれらの政治的狂躁に乗せられた。人間を見ることにいかに目が無かった」と言い切る。篠原はこの後すぐ戦死してしまったので、薩軍を実質指揮するのは桐野である。
 その桐野は幕末中村半次郎と称していた頃から、相手を言論で説得しようとしたり、根まわしをして相手を排除するところがなく、邪魔立てする者を自分の命を賭けて、一人で斬った。維新後西郷によって桐野という凶器は陸軍少将になり、日本の軍事権の一部を掌握した。桐野という凶器は栄誉と権限を得て自立したために自らの思想と判断で動くようになり、ついには飼い主である西郷を引きずり込んでしまったのである。司馬さんは「西郷が見こんだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だった」といい、各地で敗戦を繰り返す薩軍の戦略のなさを、桐野を将にかかげたことににあるとしている。
 薩軍は敗走し続ける。田原坂以降、人吉に南下し、そして今度は宮崎には入り、南下する。そして急展開し、宮崎の山奥から鹿児島に一気に戻る。その敗走劇はすさまじい。そして城山で完全に政府軍に包囲される。


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 「新説西南戦争」(週刊新説戦乱の日本史7 小学館刊)より

 その政府軍には薩摩系高級軍人が多くいる。かれらのほとんどは西郷の子飼か、縁戚の者である。政府軍の総帥山県有朋でさえ西郷に恩があった。そのため西郷を逐うことに、気持ちのひるみがあった。できれば、政府軍が躊躇している間、せめて西郷だけでも逃げてくれまいかという気持ちであった。
 西郷は維新最大の功労者であり、かつ士族の精神像の代表的存在でもあったから、その西郷を討ちとりたくないし、討ちとらなければならないことに、名状しがたいつらさを感じていた。そのため政府軍の幹部は敗走する薩軍をその力で一気に押しつぶすことができるのに、それを躊躇したのであった。
 だから政府軍の最先方に、幕末薩摩と戦って破れた会津藩、あるいは東北、越後諸藩の士族を集め、維新の恨みをここで果たさせようとするのである。
 川路利良が放ったポリスもそのほとんどが会津藩から集められた。このことは、恨みを持つ人間を戦争の駒として使っていることになる。彼らは本来、政府を恨んでいいはずのものが、その政府に逆に恨みを持っていることで利用されてしまうのである。考えてみるだけでそ政府幹部のの狡猾さは恐ろしくもある。
 城山に籠もる薩軍は三百七十人ぐらいで、それを五、六万という政府軍の大軍が城山を包囲しただけではなく、城山そのものを檻の中に入れてしまうような規模をもって、すきまなく柵を植えた。それでも攻撃を躊躇った。薩軍の幹部の中にもせめて西郷の命だけは助けて欲しい(桐野は大反対であったが)と政府軍に交渉にいくが、とき既に遅い。総攻撃の前に、総帥山県も西郷に「自決せよ」という手紙を書いたが、総攻撃は始まってしまった。薩軍はほとんど戦いにならない。西郷も前線に出て行く。死を覚悟して。


もう ゆはごはわすめか(もうよくはございますまいか)

まだまだ

しばらくして

晋どん、もうここでよか

別府晋介は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって、駕籠を下り(別府は負傷していた)、西郷の背に立った。

「御免なって賜(た)も」
というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

 司馬さんはあとがきで「倒幕の段階の西郷は陽画的であったが、明治後陰画的であった」と書く。この場合、写真のポジとネガみたいなことをいっているのではなく、単に陽と陰の対照として使っている。言ってみれば、倒幕時代華々しく活動したのに、維新後影が薄くなったということだろう。しかし過去の栄光はいつまでも西郷につきまとう、たとえ西郷自身自ら形骸化することを選んだにせよ、西郷の名前は革命の象徴となり、一人歩きし、担がれることになってしまった。もうそこには昔の西郷はいないのにである。そこにあるのは西郷という虚像と、自分たちの不満解消がそこに見いだせるかもしれないという淡い希望と合致してしまった不幸である。
 西郷には「西郷の人間ばなれした無私さと、高士の風のある独特の愛嬌と長者として寛仁さと、なによりも多量で透明度の高い感情の量が薩人に好まれた」と司馬さん書くが、それは薩人だけでなく、西郷に接した者が皆感じるものであった。
 薩摩の敗走で援軍として立ち上がった豊前中津隊が、今後どうすべきか討議する。増田栄太郎は中津に帰れと隊員にいうが、自分はこのまま薩軍と一緒に戦い続けるという。その理由を増田栄太郎は「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生と接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」というのである。西郷という人間に接してしまった以上もうどうしようもないのだというのだ。そんな西郷の人間性も災いしたかもしれないと思った。


評価
★★★


書誌
書名:翔ぶが如く 7
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617701
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:350p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月23日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 6

