2009年01月30日

阿刀田高著『アラビアンナイトを楽しむために』

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 世の中にはいわゆる古典、あるいは名著と呼ばれる本の書名、その著者などの名前は知っているけれど、実際読んだことがないというのが多いんじゃないかと思う。それを読んでみようと思えば、膨大な労力、根気、時間を要することになることがわかっているから、いくら古典、名著であっても、思わず伸ばした手を引っ込めてしまう。つまり読めないということだ。
 阿刀田さんはそうした古典、名著と呼ばれるそうした作品を阿刀田流にアレンジして“この本はこういう本ですよ”と内容を教えてくれる。この本を読めば、少なくとも書名や著者名だけでなく、少々内容も知ることができるわけである。いわば古典読本というところであろうか。阿刀田さんの本にはこういう本がいくつもあって、それを読めば現物を読まなくても、何となくそういう本かと知ることができるので、横着者にはもってこいである。
 この本もその一冊である。物語は、ササン朝ペルシャの時代で、シャーリャルという大王がいて、弟にサマルカンドの王、シャー・ザマンがいた。この兄弟がいないとき、それぞれの妃は黒人奴隷を連れ込んで、淫靡な遊びに耽っていたことを知る。このことからシャーリャル王は女性不信に陥り、「この大地の上に一人として貞淑な女などいやしない。女はこの世に生かしておく必要のない生き物なのだ」と宣言し、妻、妾をはじめ後宮女奴隷をことごとく殺してしまった。この後、シャーリャル王は夜ごと処女を求めて夜伽をさせた後、朝が来ると殺すようになった。このため町には処女がいなくなる。
 この時大臣の娘シャーラザットは自ら立候補してシャーリャル王の夜伽となる。シャーラザットは妹のドゥニャザットと共に王の寝床に赴き枕元で物語を語る。その話が余りにもおもしろいものだから、シャーリャル王はシャーラザットを殺すことが出来ず、とうとう物語は千と一夜続いた。そのうち王は自分のむごい仕打ちを後悔し、シャーラザットを王妃として迎え、この間三人の男の子を産んだ。
 笑っちゃたのは、千夜一夜で三人の子どもを産むことが可能かどうか、阿刀田さんは計算するのである。それによると、懐妊期間を十月十日とすれば、三人の子どもを産むのに九百三十日かかる。ということは1001-930=71日だから、子供を産んで次に妊娠するまでに平均三十日しかなかったことになる。もちろん不可能じゃないだろうけど、母体はぼろぼろじゃん、というのだ。「外国の遠い昔の空想譚ながら、母体保護の立場からおおいにご同情申し上げたい」と阿刀田さんはいう。シャーラザットの妹もシャーリャル王の弟の妃となってそれこそめでたしめでたしということになっている。
 阿刀田さんはその『千夜一夜物語』の中から気のおもむくまま十二話をこの本で紹介している。まぁ内容はそれほどおもしろいとは思えなかった。そもそも空想の世界が現実の世界と交錯していて、“こんなことあり得ない”と思っちゃうとおもしろくも何ともない。物語の結末から、訓話めいたことを導き出すことも可能かもしれないが、それを言いたいために無理な話を作っているとも言えなくもない。もともと教訓などを導き出す話が好きじゃないので余計である。まぁ、この本を読んで実際の『千夜一夜物語』を読んでみようという気にはならなかった。

 この阿刀田さんの本にもイスラムの一夫多妻制について触れられている。それが認められて来た理由が書かれていて、こちらの方がわかりやすかったので、それを書き残したい。

 「たとえば回教徒の世界では、四人まで妻を持つことが許されている。これはアラブ人の好色さを表わすように受け取られているが、そればかりではあるまい。激しい抗争を繰り返して来た砂漠の民族には親族よりほか信頼できるものがない。多くの子孫を得ることは繁栄の道であった。しかも二人の妻では仲たがいしやすく、三人でも二対一の形になって争う。四人の妻の場合にほどよいバランスがとれる、という智恵に由来するものだという」


評価
★★


書誌
書名:アラビアンナイトを楽しむために
著者:阿刀田 高
ISBN:9784101255088
出版社:新潮社 (1986/12/20 出版)新潮文庫
版型:297p / 15cm / A6判
販売価:499 円(税込)

2009年01月28日

アレヴ・リトル・クルーティエ著『ハーレム』

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 渋沢さんの他の本を探しているのだけれど、手に入らない。で、自分の本棚で何かトルコの歴史や風俗などの本がないかと探していたら、この本があった。ざっと眺めていたら、トプカプ宮殿のハーレムの生活が書かれている。ちょっと読んでみようと思い、手にした。
 
 思うのだけれど、たとえば政治システム、法律、あるいは習慣、風俗などは人間の脳が異常に進化した結果もたらされた、架空のものであって、それが人間らしさという名の下で、ある意味非生物的拘束を要求しているものじゃないかと考えるときがある。もちろんそれは善悪をいっているんじゃない。ただそういうことなんじゃないかと思うだけである。
 脳の進化が宗教を生み、言語が生まれ、文明が生まれ、芸術が生まれる。本来宗教や思想などは形のないものなのだけれど、それが言葉や絵画芸術などで形あるものとして考えられるようになった。そこから歴史が生まれる。
 そうした人間が作り出した虚構は、時代と共に進化し、人間社会を構築するために、さらに非生物的虚構を作り上げてきた。何もかも取り払ってしまえば、生きるか死ぬかその一点に尽きるだろうし、勝者は敗者の殺傷与奪権を自由に握れる。じゃまになれば殺せばいいし、欲しければ手元に置けばいい。自分の利益になるなら、利用するだろうし、自分に危害を加えそうなら、取り除けばいい。そういうことだろう。
 時代が進み、誰にも生きる権利が平等にあり、生きたいように生きれる自由があることを認め合うようになる。しかしそれぞれ所有するそれらの権利を主張しあえば、まとまりがつかなくなるから、それらの権利の一部を放棄して、法律を成文化してきたのだろう。人間社会とはそういう形で成り立っている。
 もっと言えば、禁欲主義(この場合人間のあらゆる欲望を言っている)は、人間が人間らしくあるべき節度として考えられているところがある。つまり欲望のままに行動することは、動物と同じであって、人間のすることじゃないということだ。ある意味それはそれで、人間社会を成り立たせているところがあるから、真理であろうが、行き着くところそのはけ口がなければ息苦しい。みんなが聖職者というわけじゃないのだ。

