2008年09月17日
司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 5
話は大久保利通と木戸孝允の関係から始まる。
明治六年大久保は木戸孝允と手を組み、西郷の征韓論を排し、西郷を下野させた。しかし大久保が外征熱の高い薩人の気分をそらすために台湾征伐を行ったことで、木戸は怒り、参議を辞職する。木戸を失ったことは、大久保にとって痛恨事であった。なぜなら東京の政府は薩長の二本柱で成り立っていたからで、その一本を失ったことは大きい。大久保は執拗に木戸の復帰を願い、明治八年に復帰する。この頃の木戸は明確に立憲主義であったが、大久保はしばらくの間は政府主導方式の専制政府を目指していたので、木戸の考えを有名無実化した。このため明治九年に木戸は参議をやめた。
その木戸が「鹿児島県だけが、なぜ治外法権のごとく政府から屹立しているのか」と大久保に詰め寄る。鹿児島県を他県同様、ただの府県としろというのである。これは大久保にとって苦悩の種で、木戸からいわれれば、反論の余地がないものであった。だから先の巻で県令の大山綱良を呼びつけたのである。
ここに大警視川路利良という人物がいる。ジョゼフ・フーシェが創設した秘密警察の存在に感銘を受ける。ナポレオン以来パリの警視庁が反政府主義者について情報収集しているのを模範として、日本の警視庁の創設に努めた。実はこの話は最初に川路がフランスに渡り、パリの警察制度に感化されるところから始まる。川路は岩倉具視の暗殺未遂事件(食違見付の変)、佐賀の乱などが起こると密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たした。
そして今回も薩摩に密偵を放ち、私学校に潜入し、「私学校幹部の政略は無謀であり、東京政府について彼等が宣伝しているところはみんなうそである」と説いて内部分裂させようとする。その上で出来るなら西郷を暗殺してこいと指示したのである。
川路は「鹿児島県が、県をあげて太政官に服しようとしないのは、日本一の強藩であるという誇りや、維新における薩摩藩の功績についての自負、また政府もそれを導入した文明も否定する島津久光という存在、さらに一般問題として士族の失権についての精神的、経済的不満などあげられるが、もし西郷が存在しなければ、在郷の鹿児島士族がここまで驕慢にならなかったであろう」と考えていた。
川路にとって西郷に恩を蒙った経緯があるし、西郷は徳者であると思っていたが、ただ今は西郷の存在そのものが悪であると考えていた。私学校の若者(にせ)が西郷を担ぐからである。だから私学校に密偵を放ち、内部分裂させると同時に西郷を抹殺すれば、鹿児島の不満は沈静化すると考え、大久保にそれを提案する。大久保はこの川路の提案を承諾したかどうかは、真相は明らかじゃないらしい。ただ司馬さんは大久保が岩倉具視と孝明天皇暗殺にかかわった疑惑があるので、可能性はなくもないとしている。
とにかく川路は警視庁の鹿児島出身の警官を密偵として帰郷させた。後に彼等は私学校側から「東京獅子(あずまじし)」と呼ばれる。いずれにせよ、これが私学校側に発覚し、西南戦争への導火線に火を点じたことになる。この真意を確かめるため、西郷は立ち上がったという理由を与えてしまった。
そこに鹿児島の不穏状態にあるため、鹿児島にある兵器弾薬を大阪に移そうと太政官が動き出す。船を鹿児島に入れ、秘密裏に兵器弾薬を運ぶが、その噂は広まった。当然私学校生徒の憤激を買った。「政府がその気であれば、すべからく機先を制し、これをわが手に収むべきではないか」ということで、鹿児島北郊にある草牟田の陸軍火薬庫を私学校生徒が襲撃し兵器弾薬を奪ってしまった。弾薬が政府に運び去れれれば、いざというときにあてがなくなると思ったのだろう。
これを聞いた西郷は「シモタ!」、「何事、弾薬などを追盗(おとつ)せえ」と怒鳴ったという。何事であるか弾薬など獲って、ということである。火薬庫襲撃は政府に対する公然たる挑戦であり、さらにいえば政府に討薩の名目を与えたようなものであった。