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 さて西郷たちは蜂起した。目指すは熊本城であった。なぜ熊本城であるのか?熊本城は周知の通り加藤清正が築城した。それを許したのは徳川家康であった。家康はここに難攻不落の城を築くことで、薩摩を封じ込めることにしたのである。薩摩がいつ反旗をひるがえしても、ここで食い止めることが出来るようにしたのである。以来明治のこの時期まで熊本城は薩摩を見張ってきたことになる。
 司馬さんは『街道をゆく』で「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあって、中央集権の象徴そのものであった」と書いている。だから「西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった」と書く。熊本城は薩摩にとっていつでも「官」の象徴であった。「官」に対し立ち上がった西郷たちが当然潰して通るべきものであった。
 その熊本城には政府によって強制的に集められた農民兵が鎮台としていた。当然それ以前の士族たちと比べて質が落ちる。実際西郷たちが立ち上がる前に起こった神風連の乱で、簡単に襲撃され、幹部たちが殺害された。それ以降官兵は弱いと思われ、桐野利秋は熊本城を「この青竹(いらさぼう)で、ひとたたきでごわす」といったくらいなのだ。
 しかし実際攻めてみると、さすが難攻不落の城である。そう簡単に落とせる城ではなかった。しかも政府軍は籠城することで、味方の援軍を待つという作戦に出たから余計である。薩軍にしてみれば、「こんなはずじゃなかった」というところだろう。熊本城の攻撃で「薩軍の作戦心理は自閉的におちいりつつあった。そのことは、途に食物が落ちているのを見つけた犬に似ていた。食物(熊本城)を見すてて先に進めばおもしろい活路がひらけるのもかかわらず、食物にとらわれ、食物のまわりをうろうろしつつ、自分に襲いかかろうとする他の犬の群れに対して、寄るな寄るなと咆えつづけている図に似ていた」と司馬さんは比喩する。
 とにかく薩軍は熊本城を陥落させることにこだわった。ここに時間をさけばさくほど薩軍に不利になるのだが、熊本城見すてることはできなかった。こだわった理由は先に司馬さんが言った精神的風土なのだろう。いってみれば薩軍は熊本城という罠にかかったことになる。「薩軍がもし最初から熊本城を黙殺して一路豊後を衝き、小倉城をおとして連隊の兵器弾薬をうばっていれば、らくらくと成功したに相違なく、あるいは歴史は変わっていたかもしれない」と司馬さんはいう。
 西郷を担いだ薩軍はその精神的風土からくる自分たちの意識下で行動していた。そこには戦略などない。薩軍にあるのは総帥の西郷の天下における威望とこの薩人最強説という神話以外になかった。だから西郷と薩軍の行動は「町内の花見のように、その根拠地である鹿児島県を空っぽにし、全軍をあげて出はらってしまう」のである。
 この西郷の威望は薩摩の私学校生徒だけではなく、近隣の農民たちにも及んだ。薩軍に心を寄せる付近の農民は、彼らに握り飯をはこんでやっている。
 司馬さんはこの時代には「世間一般に人望家を待ち望んだり、恋い慕ったりする異常な偏向が存在した」といい、その説明を次のようにいう。「士族にしても農民にしても、藩といったような緻密で堅牢な封建組織が霧散霧消してしまうと、殻をうしなった剥き肉(み)のやどかりのような心細さをもち、そのくせ『官』というあらたに出現した重量については違和感のみを感じてそこからのがれたくなってしまう。そういう自分たちに方向を与えてくれたり、居場所を決めてくれたり、ときには死に場所をつくってくれるのが、人望家であった」。その人望家が西郷であった。
 農民たちは東京でできた革命政府と、彼らが作りはじめている重苦しい近代国家というものを歓迎しなかった。だから新政府をこわそうとする西郷軍に満腔の厚意をもっていた。農民からみれば、にわかに東京にできた新政府などは税金をとりたてる泥棒も同然といったような印象だったにちがいない。農民たちは馴れなじんだ徳川封建制こそいまにして思えばよかったと一般に考えていたし、それを西郷と薩摩士族がとりもどしてくれることを歓迎していたのだ。
 また薩摩士族にしても戊辰戦争をわずか一年で片づけた「古今無双の英雄」として西郷を担ぎ、西郷の威望で天下を覆うことで、自分たちの存在が政府軍より重いのだと思え、東京の太政官を士気の上で軽んずことができ、太政官を正統の政府というより大久保の「私政府」のように受けとるようになる。

 薩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下し、熊本城と連携しようとするのを防ぐため、兵を割って田原坂を中心に布陣し、政府軍と激突する。その攻防はすさまじい。
 田原坂周辺ではいまでも土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。


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          「週刊街道をゆく」の13巻より

 これは敵味方の弾が空中でぶつかりあってお互い噛みあい、だんごのようになったものである。現在田原坂の坂の上にある通称「弾痕の家」とよばれる家にもこの「行きあい弾」が保存されている。これは偶然のおもしろさといった軽々しいものじゃなく、こういう「行きあい弾」がいくつも見つかるということは、それだけ一定の空間に相当な密度で銃弾が行き交ったという証明である。
 薩軍は田原坂ですさまじい戦いをしたが、結局敗走するところでこの巻は終わる。いくら政府軍が弱いといっても、兵、銃弾の数において薩軍を上回っていたし、兵器の性能も政府軍が上回っていた。さすがの屈強の薩軍も個人の能力だけでは勝負にならなかった。しかも薩軍には戦略を立て、統治し、指揮する人物がいなかった。西郷はこのときも何も言わなかったのである。


