2009年07月31日

ジャック・ジョーンズ著『ジョン・レノンを殺した男』〈上〉〈下〉

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 この本は映画『チャプター27』の原案本である。訳者のあとがきによると、映画の方はこの本の上巻前半部分を使い、ジョン・レノン殺害にいたる3日間のマーク・デイヴィッド・チャップマンの行動に焦点を絞ったものだという。

 1980年12月8日、ニューヨーク・マンハッタン、ダコタハウスの前で、ジョン・レノンが5発の銃弾を浴びて殺害された。


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 犯人は世界一のジョン・レノンファンを自称するマーク・デイヴィッド・チャップマンであった。犯行の瞬間、彼が手にしていたのは、一丁の拳銃と『ライ麦畑でつかまえて』だった。


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 この本を読みたいと思ったのは、何故マーク・デイヴィッド・チャップマンはジョン・レノンを殺害しなければならなかったのか。それが知りたかった。確かにチャップマンが自分の心の中の“闇”を語る部分は興味深かったが、しかし読んでいるうちにだんだん吐き気を催すほどの怒りが私の中に生まれてくるのであった。
 それは自分が好きであったビートルズのメンバーであったジョン・レノンを殺したというファン意識からではなく、チャップマンが単に“ちやほやして欲しい”だけであって、そこには自己中心的で、被害妄想の塊であり、逃避癖がある人間でしかないことの怒りであった。彼は自分のすることにいつでも“正統性”を求めるだけの人間でしかなく、自己の中にある矛盾から自家中毒を起こしているだけの人間でもあった。そしてターゲットにされたのがチャップマンが子供の頃に憧れたビートルズであり、ジョン・レノンだったのである。
 チャップマンはビートルズというものが単なるミュージシャンであることをやめて、何百万ドルという規模の金を動かす一大事業になりはじめ、愛と平和をめぐる無垢の歌を自分たち個人の富と権力を求める堕落した強大な事業のために利用したと思い込んでいた。 それを偽善と考えたのである。チャップマンはそうした偽善がさまざまな問題の根源であり、さらに深刻なことにそうした偽善こそが自らの苦痛の原因にもなっているとチャップマンは考えていたのであった。
 チャップマンの友人が「マークがジョン・レノンの『イマジン』をあれは共産主義者の歌だと言っていたのをぼくは覚えています」と証言しているし、「そして、ビートルズがキリストより人気があるというあのレノンの発言には、彼は本当に頭に来てましたね」とも言っている。
 実際チャップマンが「天国もない宗教もない世界を想像してみろ」というレノンのメッセージが神への冒涜だとして『イマジン』を罰する抗議運動に参加していたし、彼はときには週に何度も宗派の祈祷集会やデモ行進に参加して、自らレノンの歌『イマジン』の預言めいた歌詞をつけて「ジョン・レノンが死んだと想ってごらん」と替え歌にして歌っていた。
 まぁこういうギャップに対して腹を立てるほど純粋だったと言えば言えそうだけど、そういうのっていつでも、どこでもある。現実は理想とは違うのだ。そのくらい分かれよと言いたくなる。

 しかし私がこのチャップマンに吐き気を催すほど怒るのは、そういうことじゃない。自分のやったことの正統性を主張するところが腹ただしいのだ。例えば何故ジョン・レノンを殺害に至ったのか、その説明を次のように言う。

 チャップマンは「自分が二十五歳の大人の男だが、いまだに子供の感受性を持っている」と言う。もっと彼の言うことを詳しく書くと、次のようになる。

 マーク・デイヴィッド・チャップマンは当時25歳という大人とホールデン・コールフィールド(サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)と同じ16歳の子供の内面を持っていたと言う。そしてジョン・レノンを殺したのはレノンが自分のヒーローであったその子供であるというのである。

 子供は自分の新しいおもちゃで遊びます。ところが、ある日、その新しいおもちゃを片づけようとして箱を開けると、もう何年も昔に遊んだおもちゃが出てきました。かつては自分のヒーローでしたが、いまはその面影もありません。子供はそれを見せかけの大人、偽りの大人に見せました。彼は言いました。「見てくれ!ぼくのおもちゃだったのに何だ、このザマは!」そして彼は癇癪を破裂させるのです。
 そして大人はなすべきことを知ったのです。大人には銃の知識がありました。飛行機の乗り方も知っています。お金を手に入れる方法も知っています。そうやって大人と子供はある種共謀をしたのです。自分のアイドルに対する子供の苛立ちと憤り。それは変わり果てたおもちゃに対するものでした。

「ダメだ!ダメだ!ダメだ!ダメだ。ぼくはヤツを殺したいんだ。ヤツをブッ殺してやりたいんだ。ヤツはぼくのものだ!ぼくはヤツの命が欲しいんだ!」

 ぼくは彼の背中に狙いを定めました。引き金を五回引きました。するともう頭の中は堰を切ったような状態になってしまいました。
 さらに「ぼくは自分がとてつもなくつまらない人間だという気がしていました。ですから、出かけていってその惨たらしい行為をすることで世の中がぼくを何者かにしてくれるのだというのは、ぼくにとっては、ひじょうに魅力的なことだったのです」と言うのである。
 つまり彼はジョン・レノンを殺害することで、人に相手にされない人間から、ジョン・レノンを殺した人間としてまた生まれ変わったとしてひとかどの人間(somebody)になれたことに満足するのである。
 というのも彼は絶えず人から自分の存在を認めて欲しいという願望が強かった。人にとって自分は意味ある存在であることいつも求めた。そこに自己満足を見出していた。
 実際彼はハイスクールを卒業した1973年からコヴェナント・カレッジに入学する1976年までの間、チャップマンはYMCAの国際的な特使として中東を旅し、歴代のふたりのアメリカ大統領と握手を交わしている。彼はまたジョージアでの恵まれない子供たち相手の仕事やヴェトナム戦争による難民のための仕事を評価される栄誉に浴している。レバノンのベイルートでは自分のいるすぐ近くの街路で勃発した内乱のさなかから生き還ってきた。それがチャップマンの栄光の時代でもあった。
 そういう体験をなまじしているものだから、いったんそうしたところから落ちてしまうと、こういう人間は弱い。何せ他人を通してしか自己を見出せないのだから。彼はその後精神的に病み、自らを次のように言うのだ。

 「ぼくは自分のいろんな問題から逃げて、自分を孤立させるという大きな過ちを犯してしまいました。
 自分を世界から切り離してしまうと、自分独自の世界を作り出さなきゃならなくなります。ぼくがやったのは、それだったんです。ぼくは自分の世界を編み出したのです。自分自身の中に引きこもり、もはや生きていく理由すらなくなってしまいました。ぼくはどんどん外の世界を遮断して、閉じこもり、パラノイアになっていきました。ますます敏感になり、傷つきやすくなっていきました。人間嫌いになりはじめ、みんなを軽蔑するようになりました」

 その時彼がやったことはけちくさい脅迫電話や、自分の妻に暴力を振ることだけだった。他人には何もできない人間であった。所詮その程度の人間なのである。後はそういう気持がどんどん鬱積しさえすれば、大きな力となり、あと何かの力が後押ししてくれれば大事件となる。彼の場合はジョン・レノン殺害であった。

 さらに腹立たしいのは、ジョン・レノン殺害に自ら怯えるに当たり、今度は自分が愛読してきたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の普及を自分の裁判で主張することで、罪悪感に対処していくのである。この本はいい本だから是非皆さん読んでくださいねとひたすら言うことが自分の使命と思い、自分が感じる怖れや罪悪感とすり替えていくのである。自らを「ライ麦畑の補導員」と称するのである。
 ちなみに『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドは、今でいう“おちこぼれ”で、学校の寮を飛び出し実家に帰るまでニューヨークを3日間ぶらぶらする話なのだが、自らの夢を「自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい」と語り、それがこの作品の主題ともなっている。チャップマンはホールデン・コールフィールドが語る夢の人を「ライ麦畑の補導員」と言っているのだ。