 何を言いたくてこんなことを書いているかというと、いわゆるハーレムという響きが甘美な響き誘うところがあるのではないかということを言いたくて、書いている。
 この本にもB.R.レッドマンという人の『アラビアンナイトの愉しみ』という本だかなんだか知らないが、そこのある序文をが“ハーレムが何故魅惑的なのか”を物語っている。

 「そこは視覚、聴覚、臭覚などありとあらゆる感覚を狂おしくさせる、めくるめく陶酔の世界である。香ぐわしい果実や花、きらめく宝石、人を酔わせるワイン、舌にとろける甘い菓子、男と女のしなやかな肉体、その比類なき美しさ、そこはまさに冒険に満ちた、なまめかしい愛が出会う世界・・・・閉ざされた窓の背後にロマンスがひっそりと身をひそめ、ヴェールの下のまなざしは謀を秘めている。召使の手には、香水がふりかけられた逢瀬を願う紙片が握られて・・・・そこはどんな大それた望みでも叶わぬものはないといった、明日という日が約束されていない世界。そこはサルと人間が張り合ってもおかしくないと思わせる、荒唐無稽な世界でもあり、一介の肉屋が王の娘と結婚できるかもしれない世界でもある。ダイヤモンドの王宮があり、王冠にはルビーそのものから彫り出される。そこでは、日常生活につきまとう煩わしさがみごとに一掃され、個人としての責任も義務も、喜ばしいことに一切存在しない。そこは伝説のダマスカスであり、伝説のカイロであり、伝説のコンスタンチノープルである・・・・つまるところ、それは永遠のお伽噺の世界なのだ-だからこそ、人を魅つきつけてやまないのだ」

 そこには西欧人のあこがれである“オリエンタルリズム”がさらにハーレムを艶めかしい世界へとかき立てる。「それは18世紀の西欧社会における抑圧された欲望の隠喩であった」のだ。ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの作品『オダリスクと奴隷』、あるいは34歳の時に描いた代表作『グランド・オダリスク』がそうした雰囲気をうまく描いている。

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 これを見ても、何か退廃的な気分のあこがれを感じられる。そこに男の欲望でもある閉ざされた世界での性的願望もそれを増長させるのであろう。どこか性的倒錯を望んでいる部分があるような気がする。

 この本は著者の親族がハーレム出身であったことから、著者はハーレムに興味を持ち、その知られざる世界をこの本であらわしたものである。多くの貴重な写真、絵画がちりばめられており、本そのものが美術書みたいな感じになっている。いかにもハーレムの華々しい世界をそのまま再現したみたいになっている。ここにはハーレムの起源から、その王宮の日常生活、さらに市井でのハーレムの実体、さらにハーレムを通して西洋との出会い、それが残したものに言及している。
 著者によると、ハーレムの起源を次のように考えている。人類が狩猟生活から農業生活に移るに当たり、この初期の段階では女性は穀物を育成する大地母神の権化と見なされ、特権的地位を占めていた。いわゆる女系社会であった。
 ところが農業生活で余剰生産物が生まれ始めると、生活の安定を持たない者はそれを持つ者に支配されるようになる。社会は土地所有者と奴隷の二分化する。それは同時に女性が作物の豊穣を意味していた女系社会の崩壊でもあった。母親は家族の軸でなくなり父親が父系家族の家長となっていく。女性の地位が没落し始めたのである。女性は男の所有物となっていく。男が世帯を維持していくうえで一夫多妻が経済システムを維持していく要素となっていくのである。
 さらに旧約聖書において女性の罪深さ、原罪は女の性にあるとまでされ、キリスト教においてさらにその思想は補強される。イスラムにおいても、女性は理に疎い者、精神力が希薄で、主人の愛欲を満たし、男の世継ぎを産むだけの価値のない者と見なされ、コーランには「女というものは汝らの耕作地。だから、どうでも好きなように自分の畑に手をつけるがよい」と書かれており、さらに大天使ミカエルがムハマンドに手渡した羊皮紙には「妻があなたに従わない場合、体罰を加えるがよい。1人の妻で足りない時は、4人まで妻を迎えるがよい」と書かれており、コーランでは4人まで妻を持っていいことになった。
 これが形を変えたものがハーレムであった。ここではまずオスマントルコでハーレムの実体がどうであったのか。そこでの女性の生活の実態、あるいは王の生活などが詳しく描かれる。
 我々はハーレムでは性的倒錯の世界を思い浮かべるところが多いが、ハーレムで囲われた女性にとって、そこで生きることはそうした世界のテクニシャンでもなければならなかっただろうし、かといってそれだけでいいというわけでもなかった。知性や教養も要求され、それがまた女性の魅力ともなり得たのであったことを知る。
 さらにそこで生き延びていくには、陰謀、策略も必要であった。数いる女性の中から王の寵愛を受け、跡継ぎを産むためにの必要悪であった。跡継ぎを産めない女性は払い下げられたし、陰謀がばれれば、袋に詰められボスポラス海峡に沈められたから、このあたりはまさに生死をかけていたことになる。
 現代でいう女性の地位などあったもんじゃない。そういう社会であった。人を人と思わず、ものと同様に扱うやり方は、今で言えば人権無視ということになるだろうが、それは今がのほほんと生きられる時代だからそう言えるのである。少なくとも人類にはそうした時代もあったことも認識しなければならないし、そもそもそれが人権無視だという主張は、あくまでも現代の視点から見ているからそう言えるだけのことだろう。少なくともハーレムいた女性達は、自分の人権など考えも及ばなかっただろう。西洋で生まれた人権はここでは通用しなかった。もともと閉ざされた世界だから余計である。
 ところが1900年代にはいると、ハーレムでも西洋思想が入り込んでくる。それまで自分の人生をそうするしかない、あるいは自分の境遇をそういうものだと是認してきたものが、くずれていく。疑問を持ち始める。