書誌
書名:翔ぶが如く 6
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617602
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:329p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月17日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 5

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 話は大久保利通と木戸孝允の関係から始まる。
 明治六年大久保は木戸孝允と手を組み、西郷の征韓論を排し、西郷を下野させた。しかし大久保が外征熱の高い薩人の気分をそらすために台湾征伐を行ったことで、木戸は怒り、参議を辞職する。木戸を失ったことは、大久保にとって痛恨事であった。なぜなら東京の政府は薩長の二本柱で成り立っていたからで、その一本を失ったことは大きい。大久保は執拗に木戸の復帰を願い、明治八年に復帰する。この頃の木戸は明確に立憲主義であったが、大久保はしばらくの間は政府主導方式の専制政府を目指していたので、木戸の考えを有名無実化した。このため明治九年に木戸は参議をやめた。
 その木戸が「鹿児島県だけが、なぜ治外法権のごとく政府から屹立しているのか」と大久保に詰め寄る。鹿児島県を他県同様、ただの府県としろというのである。これは大久保にとって苦悩の種で、木戸からいわれれば、反論の余地がないものであった。だから先の巻で県令の大山綱良を呼びつけたのである。
 ここに大警視川路利良という人物がいる。ジョゼフ・フーシェが創設した秘密警察の存在に感銘を受ける。ナポレオン以来パリの警視庁が反政府主義者について情報収集しているのを模範として、日本の警視庁の創設に努めた。実はこの話は最初に川路がフランスに渡り、パリの警察制度に感化されるところから始まる。川路は岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。
 そして今回も薩摩に密偵を放ち、私学校に潜入し、「私学校幹部の政略は無謀であり、東京政府について彼等が宣伝しているところはみんなうそである」と説いて内部分裂させようとする。その上で出来るなら西郷を暗殺してこいと指示したのである。
 川路は「鹿児島県が、県をあげて太政官に服しようとしないのは、日本一の強藩であるという誇りや、維新における薩摩藩の功績についての自負、また政府もそれを導入した文明も否定する島津久光という存在、さらに一般問題として士族の失権についての精神的、経済的不満などあげられるが、もし西郷が存在しなければ、在郷の鹿児島士族がここまで驕慢にならなかったであろう」と考えていた。
 川路にとって西郷に恩を蒙った経緯があるし、西郷は徳者であると思っていたが、ただ今は西郷の存在そのものが悪であると考えていた。私学校の若者(にせ)が西郷を担ぐからである。だから私学校に密偵を放ち、内部分裂させると同時に西郷を抹殺すれば、鹿児島の不満は沈静化すると考え、大久保にそれを提案する。大久保はこの川路の提案を承諾したかどうかは、真相は明らかじゃないらしい。ただ司馬さんは大久保が岩倉具視と孝明天皇暗殺にかかわった疑惑があるので、可能性はなくもないとしている。
 とにかく川路は警視庁の鹿児島出身の警官を密偵として帰郷させた。後に彼等は私学校側から「東京獅子(あずまじし)」と呼ばれる。いずれにせよ、これが私学校側に発覚し、西南戦争への導火線に火を点じたことになる。この真意を確かめるため、西郷は立ち上がったという理由を与えてしまった。
 そこに鹿児島の不穏状態にあるため、鹿児島にある兵器弾薬を大阪に移そうと太政官が動き出す。船を鹿児島に入れ、秘密裏に兵器弾薬を運ぶが、その噂は広まった。当然私学校生徒の憤激を買った。「政府がその気であれば、すべからく機先を制し、これをわが手に収むべきではないか」ということで、鹿児島北郊にある草牟田の陸軍火薬庫を私学校生徒が襲撃し兵器弾薬を奪ってしまった。弾薬が政府に運び去れれれば、いざというときにあてがなくなると思ったのだろう。
 これを聞いた西郷は「シモタ!」、「何事、弾薬などを追盗(おとつ)せえ」と怒鳴ったという。何事であるか弾薬など獲って、ということである。火薬庫襲撃は政府に対する公然たる挑戦であり、さらにいえば政府に討薩の名目を与えたようなものであった。
 確かに密偵や兵器弾薬の移動は政府の挑発である。私学校生徒はそれにまんまと乗ってしまったことになる。西郷が怒るのも当たり前であった。今まで自分が不平分子に担がれないように山にこもり、自ら隠れることで、彼等を抑えてきたのが、すべて水の泡と期したのである。こうなるといいわけなど出来ない。
 西郷は山を下り、私学校幹部も集まり、出兵すべきかどうか討議する。幹部には西郷一人に大久保に、刺客問題、弾薬の問題を談判に行かせればいいという者もいた。つまり挑発したのはそっちだろうと西郷にいわせればいいというのが反戦派の主張であった。しかし幹部の篠原国幹が「政府はどうであるか。すでに刺客を放って先生を打ち殺そうしている。いまわれわれが義兵をあげてその非を鳴らすに、何の不都合があるか」という任侠道的一言で出兵は決まった。最後に西郷の裁断を桐野利秋が仰ぐ。西郷は次のようにいう。