 こうしてこの男は自分を美化し、問題をすり替えて行く生き方しかできなかった。そういう人間だったのである。またそういう人間に限って被害妄想が激しいときているからたちが悪い。そして彼らを精神病者に仕立てていく輩がいるのである。精神鑑定家ってやつだ。何でも加害者の生い立ちや育ってきた家庭環境などに原因を求めるのだ。そしていつの間にか責任をどこかに吹っ飛ばしてしまうのだ。
 この本の下巻はそういう話でいっぱいである。チャップマンの育った家庭環境や生い立ちからジョン・レノンの殺害に結びつく何かを捜そうとするのは結構だけれど、私から言わせれば「だから?」と言いたくなる。むしろジョン・レノンのファンから出されたチャップマンへの手紙に「娑婆に出てきたら殺すぞ」という意見の方が、私としては自然のように思えるのだ。

 チャップマンは20年から終身刑の判決を受けていて、現在も釈放されていない。2008年8月12日、5度目の仮釈放申請を却下されている。ニューヨーク州当局の声明文によると、仮釈放は「公共の安全と福祉に与える影響を懸念して」認められなかったと言っている。


評価
★★


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈上〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055134
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:332p / 15cm / A6判
販売価:749円(税込)


書誌
書名:ジョン・レノンを殺した男〈下〉
著者:ジャック・ジョーンズ 堤 雅久【訳】
ISBN:9784594055141
出版社:扶桑社 (2007/11/30 出版)扶桑社ミステリー
版型:370p / 15cm / A6判
販売価:800円(税込)

2009年07月29日

村上春樹著『遠い太鼓』

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 この本は買ってからすぐ読んだはずである。しかしこれといって記憶に残っているものがなく、自分の本棚を見ていて、村上さんがギリシア、イタリアに滞在されていた頃のことが書かれていたんだと思い再度手に取った。
 村上さんは1986年から1989年の3年間に、ギリシア、イタリアで過ごす。この時村上さんは『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』の長編を書くためにここに来ている。つまり観光ではなく、あくまでも小説の執筆のためこの地に来ていたのである。だから私が期待する紀行文とは少々趣を異にする。もともと村上さんは自ら「だいたい僕は遺跡というものに興味がないのだ」と言っているので、そうした観光を期待していると裏切られる。
 例えばアテネ。村上さんはアテネを次のように書く。

 アテネといえば人口三百万を数えるギリシャ随一の都会(これは実にギリシャの総人口の三分の一近くに相当する)ではあるけれど、観光客が通常動きまわるエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない。たいていの歴史的遺物は歩いて行ける距離にあるし、ごく控えめに言っても三日あれば目ぼしいものは全部見て回ることができる。この街は大昔ポリスのまわりに、まるで磁石に鉄屑がくっつくように近郊住宅が付着して、そのまま無定見にぼわぼわと発展したような都市だから、観光客にとって興味ある場所ははっきりと中心部に限られているのである。だって近郊住宅地部分なんか見にいったってしかたがないから(たとえばあなたが東京に来た外人観光客だとして、ひばりヶ丘だとか多摩プラーザだとか西国分寺だとかわざわざ観光に行きますか?)普通の人はアクロポリスに登って、プラーカでレッツィーナを飲んでムサカを食べて、町をぶらぶら歩いて、土産物屋をのぞいて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカビスト山からアテネの夜景を見て、その後時間と興味のある人は国立考古学博物館を見物して、それでおしまいである。

 と素っ気ない。

 ただイタリアの“いい加減さ”が面白く書かれる。特にローマでの生活事情は日本とはかなり異なるため、読んでいてやはり呆れてしまう。村上さんの友人が「なにしろローマって二千年がかりで腐敗しつづけているような都市だからね、腐敗にも年季がはいっているんだ」というくらいだから、並大抵のことじゃないみたいだ。
 ローマの駐車事情もかなりひどいようだ。路上駐車は当たり前。少しでもスペースがあればなんとかしてそのスペース車を入れる。もちろんぶつけたってまったく気にしない。そもそもバンパーなんていうものはぶつけるためにあるもんだと考えている。二重駐車なんていうのも日常茶飯事みたいだ。
 つまり駐車場がローマにはないのだ。「どうして存在しないかというと、まずだいいちに街そのものが狭いからである。狭い上に、建築物の規制が厳しいから、現代的な駐車用のビルなんて建てることができない。街中の建物はほとんどが歴史的建築物みたいなもので、言うまでもないことだが、歴史的建築物にはもともとガレージなんてついていない。
 それから地下を掘り下げて駐車場を作ろうとしても、これがなかなか作れない。少し地面を掘るとすぐ何かの遺跡が出てくるからである」らしい。

 なるほど!

 また泥棒にも頻繁にあう。観光ガイドブックには「注意しなさい」と書かれているけれど、それは「世界の何処でも同様である」、「常識を働かせればいいのです」くらいのアドバイスではすまない町みたいだ。「ここではどれだけ注意しても、どれだけ常識を働かせても、それを越えた災難がちゃんとふりかかってくるのだ」という。「私は断固『冗談言っちゃいけない』と思う」と言い切る。タクシーだって料金をかなりぼるみたいだ。
 私はイタリアにはあこがれるけれど、今もこんな状況だと勘弁して欲しいなと思う。そういえば以前読んだ井上ひさしさんのイタリア紀行文にも、空港に着いたとたん旅行バッグを盗まれたことが書いてあったから、状況はそう変わっていないのかもしれない。
 泥棒やスリなどに注意しながら暮らす生活は疲れるし健全じゃないと言う村上さんの言葉はまさにその通りだと思うので、なんとかならないのかなと思う。もっともこれがすべてではあるまい。真っ当なイタリア人だっているはずだし、この本ではそういう人たちのこともちゃんと書かれている。
 そうした人たちを通して、村上さんがいたイタリア人とギリシア人との比較論が面白かった。

 僕の見聞したかぎりではギリシャ人というのは比較的混乱しやすいタイプの人種である。なんとかうまく物事をこなそうという意志はあるのだけれど、すこし事態が込みってくると収拾がつかなくなって混乱し、ある場合には怒り始める。またある場合には落ち込んでしまう。こういう点ではイタリア人と正反対である。イタリア人は始めから物事をうまく処理しようという意志が希薄なので、それがうまくいかなくても殆ど混乱しない。

 へぇ~そうなんだ!

 この本を再度読み直して感じたことはこの程度なので、結局昔読んでそのままにしてあると記憶に残らなくてもしかたがなかったかなと思った次第だ。


評価
★★


書誌
書名:遠い太鼓
著者:村上 春樹
ISBN:9784062033633
出版社:講談社 (1990/06/25 出版)
版型:497p / 21cm / A5判
販売価:1,890円(税込)

2009年07月22日

村上春樹著『もし僕らのことばがウィスキ-であったなら』

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 最近ヨーロッパのどこに行きたいかと聞かれたら、アイルランドとギリシアとイタリアと答えるような気がする。大学時代なら間違いなくドイツ、特にバルト海に面した地域だったのだが、何故か今は当時の興味はない。
 特にアイルランド、J.M.シングの『アラン島』に描かれた景色を見てみたい。自然の荒々しさを間近に感じたい。その過酷な自然の中で生活している人々を見てみたいと思うのだ。わずかな土を大切に運び、強い風で飛ばされないように石垣を作り、作物を作っている姿を見てみたいと思う。妥協のない敬虔な祈りを捧げるカトリック世界を感じたい。よくそう思うのだ。
 そういう気分で自分の本棚を眺めてみると、村上さんの紀行文にこのスコットランド、アイルランドの紀行文とギリシア、イタリアの紀行文があるのを見つける。ギリシアの方は読んでいるのだが、当時はギリシア、イタリアにあまり興味がなかったためか、あるいは村上さんの本が記憶に残らないところがあるためか、とにかく内容がどんなものか覚えていない。ちょうど今ハルキフリークの状態なので、この2冊を読むことにする。手始めにこの本だ。