 「祖母たちの世代のように、父=男系社会を盲目的に信じていたなら、私たちはこれほど悩みもしないでしょう。しかし知識が増えるにつれ、私たち以前なら慰めになった信仰に疑念を持ち始めました。実際、そうなることが多いのです。女性の生き方をみてわかることは、女性への不公平さと残酷さ、悲惨さの強制以外の何ものでもないということです。服従と知識は両立しないのです」

 「私が申し上げることを聞いてください。私は西洋の教育と文化が憎いのです。そのためにどんなに苦しんだことか。なぜ私はハーレムで生まれ、本で読んだ自由なヨーロッパ人として生まれなかったのだろうか。なぜ運命の神は他の人たちではなく、私たちを選んで永遠の苦悩をなめさせるのでしょうか」

 どちらかといえば、この方が残酷なような気がする。自分の生き方が否定されるというのは、それこそ足下がくずれるものであっただろう。我々はそれが人間らしさであり、自由、平等が誰でもあり、当たり前の権利だと主張するけれども、それを知らない世界で生きてきた女性にとって、そのことを知ったことでますます不幸になった。あるいは自分の不幸を嘆くことになってしまったことを知らされる。知ることの悲しみを知らされるのである。
 その後1909年にオスマントルコのハーレムは解散された。ただハーレムは一夫多妻を認めてきたイスラムの習慣や伝統の一部として今でも残っているらしく、イスラム原理主義では強化されているかもしれないと著者は言っている。中東やアフリカでは今でも盛んらしい。アメリカでもモルモン教の一部の宗派では一夫多妻を認めているし、ヒュー・ヘフナーの「プレイボーイの館」など形を変えたハーレムもある。驚くことにアメリカでは人口の5%にあたる者が何らかの形で一夫多妻を実践していると推定されるという。ここでは資産家が男の夢を実現しているのだろうか?


評価
★★★


書誌
書名:ハーレム―ヴェールに隠された世界
著者:アレヴ・リトル・クルーティエ 篠原 勝【訳】
ISBN:9784309222035
出版社:河出書房新社 (1991/09/30 出版)
版型:215p / 26cm / B5判
販売価:入手不可

2009年01月25日

渋沢幸子著『イスタンブール、時はゆるやかに』

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 私は著者のことはまったく知らなかった。ただ書名にある“イスタンブール”に惹かれた。私はこの町は叶わないだろうけど行ってみたいと思っている町である。
 コンスタンティヌス大帝が作った都、そして西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国として、ビザンティン帝国の首都として続いた町。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の最終章で、オスマントルコのメフメット2世が「一層貴重で重要な贈り物が欲しい」と言った町、コンスタンティノポリス。一方ビザンティン帝国皇帝コンスタンティヌス11世が自ら異教徒の中で生き延びることを拒み「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」と絶叫した町。
 シルクロードの最終地点であり、アジアから見ればヨーロッパの入り口、ヨーロッパから見れば出口にあたる町。たぶんアレキサンダーも通っただろう町。さまざまな民族が行き交っただろう町。もともとはキリスト教の教会だったものをイスラムのモスクに変えられ、ミナレットが立つ町。金角湾、ボスフォラス海峡。そして庄野真代も“飛んでイスタンブール”と歌った。うん?
 渋沢さんはが言うように「この町では、歴史がバウムクーヘンのように幾重にも層をなし、モザイクのように入り組んでいる」のだ。たとえばグランドバザールと聞けば、さまざまな文化、風習、人種が入り乱れ、喧騒で、しかも楽しそうな雰囲気が漂ってくる。渋沢さんも「その魅力は容易に説明できるものではないが、あえて言えば、層をなす歴史の重みと、混沌の中の輝きであろうか」という。とにかく書名に“イスタンブール”とあると、なんだ、なんだと本に手が伸びてしまうのだ。
 で、読んでみてこれは楽しかった。そしてこんな旅ができるなんてうらやましかった。イスタンブールの旧市街地の町並みが残るといわれている、特にビザンティン時代のギリシア正教会の総本山であったアヤソフィア、あるいはトルコのブルーモスクや、トプカプ宮殿など訪ねられるところはうらやましくて仕方がない。
 さらに渋沢さんはトルコ内陸部、あるいはシリアやイラン国境近くまで行かれ、ティグリス・ユーフラテス川上流まで進む。そこには、オスマントルコ帝国発祥の地ブルサ。“歴史学の父”といわれるギリシアの歴史家ヘロトドス生地ハリカルナソスであったボドゥルム。トロイ。コンスタンティヌス大帝がキリスト教の教義を統一するために開いたニカイアの公会議で知られるニカイアであったイズニック。クレオパトラがアントニウスに初めて会った町、タルスス。背教者ユリアヌスがペルシャ討伐で交戦中に槍が刺さり三十二歳の生涯を終えた町、ハランと、私が知っている歴史がてんこ盛りだ。読んでいるだけでワクワクしてしまう。

