2009年04月30日

吉村昭著『ひとり旅』

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 前回読んだ吉村さんの随筆が最後のものかと思っていたら、どうやらこれが最後の随筆集となるらしい。まぁどっちでもいいのだけれど、とにかくこれ以上新しい吉村さんの随筆が読めないことになるのは間違いない。
 例のよって、その落ち着いた雰囲気の文章を堪能した。やっぱり吉村さんの取材を通して語られる歴史に隠れてしまった話や、創作秘話や舞台裏の話が面白い。
 吉村さんはいわゆる定説となっている歴史的事実をそのまま鵜呑みにせずに、自らの足で、しかも一人で創作の舞台となった場所を訪れる。創作に当たり疑問に感じたことを調べるためにだ。そこで発見した新事実は時に定説となっている歴史的事実に疑問を投げかけることもある。それがどう評価されているのか知りたいところだけれど、少なくとも小説としては既成の歴史小説より新しい目線で人物なり、歴史的事実が語られるようだから、読む方としてはかなり面白いのではないかと思うのだ。
 あるいは今まで日の光さえ当たらなかった事実を取り出して、面白い小説を書かれているみたいだから、これから先吉村さんの書かれた歴史小説を読みたいと思っている私はかなり楽しみである。


評価
★★★


書誌
書名:ひとり旅
著者:吉村 昭
ISBN:9784163692708
出版社:文藝春秋 (2007/07/30 出版)
版型:247p / 20×14cm
販売価:1,365円(税込)

2009年04月29日

阿刀田高著『獅子王アレクサンドロス』

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 獅子王アレキサンドロスとはもちろんアレキサンダー大王のことである。アレキサンダーの生涯を描いたこの長編はどこか、しゃのかかった感じが全体にあって、アレキサンダーそのものに人間臭さが感じられなかった。おそらく阿刀田さんは神と人間の境を曖昧にしたホメロスの作品を意識されて、それをアレキサンダーにも適用したんじゃないかと思われた。だからどこか神話みたいな感じがする。

 「現代人には少々奇異に思われるかもしれないが、古代にあって文明が進化するにつれ神と人間との融和が繁くなったのである。いや、一般化は不適当かもしれないが、少なくとも辺境のマケドニア人よりは、より進んだギリシア本土の住民のほうが、神と人間との融和を身近に感じていた。神が人間と交わって子を儲けたことなどギリシア人にはさほど珍しくない。ギリシア神話には、その手のエピソードが溢れていたし、哲人プラトンも神と処女の結合から生まれたと信じられていた。神の子であるということは、ギリシア人にとっては、“この世で際立って優れている”くらいの意味合いでしかなかったし、王であれ、預言者であれ、偉大な人物は霊感を吹き込まれていると自他ともに認めていた」

 だから「アレキサンダーが神の御子です」と周りのものから言われ、自分自身も「ゼウス・アモンの子」であることを信じることに何ら違和感がないのである。まだ現実と神話の世界がはっきりと分かれた世界じゃない。
 物語はそうしたスタンスで描かれるのだが、これはどこか話に不合理な部分や突飛なことが起これば、神の思し召しとなってしまう。それで済んでしまうところがこの話の弱みではないかと思われる。つまりどろどろした人間世界で起こる、因果関係を詳しく説明しないでも済んでしまうのである。もっと言えば詳しい時代考証を並べる必要性がなくなるのである。
 これがこの話、強いてはアレキサンダーの人間描写に“非人間的”にさせてしまうのだろう。もちろんあれだけの大遠征を古代においてした人物である。どこか神がかり的なところがないとできるものじゃないだろうとは思うけれど、この物語全体が神話を読んでいる感じがしてしまった。

 素朴な疑問として、アレキサンダーがなぜあれほどの大遠征を東方で行ったのか。それがよくわからなかった。それをする意味が知りたかった。
 本来、国を脅かす外敵から自らを守るために、その外敵を排除するために戦いをするのはわかる。アレキサンダーの場合それなダレイオス三世の率いるペルシアであり、マケドニア、ギリシアをペルシャから脅威から守るために、ダレイオス三世を討つというのはわかる。あのイッソスの戦いでダレイオス三世を打ち損じたから、彼を追いかけてペルシア奥地に入り込むのもわかる。