 この本はスコットランドとアイルランドでシングルモルトのウィスキーを飲みに行く旅である。私はお酒がほとんど飲めないので、ウィスキーに詳しくないのだが、それでも奥様の撮られた写真がいい雰囲気を出している。パブと前足を揃えた猫の写真がいい。猫の写真を見たとき、思わず指で頭をなでてしまった。
 昔本屋でアルバイトを始めたとき、先輩に新橋のパブに連れて行ってもらったことがある。もちろんパブなんて行ったのは初めてである。薄暗い店内のカウンターに座ったと思う。ウィスキーの瓶を逆さに吊してあって、そこからウィスキーをグラスに注ぐ。初めてバランタインを飲んだ。何年ものか忘れちゃったけれど、グラスにわずかに注がれ、大きな氷が溶けて、ウィスキーの琥珀色が氷が溶けた水になじむのが目に見えて不思議な感覚であった。当時は何でこんな少ししかウィスキーを入れてくれないのだろうと疑問に思っていたくらい、何も知らない時であったが、それでも店の雰囲気は今でも記憶に残っている。多分アイルランドでのパブもこんな感じなんだろうなんて思った。
 この先輩は私をいろいろなところに連れて行ってくれたが、連れて行ってくれたお店はみんないい雰囲気の店であったような気がする。薄暗く、騒がしくない、落ち着いてお酒が飲め、話ができた。今でもできるなら当時連れて行ってくれたお店に行ってみたいなという思いに駆られるけど、場所もわからないし、お店だってあるかどうかわからない。だってもう30年近くたっているから。でも私の中で静かにお酒を飲むなら(そんなに飲めないけど)、当時連れて行ってくれたお店であって欲しいと思う。今はやりのショットバーは狭く、やかましくてしかたがない。(いいところへ行っていないんじゃないのと言われればそうかもしれないけど・・・)
 本の中に、よれよれの背広を着てパブのカンターに座り、ポケットから一杯分のコインを正確に出し、バーテンダーが逆さに吊したボトルからシングルモルトのウィスキーをグラスに注ぎ、出されたお金を数えることなく取る。バーテンダーも男も一言も発しない。しかし男は出されたウィスキーをゆっくり飲む。村上さんはその男を見て次のように書く。

 老人はウィスキー・グラスを手に取り、静かに口に運んだ。水で割らなかった。チェーサーもとらなかった。店の中はひどくにぎやかだったのだけれど、それはほとんど気にならないようだった。多くの人がやるように、カウンターにもたれたまま後ろを振り向いて、店内をぐるりと見回したりもしなかった。そこに存在しているのは、彼と、彼の手の中にあるウィスキーだけだった。もしそのパブに彼以外にだれ一人客がいなかったとしても、おそらくまったく気にならなかったに違いない。
 見たところ、彼は話し相手や顔見知りの仲間を求めてこのパブに来ているわけではないようだった。というか、顔見知りの仲間というようなものがいるのかどうかさえあやしいものだった。でもひとつだけ、確信を持って僕に断言できることがあった。それは彼が完全にくつろいでいるということだった。こんなにくつろいでいる人を見かける機会は、長い人生の中であまりないだろう-と言えるくらいくつろいでいた。

 この手の話、なんか以前別の作家の本で読んだことがある。誰だったか忘れてしまったけれど。でもいい感じだなと思った。


評価
★★★


書誌
書名:もし僕らのことばがウィスキ-であったなら
著者:村上 春樹
ISBN:9784582829419
出版社:平凡社 (1999/12 出版)
版型:119p / 20cm / B6判
販売価:1,470円(税込)

2009年07月20日

村上春樹著『海辺のカフカ』〈上〉〈下〉

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 村上さんの本を一度読み出すと絶対にはまってしまうことはわかっていた。そしてその不可解なストーリーに魅了され、呆然とし、精神的に疲れて、その読感をどう書いていいのかわからずにいることも。
 15歳の誕生日に家出をして、「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意した「僕」と、知事さんにホジョをもらいながら生活しつつ、猫と話すことができることから迷子の猫を探す副職で小遣いを稼いでいたナカタさんの物語が交互に進む。そしてこの二人は四国でクロスし、二つの物語はやがて「入り口の石」に近づいてゆく。

 まぁここまでは何とか大まかに話の展開をまとめることができるが、それ以降どう考えたらいいのかかなり迷う。でも、一つこの物語を考える上で参考になることがある。たとえばナカタさんが猫と話すときのこと。

 「そうです。ナカタと申します。猫さん、あなたは?」
 「名前は忘れた」と黒猫は言った。「まったくなかったわけじゃないんだが、途中からそんなもの必要なくなってしまったもんだから、忘れた」
 「それでは猫さんのことをオオツカさんと呼んでよろしいでしょうか?」
 「なんだい、それは?どうしてオレが・・・・オオツカなんだい?」
 「いいえ、たいした意味はありません。ナカタが今ふと思いついただけであります。名前がないと覚えるのに困りますので、適当な名前をつけただけであります。名前があるとなにかと便利なのであります」
 「よくわからないな。猫にはそんなの必要ない。匂いとかかたちとか、ただあるものを受け入れればいいだけだ。それで不自由ないね」

 「田村カフカというのが君の名前であれば、ということだけど」

 「わたしの名前はわかるだろうね?」
 「ウィスキーを嗜む人なら一目見てわかるんだが、まあよろしい。私の名前はジョニー・ウォーカーだ。ジョニー・ウォーカー。世間のだいたいの人は私のことを知っている。自慢するんじゃないが全地球的に有名なんだ。イコン的な有名さと言ってもいい」

 「ホシノちゃん」
 「あんたは-」
 「そうだ。サンダース大佐だ」
 「そっくりだ」
 「そっくりではない。わしがカーネル・サンダースだ」
 「そのフライド・チキンの」
 「そのとおり」
 「よう、しかしあんた、どうして俺の名前を知ってんの?」
 「わしは中日ドラゴンズのファンにはいつもホシノちゃんと呼びかけることにしている。たとえば何があろうと、巨人といえばナガシマ、中日といえばホシノじゃないか」

 「おじさんはほんとにカーネル・サンダースなの?」
 「ほんとは違う。とりあえずカーネル・サンダースのかっこうをしておるだけだ」
 「そうだと思ったよ」「それでおじさん、ほんとは何なんだよ?」
 「名前はない」
 「名前がないと困らないかい?」
 「困らん。もともと名前もないし、かたちもない」
 「屁みたいだね」
 「そう言えなくもない。かたちのないものだから何にでもなれる」
 「はあ」
 「とりあえず、カーネル・サンダースという、資本主義社会のイコンとでも言うべき、わかりやすいかたちをとっているだけだ。ミッキーマウスだってよかったんだが、ディズニーは肖像権についてうるさい。訴訟されるのはごめんだ」
 「まあ俺もあんまり、ミッキーマウスに女を紹介されたくないね」
 「まあそうだろうな」