 この本によると、渋沢さんはイスタンブールを中心トルコを最初に旅されたのは1981年で、ギリシアの側から列車で入られている。とにかくトルコの人はどうしてこんなにやさしいのかと思うくらい、ここでは渋沢さんに親切なのだ。よく声をかけられ、仲良くなっていくのだ。思わずほんと?と言いたくなるくらいなのだ。
 トルコ人の日本人びいきは、日本がトルコ人の宿敵ロシアを打ち破ったからだともいわれる。あるいは渋沢さんが言っているように中央アジアの騎馬民族が西に移動してトルコ人となったとして自らがその末裔だとして誇りを持っていて、その騎馬民族が東に向かって日本になったのだから同胞だというのも面白い。その同胞がアジアのリーダーとなり、世界大国になったということを誇りに思うトルコの人が多いというのには驚かされる。
 もっともこれはもう三十年近く前の話であるから、やっぱり日本人女性一人トルコを旅するのが珍しかったからじゃないかと思う方が自然である。もちろん危険にも遭遇しているが、それでもそうしたやさしいトルコの人と接して、すばらしい旅をされたことが、この本をいいものにしている。
 ところでコンスタティノープルがなぜイスタンブールになったかその由来を知った。この町をギリシア人がコンスタティノープルと呼ばず、エストムポールと呼んでいて、それがトルコに伝わり、イスタンブールになったらしい。エストムポールはギリシア語のエス・テン・ポリン(都市へ)がなまったものと言われている。しかし現在、トルコとギリシアは仲が悪く、イスタンブールと呼ばず、コンスタティノープル呼んでいるのが渋沢さんは不思議だといっているのはおかしかった。


評価
★★★★


書誌
書名:イスタンブール、時はゆるやかに
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458212
出版社:新潮社 (1997/03/30 出版)新潮文庫
版型:276p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月22日

アガサ・クリスティー著『ABC殺人事件』

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 またクリスティーの作品に戻る。この本もおもしろかった。


今回もねたばれ注意


 Aの頭文字がつく土地でAで始まる名前の持ち主が殺され、B頭文字がつく土地でBで始まる名前の持ち主が殺される。さらにC頭文字がつく土地でCで始まる名前の持ち主が殺される。殺人現場にはABC鉄道案内が残されていた。殺人の前には必ずポアロのところに殺人予告の手紙がABCと称する人物から届いている。
 話はポアロの友人でワトソン役を務めるヘイスティングスの叙述で進められるが、途中「ヘイスティングスの記述でない」という三人称の章をはさみ、一見この殺人事件とは無関係な人物(猫背で近視のストッキングの行商人)ことが書かれる。

 この三つの殺人事件は今までポアロたちが扱ってきた事件とは違い、三人の被害者には何ら関係が見出せない。ただ犯人がABCの順で人を殺していくというもの。だからポアロは「これまではいつも、内部から調べるというのがわれわれの仕事でした。重要な点はこうです。“この死によって利益を得るのは誰か”これまではつねに“内部の犯行”でした。今回は、わたしたちが協力するようになってはじめて遭遇した、没個性的な殺人です。外部からの殺人です」と言う。つまり今までの犯人は必ず被害者を中心の人間関係の中にいて、犯行の動機もその人間関係の中にあったが、今回はまったく違うということなのだ。
 そこでポアロの提案で被害者の関係者が集まって、一見無関係な殺人事件に関連を見出そうとし、殺人事件があった日に何か思い出すことがないか、話し合いがもたれる。しかし集まった被害者の関係者は、自分達が目撃したことはすべて警察に話しているので、もうこれ以上何も思い出すことはないと言う。しかしポアロは「いえ、いえ、マドモワゼル。そうではありませんぞ。それぞれが、何かしら知っているのです。-自分たちが何を知っているのかさえわかりさえすれば。かならず何かを知っているはずです、それをつかめばいいだけなのです」と言い、自分たちが何を知りたいのかそれさえわかれば、記憶の中から新しい何かを見出すことが出来ると言うのである。そうして一人のストッキングの行商人が三つの殺人事件の現場にいたことをつきとめるのである。
 しかしこの行商人には、特にB頭文字がつく土地でBで始まる名前の持ち主を殺すには無理があった。というのも殺されたのは若い尻軽娘で、どう考えてもうだつが上がらない、しかも猫背で近視のさえない男についていくようには見えない。しかもこの時行商人にはアリバイがあった。この時この三つの殺人事件は、実は一人の人間を殺したいために、他の二人が殺されたのではないかと思うようなる。つまり“木を隠すには森”である。そのため無差別殺人を装い、何ら関係のない人間をABCの順で殺し、ポアロたちを混乱させたのである。
 ここまで来ると今度は外部犯行から内部犯行に視点が移っていくことになり、ポアロの元に集まった関係者に真犯人がいることになる。
 こうしたストリーの運び方がすこぶるうまい。ヘイスティングスの記述の記述から突如「ヘイスティングスの記述でない」という章をもうけて、ストッキングの行商人を描き、こいつが犯人ではないかと思わせつつ、しかしどこか無理があるように描いていく。
 そしてこの行商人が犯人ではないだろうと確信するのだが、ではなぜこの男は三つの殺人現場の近くにいたのだという疑問がわくし、Dのつく土地と名前の人間を殺したとき(この時の被害者はDの頭文字を持つ人間ではなかった)、なぜこの男は凶器のナイフを持っていたのか。男の自宅に家宅捜査が入ったとき、何故部屋にABC鉄道案内があったのか、なぜこの男が犯人に仕立てられたのか、など違う疑問が生まれてくる。だからページがどんどん進んでしまう。なかなかおもしろいミステリーであった。


評価
★★★★


書誌
書名:ABC殺人事件
著者:アガサ・クリスティー 堀内 静子【訳】
ISBN:9784151300110
出版社:早川書房 (2003/11/15 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:412p / 16cm
販売価:798円 (税込)