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 けれどそのダレイオス三世がペルシアの重鎮ベッソスに殺害されれば、今度はそれを討ち行く当たりからおかしくなってくる。まぁペルシアの完全制覇を考えればそこまではわからないことではない。けれどそうしてどんどんペルシアの奥地へ入り込んで、インダス川流域まで行く理由がよくわからない。
 師であるアリストテレスが「善なるものを求め続けること、真なるものを探し続けること。神の子ならば、おのずと見えてくるものがある」言った言葉を胸に抱きながら、先へ先へ進む。遠征がアレキサンダーの“真”の追求であるなら、彼の東方遠征はアレキサンダー個人の心的理由だけであったことになる。
 しかしアレキサンダーについていった兵士はたまったもんじゃない。まったく未知な世界に駆り出され、いつマケドニアに帰れるかわからない、あるいはここで死んでしまうかもしれないのだから、そういつまでもアレキサンダー個人の心的理由につきあえないだろう。事実インダス川流域まで来たアレキサンダーは兵士たちからこの遠征の意味に疑問を突きつけられ、引き返すこととなるのだ。
 さらに征服した土地はもともとそこを支配していた者にアレキサンダーへの忠誠を引き換えに委ねてしまう。ここでは「軽い支配」と言っているが、国が大きくなればなるほど、その支配力はどんどん及ばなくなるものだ。たとえマケドニアの軍人を置いておいたとしても、所詮数が限られているだろう。あくまでもアレキサンダーというカリスマがその支配力である。近くにアレキサンダーがいれば甲斐甲斐しくするかもしれないが、一端その土地をアレキサンダーが離れてしまえば、元の状態に戻るだけだろう。
 ギリシアが国家としてまとまっていたのはたとえばアテネを中心にギリシアの都市国家が盟友として小さくまとまっていたからであって、アレキサンダーは自らの帝国にそうした国家システムを流用したとも思われるけれど、ここはギリシアではない。民族も考えも違う。だからどうも私にはアレキサンダーが一時的に台風みたいに東方に来て、えらそうな顔をして、忠誠を誓えと言っただけであって、国家としてまとまっていたのではないように思えて仕方がなかった。このあたりの曖昧さとアレキサンダーの人物像の曖昧さがいつまでも残った。


評価
★★★


書誌
書名:獅子王アレクサンドロス
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062088527
出版社:講談社 (1997/10/18 出版)
版型:570p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2009年04月27日

阿刀田高著『ジョ-クなしでは生きられない』

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 艶笑小咄集である。開高健さんもこの手のものを書いている。たぶんそこでか、あるいは他のエッセイでか、バーなどでこういう小咄を用意しておくと女性にもてると書いてあったのを思い出す。まぁ、少々エッチで、ユーモアとエスプリが利いている話ができればそんなこともあるかもしれないが、私に言わせれば、わざわざそんな話を用意する方が下心ある感じがしてしまう。さらに言えば、こんな小咄で今の女性が喜ぶとは思えないので、昔の話である気もする。
 阿刀田さんはこの本を作るに当たり、この手の話を集めるのに苦労されたかもしれないけれど、逆に楽しんでいた気配もうかがえる。しかし読む方は、くすりと笑えるけれど、ただそれだけで、とりたて面白いというものでもない。読んでそれでおしまいといった感じだ。
 これで私の感想は終わっちゃうのだけれど、それじゃあまりにも寂しいので、いくつか面白いと思ったものを書き出してみる。まずはあっちの方面からいくつか・・・・。

 「ねえ。ママ。ボク、弟や妹がほしいな」「パパにお願いしてごらんなさい」「でも赤ちゃんはママが作るんだろ」「パパが手伝ってくれなきゃ作れないわ」「じゃあパパにお願いするよ。今度の誕生日までに作ってくださいって・・・・」「そんなに早くは無理よ。一年くらいはかかるのよ」「じゃあ、よそのおじさんにも手伝ってもらおうよ」

 初月給をもらってニコニコしている社員に上役がいった。「お母さんにおみやげを買って帰れよ」「はい。そうします。父が早く死んで女手ひとつで育ててくれたんですから」「それは大変だったろうなあ」「しかし、何を買ったらいいのか迷ってしまって・・・・」「お母さんの一番好きなものがあるだろう?」「はあ。しかし・・・・若い男はどこで売っているんでしょう?」

 “広い”女にはレモン汁を使えばよい、とドクトルに教えられたニュマ氏がレモンをしこたま買い込んで帰る途中、夜の女が近づいて来た。「よし、まずこの女で試してやれ」こう思ったニュマ氏は女のアパートへ行って、「レモンをしぼって入れると、とても長続きするんだぞ」一つしぼり、二つしぼり、三つしぼり・・・・いっこうに狭くなる様子がないので五つ、六つとしぼってそそぎこめば、女はイライラしてつぶやいた。「ねえ、あんた。あんたはここに生牡蠣を食べに来たの?」