「自分は何もいうことはない。一同その気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され」

 この決起は戦略がない。ただ鹿児島で立ち上がって、兵を引き連れて東京まで行き、大久保たちに詰め寄るということであって、その間に起こりうる問題を一切考慮していなかった。司馬さんは「かれらは西郷を崇敬すること、あたかも宗教的感情のようである。さらには、ひとたび西郷が起ちあがれば満天下の士族が風を望んでやってくるだけでなく、鎮台も戦わずして靡き、東京政府はそれだけで瓦解する、と信じていた。私学校生徒に世界観などあるはずがなく西郷その人が世界観であり、戦略などあるはずがなく西郷そのひとを擁するというだけで戦略は足る」と考えていたのだろうという。
 その西郷にしても、幕末、維新とあれほど政略を持って行動した人物なのに、維新後まるで一切を投げ出した態度(それが性格的な問題としても)で明治政府とは無関係というような態度でここまできている。ただ維新の最大の功労者という肩書きだけが一人歩きしているような感じである。
 こうして立ち上がる以上、立ち上がる理由があったはずだと思いたい。例えば自分が作り上げた維新政府が、今まで描いていたものでなっかったなら、もう一度作り直してやろうという意味で今回のように挙兵するのだといえば意味はあるだろう。それを何もいわずにこの体差しあげますからとしか言えないのが不思議である。少なくとも自らの意思で立ち上がるなら、自らの意見を言って、作戦を立ててしかるべきだし、もっといえば、志士たちの暴発を防ぐことだって出来たはずだ。ただ担ぎ上げられることだけを恐れて山にこもってしまう。厭世的気分が西郷の頭の中でいっぱいだったのだろうか?司馬さんは維新前と維新後では別人のようだといっているけれど、まさしくそう感じる。
 そんな西郷の変化を説明するために、司馬さんは極端な事例を持ち出す始末である。それは西郷が山にこもっているとき、転んで切り株の角で頭を打ったからだというのである。そうしたことでしか説明できないほどの豹変なのである。
 とにかく西郷は立った。それを知った大久保利通は「それが終(つい)に、公表に拠り、西郷も加担してゐると知ったときは、アノ背の高い(殆ど六尺あつた)父が、座にゐたたまらず、焦燥しながら、座敷と廊下の間を鴨居に頭をぶつけながら、グルグル歩きまはつて、そして眼には一ぱい涙を湛へて居つた」と大久保の次男牧野伸顕が叔母から聞かされていたという。(司馬さんは大久保が西郷暗殺に加担したのであれば、この態度は大嘘だとはいってはいるが)
 いずれにせよ、ついに西南戦争が始まった。


書誌
書名:翔ぶが如く 5
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617503
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:311p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月15日

相次ぐ休刊

 朝日新聞の文化欄に「月刊誌 冬の時代 相次ぐ休刊、雑誌の今後は」という特集があった。今年になって以下の通り有名どころの雑誌が休刊を発表している。

●今年に入って休刊が発表された主な雑誌

「主婦の友」(主婦の友社、1917年2月創刊)

「月刊現代」(講談社、66年12月創刊)

「ロードショー」(集英社、72年3月創刊)

「PLAYBOY日本版」(集英社、75年5月創刊)

「広告批評」(マドラ出版、79年4月創刊)

「週刊ヤングサンデー」(小学館、87年3月創刊)

「論座」(朝日新聞社、95年3月創刊)

「ラピタ」(小学館、95年12月創刊)

「Style」(講談社、01年9月創刊)

「BOAO」(マガジンハウス、04年9月創刊)

「KING」(講談社、06年9月創刊)

「GRACE」(世界文化社、07年3月創刊)