2009年01月20日

吉村昭著『東京の下町』

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 また吉村さんのエッセイを読む。吉村さんは日暮里で生まれ育った人である。この本は吉村さんが子供頃の日暮里での風景を描写している。
 私が子供頃の日常はまだ吉村さんがいた日常とほぼ似ている。まだ戦後20年はたっていないから、多少は変わっているところもあるけれど、まだ昔懐かしい子供の頃の風景が残っていた。住んでいるところが江戸川区という東京都といっても、田舎だったから、高度成長期が始まる頃とはいえ、取り残されたところがあったのかもしれない。
 この本に記されている、トンボ取り、風鈴売り、金魚売り、豆腐売りのラッパの音、牛乳配達が鳴らす瓶が当たる音、蚊帳のある部屋、近くにあった街の映画館、公園に来る紙芝居やおでんの屋台、縁日のアセチレンガスの火、などなど、みんな私の思いでの中にある。なんせ、小学校の校歌に“シラサギ飛び交う”という歌詞があり、事実田植えが終わった冬の田んぼにはシラサギが何羽もいた。 こういう子供の頃の日常風景を懐かしむこと自体、やばいなと思うところがあるけれど、でもやっぱり懐かしい。なんかいいなぁと思うのだ。
 私の子供の頃の原風景と吉村さんの子供の頃の原風景との唯一の違いは、吉村さんの場合“戦争”をはさんでいることだろう。吉村さんは「少なくとも太平洋戦争がはじまるまでは、町には庶民の生活があった」と書かれているが、この本を読むと、戦後の生活と戦後の生活には一時戦争という断絶はあったにせよ、その復興には庶民の力が強く働き、完全までとは言えないしろ、戦前に似た生活に戻ったところが感じる。
 そしてその戻った庶民の生活は、「考えてみると、日本人の生活は、大ざっぱに言って明治以後、昭和三十年頃まで基本的な変化は余りなかったように思う」と吉村さんが言うように、私の子供の頃までは吉村さんの世代が回顧する子供の頃と共有できる部分が多かったのではないかと思うのだ。だからここに書かれることに妙に懐かしさを覚えるのだろう。
 そしてそれは私たちの世代までである。きっとこの後来る高度成長期に日本は大きく変わり、日本が世界の中の一つに位置し、世界経済が日本を大きく変えていき、今もその嵐にもまれているため、生活も変わらずを得ないのではないかと思うのだ。
 いつも私より年配の方の随筆やエッセイを読んでいると、何で私が“そうそう”と思うのか不思議ではあったが、たぶんそれらの人たちが過ごした生活、たとえば「道路は、少年少女の遊び場であった」頃の風景が私の世代までであっただけのことなのであろうと、改めて思った。
 私は自分の子供の頃と今の子供たちと比べてどうこう言うつもりはないけれど、ただこうしたエッセイを読んで、共感できることはうれしいと思うのだ。


評価
★★★


書誌
書名:東京の下町
著者:吉村 昭 永田 力【絵】
ISBN:9784167169145
出版社:文芸春秋 (1989/01/10 出版)文春文庫
版型:233p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年01月16日

北尾トロ著『ほんわか!』

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 この本はトロさんが雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載している文章を一部まとめたもであるという。本のまわりにある謎を調べたものである。たとえば「読書好きはモテるのか?」とか、「処分された本の末路どうなるのか?」とか、「官能小説のタイトルは、誰がどのようにつけているのか」、あるいは「車内吊り広告はどうなっているのか」とかで、トロさんが調査隊を編成して調べたものである。
 まずは本の処分についてである。いらない本の処分というのは結構困る。古本屋に持っていくのも面倒だし、かといって資源ゴミとして処分するには忍びない。ちょっと前に朝日新聞に載っていた記事を思い出す。蔵書家のご主人が亡くなられて、その本の処分するに当たり、故人の気持もあるものだから、古本屋に売り飛ばしてしまうのに抵抗がある。だから図書館に寄付するというもので、寄付された図書館側がそうした本の寄付に困っているというものだ。寄付された本には偏りがあって、図書館向けじゃない場合多いというのだ。
 図書館も最近は公共の貸本屋化しているものだから、出来れば最近の本やベストセラーが欲しいらしい。だからたとえば故人が所有していた本が専門書の場合、とてもじゃないが寄付として受け取れないというのだ。
 まぁ本の処分のために図書館に寄付するというのは、一見美談のように見えるけれど、所詮それは本の処分のために利用しただけのことであって、そんなことをするなら古本屋さんに売ってしまった方がいいと思う。少なくとも古本屋さんに売られた本は、他の人に求められる可能性があるわけで、本が再流通することになる。
 一方たとえその本が貴重な専門書であっても、ベストセラーでないという理由で、寄付を受け入れられない図書館ってどうなんだろうかとも思う。
 昔神田村に鈴木書店という岩波書店の本など、結構かたい本を扱っている問屋さんがあった。そこで「まるすニュース」という書店向けに新刊の紹介を書いていた井狩春男さんのエッセイに、神保町界隈で古本屋さんが売れない本をゴミ置き場に軽く縛って出している本があって、それをほどいてそうっと持っていく人たちがいたということが書かれていたのを思い出す。場所が神保町である。それらの本の中にはおもしろい本もあったらしい。もともとそれらの本はゴミとして出されたものではあるけれど、“よかったら持っていっていいよ”という気持もどこかにあったのではないかという。
 トロさんこの本にもゴミとして出された本に気がつき、そうっと持っていく人がいることが書かれていたし、トロさん自身もそうした本や雑誌を持っていったことが書かれているけれど、もしそれらの本が必要なら持っていってもいいんじゃないかと私も思う。何でもかんでも資源ゴミにしてしまうよりはるかにましだ。
 私の場合、どうしようもない本はブックオフで処分してもらっている。ブックオフで値段がつかない本はそこで処分してもらっている。

