2008年11月12日

司馬遼太郎著『司馬遼太郎が考えたこと』2

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 続いてこのシリーズの二巻目を読む。面白いもので、確かにこうしてまとめられた司馬さんのエッセイを読んでいると“司馬遼太郎が考えたこと”が生き生き伝わってくる。それはいわゆる司馬さんの歴史観だけでなく、私生活の一部も描かれていて、結構興味深く読ませてもらった。しかももうこの頃の文章になると、私が知っている司馬さんの文章で、わかりやすく、初期の文章のような堅苦しさもない。
 さてまずは司馬さんの歴史観で面白いと思ったことを三つあげる。一つは「歴史を変えた黄金の城」というエッセイで大阪城をテーマにしたものである。
 大阪冬の陣で大阪方は秀吉恩顧の大名に応援を求めたが、ほとんどの大名は来なかった。が、牢人は来た。関ヶ原で敗北したために主家を失った武士が生活に困窮し、変の起こるのを待っていた。その大半が大阪城に馳せ参じた。司馬さんはこの決戦を「徳川、豊臣の政権争奪戦という性格のほかに、サラリーマン対失業者の決戦であった。これほどおもしろい性格をもった合戦は、世界史上類をみない」と書く。
 そして時代は徳川末期の鳥羽伏見の戦いに至る。この戦いで将軍慶喜が大阪城にいたが城を抜け出した。それを司馬さんは「大阪城をとって天下を得た徳川氏は、大阪城をすてて天下をうしなった」という。そこから司馬さんは大阪城を「信長以来、つねにあたらしい権力者の目標となり、史上数度もその総攻撃の前にさらされた。しかも、武力によって陥ちたことは一度もなく、つねに政治情勢の変化のために前時代の主権者は、この城を、出ざるをえなかった。この城が開城するとき、日本史はそのつど、つねに一変した。ふしぎな城ではないか」と書くのである。思わず“なるほど言われみれば確かにそうだ”と思ってしまった。
 もう一つは関ヶ原の合戦で、なぜ秀吉子飼いである福島正則、加藤清正、浅野長政らは家康についたのかということである。これは先の巻でも書いたことだけど、こっちの方がより現実的わかりやすかった。曰く「かれらは、感傷としては豊臣への恩義を思っているが、現実では数十万石の大大名である。家来も多い。もし政治的に失敗すれば、多数の家来を路頭に迷わさなければならない。一片の感傷で自分の処世を決するわけにはいかなかったのである。家の保存のためには、何よりも安心なのは徳川家康につくことであった」と。これが現実である。大義名分は美化されやすいけど、それだけじゃ生きてはいけない。いつの時代でも現実無視の行動はただの無茶で、そうした現実を保障する力をもっていた家康が勝つべくして勝ったということなのだろう。
 最後に司馬さんは次のように言っている。「ある種の宗教的ふんい気をもった英雄がいます。たとえば関羽、八幡太郎義家、楠木正成、上杉謙信、西郷隆盛など、もしこういう人達を主人として選んで、しかもその人物に魅力を感じてしまったばあい、人は多く命をすててしまいます」と。司馬さんの歴史小説を読んでいるとこのことがひしひし感じられるので、これもそうかもしれないなと思った。ただ幸か不幸か現代はそういう英雄がいない時代なので、本の中でしか感じられないのだけれど。

 この本には司馬さんの小説の題材がどう選ばれるのか、その小説作法がいくつか書かれている。それをいくつかピックアップして書いておきたいが、その前になぜ司馬さんが“司馬遼太郎”と名乗るようになったのか、その経緯が書かれている文章があったのでまずはそのことを書いておきたい。
 司馬さんが懸賞小説を書いたとき、ペンネームが必要となった。ちょうどその時司馬さんは司馬遷の「史記」を読んでいられた。司馬さんは史記こそ世界最大の文学と信じていたから、司馬遷の姓を借りた。名を遼とした。それは司馬ヨリモ遼(ハルカニトオシ)としゃれたらしい。しかし司馬遼では国籍を間違えられると思い、太郎をつけたという。
 その“司馬遼太郎”という名前が気に入っているかといえば、必ずしもそうでもないらしいが、名前は符丁のようなものだと悟りきっている。ただ「このフチョウに慣れてしまうと、不意に本名でよばれたりしたとき、ふりむかないことがある。本名ではもはや反応力がにぶくなっている。この本名には私は入学試験に失敗したり、兵隊にとられたり、いまでも税金をとられたりして、ずいぶん厄介をかけているのだが」と自分の本名よりもペンネームの方が世間でも自分の中でも一人歩きしていることを書いておられる。
さて司馬さんが何故歴史小説や時代小説を書かれるかである。司馬さんはまず次のように言う。「ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点からその人物と人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書くおもしろさはそこにある」と。そして「時代小説というのは、一にも二にも男の魅力、悲しさ、おかしみをえがく小説だが、私自身、そういう理由こえて、男を見物するのがかぎりなく楽しい」とも言う。
 なぜ人生を完了した男がおもしろいか。それを「すこし語弊のある言い方がゆるされるとすれば、女性は、その人生の進行中にとらえるほうがおもしろく、男性はその人生が終了してから彼をながめるほうがおもしろい」と説明するのである。
 ただ誰でも男であればいいというわけじゃない。作家として男の魅力を感じさせる男でなければならないのである。その舞台となるのが歴史の中であり、その中で男の魅力をプンプンさせる男(肉体美ではない)でなければならない。それを司馬さんは「男という生きものが、その特質のもっともおもしろい部分を発揮するときは、かれが野望に燃えたときだ。権力慾、栄達慾、求道慾、復讐慾、攻撃慾に燃えたときである。その行動がきわめてダイナミックになり、美しさも醜さもいきいきと出てくる。こういう男をえがくためにはやはりこんにちの舞台ではまずい。一時代前の「歴史」を舞台にしなければ大きく動いてくれないのである。
 しかも、変動期でなければならない。戦国時代とか、幕末とか、そういう舞台がいい。そういう時代こそ、男のアクをふんだんにもった男が時代の主流に出てくるわけで泰平の世ではだめである」と説明する。
 なるほどと思う。しかし野望や権力慾、栄達慾、求道慾、復讐慾、攻撃慾だけではダメなのだ。そこには面白くかつ美しくなければならない。だから司馬さんは坂本龍馬や西郷隆盛などは描くけど、例えば山県有朋は絶対に書かないだろうと思うのだ。山県には“美しさ”がないからだ。
 そうして選ばれた主人公はすべて魅力的なのである。司馬さんが「文学のはたらきのなかで、もっとも大きな光栄の一つは、人間の典型をつくることである」と言っているが、司馬文学の主人公は、それぞれ人間の典型を表現したと思う。


評価
★★★


書誌
書名:司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784106467028
出版社:新潮社 (2001/11/15 出版)
版型:407p / 19cm / B6判
販売価:1,890円 (税込)

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