 つまり問題となるのは“名前”である。人や物に名前や固有名詞が付加されることによって、人はそれをそれとしか思わなくなる。猫にオオツカさんという名前が付いたとたん、オオツカさんの個性がそこに植え付けられるし、田村カフカという名の少年はどこまで行ってもこの物語では田村カフカでなければならなくなる。ジョニー・ウォーカーにしてもカーネル・サンダースにしてもその名前が出てくれば、ウィスキーの名前であり、フライド・チキンの名前となる。中日ドラゴンズのファンはホシノである。一見名前を付けることによって、差別化し、その個性を浮きだたせるようであるが、その名前を付けられたとたんそれ以外であり得なくなる。そうすることで非個性化し、ただの代名詞となる。余計なものが不要なものとして、ただ単にそのものとなるのだ。それがわれわれの日常なのだ。それで世の中が回っていて、それ以外を受け入れなくて済むようなっている。
 しかしそれは誰も知っているだけの、単に一時的に付けられた名前や固有名詞であって、本当にそれ以外のものはないのだろうか?この物語はそうした日常当たり前の世界が実はちっとも当たり前でない世界の側面を持つのではないかということを教えてくれる。それらの名前の下に隠れた世界が実はどこでもあって、ただ付加された名前によって隠されてしまっている。そんなことを感じた。そこには真の姿があるときもある。それを表現するために村上さんはいつものようにたくさんのメタファーを使い、もう一つの別の世界を作り上げ、そこに登場人物を入れてしまう。田村カフカ君にしても、ナカタさんにしても。
 日常は決して現実的ではなく、非現実的な側面を本来持っている。隠れたものがある。隠れたものには時に暴力的で、残酷なことなどをあからさまにしてしまう部分があるのだけれど、単にその行為を言葉で表すと、その言葉でしかなくなる。
 だから自ら非日常の世界に入り込んで(それは森の中であったり、井戸の中であったりして)あるべき姿が見えるまで待つ。そうしているうちに真の意味が姿を現す。これが村上ワールドじゃないかなんて思っている。

 ところで先に読んだ『ねじまき鳥クロニクル』よりこの『海辺のカフカ』の方が私は好きである。前作は人の真の姿を追求することばかりであって、どこにも物語として救いがなかったからだ。今回はナカタさんやホシノくん、大島さん、そしてカーネル・サンダースと笑い提供してくれる分、楽しく読めた。
 たとえば大島さんは最高である。

 「実を言いますと、私たちの組織は女性としての立場から、日本全国の文化公共施設の設備、使いやすさ、アクセスの公平性などを実地調査しております」
 「それで結論からまず申し上げますと、この図書館には残念ながらいくつかの問題点が見受けられます」
 「つまりそれは女性的見地から見てということですね」
 「まずここには女性専用の洗面所がありません。そうですね?」
 「たとえ私立の施設とはいえ、パブリックに開放された図書館であれば、原則として、洗面所は男女別にされるべきではないでしょうか」
 「原則として」
 「残念ながら男女別の洗面所をつくるほどのスペースの余裕はありません。今のところ利用者から苦情は出ていません。幸か不幸か、うちの図書館はそれほど混雑しないのです。もしあなたがたが男女別の洗面所の問題を追及なさりたければ、シアトルのボーイング社に行かれて、ジャンボ・ジェットの洗面所について言及なさったらいかがでしょう。私ども図書館よりはジャンボ・ジェットのほうが遙かに大きいし、遙かに混雑していますし、私の知るところでは機内の洗面所はすべて男女兼用です」
 「私たちは今ここで交通機関の調査をしているわけじゃありません。どうしてジャンボ・ジェットの話が急に出てこなくてはならないのですか」
 「ジャンボ・ジェットの洗面所が男女兼用であることも、図書館の洗面所が男女兼用であることも、原則的に考えれば、生じる問題は同じじゃありませんか?」
 「私たちは個々の公共施設の設備の調査しています。原則の話するためにここに来たのではありません」
 「そうですか。僕はてっきり、我々は原則について語りあっていると思っていたんですが」

 「ただしこの図書館では、すべての分類において、男性の著者が女性の著者より先に来ています」
 「私たちの考えるところによれば、これは男女平等という原則に反し、公平性を欠いた処置です」
 「曽我さん」
 「学校で出欠をとられるときには、曽我さんは田中さんの前だし、関根さんのあとだったはずです。あなたはこのことに対して文句を言いましたか?たまには逆から呼んでくれと抗議しましたか?アルファベットのGは自分がFのあとになっているからといって腹をたてますか?本の68ページは自分が67ページのあとになっているからといって革命を起こしますか?」

 「いいですか、僕が申しあげたいのはこういことです-小さな町の小さな私立図書館にやってきて、あたりをくんくん嗅ぎまわって、洗面所の形態や閲覧カードあらを探しているような時間があれば、全国の女性の正当な権利の確保にとって有効なことは、ほかにいくらでもみつけられるはずだ、と。僕らはこのささやかな図書館を少しでも地域の役に立つものにするべく、全力を尽くしています。書物を愛する人々のために、優れた書物を集め提供しています。人間味あるサービスを心がけています。あなたはご存じないかもしれませんが、この図書館の、大正から昭和中期にかけての詩歌の研究資料のコレクションは、全国的にも高く評価されています。もちろん不備はあります。限界だってあります。しかし及ばずながら精一杯のことはやっているのです。僕らができないでいることを見るよりは、できていることのほうに目を向けてください。それがフェアネスというものではありませんか」

 ここまで言われても引き下がらない曽我さんたちに大島さんは最後に自分が性同一障害に悩む女性であることを公にする(これは私も驚いたけれど)。さすがにそうなると大島さんの言うことに引き下がらずを得なくなっていく。
 大島さんは想像力の足らない人間をいちいち相手にしていたら、身体がいくつあっても足らないことを田村カフカ君にわからせる。その上で、「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか-もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにここには入ってきてもらいたくない」と言い切る。これはある意味この本の重要なテーマかもしれないと思う。

 あと、なんと言ってもカーネル・サンダースとホシノちゃんとのやりとりは大笑いした。

 「実はな、石はこの神社の林の中にある」
 「<入り口の石>だよ」
 「そうだ。<入り口の石>だ」
 「おじさん、それってひょっとしていい加減なことを言っているんじゃないよね?」
 「何を言うか。たわけものものが。わしがこれまでひとつでも嘘をついたか?口からでまかせを言ったか?ぴちぴちのセックス・マシンだと言ったら、たしかにぴちぴちのセックス・マシンだったろうが。それも大出血サービス料金、1万5000円ぽっきりで厚かましく三回も射精しやがって、それでもまだ人のことを疑うか」

 「でもさ、この石っていちおう神様の持ちものでしょうが。勝手に持っていったらきっと怒られるよ」
 「神様ってなんだ?」「神様ってどんなことをしているんだ?」
 「おれはそういうこと、よく知らねえけどさ。でも神様は神様だよ。いたるところに神様はいて、俺たちがやることを見ていて、良いか悪いか判断するんだ」
 「それじゃまるでサッカーの審判員じゃないか」
 「そういう風に言えるかもしれない」
 「じゃあ何か、神様ってのは半ズボンをはいて、口に笛をくわえて、ロスタイムを計っておるのか?」
 「しつこいね、おじさんも」

 「いいか、ホシノちゃん。神様ってのは人の意識の中にしか存在しないんだ。とくにこの日本においては、良くも悪くも、神様ってのがあくまでも融通無碍なものなんだ。その証拠に戦争の前には神様だった天皇は、占領軍司令官ダグラス・マッカーサーから『もう神様であるのはよしなさい』という指示を受けて、『はい、もう私は普通の人間です』って言って、1946年以後神様ではなくなってしまった。日本の神様ってのは、それくらい調整のきくものなんだ。安物のパイプをくわえてサングラスをかけたアメリカ軍人にちょいと指示されただけでありかたが変わっちまう。それくらい超ポストモダンなものなんだ。いると思えばいる。いないと思えばいない。そんなもののことをいちいち気にすることはない」
 「はあ」

 「でもさ、あの女の人は本物だよね。キツネだとか、抽象なんとかだとか、そういう面倒なものじゃねえよな?」
 「キツネでもないし、抽象なんとかでもない。実物のセックス・マシンだ。混じりけなしの愛欲の四輪駆動だ。けっこう苦労してみつけてきたんだ。安心しなさい」
 「よかった」

