2008年09月23日
司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 6
さて西郷たちは蜂起した。目指すは熊本城であった。なぜ熊本城であるのか?熊本城は周知の通り加藤清正が築城した。それを許したのは徳川家康であった。家康はここに難攻不落の城を築くことで、薩摩を封じ込めることにしたのである。薩摩がいつ反旗をひるがえしても、ここで食い止めることが出来るようにしたのである。以来明治のこの時期まで熊本城は薩摩を見張ってきたことになる。
司馬さんは『街道をゆく』で「『肥後の熊本城』というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあって、中央集権の象徴そのものであった」と書いている。だから「西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった」と書く。熊本城は薩摩にとっていつでも「官」の象徴であった。「官」に対し立ち上がった西郷たちが当然潰して通るべきものであった。
その熊本城には政府によって強制的に集められた農民兵が鎮台としていた。当然それ以前の士族たちと比べて質が落ちる。実際西郷たちが立ち上がる前に起こった神風連の乱で、簡単に襲撃され、幹部たちが殺害された。それ以降官兵は弱いと思われ、桐野利秋は熊本城を「この青竹(いらさぼう)で、ひとたたきでごわす」といったくらいなのだ。
しかし実際攻めてみると、さすが難攻不落の城である。そう簡単に落とせる城ではなかった。しかも政府軍は籠城することで、味方の援軍を待つという作戦に出たから余計である。薩軍にしてみれば、「こんなはずじゃなかった」というところだろう。熊本城の攻撃で「薩軍の作戦心理は自閉的におちいりつつあった。そのことは、途に食物が落ちているのを見つけた犬に似ていた。食物(熊本城)を見すてて先に進めばおもしろい活路がひらけるのもかかわらず、食物にとらわれ、食物のまわりをうろうろしつつ、自分に襲いかかろうとする他の犬の群れに対して、寄るな寄るなと咆えつづけている図に似ていた」と司馬さんは比喩する。
とにかく薩軍は熊本城を陥落させることにこだわった。ここに時間をさけばさくほど薩軍に不利になるのだが、熊本城見すてることはできなかった。こだわった理由は先に司馬さんが言った精神的風土なのだろう。いってみれば薩軍は熊本城という罠にかかったことになる。「薩軍がもし最初から熊本城を黙殺して一路豊後を衝き、小倉城をおとして連隊の兵器弾薬をうばっていれば、らくらくと成功したに相違なく、あるいは歴史は変わっていたかもしれない」と司馬さんはいう。
西郷を担いだ薩軍はその精神的風土からくる自分たちの意識下で行動していた。そこには戦略などない。薩軍にあるのは総帥の西郷の天下における威望とこの薩人最強説という神話以外になかった。だから西郷と薩軍の行動は「町内の花見のように、その根拠地である鹿児島県を空っぽにし、全軍をあげて出はらってしまう」のである。
この西郷の威望は薩摩の私学校生徒だけではなく、近隣の農民たちにも及んだ。薩軍に心を寄せる付近の農民は、彼らに握り飯をはこんでやっている。
司馬さんはこの時代には「世間一般に人望家を待ち望んだり、恋い慕ったりする異常な偏向が存在した」といい、その説明を次のようにいう。「士族にしても農民にしても、藩といったような緻密で堅牢な封建組織が霧散霧消してしまうと、殻をうしなった剥き肉(み)のやどかりのような心細さをもち、そのくせ『官』というあらたに出現した重量については違和感のみを感じてそこからのがれたくなってしまう。そういう自分たちに方向を与えてくれたり、居場所を決めてくれたり、ときには死に場所をつくってくれるのが、人望家であった」。その人望家が西郷であった。
農民たちは東京でできた革命政府と、彼らが作りはじめている重苦しい近代国家というものを歓迎しなかった。だから新政府をこわそうとする西郷軍に満腔の厚意をもっていた。農民からみれば、にわかに東京にできた新政府などは税金をとりたてる泥棒も同然といったような印象だったにちがいない。農民たちは馴れなじんだ徳川封建制こそいまにして思えばよかったと一般に考えていたし、それを西郷と薩摩士族がとりもどしてくれることを歓迎していたのだ。
また薩摩士族にしても戊辰戦争をわずか一年で片づけた「古今無双の英雄」として西郷を担ぎ、西郷の威望で天下を覆うことで、自分たちの存在が政府軍より重いのだと思え、東京の太政官を士気の上で軽んずことができ、太政官を正統の政府というより大久保の「私政府」のように受けとるようになる。
薩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下し、熊本城と連携しようとするのを防ぐため、兵を割って田原坂を中心に布陣し、政府軍と激突する。その攻防はすさまじい。
田原坂周辺ではいまでも土の中から銃弾が出てくるが、ときに「行きあい弾」と呼ばれるものも出てくる。
「週刊街道をゆく」の13巻より
これは敵味方の弾が空中でぶつかりあってお互い噛みあい、だんごのようになったものである。現在田原坂の坂の上にある通称「弾痕の家」とよばれる家にもこの「行きあい弾」が保存されている。これは偶然のおもしろさといった軽々しいものじゃなく、こういう「行きあい弾」がいくつも見つかるということは、それだけ一定の空間に相当な密度で銃弾が行き交ったという証明である。
薩軍は田原坂ですさまじい戦いをしたが、結局敗走するところでこの巻は終わる。いくら政府軍が弱いといっても、兵、銃弾の数において薩軍を上回っていたし、兵器の性能も政府軍が上回っていた。さすがの屈強の薩軍も個人の能力だけでは勝負にならなかった。しかも薩軍には戦略を立て、統治し、指揮する人物がいなかった。西郷はこのときも何も言わなかったのである。
書誌
書名:翔ぶが如く 6
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617602
出版社:文藝春秋 (1985/08 出版)
版型:329p 19cm(B6)
販売価:入手不可
- by kmoto
- at 20:12
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