

書泉にこの本のポスターが貼ってあった。なんで今頃この本のポスターが貼られているのだろうとふと思う。確かに村上さんに最新刊が大きな話題になっているから、それも関係あるのかなと思ったが、よく見ると『ノルウェイの森』がその発行部数が1,000万部突破したことが書かれている。なるほどこれかと思った。
そのポスターを見たからじゃないのだけれど、もう一度村上さんの作品を読み直してもいいかなと思っていたので、手始めにこの本を手にしたわけだ。私の持っている本は1988年8月17日の第20刷のものなのだが、久しぶりに手に取ってみると、古本の風格を帯びている。もうこれを読んで21年たったのかと、月日の流れが速いことを感じてしまう。
この頃私はわずか10坪ほどの店の店長だった。私が持っている本は発売されて1年たった時の本なのだが、この時でもまだこの本は売れていて、仕入をしてもすぐ売れてしまい、仕入をするのに苦労していた。わずか10坪の本屋など問屋はまともに対応してくれないものだから、この本の配本なんかなかった。だからせっせと現金をもって神田村で仕入をしていた。ちょうどこの頃コミックの『東京ラブストーリー』もテレビドラマの影響もあって、それも売れていて、一緒に仕入をし、並べて売っていたはずだ。
私は村上さんのこの本がどうしてこう長く売れ続けるのか知りたかったから、自分でも買って読んだ。ただ、今になるとそれほど本の内容が記憶にない。だから読み返すにはちょうどいいかもしれない。
それで話はちょっと話は横道にそれるのだけれど、私の持っているこの本は上巻が赤、下巻が緑の一色で装丁され、帯が金色である。今の版もそうなのかどうか知らないが、これはクリスマスプレゼントにもってこいの装丁だ。実際当時クリスマスの時期にプレゼントにどうぞ!というのが講談社当たりから言われていたような気がする。(しかし恋人にあげて、盛り上がる本じゃないような気がするが・・・)
ところで今回この本を再読するに当たり、そのままスキャンしたのだが、この金の帯が真っ黒になってしまうのである。そうか金色はうまくスキャンできないんだと知った。仕方がないので、私の趣旨から反するのだが、帯を取っスキャンする。
さて、ワタナベが高校二年時の友人でキズキという仲のいい友人がいて、直子はキズキの幼友達であり、恋人であった。三人でうまく付き合っていくには一見バランスが悪そうなのだけれど、不思議なもので結局三人でいる方がうまくいく。こういうのってこの時期よくあるパターンだ。
そして十七歳の五月の夜にキズキは自殺した。そして残されたワタナベと直子は人生の歪みに直面していく。とりあえずワタナベはその歪みを客観的に捉えながら生きていくが、直子はキズキの自殺の前に、姉の自殺を経験しているため、ワタナベより深刻な精神的に不安定に陥る。ワタナベは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と思うようになり、死というものが自分の人生に既に含まれてしまっているものだから、キズキの死を努力して忘れようとしても忘れ去れるものじゃないという境地になる。十七歳の時からそう考えなきゃならなくなったことは、これはかなりきつい。そこから自分の人生で失ってきた、あるいはこれから失っていくであろう多くのものを考え、そして後戻りできない事実に直面するとなると、嫌が上でも自分の人生に歪みが生じてくる。特に感受性の高いこの時期に友人の死は、間違いなく残された人に歪みを植え付けていくか、自覚させるだろう。そしてそうした歪みって、かなり怖い。それを感じるだけで、うまくうっちゃれればそれでいいのだが、もろ直面してしまうと、ただただ怖ろしいものではないだろうか。この小説はそうした歪みにどう対処していけるのか、ワタナベと直子の物語である。
昔、たぶん中学生の頃だったと思うが、私はいつも感じていたことがあった。それは頭の中に一本の道みたいなものがあり、いつも自分はちゃんとこの道の上を歩いているだろうかと確認するのである。なんて言えばいいのか、よくわからないけど、それは私が進むべき清く正しい人生行路みたいなものだったような気がする。ときにちょっとした挫折(といっても大したことじゃなく、ほとんど失敗みたいなものだった)をすると、その道から外れた位置に自分はいると感じ、怖ろしくなったのである。何とか軌道修正してその道に戻らなければと焦った。そして今思うのだけれど、その道を外れていると感じたことはしょっちゅうで、些細なことでいつも不安に駆られていたような気がする。
何でこんなくだらないことを書くかといえば、この本にある歪みって、たぶん私が当時感じていた不安や不安定感ともしかしたら似ているような気がしたのである。つまり私の頭の中にあった一本の道から自分がそれることは自分が歪んでいく過程だったような気がするのだ。
私の場合、こんなくだらない感覚なのだが、おそらく誰しも若い頃にはどういう形であれ自分の歪みみたいなものに不安を感じ、恐れたことがあるんじゃないかと思ったりする。だからこの小説は若い人にとって“通過儀礼”のような一冊となって支持されているのではないかと思うのだ。
そして長いこと人生を過ごしてきてオヤジとなった自分が今この本を読んで、むしろそうした時代が自分にも確かにあって、懐かしく思える。けれど一方でそういうピュアな気持ちがいつまでも続く方がおかしいのであって、そんなこといつまであり得るわけがないじゃないと半ばバカにするようになったことをどう考えればいいのか。喜ぶべきなのか、悲しむべきことなのか。そういうのが人生だと、どこからか聞こえそうだけど、少なくとも私はそんな風にぶりたくない。むしろこの悲しい物語を通して、かつて自分が自覚していたであろう歪みに対する不安を懐かしむのである。
もしこの小説が今の若者の通過儀礼となっているなら、その若者はこの物語をどう感じるのか知りたくもある。またもし私の若い頃にこの本が出版されていて、読んだらどうだったろうかと思ってみたりする。直子みたいに不安に駆られるのか。あるいはワタナベのようにそうした歪みに彼なりの抵抗に共感するのか。考えてみるが、よくわからない。あるいはここにある性的描写に興奮するだけかもしれない。