 休刊を発表した雑誌の担当者の言うことがだいたい似ている。たとえば、集英社の月刊誌「PLAYBOY日本版」は、集英社は8月1日、月刊誌「PLAYBOY日本版」を09年1月号(08年11月発売、408号)を最後に休刊すると発表した。米・プレイボーイ・エンタープライズ社とのライセンス契約を終了させると発表した。
 「PLAYBOY日本版」は75年5月に創刊され、開高健さんの連載などが人気になり、75年には発行部数が90万部に及んだが、ここ数年は5万5千部程度に落ち込んでいたと、説明する。ただし「週刊プレイボーイ」の発行は続ける。その売り上げが激減した理由が「インターネットや携帯電話の普及などの影響もあり、男性誌を取り巻く環境が年々悪化する中、ここ数年、売り上げ部数・広告売り上げが減少傾向にありました。社としての中・長期的な展望の中で、今回の判断に至りました」としている。
 また同じ集英社は1日、映画誌「ロードショー」を11月21日発売の1月号で休刊すると発表している。「ロードショー」は「スクリーン」誌(近代映画社)とともに、スターのグラビアを中心に洋画ファンに人気が高かったが、インターネットの情報に押され、80年代、最高で約35万部だった部数が約5万部まで落ち込んでいたらしい。
 この記事では「月刊現代」の高橋明男編集長が 「世の中の流れと月刊誌のペースの折り合いが難しくなってもいました。秋葉原の殺人事件も、次の事件があれば忘れ去られる。事件後すぐ用意した原稿が、発売段階では話題にもならなかった。自民党総裁選は22日に投開票ですが、月刊現代は21日が締め切り。紙面に反映できません」「 ネットを含めて情報の流れがすごく速いし、みんな移り気になった。月刊誌を腰を落ち着けて読む感覚がなくなった」のが休刊の理由だと説明する。情報加速、読者移り気がその原因だと分析している。
 要するにインターネットや携帯電話の方が月一回の発売である雑誌より情報が新鮮で、いざその雑誌が発売になっても、その特集がもう古くなっちゃっているという現実が、これや雑誌の低迷を招いてしまったということなのだろう。この三誌の休刊だけでも、ネットの影響が大きことをいっている。
 そして日本の雑誌は他の企業の広告が支えているところがあって、その広告収入が激減し雑誌発売が維持できなくなってしまっている。つまり雑誌そのものの売上でその雑誌の発行を維持していないで広告収入に頼っているので、その収入が06年にインターネットに抜かれた現実は、もう日本の雑誌はやっていけなくなりつつあるということである。
 永江朗さんは(朝日新聞は出版界の問題を取り上げるとき、必ずこのおっさんを引っ張り出してくる)「雑誌がこの世の春を満喫する『雑誌バブル時代』が終わりを迎えた気がします」といい、「月刊誌の次は、週刊誌の選別でしょう」といっている。
 企業が雑誌に広告を出すのは、それを見てくれる人がたくさんいるからで、その広告が載っている雑誌が部数低迷していれば、当然広告を控えるか、ネットの方に移行するに決まっている。雑誌を見てくれる機会を減らしたのは、小さな街の本屋さんが減り続けたことによる。手近で雑誌が買えなくなってしまったからだ。出版社は書店が二割そこそこのマージンじゃやっていけないから、もう少しマージンをよこせと訴えても、それを無視してきたから、今度は自分の首を絞めることになったのだ。

2008年09月12日

池谷伊佐夫著『古本蟲がゆく』

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 ここのところ明治という時代にかかりっきりになっているので、ちょっと一休みである。
 この本は、先日書泉さんに行ったとき見かけ、気になってしまった本である。私は古本に関する本が好きで、どうしても読みたくなってしまう。著者はイラストレーターで古本好きという人。全国の古本屋さん、古本市を訪ね、最後におまけみたいな感じで、イギリスの古本屋街のチャリング・クロスにある古本屋さんのお店の模様が描かれる。
 池谷さんはそれぞれの古本屋さんでお店のスケッチをして、それを元にイラストとしてこの本に掲載する。もちろんスケッチが終われば、古本あさりをする。
 このイラストは今時のパソコンで描くものでないだけに、手書きのあたたかさがあっていい感じだ。しかも丁寧に描かれている。おそらく一枚描くのにかなりの時間を要するだろう。これだけ詳細に描くのだから、その元になるスケッチも同様に細部まで見逃さず描かれるのだろうと思う。この本のカバーや、最後のページにスケッチブックに描いたお店の絵があるのを見ても、細かく描かれているのがわかる。
 以前読んだ北尾トロさんの全国古本屋さん巡りの時もそうだったけれど、地方の古本屋さんを訪ねてみたいといつも思う。今回も池谷さんの古本屋さん巡りを「いいなぁ!」と思いつつ読んだ。いつもブックオフじゃ、なんだかさびしい。きっと地方の古本屋さんには、お宝があるんだろうなと思うのだ。
 もう自分の本棚に本が収納できないくらい本があふれているのに、まだ面白い本があるんじゃないのかなんて思う。ネットの古本屋さんやアマゾンで古本を簡単に買うことができる時代だけれど、やっぱり古本屋さんの店頭で本を眺めたい。そして買ったお宝をじっくりと味わいたい。
 池谷さんはきっとイラストを描きながら、むふふなんて楽しんでいるんだろうな。お宝を探し得た喜びをかみしめているんだろうなと思う。その紹介されているお宝本を見ると、世の中には本当にたくさんのジャンルの本があり、無名の、というより私の知らない著者が数多くいて、知らない出版社から本が出されているんだなと感じた。その奥行きの広さは、まさに無限大という感じだ。
 この本の最後の方に「古本蟲の生態」というイラストがある。あなたは古本蟲に変身していませんかとその生態いや傾向をいっているのだが、それを見るとちょっと笑ってしまった。確かにそういう傾向あるよなと自分の姿を思いやる。たとえば「床の上に本を積み始めるとどんどん増殖する」とか、「いつか役立つだろうと置いてある本は“期限切れの薬”」とか「老後にでも読もうと、本を買い集めているうちに、死ぬまでに読み切れないほどの本がたまってしまった」など、こんな状態になっている人は古本蟲に毒されているという。確かに!
 最後に笑ったのが、「本の価値を値段より(自分の本棚の)スペースで判断するようになる」大笑いした。イラストには古本屋の本棚に立って本を持って考えているが人物が「買えるけどムリして置く本じゃないナ」と思うところが描かれている。
 ところで池谷さんは「持っていたい本と、読みたい本は違う。読みたい本は文庫か図書館、クラフトマンシップの感じられる本は、持っていることに意味がある。本は単なるテキストではなく、物としての側面もあり、美しいもの、ユニークなものに惹かれる私は、当然本にも同様の念を抱いている」と書いている。
 思わずうまいなと感じたのは、「持っていたい本」という文句である。私も池谷さんの意見に賛成で、本には読む本と持っていたい本があると思っている。もちろん持っていたい本を読んでも一向に構わないのだけれど、読まなくても、本を手にし、ページをパラパラめくりながら眺めているだけで楽しくなる本もある。それは装丁のユニークさや、挿絵や図柄、イラスト、写真の美しささがそうさせるのだと思いたいが、そんな本を私は数多く持っている。あるいは話の内容のユニークさが際立っているものもある。
 私はこのブログで、読んできた本のことをああでもない、こうでもないと書きつづっているが、それ以外に持っているだけで楽しくなる本がここに紹介出来ないかといつも考えてきた。しかしこれは本当に私の主観によるものなので、それをやることに意味がないじゃないかとも言われそうだと躊躇してしまう部分もある。あるいは変な自慢話に取られるんじゃないかと思う部分もある。だからなかなか実行に移せないでいるのだが、よく考えてみれば、読んだ本のことを書いていること自体、自分勝手で好きにやっているわけだから、それはそれでいいのかななんて思うようになってきた。ちょっと実験的にやってみて、どんな感じか試してみようなんてこの池谷さんのイラスト見て思った次第である。


