2009年06月12日
阿刀田高著『日曜日の読書』
この本昔新潮文庫で出ていた。今は目録を見るとないようなので、品切れ重版未定の状態なんだろう。で、私は親本をたまたまブックオフで見つけた。富士通経営研修所という聞いたことのない出版社から出ている。どうしてこんな出版社から阿刀田さんの本が出ているんだろうと思いつつ、はしがきを読んでみると、どうやらこのエッセイは講演集であり、もともと富士通の研修で行われた講演を一冊の本にしたようだ。
どういうことかと言えば、当時富士通では四十五歳以上の社員は通称“四十五歳研修”を必ず受けなければならないらしく、それは元会長の命令らしい。趣旨は富士通の社員はコンピューター関連では優秀であるが、教養に欠けるところがある。だからもう少し文学、絵画、演劇、音楽、宗教等教養を深める必要があるということでこの研修が必修となったらしい。そして文学を担当したのが阿刀田さんである。
ここでは堅苦しい文学講義をされたわけではなく、あくまでも教養という範囲内の話がされている。要は本をどう読めばいいのかということで、テキストにされたのが以下の作品である。
芥川龍之介 『羅生門』、『藪の中』
柴田翔 『中国人の恋人』
遠藤周作 『深い河』
阿刀田高 『新約聖書を知っていますか』
松本清張 『ゼロの焦点』
吉本ばなな 『キッチン』
大江健三郎 『飼育』
安部公房 『砂の女』
井上靖 『楼蘭』
このうち『羅生門』、『藪の中』、『深い河』、『ゼロの焦点』、『砂の女』、『楼蘭』は読んだことがある。中でも『深い河』の阿刀田さんの解説では、「この小説には、遠藤周作自身が感じたであろうこと、すなわち、遠藤周作のように幼い頃からキリスト教の中にあった人であってもなおヨーロッパ人が考えているキリスト教に入ってゆくのはむつかしい部分があるという現実が非常に巧みに書かれていると思いました」という部分は私もそう感じたのであった。大津という神父を目指す人間が苦悶しつつ、日本人にとってキリスト教とは何かを問い続けた姿を見ると、まさしく阿刀田さんが感じた通りだ。
あと井上靖さんの『楼蘭』も“あっ、そうか!”と思った。そこには「普通の小説では、事実を先に置いて、このような事実がありました。これはこういう事情だったでしょう、というふうなスタイルが多いのですが、この小説は全く逆の作り方で、不確かな王妃様の死の事情を先に置いて、最後にヘディンの発見という事実を示して、前の王妃の物語に現実性を持たせています」とある。確かにそうだ。そしてもう一つ井上さん作品で『敦煌』も同じスタイルだったんじゃなかったかなと思った次第だ。
ここで面白いと思ったことを書く。大江健三郎さんの作品は難解だと阿刀田さんは言う。読みにくいとも言う。でもサラリーマンの読書として、大江さんの作品を難解だと言って途中で投げ出したってかまわないと言ってくれる。要は自分に合わない本なら、止めちゃたって、一向にかまわない。だって学者や学生の研究のために読書をしている訳じゃないのだからと言うのだ。読書を楽しみなさいというところだろう。私もこの意見には大賛成だ。ただ難解だといって一向にページが進まないのは悔しい部分はあるけれど。
もう一つ面白いと思ったことはワープロに対する阿刀田さんの意見である。この本は阿刀田さんの作品紹介が最初にあって、その後質疑応答がある。この質疑応答は講義の内容に限定せず、文学に対する、あるいは小説家に対する富士通の社員の疑問点を受け付けている。
そこで阿刀田さんが小説を書くに当たり何を使って書かれているかという質問がある。阿刀田さんは鉛筆で書かれていると言うが、昨今ワープロで文章を書かれる作家も数多くいることにふれ、ワープロを使うことで問題点を指摘する。曰く、「たとえば、ある言葉を求めると、頻度の高い言葉がいくつか並んで画面に出てくる。その中から選択するようになっている。頻度の高い言葉というのは、過去の統計から見て割り出されたもの」である。でも創作というのは「創造的な言語の使い方」が必要であって、それが欠けてしまうのではないか。
曰く、「文学の研究の分野から言ってワープロ時代になると、生の原稿を基にして、作家の思考プロセスを判読する方法がなくなってしまう」。つまり生原稿の書き直し、書き加えは、どういう経緯でそういう文章になったかを読み取れるというのだ。
さらに、ワープロで作品を書いているからか、最近の新人さんの小説は長いという。また主人公の名前が以前なら手で書くため字画が少ない名前だったのだが、ここのところ手間のかかる、例えば“麗子”なんて使うと言う。これは笑った。さもありなんと思った。手書きだったら絶対に“麗子”という名前は使わないだろう。やはりこれはワープロがなせるワザだろう。
最近読めない漢字の読み方の本が売れているらしいが、そこに書かれている漢字って普段使うものなのだろうか思う。特にテレビの雑学クイズ番組でやっている小難しい漢字をどう読むかなど、それが読めたからっていったいどうなるというのだろうかと思う。そんな漢字普段使わないでしょ。大方の人が読めないなら使わない方がいい。読めなきゃ意味が通じないはずだ。だったらひらがなで十分だ。ひらがな文章も結構美しいものである。文章は伝達手段であり、漢字はその文章を構成するひとつの記号である。もちろん漢字は表意文字だから、漢字そのものに深い意味が込められることも理解しているけれど、それが読めなきゃ意味がない。
最近はブログなどの普及によって一億総文章家的なところがあるけれど、そこに書かれるいかにもワープロが変換してくれましたという漢字がずらりと並ぶ文章を見ると腹が立ってくる。難しい漢字を書けばそれが格調のある文章だと勘違いしている。そう思うことがよくある。
評価
★★
書誌
書名:日曜日の読書
著者:阿刀田 高
ISBN:9784938711436
出版社:富士通経営研修所 (1996/01/25 出版)
版型:286p / 19cm / B6判
販売価:入手不可
- by kmoto
- at 17:13
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