2009年06月29日

吉村昭著『死顔』

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 今まで吉村さんの随筆と歴史小説は読んできたのだが、今回短編小説を初めて読んでみる。今回の本は私小説風のものが四作と短編の歴史小説が一作収録されている。「死顔」と「二人」は似ていて、多少趣を変えて書かれたといった感じだ。
 そしていずれも「死」をテーマにしたものばかりだ。この本の帯にもあるように、吉村さんの自らの「死」を覚悟して書かれたもののように感じることができる。

 「死顔」と「二人」は似ていると書いたが、短編小説としては「二人」の方がいい作品になっているように思えた。「死顔」は同じ兄弟の死を扱っているものの、どちらかと言えば、吉村さんが自分の死の迎え方、あるいは死後の家族の対応を遺書みたいな感じで書いてあって、そのことで、この作品はは失敗じゃないかなと思えた。つまり小説にするものではなかったような気がするのである。
 例えば、「死顔」では幕末の佐藤泰然の死の間際のことを次のように書いている。

 幕末の蘭方医佐藤泰然は、自らの死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。

 だから自分も延命治療は望まないし、葬式も家族だけの密葬を望んだ。確かにそのあたりは吉村昭さんらしいなと感じるし、むしろ吉村昭さんならそうあって欲しいと思っていた。
 司馬遼太郎さんみたいなメジャーな歴史小説家ではなかったけれど、独力で地道に取材を重ね書かれる重厚な歴史小説家であっただけに、その意志の強靱さは、最後はそうさせるだろうと思わせた。
 奥様の津村節子さんの「後書きに代えて」には癌との壮絶な闘いが記されているけれど、最後は「夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけた来た娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートの針を引き抜いてしまったのである。私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという」と書かれている。まさしく佐藤泰然が死の間際にとった態度を地でいったようである。
 今まで何冊か吉村さんの随筆を読んでいて感じたことであるけれど、吉村さんの生き様には自分のことで「人様にご迷惑をかけぬよう」というところが至るところで読み取ることができた。だから自分の死も生前から佐藤泰然の死に方をそのまま置き換えていたのだろう。
 それでなくても学生時代結核を患い、辛うじて生き延びてこられた吉村さんである。きっといつも自分の「死」について考えてこられたのではないかと思うのだ。
 ただそうした「死」に対する個人的考えを多く入れてしまったため「死顔」は小説としては駄作としてしまった感が否めない。個人的には先に言ったように同じ兄弟の死を扱った「二人」の方がいい小説に思えた。

 翌日の夜、ウイスキーの水割りを飲んでいると、兄から電話がかかってきた。
 兄も酒を飲んでいるらしく声がはずんでいる。
 「とうとう二人きりになったね」
 兄は、感慨深げに言った。
 「そうですね。お互い体を大事にしましょうよ」
 私は、明るい気分になって答えた。
 兄は、あらたまった口調で、
 「今さらこんなことを言うのも変だが、人は必ず死ぬものなんだね。兄や妹、弟が八人いたのに、一人一人確実に死んでいった。残ったのは、あんたと私だけだ」
 と言った。
 次兄の死で同じことを考えていた私は、かすかに笑った。
 「どうだね、生まれた町の小料理屋にでも行って、二人で飲まないかね」
 「いいですね。ただ、この寒さじゃどうにもならない。桜でも開花した頃ですね」
 「そうね。そうしよう」
 兄は、じゃ、またと言うと、電話を切った。
 桜が開花した頃か、と私は胸の中でつぶやき、ゆっくりした気分でグラスを手にした。

 いい感じだと思いませんか。私はこの終わりが好きであった。


評価
★★


書誌
書名:死顔
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242314
出版社:新潮社 (2006/11/20 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月28日

北尾トロ著『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』

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 久しぶりにトロさんの本を読む。トロさんの面白さは企画にあると思う。といっても、大それたものではなく、小市民的な企画が面白みを誘い。読んでいて、「うん、そうだな!」と共感するところがいいのかもしれない。
 この本は、中学、高校時代の修学旅行の記憶が年齢とともに薄れ、今ではほとんど記憶に残らなくなった歳となっている。忘却の彼方、登録抹消に近くなっている。
 しかし学校あげての一大イベントであったはずの修学力のことをそう簡単に忘れていいのかと、一大決心し、それならもう一度修学旅行をやってみようじゃんという企画本である。だからここでは修学旅行のスッポトがメインになる。
 といっても最近の修学旅行は昔と違い、海外旅行など豪華版になっている。しかしわれわれの時代は日本にある歴史的に価値のある地域がその対象となっていた。たとえば東京に住むわれわれは、修学旅行といえば京都・奈良が当たり前であった。
 今回はそうした当時の状況を踏まえ、当時の修学旅行に行ったであろう日本の観光地域をトロさん含めオヤジ三人で旅をする。しかしオヤジとなったトロさんたちが旅をすれば、やはり中学や高校とは違う感想を持つのは当たり前で、昔を思い出すにはほど遠いオヤジ旅になっている。またオヤジなったからこそ感じる部分も、何となくそうかもしれない。
 たとえば京都や奈良の修学旅行では、学生時代は青臭いところが全面にあるものだから、歴史的価値をどれだけ認識していたか疑問のところがある。教科書や授業で習った建物など生で見ても、果たしてどこまで理解できたか。だからトロたちさんは奈良において次のように言う。

 高校生はもちろん、数年前までの自分なら退屈でしょうがなかっただろう。だが、いまはそこに味わいを感じ、安らぎさえ覚えるようになった。ズボンのベルトがきつくなり、内臓脂肪が気になるくらいに“中高年力”がアップして、初めて良さがわかるのが奈良なのかもしれない。

 確かにそうかもしれない。けれど若いときに何をどのように感じたか、その時しか感じられない純な部分があったのではないかと思う。それはとんでもない取り違えをしていたかもしれないけれど、その時そう感じたことは、その時だからこそ感じられたことで、歳をとって、苦いも甘いも、そしてつまらん雑学的教養にどっぷりつかったオヤジが感じるものとはわけが違うような気がする。そこには新鮮さや驚きもあっただろう。感じたまま陳腐と思ったかもしれない。けれどそれはそれでいいような気がする。
 その年齢で修学旅行を行ったことが何らかの価値があったと思いたいし、オヤジたちが今修学旅行だといってそのスポットに行っても、もう違うものになってしまうのだ。オヤジの修学旅行は「これだよ、これ。オヤジ流の修学旅行は、昼間しっかり観光したら、夜は地のものを味わわなきゃ」であり、「宿に多くは望まない。メシ、風呂、接客がちゃんとしていればそれで嬉しい。潤いの乏しいオヤジ旅では、小さなヨロコビが活力の源になるのだ」みたいなものがどうしても伴う。だからオヤジなのだ。

 大笑いしたところ書いておく。十和田湖で高村光太郎の「乙女像」を見たオヤジたちの感想である。

「嘘だろ!どこが乙女なんだよ」

 見上げると、正面に熟女としか思えない巨大な尻が。乙女像という呼び名とは裏腹に、やたら肉感的な裸婦像が二体、対になっている。少女らしい繊細な造形を予想していたぼくは、あまりのギャップに笑うしかなかった。見れば見るほどダマされた感が募る。
 あきれてそこを去るときも、最後に「あれは、断固乙女の尻じゃない」と言い捨てて、そこを後にするトロさんであった。

 そうだったかなと思った。私は修学旅行ではなかったけれど、高校時代ユースホステルのメンバーになって、東北地方を旅したことがある。安い国鉄の周遊券とヒッチハイクをして回ってきた。泊まったユースホステルの朝早いにほとほと参った記憶がある。旅で知り合った仲間と夜遅くまで消灯になっても、話、大笑いして過ごしていたので寝不足だったのだ。確か6時頃なるとスピーカーから大音響の音楽が流れた。頭に来たわれわれはそのスピーカーに枕を投げつけ黙らした記憶がある。(もう時効だろうから書くけど・・・)
 その時奥入瀬渓流沿いを歩いて十和田湖まで行った記憶がある。その時乙女像を見ている。当時はこの像があの智恵子抄の高村光太郎の作なんだなとしか感じなかった。今見たら熟女の尻だと思うだろうか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ
著者:北尾 トロ/中川 カンゴロー【写真】
ISBN:9784093797849
出版社:小学館 (2008/04/21 出版)
版型:239p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年06月26日

