2009年02月04日

中谷巌著『資本主義はなぜ自壊したのか』

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 この本はNHKの「ニュースウォッチ9」で話題になっている本として紹介された。それを見ていた私は急遽読んでみたくなった。そこでは著者の中谷さんが小泉構造改革の『片棒を担いだ男』として自らを称し、改革の理論的根拠として提供したアメリカ型金融資本主義、グローバル資本主義が日本をおかしくしてしまったと懺悔した本だと言っていた。
 「改革」と言う言葉が錦の御旗となって、それを声高に言えば何でも通った。しかしそれがかえって日本社会をおかしくしてしまったのではないか。間違っていたかもしれないと思い始めたのである。
 正直なところ、今更間違っていたかもしれないと言われても、もう引き返すことが出来ないところまで来てしまっているので、著者が懺悔したところで、今悪化している日本のさまざまな社会現象をリセット出来やしない。
 というより、小泉首相が声高に言っていた「構造改革なくして成長なし」とか、「古い自民党をたたき壊す」という文句は、確かに華々しく、パフォーマンスとしては最高の演出だ。しかしそれらの言葉の裏にどこかうさん臭さが感じ取れ、本当にそれでいいのかなという思いも個人的にあった。構造改革をすれば輝かしい日本の未来像が見えてくるようには思えなかったのである。それまであった日本の道というべきものを全部否定して、アメリカ的資本主義のシステムを導入すれば、アメリカのような豊かな社会、たとえば“アメリカン・ドリーム”も夢じゃないという短絡的発想は、何かが間違っているように思えたのである。
 そのためには今ある日本の構造を変えなきゃならないので、多少痛みも伴いますよということもきちんと言い添えていたけれど、未だその痛みは消えていない。かえってひどくなっている。今や日本の経済や社会はどうなっているかを思えば、明らかに小泉内閣がやった政策は失敗だったと言えるだろう。
 当時誰だか忘れたけれど、ある有識者は小泉行動改革は日本経済をダメにし、社会の不安を招き、犯罪社会になると予想していたのを思い出す。この人はきっと当時のアメリカの裏側に潜む問題点をきちんと見ていたのだろう。
 「古い自民党をたたき壊す」と言った当の本人は日本社会もたたき壊し、自らもう必要ない、あるいは批判されることをわかっていてか、さっさと引退を表明しちゃっている始末だ。

 この本で著者は「私は間接的な形であっても、いわゆる小泉構造改革の『片棒を担いだ男』の一人であるのだ」と言っているし、私はアメリカ市場主義的世界観に「かぶれていた」とも言っている。日本でもアメリカ市場主義的世界を実現できれば、もっと日本は幸福になれるはずだと信じていた。だから小渕内閣の首相諮問機関「経済戦略会議」の議長代理を務めるなど政府の委員を多く務め、政策決定に大きな影響力を持ち、小泉行動改革の理論的根拠を提供してきた。
 しかし現在の日本や世界の情勢を見てみると「どこかおかしい」と思わざるを得なくなった。そこで自分が信じてきたアメリカ流の新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義のどこに問題点があったのかを探るようになる。それを探り出したのがこの本なのである。そして自分の言動(アメリカ流の新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義に対する礼賛言動、構造改革推進発言など)を自己批判し、180度転向したことを宣言した上で、小泉内閣の行った構造改革を批判しているのである。