 おもしろかったのは「官能小説のタイトルは、誰がどのようにつけているのか」であった。この本を読んで知ったのだけれど、本のタイトルは編集者が考えているらしい。しかも自分のところにあったタイトルをいくつも考えておくらしい。
 ここでは官能小説評論家の意見を聞いている。こんな評論家がいること自体笑ってしまうのだけれど、言っていることは結構まともだ。
 これらの本は、本の内容を吟味して選ぶというわけにもなかなかいかない。そのコーナーで立ち読みしているだけで、“変態”と思われかねないからだ。しかも著者のネームバリューでその本を選ばせるというものでもない。さらにこれらの本は“密かな楽しみ”本だから口コミなどは期待できない。となると、一瞬で読者に興味を持たせなければならない。だから版元にとってタイトルのインパクトは死活問題となるという。
 そこで力を発揮するのが漢字らしい。「表意文字である漢字は、それぞれに意味を持ち、組み合わせ方も豊富。しかも読者の妄想をかき立てる。淫という文字だけで、それぞれが頭の中に好みのシーンを思い浮かべることが可能なのだ」とトロさんはいう。なるほど。
 だから官能小説のタイトルには難しい漢字や造語が多いらしい。しかしだからといってそれらは決して文学的方向には行かない。それを官能小説評論家は「当然です。官能小説は実用書ですからね」と言い切るところは笑ってしまった。そうか、官能小説は実用書は実用書なのか!そういう考え方もあるのかとつまらぬことを思ってしまった。確かに官能小説は、それを読むことで性的満足感得るのだから実用書とも言えなくもない。官能小説のタイトルも時代の風潮や流行などに左右されるらしい。

 「車内吊り広告」の調査もおもしろかった。週刊誌や雑誌の車内吊り広告は山手線や京浜東北線、総武線に多いらしく、地方の路線になるとぐっと数が減るという。要は通勤電車に多いということだろう。満員電車の中では新聞も本も読めないから、頭の上にぶら下がっている広告を見るしかない。だからその広告は“読みたい”と思う気持を生むものでなければならず、各社それなりに苦労されているようだ。
 その調査の後、トロさんが後で付け加えた文章が気にかかった。「雑誌が売れなくなっている現状を短絡的にインターネットやゲームのせいにする気はないけれど、電車に乗っていると『なるほど』と思ってしまうときがある。多くの人が手元の携帯画面に目を奪われているのだ。視線が上を向かない」とある。確かに電車に乗っていると、携帯を広げている人の数が多いと思う。ということは、雑誌の吊り広告は以前のような効果がなくなりつつあるのかもしれない。

 最後にトロさんが阪神淡路大震災の一年後神戸を訪ねている。そこで本はどんな状況にあるのか?本屋さんはどうなっているのだろうかというのである。確かにあれだけの震災である。本を読むどころじゃない。それよりどうやって生きていくかの方が最優先であろう。それでも本屋さんが再開され、それを歓迎する人たちがいたのである。それを見てトロさんは「それは本や書店が役に立たない面を持つからだ。なくてもいい無駄なものにこそ、人々を引きつける力があった。ぼくはそう結論したい。書店は雑多な人間が時と場所を共にする。『欠かせないものじゃないけれど、なかったらたまらなく寂しい』場所なのだ」という。
 また別のところでは、「おもしろいことは無駄な動きが呼び込むもので、効率が良くなればなるほど無駄が排除されてしまうのだ」とも言っていっている。
 今年の新潮社の年賀広告で本を読むことは究極のスローライフだと書いてあったのを思い出す。手間や時間がかかるけど、本を読むことが生活を何らかの形でうるおいやメリハリをつけるものだと思うから、一見無駄や非効率であるかに見えるけれど、その分人の心に何らかの足跡を残すものだと思いたい。無駄を排除して、効率ばかり追いかけてきて、結果どういう社会になっているのか、今我々はその結果に唖然としている部分があるんじゃないだろうか。だからトロさん言い分には、その通り!と賛成してしまう。


評価
★★★


書誌
書名:ほんわか!―本についてわからないこと、ねほりはほり!
著者:北尾 トロ
ISBN:9784840126229
出版社:メディアファクトリー (2008/12/25 出版)MF文庫ダ・ヴィンチ
版型:253p / 15cm / A6判
販売価:579 円(税込)

2009年01月15日

アガサ・クリスティー著『オリエント急行の殺人』

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 続いてクリスティーの作品を読む。この作品は読んでいる。(多分高校生の頃だろうと思う)おぼろげながら内容が頭に残っているからだ。しかし詳しいことは忘れてしまっているので、結構おもしろく読ませてもらった。

ねたばれ注意

 話は、ポアロが乗ったオリエント急行が大雪のため立ち往生しているとき、列車の個室で刺殺された男が見つかる。男は12カ所も刺されており、その傷口は軽いものもあれば、致命傷になるほどの深い傷もあり、しかも刺した利き手が右利きのもあれば、左利きのものもある。犯人は単独犯かそれとも複数犯か?大雪で動けなくなったオリエント急行は外部とまったく連絡が取れなくなっている。 ポアロはオリエント急行を運行する会社の重役から捜査の依頼を受ける。まずは被害者の身元がはっきりする。アメリカで三歳の女の子を誘拐し身代金を要求して、二〇万ドルという莫大な金を手にしたが、女の子は死体で発見された。当時母親は妊娠していたがこの事件のショックで早産し、お腹の子は死児で、母親も死んでしまった。夫は絶望のあまりピストル自殺をした。まったく関係のなかった子守の小娘が疑われたが、それを苦にして飛び降り自殺してしまう。被害者はその誘拐犯の首謀者であった。
 ポアロはの寝台車の乗客から事件当時の話を聞き、「真っ赤なキモノを着ている者」を見たとか、「女のような声をした、小柄な、色の浅黒い男」を見たと言う証言を得る。乗客の証言を聞いていると、みんなが疑わしい部分がある。誰が嘘をついているのか?しかしポアロたちには乗客の証言を確かめるための手段がない。なぜなら列車は大雪のため止まっており、外部と連絡が取れないからだ。だからポアロは事件を推理するしかないのである。 そして推理した結果、犯人たちは乗客の一人を除いて、車掌も含めて全員でしかあり得ないという結論に至る。動機は、この列車の車両に乗っていた乗客全員があの幼児誘拐事件の関係者だったのだ。そのためこの殺人事件は綿密に計画されたものであり、唯一の例外は大雪で列車が止まってしまうということだったのだ。

