2009年07月14日

吉村昭著『関東大震災』

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 関東大震災の焼失図を見ると、東京市の大半が焦土をしめす朱色がべったりと塗りつけられている。が、その中に浅草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町、佐久間町一帯が焼失をまぬがれていたことがわかるが、殊に和泉町、佐久間町の地域が、広大な朱色の焼失地域の中で焼け残り地区を示す白地のままであるのがひどく奇異なものに映る。
 この一区画の焼け残りは、関東大震災の奇蹟とさえ言われた。

 和泉町、佐久間町の見事な焼け残りは、好条件に恵まれていたが、住民たちの努力によるものであった
 環境条件として、町の東北隅に内務省衛生試験所、三井慈善病院があって、それらが耐火構造建物であったので防火に有利であったことも幸いした。また北側には道路をへだてて三ツ輪研究所、郵便局、市村座劇場の煉瓦造りの建物が一列に並び、それらは後に焼けたが防火壁の役目を果たした。
 さらに南側は神田川で、対岸に煉瓦造りの建物が並び、その向う側には広い道路が走っていたので、火流を防ぐことも比較的容易であった。
 それに水道は杜絶したが、神田川と秋葉原貨物駅構内から神田川に通じるドッグがあって、水利に恵まれていたことも幸運だった。 しかし、住民たちが、四囲を完全に火に包まれた中で町内にとどまり、火と戦ったことは大きな賭であった。もし防火に失敗すれば、町内には炎がさかまき、全員焼死することが確実だった。
 最初に火が起ったのは和泉町三ツ輪研究所で、隣接の内務省衛生試験所等にも移ったが、水道の水が断たれていなかったので、住民たちはバケツ注水でこれを消しとめた。
 午後三時頃になると、本石町方面から火が迫り、神田川をへだてた地域と東龍閑町、豊島町一帯を西から東に焼きはらった。丁度佐久間町二、三、四丁目は、その大火災の風下にあたっていて、重大な危機におちいった。
 住民たちは、神田川の水を汲み上げ、極力消火につとめた。そのうちに民家に飛火して炎をふきはじめたが、住民は一致してこれを消しとめた。
 また他の一隊は、神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき、道路の南側で火流を阻止することに成功した。
 日が没し、町の周囲には大火災が乱れ合った。
 午後十一時頃、神田明神方面から猛火が津波のように轟々と音を立てて迫ってきた。その火炎は遂に佐久間町一丁目の一部を焼き、秋葉原駅構内をなめつくして和泉町の袂まで燃えてきた。
 そのままでは平河町が焼きつくされてしまうので、住民たちは死力をつくしてバケツの水を浴びせかけ、ようやく九月二日午前零時頃消しとめることができた。
 さらに朝五時頃、浅草左右衛門町、向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に及んだので、それに面した家屋を破壊し、西側に火が移るのを防止した。
 二十時間にわたる火との戦いで、住民たちの疲労は濃かった。足腰も立たずに座り込む者が多かったが、その日の午後三時頃、最大の火炎が浅草方面から和泉町目がけて襲ってきた。
 住民たちは、声をはげまし合い和泉町方面に集まった。少数の外神田警察署員をふくむ数百名の住民たちに、老人、婦人も加わり、あくまでも町を死守しようとかたい決意のもと大火炎の迫るのを待ちかまえた。
 その時、町内の帝国嘲筒(そくとう)株式会社にガソリン消防ポンプが一台あることが判明した。それは、同社が八月二十九日に完成し目黒消防署に納入予定のポンプであった。
 住民たちは、同社重役の快諾を得てポンプを借受け、まず火の迫る以前に同町の西側に注水した。
 やがて、火炎がすさまじい勢いでのしかかってきた。
 住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸から汲み上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。
 火との戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食いとめることに成功した。その結果、千六百余戸の家々が東京市の焦土の中で焼け残ったのである。この奇蹟的ともいえる和泉町、佐久間町の焼け残りは、すべて住民の努力によるもので、消防署は防火活動に全く従事していない。

 長い引用をした。この大火災は関東大震災によるものである。

 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分四十四秒、東京市内に設置されていた中央気象台と本郷の東大地震学教室の地震計が突然生き物のように動き始めた。
 振動は、押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから十五、六秒後には想像を絶した激烈さまでたかまった。
 その瞬間、戦慄すべき現象が起った。中央気象台は明治九年以来地震観測をおこなっていたが、観測室におかれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊してしまった。
 地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動が始まった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに震動が激化すると同時に破損してしまっていた。