 では何故中谷さんはアメリカ流の新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義を礼賛してしまったのか。それは中谷さんがアメリカに留学したときに感じたアメリカの豊かさを何の疑問もなく、手放しで感じてしまったからである。
 しかし今になってよく考えてみると、当時のアメリカの豊かさをもたらしたアメリカ流経済学をそのまま日本に適用しても、それで日本人が幸せになれる保証などどこにもないという当たり前の事実に気がつかなかったこと。もう一つは留学当時中谷さんを圧倒したアメリカの豊かな社会を支えていたのは、レーガン政権以降に主流になる新自由主義ではなく、「新古典派総合」(マーケット・メカニズムと政府介入を許すケインズ経済学を適切に組み合わせた資本主義経済)に基づく経済政策で、アメリカが豊かな社会になっていて、それに気がつかなかったのだという。
 つまり当時は新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義はこれから先どうなるかわからない理論であったのだ。そこにIT革命が加速され、その情報通信産業と金融業が結び付き、今までのアメリカの中心であった製造業からシフトしていき、市場はアメリカだけでなく、全世界に拡大していった。つまりそれまであったローカルな資本主義から、グローバルな資本主義と変化していき、その結果、経済だけでなく社会も変質していった。
 どういうことかと言えば、ローカルな資本主義では資本家は労働者を一方的に搾取・収奪するわけにはいかない。なぜなら企業が作るモノやサービスを買ってくれるのは、他ならないその労働者であるからだ。収奪一本槍で、労働者を貧しいままにしておけば、マーケットは拡大せず、企業は自分自身の首を絞めることになる。この意味においてローカルな資本主義ではリベラルな社会体制を担保していたことになる。
 しかしこれはグローバル資本主義が跋扈するグローバル・マーケットでは通用しない。グローバル資本主義において労働者と消費者が同一人物である必要がないからである。具体的にいえば、中国の安い賃金で作られた商品を買うのは日本の消費者たちなのだ。このようにグローバル資本主義は「生産と消費の分離」を可能にした。ここにおいて自国の労働者を大切に扱う必要性がなくなっていく。
 グローバル資本主義は、安い労働力を求めて移動するので、自国の産業は空洞化し、労働者の需要が減ることとなる。ここでの正規労働者を減らし、安い賃金で雇えるパートや派遣などが急速に増やしていくこととなる。企業の人件費のコストは削減されたが、労働者は労働条件の悪化で苦しむことになる。日本では雇用改革がさらにその傾向を促進した。このことは資本家と労働者、あるいはスーパーリッチとワーキングプアという所得格差生む。
 また利益追求のためには、既成の文化や伝統というのは経済活動のじゃまになるので、それをなんとか除外しようとする。もともと経済学では、市場での経済活動が社会にもたらす影響のうち、金銭に換算できないものを「外部性」と呼び、経済学の対象とされないという。つまり伝統的な生活習慣、伝統文化が失われてもそれが損金として金銭で表せないのであれば、経済的損失としてカウントされない。だからどんどん伝統文化が破壊されても、経済学において問題とされない。ここに伝統文化の破壊が正当化される根拠を生み出すこととなる。
 人と人のつながりにおいても、「より多く儲けた者が勝ち」で、「稼げない人間は負け組であり、それで飢えたとしても自業自得である」という考えに至れば、信頼関係や絆など生まれるわけがない。「手段のためには目的を選ばない」となれば、環境問題にはコストがかかるからそのまま放置し、利益追求のためにはモラルもへったくれもなくなり、平気で食品偽装が行われるようになる。さらに利益追求のため、グローバル資本は政治に対してこれまで以上の発言力を持つようになり、自分たちがやりやすいように(さらに利益が出せるように)小さな政府、規制緩和、企業減税などを声高に要求するようになる。中谷さんは次のように言う。

 「結局のところ、マーケット・メカニズムや自由競争、あるいは、グローバル資本主義の仕組みとはエリートが大衆を搾取するための『ツール』あるいは『隠れ蓑』として使われているだけではないか。あるいは、それらは『民主主義的装い』によって固められているけれども、実は、支配のための便利な道具になっているのではないか。
 もしこの考えがおおむね正しいとすれば、どれだけ自由競争をさかんにし、グローバル経済を拡大していっても、それでアメリカ人や日本人の一般庶民が幸福になれるとは限らない。おそらく、単に世界の能力のあるエリートたち、資本を自由に操れる人たちがさらに豊になるだけのことである」

 だから「こうしたエリートのためのツールであるマーケット・メカニズムをそのままの形で鵜呑みにして導入することには問題がある」し、「新自由主義に基づく単純な『構造改革』路線で我々が幸せになれるなどというのは妄想にすぎないということを痛感させられる」と言うのである。「そこにあるのは、あくまでも個々人の幸福追求であって、社会全体の幸福実現は二の次、三の次でしかない。自由競争の中で上手に稼ぐことが『資本主義の正義』であれば、その競争に敗れて職や財産を失うのはあくまでも自己責任なのだとする新自由主義思想には、格差の拡大を正当化こそすれ、それを是正して、みなが幸福な社会、みなが心豊かに暮らせる社会を作ろうという意図は皆無である」。「小泉改革を経て、日本社会は他人のことを思いを馳せる余裕がなくなり、自分のことしか考えないメンタリティが強くなったのではないか。地域はいっそう疲弊し、所得格差は拡大した。医療改革によって老人たちの心は穏やかさを失った。異常犯罪が増え、日本の社会から『安心・安全』が失われた。こうした人心の荒廃や、貧富の差の拡大は、経済環境の変化がもたらした一時的・過渡的な現象などではなく、グローバル資本主義やマーケット至上主義そのものにビルト・インされたものではないか。日本で進められた『構造改革』にはこれら日本社会の変化にほとんど関心を寄せることがなかったのではないか」と思い至るのである。そして中谷さんはこうした欠陥のある「構造改革」の旗振りをしてしまったと後悔していくのである。