 アメリカ人は、単細胞人間。自分が世界一だと信じているから、ライバルが現れると猛然とくやしがる。
アメリカのコンドーム会社にソ連政府から注文が来た。「ソ連民衆の産児制限および性病予防のためコンドーム一万ダース送られたし。ただしサイズは十インチ」コンドーム会社は早速荷物の発送に取りかかったが、外箱に次のスタンプを押すことを忘れなかった。「十インチ、ただしSサイズ」

 初夜があける頃、新郎が不満そうに言った。「キミ、まだ昔の恋人が忘れられないんだな」「あら、どうして?」「さっき、キミがトイレに立ったとき、ボクはチャンと見たんだぞ。キミはベッドの柱に恋人の名前を書いて、ため息ついていたじゃないか」「恋人の名前?」「そうだ。正一君っていうんだろう、その人は」「あら、いやだ。正一は名前じゃないわ。回数のことよ」初夜から六回戦となると花嫁が溜息をつくのも無理はない。

 動物たちは、おおむね後向位でセックスをおこなう。このスタイルでは、雌は四つ足をしっかり踏ん張って、止まっていてくれなくては挿入がむつかしい。前へ前へと逃げて行ったのでは、うしろからはとても結合ができない。このため動物たちには強姦はありえないのだという。強姦は正常位とともに始まった、と言えるかもしれない。

 アメリカに行くと、ピーター・メーターという大人のオモチャがあるそうだ。ピーターは男性シンボルの愛称で、一見したところピーター・メーターはただの物差しだが、長さに応じて楽しい解説ついている。
 一インチ ただの蛇口。女に生まれるべきだった。二インチ 九十五パーセントは想像力でいこう。三インチ いくらかましだがまだ不足。四インチ いちゃつくのが精いっぱい。 五インチ ご家庭用サイズ。六インチ 秘書嬢を喜ばすことができる。七インチ 古い家庭道徳を破壊するおおそれあり。八インチ 大きい女か、小さな牛に。九インチ 酒場の話題によし。十インチ 見世物にのみよし。

 これはある葬儀屋。偶然知りあった女と町のホテルに泊まって情熱的な一夜を過ごした。翌朝、別れぎわに女が未練がましく、「あなたって上手ねえ。それに大きくて、とてもいい形ね」と口をきわめて男の持ち物をほめたたえた。男は恐縮し、うやうやしく一礼してから、「すっかり萎れておりますが、もう一度遺骸とご対面になりますか」

 女子寮の一室。マギイのお腹にM字型のあざがついているのを見つけて、サリイが尋ねた。「それ、な-に?」「ああ、ボーイフレンドとキッスをしたのよ。彼のバックルの痕がついちゃったのね」「わかった。Mの字だから・・・・ミネソタ大学の男の子ね?」「ううん。ワシントン大学なの」
 ワシントン大学ならWの字になるはず。男は頭をどちらに向けてキッスをしていたのだろうか?

 まぁこんなもんである。別にこの手の話は嫌いじゃないけれど、私は次の小咄の方が笑った。

 ある日のこと、一人のロシア青年が「フルシチョフは馬鹿だ。フルシチョフは馬鹿だ」と、叫んで赤の広場を走り抜けた。その男はたちまち捕らえられ二十三年の禁固刑に処せられた。三年は党書記侮辱罪に対してであり、二十年は国家機密漏洩罪に対してであった。


評価
★★


書誌
書名:ジョ-クなしでは生きられない
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343028
出版社:新潮社 (1980/08 出版)
版型:217p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2009年04月17日

吉村昭著『回り灯篭』

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 この随筆は著者最後の連載随筆をまとめたものである。やっぱり初期の随筆より後期の方がいい。なんていうのかな、とにかく読んでいてこころが落ち着くのが感じるのである。
 この本の書名になっている「回り灯篭」という随筆の最後に「それらが、今でも回り灯篭のようにつぎつぎに浮かび上がる」と書かれているのがある。そうなのだ。吉村さんの随筆、特に後期の随筆には「回り灯篭」のように、今まで吉村さんがそれまで出会ってきた人々、経験したこと、あるいは旅で感じたことが、次々と描かれる。そこには長い人生の中からわき出るような感じがする。しかも時間という濾過を通しているので、角がない。まるで回り灯篭のほのかな明かりのようである。こういうのがいいのである。時間を通しているだけに、その分奥深さもあるし、話の内容も風化していないのを感じることができる。こういう穏やかな随筆を好むようになってきたということは、私も歳をとったことの証明なのだろうが、仕方がない。