 む~んん、こんな大がかりな殺人事件ってありか?と思ったが、事件の真相がわかったとき、やはりそれしかあり得ないし、その真相は被害者の刺し傷の数が物語っていることを気がつくべきであった。そういう意味では一本取られてしまった。エンターテイメントとしておもしろかった。これはクリスティーのファンになってしまいそうだ。


評価
★★★


書誌
書名:オリエント急行の殺人
著者:アガサ・クリスティー 中村 能三【訳】
ISBN:9784151300080
出版社:早川書房 (2003/10/15 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:429p / 16cm
販売価:777円 (税込)

2009年01月12日

「どんなことがあっても、本が好き 番外篇」オープン

 ついにというより、やっと「どんなことがあっても、本が好き 番外篇」オープンできた。とにかくプランはいろいろと頭の中にあるのだけれど、如何せんここにアップするには他のブログのように文字を書くだけですまないため、手間がかかる。いわゆる下準備が大変なのだ。だから面倒になってしまい、1年以上も放置してしまった。
 ここには「前口上」にも書いたとおり、自分が持っている本の中で、思い入れのある本の話などを書いてみたいと思っている。しかもビジュアル的にきれいにやりたいなと思っている。ただ美的感覚が欠如しているので、「おいおい、おまえのきれいってこれかよ」と言われてしまうかもしれないけれど、まぁそんなもんでしか私にはできない。できれば、こんな本もあるのかと思ってくれればうれしいと思っている。
 コンスタントに更新出来ればいいけれど、手間がかかるのと、私がずぼらな性格なところもあるので、更新に時間がかかると思います。思い出した頃にひょこっと訪ねてくれれば、更新されていることと思います。よろしくお願いいたします。

2009年01月11日

アガサ・クリスティー著『スタイルズ荘の怪事件』

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 クリスティの作品は昔一冊ぐらい読んだと思う。このように作家の名前や作品は知っているけど実際読んだことがないというのは結構多いんじゃないかと思う。別に読書家を気取っている分けじゃないが、それではちょっと寂しい気がする。だからという分けじゃないが、まずはクリスティーの作品をいくつか読んでみようと昨年から思い、いくつか用意していた。特に名探偵ポアロの登場する作品は読んでみたいと思っていた。
 この作品は初めてポアロが世に登場した作品らしい。
 例のよってミステリーなので話の内容は詳しく書けないけれど、こういう古典的ミステリーも悪くない。それに古典的といっても、ちっとも古くさくないし、正統派ミステリーを読んだというのが読後の感想だ。
 舞台はスタイルズ荘で、そこの女主人が完全密室部屋で毒殺されていることから始まる。この女主人は莫大な財産を持っており、一方ここに一緒に住んでいる女主人の再婚相手や息子たちはその財産を狙っている。つまりこの女主人を殺害した人物はこのスタイルズ荘に住んでいる人物たちに限られる。
 そこにたまたま招待されたヘイスティングスは偶然ベルギーから亡命してきたポアロと再会する。ここでポアロの人物像が紹介される。

 「ポアロは風変わりな小男だった。背丈は五フィート四インチそこそこだが、物腰は実に堂々としている。頭の形はまるで卵のようで、いつも小首をかしげている。口髭は軍人風にぴんとはねあがっていた。身だしなみは驚くほど潔癖で、埃ひとつついただけでも、銃弾を受けた以上に大騒ぎをしそうだった。いまは痛ましく足をひきずっているが、この風変わりでダンディーな小男は、かつてはベルギー警察でもっとも有名な人物だったのだ。刑事時代には抜群の勘のよさを発揮して、当時の難事件を次々と解決して名をあげたものだった」

 NHKの海外ドラマではデビッド・スーシェなる俳優が演じていたのを見たことがある。

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 このポアロがスタイルズ荘の女主人を毒殺した犯人を捜すため「灰色の脳細胞」を駆使する。思わずこのフレーズを読んだとき、おおそうそうこれだった!とちょっと感動する。
 ここで明かされる事実は一つ一つすべて犯人捜しのために公にされ、おそらく作者は特別に隠しごとはしていない。ただ事実がバラバラになって明らかにされるものだから、それをポアロが一つの環のしてつなぎ合わせたとき、初めて犯人が明らかになる仕組みだ。つまりオーソドックスなミステリー手法で、「おいおいそれはないだろう」という明かされていないトリックは一切ない。だから面白かった。

 さらに興味深かったのはクリスティーがなぜミステリーを書くようになったのか、その経緯がクリスティーの孫で、現在クリスティー財団の理事長を務めておられるマーシュ・ブリチャード氏が最初に書かれている。
 それによると、クリスティーが自分で作品を書くようになったのは、自分がインフルエンザに罹って、読む本がなくなってしまったしまったので、それなら自分で書いてみたらと母親に勧められて書いたのが作家としてのスタートだったと披露されている。最初はロマン小説だったらしいが、その後自分が薬局で働いた経験と悪や犯罪、人間の本性に興味があったので、この『スタイルズ荘の怪事件』が生まれたという。