評価
★★★


書誌
書名:古本蟲がゆく ―神保町からチャリング・クロス街まで
著者:池谷 伊佐夫
ISBN:9784163704906
出版社:文藝春秋 (2008/08 出版)
版型:269p 22cm(A5)
販売価:2,299円 (税込)

2008年09月10日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 4

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 この本を読んでいると、本来革命というものは、旧政権に対する下からの突き上げによって起こりうるものであろうと思うが、明治維新というのはその点多少異なることに気がつく。
 西欧列強が幕府に開国を迫り、幕府は列強のいわれるがまま開国をする。その恐怖から攘夷運動が起こり、尊皇と結び付き、倒幕運動とつながっていく。尊皇と結びつくのは、彼らには幕府を否定する思想的根拠がそれしかなかったからだ。司馬さんはそれを「その思想的根拠として、国学的教養の者も宋学(朱子学・陽明学)的教養の者も、みな天皇にもとめた。天皇という、多分に非現実的な超幕藩的存在を絶対視することによって、当面の敵である幕府の存在をを卑小化し、論理として非合法化し、やがては潰したのである」と説明する。
 倒幕を成し遂げたのは、薩摩や長州の志士たちであり、彼らの下にいる庶民を政治に参加させるという思想はない。彼らには、その次どうするかという構想がないに等しかった。だから倒幕を果たしたものの、しばらくは幕藩体制を維持することになる。ということは、支配する側の顔が変わったことだけであった。司馬さんも似たようなことをいっている。
 
 「旧幕府は、列強におどされ通商条約というかたちで屈辱的開国をした。それを責めて全国の攘夷家が立ちあがり、通商条約破棄をせまり、やがて薩長という二大雄藩がその時代の気分の代表をなした。その薩長がそれぞれ外国と武力戦(薩摩の薩英戦争と長州の下関海峡戦争)をおこない、外国の武力の抗しがたいことを知り、ひそかに体質を変えた。藩として大いに外国の技術を導入し、洋式軍隊の強化と併行して産業国家をめざそうとしたが、その二大雄藩が太政官を作った以上、ペリーに屈した旧幕府と似たふうにならざるを得ない」