とにかく今の私はかつては共感できる部分があったかもしれないが、今となってはすれっからしのオジサンになってしまっているためどうしたって青臭く感じてしまうところはある。だからどこか懐かしい感覚でこの物語を再読する。しかしそれでも結構いけていた。
直子が入所した療養所のルームメイトであるレイコさんの言葉がまず心に残る。
「十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたをすると、年をとってから辛いのよ」
これって何となくわかる。やっぱり自分もそういう時期に妙な歪みかたをしたんじゃないかと思う。だからまだ諦めのつかないときは、もがいてきたような気がする。詳しく自分の歪みをここで書いても仕方がないことだから、これ以上は書かないけれど、確かにそういうことがあり、もがき苦しんできた。
そしてたぶんそれは悲しんでいいことなのかもしれないけれど、諦めが歳と共に勝ち、歪みが当たり前となっている。かといってリセットして昔のようにもがき苦しむことを望むかと言えば、“もういい”と断るだろう。この歳になってももがき苦しむのはごめんだ。歪んでしまったものはもうしょうがない。
直子もレイコさんと似たようなことを言っているのが印象的だった。
「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきているのよ」
直子の手紙も考えさせられる。
「ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けいれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方にくせがあるように、感じ方や考え方や物の見方にもくせはあるし、それをなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです」
「私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません」
「ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たち『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています」
私はふと思うことがある。その歪みって、誰に対して、あるいは何に対して、歪んでいるということになるのだろうか。何かの対象となるものがあって、それに順応できないところが歪みというのであろうか。
しかしよく考えてみると、人それぞれ人生に受ける衝撃の強度は違うはずで、その対応もまちまちであろう。またどういう形であれ、その衝撃から立ち直れる人もいれば、いつまでもそれを引きずる人もいる。そうなのだ。決して人は画一的に見られるものじゃない。そういうさまざまなタイプの人が集まって、いわゆる社会というものを形成しているわけである。だったら本来そういったことを認めていいはずのものが、いつの間にか、いつまでも引きずっている人間を隔離していく。それこそ“病気”として称して。そしてそのレッテルを貼られた人は自家中毒を起こし、自らを歪んでいると思い始め、それが高じて精神をおかしくしていく。
自分のことを人に言いたくても、さまざまな事情でうまく表現できないことを悩む人がいる。そしてうまく言えない人を病気にしてしまう人がいるのである。だから人はそれこそ一所懸命、埋もれそうになりながらも、自分を表現していくのである。
でも世の中にはワタナベのように自ら苦しんできた過去から歪みを自覚しながら、「みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてイライラするんだ」と言える優しい人がいる。たとえその優しさが特定の個人対しての優しさであっても、そう言ってくれる人がいるだけでも、本来救われる。
それに対して直子は「誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです」と書いている。ただ直子の人生の衝撃(姉の自殺、キズキの自殺)は、直子の性格を考えると、それに耐えうる以上のものであった。そして直子の自殺は、直子を助けようとして自らが強くなろうとしているワタナベに、追い打ちをかけることとなる。今度はワタナベが助けてもらう番となる。レイコさんや緑にである。それが読んでいてわかるものだから、この物語は救いがある。そういう意味でこの小説は読み直してよかったなと思った。ただワタナベ君ちょっとかっこよすぎるんじゃないのと思わないでもなかった。
ところでこの小説を読み返してみて、なんだか一部どこかで読んだことがあるような気がしたのだ。確かにこれで二度目だから、当然そう感じてもおかしくないのだが、どこかに似たような村上さんの小説があったような気がしたのである。(最初読んだときはそんなことは思わなかったのだが)で、あとがきに短篇の『蛍』を肉付けしてこの小説が生まれと書かれていて、思わず“やっぱり”と思った。さっそく、手持ちの短編集を取り出して、読んでみた。そうかこの短篇がベースになっているんだと思いつつ、次はこの短編集を読み始める。
評価
★★★★
書誌
書名:ノルウェイの森〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035156
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:267p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)
書誌
書名:ノルウェイの森〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035163
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:260p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)