阿刀田高著『朱い旅』

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 主人公の“私”は、妻の房子からモリエールの「アンフィトリオン」という芝居のキップをもらい、それを見にいく。“私”はアンフィトリオンという題名の本を昔父親の本棚で見たことがあった。アンフィトリオン、それはギリシア神話であった。アンフィトリオンはテーベの武将で、その妻はアルクメーヌであった。新婚まもない二人は相思相愛の仲なのだが、オリンポスの大神ジュピテル(ゼウス)はアルクメーヌを見初め、わざわざ戦争を起こして、アンフィトリオンを戦場に追いやり、その間に自らアンフィトリオンの姿に変えてアルクメーヌの寝室に忍び込む。そして交わる。その子がエルキュール(ヘラクレス)であった。
 モリエールの劇はこのアンフィトリオン伝説を基に当時のフランス宮廷風俗を諷ししたものであった。しかしこのアンフィトリオン伝説はいろいろな劇作家がそれを基にして劇を作っていた。ローマ時代にはプラウトス等が諸神賛歌として表現したし、17世紀にはこのモリエールやロトール等の手によって宮廷風俗の風刺として、そして二十世紀に入りジロドゥーが「アンフィトリオン38」として実存主義の表現として演じられた。
 問題はこのジロドゥーが「アンフィトリオン38」である。この作品が“私”の両親の秘密と出生の秘密とからみ合って物語は進む。“私”は国立中央図書館で司書として働いていたが、両親はいずれも亡くなっていた。
 あるとき“私”は図書館連盟の親睦会でギリシア旅行へ行くこととなった。そこで“私”の父親の友人だという田辺という人物に声をかけら、結婚前の父親と母親が一緒に写っている鎌倉での集合写真を渡される。その写真を眺めているうちに自分に似た顔の男に目がとまる。
 翌日田辺に男の名前を聞くと不二草薫という経済学部の助教授だと知らされる。しかし不二草は自殺していた。不二草は萩の人であった。そして“私”の母親も萩の生まれであった。さらに母親の遺品から古い本を取り出してみると、そこには“不二草薫”という名前が書かれていた。
 以来“私”は不二草薫と両親の過去を調べ、両親の秘密と自分の出生を推理し始める。
 “私”の母親は上京して、二十歳の時に大学の経済学部の事務員として勤務した。そこに将来を嘱望された不二草がいた。やがて二人は同郷のよしみで近づき、関係が生まれた。しかし不二草は人間的に歪みのある人物で、“私”の母親はこのままでいいのか不安に駆られる。そんな時大学の図書館に勤務する父親と知りあう。次第に二人はお互い好意を持ち始め、愛を育んでいく。父親はこのままではまずいと思い、自分たちの関係を不二草に話そうとする。母親はそんなことをする必要はない。自分は不二草の持ち物でもないし、妻でもない。自分に意志で行動すると言い、大学を辞め、父親の元へ走る。それを知った不二草は自尊心を傷つけられ、もともと精神的に問題があったこともあり、奇行を示すようになり、自殺する。
 父親と母親が同棲を始めた頃、父親が交通事故に遭い、子供を得られない身体となったのに、母親に子供が宿ったことを知る。果たしてその子は自分たちの子供であろうかと疑いを持ち始める。しかし父親は決然と「私たちが信じれば、(その子は)私たちの子だ」と言い、“私”が生まれた。そう推理したのである。
 まさしくこれは漱石の『それから』と『門』の世界である。
 そして“私”の父親が修士論文として、アントフィトリオンをテーマにして書いていたことを知り、その論文を手に入れる。“私”はそれを読んで、ジロドゥーの「アンフィトリオン」にふれている章に至って、「入れ込んでいる」と感じ始る。
 ジロドゥーの「アンフィトリオン」ではジュピテルがアルクメーヌにエルキュールは自分の子で、神の子だと言うのだが、アルクメーヌはそれを認めない。エルキュールは自分の子で、神ではなく人間の子だと言い切るのである。ジュピテルが神としての能力を披露しても、「それが何なの?」と徹底的に否定的である。自分がアンフィトリオンとの間の子で、人間の子だと言えば、そうなのだと言い切るのである。そこには事実はどうであれ、生まれてくる子供が何であるか、その決定は神ではなく、アルクメーヌにかかっている。わが子の誕生はアルクメーヌとアントフィトリオン、つまり人間の夫婦の認識にすべて委ねられる。ここには明らかに実存主義の影響が読み取れる。
 19世紀までは混沌とした世界であっても神が調和の道を用意してくれるというよな思想が一般的であったが、20世紀になると“神が死んだ時代”であり、あるいは“神の否定”がそのまま“人間賛歌”と変わっていく。神であるジュピテルが何と言おうと、人間であるアルクメーヌとアントフィトリオンがまず自分たちがあって、そして自分たちの意志ですべてを決めていく、そういう姿勢が何より大切なのだとジロドゥーの「アンフィトリオン」では言っているのである。
 それを感じた“私”の父親の論文は、当然自分たちの境遇とクロスするところがあるから、必然的に入れ込むしかなく、“私”がそう感じても少しも不思議ではない。そして両親が“私”を自分たちの子だと決意したのだから、“私”は両親の子なのだと思うようになる。

 この作品はギリシア神話を基にした劇の中に隠されている思想と、漱石の作品かと思わせる物語がうまくミックスして、なかなか面白い作品であった。


評価
★★★


書誌
書名:朱い旅
著者:阿刀田 高
ISBN:9784877280468
出版社:幻冬舎 (1995/04/26 出版)
版型:277p / 19cm / B6判
販売価:1,528円(税込)

2009年06月25日

清瀬闊著『「お玉ヶ池」散策』

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 お玉ヶ池の種痘所が気になってしょうがない。それでネットで調べていたら、この本がヒットした。なんか面白そうと思い読んでみる。
 この本は文章の素人が書いたためか、主語が省略されていたり、句点で文章をつなげすぎていて、やたら長い文章となっていて、時に何が言いたいのかわからなくなる悪文であった。でもそこに書かれている内容は、私が疑問と思っていたことをほとんど解消してくれた。また新しい発見があって、「へぇ~、そうなんだ」と感心できて、楽しかった。
 まずは私が疑問と感じていたことは、お玉ヶ池のことだ。その池はどこにあり、どんな様子だったんだろうということ。そしてそこに建てられた種痘所がどういう経緯で作られ、その後どう変遷していったのか、そのあたりを知りたかった。
 著者はお玉ヶ池がどこにあったかを、角川書店発行の『日本地名大辞典』を引いて、「千代田区神田岩本町、神田東松下町、神田須田町二丁目一帯にあった池沼」だと書いている。
 何とお玉ヶ池は私がいつも乗り降りしている岩本町近辺にあったのである。岩本町二丁目あたりにその史跡がある。


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 お玉ヶ池はその昔「桜が池」と呼ばれるほどの名所だったそうで、そこで器量よしで、美人のお玉が茶屋をやっていた。


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 そのうち二人の若い男に言い寄られ、お玉はどっちにしていいかわからず、とうとう池に身を投げてしまったことから、この池を「お玉ヶ池」と言うようになったらしい。ただこの池身を投げられるほどの深さがある池ではなかったようで、あくまでも言い伝えである。
 もちろん現在はその形跡すらない。というか、そもそも大きさの割には深い池ではなかったようで、家康が江戸に来る頃にはたいぶ干上がっていたみたいだ。詳しいことは「江戸の原型と神田川の流路」というサイトを見て頂きたい。


http://poco.cool.ne.jp/kanndagawa/kandagawa-mukasi/kanndagawamukasi.htm


 これを見ると1590年より昔では、上野の不忍池とお玉ヶ池が一つの川でつながっていたことがわかる。(しかしこの頃の江戸の地形は今とだいぶ違っており、日比谷あたりは入り江になっていたことを知らされる)そして神田川ができてからは、完全にお玉ヶ池はなくなってしまっている。著者はこのお玉ヶ池がどうしてなくなってしまったのかくどいくらい考察しているが、要は江戸時代住む土地がなくて、完全に埋め立てられてしまったみたいだ。