 一つ気になった随筆がある。
 吉村さんが中学校に入学した年の夏に友人が死んだ。通夜に行って焼香しようと担任の教師から連絡があり、それを母親に言うと「絶対に行ってはなりません」と言われる。それは子を失った悲しみは親にしかわからない。学校の先生は安易な感傷でお通夜に行こうと言うが、それは親に亡くした子供と同じ姿を見せるだけで、親の悲しみ増すだけであるというのだ。配慮が足らなすぎるというのだ。
 よく幼い子供が事故や事件で亡くなり、その葬儀の映像がよくテレビで流される。そこには親に連れられてくる同じクラスや学校の友人たちが通夜や告別式などに出席している姿が映し出される。確かに考えてみると、亡くなった自分の子供と同じ年齢の子供たちが焼香や手を合わせていれば、それを見た遺族である親はたまらないだろうなと思う。何で自分の子だけが死ななきゃならないのかと思うに違いない。
 けど一方で、友人や同級生が出席しない葬儀も寂しいものもがあるような気がする。あるいは出席されなければされないで、うちの子は学校で、あるいはクラスでどんな立場にいたのだろうと思うかもしれない。それを思えばそれだけで悲しみも生まれるかもしれない。このあたりは難しい。でもどうなんだろう。吉村さんのお母様が言われることもよくわかるけれど、やはり亡くなった自分の子供の友人が来てくれるのは有り難く思えるんじゃないだろうかとも思う。もちろんそれもケースバイケースだろうけど。
 ただこの場合、安易な感傷だけで、簡単に子供を葬儀に参加させるのではなく、それなりの配慮もした上で、子供たちを葬儀に出席させるかどうか考えなければならないだろう。いずれにしても親が自分の子供の葬儀するというのは悲しいものだ。


評価
★★★


書誌
書名:回り灯篭
著者:吉村 昭
ISBN:9784480814852
出版社:筑摩書房 (2006/12/20 出版)
版型:216p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年04月15日

夏目房之介著『孫が読む漱石』

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 ちょっとつっこみたくなった。この本の著者夏目房之介さんは漱石の孫に当たる。プロローグに「吾輩は孫である」とあり、そこに「漱石の遺産や七光りなんかに頼らず自活することこそ、漱石という存在から自立することだ」と考えていたことを言っている。それは著者の父親が漱石の遺産を享受しながら好き勝手なことばかりやってきたのを見てきたから余計にそう感じるようになったのだろう。しかし漱石という名前は嫌が上でもその社会的存在の巨大さを思い知らされてきたという。言っていれば著者にはいつでも“漱石の孫”とう形容詞がつきまとってきたのだろう。だからこそ漱石の孫であっても自分は漱石とは何ら関係ない存在であると自己主張したい気持はよくわかる。
 が、そんなことを考える著者が『孫が読む漱石』という書名の本を書くのはどういうことなんだと言いたくなる。それはこの本を売るための営業戦略だろうけれど、言っていることとやっていることが違うじゃないかとつっこみたくなった。
 そしてもっと言わせてもらえば、漱石の孫が漱石の作品をどう読んできたかの方が興味がある。私もその一人である。どこの誰だか知らない人間が漱石のこと書いても読みたいとは思わない。
 いつでも“漱石の孫”というのがついて回るのは鬱陶しいだろうけれど、だからこそ知りたいという気持ちが読む側にはあるのだ。だからつっこんでみたけれど、別に目くじら立てて文句を言っている訳じゃない。

 で、読んでいて“面白いなぁ”とかあるいは“へぇ~そうなんだ”と思ったことを書き出したい。

「そうでなくても『猫』を書いたの37歳は、遅いデビューである。
 漱石が小説を書いたのは、49歳で死ぬまでのわずか10年ほどだった。まるで生き急ぐかのように小説を書き、胃潰瘍で何度も倒れ、ついに未完の『明暗』を遺してばたりと逝く。かっこいいといえばいえるけれど、見習いたくはない」

 そんな漱石の短命を、著者は現代人にも見る。漱石は自己意識と明治の近代化による国家から半ば強制化されたヨーロッパからの思想に狭間で悩み続け、作品を書き、そして自らの寿命を縮めた。それを考えると「現代は、ある意味で、みんなが小漱石(自意識を病む神経症)だったりする。小漱石の一人である孫は、この国の近代化の果て、戦後社会の課題を背負って、近代百年の生んだ正と負をつくづく考えたりするのであった」と著者は書く。
 何となく今の社会の閉塞感、あるいはヨーロッパが生んだ近代化の果ての社会が崩壊しつつあるんじゃないかと思う時、これでよかったのかな?と疑問が浮かぶが、それは漱石がいた明治に進んで取り込んできたシステムへの疑問と同様な気がしてしまう。

