2009年09月28日

村上春樹著『村上春樹全作品』〈3〉

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 先に読んだ『ノルウェイの森』のもとになった短編『蛍』を読みたくなり、この短編集を取り出して読んでみた。多分ここに収録されているのは、村上さんの初期の短編なんだと思われる。『中国行きのスロー・ボード』と『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録された作品がここには収録されている。もちろんいずれも昔読んでいる。個人的には「午後の最後の芝生」、「シドニーのグリーン・ストリート」、「蛍」が懐かしく、よかった。
 「午後の最後の芝生」は主人公の僕がアルバイトで芝刈りのアルバイトをやっていて、アルバイトして最後の仕事の風景を描いている。僕はとにかく徹底して自分が納得するまで仕事をする。だから機械よりも手作業が多くなる。必然的に他の人より時間がかかるが、その分仕事は丁寧なのだ。
 中年の女がいる庭の芝生を刈りに行くのだが、その芝生はそれほど延びてはいない。けれどとにかく刈ってくれと頼まれる。結構うるさそうな女なのだ。でも僕が刈った芝生を見て、彼女の死んだ亭主のように芝生を刈るという。そして彼女は僕を部屋に入れ、ビールとサンドイッチをご馳走し、多分自分の娘の部屋を僕に見せ、僕にどんなイメージが湧くか尋ねる。ただそれだけの話なんだけれど、なんかいい感じの物語であった。
 暑い日差しのなかで、ラジオかけ、ショートパンツ一枚で芝生を刈る情景。その後の彼女にご馳走されたサンドイッチとビールが美味しそうであった。そして仕事が終わり刈り上がった芝生の表面が絨毯のようになめらかになっている情景など、素直に頭の中に浮かんでくる。
 僕はその時彼女と別れたばかりであった。彼女から来た別れの手紙の内容を休憩中思い出す。

 「あなたのことは今でもとても好きです」

 「やさしくてとても立派な人だと思っています。これは嘘じゃありません。でもある時、それだけじゃ足らないんじゃないかという気がしたんです」

 これ言われたり、感じたりしたことありません?若い頃間違いなく相手が好きであっても、どこか相手にもの足りなさを感じることって、あるでしょう・・・。

 「シドニーのグリーン・ストリート」は、羊男が趣味で探偵をしている僕に、羊博士にかじり取られた耳を取り返してくれという依頼をしにくる。羊男が懐かしい。また羊男の話を読みたくなちゃったなぁ。

 「蛍」は僕がいる学生寮の同室人が近所のホテルで放された蛍を捕まえた。それを彼女に渡せば喜ぶよということで僕に渡す。『ノルウェイの森』ではワタナベ君の同室で、国立大学で地図学を専攻し、国土地理院への就職を希望する生真面目で潔癖症の突撃隊”になる。
 この「蛍」でも『ノルウェイの森』もその蛍を彼女にあげることはできなかったのだけれど、『ノルウェイの森』もよかったけれど、この「蛍」ももの悲しくていい。(当たり前か!だって『ノルウェイの森』はこの短編を肉付けして書かれたものなんだから)

 思うのだけれど、村上さんの小説はいわゆる“ムラカミワールド”として非現実的な舞台設定で物語が始まるけれど、でもそこに登場する人物たちは我々と同じ現実で生活している人と同じである。きわめて現実的で、生活感あふれる人たちなのである。だから舞台は非現実的であっても、ものの考え方、感じ方はストレートに読む側に入ってくる。いや、舞台が非現実的だからこそ余計に私小説的部分は心に響いてくるような気がする。ごく普通にあることなのだ。それが強調されて読む側に届くといっていいのかもしれない。妙に納得しちゃったりしてね。特に喪失感はずんと心に響くし、そのやるせなさはよくわかる。むなしさといってもいいかもしれない。そしてそういった喪失感は誰しも経験しているだけに、つらさがよくわかる。


評価
★★★


書誌
書名:村上春樹全作品 〈3〉 ― 1979~1989 短篇集 1
著者:村上 春樹
ISBN:9784061879331
出版社:講談社 (1990/09/20 出版)
版型:56p / 21cm / A5判
販売価:3,150円(税込)