 さてこの種痘所の話に入る前に、日本における種痘の歴史をこの本で知り得たことを書いてみる。
 種痘とは、天然痘の予防接種のことである。イギリスの医師エドワード・ジェンナーが、牛飼いの乳搾りの女性が「痘瘡」に罹らないことをヒントにして、1796年牛の天然痘である牛痘の膿を接種する、より安全な牛痘法を考案し、以後ヨーロッパ各地に広がった。ちなみに牛のことをラテン語でvaccaといい、それにちなんでvaccine(ワクチン)というようになったそうである。
 “安全な”というのは、例えば日本では症状の軽い天然痘患者の瘡蓋を粉末にしてラッパ状のものを使って鼻孔より吹き込み免疫を作る方法が1790年秋月藩の藩医だった緒方春朔によって行われていた。これは成功する場合もあるが、逆に天然痘に罹患してしまう危険性もあったと言う意味で“安全な”と言っている。
 ジェンナーが発見した方法で、日本で初めて種痘を行ったのは、佐賀藩の医師・楢林宗健という人で、1849年長崎で行なったのが最初とされているらしい。
 ただ教科書的には、日本で最初に種痘を行ったのが楢林宗健となっているが、実はそうではないらしい。中川五郎治という人物が最初だという。
 五郎治は択捉島にいた。その五郎治はロシアに拉致され、その後ロシアにおいて種痘を受けた。さらにロシアで医師の助手となって種痘法を習得した。紆余曲折があるが、五郎治はとにかく日本に帰国する。その五郎治が文政五年(七年という説もある)田中正右偉門の娘に施したのが本邦初の種痘術であるという。まぁ最初は誰かなんて個人的にはどうでもいいのだけれど、とにかくそういうことらしい。

 次にお玉ヶ池の種痘所の話である。種痘の重要性を感じた、江戸の蘭方医は、伊藤玄朴、大槻俊齋らが呼びかけてお金を出し合い神田松枝町元誓願寺前の川路聖謨の拝領地に種痘所を作ったのがお玉ヶ池の種痘所である。



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 このお玉ヶ池の種痘所の歴史が面白い。実はこのお玉ヶ池の種痘所が東京大学医学部の発祥となるのである。
 お玉ヶ池に作られた種痘所は最初「私立お玉ヶ池種痘所」としてスタートした。もちろん種痘所は牛痘接種普及を目的で作られたが、別の側面として蘭方医の集会所でもあった。
 ところが設立半年後火事で焼失してしまう。その後しばらくの間、伊藤玄朴の家などで業務を続けたが、翌年種痘所は、下谷和泉橋通りに移転した。移転後「官立お玉ヶ池種痘所」となる。
 この下谷和泉橋通りがどこなのか、それが今度私の知りたいこととなる。その答えが、この本で、今私がいる事務所の近所である三井記念病院だということがわかった。それを知ったときは、へぇ~ここなんだ!とちょっと感動した。
 さて、官立お玉ヶ池種痘所がどう変遷していったのか。まず、最初の呼びかけをした大槻俊齋はすでに死去していたので大阪より緒方洪庵を招き初代頭取に任命し、文久元年(1861年)「西洋医学所」と改称される。そして文久3年にはただの「医学所」と改称される。
 戊辰戦争の負傷者治療するためにそれまで横浜と浅草にあった診療所をまとめ、この地に「東京府大病院」を作り、明治二年(1869年)に種痘所から名を変えた医学所と合併し、「医学校兼病院」と改称される。同年12月には「大学東校」と名を変える。(よく名前を変えるんだな、これが・・・)さらに、「大学東校」から「東校」へ、「東校」から「第一大学区医学校」へ、「第一大学区医学校」が「東京医学校」へ改称される。この東京医学校が本郷に移転し、東京大学医学部となるのである。
 以上変遷をたどると、お玉ヶ池の種痘所が東大医学部の発祥となるわけだ。それを考えると、お玉ヶ池の種痘所は、日本の近代医学史の大本だったことを知らされる。
 一時下谷に借りていた第二医学院も和泉町に来て、「医科大学第二医院」となる。その後「医科大学第二医院」は「東京帝国大学第二病院」と改称される。ただ明治三十四年に火事にあい、その後再建されず、この地は空き地となり、運動場となっていた。
 その空き地に今の三井記念病院である三井慈善病院が設立された。その経緯は次の通りである。
 明治三十六年(1903年)に東京市長尾崎行雄が施療病院の計画をし、それを聞いた三井八郎右衛門・高棟が十万円の寄付をして賛同の意を表す。しかし当時日露戦争の疲弊でその計画が一向に実現する様子がない。仕方がないので高棟は自力で病院を作ることを決意する。三井家より基金百万円を基に、和泉町にあった東京帝国大学第二病院跡地を払い下げを受け、明治四十二年三月に開院した。
 三井慈善病院という名の通り、この病院は生活困窮者を対象とし、患者の診察費、入院費は無料で行われた。その上診察内容は高度であったので、受診者が殺到したという。生活困窮者を対象としいたため、一般の人は受診できなかったので、病院の前に粗末な衣裳を貸し出す貸衣装屋があったという笑い話が残っているらしい。著者は三井記念病院で内科部長、副院長を務められた人で、この経緯は詳しく書かれている。
 また和泉町と言えば、関東大震災で奇跡的に焼け残った地域で、それでも震災時に上野公園へ病院スタッフや患者が避難する記録は著者だから得られた記録だろう。読んでみるとかなりなまなましい。一部のスタッフは病院に残り消火活動をするが、町内の人々もバケツリレーをして懸命な消火活動した。またたまたま近所にあった民間会社のガソリンポンプによる下水水利を得ての放水し、和泉町は震災による火災から免れた。現在「関東大震災協力防災の地碑」が和泉小学校の脇にある。

 そもそも神田和泉町は旧藤堂和泉守高虎(弘治二年~寛永七年、1556~1630年)の屋敷跡で、この地には医療関係の史跡がお玉ヶ池の種痘所以外にもいくつかある。
 近くには漢方医の医学校、躋寿館(せいじゅかん)もあった。場所は佐久間町二丁目から四丁目にかかる二千余坪、旧浅草天文台跡地(現在の清洲橋通りをはさんで和泉町の東側、外神田四丁目十四)である。
  東京衛生試験所もこの地にあった。もともとは明治七年(1874年)に「東京司薬場」の名称で 医薬品試験機関として発足し、医薬品の品質管理行っていた。日本で最も古い国立試験研究機関である。ここにも記念碑があり、次のように書かれている。
 
 国立衛生試験所は, わが国最初の国営の医薬品試験研究機関, 東京司薬場として, 明治7年(1874年)3月、 現在の中央区日本橋馬喰町に発足し同年8月この地、 千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始した。 昭和20年(1945年)3月の東京大空襲に罹災するまでの70年あまり、 医薬品を主とする日本の厚生行政に多大な貢献をしてきた。 現在は、 世田谷区上用賀において引き続き研究業務を行っている。
 本年, 創立120周年を迎えここに記念碑を設置するものである。
 平成6年11月建立   国立衛生試験所



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 東都病院もこの地にあった。東都病院とは斎藤紀一が開業した(斎藤茂吉は斎藤紀一の養子。北杜夫は茂吉の次男)が明治二十四年(1891年)に浅草区東三筋町に浅草病院を開業したが、ここが繁盛したので和泉町に東都病院を作った。この本によると、この病院の入院費はかなり高額だったらしい。現在当時のレンガの一部が坪井医院の入り口に残されている。

 私はこの和泉町にある会社でずっと働いている。だからこの和泉町の歴史、特に医療関係の歴史にずっと興味を持っていた。今回この本でかなりのことがはっきりわかったので、その点だけでもこの本を読んでよかった思っている。


評価
★★★


書誌
書名:「お玉ヶ池」散策―お玉ヶ池種痘所と三井記念病院周辺余話
著者:清瀬 闊
ISBN:9784895143127
出版社:中央公論事業出版 (2008/12/01 出版)
版型:242p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年06月23日

東海林さだお著『トンカツの丸かじり』

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 日曜日に東海林さん本を読もうと決めたのだが、先週は村上春樹さんの本に夢中になってしまい、とてもじゃないが途中でやめることができずに、そのまま読み続けてしまった。そして今週はテレビの映画とドラマに夢中になり、本を読むどころじゃなかった。ということで月曜日までこの本を持ち越してしまった。そしてそうこうしているうちに、このシリーズ30巻目が出ちゃって、こりゃあやばいなと思い始めている。しっかり予定通り読まないと、下手したら今年中で読み終わらないかもしれない。
 というわけで、慌てて読み始める。

 が、つまらない。

 というか、もう三冊目で食傷気味になってきてしまった。毎度毎度同じパターンで繰りかえされる食に関するエッセイは飽きるものだとわかり始めた。正直なところこんなはずじゃなかった。これはまずい。いつもの読書の箸置きみたいな感じで読むならいいのかもしれないが、ノルマとして読んでやろうと目論む本じゃないのではないかと思い始めた。これは“日曜日の読書”を考え直さないといけないかもしれない。
 というわけで、この本を読んでいて「もう、いいや」と思ったのが正直な感想だ。次はちょっと時間をおいてから読もうと思っている。