 「<吾輩は猫である。名前はまだない。>という冒頭は、有名である。何しろ、出だしのうまい作家なのだ」

 これは笑った。確かにそうである。たとえば『草枕』の冒頭にあるやつ。

 「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい」

 これは何度読んでもうまいなと思う。

 「この小説(『三四郎』)を青春小説であると同時に、寸止めの恋愛小説にもしている」

 うん。『三四郎』を「寸止めの恋愛小説」とはうまいこと言ったものだ。さらに漱石の前期三部作を「すなわち「何か」がおきそうでおきない『三四郎』、おきてしまう『それから』に続き、おきてしまった過去のおかげで何もおきてほしくない夫婦の何もおきそうもない小説。それが『門』なのだった」というが、確かにうまい書評の仕方だ。

 「いうまでもなく、これ(『こころ』)は『行人』と同じ終わり方である。ただ『行人』の手紙よりはるかに長い。岩波文庫で130ページ以上もある。こんな長い手紙を書く元気があるなら自殺なんかするなよ、とついつっこみたくなるほどだ。先生によると、死を決意してから10日間ほど、ほとんど手紙を書くために生きていたらしいから、よほど心残りなんじゃないかと思ってしまう。
 もっとも、この手紙部分は<書いているうちに当初の予定よりも長くなってきた上に、志賀直哉が次の連載を断ってきて、その代わりの作品が決まるまで引き延ばさなければならない事情が加わった。>(石原千秋著『漱石と三人の読者』 講談社現代新書 2004年 209ページ)からであるらしい」

 これは確かにそうだし、こう言いたくなる気持もよくわかる。そして先生の手紙が長くなった裏事情も“へぇ~そうなんだ”と知らされ面白かった。


評価
★★


書誌
書名:孫が読む漱石
著者:夏目 房之介
ISBN:9784101335131
出版社:新潮社 (2009/03/01 出版)新潮文庫
版型:299p / 15cm / A6判
販売価:539円(税込)

2009年04月13日

東野圭吾著『さまよう刃』

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ねたばれ注意


 長峰重樹の一人娘絵摩は友人と行った花火大会の帰り、菅野快児、伴崎敦也、中井誠らに拉致され、蹂躙され殺された。彼等はいずれも未成年であった。
 一人娘を無残にも殺された長峰の携帯に犯人が菅野快児、伴崎敦也の二人であり、伴崎敦也のアパートを知らせるメッセージが入る。長峰はそのアパートに行き、絵摩の浴衣、そして絵摩が菅野快児と伴崎敦也に蹂躙されるビデオテープを発見する。それを涙ながらで見ているとき伴崎敦也が帰ってくる。長峰は部屋にあった包丁で伴崎敦也を何度も刺し、殺してしまう。長峰は伴崎敦也を殺してしまう前に菅野快児の居所を聞き出し、菅野快児が長野県に潜んでいることを知り、復讐に走る。そこから長峰のマンハントが始まる。
 一方伴崎敦也の死体がアパートで発見されたことで、警察は包丁などから残された指紋が長峰のものであることが判明し、伴崎敦也の殺害は長峰であることがわかる。
 部屋には絵摩以外にもたくさんの女性が連れ込まれ、強姦されたビデオテープがあった。警察は絵摩の殺害犯人は伴崎敦也と菅野快児であることを知る。警察は伴崎敦也の殺害犯人長峰重樹と絵摩殺害犯人の菅野快児を探し始める。

 この本はマンハントをする長峰の苦悩、そして長峰が娘の復讐に走っていることを充分理解していても、その長峰を逮捕しなければならない警察の苦悩が描かれる。
 長峰はごく普通のサラリーマンであった。しかし娘の絵摩が無残な殺され方をされてから、菅野快児に復讐をするために彼を追い続けているうちに、自分の考え方を整理し始める。

「そもそもなぜあのような偶然が起きたのか。あんな連中が生み出され、放置されたきたのか。世の中はなぜそれを許すのか。
 許しているわけではない、ただ無関心なだけだ、と長峰は周りを見て思う。ここにいる何人が、罪もない女子高生が性的玩具として扱われた上に、遺体となって発見された事件のことを覚えているだろうか。その父親が復讐鬼となったことを気に留めているだろうか。関連ニュースが流れるたびに思い出すことはあるかもしれない。しかしそれだけだ。ニュースの話題が切り替われば、彼等の関心も切り替わる。
 自分もそうだった、と長峰は思う。自分たちの生活が保障されていれば、他人のことなどどうでもよかった。少年犯罪について真剣に考えたことがあるか、問題解決のために何かをなしたかと問われれば、何も答えられない。
 自分だってこの世の中を作った共犯者なのだ、と長峰は気づいた。そして共犯者たちには、等しくその報いを受ける可能性が存在する。今回選ばれたのが自分だった、と思うしかない。
 ただ、絵摩は共犯者ではない。彼女が生き続けたなら、もっといい世の中を作ろうと努力したかもしれない。
 だからこそ自分は彼女に償いをしなければならない、と長峰は思った。スガノカイジのような人間の屑を生み出したのが自分たちならば、その後始末も自分たちの仕事だ。後始末にはいろいろと方法がある。更生、という言葉を使う人間もいるだろう。しかし長峰には、どうしてもその考えを持つことができなかった。世の中というシステムが作り出した怪物を、人間の力で人間に戻すことなど不可能としか思えない」

