2009年06月25日
清瀬闊著『「お玉ヶ池」散策』
お玉ヶ池の種痘所が気になってしょうがない。それでネットで調べていたら、この本がヒットした。なんか面白そうと思い読んでみる。
この本は文章の素人が書いたためか、主語が省略されていたり、句点で文章をつなげすぎていて、やたら長い文章となっていて、時に何が言いたいのかわからなくなる悪文であった。でもそこに書かれている内容は、私が疑問と思っていたことをほとんど解消してくれた。また新しい発見があって、「へぇ~、そうなんだ」と感心できて、楽しかった。
まずは私が疑問と感じていたことは、お玉ヶ池のことだ。その池はどこにあり、どんな様子だったんだろうということ。そしてそこに建てられた種痘所がどういう経緯で作られ、その後どう変遷していったのか、そのあたりを知りたかった。
著者はお玉ヶ池がどこにあったかを、角川書店発行の『日本地名大辞典』を引いて、「千代田区神田岩本町、神田東松下町、神田須田町二丁目一帯にあった池沼」だと書いている。
何とお玉ヶ池は私がいつも乗り降りしている岩本町近辺にあったのである。岩本町二丁目あたりにその史跡がある。
お玉ヶ池はその昔「桜が池」と呼ばれるほどの名所だったそうで、そこで器量よしで、美人のお玉が茶屋をやっていた。
そのうち二人の若い男に言い寄られ、お玉はどっちにしていいかわからず、とうとう池に身を投げてしまったことから、この池を「お玉ヶ池」と言うようになったらしい。ただこの池身を投げられるほどの深さがある池ではなかったようで、あくまでも言い伝えである。
もちろん現在はその形跡すらない。というか、そもそも大きさの割には深い池ではなかったようで、家康が江戸に来る頃にはたいぶ干上がっていたみたいだ。詳しいことは「江戸の原型と神田川の流路」というサイトを見て頂きたい。
http://poco.cool.ne.jp/kanndagawa/kandagawa-mukasi/kanndagawamukasi.htm
これを見ると1590年より昔では、上野の不忍池とお玉ヶ池が一つの川でつながっていたことがわかる。(しかしこの頃の江戸の地形は今とだいぶ違っており、日比谷あたりは入り江になっていたことを知らされる)そして神田川ができてからは、完全にお玉ヶ池はなくなってしまっている。著者はこのお玉ヶ池がどうしてなくなってしまったのかくどいくらい考察しているが、要は江戸時代住む土地がなくて、完全に埋め立てられてしまったみたいだ。
さてこの種痘所の話に入る前に、日本における種痘の歴史をこの本で知り得たことを書いてみる。
種痘とは、天然痘の予防接種のことである。イギリスの医師エドワード・ジェンナーが、牛飼いの乳搾りの女性が「痘瘡」に罹らないことをヒントにして、1796年牛の天然痘である牛痘の膿を接種する、より安全な牛痘法を考案し、以後ヨーロッパ各地に広がった。ちなみに牛のことをラテン語でvaccaといい、それにちなんでvaccine(ワクチン)というようになったそうである。
“安全な”というのは、例えば日本では症状の軽い天然痘患者の瘡蓋を粉末にしてラッパ状のものを使って鼻孔より吹き込み免疫を作る方法が1790年秋月藩の藩医だった緒方春朔によって行われていた。これは成功する場合もあるが、逆に天然痘に罹患してしまう危険性もあったと言う意味で“安全な”と言っている。
ジェンナーが発見した方法で、日本で初めて種痘を行ったのは、佐賀藩の医師・楢林宗健という人で、1849年長崎で行なったのが最初とされているらしい。
ただ教科書的には、日本で最初に種痘を行ったのが楢林宗健となっているが、実はそうではないらしい。中川五郎治という人物が最初だという。
五郎治は択捉島にいた。その五郎治はロシアに拉致され、その後ロシアにおいて種痘を受けた。さらにロシアで医師の助手となって種痘法を習得した。紆余曲折があるが、五郎治はとにかく日本に帰国する。その五郎治が文政五年(七年という説もある)田中正右偉門の娘に施したのが本邦初の種痘術であるという。まぁ最初は誰かなんて個人的にはどうでもいいのだけれど、とにかくそういうことらしい。
次にお玉ヶ池の種痘所の話である。種痘の重要性を感じた、江戸の蘭方医は、伊藤玄朴、大槻俊齋らが呼びかけてお金を出し合い神田松枝町元誓願寺前の川路聖謨の拝領地に種痘所を作ったのがお玉ヶ池の種痘所である。
このお玉ヶ池の種痘所の歴史が面白い。実はこのお玉ヶ池の種痘所が東京大学医学部の発祥となるのである。
お玉ヶ池に作られた種痘所は最初「私立お玉ヶ池種痘所」としてスタートした。もちろん種痘所は牛痘接種普及を目的で作られたが、別の側面として蘭方医の集会所でもあった。
ところが設立半年後火事で焼失してしまう。その後しばらくの間、伊藤玄朴の家などで業務を続けたが、翌年種痘所は、下谷和泉橋通りに移転した。移転後「官立お玉ヶ池種痘所」となる。
この下谷和泉橋通りがどこなのか、それが今度私の知りたいこととなる。その答えが、この本で、今私がいる事務所の近所である三井記念病院だということがわかった。それを知ったときは、へぇ~ここなんだ!とちょっと感動した。