 しかし星野君、なかなかいい味を出している。ナカタさんと関わるうちに内面から変化してくる。ナカタさんが字が読めない代わりに星野君が読んでやり、<入り口の石>を探し出してやったりするうちに、自分が正しい場所にいるという実感がわいてくる。それをたとえてお釈迦様やイエス・キリストの弟子になった連中もこんな気分だったじゃないかと感じる。教義とか真理とかむずかしいことを言う前に、その程度乗りだったのかもしれないと思うところは、何となくわかるような気がする。おそらく星野君の考える通りだったんじゃないかと思えてくる。
 ナカタさんとの珍道中で、いろいろな景色の見え方変わり、それまで面白いと思わなかった音楽が心に沁みるようになっていく。そんな星野君を見ているとなんかその変化が話の展開とともにうれしくなっていくのが自分でも感じた。


評価
★★★★


書誌
書名:海辺のカフカ〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534136
出版社:新潮社 (2002/09/10 出版)
版型:397p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)


書誌
書名:海辺のカフカ〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534143
出版社:新潮社 (2002/09/10 出版)
版型:429p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2009年07月14日

吉村昭著『関東大震災』

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 関東大震災の焼失図を見ると、東京市の大半が焦土をしめす朱色がべったりと塗りつけられている。が、その中に浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が焼失をまぬがれていたことがわかるが、殊に和泉町、佐久間町の地域が、広大な朱色の焼失地域の中で焼け残り地区を示す白地のままであるのがひどく奇異なものに映る。
 この一区画の焼け残りは、関東大震災の奇蹟とさえ言われた。

 和泉町、佐久間町の見事な焼け残りは、好条件に恵まれていたが、住民たちの努力によるものであった
 環境条件として、町の東北隅に内務省衛生試験所、三井慈善病院があって、それらが耐火構造建物であったので防火に有利であったことも幸いした。また北側には道路をへだてて三ツ輪研究所、郵便局、市村座劇場の煉瓦造りの建物が一列に並び、それらは後に焼けたが防火壁の役目を果たした。
 さらに南側は神田川で、対岸に煉瓦造りの建物が並び、その向う側には広い道路が走っていたので、火流を防ぐことも比較的容易であった。
 それに水道は杜絶したが、神田川と秋葉原貨物駅構内から神田川に通じるドッグがあって、水利に恵まれていたことも幸運だった。 しかし、住民たちが、四囲を完全に火に包まれた中で町内にとどまり、火と戦ったことは大きな賭であった。もし防火に失敗すれば、町内には炎がさかまき、全員焼死することが確実だった。
 最初に火が起ったのは和泉町三ツ輪研究所で、隣接の内務省衛生試験所等にも移ったが、水道の水が断たれていなかったので、住民たちはバケツ注水でこれを消しとめた。
 午後三時頃になると、本石町方面から火が迫り、神田川をへだてた地域と東龍閑町、豊島町一帯を西から東に焼きはらった。丁度佐久間町二、三、四丁目は、その大火災の風下にあたっていて、重大な危機におちいった。
 住民たちは、神田川の水を汲み上げ、極力消火につとめた。そのうちに民家に飛火して炎をふきはじめたが、住民は一致してこれを消しとめた。
 また他の一隊は、神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき、道路の南側で火流を阻止することに成功した。
 日が没し、町の周囲には大火災が乱れ合った。
 午後十一時頃、神田明神方面から猛火が津波のように轟々と音を立てて迫ってきた。その火炎は遂に佐久間町一丁目の一部を焼き、秋葉原駅構内をなめつくして和泉町の袂まで燃えてきた。
 そのままでは平河町が焼きつくされてしまうので、住民たちは死力をつくしてバケツの水を浴びせかけ、ようやく九月二日午前零時頃消しとめることができた。
 さらに朝五時頃、浅草左右衛門町、向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に及んだので、それに面した家屋を破壊し、西側に火が移るのを防止した。
 二十時間にわたる火との戦いで、住民たちの疲労は濃かった。足腰も立たずに座り込む者が多かったが、その日の午後三時頃、最大の火炎が浅草方面から和泉町目がけて襲ってきた。
 住民たちは、声をはげまし合い和泉町方面に集まった。少数の外神田警察署員をふくむ数百名の住民たちに、老人、婦人も加わり、あくまでも町を死守しようとかたい決意のもと大火炎の迫るのを待ちかまえた。
 その時、町内の帝国嘲筒(そくとう)株式会社にガソリン消防ポンプが一台あることが判明した。それは、同社が八月二十九日に完成し目黒消防署に納入予定のポンプであった。
 住民たちは、同社重役の快諾を得てポンプを借受け、まず火の迫る以前に同町の西側に注水した。
 やがて、火炎がすさまじい勢いでのしかかってきた。
 住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。
 火との戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食いとめることに成功した。その結果、千六百余戸の家々が東京市の焦土の中で焼け残ったのである。この奇蹟的ともいえる和泉町、佐久間町の焼け残りは、すべて住民の努力によるもので、消防署は防火活動に全く従事していない。

 長い引用をした。この大火災は関東大震災によるものである。

 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分四十四秒、東京市内に設置されていた中央気象台と本郷の東大地震学教室の地震計が突然生き物のように動き始めた。
 振動は、押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから十五、六秒後には想像を絶した激烈さまでたかまった。
 その瞬間、戦慄すべき現象が起った。中央気象台は明治九年以来地震観測をおこなっていたが、観測室におかれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊してしまった。
 地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動が始まった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに震動が激化すると同時に破損してしまっていた。

 地震発生時が午前十一時五十八分四十四秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭では竈、七輪等に火をおこして昼食の支度をし、町の飲食を業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。そこに大地震である。今よく言われる“グラッときたら火を消す”という余裕などなかった。倒壊した家では、圧死からのがれるだけで精一杯で、竈や七輪におこっていた火の上に木材や家財がのしかかり、たちまち火災が起った。
 その上、この日は風向が南又は南東で、風速は低気圧の影響を受け十メートルから十五メートルとかなり激しい日であったため、さらに火災が広がった。
 そしてこの本を改めて読んで知ったことなのだけれど、火災を引き起こした最大の原因が学校、試験所、研究所、工場、医院、薬局等にあった薬品類であった。それらが地震で棚等から落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校(三カ所)、富士見町の日本歯科医専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市ヶ谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部、同医学部薬学教室(四カ所)、同医学部外来患者診察室、麹町区の麹町高等小学校、芝区の慈恵会医科大学、小石川区の専修高等女学校、日本女子大学からそれぞれ出火した。

 震災で引き起こされた火災は東京中を焼きつくすのだが、奇跡的に焼け残った地域が私の会社のある神田和泉町であった。私は以前からこのことに興味を持っていて、何度か調べたこともある。だからここに長い引用を引いたのだ。ここが焼け残ったのは、確かに環境条件がよかった部分もあるけれど、ここに住まれる住民たちの努力があったからで、私の会社の先代の社長が書いた震災による消火活動の手記を読んだとき、初めてそのことを知ったのであった。