評価
★★


書誌
書名:トンカツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022560759
出版社:朝日新聞社 (1989/11/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月22日

吉村昭著『暁の旅人』

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 この本は松本良順の生涯を描いた小説である。司馬遼太郎さんの『胡蝶の夢』も良順を主人公にした長編小説だが、この時も確かあるイメージが頭にこびりついていて、違和感があったことを思い出す。今回もそうであった。
 私が松本良順に対して思い浮かべるイメージとは子母澤寬さんの『勝海舟』に出てくる松本良順なのである。というのも、私が松本良順という人物を知ったのはこの小説が最初だったからだ。そこには奥医師として将軍のそばで、勝海舟と同様にベランメエ調でやりとりする姿があった。そのため良順という人物も海舟と同じように、なかなか自己を曲げないタイプで、わがままでやりたい放題の人物だったと思っていたのである。
 ところが吉村さんの描く良順像は、確かにそういうところもあるけれど、どちらかといえば当時としては最先端の医療技術を身につけた良順で、律儀で恩義に厚く、それが良順の行動指針となっている人物であった。
 良順は洋医学の大家佐藤泰然の子として生まれ、幕府の奥医師松本良甫の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医師ポンペについて西洋医術を身につけた。
 当時は漢方医の力が圧倒的に強く、蘭方医などとんでもないという時代であった。それでもこれからは西洋医術を身につけなければならないと思った良順を幕府の高官たちは終始援助の手を差しのべ、長崎伝習生の名目でオランダ医師ポンペについて西欧の最新医術を身につけられるようした。五年間にわたる長崎遊学費用も幕府はすべて出した。
 江戸にもどって幕府の奥医師となり、医学所頭取となった。「奥医師として身近かに仕えた将軍家茂は、絶えず温情をもって接してくれて、それに対する感謝の念は忘れられない。その臨終に際して手をにぎり心音をうかがっていたことがせめてもの救いで、次第に冷たくなっていった家茂の手の感触は今でもはっきりとおぼえている」。
 幕府が崩壊しつつあるときでも、自分を手厚く扱ってくれた幕府に対して、恩義を感じないわけがなかった。だから幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。江戸が新政府軍によって踏みにじられるのを眼にするのは堪えがたかったのである。自分は幕府とともにあり、それに殉じるのが人の道だと思う人物であった。
 しかし時代は明らかに変わりつつある。会津、庄内藩も新政府軍に敗れ、良順は仙台で榎本武揚と会う。榎本は良順に蝦夷に一緒に来て、戦傷者の手当をして欲しいと言うのだが、ここにそれを思い止まらせる人物がいた。土方歳三である。土方は次のように言う。
 「先生は、前途有為なお方です。蝦夷などに行かず、この地から江戸におもどりになられるべきです。戦乱に巻きこまれ、命を失うようなことあってはなりません。江戸にお帰り下さい」

 新政府軍が良順という優秀な人材をむやみに殺すわけがないと考えた上での言葉であった。さらに自分は榎本と共に蝦夷へ行くが、それは「私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり奮戦し、国のために殉じるべきだと思っております。それがわれわれの定めなのです」から、新政府軍と戦い続けると言うのである。私は新撰組というのはごろつきの集まりだと思っていたので、このあたりはさすが土方歳三と見直しちゃった。
 ここでは生き様の差がはっきりと出ている。大きな時代の変化に必要な人物。滅びるしかない人物。日本という国の未来を考えると、このあたりの線引きははっきりしている。特に土方自身がそうした線引きをして、自分がどこにいるかはっきりと自覚しているところが悲しさを誘う。
 良順は江戸にもどり投獄されるが赦免され、山県有朋などの薦めで軍医総監となる。この時山県は人それぞれに国のために力をつくすべき時だと言ったが、明治新政府には人材がいなく、しばらくの間幕府の有能な人材を登用するしかなかったことを思うと、江戸幕府は本当に有能な人材を持っていたんだなと思う。その証拠に明治新政府に使えた旧幕府の人物たちが沢山いたことがいい証拠である。これらの人物たちがいなければ、明治という時代は成っていなかったかもしれない。そして無骨一辺倒な旧タイプの人物たちは滅びることで、その精神をいい意味でも悪い意味でも、新しい日本という国に残していったんじゃないかという気がする。
 

評価
★★★


書誌
書名:暁の旅人
著者:吉村 昭
ISBN:9784062128704
出版社:講談社 (2005/04/26 出版)
版型:298p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2009年06月18日

村上春樹著『1Q84』〈book 2(7月-9月)〉

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 舞台はジョージ・オーウェルが1949年に書き上げた『1984年』の東京。青豆という女性と天吾という男性の話が交互に語られる。
 最初この二人はクロスすることはなく、1984年の生活がそれぞれ描かれる。青豆はスポーツジムのインストラクターで、“必殺仕事人”みたいな裏の顔を持つ。天吾は予備校で数学を教えていて、かたわら小説を書いていた。
 青豆はその“仕事”に向かう途中で首都高の渋滞に巻き込まれる。青豆の乗ったタクシーの運転手はこの渋滞から抜け出す方法が一つあることを伝える。高速道路の非常階段。青豆はタクシーを降り、その階段を使って渋滞の高速から抜け出す。タクシーを降りるとき運転手から覚えて欲しいことがあるといって次のように言われる。

 で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えるかもしれない。私にもそういう経験があります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。

 そして青豆は高速道路の非常階段を下りた。この時から青豆は1984年という世界からもう一つ別の新しい世界に飛び込んでしまった。青豆が名付けた1Q84年という世界へ。Qはquestion markのQだ。疑問を負ったものだ。
 一方天吾は知り合いの出版社の編集者の小松から、ふかえりという十七歳の少女が書いた『空気さなぎ』のリライトを持ちかけられる。天吾はその小説にもともとひかれる部分があったので、それを引き受ける。そしてその『空気さなぎ』は世に放たれ新人賞を受賞し、ベストセラーとなる。この時から天吾も1Q84年という世界へ足を踏み入れてしまった。

 読売新聞の6月16日から19日かけて村上春樹さんの独占インタビューが掲載されている。私はこれを面白く読んだ。そこには「罪を犯す人と犯さない人とを隔てている壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった」と村上さんは言っている。
 さらに9・11のテロでツインタワーがあれだけあっけなく崩壊する映像を何度も見せられるとふとした何かの流れで、あの建物がない奇妙な世界に自分が入り込んでしまったと感じる人がいてもおかしくないと言う。特に日本の場合、1995年に阪神淡路大地震、オウム事件が立て続けに起こり、「自分はなぜ、ここにいるんだろう?」という現実からの乖離を、世界よりひとあし早く体験したんじゃないかとも言う。
 そうなのだ。自分では確かな現実だと思っていても、何かの拍子でそれが不確かなものに感じてしまうことがある。今日は2009年6月18日の木曜日という確かな日であっても、感覚的に昨日とは違う一日になってしまうことだってあり得る。あるいはちょっと前とは何かが違うと感じることだってある。青豆や天吾が1984年から1Q84年という世界に入り込んでしまうこの奇妙な小説は実はちっとも奇妙じゃないのではないかと思わせる。
 この小説はちょっとした非日常から新しい世界に紛れ込んでしまった男女のラブストーリーである。だから面白い。ちょいとそこらにごろごろしているラブストーリーでない。
 二人には二十年前に接点があった。同じ小学校のクラスメイトであった。しかし青豆は母親が加入している『証人会』という宗教団体の布教活動に日曜日の度引き回されていた。一方天吾の父親はNHKの受信料の集金人で、やはり日曜日の度に引き回されていた。どちらも子供連れの方がやりやすかったからだ。二人は同級生が日曜日に楽しく遊んでいるのにと思うとそれが辛く、恥ずかしかった。そのためクラスのは友人がいなかった。通りでお互いすれ違ったこともあった。
 あるとき教室で二人だけになった。青豆は何も言わず、天吾の手を強く握る。しかしそれで終わり、青豆は転校していき、以来二人は交わることがなかった。が、この時の情景を忘れることが出来ず、以来二人は二十年間お互い求めあっていた。捜していたのである。

