2009年05月25日

吉村昭著『ポ-ツマスの旗』

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 以前読んだ吉村さんの随筆にも確か書いてあったと思うのだが、吉村さんのお父様が日露戦争の日本海海戦の話。その後ロシアとの屈辱的講和に納得できないとして東京で大暴動が起ったという話。そして全権大使の小村寿太郎が非難された話が吉村さんの記憶に残っていることが書かれていた。今回この記憶がこの小説を書く動機となったことをあとがきに記している。
 そうなのだ。この歴史小説は、日露戦争後、日本がロシアとどのような講和条約を結んだか。何故暴動が起こるほどの屈辱的講和条約を結ばざるを得なかったのか。そしてその暴動がその後の日本の進路を決定づける意味を持つようになったと考えられるのか。それらを日本の全権大使小村寿太郎という人物を描くことで、それらの疑問を解き明かしてくれる。
 日露戦争は旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦で確かに日本が勝った。それらの経緯は司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』に詳しい。しかし日本はロシアに勝ったことは勝ったけれど、元々ロシアに宣戦布告をすると同時に、軍部はどうやって戦争を終わらせるかを進めていた。つまり日本は長期間、大国ロシアと闘う力がなかったのである。日本は明治維新からやっと国らしい形になってきたにせよ、まだ外国と戦争ができるほど経済力、軍事力が成熟していなかった。
 たまたま先の戦いで日本はロシアに辛うじて勝ったにせよ、それ以上先に軍を進める力がなかった。従ってロシアがその国力をフルに使って、この極東に軍を動かせば、日本はどうすることもできず、壊滅してしまう運命でもあった。ただロシアには革命が起こり始め、国内も不安定な状態であったから、一気に日本を押しつぶすことができなかっただけであった。
 日本の軍部はそのことをよくわかっていた。だから第三国に仲介してもらって、早く講和条約を結んでしまう必要性があった。その仲介役を取ったのがアメリカのルーズベルトであった。日本は小村寿太郎を全権大使に、ロシアはウイッテが全権大使となって、ポーツマスで会議がもたれた。
 当時の日本は誰を全権大使にするか、そのなり手がないことでもめていた。当時桂首相は日清戦争の講和条約に伊藤博文が当たったので今回も伊藤に全権大使を要請した。しかし幕末から維新という激動の時代を生き残ってきた伊藤である。今回全権大使になれば自分が非難の矢面に立たされることをわかっていたから断っていた。
 どういうことかと言えば、日本は国力、兵力がかなり弱体化していた。話が決裂し、じゃあ戦争を続けましょうなんて言われたら、破滅の道を歩むことになる。だから早く戦争を終わらせたい。そのため日本が強硬的態度が取れないことをロシアは見抜いていた。
 一方でこの戦争で明治国家は国民に家族を兵隊に出させ、戦費捻出のため多大な負担をさせることとなった。だから国民はロシアに勝ったことで領土の拡大、賠償金の請求が当然なされるものと思っていた。それが本質的なところできない状況である以上、最初から日本はロシアに及び腰で交渉せざるを得ない。それは当然国民の不満を招くことになる。それを伊藤博文はわかっていたから全権大使を引き受けなかったのである。
 あの西南戦争の熊本鎮代の長官でもあった谷干城は「もし老台(あなた)がおだてられて全権になれば、必ず槍玉にあげられる。この度の会議は、だれが全権になっても好結果は得られない。老台が出掛けてゆくことはなく、桂首相、小村外相で沢山である。いたずらに馬鹿者のうらみを買うのは愚かである」と忠告の手紙を伊藤博文に出している。結局貧乏くじを引いたのが小村寿太郎であった。元老の井上馨は小村が全権大使になって送り出される時、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかも知れない」と涙ぐんだ。

 小村はロシアが日本の現状を知っている以上、日本が要求する条件をすべて呑むことは考えられない。だから条件をある程度限定して会議に臨んだが、最後の樺太譲渡、賠償金の請求は完全に拒否された。
 小村とウイッテとの駆け引きが息を呑む。しかしウイッテの方はしたたかである。敗戦国という不利な立場であるにも関わらず、アメリカのマスコミを巧妙に操作し、ロシアを好印象に持っていく。そうすることで自分たちの立場かなり有利にすることができるからである。日本が出した交渉条件をマスコミ流さないという約束をしたにもかかわらず、平気でそれを流す。そうすることで日本はロシアにこんな過酷な条件を出してきて、会議を決裂させる可能性があると言わせるのである。
 小村は日本が外国に対して交渉下手であることを自覚していた。