 【和泉町防火奮闘記】神田和泉町(故)持田光太郎
 関東大震災の翌日、大正12年9月2日午後3時ごろ、浅草方面からの猛火が和泉町に迫った。町と道路一つ隔てた凸版印刷は焼け落ち、市村座も燃え始めている。水道は断水し、井戸水はあったがバケツ以外に消火器具はなく、町内の青年たちは猛煙の空を仰ぐばかりだった。
 このとき、「そうだ。ポンプがある!」と父喜太郎(当時51歳)が叫び、近くの帝国ポンプ会社が目黒消防署に納入することになっていたガソリンポンプ車を、下水道局和泉町ポンプ場に、みんなで運んだ。そこの浄水プールを水源に、それぞれ100メートル近いホース2本を延ばし、筒先は佐々木高太郎さん(当時40歳)と私(当時26歳)が握った。
 「市村座の火を消せ!」、「町を守れ!」などの声が飛ぶなか、私は市村座前の道路を阻止線とするしかないと考えた。佐々木さんは六尺ふんどし、私は紺色の水兵服(軍艦「長門」の元乗組員だった。)を着て、駆け巡り、放水を続けた。やっと町への延焼を食い止めたのは、5時間後か、8時間後だったか、よくおぼえていない。
 ポンプ車といってもガソリンがなければ動かない。父は自転車で、自動車修理工場や自転車店をかけ回り、ガソリンを集めてきた。当時、東京市全体にポンプ自動車38台、水管自動車17台、手引水管車28台しかなく、神田地区には一台の余力もなかった。事実、「神田地区消防隊従事なし。」の記録がある。
 いま振り返ってみると、家族をみんな上野に避難させ、大人たちが心おきなく協力して活躍できたこと、町内から二か所出火したがすぐ消し止めたこと、南に神田川、北に広い庭のある三井慈善病院が自然の防壁になったこと、火勢のいくつかが旨く一角を避けたこと、しかしなんといってもあのポンプ車の威力がすごかったと思います。そして、あの時の父の存在も忘れられません。(『目でみる千代田区の歴史』 東京都千代田区教育委員会)


 さて、この震災で焼死者が一番多くあったのが本所区横網町にあった被服廠跡であった。ここは陸軍省被服廠の建物があった場所で、被服廠移転にともなって大正十一年三月逓信省と東京市に払い下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予定になっていた。
 二万四百三十坪余の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署員も同地に避難民を誘導した。そのため被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起って、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。
 これはすごい数字である。わずかな地域で東京の半分以上の死者をここで出してしまったのである。吉村さんは「関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい」と言い切る。
 さらに避難者が持ち出した家財は東京にかかる橋を焼きつくすことにもなった。この当時東京にあった橋は「総数六百七十五で、地震によって墜落又は破損したものはわずか十八にすぎなかったが、火災によって三百四十の橋が被害を受けた」のだ。橋の上で家財に引火した火から逃れるために、人々は川に飛び込み、溺死者を多く生んだ。その数は「東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千百七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七.四倍弱にも達している」という。

 江戸には大体百年おきに大地震が起こっている。関東大震災と同規模の大地震であった安政二年の大地震でも、大火が起こっていて、火災が起こった箇所は六十六カ所で、関東大震災の八十四カ所と著しい差はない。しかしの焼失面積は、関東大震災の方が十九倍というすさまじさであった。
 しかも江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は秀れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していたし、家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。
 江戸時代に防火のため火除原と称された広場や広い道路(広小路)が作られていたのに、それが無駄な場所と考えられ、いつの間にか民家で埋められてしまい、防火思想が江戸時代より後退していたのである。これを見るだけでも明治という時代が何もかも慌てて造られ、後々のことも考えずに、体面だけ形だけでも繕った時代であったことを知らされる。
 寺田寅彦は関東大震災の大災害は、歴史的に考えれば前例が繰り返されたにすぎず、それは人間の愚かしさから発していると述べている。過去の人間が経験したことを軽視したことが災害を大きくした原因であり、火災に対する処置などは、むしろ江戸時代より後退していると嘆いた。
 さらのこの後起こる朝鮮人襲来の流言も、それを冷静に考えれば全く信ずるに足りないものであることぐらいわかるはずで、日本人が科学的な判断をもたぬために起こった不祥事であったと非難する。
 震災にかこつけて朝鮮人が襲来してくる。あるいは井戸に毒を投げ込んだという風説は、震災というパニック状態で起こったものであろうが、そうした風説が人々に信じられた背景がそこにはあった。
 明治三十七年二月に締結した日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意志を完全に無視したものであることを、日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、を十分に知っていた。また統監府の過酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れこんできた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気がついていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。その鬱積した憤りをこの大震災に当たり、朝鮮人が日本人にたたきつける公算があると思えたのだ。
 朝鮮人襲来説は、横浜市内で発生し、それが強風にあおられた野火のように東京府から地方の市町村へすさまじい速度でひろがった。それは、政府、軍部、警察関係者にも信じこまれて各種の通信等によって裏づけられたため、庶民はその流言を事実と思いこみ、朝鮮人をはじめ日本人、中国人の虐殺事件をひき起した。
 その後、政府は朝鮮人に関する風説が全く根拠のないものであることを確認して、流言を打ち消すことにつとめ、殺害事件の発生を防止することに努力した。
 しかし、大災害後の混乱で理性を失った庶民は、官憲の注意にも耳をかさず凶行をつづけていったのである。
 責任の根源は、政府、軍部、警察関係者にあったが、同時に騒擾を好む一部の日本人の残虐性が悲惨な事件を続発させたのである。
 犯罪も多発した。震災で人々は家屋や職を失い、生活するために盗みを行った。焼け跡に行って、金目のものを掘り出したり、食糧や金目のものを持っている人を脅したり、あるいはそれらが高く売れるため、私利私欲に走り値段を高額に引き上げたりした。人心はすさみ、賭博、売春も行われた。
 これは阪神淡路大震災の時も似たようなことが起こっている。生きるためにはやむを得ないといってしまえば、その言葉がどこか正統性を帯びているように思えるけど、多分これは日本人特有の“自分だけがよければいいのだ”という身勝手さと、日頃えせヒューマニズムで理論武装している人が本性を現せばこういうことになるのだ。当時も今も何ら変わっちゃいないことを改めて思う。


評価
★★★


書誌
書名:関東大震災 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169411
出版社:文芸春秋 (2004/08/10 出版)文春文庫
版型:347p / 15cm / A6判
販売価:570円(税込)

2009年07月12日

吉村昭著『蟹の縦ばい』

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 続いて村上春樹さんの本を読もうと思っていたのだけれど、『ねじまき鳥クロニクル』でいささか疲れちゃってとてもじゃないが続いて村上さんの本を読む気力がなくなってしまった。ちょっと休んでから読みたいと思う。
 こういう時は味のある、お気に入りの随筆を読むのがいい。今は吉村昭さんの随筆がいいので、この本を手にした。まずは「へぇ~」と思ったことから。

一.歳四拾弐三位ニ而 ふけ候方
一.丈高く 太り候方
一.面長ニ而 角張候方
一.色白く 眉薄し
一.鼻大キク高キ方
一.眼ノ外ニそばかす少し有
一.歯並揃ひ 入歯之様ニ見え候

 これは高野長英の人相書きの一部である。気になるのは入れ歯のことである。江戸時代にも入れ歯があったんだと思ったわけである。というかそれよりもかなり前から入れ歯はあったらしい。当時の入れ歯の床は黄楊(つげ)が使われ、歯は蝋石や水牛の角などが使われていたらしい。かなり精巧なものだという。