 しかし私にはこれは詭弁に思える。どこか自分のすること美化している。それよりも人として、親として、娘を殺され、その犯人が未成年ということで、充分に罰せられなければ、その傷は絶対に癒えない。法律があるいは社会がそうしないなら、自らがそうするしかないというのが人間であり親であろう。ところがこの本はその憎しみが妙に美化されてしまっている。もっともっと長峰重樹の犯人に対する憎しみが前面に出ていいような気がした。
 警察にしても「要するにこの銃は-織部は自分が持っている拳銃を思い浮かべた。この銃は、菅野の命を守るためのものなのだ。長峰絵摩を死に至らしめた張本人が、その父親から復讐されるのを防ぐための銃なのだ」そして「自分たちが正義の刃と信じているものは、本当に正しい方向に向いているのだろうかと織部は疑問を持った。向いていたとしても、その刃は本物だろうか。本当に『悪』を断ち切る力を持っているのだろうか」と思う警察官の姿も描かれるけれど、そこまでしかない。
 確かに犯人を捕まえる警察にしても、このように疑問を持って当たり前だと思う。娘を無残に殺された親の気持ち、その犯人を捕まえる警察官の気持ちを考えると、やっぱり今の法律にどこか誤りがあることを思い知らされる。人として“おかしい?”と思うのであれば、それはやっぱりおかしいのではないかと思う。そして特に最近はこういうことが多すぎる。更生させる前に、罪を償うこれが先であろう。
 私としては、せめて小説ので世界では、そうした復讐劇は徹底的であって欲しかった。この本はこうした法律と人の気持ちの乖離を言わしめるだけであって、言ってみればそうしたことを社会に訴えるみたいなところがあって、妙にしゃらくさい。


評価
★★


書誌
書名:さまよう刃
著者:東野 圭吾
ISBN:9784043718061
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2008/05/25 出版)角川文庫
版型:499p / 15cm / A6判
販売価:740円(税込)

2009年04月10日

遠藤周作著『深い河』

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 あるインドツアーに参加する男女の物語である。そこに参加する者は、妻を癌でなくした夫。神父になろうとする男をからかい、男女の関係を結んだが、その男の存在が気にかかり、フランスへ、そしてインドへ彼を訪ねる女。童話作家。戦争中ビルマのジャングルで九死に一生を得て生き残った男などが参加していた。
 それぞれ訳ありでインドへ旅をするのだが、やはりここは神父になるための修行をしている大津と、学生時代、からかいでその大津と男と女の関係を結んだ美津子の話が一番気にかかった。
 美津子が女学生時代女王様気取りで、神父になろうとしていたうだつの上がらない大津をそそのかすのだが、いつまでもその大津が気にかかる。
 美津子は結婚し新婚旅行でフランスに行くのだが、その時大津が同じフランスにいることを知り、その大津を訪ねる。大津はここで神父になるために勉強していたのだ。しかし大津はここで語られる“神”について素直に受け入れられないでいた。
 美津子と会った大津は自分の心境を語る。神についても語る。その話にあまりにも神が出てくるものだから美津子は「ねえ、その神という言葉やめてくれない。いらいらするし実感がないの。わたしには実体がないんですもの。大学時代から外人神父たちの使うあの神という言葉に縁遠かったの」イライラ感あらわにする。それに対して大津は「神という言葉が気障で嫌なら玉ねぎとよんでいい」と言い、その玉ねぎについての違和感を語り始める。「三年間、ここに住んで、ぼくはここの国の考え方に疲れました。彼等が手でこね、彼等の心に合うように作った考え方が・・・・東洋人のぼくには重いのです。溶けこめないんです。それで・・・・毎日、困っています」と言うのであった。
 大津はヨーロッパ式のキリスト教だけが絶対だと思えずにいた。たまたま大津の母親がキリスト教徒だったから、生まれてからそのまま自分もキリスト教徒になったが、それが違う宗教であればその宗教の神を信じていたはずだと考えていた。神学校では大津がキリスト教徒になったことが神の恵みであり、神の愛だと思わないかと指導司祭に言われるが、大津は「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者に神はおられると思います」と言う。
 当然こうした考え方は異端視されるし、汎神論的だと批判される。しかし日本でキリスト教徒になった大津にとってみれば、ヨーロッパ式のキリスト教のみが絶対であるという考え方は受け入れがたかった。大津は悩み苦しみ、そしてここガンジス河のほとりで死を迎えるためにガンジスを訪れるアウトカーストと呼ばれる貧民たちをガンジスに運ぶ仕事をしながら、修行をしていた。そこに美津子が再び訪れたのである。
 大津はここで「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」と言うのであった。
 美津子も美津子で、生と死が隣り合わせになっているこの河で、ガンジス河が「ヒンズー教徒のためだけでなく、すべての人のための深い河という気がしました」と思うようになっていく。河辺では死体が焼かれ、その灰が河に流され、一方で信仰のためガンジス河の水を口に含み、合掌している風景を見ると、「その一人一人に人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背中に背負って生きている。ガンジスの河なかで彼等は浄化せねばならぬ何かを持っている」と思い、ガンジス河はそれらをすべて浄化してくれる河なのだと思うようになっていく。