2009年09月21日

村上春樹著『ノルウェイの森』〈上〉〈下〉

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 書泉にこの本のポスターが貼ってあった。なんで今頃この本のポスターが貼られているのだろうとふと思う。確かに村上さんに最新刊が大きな話題になっているから、それも関係あるのかなと思ったが、よく見ると『ノルウェイの森』がその発行部数が1,000万部突破したことが書かれている。なるほどこれかと思った。
 そのポスターを見たからじゃないのだけれど、もう一度村上さんの作品を読み直してもいいかなと思っていたので、手始めにこの本を手にしたわけだ。私の持っている本は1988年8月17日の第20刷のものなのだが、久しぶりに手に取ってみると、古本の風格を帯びている。もうこれを読んで21年たったのかと、月日の流れが速いことを感じてしまう。
 この頃私はわずか10坪ほどの店の店長だった。私が持っている本は発売されて1年たった時の本なのだが、この時でもまだこの本は売れていて、仕入をしてもすぐ売れてしまい、仕入をするのに苦労していた。わずか10坪の本屋など問屋はまともに対応してくれないものだから、この本の配本なんかなかった。だからせっせと現金をもって神田村で仕入をしていた。ちょうどこの頃コミックの『東京ラブストーリー』もテレビドラマの影響もあって、それも売れていて、一緒に仕入をし、並べて売っていたはずだ。
 私は村上さんのこの本がどうしてこう長く売れ続けるのか知りたかったから、自分でも買って読んだ。ただ、今になるとそれほど本の内容が記憶にない。だから読み返すにはちょうどいいかもしれない。
 それで話はちょっと話は横道にそれるのだけれど、私の持っているこの本は上巻が赤、下巻が緑の一色で装丁され、帯が金色である。今の版もそうなのかどうか知らないが、これはクリスマスプレゼントにもってこいの装丁だ。実際当時クリスマスの時期にプレゼントにどうぞ!というのが講談社当たりから言われていたような気がする。(しかし恋人にあげて、盛り上がる本じゃないような気がするが・・・)
 ところで今回この本を再読するに当たり、そのままスキャンしたのだが、この金の帯が真っ黒になってしまうのである。そうか金色はうまくスキャンできないんだと知った。仕方がないので、私の趣旨から反するのだが、帯を取っスキャンする。

 さて、ワタナベが高校二年時の友人でキズキという仲のいい友人がいて、直子はキズキの幼友達であり、恋人であった。三人でうまく付き合っていくには一見バランスが悪そうなのだけれど、不思議なもので結局三人でいる方がうまくいく。こういうのってこの時期よくあるパターンだ。
 そして十七歳の五月の夜にキズキは自殺した。そして残されたワタナベと直子は人生の歪みに直面していく。とりあえずワタナベはその歪みを客観的に捉えながら生きていくが、直子はキズキの自殺の前に、姉の自殺を経験しているため、ワタナベより深刻な精神的に不安定に陥る。ワタナベは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と思うようになり、死というものが自分の人生に既に含まれてしまっているものだから、キズキの死を努力して忘れようとしても忘れ去れるものじゃないという境地になる。十七歳の時からそう考えなきゃならなくなったことは、これはかなりきつい。そこから自分の人生で失ってきた、あるいはこれから失っていくであろう多くのものを考え、そして後戻りできない事実に直面するとなると、嫌が上でも自分の人生に歪みが生じてくる。特に感受性の高いこの時期に友人の死は、間違いなく残された人に歪みを植え付けていくか、自覚させるだろう。そしてそうした歪みって、かなり怖い。それを感じるだけで、うまくうっちゃれればそれでいいのだが、もろ直面してしまうと、ただただ怖ろしいものではないだろうか。この小説はそうした歪みにどう対処していけるのか、ワタナベと直子の物語である。

