2009年08月27日

阿刀田高著『新約聖書を知っていますか』

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 今度は新約聖書である。阿刀田さんは「旧約聖書のほうはイスラエル建国史と読める部分もあるから、まだしもやりようがあるけれど、新約聖書は徹頭徹尾信仰と結びついている」と言っているように、この本を読んで、新約聖書は信仰をどう考えるかに尽きるような気がする。しかも私みたいに信仰を持たない人間にとって、新約聖書の言葉は基本的に理解しにくい部分がどうしても残ってしまう。

 ここにミケランジェロの「ピエタ」がある。


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 この本を読んで知ったのだが、ミケランジェロの「ピエタ」は四作あるそうだ。その中で一番有名なのがバチカンにあるこの「ピエタ」である。後の三作をネットで調べてみると、これがミケランジェロの作品?と思えるほど、見栄えが悪い。中には作成中といったものさえある。
 阿刀田さんは、処刑されたイエスを抱きかかえるマリアの姿に美しさと神々しさを感じているが、確かにこれが人が彫った彫刻なのかと思えるほど、この作品の完成度は言葉が出ないほどだ。
 この「ピエタ」から阿刀田さんはイエスが十字架に懸かり、復活する意味を次のように説明する。

 神が実在し、自分が神の子であることを証明する方法として、(それだけが目的ではなかったろうが)病人を癒したり、超自然的な技を演じて見せたりしたが、それだけではまだ迫力が足りない。伝聞であったり偶然と思われたりして、説得力を欠く。そんなイエスが、ある日、忽然と得た啓示が“十字架に懸かり、三日後に復活する”であった。預言書にもそんなことが記してある。それを実現することが神の子の証明であり、それによっていっさいのロジックが生きて意味を持つ。先に私が“復活はイエスとその信奉者にとって、このうえなく大切なことであった。信教の存亡にかかわる重大事であった”と書いたのは、このことである。イエスは絶対に復活しなければいけなかったのである。

 とにかくここに書かれるイエスが行う奇跡は私みたいに信仰を持たない人間にとって、ただ“胡散臭い”だけであって、これがどうして信仰に結びつくのかわからない。
 阿刀田さんも私同様信仰を持たない人と言っているので、イエスが行う奇跡、復活を推理小説家としてそのトリックとして説明する。私も阿刀田さんのこの説明の方が受け入れやすかった。
 例えばマリアの処女受胎にしたって、昔、ナザレという町にマリアという名の娘がいて、ヨセフと婚約していたが、よんどころない事情により、他の男と交わり身籠もってしまった。それを知ったヨセフはいったん婚約を解消しようと思ったが、マリアの人柄の良さや愛情の深さを感じ、さらに生まれてくる子供には何ら罪はないと考え、二人は結ばれ、そしてイエスが生まれた。
 イエスが手を触れれば、病気が治るというのも、その人が心因性の病気の人であった可能性が高い。湖の上を歩いたというのも、単に湖の浅瀬を歩いただけなのに水上を歩いたと宣伝されたか、あるいは湖の浅瀬を歩いていただけでも見る方向によって水上を歩いたようにだって見えるだろう。結婚式の酒が上等な酒に変わったのも、単にイエスのスピーチがすばらしかったから、それを聞いた出席者が大きな喜びを感じただけであって、酒が上等なものに変わった訳じゃなくて、気分がそう感じさせただけのことだ。
 イエスの復活だって、復活したイエスがその姿をあらわすのは弟子の前だから、口裏を合わすのは簡単だったろう。マグダラのマリアだって言い含めていたのだろう。
 イエスの墓には遺体がなかった。復活のためには遺体があっちゃまずいからだ。イエスのシンパがイエスが生前言っていた復活を画策し、それを実行しただけのことだ。遺体を他に移したのだ。だから復活は墓より遠く離れた場所のガリラヤである方がいいに決まっている。
 たぶんそういうことなんだろう。

 しかしイエスの奇蹟、復活がこのように説明がつくとしても、イエスを信じる人にとってはそれは意味をなさないのだろう。聖書に書かれたことを、そのまま信じることが意味をなすからだ。大切なことは「信じること」なのだ。それを「そんなことありえんだろう!」と言っちゃおしまいなのである。
 阿刀田さんが言うように、「大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが実存していたことのほうである。事実に近い奇蹟もあったろうが、まるっきり作り話もあっただろう。だが、いずれにせよ、奇蹟のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こういう伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい」。
 そしてイエスが人を信じさせるテクニックに優れていたことに尽きるんじゃないかと思ったりする。阿刀田さんは「イエスの言葉は、たとえ話であったり、質問に対する断片的な返答であったり、戒めであったりして、まっ正面から教義の中核を語っているものは思いのほか少ない」と言っている。このことはイエスの性格である皮肉屋で韜晦趣味的傾向から由来するにしても、何から何まで、至れり尽くせり説明はしない。適当なところで止めている、と言えないだろうか。意味深長な言葉を残されれば、後は自分で考えるしかない。そこがポイントなのだ。考える人が置かれている環境によっては、あるいは性格によっては、イエスは神の子ともなるだろうし、ペテン師にもなるような気がする。
 そうしてイエスの教えを最初に広めたオルガナイザー的存在のパウロがいたからこそ、キリスト教は広まっていった。それはローマという時代背景も大きな意味を持つ。キリストの教えにすがりつかなきゃ生きていけない民衆が多数いたからである。信じるしかない状況に置かれた人間が数多くいればいるだけ、その宗教は広まっていくはずだ。

 私は何度も言うように信仰を持たない人間である。だから信仰という問題にこれ以上は何も言えない。そしてたとえそれが一種のペテン的記述であっても、それを信じることで、生きる意味を見出し、思想、文学、哲学、美術、音楽等、いわゆるヨーロッパ文化が生まれているなら、それはペテンでも何でもなくなると思っている。実際偉大さも、尊敬も感じている。信仰がなければそんな文化など生まれるわけがない。


評価
★★★


書誌
書名:新約聖書を知っていますか
著者:阿刀田 高
ISBN:9784103343165
出版社:新潮社 (1993/11/15 出版)
版型:265p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本あり

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