 言葉ではうまく説明はつかない意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある。

 それでは何故青豆が1Q84年という世界に引き込まれたのか?そのことを知るのは、青豆が「さきがけ」という宗教団体の教祖を抹殺する依頼を受け、その行動に移ったとき、その教祖から知らされる。教祖はすべてを知っていた。その上で青豆を招き入れ、すべてを語るのである。
 それは天吾がふかえり(教祖の娘)の『空気さなぎ』をリライトして世に出してしまったことで、リトル・ピープルなるものが世間に知れ渡ることとなり、リトル・ピープルが天吾を危険人物とみなした。
 青豆の方は天吾の物語を語る能力によって、レシヴァ(受け入れるもの)の力によって1Q84年という別の世界に運び込まれてしまったと言うのであった。なぜなら青豆と天吾がお互い強く引き寄せあっていたからだ。リトル・ピープルのとって青豆を1Q84年に引き込むのは簡単で、単に1984年から1Q84年に路線を切り替えるだけでよかった。
 もともとリトル・ピープルなるものを導き入れたのふかえりで、リトル・ピープルを知覚する「パシヴァ」となった。そしてふかえりの父親である教祖(リーダー)がリトル・ピープルを受け入れるもの(レシヴァ)になった。そのためリーダーはリトル・ピープルの代理人となり「さきがけ」という宗教団体の教祖のような存在となる。
 そのため青豆がリーダーの抹殺すると、リトル・ピープルにとっては代理人を失うことになる。リーダーの代わりがまだ見つかっていないから、リトル・ピープルは早々自分の代理人を捜す必要性が出てきてしまい、天吾を抹殺するどころでなくなる。すなわちそれが天吾を守ることとなる。
 しかし「さきがけ」にとってリーダーが殺されれば、組織として黙ってられなくなる。どんなことをしても青豆を捜そうとするに違いない。
 ここでリーダーは青豆に自分自身を守るか、それとも天吾を守るか、二者択一を迫る。一度1Q84年に引き込まれたら、1984年に戻る道はない。なぜならこの世界に入るドアは一方にしか開かないからだ。
 青豆は予定通り、リーダーを殺し(リーダーもリトル・ピープルの代理人となっているため肉体的苦痛に悩まされており、自らの死で、そこからの解放を望んでいた)、天吾を守る。
 “仕事”のあと、青豆は高円寺のマンションに身を隠す。高円寺には天吾とふかえりが一緒にいたが、二人は完全にクロスすることはなかった。かろうじて、青豆が自分を捜している天吾の姿をベランダ越しに見かけるだけであった。
 そして青豆は自分を1Q84年に引き込んだあの高速道路の非常階段がある場所を訪れるが、そこには非常階段はなかった。the endである。青豆は自殺しようとする。

 私はこのようにこの物語をラブストーリーとして読んだ。しかしここで描かれる物語の中には、村上さん特有の存在感と喪失感がある。

 天吾は言った。「小説を書くとき、僕は言葉を使って僕のまわりにある風景を、僕にとってより自然なものに置き換えていく。つまり再構成する。そうすることで、僕という人間がこの世界に間違いなく存在していることを確かめる。それな数学の世界にいるときとはずいぶん違う作業だ」

 青豆は言った。「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけれど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」

 私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることややっていることはそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとってのただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです。

 たとえばこういうことです。ある年齢を過ぎると、人生というのはものを失っていく連続的な過程に過ぎなくなってしまいます。あなたの人生にとって大事なものがひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいにあなたの手から滑り落ちていきます。そしてその代わりに手に入るのは、とるに足らんまがいものばっかりになっていきます。肉体的な能力、希望や夢や理想、確信や意味、あるいは愛する人々、そんなものがひとつまたひとつ、一人また一人と、あなたのもとから消えて去っていきます。別れを告げて立ち去ったり、あるいはある日ただふっと予告もなく消滅したりします。そしていったん失ってしまえば、あなたにはもう二度とそれらを取り戻すことができません。かわりのものを見つけることもままならない。こいつはなかなかつらいことです。時には身を切られるように切ないことです。川奈さん、あなたはそろそろ三十歳になる。これから少しずつ、人生のそういう黄昏れた領域に脚を踏み入れようとしておられる。それが、ああ、つまりは年をとっていくということです。その何かを失うというきつい感覚が、あなたにもだんだんわかりかけているはずだ。違いますかね?

 それと喪失感に伴う無気力感もいい。

 新聞は「起こった」ことについては積極的に取り上げるが、「続いている」ことについては比較的消極的な態度で臨むメディアである。だからそれは「今のところたいしたことは何も起こっていない」という無言のメッセージであるはずだった。


 世界は世界で勝手に進ませておけばいい。用事があったらきっと向こうから言ってくるはずだ。

 私はこれらの文章が好きだ。
 最後にもう一度読売新聞の村上さんのインタビューから気になったところを書いておく。
 ここには(ソ連崩壊後の)マルキシズムという対抗価値が生命を失い、マルキシズムに代わる座標軸としてカルト宗教やニューエイジ的なものへ関心が高まったんじゃないかと村上さんは言っている。原理主義も世の中がカオス化するにあたり、シンプルな原理主義は確実に力を増しているとも言われている。
 さらにネットの普及は匿名で無責任な意見が集中する。そこにある知識や意見はカットアンドペーストされ使い回される。何よりもスピードとわかりやすさのために。
 そんな時代だからこそ、村上さんは「物語」は力を持たなければならないと言いきる。まさしくその通りだろう。そして私はここに描かれた「物語」を堪能した。


評価
★★★★★


書誌
書名:1Q84 〈book 2(7月-9月)〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534235
出版社:新潮社 (2009/05 出版)
版型:501p / 20cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年06月15日

村上春樹著『1Q84』〈book 1(4月-6月)〉

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 話題の本を読む。なんとか2冊手に入れ、この休みに十分村上ワールドを堪能した。夢中になり一日中本を手放さなかった。詳しいことは二冊目を読んでから、まとめて書くつもりである。


書誌
書名:1Q84 〈book 1(4月-6月)〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534228
出版社:新潮社 (2009/05 出版)
版型:554p / 20cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2009年06月12日

阿刀田高著『日曜日の読書』

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 この本昔新潮文庫で出ていた。今は目録を見るとないようなので、品切れ重版未定の状態なんだろう。で、私は親本をたまたまブックオフで見つけた。富士通経営研修所という聞いたことのない出版社から出ている。どうしてこんな出版社から阿刀田さんの本が出ているんだろうと思いつつ、はしがきを読んでみると、どうやらこのエッセイは講演集であり、もともと富士通の研修で行われた講演を一冊の本にしたようだ。
 どういうことかと言えば、当時富士通では四十五歳以上の社員は通称“四十五歳研修”を必ず受けなければならないらしく、それは元会長の命令らしい。趣旨は富士通の社員はコンピューター関連では優秀であるが、教養に欠けるところがある。だからもう少し文学、絵画、演劇、音楽、宗教等教養を深める必要があるということでこの研修が必修となったらしい。そして文学を担当したのが阿刀田さんである。
 ここでは堅苦しい文学講義をされたわけではなく、あくまでも教養という範囲内の話がされている。要は本をどう読めばいいのかということで、テキストにされたのが以下の作品である。

芥川龍之介 『羅生門』、『藪の中』
柴田翔 『中国人の恋人』
遠藤周作 『深い河』
阿刀田高 『新約聖書を知っていますか』
松本清張 『ゼロの焦点』
吉本ばなな 『キッチン』
大江健三郎 『飼育』
安部公房 『砂の女』
井上靖 『楼蘭』

 このうち『羅生門』、『藪の中』、『深い河』、『ゼロの焦点』、『砂の女』、『楼蘭』は読んだことがある。中でも『深い河』の阿刀田さんの解説では、「この小説には、遠藤周作自身が感じたであろうこと、すなわち、遠藤周作のように幼い頃からキリスト教の中にあった人であってもなおヨーロッパ人が考えているキリスト教に入ってゆくのはむつかしい部分があるという現実が非常に巧みに書かれていると思いました」という部分は私もそう感じたのであった。大津という神父を目指す人間が苦悶しつつ、日本人にとってキリスト教とは何かを問い続けた姿を見ると、まさしく阿刀田さんが感じた通りだ。
 あと井上靖さんの『楼蘭』も“あっ、そうか!”と思った。そこには「普通の小説では、事実を先に置いて、このような事実がありました。これはこういう事情だったでしょう、というふうなスタイルが多いのですが、この小説は全く逆の作り方で、不確かな王妃様の死の事情を先に置いて、最後にヘディンの発見という事実を示して、前の王妃の物語に現実性を持たせています」とある。確かにそうだ。そしてもう一つ井上さん作品で『敦煌』も同じスタイルだったんじゃなかったかなと思った次第だ。