 昔、たぶん中学生の頃だったと思うが、私はいつも感じていたことがあった。それは頭の中に一本の道みたいなものがあり、いつも自分はちゃんとこの道の上を歩いているだろうかと確認するのである。なんて言えばいいのか、よくわからないけど、それは私が進むべき清く正しい人生行路みたいなものだったような気がする。ときにちょっとした挫折(といっても大したことじゃなく、ほとんど失敗みたいなものだった)をすると、その道から外れた位置に自分はいると感じ、怖ろしくなったのである。何とか軌道修正してその道に戻らなければと焦った。そして今思うのだけれど、その道を外れていると感じたことはしょっちゅうで、些細なことでいつも不安に駆られていたような気がする。
 何でこんなくだらないことを書くかといえば、この本にある歪みって、たぶん私が当時感じていた不安や不安定感ともしかしたら似ているような気がしたのである。つまり私の頭の中にあった一本の道から自分がそれることは自分が歪んでいく過程だったような気がするのだ。
 私の場合、こんなくだらない感覚なのだが、おそらく誰しも若い頃にはどういう形であれ自分の歪みみたいなものに不安を感じ、恐れたことがあるんじゃないかと思ったりする。だからこの小説は若い人にとって“通過儀礼”のような一冊となって支持されているのではないかと思うのだ。
 そして長いこと人生を過ごしてきてオヤジとなった自分が今この本を読んで、むしろそうした時代が自分にも確かにあって、懐かしく思える。けれど一方でそういうピュアな気持ちがいつまでも続く方がおかしいのであって、そんなこといつまであり得るわけがないじゃないと半ばバカにするようになったことをどう考えればいいのか。喜ぶべきなのか、悲しむべきことなのか。そういうのが人生だと、どこからか聞こえそうだけど、少なくとも私はそんな風にぶりたくない。むしろこの悲しい物語を通して、かつて自分が自覚していたであろう歪みに対する不安を懐かしむのである。
 もしこの小説が今の若者の通過儀礼となっているなら、その若者はこの物語をどう感じるのか知りたくもある。またもし私の若い頃にこの本が出版されていて、読んだらどうだったろうかと思ってみたりする。直子みたいに不安に駆られるのか。あるいはワタナベのようにそうした歪みに彼なりの抵抗に共感するのか。考えてみるが、よくわからない。あるいはここにある性的描写に興奮するだけかもしれない。
 とにかく今の私はかつては共感できる部分があったかもしれないが、今となってはすれっからしのオジサンになってしまっているためどうしたって青臭く感じてしまうところはある。だからどこか懐かしい感覚でこの物語を再読する。しかしそれでも結構いけていた。

 直子が入所した療養所のルームメイトであるレイコさんの言葉がまず心に残る。

 「十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたをすると、年をとってから辛いのよ」

 これって何となくわかる。やっぱり自分もそういう時期に妙な歪みかたをしたんじゃないかと思う。だからまだ諦めのつかないときは、もがいてきたような気がする。詳しく自分の歪みをここで書いても仕方がないことだから、これ以上は書かないけれど、確かにそういうことがあり、もがき苦しんできた。
 そしてたぶんそれは悲しんでいいことなのかもしれないけれど、諦めが歳と共に勝ち、歪みが当たり前となっている。かといってリセットして昔のようにもがき苦しむことを望むかと言えば、“もういい”と断るだろう。この歳になってももがき苦しむのはごめんだ。歪んでしまったものはもうしょうがない。
 直子もレイコさんと似たようなことを言っているのが印象的だった。

 「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきているのよ」

 直子の手紙も考えさせられる。

 「ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けいれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方にくせがあるように、感じ方や考え方や物の見方にもくせはあるし、それをなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです」

 「私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません」

 「ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たち『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています」

