2009年05月13日
山之内靖著『マックス・ヴェーバー入門』
だいぶ以前に長部日出男さんの『二十世紀を見抜いた男』を読んで、私はプロテスタンティズムと富の蓄積は矛盾するじゃないか、と書いたことがある。長部さんの本にはそれが矛盾しないことを書かれているのだが、どうも私はすっきりとしない部分があった。しかし今回山之内さんの本を読んで、完全にすっきりしないまでも、ある程度納得できるところがあった。
この本はマックス・ヴェーバー入門とあるように、マックス・ヴェーバーの著作をどう読むか、解説されている。主に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と『古代農業事情』第三版をどう読めばいいか教えてくれる。私は興味が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあったので、こちらの部分が面白く読めた。はっきり言って『古代農業事情』第三版の解説は難しくてよくわからなかった。
で、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をどう読めばいいのか。特に私がかねがね疑問に思っていた、プロテスタンティズムと富の蓄財がどうして矛盾せずに、受け入れられるのか、それを教えてくれる。
それでは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にどうアプローチすればいいのだろうか?ヴェーバーは市場メカニズムの歴史的成立を可能にした主観的動機に注目した。つまりヴェーバーは宗教がもたらした魂のあり方、救済が行為が動機となり、それが倫理的・道徳的生活態度として社会的に形成されたはずだから、ここに注目していく。
しかしこのままではあまりにも多様であり、不確定である。そこには民衆の感情世界が一貫した倫理性帯びなくては、社会科学を社会科学としてあらしめる基準が見出せない。
具体的に言うと、人々はいつ終わるとも知れない苦難が理由もなく続くことには耐えられない。けれど苦難が宗教的救済の約束と結びつき、苦難そのものが聖なる意味を持ったとき、苦難が生きがいを感じることができるとする。こうした宗教による観念の力が歴史において偉大な作用を果たしたとき、それが“合理化された「世界像」”となる。それをヴェーバーは社会科学の内部に方法として組み込んだ。
ちなみにアダム・スミスやマルクスは市場メカニズムが価格という記号化した非人格的な指標によって財の社会的交換と配分が行われため、価格のみが手がかりであり、生産者・商人・消費者を事前に差異化した社会的属性は意味がない。社会的交換を決定するのは、非人格的・匿名的な記号としての価格であって、それを制作した人の倫理・道徳でもなければ、趣味や教養でもないから、市場メカニズムが社会科学の手法を提供するとしたのである。
さらにもう一つアプローチの仕方を説明する。世の中には社会的な言説は、それが伝播してゆくうちに元の意味とはかけ離れたものへとズレていくことがある。たとえばある人がAという命題を語ってそれを誰かに伝える、この誰かはその命題をさらに第三の人に伝える、というふうに命題はは人々の間に拡がっていくが、その間にAという命題はいつの間にか変質してしまい、AではなくてBだ、と言わざるを得ない別のものになってしまう。こういうことを踏まえて、最初に提示された言明が、宗教から経済へ、あるいは非日常性の領域から日常性の領域へその性格を変え、伝播していきついには主観的な意図とは別に客観的結果もたらす。“予期せざる結果”、“意図せざる結果”を生んだというのだ。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にはこの手法というか変化をフルに使っているというのだ。
もともと中世キリスト教神学の中では、人間が日常生活そのものの中に宗教的な救済があり得るなどとは考えられていない。原始キリスト教の中にも民衆の世俗の生活そのものの中に、その営みだけによって神によって善しとされるような領域があるとは考えられていない。つまり世俗的日常労働の中には宗教的意味を認める思想は、本来、キリスト教思想の中には存在していなかった。
特にカルヴァンの唱えた予定説においては、永遠の昔から、ある人間には救いが予定され、他の人々は堕落に予定されている。このことは、神の永遠の決断によってすでに決まっていることであり、人間の側の善行や、信仰のよってさえも、そうした事実を変えることはできない。まして人間は神によって作られた被造物であるから、神の意志を勝手に変えたりすることはあり得ないし、あってはならない。これほど宗教上の神観念の中で、これ以上ラディカルなものはない。これは私が思っていたとおりである。ここからどうして富の蓄財が肯定されるのであろうか。それは次の通りである。
神はとうの昔に救われるかどうか決めてしまっているので、その神さえも聖典礼も教会も個人の救いに役立たないことになる。カルヴァニズムの説教にいったん接した信者は、心理的緊張を免除されるチャンス(救済)を予定されたいた人物以外剥奪される。このことは西欧の孤立した個人を生み出すこととなった。
カルヴァニズムの予定説は、救いの確証を得るための魔術的な手段を一切排除してしまったために、信徒たちはただひたすら自らの職業労働に専念することによってしか、内面的な不安を排除することができなくなってしまったのである。絶えざる自己管理を強要されることとなったのである。著者はそれを「人々は今日は肉の欲に負けなかったか、禁欲的職業労働によって神の道具として徹したかどうか、と問いかけ、まるで一人の人間が日々の生活について、信仰上の貸借対照表厳密に作成してゆく作業」をせざるを得なかったというのだ。こうしてカルヴァニズム的な信徒生活の聖なる成果は、ほとんど事業経営と同じ性格のものへと近づいてゆく。ここから「人間は委託された財産に対して義務を負っており、管理する僕、いや、まさしく『営利機械』として財産に奉仕する者とならねばならぬという思想は、生活上冷ややかな圧力をもってのしかかっている」という禁欲的合理化を生むこととなる。
まさしく大どんでん返しの発想と転化するのだ。本来持っていたカルヴァニズム思想が資本の肯定になったことは、“予期せざる結果”、“意図せざる結果”をだったわけで、それをヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で言ったまでのことだと著者は説明する。なるほどこれだとある程度納得できるし、この著者の考え方は面白い。
そして著者は「こうした禁欲的合理化は個々人の合理化にとどまらず、社会的生活諸領域まで徹底して合理化推し進めるという結果を伴うが故に、皮肉な自己破壊的結末招く」として、今世界が行きすぎた資本主義や商業主義が招く当然の帰結を警鐘するのである。
評価
★★★
書誌
書名:マックス・ヴェーバー入門
著者:山之内 靖
ISBN:9784004305033
出版社:岩波書店 (1997/05/20 出版)岩波新書
版型:246,2p / 17cm
販売価:819円(税込)
- by kmoto
- at 20:52
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