2009年06月01日

東海林さだお著『タコの丸かじり』

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 気がついてみたらこの「丸かじり」シリーズも現在29冊も出版されている。そして現在も週刊朝日の「あれも食いたいこれも食いたい」というコラムが続いているので、おそらくまだまだこのシリーズは続くのだろう。
 私は東海林さだおさんが書かれるエッセイは大好きで、昔から楽しみに読んできた。いろいろな体験を漫画家の視点で、庶民的におもしろおかしく書かれる。時にはサラリーマンのオジサンたちの生態を「そうだよな、こんな姿よく見かけるよなぁ」と、バカにしたり、あるいは自分にふと置き換えちゃったりして、反省したりする。
 特に食べ物に関しての“こだわり”、“いじましさ”は何とも言えず好きで、その描写を読むと大笑いしてしまう。そしてそういう姿は結構まちなかのオジサンたちによく見かける光景で、このように描写されちゃうと、「ちょとまずいなぁ」と思うのだ。
 とにかく本を読んでいて笑ってしまうのは、見た目あまりよくない。特に電車の中でだと笑いをこらえるのに苦労する。そのため東海林さんの本は持ち歩けないのだ。このシリーズも全シリーズ持っているのだが、どこまで読んだろうか?そういう事情もあって、本当は読みたいのだけれど、読めずにいて、いつの間にかシリーズは揃えているのだけれど、読んでいないという状態になっていた。
 で、ふと思い立ったのだ。週末二日ある休みのうち、一日をこのシリーズを読むことにすればいいいいじゃんと。ちょっとした“箸休め”だ。しかもこの程度のページ数なら一日で読める。
 どこまで読んだか覚えていないので、最初から読むことにした。まずはこの本である。もう出版されて20年以上経っちゃっていることに少々呆然とするが、やっぱり面白い。

 「激突!30倍カレー」は辛さ30倍のカレーを食べるところ。このカレーを食べれば「まず、入り口の口中あたりに被害が出て、咽喉、食道、胃、腸、直腸、と、各地に被害をもたらしながら、身体下部後方に抜け出ていくことになるだろう」と予想し、「世間一般の風評では、なかでも『下部後方』の被害が大きい」と書く。
 実際食べて「アヒ、アヒ」と口を開け、「ホレハ、ドーモ、ハフガニ、フゴイ」(これは、どうもさすがにすごい)などと言って「ミフ、ミフ」(水、水)となる。30倍のカレーを食べればこういう言い方になるだろうなぁと笑ってしまった。そうなのだ東海林さだおさんの表現方法がバカらしいけれど面白いのだ。

 「『おいしい』ってどんな味」では、東海林さんがテレビのグルメ番組でタレントが何を食べても「おいしい」としか言えないことに怒りを表す。怒りのため、テーブルをたたくのだ。思わず「バカか、こいつは」(あ、いや、違った。このお方は)と思う。「あのねえ」とも思う。
 あるいは「うん、まったりとして、何とも言えない味がしておいしい」、「うん、口の中でふわーっとして、何とも言えずおいしい」としか言わない「まったり男」と「ふわっと女」が氾濫しているとも言う。確かにそうだ。何を食べてもおいしいとか言えないボキャブラリーの貧困なタレントを起用しているグルメ番組多すぎるのは今でも変わらない。あるいはちょっと何か言うかといえば、「まったり」とか、「ふわっと」としか言えない程度の頭の持ち主が多い。東海林さんじゃないが見ていてだんだん腹が立ってくる。
 テレビの制作者は味を表現するのは難しいからしょうがないんだという記事を読んだ東海林さんは次のように反論する。
 「この人は自分の職業を何と心得ているんだろう。
  例えば、営業課の課長が、注文をひとつも取ってこない自分の営業マンに、
 『注文取るのはむずかしいから、注文取ってこなくても、しょうがないんだよねー』
 と言っているのと同じではないだろうか。
 あるいは何を食べても「おいしい」とか言えないのは、道ばたで石ころを拾って、「あ、これは石ころですね」と行っているのと同じであると言うが、まさしくその通りだ。

 「ナゾの季節物、冷やし中華」では冷やし中華に関するナゾを追求する。(こんなことどうでもいいんだけれど、言われれば確かに不思議だ。何故ラーメン屋で時期になると「冷やし中華始めました」の張り紙をするのか。そして“始めました”と店頭に張り紙をするなら、当然“やめました”という張り紙があってもいいのに、そんな張り紙を見たことがないこと。
 同じ季節物でも日本そば屋では「冷や麦、そうめん始めました」という張り紙はないのに、何故冷やし中華はいちいち始めたことを知らせるのか?そして冷やし中華にかかっている液体はタレなのかスープなのかつゆなのかわからないこと。
 確かに言われれば不思議だと思っちゃうね。

 「どこへ行ったか『かき氷』」では最近昔食べたかき氷を見かけないことが書かれている。店のショーケースのサンプルを見るとゴテゴテ厚化粧のフラッペ風のものが“かき氷”として並べてある。これを見て、東海林さんは「昔好きだった女性に久しぶりに会ったら、夜の女になっていた、という感慨を覚える」とたとえる。うまいことを言うもんだ。
 確かに私の子供の頃は冬は鯛焼き、今川焼きをやっているお店が夏になるとかき氷をやるといった、今思えばどんな店だったんだろうと思うお店でかき氷を食べていた。あるいは駄菓子屋でも食べた記憶がある。ばあさんが指の部分を切り落とした汚い軍手をして、モナカの皮にかき氷をのせて、その上に少々のシロップをかけてくれた。
 どこの店でも、このシロップが少なかった。だから家でかき氷をやったときは、反動で大量のシロップをかけて、死んだおふくろによく怒られたものだ。それで思い出したんだけれどカルピスにもそうだった。原液を多めに入れ濃いめのカルピスを作って、これも怒られた。
 ここにはかき氷にささったスプーンを取り出すのに苦労したことも書かれているけれど、氷を崩さずにスプーンを抜くのは大変だったぁと思い出した。東海林さんのエッセイには忘れていた昔の些細なことを思い出させてくれるところが所々あって、それが懐かしいのだが、一方そんなことをいつまでも覚えているのも案外すごいことなんじゃないかと思う。


評価
★★★


書誌
書名:タコの丸かじり
著者:東海林 さだお
ISBN:9784022558459
出版社:朝日新聞社 (1988/06/30 出版)
版型:217p / 19cm
販売価:入手不可

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