2009年07月01日
吉村昭著『日本医家伝』
この本で取り上げられている医家は主に江戸時代の人物か、あるいは明治にかかる頃までの人物と限定し、しかも先駆的業績を持つ12人である。以下ざっと取り上げてみる。
山脇東洋(1706~1762)は江戸中期の宝永二年十二月十八日、丹波亀山の医家清水立安(号東軒)の子として生まれた。名を尚徳、通称を道作といい、字は玄飛又は子樹、号を移山、後に東洋と称した。
東洋は日本で初めて腑分を実際自分の目で見た医家である。東洋はかねがね人体は五臓六腑で成り立っているのだろうかという疑問を持っていた。もしそれが本当なら実際にそれを見てみたいと思っていた。
宝暦四年京都で斬首刑になった人物の腑分けが行われるのに立ち会うことができた。当時は医者自らがメス(当時メスなんてあったのかどうか知らないが、とにかく体を切る道具)を握って体を開かない。雑役がちゃんといて、それが罪人の体を切り開き、それを医家が見るというものであった。それでも東洋は医家として日本で初めて人体の臓器を見た人物であった。
前野良沢(1723~1803)は名を熹(よすみ)、字は子悦、号は楽山。筑前藩士谷口新介の子として享保八年江戸の牛込矢来に生まれた。医家として唯一オランダ語研究家であった。良沢は杉田玄白の誘いで腑分けを実見するが、この時オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」という解剖書を持参してきた。玄白もやはり同じ本を持ってそこにいた。その後杉田玄白が良沢を誘ってこの本を日本語に翻訳する。
しかし玄白にはこの本を翻訳することで名声を得たいという野心があることを良沢は見抜いていた。学究肌の良沢にしてみればそういう野心は許し難かったが、玄白がいなければこの翻訳事業はできなかったので、ただ翻訳のみに没頭していく。玄白も良沢が自分に不快感を持っていることはわかっていたが、良沢がいないと翻訳ができないので、良沢のきげんを損なわないように翻訳の仕事を進めていった。
翻訳から3年4カ月後「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」として刊行されたが、そこには良沢の名前がなかった。良沢は「解体新書」はまだ不完全なものだから、さらに年月をかけて完全なものにすべきであると考えていたが、玄白は刊行を急いだ。その考えに良沢はついていけなくなり、自分の名前を公にすることを辞退したのであった。結果「解体新書」訳者は杉田玄白一人となった。
その後杉田玄白は経済的にも名誉的にも恵まれたが、良沢はさらにオランダ語の研究を進めたが、生活は貧しかった。享和三年十月十七日に八十一歳で病没したが、玄白はその葬儀にも行かず、日記にただ一言「良沢死」と書き残しただけであった。
伊藤玄朴の功績は先に読んだ『「お玉ヶ池」散策』にある通りである。ただ玄朴は金銭への執着が強い人物だったらしい。
ここで気になるのはシーボルト事件である。シーボルト事件とはシーボルトが帰国するときに自分の荷物を積んだ船が台風で座礁しその積荷から日本地図や葵の紋服などの禁制の品が発見された。誰がそれをシーボルトに渡したのかということが問題となり、多くの人間が連座して罰せられ、死罪になった者もいた。なかには獄中死や自殺した者もいた。
その日本地図は玄朴が頼まれてシーボルトに渡したものであった。しかし玄朴の取り調べはシーボルトに渡したものが中身を知らないということで許される。
シーボルト事件でオランダ語を知っている人物が少なくなり、玄朴の存在が貴重になりその存在がクローズアップされていく。
シーボルト事件で葵の紋服を渡したのが土生玄碩であった。土生玄碩は宝暦十二年(1762)安芸吉田で生まれた江戸後期の眼科医である。目の手術の時瞳孔をひらく薬の成分をシーボルトから聞いたが、シーボルトは教えてくれない。シーボルトは薬の成分を教える代わりに葵の紋服が欲しいと要求する。土生玄碩はそれを渡し、薬の作製法を教わるが、シーボルト事件が発覚し、家財すべて没収され、医業にたずさわることも禁じられ、蟄居生活を送るはめとなる。
楠本いねは遊女屋引田屋が抱える其扇とシーボルトとの間に生まれた。シーボルトが去った後、シーボルトの門人であった二宮敬作のもとで産科医を目指す。その後紆余曲折があるが、明治三年二月に東京府京橋区築地一番地に産科医院を開き、一時は名声を得るが、そのうちいねの持っている医学知識も古くなり患者も減り医院を閉じる。
中川五郎治も『「お玉ヶ池」散策』で書いたとおりである。
笠原良作は文化六年福井で生まれ、名を良、字を子馬、後に白翁と号した。福井で種痘の普及に尽くした医師である。その種痘に使う痘苗をどうやって福井へ運ぶか、その手段がすごい。笠原良作は種痘をした小児を一緒に福井へ連れて行くのである。
種痘した小児の紅点は7日には消えてしまうので、途中で他の児童に植えかえていき、小児ともども痘苗を福井へ運ぶのである。これはすごい。当時は冬で吹雪く山を越えていくのである。
松本良順は吉村さんの『暁の旅人』にある通りだ。
相良知安(1836~1906)は佐賀藩出身の蘭方医である。オランダ人医師ボードインにより医学を学んでいた。
維新政府は維新戦争で官軍に肩入れしたイギリスのパークスの依頼で戦場に赴いた医師ウイリスの業績を認め、戦後古くなったオランダ医学からイギリス医学を採用する方向へ向かう。
しかし相良知安はオランダ医学書がドイツの医学書の翻訳が多いことを知っていたので、ドイツ医学こそ世界最高水準のもではないかと考えた。そしてその自説で新政府を動かし、日本にドイツ医学を導入する道筋を開いた人物である。
荻野ぎん(1851~1913)は埼玉県大里郡秦村に荻野綾三郎の五女として生まれる。十六歳の時結婚するが夫なった男は遊蕩児で遊里でうつされた悪質な淋病を彼女にうつした。この病気の治療は女性とって屈辱的なものであった。ぎんはもし治療に当たる医師が女性であれば患者の苦痛はかなりいやされるのではないかと考え、以来医師を目指す。当時は女性は医師試験を受けることさえ認められなかったが、なんとかして女医になった。ぎんは近代日本における最初の女性の医師であり、女性運動家としても知られた。
高木兼寛(1849~1920)は嘉永二年日向国東諸県郡白土坂に生まれ、十三歳の時に医学を志し、海軍に入り、イギリスへ医学留学をする。帰国後海軍に脚気が多発することに注目し、その撲滅に尽力する。東京慈恵会医科大学の創設者。
秦佐八郎(1873~1938)石見国(現在の島根県)濃郡都茂村に生まれた。梅毒の特効薬サルバルサン606号をドイツのパウル・エールリヒと共に開発し、多くの患者を救った。
この本にあげられた医家は、後に吉村さんの長編歴史小説となっていくものが多い。この本がきっかけになったのであろうか。ちなみに前野良沢は『冬の鷹』、楠本いねは『ふぉん・しーほるとの娘』、中川五郎治は『北天の星』、笠原良作は『雪の花』、松本良順は『暁の旅人』、高木兼寛は『白い航跡』となっている。いずれこれらの作品は読んでみたいと思っているので、この本はいい“前振り”になって、ちょっとしたガイドブックとなった。
評価
★★★
書誌
書名:日本医家伝 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784062733557
出版社:講談社 (2002/01 出版)講談社文庫
版型:377p / 15cm / 文庫判
販売価:660円(税込)
- by kmoto
- at 16:42
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