2008年09月04日
司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 3
革命には膨大なエネルギーを必要とする。そのエネルギーとは、人、血、金、欲、武力、そして革命の裏付けとなる思想などであろう。そして革命が成ったとき、その余ったエネルギーを今度どうやって放出するかが問題となってくる。
いわゆる消耗戦で、ぎりぎりのところで革命が成れば、そのエネルギーはほぼゼロとなるから、次の段階に比較的進みやすい。ところがそのエネルギーを使い果たすことなく、ほぼ温存してしまった場合、有り余ったエネルギーをどこかに放出しないと、今度は新しい政府の命取りとなる。まして結果が望んだこととはだいぶ違うとなれば余計である。西郷が持ち出した征韓論はそのエネルギー放出の一策でもあった。
そもそも薩長の革命は、徳川幕府を倒すだけが目的ではない。幕藩体制も打ち壊し、中央集権国家を樹立して、初めて革命は完成する。その完成のためには廃藩置県がどうしても必要であった。
廃藩置県の主役的役割を果たしたのは長州派であったが、これを実行に移すには薩摩を動かすしかなく、西郷を承知させなければならなかった。西郷にこの話を持っていったのが山県有朋であったが、西郷は廃藩置県をあっさりと承諾した。この時点で西郷は廃藩置県の承認者であった。司馬さんは「西郷はむしろ(廃藩置県に)積極的であった。かれは新政府樹立後、台閣に立つ者たちが優柔不断で、内乱終熄後何事もなしていない現状に優憤していたほどであった。あるいは維新をやった以上、歴史は藩否定にまで進展することを自覚し、自分の蒔いた種をそのようにして刈らねばならないとおもったのかもしれない」と書く。
廃藩置県を実現するためには東京政府は兵力を持たねばならない。これよりさき政府は薩長土三藩から御親兵(のち近衛と改称)約一万人を東京にあつめていた。この兵力をもって、大改革をしようとする。薩摩軍は(島津久光をだまして)西郷みずからひきいて東上した。彼らにフランス風の軍服を着せ、階級を与え、近衛軍人にすることで、一挙に廃藩置県をやった。
廃藩置県を明治政府がやるに当たり、その風当たりの強さが予想できたので、会議は紛糾したが、西郷は廃藩置県に反対するなら「この上は、もし各藩で異議がおこりましたならば、拙者がこの兵をひきいて打ち潰します」と言い切るのである。
一方で廃藩置県は藩と士族階級の没落を意味し、兵を出した島津久光や薩摩系近衛軍人や士族階級の裏切りになる。それをわかった上で西郷は廃藩置県に賛成したのである。当然その恨みは西郷に向かっていいはずなのに、久光は別として、薩摩系近衛軍人は西郷を恨まない。大久保をを恨むのである。このあたりは不思議と言えば不思議である。
西郷も薩摩士族の特権を奪ったのである。だから西郷自身「衆恨は私一身にあつまるでしょう」と言ったという。西郷は廃藩置県による士族の不満を一身でなだめ、抑えることに苦心しぬいた。「西郷はこの分のあわぬ作業のために内心傷だらけになってしまったにちがいない」と司馬さんも言う。
その上、岩倉や大久保は廃藩置県に安堵して、政府ぐるみといったほどの大陣容で外遊してしまったのである。西郷は留守をさせられ、留守中の最大の問題は不平士族の反乱をおさえることであったが、西郷にとってこれほど苦しい仕事はなかった。こうした西郷の苦しみに薩摩系近衛軍人や士族階級は情義を感じたからであろうか、彼らの憤りは西郷には向かなかった。
一方で彼らの功績がなければ、廃藩置県も出来なかったし、岩倉や大久保たちが大きな顔して為政者ぶっていられないはずであった。ところが、長い外遊から帰ってきた連中は、西郷のその苦しみを理解してやらなかった。特に大久保が理解すべきであったが、大久保は情緒感覚に天性欠けるところがあったため、それに対して冷然としている。だから不満は政府及び大久保に向かってしまった。西郷も配下の近衛軍人と同様憤りを覚えたであろう。