 明治維新は倒幕運動で終わりではない。新政府(太政官)による国家を作らなければならない。しかし欧米風の近代国家を日本に植え付けるには、国民の意識がある程度成熟していなければならないのだが、それがなっていない。依然旧幕時代のまま意識であった。だから新国家は制度として国家と近代国家とはどうあるべきかということを国民に教えていかなければならなかった。だから大久保利通が考えたように、国民の意識がそこまで成熟するまで、新政府がイニシアティブをとって導いて行こうとする。そのためには中央集権による専制国家をまずは作り上げ、国民の意識はその後にというような、ある意味自分たちに都合のいい考えで、国家を動かしていく。
 まずは藩という存在がじゃまであった。だからそれを潰す。そしてそれに対して反抗しないように自分たちの軍を持つ。それは徴兵制度で百姓たちを軍人にすることでまかなった。そうなれば、いわゆる武士は不要になる。彼らは廃業するしかなかったのである。
 百姓も江戸時代では年貢だけを納めていればよかったものが、今度はそれ以外に徴兵制度に強制参加させられる。しかも近代国家というのはお金がかかるものだから、税金も高くなる。新国家は士族から百姓まで不満だらけになっていた。だから政府のいうことを聞かない所もでで来るし、なめてかかられた。
 例えば鹿児島県令の大山綱良がいい例である。大山綱良は島津久光の代理者的存在で、大久保利通を「一蔵め」と呼ぶ。大山にすれば、大久保は倒幕に恩ある藩士族を裏切り、その特権を奪い、四民平等といううそのような世間を作った詐欺師であり、東京政権を守るために百姓に軍服を着せ軍隊を作った悪党であった。
 鹿児島県は私学校幹部を県費でまるまる抱え、人員過剰で目に余るものがあった。大久保は大山に他県並みにせよと言うが、大山は「一蔵、汝(わい)は何をいうのか。それほど県官を淘汰したければ、汝自身がやれ。内務卿を辞職して鹿児島県令になり、その上で県官を淘汰せよ」「もし内務卿の後任がないというなら、わしがその職についてやる。交替せよ。交替してから、淘汰なり何なり、好きなことをやれ」とかみつかれるのである。大久保は黙るしかなかったという。
 一方で幕末、尊皇攘夷といって、薩長の志士たちが倒幕運動を始めたのが、いつの間にか攘夷というのが抜け落ちてくる。現状の日本では攘夷など出来るわけがないということで、そうならざるを得なかった訳だが、振り上げた拳をどうしていいのかわからない状態でもあった。そのエネルギーが士族階級の没落もあって、征韓論となっていく。
 そんな西郷や征韓論派の諸参議の下野後、太政官はその機構のなかに批判勢力を持たなくなり、一面では孤立、一面では独走の権力になった。そこに新政府への不満がからみ合って、エネルギーが変質し、自由民権運動がわき上がってくる。
 面白いのは政府への不満は新聞で行われ、その記者たちは旧幕臣や維新に乗り遅れた藩の出身者が多かったという。本来、革命をおこしたはずの新政府がもつべきであった自由民権という欧米の理念は、維新より遅れてこの国に入ってきたため主として新聞に拠る記者たちの理念になったのである。伊藤博文も日本中に充満する東京政府への不満を、民権体制をとることによって吸収してしまわねばならないと考え、やっと重い腰を上げようとするところへ、小規模な反乱が起こってくる。
 この本はこれじゃダメだといった感じで新政府への反乱、すなわち前原一誠らによる萩の乱や廃刀令に反発して旧熊本藩の士族たちが起こす神風連の乱の前夜で終わる。しかしこの小規模な反乱はその首謀者ができが悪いため、失敗に終わるだろうなという予感をさせる。
 前原一誠や神風連の乱の首謀者である太田黒伴雄は自分たちが立ち上がるに当たって、西郷もその後立ち上がってくれるだろうという淡い期待で暴走する。決起が西郷たのみなのである。江藤新平と同じであった。
 西郷隆盛(この巻では殆ど出てこない)は鹿児島の田舎に引っ込み、機会をうかがっているといった感じである。西郷は下にいる人間の怒気が満ちて挙兵をせまり、それを将たる者は抑えに抑え、ついに抑えきれなくなったときに抑えの手を放つといった感じで、その機会を待っている。やっぱり西郷は格が違う。


書誌
書名:翔ぶが如く 4
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617404
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:311p 19cm(B6)
販売価:入手不可