 私は自分の信じている神のみがすべてだという妥協のない考えが、おそらく過去から現在までの宗教間の対立を生んできた最大の原因だろうと思っている。その対立が仲間の連帯感を生んできた。神の愛などで生まれた連帯感よりは、非妥協的な態度がその仲間意識を高めたものじゃないかと思えるのだ。
 美津子がここガンジスで感じた「人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能になる。どの国もどの宗教もながい間、そうやって持続してきた」と言わしめるのもそんなことを思えば納得できる。
 私はむしろ大津のように様々な宗教に神という顔を持ったものがあるというのが自然のような気がする。唯一絶対なんて言うから非寛容になるのであって、イエスも神なら、アラーも神であるし、仏陀も神だ。そして山や森が神ならそれも神なのだと思う。人には人の崇める神があっていいのであるなら、他の人も同様であって、それぞれの神を信仰すればいい。私は大津がヨーロッパでヨーロッパ式のキリスト教のみを信仰の対象に強要される苦しみは、歴史上自分たちがそれまで信仰してきた神とは別の神を強要されて信仰せざるを得なかった人びとの苦しみと同じように見えた。
 私は大津の言う言葉「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者に神はおられると思います」はいい言葉だと思った。


評価
★★


書誌
書名:深い河(ディープ・リバー)
著者:遠藤 周作
ISBN:9784062063425
出版社:講談社 (1993/06/08 出版)
版型:347p / 19cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2009年04月06日

吉村昭著『月夜の記憶』

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 読んでいて、“おや?”と思った。今まで読んできた吉村さんの随筆とはちょっとトーンが違うなと感じたのである。
 どちらかと言えば私は吉村さんの随筆にどっしりと構えた感じが好きで、世の中のこと、あるいは身の回りのことなどあるがままに受け入れつつ、大人の対応を見せていた文章が好きだった。
 この本に収録されている随筆は吉村さん初の随筆からよるものが多いことを知る。書かれた文章は昭和30年代から40年代のもので、吉村さんが昭和41年に太宰治賞を受賞して、世の中に出られた頃の随筆かと思われる。
 そして私が今まで読んできた吉村さんの随筆は晩年のものであったから、この本の随筆からずいぶん時間がたっていることになる。その時間が吉村さんの文章に変化を生んでいるのだろう。ここにある文章は読んでいて“若いな”と感じさせるほど、自己主張がはっきりとされていて、たとえば世の中の風潮に対しても結構怒りをあらわにしているのだ。
 
 話は横にそれてしまうかもしれないが、最近私はこうした自己主張の激しい文章にはついて行けなくなってきているところあるのかもしれない。あるいは生きることとか死ぬこととか、そんなことを大上段に取り上げられると“もういいよ”と言いたくなってしまうのだ。
 恐らく若い頃には、そうした“どのように生きるか”といった問題を身近に、そして真剣に考えたくなるのだろうと思う。多分私もそれなりに考えたはずだ。あるいは友人と議論もした。しかしそれはその頃罹る“はしか”みたいなもので、そういう時期を通り過ごさないと今があり得ないのではないだろうか。
 だからそうした“はしか”に罹った頃は、そんな文章を読んで感動したり、あるいは怒ったりしていた。結構好んで読んでいたような気がするのである。
 しかしこの歳になると、“もういいや”という気持になっており、むしろそんなことを熱く語る奴を見かけると、逆に勘弁してくれと言いたくなってしまう。むしろ世の中を諦観している人の文章の方がストレートに今の自分の中に入ってくるようになった。好みも歳共に変わっていくものなのである。だからいくら好きな吉村さんの随筆であっても、若い頃に書かれたこれらの文章には少々辟易したしまった。
 まぁ、随筆に時と共に人の変化が見られて、それはそれで面白かったが、ここに書かれた文章は私が若い頃に読んだら、もう少し感想は変わったかもしれないなと思った次第だ。気に入った作家さんだから、何でも読めばいいもんじゃないということを知らされる。