さて、官立お玉ヶ池種痘所がどう変遷していったのか。まず、最初の呼びかけをした大槻俊齋はすでに死去していたので大阪より緒方洪庵を招き初代頭取に任命し、文久元年(1861年)「西洋医学所」と改称される。そして文久3年にはただの「医学所」と改称される。
戊辰戦争の負傷者治療するためにそれまで横浜と浅草にあった診療所をまとめ、この地に「東京府大病院」を作り、明治二年(1869年)に種痘所から名を変えた医学所と合併し、「医学校兼病院」と改称される。同年12月には「大学東校」と名を変える。(よく名前を変えるんだな、これが・・・)さらに、「大学東校」から「東校」へ、「東校」から「第一大学区医学校」へ、「第一大学区医学校」が「東京医学校」へ改称される。この東京医学校が本郷に移転し、東京大学医学部となるのである。
以上変遷をたどると、お玉ヶ池の種痘所が東大医学部の発祥となるわけだ。それを考えると、お玉ヶ池の種痘所は、日本の近代医学史の大本だったことを知らされる。
一時下谷に借りていた第二医学院も和泉町に来て、「医科大学第二医院」となる。その後「医科大学第二医院」は「東京帝国大学第二病院」と改称される。ただ明治三十四年に火事にあい、その後再建されず、この地は空き地となり、運動場となっていた。
その空き地に今の三井記念病院である三井慈善病院が設立された。その経緯は次の通りである。
明治三十六年(1903年)に東京市長尾崎行雄が施療病院の計画をし、それを聞いた三井八郎右衛門・高棟が十万円の寄付をして賛同の意を表す。しかし当時日露戦争の疲弊でその計画が一向に実現する様子がない。仕方がないので高棟は自力で病院を作ることを決意する。三井家より基金百万円を基に、和泉町にあった東京帝国大学第二病院跡地を払い下げを受け、明治四十二年三月に開院した。
三井慈善病院という名の通り、この病院は生活困窮者を対象とし、患者の診察費、入院費は無料で行われた。その上診察内容は高度であったので、受診者が殺到したという。生活困窮者を対象としいたため、一般の人は受診できなかったので、病院の前に粗末な衣裳を貸し出す貸衣装屋があったという笑い話が残っているらしい。著者は三井記念病院で内科部長、副院長を務められた人で、この経緯は詳しく書かれている。
また和泉町と言えば、関東大震災で奇跡的に焼け残った地域で、それでも震災時に上野公園へ病院スタッフや患者が避難する記録は著者だから得られた記録だろう。読んでみるとかなりなまなましい。一部のスタッフは病院に残り消火活動をするが、町内の人々もバケツリレーをして懸命な消火活動した。またたまたま近所にあった民間会社のガソリンポンプによる下水水利を得ての放水し、和泉町は震災による火災から免れた。現在「関東大震災協力防災の地碑」が和泉小学校の脇にある。
そもそも神田和泉町は旧藤堂和泉守高虎(弘治二年~寛永七年、1556~1630年)の屋敷跡で、この地には医療関係の史跡がお玉ヶ池の種痘所以外にもいくつかある。
近くには漢方医の医学校、躋寿館(せいじゅかん)もあった。場所は佐久間町二丁目から四丁目にかかる二千余坪、旧浅草天文台跡地(現在の清洲橋通りをはさんで和泉町の東側、外神田四丁目十四)である。
東京衛生試験所もこの地にあった。もともとは明治七年(1874年)に「東京司薬場」の名称で 医薬品試験機関として発足し、医薬品の品質管理行っていた。日本で最も古い国立試験研究機関である。ここにも記念碑があり、次のように書かれている。
国立衛生試験所は, わが国最初の国営の医薬品試験研究機関, 東京司薬場として, 明治7年(1874年)3月、 現在の中央区日本橋馬喰町に発足し同年8月この地、 千代田区神田和泉町2番地で本格的業務を開始した。 昭和20年(1945年)3月の東京大空襲に罹災するまでの70年あまり、 医薬品を主とする日本の厚生行政に多大な貢献をしてきた。 現在は、 世田谷区上用賀において引き続き研究業務を行っている。
本年, 創立120周年を迎えここに記念碑を設置するものである。
平成6年11月建立 国立衛生試験所
東都病院もこの地にあった。東都病院とは斎藤紀一が開業した(斎藤茂吉は斎藤紀一の養子。北杜夫は茂吉の次男)が明治二十四年(1891年)に浅草区東三筋町に浅草病院を開業したが、ここが繁盛したので和泉町に東都病院を作った。この本によると、この病院の入院費はかなり高額だったらしい。現在当時のレンガの一部が坪井医院の入り口に残されている。
私はこの和泉町にある会社でずっと働いている。だからこの和泉町の歴史、特に医療関係の歴史にずっと興味を持っていた。今回この本でかなりのことがはっきりわかったので、その点だけでもこの本を読んでよかった思っている。
評価
★★★
書誌
書名:「お玉ヶ池」散策―お玉ヶ池種痘所と三井記念病院周辺余話
著者:清瀬 闊
ISBN:9784895143127
出版社:中央公論事業出版 (2008/12/01 出版)
版型:242p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)
- by kmoto
- at 12:54
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