2008年09月04日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 3

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 革命には膨大なエネルギーを必要とする。そのエネルギーとは、人、血、金、欲、武力、そして革命の裏付けとなる思想などであろう。そして革命が成ったとき、その余ったエネルギーを今度どうやって放出するかが問題となってくる。
 いわゆる消耗戦で、ぎりぎりのところで革命が成れば、そのエネルギーはほぼゼロとなるから、次の段階に比較的進みやすい。ところがそのエネルギーを使い果たすことなく、ほぼ温存してしまった場合、有り余ったエネルギーをどこかに放出しないと、今度は新しい政府の命取りとなる。まして結果が望んだこととはだいぶ違うとなれば余計である。西郷が持ち出した征韓論はそのエネルギー放出の一策でもあった。
 そもそも薩長の革命は、徳川幕府を倒すだけが目的ではない。幕藩体制も打ち壊し、中央集権国家を樹立して、初めて革命は完成する。その完成のためには廃藩置県がどうしても必要であった。
 廃藩置県の主役的役割を果たしたのは長州派であったが、これを実行に移すには薩摩を動かすしかなく、西郷を承知させなければならなかった。西郷にこの話を持っていったのが山県有朋であったが、西郷は廃藩置県をあっさりと承諾した。この時点で西郷は廃藩置県の承認者であった。司馬さんは「西郷はむしろ(廃藩置県に)積極的であった。かれは新政府樹立後、台閣に立つ者たちが優柔不断で、内乱終熄後何事もなしていない現状に優憤していたほどであった。あるいは維新をやった以上、歴史は藩否定にまで進展することを自覚し、自分の蒔いた種をそのようにして刈らねばならないとおもったのかもしれない」と書く。
 廃藩置県を実現するためには東京政府は兵力を持たねばならない。これよりさき政府は薩長土三藩から御親兵(のち近衛と改称)約一万人を東京にあつめていた。この兵力をもって、大改革をしようとする。薩摩軍は(島津久光をだまして)西郷みずからひきいて東上した。彼らにフランス風の軍服を着せ、階級を与え、近衛軍人にすることで、一挙に廃藩置県をやった。
 廃藩置県を明治政府がやるに当たり、その風当たりの強さが予想できたので、会議は紛糾したが、西郷は廃藩置県に反対するなら「この上は、もし各藩で異議がおこりましたならば、拙者がこの兵をひきいて打ち潰します」と言い切るのである。
 一方で廃藩置県は藩と士族階級の没落を意味し、兵を出した島津久光や薩摩系近衛軍人や士族階級の裏切りになる。それをわかった上で西郷は廃藩置県に賛成したのである。当然その恨みは西郷に向かっていいはずなのに、久光は別として、薩摩系近衛軍人は西郷を恨まない。大久保をを恨むのである。このあたりは不思議と言えば不思議である。
 西郷も薩摩士族の特権を奪ったのである。だから西郷自身「衆恨は私一身にあつまるでしょう」と言ったという。西郷は廃藩置県による士族の不満を一身でなだめ、抑えることに苦心しぬいた。「西郷はこの分のあわぬ作業のために内心傷だらけになってしまったにちがいない」と司馬さんも言う。
 その上、岩倉や大久保は廃藩置県に安堵して、政府ぐるみといったほどの大陣容で外遊してしまったのである。西郷は留守をさせられ、留守中の最大の問題は不平士族の反乱をおさえることであったが、西郷にとってこれほど苦しい仕事はなかった。こうした西郷の苦しみに薩摩系近衛軍人や士族階級は情義を感じたからであろうか、彼らの憤りは西郷には向かなかった。
 一方で彼らの功績がなければ、廃藩置県も出来なかったし、岩倉や大久保たちが大きな顔して為政者ぶっていられないはずであった。ところが、長い外遊から帰ってきた連中は、西郷のその苦しみを理解してやらなかった。特に大久保が理解すべきであったが、大久保は情緒感覚に天性欠けるところがあったため、それに対して冷然としている。だから不満は政府及び大久保に向かってしまった。西郷も配下の近衛軍人と同様憤りを覚えたであろう。
 その西郷が、近衛軍人や士族たちの憤りを他にむけるために征韓論をもち出した。西郷としてはこれ以外に、これ以上おさえつづける自信がなかったのである。その征韓論を大久保が蹴った。その理由は今日本が極東において武力紛争など起こせるほどの国力がないからであった。
 司馬さんは面白いことを書かれている。
「この明治初年の征韓派・非征韓派のあらそいは、ごく簡単な図式として考えることもできなくない。
 明治四年に出発した岩倉大使以下の洋行組が非征韓論者であり、日本に残留した西郷隆盛以下が征韓論をとなえたということである。海外に出れば一目瞭然に世界になかの日本というものが把握できるはずであり、いまの時期に極東で武力紛争をおこすことがどういう意味をなすかということがわかるはずであった」と。そして西郷は去った。しかし不満のエネルギーは蓄積する一方であった。それをなんとかしようと、大久保利通と西郷従道(西郷隆盛の弟)らによって台湾出兵が行われる。
 ことの発端は、明治四年十月那覇港を出港した宮古島船、八重山島船あわせて二隻が暴風のため漂流した。そのうち宮古島船が台湾の南端に打ち上げられ、高砂族に襲撃され五十四人が虐殺された。「報復のため、出兵すべきだ」という意見が出始める。しかし日本はこれをどう処理していいかわからなかった。ここに厦門の米国総領事のリ・ゼントルという南北戦争あがりの山師的人物がけしかける。台湾を取れというのである。西郷従道は台湾を日本領にすることは考えていなかったが、征伐することを考ええる。それも国内の不満分子を連れて、そのエネルギーを台湾に向けさせようとしたのである。「要するに、汽船いっぱいに壮士(薩摩系近衛軍人や士族階級の不満分子)を乗せて台湾の高砂族をなぐりつけにゆくだけのことを、従道は考えていたのである」。
 これは基本的に西郷隆盛が主張する征韓論の主旨と何ら変わらない。従道は征韓論に反対であったが、征台論は国内に沸騰する征韓気分を鎮めるためのものであった。行く先が違うだけのことであった。
 しかし大久保はこの話に乗った。乗ったどころの話じゃない。率先して征台に乗り出す。西郷従道は台湾に出兵する。そしてそこそこの戦いで征台は終わるのだが、大久保は中国清に自ら赴いて、管理不足だと喧嘩を売る。挙げ句の果て賠償金五十万ドルを分捕ってしまうのである。この巻はここで話が終わる。

 それにしてもこの話は西郷隆盛と大久保利通の衝突がメインとなっている。そのためこの二人の人物が魅力的な人物として描かれ、他の人物は馬鹿、あるいは二流の人物に感じさせられる。
 西郷や大久保以外、あるいはそうなのかもしれない。
 たとえば江藤新平がある。江藤は西郷が去った後、自らも東京を去る。その後佐賀の乱を起こす。維新政府を倒そうと考えるのだが、江藤自身立ち上がれば、西郷も立ち上がると勝手に思ってしまう。
 しかし機が熟していない。西郷はそのことがわかっていたが、江藤はわからなかった。だから江藤は西郷に「私が言うようになさらんと、あてが違いますぞ」と怒鳴られるのである。
 今立てば、大久保の思うつぼで、明治政府の兵力を強力にするだけのことであった。大久保は征台の前に、自ら佐賀に出向き、乱を鎮圧する。そして江藤をみせしめにするため、政府に逆らえばこうなるんだぞとさらし首にするのである。いわば西郷たちら不平分子に対するみせしめになっただけであった。
 


書誌
書名:翔ぶが如く 3
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617305
出版社:文藝春秋 1985/08 出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:入手不可