 ここで面白いと思ったことを書く。大江健三郎さんの作品は難解だと阿刀田さんは言う。読みにくいとも言う。でもサラリーマンの読書として、大江さんの作品を難解だと言って途中で投げ出したってかまわないと言ってくれる。要は自分に合わない本なら、止めちゃたって、一向にかまわない。だって学者や学生の研究のために読書をしている訳じゃないのだからと言うのだ。読書を楽しみなさいというところだろう。私もこの意見には大賛成だ。ただ難解だといって一向にページが進まないのは悔しい部分はあるけれど。
 もう一つ面白いと思ったことはワープロに対する阿刀田さんの意見である。この本は阿刀田さんの作品紹介が最初にあって、その後質疑応答がある。この質疑応答は講義の内容に限定せず、文学に対する、あるいは小説家に対する富士通の社員の疑問点を受け付けている。
 そこで阿刀田さんが小説を書くに当たり何を使って書かれているかという質問がある。阿刀田さんは鉛筆で書かれていると言うが、昨今ワープロで文章を書かれる作家も数多くいることにふれ、ワープロを使うことで問題点を指摘する。曰く、「たとえば、ある言葉を求めると、頻度の高い言葉がいくつか並んで画面に出てくる。その中から選択するようになっている。頻度の高い言葉というのは、過去の統計から見て割り出されたもの」である。でも創作というのは「創造的な言語の使い方」が必要であって、それが欠けてしまうのではないか。
 曰く、「文学の研究の分野から言ってワープロ時代になると、生の原稿を基にして、作家の思考プロセスを判読する方法がなくなってしまう」。つまり生原稿の書き直し、書き加えは、どういう経緯でそういう文章になったかを読み取れるというのだ。
 さらに、ワープロで作品を書いているからか、最近の新人さんの小説は長いという。また主人公の名前が以前なら手で書くため字画が少ない名前だったのだが、ここのところ手間のかかる、例えば“麗子”なんて使うと言う。これは笑った。さもありなんと思った。手書きだったら絶対に“麗子”という名前は使わないだろう。やはりこれはワープロがなせるワザだろう。
 最近読めない漢字の読み方の本が売れているらしいが、そこに書かれている漢字って普段使うものなのだろうか思う。特にテレビの雑学クイズ番組でやっている小難しい漢字をどう読むかなど、それが読めたからっていったいどうなるというのだろうかと思う。そんな漢字普段使わないでしょ。大方の人が読めないなら使わない方がいい。読めなきゃ意味が通じないはずだ。だったらひらがなで十分だ。ひらがな文章も結構美しいものである。文章は伝達手段であり、漢字はその文章を構成するひとつの記号である。もちろん漢字は表意文字だから、漢字そのものに深い意味が込められることも理解しているけれど、それが読めなきゃ意味がない。
 最近はブログなどの普及によって一億総文章家的なところがあるけれど、そこに書かれるいかにもワープロが変換してくれましたという漢字がずらりと並ぶ文章を見ると腹が立ってくる。難しい漢字を書けばそれが格調のある文章だと勘違いしている。そう思うことがよくある。


評価
★★


書誌
書名:日曜日の読書
著者:阿刀田 高
ISBN:9784938711436
出版社:富士通経営研修所 (1996/01/25 出版)
版型:286p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2009年06月10日

アガサ・クリスティー著『カーテン』

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 さあ~て、これで用意したクリスティーの作品は最後になる。副題にもあるようにこれはポアロの最後の事件である。舞台はポアロがデビューしたスタイル荘である。
 妻を亡くしたポアロの友人であるヘイスティングスにポアロから手紙が届く。今スタイル荘にいるから来ないかと。ヘイスティングスは一年以上ポアロと会っていなかったから、その誘いに乗る。そしてポアロにあってその姿に愕然とする。

 「老齢による惨めさほどいたましいものはないと思う。
 気の毒な友。いままで私は彼の風貌をいくどとなく描いてきた。いまはただ昔と違ったところだけを述べよう。関節炎のため立居もままならず、どこに行くのも車椅子の厄介にならなければならない。かつてはまるまると肥っていたからだも、すっかり肉が落ちてしまった。痩せ衰えた小柄な男に変わっている」

 そう、ポアロは以前のダンディーなポアロでなかった。しかしからだは痩せ衰えて、車椅子のお世話になっていても、あの“灰色の脳細胞”は健在であった。
 そこでヘイスティングスは5件の殺人事件の資料をポアロから見せられる。どの事件も被告または容疑者が問題の犯罪を犯したことは明白な事件で、それぞれが単独で関連性は見出せない事件であった。
 しかしポアロはこの一見関連性のないつの5つの事件が容疑者Xによって引き起こされた事件であり、その真犯人である容疑者Xは今このスタイル荘にいるのだという。スタイル荘は現在旅館になっており、その宿泊客の中に真犯人がいるというのだ。ポアロは車椅子の世話になっているので、ヘイスティングスにポアロの手足となって動いてもらいたくここに呼び寄せたという。
 ここにはヘイスティングスの娘も来ていた。フランクリンという科学者の助手として働いていた。ヘイスティングスはこの娘の動向が気になって仕方がなく、ジュディスに忠告をするのだが、いい年の娘がいつまでも親の言うことなど聞くもんじゃない。だんだん不安になるヘイスティングスは娘を拐かす男を殺害しようと行動をとってしまう。(それはポアロによって防がれたのだが)
 そして事件が起こる。このスタイル荘の新しい持ち主となったジョージ・ラトレルが妻のデイジーを誤ってライフルで撃ってしまう。幸い急所を外れ、事なきを得たのだが、次にフランクリンの妻が毒を飲んで自殺する。
 ここでもそれぞれの事件には関連性は見出せないのだが、事件を起こすの人間を唆す人間がいたのだ。つまり直接手は下さないが、言葉巧みに、不安や心配を増長させ、事件を起こさせる。そして人が死ぬ。スタイル荘以前の5つの事件で唆すことで殺人事件が起こせることを知ったXは快感を覚え、ここスタイル荘でも同じ手口で事件を起こしたのだ。そしてヘイスティングスも危うくその手口に乗るところであった。
 ポアロは容疑者Xの正体を知っていた。しかしXの犯罪は完全犯罪であり、証明のしようがない。だからこれ以上の殺人を防ぐためにはXを殺すしかない。そしてポアロはXを殺す。ポアロはその後睡眠薬を多量に飲んで自殺する。

 文末の解説によると、『カーテン』は1975年に発表され、エルキュール・ポアロはこの『カーテン』事件で最後に帰らぬ人となる。そして、この作品が発表された直後に、アガサ・クリスティーも不帰の客となる。事実上、『カーテン』が遺作同然の作品となった。

 しかしポアロはXを殺すしかなかったのだろうかと思う。スタイル荘以前の5つの事件、そしてここスタイル荘で起こった事件の真相を告発することができたんじゃないだろうか。“殺人教唆”という言葉もあるくらいだから、それだけでも充分犯人を挙げることができたんじゃないだろうかと思った。このあたり多少無理を感じたんだけどね。


評価
★★★


書誌
書名:カーテン―ポアロ最後の事件
著者:アガサ・クリスティー 中村 能三【訳】
ISBN:9784151300332
出版社:早川書房 (2004/11/30 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:364p / 16cm
販売価:672円(税込)