 地震発生時が午前十一時五十八分四十四秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭では竈、七輪等に火をおこして昼食の支度をし、町の飲食を業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。そこに大地震である。今よく言われる“グラッときたら火を消す”という余裕などなかった。倒壊した家では、圧死からのがれるだけで精一杯で、竈や七輪におこっていた火の上に木材や家財がのしかかり、たちまち火災が起った。
 その上、この日は風向が南又は南東で、風速は低気圧の影響を受け十メートルから十五メートルとかなり激しい日であったため、さらに火災が広がった。
 そしてこの本を改めて読んで知ったことなのだけれど、火災を引き起こした最大の原因が学校、試験所、研究所、工場、医院、薬局等にあった薬品類であった。それらが地震で棚等から落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校(三カ所)、富士見町の日本歯科医専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市ヶ谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部、同医学部薬学教室(四カ所)、同医学部外来患者診察室、麹町区の麹町高等小学校、芝区の慈恵会医科大学、小石川区の専修高等女学校、日本女子大学からそれぞれ出火した。

 震災で引き起こされた火災は東京中を焼きつくすのだが、奇跡的に焼け残った地域が私の会社のある神田和泉町であった。私は以前からこのことに興味を持っていて、何度か調べたこともある。だからここに長い引用を引いたのだ。ここが焼け残ったのは、確かに環境条件がよかった部分もあるけれど、ここに住まれる住民たちの努力があったからで、私の会社の先代の社長が書いた震災による消火活動の手記を読んだとき、初めてそのことを知ったのであった。


 【和泉町防火奮闘記】神田和泉町(故)持田光太郎
 関東大震災の翌日、大正12年9月2日午後3時ごろ、浅草方面からの猛火が和泉町に迫った。町と道路一つ隔てた凸版印刷は焼け落ち、市村座も燃え始めている。水道は断水し、井戸水はあったがバケツ以外に消火器具はなく、町内の青年たちは猛煙の空を仰ぐばかりだった。
 このとき、「そうだ。ポンプがある!」と父喜太郎(当時51歳)が叫び、近くの帝国ポンプ会社が目黒消防署に納入することになっていたガソリンポンプ車を、下水道局和泉町ポンプ場に、みんなで運んだ。そこの浄水プールを水源に、それぞれ100メートル近いホース2本を延ばし、筒先は佐々木高太郎さん(当時40歳)と私(当時26歳)が握った。
 「市村座の火を消せ!」、「町を守れ!」などの声が飛ぶなか、私は市村座前の道路を阻止線とするしかないと考えた。佐々木さんは六尺ふんどし、私は紺色の水兵服(軍艦「長門」の元乗組員だった。)を着て、駆け巡り、放水を続けた。やっと町への延焼を食い止めたのは、5時間後か、8時間後だったか、よくおぼえていない。
 ポンプ車といってもガソリンがなければ動かない。父は自転車で、自動車修理工場や自転車店をかけ回り、ガソリンを集めてきた。当時、東京市全体にポンプ自動車38台、水管自動車17台、手引水管車28台しかなく、神田地区には一台の余力もなかった。事実、「神田地区消防隊従事なし。」の記録がある。
 いま振り返ってみると、家族をみんな上野に避難させ、大人たちが心おきなく協力して活躍できたこと、町内から二か所出火したがすぐ消し止めたこと、南に神田川、北に広い庭のある三井慈善病院が自然の防壁になったこと、火勢のいくつかが旨く一角を避けたこと、しかしなんといってもあのポンプ車の威力がすごかったと思います。そして、あの時の父の存在も忘れられません。(『目でみる千代田区の歴史』 東京都千代田区教育委員会)