その西郷が、近衛軍人や士族たちの憤りを他にむけるために征韓論をもち出した。西郷としてはこれ以外に、これ以上おさえつづける自信がなかったのである。その征韓論を大久保が蹴った。その理由は今日本が極東において武力紛争など起こせるほどの国力がないからであった。
司馬さんは面白いことを書かれている。
「この明治初年の征韓派・非征韓派のあらそいは、ごく簡単な図式として考えることもできなくない。
明治四年に出発した岩倉大使以下の洋行組が非征韓論者であり、日本に残留した西郷隆盛以下が征韓論をとなえたということである。海外に出れば一目瞭然に世界になかの日本というものが把握できるはずであり、いまの時期に極東で武力紛争をおこすことがどういう意味をなすかということがわかるはずであった」と。そして西郷は去った。しかし不満のエネルギーは蓄積する一方であった。それをなんとかしようと、大久保利通と西郷従道(西郷隆盛の弟)らによって台湾出兵が行われる。
ことの発端は、明治四年十月那覇港を出港した宮古島船、八重山島船あわせて二隻が暴風のため漂流した。そのうち宮古島船が台湾の南端に打ち上げられ、高砂族に襲撃され五十四人が虐殺された。「報復のため、出兵すべきだ」という意見が出始める。しかし日本はこれをどう処理していいかわからなかった。ここに厦門の米国総領事のリ・ゼントルという南北戦争あがりの山師的人物がけしかける。台湾を取れというのである。西郷従道は台湾を日本領にすることは考えていなかったが、征伐することを考ええる。それも国内の不満分子を連れて、そのエネルギーを台湾に向けさせようとしたのである。「要するに、汽船いっぱいに壮士(薩摩系近衛軍人や士族階級の不満分子)を乗せて台湾の高砂族をなぐりつけにゆくだけのことを、従道は考えていたのである」。
これは基本的に西郷隆盛が主張する征韓論の主旨と何ら変わらない。従道は征韓論に反対であったが、征台論は国内に沸騰する征韓気分を鎮めるためのものであった。行く先が違うだけのことであった。
しかし大久保はこの話に乗った。乗ったどころの話じゃない。率先して征台に乗り出す。西郷従道は台湾に出兵する。そしてそこそこの戦いで征台は終わるのだが、大久保は中国清に自ら赴いて、管理不足だと喧嘩を売る。挙げ句の果て賠償金五十万ドルを分捕ってしまうのである。この巻はここで話が終わる。
それにしてもこの話は西郷隆盛と大久保利通の衝突がメインとなっている。そのためこの二人の人物が魅力的な人物として描かれ、他の人物は馬鹿、あるいは二流の人物に感じさせられる。
西郷や大久保以外、あるいはそうなのかもしれない。
たとえば江藤新平がある。江藤は西郷が去った後、自らも東京を去る。その後佐賀の乱を起こす。維新政府を倒そうと考えるのだが、江藤自身立ち上がれば、西郷も立ち上がると勝手に思ってしまう。
しかし機が熟していない。西郷はそのことがわかっていたが、江藤はわからなかった。だから江藤は西郷に「私が言うようになさらんと、あてが違いますぞ」と怒鳴られるのである。
今立てば、大久保の思うつぼで、明治政府の兵力を強力にするだけのことであった。大久保は征台の前に、自ら佐賀に出向き、乱を鎮圧する。そして江藤をみせしめにするため、政府に逆らえばこうなるんだぞとさらし首にするのである。いわば西郷たちら不平分子に対するみせしめになっただけであった。
書誌
書名:翔ぶが如く 3
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617305
出版社:文藝春秋 1985/08 出版
版型:356p 19cm(B6)
販売価:入手不可
- by kmoto
- at 21:34
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