 しばらくはポアロの会話を楽しむために、何冊かクリスティーの作品を読んでみようと思っている。


評価
★★★


書誌
書名:スタイルズ荘の怪事件
著者:アガサ・クリスティー 矢沢 聖子【訳】
ISBN:9784151300011
出版社:早川書房 (2003/10/15 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:361p / 16cm
販売価:735円 (税込)

2009年01月09日

吉村昭著『街のはなし』

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 昨年は吉村さんのエッセイで締めくくったが、年始はその吉村さんのエッセイから始める。要は昨年の続きということだ。今回もやはり“うまいな”と感心して読んだ。たぶん、どうって言うことはないことなのかもしれないけれど、ちょっと考えてみると、こうも言えるし、ああも考えられるということをうまく、しかもそれとなくおかしく語られる。それでいて、もっともだと思えるのである。 ちょうどお正月なのでその話題にちなんだエッセイ、「松かざり」から。

 「正月に一家そろって海外旅行に出るのを常としている家族がいる。テレビに、成田空港へ帰ってきたそれらの家族が映し出される。
 私は、自然に親に連れられた子供の姿に視線がゆく。これらの子供たちは、日本の正月の行事には無縁で、もしも正月の絵を描くとすれば、ビーチパラソルが点々とある外国の海浜や、波の寄せる青い海で外国人にまじって泳ぐ肉親の姿になるのだろう」

 と吉村さんは危惧する。もともとこのエッセイはこの頃正月のお飾りをしない家が多くなっていることから始まるのだが、安価でもいいからそうしたお飾りをすべきだというのが吉村さんの主張である。
 どうしてかといえば日本は春夏秋冬が鮮やかなほどくっきりしている。そうした恵まれた四季に我々祖先はその季節にふさわしい行事をもうけてきた。それは季節のの移り変わりを確かめる人間の豊かな智恵によってもうけられたものだ。それらの行事は子供たちにとって新鮮な驚きとなるだろうし、あらためて季節を見つめる良い機会ともなり、それによって豊かな心がはぐくまれるからだという。それを我々は次の世代に伝えるべきなのに、正月に家族揃って海外旅行に出かけるとは何事かとというのである。
 確かに日本の季節感が失われつつあるし、みんなで行事に参加するという気分が薄れつつある。しかも長期の休みを取るとなれば盆か正月しかない現状があるから、そこに家族揃って海外旅行へ出かけるのはある意味やむを得ないだろう。だから諸手を挙げて吉村さんの意見に賛成できない。が、一方でもっともっと日本の正月気分を味わってもいいような気もする。だって子供たちが描く正月風景がたこあげではなく、外国の青い海っていうのはちょっとどうなんだろうと思うからだ。
 時たま思うのだけれど、最近は日本もグローバル化してきているから、いろいろなところで今までとは違う過ごし方が生まれつつある。しかしそれが完全にスタンダードになりきれないものだから、妙に中途半端な状態になっているのではないだろうか?なぜそれがスタンダードになりきれないかといえば、そこには日本固有の文化なり伝統があるからである。今きっとそれら固有のものと、新しい過ごし方がうまく融合していないか、あるいは一方が他方を排除していないから、正月は海外でエンジョイする人たちがいれば、おいおい正月は正月らしい過ごし方をしろよというやつもいることになるのだ。
 これから先これらの考え方なり、過ごし方がどう変わっていくのかわからないけれど、今まで日本が日本で有り得たものを完全に捨て去ってしまうと、没個性的になる。そしてそうした没個性は没落を招くことになると歴史は教えているのだけれど・・・。私は右的思想に傾いているとは思わないけれど、ただ日本人である以上、日本文化や伝統などを大切にすべきじゃないかと思ってはいる。

 さて、笑ってしまったエッセイがある。吉村さんの奥様、作家の津村節子さんが、友人との電話でぼやいている。内容は津村さんの友人の旦那がずっと家にいることに対して、「まだあなたの所はいいわよ。御亭主がお勤めだから、朝夕二回お食事をつくればいいのですもの。私の所なんて、毎日、家にいるから三食食べさせなければならないのよ」とい言われる。これを聞いちゃったら、ちょっとやりきれないなと思ったが、吉村さんも苦々しく感じておられる。そこで吉村さんははたと思いつく。

 「結婚して年を追うにつれ、夫が妻の前で弱々しい眼をするようになり、その原因が、家庭での食事にあることに、私は気がついた。妻がととのえた食物を夫が食べる。それが繰り返されているうちに、夫の眼は次第に弱々しいものに変化する。
 犬は、常に餌をあたえてくれる飼主に媚びるような眼をする。人間も動物であるかぎり、それが繰り返されているうちに、自然に飼主にむける犬のような眼になるのである。
 平均寿命が短いことから夫が先に死ぬのが普通だが、時には妻の方が先に死ぬこともある。妻に先立たれた夫は、哀れである。しょぼんとして、生気が失われ、体も痩せ衰えて、いくばくもなく死ぬ例が多い。それは、飼主を失った犬と同じであるからだ」

 む~んん。よくよく考えてみれば、確かに人間も犬と同様に動物ではあるけれど、しかし人間は犬ではない。だから犬の生態がそのまま人間に当てはまるのかともいえる。その点吉村さんの論理は破綻してしまうけれどそれを言ってしまったら身も蓋もない。
 妻が食事を作り、夫がそれを食べる。その繰り返しでいつの間にか妻は飼い主となり強くなる。夫は餌をもらう犬と化してしまうほど、弱々しくなってしまう。それが犬に似ているということなのだ。それがおかしくもあり、悲しくもあるところに、この話は面白味が出てくる。妙にうなずいてしまったりして、嫌になってくる。


評価
★★★


書誌
書名:街のはなし
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169343
出版社:文芸春秋 (1999/09/10 出版)文春文庫
版型:271p / 15cm / A6判
販売価:490円 (税込)