 もう一つ。人間70歳になると「古稀」というが、この言葉の由来が杜甫の曲江詩「人生七十古来稀なり」から来ている。「古来稀(まれ)なる長寿という意味だそうだ。

 さて、読んでいて「そうだ!」と同感することが、お気に入りの随筆には結構ある。結局自分が気に入るということは、その文章を書いた人と読む側の私が同じ精神構造を持っている部分が多いからじゃないかと思う。吉村さんのこの本は50代頃に書かれたもののようで、ちょうど今の私と同じ年齢である。だから吉村さんが感じることが、同感できる。これが若い奴が言っていると、「何言ってんだ」とちょっとからみたくもなるが・・・・。
 さて、私の父親はボタンのデザインを考える仕事をやっていた。もちろん今はリタイアしていているが、そのデザインを勉強するために、ヨーロッパのファッション動向を見に行った。昭和40年代だったと思う。
 その父親がヨーロッパから帰って来たら、いきなりフォークとナイフの使い方にうるさくなった。特にフォークでご飯を食べるとき、フォークの背にナイフでご飯を押しつけ、それを口に持っていく様にしろというのだ。
 最近“びっくりドンキー”などそんなフォークの使い方でご飯を食べている奴を見かけたことがある。こんなところでそんな食べ方をして何気取っているんだと思った。食べやすいように食べればいいのにと思う。たぶん当の本人してみればそれが正しいマナーだと思っているんだろう。
 しかしよく考えてみれば、ヨーロッパはパン食であろう。ご飯をナイフとフォークで食べる習慣はそれほどなかったんじゃないか?ということはヨーロッパでそんなフォークの使い方でご飯を食べるマナー?が生まれたとは思えない。たぶん日本のテーブルマナーを指導する先生方がお考えになったんじゃないかとにらんでいる。
 吉村さんもここで、「マナーというものは、第三者に不快な感じをあたえぬためのものである。気取った食べ物の食べ方をしたら、本人も味を十分に楽しむことはできないし、第三者からみても堅苦しい食事にみえる。自然であることが、望ましいのだ」と言っているし、「上品であることはむろん好ましいが、上品ぶることは野暮である」とも、店の雰囲気も含めて言っておられる。

 料理屋で吉村さんが女中さんを「お姐さん」と呼ぶ声を聞く。その人は一人で飲んでいる六十年輩の男性で、酒のおかわり頼んでいる。それを吉村さんは「実にいい感じであった。風鈴の音がチリンときこえたような涼やかな感じがし、いい言葉だ、と思った」と書かれている。
 それに比べて「お嬢さん」といい年をした女の人を平気で言う人間をおかしいという。この「お嬢さん」という言葉で思い出すのがみのもんたである。今はお昼のテレビに出ていないけれど、ちょっと前までいいおばちゃんをつかまえて、「お嬢さん」と言っていた。私は言う方も言う方だが、言われて平気でいられる方もおかしいんじゃないのと思っていた。吉村さんは「お嬢さんとは、目下の者が世話になっている家の娘に対する呼称である」のだからおかしいと言う。つまりみのもんたは言葉の使い方を知らないのだ。もちろんウケを狙って言っていることぐらいわかるが、そんな正しい言葉の意味もよく考えない奴が、ニュースキャスターみたいなことをやっていいのだろうかと思う。

 他にこの随筆では吉村さんの奥様のこともいくつか書かれている。奥様に対するやさしさや気遣いが見られ、読んでいてほのぼのとしていい感じであった。そんな吉村さんも結婚するといつの間にか奥様に手なずけられてしまうことを嘆いておられる。「女房というものは、絶えず亭主を自己流に手なずけようとうかがっている。結婚以来二十年たつが、その歳月はそうした妻との戦いの連続でもあった」、と書かれる。これはよくわかるなぁ~。


評価
★★★


書誌
書名:蟹の縦ばい
著者:吉村 昭
ISBN:9784122020146
出版社:中央公論社 (1993/07/10 出版)中公文庫
版型:373p / 15cm / A6判
販売価:840円(税込)

2009年07月10日

村上春樹著『ねじまき鳥クロニクル』〈第1部〉泥棒かささぎ編・〈第2部〉予言する鳥編・〈第3部〉鳥刺し男編

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 最新刊の村上さんの本を読んだので、読みそびれていた以前のこの本のことが気になり、手にする。第一部、二部はわりとすらすら物語の中に入っていけたのだけれど、三部になるといささか疲れを覚え、読み終えたときには疲労感いっぱいであった。
 いったいこの本はなんなんだ!というのが正直な感想である。これをどうやって自分の感想を書けばいいのか正直困っている。うまく書けないけれど書けばこんな感じだ。

 村上さんの小説はいつも大切な人、あるいは大切なものを捜し回るというパターンが多いが、今回もそれである。主人公の岡田亨が失踪した妻クミコを探しに行く。そして物語は様々な世界に我々を連れて行ってくれる。現実と非現実。過去と現在。それぞれが交錯する。それは我々が当たり前と思っている、今いる世界が、まるで回転扉ようにそれが回ると簡単に非現実的な世界や過去へと変わる。つまりそれほど確かなものじゃないということ教えてくれる。というか、今現在がどこか非現実的なことで成り立っているところがあるし、過去の蓄積が現在を成り立たせているところがあることを教えてくれる。
 我々のいる世界が実は理不尽で、残酷で、理解しがたい部分があまりにも多くあり、ちっともリアリティーじゃないことを思い知らされる。そういう世界がこの物語では、「ねじまき鳥」の存在を通して語る。

 「ねじまき鳥」は大きな力を持っていた。人々は特別な人間しか聞こえないその鳥の声によって導かれ、避けがたい破滅へと向かった。そこでは、人間の自由意志などというものは無力だった。彼らは人形が背中のねじを巻かれテーブルの上に置かれたみたいに選択の余地のない行為に従事し、選択の余地のない方向に進まされた。その鳥の声の聞こえる範囲にいたほとんどの人々が激しく損なわれ、失われた。多くの人々が死んでいった。彼らはそのままテーブルの縁から下にこぼれ落ちていった。

 ねじまき鳥は実存するんだ。どんな格好をしているかは、僕も知らない。僕も実際にその姿を見たことはないからね。声だけしか聞いたことがない。ねじまき鳥はその辺の木の枝にとまってちょっとずつ世界のねじを巻くんだ。ぎりぎりという音を立ててねじを巻くんだよ。ねじまき鳥がねじを巻かないと、世界が動かないんだ。でも誰もそんなことは知らない。世の中の人々はみんなもっと立派で複雑で巨大な装置がしっかりと世界を動かしていると思っている。でもそんなことはない。本当はねじまき鳥がいろいろな場所に行って、行く先々でちょっとずつ小さなねじを巻いて世界を動かしているんだよ。それはぜんまい式のおもちゃについているような、簡単なねじなんだ。ただそのねじを巻けばいい。でもそのねじはねじまき鳥にしか見えない。

 ここでは説明できない、あるいは納得できない現実がどこかあって、それは「ねじまき鳥」が人間の意志に関係なくねじを巻くから、そうなるのだというのだ。岡田亨の妻クミコが失踪するのも、岡田亨が理解できる範囲のものを超えた何かであり、彼の回りに集まってくる変わった名前の登場人物も、彼の理解を超えた何かを持っているか、不可解な(あるいは異常な)過去の持ち主であるが故、ある意味なかなか理解しにくいものがそこにはある。
 でも、世の中というのはそうした雑多な世界にいる人々で成り立っているところがあるのだ。だからわかったようで実は誰もわかっちゃいないということなのだ。
 それでも何とかわかりたい。理解したい。失踪した妻を捜し出すために。だから笠原メイが岡田亨の苦悩を次のように言うのだ。

 あなたはいつも涼しい顔をして、何がどうなっても自分とは関係ないという風に見える。でも本当はそうじゃない。あなたはあなたなりに一生懸命闘っているのよね。

 この物語に登場する人物たちの話、過去に経験してきた悲惨で、残酷な体験は、その人物たちの思想形成に多大な影響を今現在に及ぼしたけれども、聞く側の人間にとって、それを完全に理解できないものである。そんな状態の人間の集まりである世の中がどうして確かなものなのか?世の中そのものが複雑怪奇となっても不思議じゃない。
 でも、そうであっても少なくとも自分が愛している妻だけはどうしても理解したい。二人の間だけは“確かなもの”でありたい。そういう気持だけは伝わってくる。多分それが岡田亨の闘いなのだろう。


評価
★★★


書誌
書名:ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534037
出版社:新潮社 (1994/04/12 出版)
版型:308p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)