 さて、この震災で焼死者が一番多くあったのが本所区横網町にあった被服廠跡であった。ここは陸軍省被服廠の建物があった場所で、被服廠移転にともなって大正十一年三月逓信省と東京市に払い下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予定になっていた。
 二万四百三十坪余の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と考え、地元の相生警察署員も同地に避難民を誘導した。そのため被服廠跡には多くの人々が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ大旋風も巻き起って、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災による全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。
 これはすごい数字である。わずかな地域で東京の半分以上の死者をここで出してしまったのである。吉村さんは「関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい」と言い切る。
 さらに避難者が持ち出した家財は東京にかかる橋を焼きつくすことにもなった。この当時東京にあった橋は「総数六百七十五で、地震によって墜落又は破損したものはわずか十八にすぎなかったが、火災によって三百四十の橋が被害を受けた」のだ。橋の上で家財に引火した火から逃れるために、人々は川に飛び込み、溺死者を多く生んだ。その数は「東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千百七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七.四倍弱にも達している」という。

 江戸には大体百年おきに大地震が起こっている。関東大震災と同規模の大地震であった安政二年の大地震でも、大火が起こっていて、火災が起こった箇所は六十六カ所で、関東大震災の八十四カ所と著しい差はない。しかしの焼失面積は、関東大震災の方が十九倍というすさまじさであった。
 しかも江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は秀れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していたし、家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。
 江戸時代に防火のため火除原と称された広場や広い道路(広小路)が作られていたのに、それが無駄な場所と考えられ、いつの間にか民家で埋められてしまい、防火思想が江戸時代より後退していたのである。これを見るだけでも明治という時代が何もかも慌てて造られ、後々のことも考えずに、体面だけ形だけでも繕った時代であったことを知らされる。
 寺田寅彦は関東大震災の大災害は、歴史的に考えれば前例が繰り返されたにすぎず、それは人間の愚かしさから発していると述べている。過去の人間が経験したことを軽視したことが災害を大きくした原因であり、火災に対する処置などは、むしろ江戸時代より後退していると嘆いた。
 さらのこの後起こる朝鮮人襲来の流言も、それを冷静に考えれば全く信ずるに足りないものであることぐらいわかるはずで、日本人が科学的な判断をもたぬために起こった不祥事であったと非難する。
 震災にかこつけて朝鮮人が襲来してくる。あるいは井戸に毒を投げ込んだという風説は、震災というパニック状態で起こったものであろうが、そうした風説が人々に信じられた背景がそこにはあった。
 明治三十七年二月に締結した日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意志を完全に無視したものであることを、日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、を十分に知っていた。また統監府の過酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れこんできた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気がついていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見過ごそうとする傾向があった。その鬱積した憤りをこの大震災に当たり、朝鮮人が日本人にたたきつける公算があると思えたのだ。
 朝鮮人襲来説は、横浜市内で発生し、それが強風にあおられた野火のように東京府から地方の市町村へすさまじい速度でひろがった。それは、政府、軍部、警察関係者にも信じこまれて各種の通信等によって裏づけられたため、庶民はその流言を事実と思いこみ、朝鮮人をはじめ日本人、中国人の虐殺事件をひき起した。
 その後、政府は朝鮮人に関する風説が全く根拠のないものであることを確認して、流言を打ち消すことにつとめ、殺害事件の発生を防止することに努力した。
 しかし、大災害後の混乱で理性を失った庶民は、官憲の注意にも耳をかさず凶行をつづけていったのである。
 責任の根源は、政府、軍部、警察関係者にあったが、同時に騒擾を好む一部の日本人の残虐性が悲惨な事件を続発させたのである。
 犯罪も多発した。震災で人々は家屋や職を失い、生活するために盗みを行った。焼け跡に行って、金目のものを掘り出したり、食糧や金目のものを持っている人を脅したり、あるいはそれらが高く売れるため、私利私欲に走り値段を高額に引き上げたりした。人心はすさみ、賭博、売春も行われた。
 これは阪神淡路大震災の時も似たようなことが起こっている。生きるためにはやむを得ないといってしまえば、その言葉がどこか正統性を帯びているように思えるけど、多分これは日本人特有の“自分だけがよければいいのだ”という身勝手さと、日頃えせヒューマニズムで理論武装している人が本性を現せばこういうことになるのだ。当時も今も何ら変わっちゃいないことを改めて思う。


評価
★★★


書誌
書名:関東大震災 (新装版)
著者:吉村 昭
ISBN:9784167169411
出版社:文芸春秋 (2004/08/10 出版)文春文庫
版型:347p / 15cm / A6判
販売価:570円(税込)

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