2009年06月08日

東海林さだお著『キャベツの丸かじり』

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 また休みになったので、東海林さだおさんのシリーズ本第二弾を読む。やっぱり昔懐かしいものが気にかかる。「追憶の『ワタナベのジュースの素』」である。ありましたよね。「ワタナベジュースの素」というやつ。文字通りジュースの素が粉末状態になって袋に入ったやつ。オレンジジュースなんか飲んだ記憶がある。しかし今にして思うと、あの粉末には本当にオレンジが入っていたんだろうか?サッカリンたっぷりで、なんか化学物質いっぱいで、、最後に粉っぽい感じが記憶に残っている。でも私が子供の頃は今でいう清涼飲料水といえばワタナベジュースの素が代表格だった。思わず“懐かしい~”と言ってしまう。
 ここにも書いてあったが「プラッシー」というのもありました。どういう訳か米屋がダースでケースで持ってきた。なんで米屋だったのだろうか?あれは果肉が浮いていたはずだ。
 米屋といえば、正月ののし餅も米屋が配達してくれて、暮れ押し迫った頃、まだ柔らかい餅を母親が立てて、すーっと切っていったのを思い出す。いったいいつの頃から餅は袋に一口サイズに切って入るようになったんだろうか?思うに、お米を米屋ではなく、スーパーで買うようになった頃から、お餅もそうした袋入りに切り替わったのかもしれない。
 配達されたばかりののし餅(確か木の箱に入っていなかったかな?)を新聞紙の上に置いて、すーっと切っていく感じが面白そうに見えて、自分のもやらして欲しいと騒いだような気がする。やってみるとまっすぐ切れず、斜めに包丁が入ってしまい、変形した餅がいくつもできた。餅を切りやすくするために、濡らしたふきんが横に置いてあり、一度切ると包丁の刃をそのふきんで拭いて、多少湿らせて、再度切り込みを入れていく。あれはあれでちょっとした風物詩だった気がする。
 「懐かしののり弁」では今ホカ弁で売っているようなのり弁ではなく、弁当のご飯の上に醤油につけたのりがのっていて、しかもその下にも同じようにある。つまりのりが二段になっているのである。あの一番上にのっかっているのりが、弁当箱を開いたときにふたにひっついてしまい、醤油がしみたご飯だけになってしまうこともよくあった。それを元に戻したりしてね・・・。ふたを開ければぷ~んと醤油のにおいが漂っていいもんであった。しかしいつも早弁で食べてしまったから、昼は昼で、外でパンを買いに行ったりした。
 その弁当箱を包んでいたのは私の場合新聞紙であった。角の方で醤油がしみ出てしまい、破れてしまう。みんなはちゃんと弁当箱を包むやつで弁当箱を包んであった。私は自分のが新聞紙で包んであるのが、何か貧乏くさくて嫌で仕方がなかった。(実際貧乏だった)母親に弁当を包むナプキンみたいなやつで包んでくれと何度か頼んだけれど、がんとして母親は新聞紙で弁当を包み通した。
 だけど今思えばあの弁当はおいしかったなぁ。今その味を再現しろといってもなかなか難しいんじゃないかなんて思う。
 先月の31日は母親の祥月命日だったのをすっかり忘れてしまい、かみさんに怒られたのだけれど、こうした東海林さんの文章を読んで、ふと母親の姿を思い出した。


評価
★★


書誌
書名:キャベツの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022559548
出版社:朝日新聞社 (1989/01/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

2009年06月07日

アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』

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 またクリスティーの本に戻る。もともとアガサ・クリスティーの本を読もうと思ったきっかけは、作者の名前は知っているけれど、その作品をほとんど読んだことがないという理由で、それじゃまずいだろうと思い、代表作だけでも読んでおこうと思ったのがきっかけである。それでクリスティーの本はこれで4冊目となり、あと1冊読んでみようと準備している。
 で、今回の作品。
 イギリスのインディアン島という孤島にさまざまな職業の10人の男女が招かれる。招待状を出したのはオーエンという人物。しかしこの人物は最後まで姿を現さない。そのうち島は嵐になり、この10人はここから抜け出すことができなくなる。
 晩餐の時、謎の声がその10人の男女の過去に犯した罪を告発する。彼らの部屋には古い童謡が納まった額があった。

十人のインディアンの少年が食事に出かけた
一人がのどをつまらせて、九人になった

九人のインディアンの少年がおそくまで起きていた
一人が寝すごして、八人なった

八人のインディアンの少年がデヴォンを旅していた
一人がそこに残って、七人なった

七人インディアンの少年が薪を割っていた
一人が自分を真っ二つ割って、六人なった

六人のインディアンの少年が蜂の巣をいたずらしていた
蜂が一人を刺して、五人なった

五人のインディアンの少年が法律に夢中になった
一人が大法院に入って、四人になった

四人のインディアンの少年が海に出かけた
一人が燻製のにしんにのまれ、三人なった

三人のインディアンの少年が動物園を歩いていた
大熊が一人を抱きしめ、二人になった

二人のインディアンの少年が日向に座った
一人が陽に焼かれて、一人なった

一人のインディアンの少年が後に残された
彼は首をくくり、後には誰もいなくなった

 殺人はこの童話にあるような形でおこなわれた。食堂のテーブルには10個のインディアン人形があったが、一人殺されるたびに一個減っていくのであった。

 島に残った男女はその数が減っていくと、目の前にいる人間が殺人者ではないかと疑心暗鬼になっていく。それが最後の二人となると二人のうちどちらかが殺人者ということになるが、残った一人も首をくくって死んでしまう。その後つるされたロープの下にあった台がきちんと片付けられていた。ということはこの島にはこの10人の男女以外に誰かいたことになるのか。しかし残された男女はこの孤島をくまなく捜索していて、彼ら以外誰もいなかったのである。
 みんなが死んでしまうと、誰が犯人なのか?最後に首をくくったヴェラ・クレイソーンも過去に人を殺している。彼女がこの島でおこなわれた殺人の犯人ではない。彼女は明らかに錯乱し、自殺したのだ。

 この話は最後の「漁船『エマ・ジェーン』号の船長からロンドン警視庁に送られた告白書」という章で、真犯人が明かされる。犯人は自分がおこなった完全犯罪を自慢したくて事件の真相書いた文章をボトルに入れ、海に流した。それを拾った漁師によって、この事件の真相が明らかにされるという仕組みになっている。
 思わずう~ん、やられたと思った。しかしよく考えてみれば、10人の男女の過去に犯した罪を簡単に明らかにすることができる人物は誰であったかを考えれば、必然的に犯人はわかるはずであった。

 Wikipediaによると、「原書名はTen Little Niggers、直訳すると「10人の小さな黒んぼ」という意味で、マザー・グースの1曲Ten Little Nigger Boysから採られている。nigger(ニガー)は差別的なニュアンスの言葉であり、アメリカで刊行されたときはこれを考慮して、Ten Little Indians(10人の小さなインディアン)となり、後にAnd Then There Were None(そして誰もいなくなった)となった」とある。
 なるほどこれがマザーグースを使ったミステリーなのかと、初めて知る。


評価
★★★


書誌
書名:そして誰もいなくなった
著者:アガサ・クリスティー 清水 俊二【訳】
ISBN:9784151300806
出版社:早川書房 (2003/10/15 出版)ハヤカワ文庫―クリスティー文庫
版型:367p / 16cm
販売価:714円(税込)

2009年06月03日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第3巻〉

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 須賀敦子さんの文庫本全集三巻目を手に取る。須賀さんの本を読むにはそれなりに覚悟が私には必要で、じっくり読むぞという意識を持って読まないと挫折してしまう感じがする。要するにそれだけ私には須賀さんの書かれる文章が難解なのである。イタリアを中心にしたヨーロッパの作家たちの作品をここでは紹介してくれるのだが、大体において私の知らない作家たちであり、作品である。だからそうした作品を須賀さん自身、“思考の旅”として、様々な考えなり、感想をここで綴られると同時に、実際にゆかりの地を旅され、その“思考の旅”に肉付けしていく手法をここではとられる。
 読む側の私は、ふ~ん、こんな作家がいるんだと思いつつ、なんとかここに書かれている文章を自分なりに理解していくうちに、読んでみたいなと思うのだ。ただ一方できっと最後まで読むことはできないんじゃないかとも思う。それほどここに書かれる作品は奥が深そうである。
 たとえばマグリット・ユルスナールという女性作家の『ハドリアヌス帝の回想』など読んでみたいと思うのだけれど、多分かなり手こずりそうとも思える。
 例のよって読んでいて気になった文章を引っ張り出す。すると偶然かどうかわからないが、“信仰”を書かれたものがひっかかった。

 ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』で「神々はもはや無く、キリストはいまだ出ず、人間がひとりで立っていたまたとない時間」、『黒の過程』では「正統な学問がめざした<神という解答がすべての究極に待ちうけている>道を拒否すること」

 「マーティン・ルターのプロテスタンティズムは、それまで共同体のようなものであった祈りを個のものにしようとした人たちの、劇的で苦悩にみちた選択だった。(略)共同体によって唱和されることがなくなったとき、祈りは、特定のリズムも韻も、その他の形式も必要としなくなるから、韻文を捨てて、散文が主流を占めるようになる。散文は論理を離れるわけにはいかないから、人々はそのことに疲れはてて、祈りの代用品とし、呪文を捜すことがあるのかもしれない」