 「小村は、長い外交官生活で、日本の外交の歴史の浅さを身にしみて感じていた。幕末に試練に立たされた日本の外交政策は、鎖国政策を唯一の盾に徹底して受身の姿勢に終始したものであった。それは、欧米列強の植民地拡大政策の激烈さに逆に救われて、各国間に牽制し合う空気を醸成させ、それらの国から浸蝕をまぬがれる結果を生んだ。
 受身の外交は維新後もそのまま引きつがれたが、欧米との交流が増すにつれて攻めの外交も身につけなければならぬという動きが、一種のあせりをともなって顕著になり、実行されるようになっていた。しかしそれはきわめて未熟なものであり、多彩な術をそなえるまでにはかなりの時間がかかりそうであった。
 小村は、欧米殊にヨーロッパ各国の外交に長い歴史の重みを感じていた。国境を接するそれらの国々では、常に外交は戦争と表裏一体の関係にある。外交が戦争の回避を功を奏したこともあれば、逆に多くの人々に血を流せたことも数知れない。そのようなことをくりかえしている間に、外交は、攻めと守りの術を巧妙に駆使し、自国の利益を守るため他国との間でむすばれた約束事を一方的に破棄することすらある」

 つまり欧米の外交の歴史の中で、交渉では日本は絶対に勝てないことを小村は自覚していた。このことは今現在の日本の外交下手を思えば、未だに未熟なままである。いったいいつになったら日本という国は他国と外交交渉がうまくできるようになるのだろうかと思ってしまう。
 日本は回りを海に囲まれている。もうそれだけで国が守られていた。この点地続きの地形で、生きるか死ぬかの長い歴史を繰りかえしてきたヨーロッパとは決定的に違う。海に囲まれているということだけで自国内でのほほんと過ごすことを可能にしてきた。他国との交渉事は不要なものと勘違いさせ、それを放棄してしまった。
 そして日本が世界の中の一つの国となったときにはもう交渉ができなくなってしまい、いつも受身の立場で過ごさざるを得なかった。ただ単に交渉事は誠実に対応すればなんとかなる程度の発想しか持てないのである。しかしこのロシアの全権大使ウイッテの態度を見てしまうと誠実だけでものごとに対応できるもんじゃないことを思い知らされるのである。したたかさがどうしても必要である。

 会議はほとんど決裂状態に陥ったが、日本はここで絶対に講和条約を結ばなければならない。結局譲歩に譲歩をして、樺太の半分を日本領土として、賠償金の請求は放棄して、なんとか講和条約はなった。
 しかしこの講和条件を知った日本国民は黙っていなかった。苦労や負担を強いられ、家族が兵隊として取られ、戦死して帰ってくれば、不満は爆発する。何のための戦争であったのかと思ったに違いない。東京の各地で暴動が起こる。この本の解説者は「人間というものは何をしでかすかわからないという暗い好奇心と、何をやってもタカが知れているという無常観をはらんだ徒労の意識」を吉村さん自身に育てて来たと書いているが、多分それは吉村さんだけではあるまい。思うような結果が得られなければ、人間何をしでかすかわからない生き物であり、期待が裏切られれば、何をやっても同じという意識は特に日本人には強い気がする。
 このポーツマスでの会議における結果は、日本にとって国家的に屈辱としか国民には映らなかったし、その不満が昭和の敗戦までくすぶり続けることになった。極端なことを言えば、日本の軍国主義を、意識しようとしまいと影で支えてきたのは、こうした国民であった。それは国家の運営は一部の指導者がやればいいのであって、私たち国民はその指導者がもたらした結果を享受できればいい。現実がどういう状況であろうとそれはうまく隠されているから現実を知らないまま平気でいられる。しかし政治家も軍指導者も国民に美味しいところぶら下げておかなければならないから、後は泥沼化していくだけである。
 ポーツマスの暴動以後、日本の政治家、軍幹部はどうやって国民の前に人参をぶら下げるか。あるいはだましていくかしか考えなくなり、それを一番安易な戦争という暴力で国家運営をしていく。それでも国民が文句を言えば今度は権力という力でねじ伏せていく暗い時代を演出していく。しかし元を正せば国民の欲望が生んだことかもしれない。そう言う意味でこのポーツマスの会談は日本近代史、現代史のターニングポイントとなったとも言えそうである。


評価
★★★


書誌
書名:ポ-ツマスの旗
著者:吉村 昭
ISBN:9784101117140
出版社:新潮社 (1983/05 出版)新潮文庫
版型:372p / 15cm / 文庫判
販売価:579円(税込)

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