2008年09月27日

司馬遼太郎著『翔ぶが如く』 7

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 ついに7巻全部読み通した。全体的な気分として重い。それはそうだろう。この巻は薩軍の敗走から始まり、最後は城山での自滅で終わるからだ。
 司馬さんはこの西南戦争の性質を「これは軍隊間の戦争というより、薩軍の場合は宗教一揆に酷似していた。総帥である西郷隆盛への宗教的崇拝心以外に政略も戦略もなく、あとは個々の殉教心をたよりにしているというところでは、まったくそれに似ているというべきであった」といい、その宗教一揆が凄惨な自己消耗のいくさをするように、薩軍も消耗のはてに全軍が消えてしまうのではないかというほどに激しく戦ったという。
 しかも面白いことに、薩軍が起つまえにあった士族の反乱、たとえば江藤新平の佐賀の乱や前原一誠の乱、あるいは神風連の乱にしても、「西郷が起つと聞けば六十余州の士族はことごとく起つであろう」と予想し、西郷に決起を促したのに、西郷はとどまった。結果として他の士族はたちあがらなかったので、自滅した。
 しかし今度自分たちが立ち上がったときはそれを信じ、それをもってして唯一の政略・戦略とした。西郷自身、そう信じた形跡が濃い。西郷のもつ一大声望が満天下を覆っていると信じていた。つまり西郷たちも江藤同様同じ失敗をしたわけである。
 薩軍には何度も言うように「勢い」という以外、戦略らしい思想はなかったし、財務的経略を持たなかった。薩軍は総合的な観点も配慮も準備ももたず、あたかも個人競技のように戦術的勇猛さだけで熊本城も押し潰せると思った。結局は駒とり将棋のように兵を駆けまわらせて政府軍の士卒を殺傷するだけが戦いという没戦略的運動から抜け出せなかった。その責任は西郷がテロリズムだけの経験と能力をもつ人間を将帥の位置に据えたことにある。司馬さんは「西郷は一介のテロリストだった桐野や書生にすぎなかった篠原を泥の中から掘り出して陸軍少将の軍服着せ、たれよりもこの両人を信頼し、結局はかれらの政治的狂躁に乗せられた。人間を見ることにいかに目が無かった」と言い切る。篠原はこの後すぐ戦死してしまったので、薩軍を実質指揮するのは桐野である。
 その桐野は幕末中村半次郎と称していた頃から、相手を言論で説得しようとしたり、根まわしをして相手を排除するところがなく、邪魔立てする者を自分の命を賭けて、一人で斬った。維新後西郷によって桐野という凶器は陸軍少将になり、日本の軍事権の一部を掌握した。桐野という凶器は栄誉と権限を得て自立したために自らの思想と判断で動くようになり、ついには飼い主である西郷を引きずり込んでしまったのである。司馬さんは「西郷が見こんだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だった」といい、各地で敗戦を繰り返す薩軍の戦略のなさを、桐野を将にかかげたことににあるとしている。
 薩軍は敗走し続ける。田原坂以降、人吉に南下し、そして今度は宮崎には入り、南下する。そして急展開し、宮崎の山奥から鹿児島に一気に戻る。その敗走劇はすさまじい。そして城山で完全に政府軍に包囲される。


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 「新説西南戦争」(週刊新説戦乱の日本史7 小学館刊)より

 その政府軍には薩摩系高級軍人が多くいる。かれらのほとんどは西郷の子飼か、縁戚の者である。政府軍の総帥山県有朋でさえ西郷に恩があった。そのため西郷を逐うことに、気持ちのひるみがあった。できれば、政府軍が躊躇している間、せめて西郷だけでも逃げてくれまいかという気持ちであった。
 西郷は維新最大の功労者であり、かつ士族の精神像の代表的存在でもあったから、その西郷を討ちとりたくないし、討ちとらなければならないことに、名状しがたいつらさを感じていた。そのため政府軍の幹部は敗走する薩軍をその力で一気に押しつぶすことができるのに、それを躊躇したのであった。
 だから政府軍の最先方に、幕末薩摩と戦って破れた会津藩、あるいは東北、越後諸藩の士族を集め、維新の恨みをここで果たさせようとするのである。
 川路利良が放ったポリスもそのほとんどが会津藩から集められた。このことは、恨みを持つ人間を戦争の駒として使っていることになる。彼らは本来、政府を恨んでいいはずのものが、その政府に逆に恨みを持っていることで利用されてしまうのである。考えてみるだけでそ政府幹部のの狡猾さは恐ろしくもある。
 城山に籠もる薩軍は三百七十人ぐらいで、それを五、六万という政府軍の大軍が城山を包囲しただけではなく、城山そのものを檻の中に入れてしまうような規模をもって、すきまなく柵を植えた。それでも攻撃を躊躇った。薩軍の幹部の中にもせめて西郷の命だけは助けて欲しい(桐野は大反対であったが)と政府軍に交渉にいくが、とき既に遅い。総攻撃の前に、総帥山県も西郷に「自決せよ」という手紙を書いたが、総攻撃は始まってしまった。薩軍はほとんど戦いにならない。西郷も前線に出て行く。死を覚悟して。


もう ゆはごはわすめか(もうよくはございますまいか)

まだまだ

しばらくして

晋どん、もうここでよか

別府晋介は「そうじ(そうで)ごわんすかい」といって、駕籠を下り(別府は負傷していた)、西郷の背に立った。

「御免なって賜(た)も」
というや、別府の刀が白く一閃して西郷の首が地上に落ちた。

 司馬さんはあとがきで「倒幕の段階の西郷は陽画的であったが、明治後陰画的であった」と書く。この場合、写真のポジとネガみたいなことをいっているのではなく、単に陽と陰の対照として使っている。言ってみれば、倒幕時代華々しく活動したのに、維新後影が薄くなったということだろう。しかし過去の栄光はいつまでも西郷につきまとう、たとえ西郷自身自ら形骸化することを選んだにせよ、西郷の名前は革命の象徴となり、一人歩きし、担がれることになってしまった。もうそこには昔の西郷はいないのにである。そこにあるのは西郷という虚像と、自分たちの不満解消がそこに見いだせるかもしれないという淡い希望と合致してしまった不幸である。
 西郷には「西郷の人間ばなれした無私さと、高士の風のある独特の愛嬌と長者として寛仁さと、なによりも多量で透明度の高い感情の量が薩人に好まれた」と司馬さん書くが、それは薩人だけでなく、西郷に接した者が皆感じるものであった。
 薩摩の敗走で援軍として立ち上がった豊前中津隊が、今後どうすべきか討議する。増田栄太郎は中津に帰れと隊員にいうが、自分はこのまま薩軍と一緒に戦い続けるという。その理由を増田栄太郎は「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生と接すれば一日の愛生ず。三日接すれば三日愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」というのである。西郷という人間に接してしまった以上もうどうしようもないのだというのだ。そんな西郷の人間性も災いしたかもしれないと思った。


評価
★★★


書誌
書名:翔ぶが如く 7
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784163617701
出版社:文藝春秋 (1986/07 出版)
版型:350p 19cm(B6)
販売価:入手不可

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