 このようにアメリカ流の新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義が、日本を不幸のしたことを考察した上で、何故それがアメリカにおいてそれがデファクトスタンダードになったいったのか。それをここで言及する。それはアメリカの成り立ちに起因する。
 アメリカは独立から230余年、白人の本格的入植から考えても、せいぜい400年足らずの歴史しか持たない若い国である。しかも国民の大多数が、文化的バックグランドを異にする移民の集まりである。このことから自然に対する深い愛着、統一的な文化的伝統といったものが存在しない、人々を結びつける土地の力、歴史的伝統が力が極めて弱い国である。
 そうした文化的バックグランドも違えば、出身階級も違うような人々が集まってできた人工的な国家を統合していくには、普遍的な理念が求められる。だから中谷さんは「アメリカは世界史上、稀に見る『理念国家』である」という。こうした国家では文化的伝統とか民族的歴史といった要素をみだりに持ち出すと国がバラバラになってしまう。だからそうしたものを超えた論理が必要となっていく。それがアメリカの作り出す論理なのだ。そうして出来上がった論理は偏狭な民族性や古い歴史のしがらみを超えたものであり、普遍的、世界的価値を持っている」と信じて止まないのである。ある意味アメリカのお節介はそうした自信から生まれているといっていいかもしれない。それがアメリカ流の新自由主義や市場原理主義、グローバル資本主義を押し広げていった理由である。
 しかしサブ・プライム問題に端を発するリーマン・ショック以来、この論理には問題があったし、テロへの戦争が泥沼化している現在、アメリカのあらゆる思想が破綻をきたしている。
 アメリカ以外の国には固有の民族的伝統や歴史、文化が存在し、アメリカが生み出した普遍的だと思われてきた論理を受け入れられない部分があることを、我々は知るべきなのである。そして日本においても、日本固有の文化、伝統があり、うまく機能して、安心して暮らせる社会であったものを、アメリカから押しつけられた論理を受け入れたことで、不安を増した以上、決してアメリカ流の論理が普遍的でなく、一部の人間のためのものであったことを知るべきなのである。
 「『日本の社会は悪平等だ』『日本の企業は非効率だ』と言われていた頃のほうが、実は日本社会は、日本の会社はずっと元気だったのではないだろうか。この事実をふたたび私たちは思い出す必要があるだろう」という中谷さんの意見は貴重だ。
 資本主義とは、資本の増殖を目的としたあくなき利益追求を是認するイデオロギーである以上、「資本主義イコール進歩」と軽々しく信じず、資本主義は本質的に暴力性を持ったものであることを認識すべきなのである。
 しかし人類は現在民主主義もマーケット・メカニズムも(あるいは、グローバル資本主義も)それ以上のものを持たない以上、きわめて不完全ではあるがそれらをうまく機能させるよう工夫していく地道な努力を続けることしかないと中谷さんは言うが、まさにその通りだろうと思う。無統制、規制なしに自由なままにしておいたがために、今の状況に陥ったところを考えれば、マーケットがマーケットとして適切に機能していくためには、ある程度は政府の介入も必要であろうし、「信頼」というファクターもきちんと存在しなければならない。それは目に見えないインフラとして社会資本として考えるべきと中谷さんは提言する。
 この本はわかりやすく、本当にいろいろなことを深く教えてくれた。私個人も自分なりに世界や日本などを考えるに当たり、いい指針になってくれる本で、読んで良かったと思っている。


評価
★★★


書誌
書名:資本主義はなぜ自壊したのか―「日本」再生への提言
著者:中谷 巌
ISBN:9784797671841
出版社:集英社インターナショナル 集英社〔発売〕(2008/12/20 出版)
版型:373p / 19cm / B6判
販売価:1,785 円(税込)

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