 どうしてこれらの文章が気になったかというと、多分キリスト教がなかった時代は、例えば阿刀田さんのギリシア神話の概説書を読んでいると、きわめて人間的だなと感じるところにある。キリスト教の信仰はあれもダメ、これもダメ、と人間の生活規範を縛り続けたんじゃないかなと思うことがあったからだ。
 史実として中世においてがんじがらめにヨーロッパ人の生活全般に普及したとき、今度はそこからの解放が行われる。すなわちルネサンス、宗教改革である。
 ところが、いったん縛られてしまった生活規範は共同体の主要な構成要素となっていたから、そこからの解放は、「個であることの心細さ」を生む。また個の存在を主張したとき、ここにあるように、共同体で唱和されていた祈りである韻文から、散文が主流になり、“文学”が生まれる。散文は論理的であることが求められるから、“科学”も生まれていく。そんなことを思ったのだ。

 あと気になった文章を書き出してみる。


 「人も物も、<生身>であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないないかという考えが、小さな実生のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別の生命への移行をなしとげてあたらしい<物体>に変身したもの、それが廃墟かもしれない」

 「でも、もう、ちょっと指をはさんだり、ページを繰ったりされることのなくなった本たちは、とっくに死んでいるのが、私には痛いほどわかった。本は、それを蒐めた人間のいのちの長さだけ、生きるのだから」

 「日常に背をむけてしかもその日常を背おいながら文学に入る瞬間の、あのうしろめたさやはにかみのようなもの」

 「日はしずかに暮れていった。庭の木立の最後の蝉が鳴きやむころ、だれかが明かりをともすと、家に夜が来た」


 「ここに、じっとしていれば、じっと待っていれば、いいんだ」

 「日本語の『笑い』には、どこやら人間性を放棄したところでの、ちょっとよっぱらいの笑いのような、知性の領域をわざとはずしたところがあるのかもしれない」

 須賀さんの書かれる文章を徹底的に理解するのは私には難しいので、こうして書かれた言葉の余韻を楽しんでいる。ここから何か自分の中で生まれるのを楽しみにして・・・・。


評価
★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第3巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420530
出版社:河出書房新社 (2007/11/20 出版)河出文庫
版型:639p / 15cm / A6判
販売価:1,155円(税込)

2009年06月01日

東海林さだお著『タコの丸かじり』

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 気がついてみたらこの「丸かじり」シリーズも現在29冊も出版されている。そして現在も週刊朝日の「あれも食いたいこれも食いたい」というコラムが続いているので、おそらくまだまだこのシリーズは続くのだろう。
 私は東海林さだおさんが書かれるエッセイは大好きで、昔から楽しみに読んできた。いろいろな体験を漫画家の視点で、庶民的におもしろおかしく書かれる。時にはサラリーマンのオジサンたちの生態を「そうだよな、こんな姿よく見かけるよなぁ」と、バカにしたり、あるいは自分にふと置き換えちゃったりして、反省したりする。
 特に食べ物に関しての“こだわり”、“いじましさ”は何とも言えず好きで、その描写を読むと大笑いしてしまう。そしてそういう姿は結構まちなかのオジサンたちによく見かける光景で、このように描写されちゃうと、「ちょとまずいなぁ」と思うのだ。
 とにかく本を読んでいて笑ってしまうのは、見た目あまりよくない。特に電車の中でだと笑いをこらえるのに苦労する。そのため東海林さんの本は持ち歩けないのだ。このシリーズも全シリーズ持っているのだが、どこまで読んだろうか?そういう事情もあって、本当は読みたいのだけれど、読めずにいて、いつの間にかシリーズは揃えているのだけれど、読んでいないという状態になっていた。
 で、ふと思い立ったのだ。週末二日ある休みのうち、一日をこのシリーズを読むことにすればいいいいじゃんと。ちょっとした“箸休め”だ。しかもこの程度のページ数なら一日で読める。
 どこまで読んだか覚えていないので、最初から読むことにした。まずはこの本である。もう出版されて20年以上経っちゃっていることに少々呆然とするが、やっぱり面白い。

 「激突!30倍カレー」は辛さ30倍のカレーを食べるところ。このカレーを食べれば「まず、入り口の口中あたりに被害が出て、咽喉、食道、胃、腸、直腸、と、各地に被害をもたらしながら、身体下部後方に抜け出ていくことになるだろう」と予想し、「世間一般の風評では、なかでも『下部後方』の被害が大きい」と書く。
 実際食べて「アヒ、アヒ」と口を開け、「ホレハ、ドーモ、ハフガニ、フゴイ」(これは、どうもさすがにすごい)などと言って「ミフ、ミフ」(水、水)となる。30倍のカレーを食べればこういう言い方になるだろうなぁと笑ってしまった。そうなのだ東海林さだおさんの表現方法がバカらしいけれど面白いのだ。

 「『おいしい』ってどんな味」では、東海林さんがテレビのグルメ番組でタレントが何を食べても「おいしい」としか言えないことに怒りを表す。怒りのため、テーブルをたたくのだ。思わず「バカか、こいつは」(あ、いや、違った。このお方は)と思う。「あのねえ」とも思う。
 あるいは「うん、まったりとして、何とも言えない味がしておいしい」、「うん、口の中でふわーっとして、何とも言えずおいしい」としか言わない「まったり男」と「ふわっと女」が氾濫しているとも言う。確かにそうだ。何を食べてもおいしいとか言えないボキャブラリーの貧困なタレントを起用しているグルメ番組多すぎるのは今でも変わらない。あるいはちょっと何か言うかといえば、「まったり」とか、「ふわっと」としか言えない程度の頭の持ち主が多い。東海林さんじゃないが見ていてだんだん腹が立ってくる。
 テレビの制作者は味を表現するのは難しいからしょうがないんだという記事を読んだ東海林さんは次のように反論する。
 「この人は自分の職業を何と心得ているんだろう。
  例えば、営業課の課長が、注文をひとつも取ってこない自分の営業マンに、
 『注文取るのはむずかしいから、注文取ってこなくても、しょうがないんだよねー』
 と言っているのと同じではないだろうか。
 あるいは何を食べても「おいしい」とか言えないのは、道ばたで石ころを拾って、「あ、これは石ころですね」と行っているのと同じであると言うが、まさしくその通りだ。

 「ナゾの季節物、冷やし中華」では冷やし中華に関するナゾを追求する。(こんなことどうでもいいんだけれど、言われれば確かに不思議だ。何故ラーメン屋で時期になると「冷やし中華始めました」の張り紙をするのか。そして“始めました”と店頭に張り紙をするなら、当然“やめました”という張り紙があってもいいのに、そんな張り紙を見たことがないこと。
 同じ季節物でも日本そば屋では「冷や麦、そうめん始めました」という張り紙はないのに、何故冷やし中華はいちいち始めたことを知らせるのか?そして冷やし中華にかかっている液体はタレなのかスープなのかつゆなのかわからないこと。
 確かに言われれば不思議だと思っちゃうね。

 「どこへ行ったか『かき氷』」では最近昔食べたかき氷を見かけないことが書かれている。店のショーケースのサンプルを見るとゴテゴテ厚化粧のフラッペ風のものが“かき氷”として並べてある。これを見て、東海林さんは「昔好きだった女性に久しぶりに会ったら、夜の女になっていた、という感慨を覚える」とたとえる。うまいことを言うもんだ。
 確かに私の子供の頃は冬は鯛焼き、今川焼きをやっているお店が夏になるとかき氷をやるといった、今思えばどんな店だったんだろうと思うお店でかき氷を食べていた。あるいは駄菓子屋でも食べた記憶がある。ばあさんが指の部分を切り落とした汚い軍手をして、モナカの皮にかき氷をのせて、その上に少々のシロップをかけてくれた。
 どこの店でも、このシロップが少なかった。だから家でかき氷をやったときは、反動で大量のシロップをかけて、死んだおふくろによく怒られたものだ。それで思い出したんだけれどカルピスにもそうだった。原液を多めに入れ濃いめのカルピスを作って、これも怒られた。
 ここにはかき氷にささったスプーンを取り出すのに苦労したことも書かれているけれど、氷を崩さずにスプーンを抜くのは大変だったぁと思い出した。東海林さんのエッセイには忘れていた昔の些細なことを思い出させてくれるところが所々あって、それが懐かしいのだが、一方そんなことをいつまでも覚えているのも案外すごいことなんじゃないかと思う。


評価
★★★


書誌
書名:タコの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022558459
出版社:朝日新聞社 (1988/06/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可