2009年01月25日
渋沢幸子著『イスタンブール、時はゆるやかに』
私は著者のことはまったく知らなかった。ただ書名にある“イスタンブール”に惹かれた。私はこの町は叶わないだろうけど行ってみたいと思っている町である。
コンスタンティヌス大帝が作った都、そして西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国として、ビザンティン帝国の首都として続いた町。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の最終章で、オスマントルコのメフメット2世が「一層貴重で重要な贈り物が欲しい」と言った町、コンスタンティノポリス。一方ビザンティン帝国皇帝コンスタンティヌス11世が自ら異教徒の中で生き延びることを拒み「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」と絶叫した町。
シルクロードの最終地点であり、アジアから見ればヨーロッパの入り口、ヨーロッパから見れば出口にあたる町。たぶんアレキサンダーも通っただろう町。さまざまな民族が行き交っただろう町。もともとはキリスト教の教会だったものをイスラムのモスクに変えられ、ミナレットが立つ町。金角湾、ボスフォラス海峡。そして庄野真代も“飛んでイスタンブール”と歌った。うん?
渋沢さんはが言うように「この町では、歴史がバウムクーヘンのように幾重にも層をなし、モザイクのように入り組んでいる」のだ。たとえばグランドバザールと聞けば、さまざまな文化、風習、人種が入り乱れ、喧騒で、しかも楽しそうな雰囲気が漂ってくる。渋沢さんも「その魅力は容易に説明できるものではないが、あえて言えば、層をなす歴史の重みと、混沌の中の輝きであろうか」という。とにかく書名に“イスタンブール”とあると、なんだ、なんだと本に手が伸びてしまうのだ。
で、読んでみてこれは楽しかった。そしてこんな旅ができるなんてうらやましかった。イスタンブールの旧市街地の町並みが残るといわれている、特にビザンティン時代のギリシア正教会の総本山であったアヤソフィア、あるいはトルコのブルーモスクや、トプカプ宮殿など訪ねられるところはうらやましくて仕方がない。
さらに渋沢さんはトルコ内陸部、あるいはシリアやイラン国境近くまで行かれ、ティグリス・ユーフラテス川上流まで進む。そこには、オスマントルコ帝国発祥の地ブルサ。“歴史学の父”といわれるギリシアの歴史家ヘロトドス生地ハリカルナソスであったボドゥルム。トロイ。コンスタンティヌス大帝がキリスト教の教義を統一するために開いたニカイアの公会議で知られるニカイアであったイズニック。クレオパトラがアントニウスに初めて会った町、タルスス。背教者ユリアヌスがペルシャ討伐で交戦中に槍が刺さり三十二歳の生涯を終えた町、ハランと、私が知っている歴史がてんこ盛りだ。読んでいるだけでワクワクしてしまう。
この本によると、渋沢さんはイスタンブールを中心トルコを最初に旅されたのは1981年で、ギリシアの側から列車で入られている。とにかくトルコの人はどうしてこんなにやさしいのかと思うくらい、ここでは渋沢さんに親切なのだ。よく声をかけられ、仲良くなっていくのだ。思わずほんと?と言いたくなるくらいなのだ。
トルコ人の日本人びいきは、日本がトルコ人の宿敵ロシアを打ち破ったからだともいわれる。あるいは渋沢さんが言っているように中央アジアの騎馬民族が西に移動してトルコ人となったとして自らがその末裔だとして誇りを持っていて、その騎馬民族が東に向かって日本になったのだから同胞だというのも面白い。その同胞がアジアのリーダーとなり、世界大国になったということを誇りに思うトルコの人が多いというのには驚かされる。
もっともこれはもう三十年近く前の話であるから、やっぱり日本人女性一人トルコを旅するのが珍しかったからじゃないかと思う方が自然である。もちろん危険にも遭遇しているが、それでもそうしたやさしいトルコの人と接して、すばらしい旅をされたことが、この本をいいものにしている。
ところでコンスタティノープルがなぜイスタンブールになったかその由来を知った。この町をギリシア人がコンスタティノープルと呼ばず、エストムポールと呼んでいて、それがトルコに伝わり、イスタンブールになったらしい。エストムポールはギリシア語のエス・テン・ポリン(都市へ)がなまったものと言われている。しかし現在、トルコとギリシアは仲が悪く、イスタンブールと呼ばず、コンスタティノープル呼んでいるのが渋沢さんは不思議だといっているのはおかしかった。
評価
★★★★
書誌
書名:イスタンブール、時はゆるやかに
著者:渋沢 幸子
ISBN:9784101458212
出版社:新潮社 (1997/03/30 出版)新潮文庫
版型:276p / 15cm / A6判
販売価:入手不可
- by kmoto
- at 11:35
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