評価
★★


書誌
書名:月夜の記憶
著者:吉村 昭
ISBN:9784061847422
出版社:講談社 (1990/08/15 出版)講談社文庫
版型:322p / 15cm / A6判
販売価:入手不可

2009年04月02日

阿刀田高著『私の聖書ものがたり』

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 高校時代読んだ遠藤周作さんのエッセイに、いわゆる中東で生まれた宗教は、その自然環境の厳しさからか、教えに厳しさがあるというようなことが書かれていた。つまり仏教のような母的ではなく、父的な厳しさがそこにはあるようなことが書いてあった。
 今回阿刀田さんのこの本を読んでいて、旧約聖書に書かれている“神”の性格があまりにも厳しいものだと感じたので、そんなことを思い出した。たとえばモーセの十戒には次のように書かれている。

1.私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。
2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
3.あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間、働いてあなたの全ての業をせよ。
あなたもあなたの息子、娘、僕、婢、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人々もそうである。
あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを忘れてはならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである。
5.あなたの父と母とを敬え。これはあなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。
6.あなたは殺してはならない。
7.あなたは姦淫してはならない。
8.あなたは盗んではならない。
9.あなたは隣人について偽証してはならない。
10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない

 このうち1番と2番目を阿刀田さん流にくだけた感じで書くと次のようになる。

1.私はあなたなちの神、唯一にして、全能の神である。あなたちは、私以外のどんなものも神としてはならない。
2.偶像を作って神としてはならない。私は嫉妬深い神であるから、私を憎む者には子孫にまで罪を問い、私を愛し私の戒めを守る者には末代まで恵みを与えよう。

 この本は多分手塚治虫さんの『旧約聖書物語』の一部を使い、阿刀田さんが聖書の中の物語をわかりやすく書き直したものである。私はクリスチャンじゃないので、聖書を読んだことがない。一度読んでみたいとは思うけれど、たぶん挫折するだろうという思いがあるので、読まずにいる。なぜ挫折すると思うのかというと、私は信仰というものに懐疑的なところがあって、基本、人が信仰に入るのはその弱さのためじゃないかと思うところがある。もちろんそれはそれで何ら問題はないのだけれど、私には信仰に入るということが、どこか現実逃避をじゃないかと感じるから、そんな神の存在を書いたものついて行けなくなる気がするのである。
 訳のわからない、あるいは道理的でない現実をありのままに受け入れればいいものを、わざわざそれは神がなされたことみたいに解釈するのがよくわからないのである。わからないから信仰や宗教に関することで余計なことを言わない方が無難だ。だからこれ以上言うこともない。
 ただ、この聖書の世界での神はあまりにも厳しすぎる。“そんなのしょうがないじゃん”と思うことも、許してくれない。そういう妥協のなさについて行けない。神の立場に立てば、俺の言うことを聞け!そうすれば恵みを与えようというのはわからないわけじゃないけれど、人間の立場に立てば、“そんなこと言われても・・・”と言いたくなる現状があるように思えるのだ。私なら現実肯定派なので、はっきりと“それは無理!”と言ってしまうような気がする。
 絶対的な神の存在があることで、人というものの弱さや未熟さを言い表すのは結構だけれど、だから罰が当たったと言われちゃうと素直に受け入れられない。
 そもそも神という存在は、神をそのものを相対化して、人とは何かを考える時に便利である。人というものがあり、一方で神という存在があれば、比較しやすい。そこから人間の弱さ、未熟さ、あるいは無知など簡単に抽出できそうである。だって一方が絶対的なんだからね。だからものすごく不謹慎な言い方かもしれないけれど、神は人を考えるときのいいツールみたいなところがあるんじゃないかと思うのだ。そして理解不能のものをすべて神のなせる技と言ってしまえば、すべて解決できちゃいそうなのでいやなのである。
 まぁ、無神論者の戯れ言して考えてもらっていい。ただこうして物語として聖書を読めるなら、面白い。
 

評価
★★


書誌
書名:私の聖書ものがたり
著者:阿刀田 高
ISBN:9784087813210
出版社:集英社 (2004/11/30 出版)
版型:317p / 19cm / B6判
販売価:1,470円(税込)