確かに密偵や兵器弾薬の移動は政府の挑発である。私学校生徒はそれにまんまと乗ってしまったことになる。西郷が怒るのも当たり前であった。今まで自分が不平分子に担がれないように山にこもり、自ら隠れることで、彼等を抑えてきたのが、すべて水の泡と期したのである。こうなるといいわけなど出来ない。
西郷は山を下り、私学校幹部も集まり、出兵すべきかどうか討議する。幹部には西郷一人に大久保に、刺客問題、弾薬の問題を談判に行かせればいいという者もいた。つまり挑発したのはそっちだろうと西郷にいわせればいいというのが反戦派の主張であった。しかし幹部の篠原国幹が「政府はどうであるか。すでに刺客を放って先生を打ち殺そうしている。いまわれわれが義兵をあげてその非を鳴らすに、何の不都合があるか」という任侠道的一言で出兵は決まった。最後に西郷の裁断を桐野利秋が仰ぐ。西郷は次のようにいう。
「自分は何もいうことはない。一同その気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され」
この決起は戦略がない。ただ鹿児島で立ち上がって、兵を引き連れて東京まで行き、大久保たちに詰め寄るということであって、その間に起こりうる問題を一切考慮していなかった。司馬さんは「かれらは西郷を崇敬すること、あたかも宗教的感情のようである。さらには、ひとたび西郷が起ちあがれば満天下の士族が風を望んでやってくるだけでなく、鎮台も戦わずして靡き、東京政府はそれだけで瓦解する、と信じていた。私学校生徒に世界観などあるはずがなく西郷その人が世界観であり、戦略などあるはずがなく西郷そのひとを擁するというだけで戦略は足る」と考えていたのだろうという。
その西郷にしても、幕末、維新とあれほど政略を持って行動した人物なのに、維新後まるで一切を投げ出した態度(それが性格的な問題としても)で明治政府とは無関係というような態度でここまできている。ただ維新の最大の功労者という肩書きだけが一人歩きしているような感じである。
こうして立ち上がる以上、立ち上がる理由があったはずだと思いたい。例えば自分が作り上げた維新政府が、今まで描いていたものでなっかったなら、もう一度作り直してやろうという意味で今回のように挙兵するのだといえば意味はあるだろう。それを何もいわずにこの体差しあげますからとしか言えないのが不思議である。少なくとも自らの意思で立ち上がるなら、自らの意見を言って、作戦を立ててしかるべきだし、もっといえば、志士たちの暴発を防ぐことだって出来たはずだ。ただ担ぎ上げられることだけを恐れて山にこもってしまう。厭世的気分が西郷の頭の中でいっぱいだったのだろうか?司馬さんは維新前と維新後では別人のようだといっているけれど、まさしくそう感じる。
そんな西郷の変化を説明するために、司馬さんは極端な事例を持ち出す始末である。それは西郷が山にこもっているとき、転んで切り株の角で頭を打ったからだというのである。そうしたことでしか説明できないほどの豹変なのである。
とにかく西郷は立った。それを知った大久保利通は「それが終(つい)に、公表に拠り、西郷も加担してゐると知ったときは、アノ背の高い(殆ど六尺あつた)父が、座にゐたたまらず、焦燥しながら、座敷と廊下の間を鴨居に頭をぶつけながら、グルグル歩きまはつて、そして眼には一ぱい涙を湛へて居つた」と大久保の次男牧野伸顕が叔母から聞かされていたという。(司馬さんは大久保が西郷暗殺に加担したのであれば、この態度は大嘘だとはいってはいるが)
いずれにせよ、ついに西南戦争が始まった。
書誌
書名:翔ぶが如く 5
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617503
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:311p 19cm(B6)
販売価:入手不可
- by kmoto
- at 15:20
comments