書誌
書名:ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534044
出版社:新潮社 (1994/04/12 出版)
版型:356p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)


書誌
書名:ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534051
出版社:新潮社 (1995/08/25 出版)
版型:492p / 19cm / B6判
販売価:2,205円(税込)

2009年07月01日

吉村昭著『日本医家伝』

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 この本で取り上げられている医家は主に江戸時代の人物か、あるいは明治にかかる頃までの人物と限定し、しかも先駆的業績を持つ12人である。以下ざっと取り上げてみる。

 山脇東洋(1706~1762)は江戸中期の宝永二年十二月十八日、丹波亀山の医家清水立安(号東軒)の子として生まれた。名を尚徳、通称を道作といい、字は玄飛又は子樹、号を移山、後に東洋と称した。
 東洋は日本で初めて腑分を実際自分の目で見た医家である。東洋はかねがね人体は五臓六腑で成り立っているのだろうかという疑問を持っていた。もしそれが本当なら実際にそれを見てみたいと思っていた。
 宝暦四年京都で斬首刑になった人物の腑分けが行われるのに立ち会うことができた。当時は医者自らがメス(当時メスなんてあったのかどうか知らないが、とにかく体を切る道具)を握って体を開かない。雑役がちゃんといて、それが罪人の体を切り開き、それを医家が見るというものであった。それでも東洋は医家として日本で初めて人体の臓器を見た人物であった。

 前野良沢(1723~1803)は名を熹(よすみ)、字は子悦、号は楽山。筑前藩士谷口新介の子として享保八年江戸の牛込矢来に生まれた。医家として唯一オランダ語研究家であった。良沢は杉田玄白の誘いで腑分けを実見するが、この時オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」という解剖書を持参してきた。玄白もやはり同じ本を持ってそこにいた。その後杉田玄白が良沢を誘ってこの本を日本語に翻訳する。
 しかし玄白にはこの本を翻訳することで名声を得たいという野心があることを良沢は見抜いていた。学究肌の良沢にしてみればそういう野心は許し難かったが、玄白がいなければこの翻訳事業はできなかったので、ただ翻訳のみに没頭していく。玄白も良沢が自分に不快感を持っていることはわかっていたが、良沢がいないと翻訳ができないので、良沢のきげんを損なわないように翻訳の仕事を進めていった。
 翻訳から3年4カ月後「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」として刊行されたが、そこには良沢の名前がなかった。良沢は「解体新書」はまだ不完全なものだから、さらに年月をかけて完全なものにすべきであると考えていたが、玄白は刊行を急いだ。その考えに良沢はついていけなくなり、自分の名前を公にすることを辞退したのであった。結果「解体新書」訳者は杉田玄白一人となった。
 その後杉田玄白は経済的にも名誉的にも恵まれたが、良沢はさらにオランダ語の研究を進めたが、生活は貧しかった。享和三年十月十七日に八十一歳で病没したが、玄白はその葬儀にも行かず、日記にただ一言「良沢死」と書き残しただけであった。

 伊藤玄朴の功績は先に読んだ『「お玉ヶ池」散策』にある通りである。ただ玄朴は金銭への執着が強い人物だったらしい。
 ここで気になるのはシーボルト事件である。シーボルト事件とはシーボルトが帰国するときに自分の荷物を積んだ船が台風で座礁しその積荷から日本地図や葵の紋服などの禁制の品が発見された。誰がそれをシーボルトに渡したのかということが問題となり、多くの人間が連座して罰せられ、死罪になった者もいた。なかには獄中死や自殺した者もいた。
 その日本地図は玄朴が頼まれてシーボルトに渡したものであった。しかし玄朴の取り調べはシーボルトに渡したものが中身を知らないということで許される。
 シーボルト事件でオランダ語を知っている人物が少なくなり、玄朴の存在が貴重になりその存在がクローズアップされていく。
 シーボルト事件で葵の紋服を渡したのが土生玄碩であった。土生玄碩は宝暦十二年(1762)安芸吉田で生まれた江戸後期の眼科医である。目の手術の時瞳孔をひらく薬の成分をシーボルトから聞いたが、シーボルトは教えてくれない。シーボルトは薬の成分を教える代わりに葵の紋服が欲しいと要求する。土生玄碩はそれを渡し、薬の作製法を教わるが、シーボルト事件が発覚し、家財すべて没収され、医業にたずさわることも禁じられ、蟄居生活を送るはめとなる。

 楠本いねは遊女屋引田屋が抱える其扇とシーボルトとの間に生まれた。シーボルトが去った後、シーボルトの門人であった二宮敬作のもとで産科医を目指す。その後紆余曲折があるが、明治三年二月に東京府京橋区築地一番地に産科医院を開き、一時は名声を得るが、そのうちいねの持っている医学知識も古くなり患者も減り医院を閉じる。

 中川五郎治も『「お玉ヶ池」散策』で書いたとおりである。

 笠原良作は文化六年福井で生まれ、名を良、字を子馬、後に白翁と号した。福井で種痘の普及に尽くした医師である。その種痘に使う痘苗をどうやって福井へ運ぶか、その手段がすごい。笠原良作は種痘をした小児を一緒に福井へ連れて行くのである。
 種痘した小児の紅点は7日には消えてしまうので、途中で他の児童に植えかえていき、小児ともども痘苗を福井へ運ぶのである。これはすごい。当時は冬で吹雪く山を越えていくのである。

 松本良順は吉村さんの『暁の旅人』にある通りだ。

 相良知安(1836~1906)は佐賀藩出身の蘭方医である。オランダ人医師ボードインにより医学を学んでいた。
 維新政府は維新戦争で官軍に肩入れしたイギリスのパークスの依頼で戦場に赴いた医師ウイリスの業績を認め、戦後古くなったオランダ医学からイギリス医学を採用する方向へ向かう。
 しかし相良知安はオランダ医学書がドイツの医学書の翻訳が多いことを知っていたので、ドイツ医学こそ世界最高水準のもではないかと考えた。そしてその自説で新政府を動かし、日本にドイツ医学を導入する道筋を開いた人物である。

 荻野ぎん(1851~1913)は埼玉県大里郡秦村に荻野綾三郎の五女として生まれる。十六歳の時結婚するが夫なった男は遊蕩児で遊里でうつされた悪質な淋病を彼女にうつした。この病気の治療は女性とって屈辱的なものであった。ぎんはもし治療に当たる医師が女性であれば患者の苦痛はかなりいやされるのではないかと考え、以来医師を目指す。当時は女性は医師試験を受けることさえ認められなかったが、なんとかして女医になった。ぎんは近代日本における最初の女性の医師であり、女性運動家としても知られた。

 高木兼寛(1849~1920)は嘉永二年日向国東諸県郡白土坂に生まれ、十三歳の時に医学を志し、海軍に入り、イギリスへ医学留学をする。帰国後海軍に脚気が多発することに注目し、その撲滅に尽力する。東京慈恵会医科大学の創設者。

 秦佐八郎(1873~1938)石見国(現在の島根県)濃郡都茂村に生まれた。梅毒の特効薬サルバルサン606号をドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救った。

 この本にあげられた医家は、後に吉村さんの長編歴史小説となっていくものが多い。この本がきっかけになったのであろうか。ちなみに前野良沢は『冬の鷹』、楠本いねは『ふぉん・しーほるとの娘』、中川五郎治は『北天の星』、笠原良作は『雪の花』、松本良順は『暁の旅人』、高木兼寛は『白い航跡』となっている。いずれこれらの作品は読んでみたいと思っているので、この本はいい“前振り”になって、ちょっとしたガイドブックとなった。


評価
★★★


書誌
書名:日本医家伝 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062733557
出版社:講談社 (2002/01 出版)講談社文庫
版型:377p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)