 私はふと思うことがある。その歪みって、誰に対して、あるいは何に対して、歪んでいるということになるのだろうか。何かの対象となるものがあって、それに順応できないところが歪みというのであろうか。
 しかしよく考えてみると、人それぞれ人生に受ける衝撃の強度は違うはずで、その対応もまちまちであろう。またどういう形であれ、その衝撃から立ち直れる人もいれば、いつまでもそれを引きずる人もいる。そうなのだ。決して人は画一的に見られるものじゃない。そういうさまざまなタイプの人が集まって、いわゆる社会というものを形成しているわけである。だったら本来そういったことを認めていいはずのものが、いつの間にか、いつまでも引きずっている人間を隔離していく。それこそ“病気”として称して。そしてそのレッテルを貼られた人は自家中毒を起こし、自らを歪んでいると思い始め、それが高じて精神をおかしくしていく。
 自分のことを人に言いたくても、さまざまな事情でうまく表現できないことを悩む人がいる。そしてうまく言えない人を病気にしてしまう人がいるのである。だから人はそれこそ一所懸命、埋もれそうになりながらも、自分を表現していくのである。
 でも世の中にはワタナベのように自ら苦しんできた過去から歪みを自覚しながら、「みんな自分を表現しようとして、でも正確に表現できなくてイライラするんだ」と言える優しい人がいる。たとえその優しさが特定の個人対しての優しさであっても、そう言ってくれる人がいるだけでも、本来救われる。
 それに対して直子は「誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです」と書いている。ただ直子の人生の衝撃(姉の自殺、キズキの自殺)は、直子の性格を考えると、それに耐えうる以上のものであった。そして直子の自殺は、直子を助けようとして自らが強くなろうとしているワタナベに、追い打ちをかけることとなる。今度はワタナベが助けてもらう番となる。レイコさんや緑にである。それが読んでいてわかるものだから、この物語は救いがある。そういう意味でこの小説は読み直してよかったなと思った。ただワタナベ君ちょっとかっこよすぎるんじゃないのと思わないでもなかった。

 ところでこの小説を読み返してみて、なんだか一部どこかで読んだことがあるような気がしたのだ。確かにこれで二度目だから、当然そう感じてもおかしくないのだが、どこかに似たような村上さんの小説があったような気がしたのである。(最初読んだときはそんなことは思わなかったのだが)で、あとがきに短篇の『蛍』を肉付けしてこの小説が生まれと書かれていて、思わず“やっぱり”と思った。さっそく、手持ちの短編集を取り出して、読んでみた。そうかこの短篇がベースになっているんだと思いつつ、次はこの短編集を読み始める。


評価
★★★★


書誌
書名:ノルウェイの森〈上〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035156
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:267p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)


書誌
書名:ノルウェイの森〈下〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784062035163
出版社:講談社 (1987/09/10 出版)
版型:260p / 19cm / B6判
販売価:1,365円(税込)

2009年09月18日

ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン著『旅に出ても古書店めぐり』

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 続いて、ローレンス&ナンシー・ゴールドストーンの2作目を読む。この本の原題は「SLIGHTLY CHIPPED:Footnotes in Booklore」(やや欠け傷あり-書物学の脚注)というらしい。読んでみると、結構古本に関して深く記述されていて、一冊の古本が持つ“いきさつ”にこだわるところは前作とは違っていた。原題がそういう書名だと聞いてある程度納得する。しかしこれじゃ堅苦しい書誌学の本みたいで、間違いなく売れないだろう。だからこの書名にしたのだろう。
 ここで面白いのは、いずれ本の価値が上がるだろうと、その評価が確定しないうちに、先に見込んでその作家の新刊を買っておき、ど~んと価値が出てきたら、高額な値段で売り出すことである。これってそう簡単にいくもんじゃないと思われるけど、私が書店員時代にいわゆるコレクター目的(いずれは高く売るのだろうから、投資目的もあるだろう)で、大きな賞を取った作品の初版を求める人がいた。こういう人はそんな目的で本を買うものだから、もうそれは大変なのだ。まず初版であること。そして少しでもカバーが汚れや折れ目などないか、真剣に確認する
 そしてレジに“選ばれた本”を持ってくるのはいいのだけれど、その本を扱う方も気を使う。こっちは他のお客さんと同じように本を扱うのだが、その人はぞんざいに扱ったように見えるらしく、何度か文句を言われたことがある。
 とにかくそんな人がいるのだ。だから本を読むというより、その本の存在そのものに価値を見出す人がいて、この本に同じような感覚で本を扱う人のことが書かれている。特にミステリー分野の超現代作家市場はホットらしい。
 この本によると、ミステリーの読者は変わっていて、探偵や刑事など、要するにナゾを解明する登場人物にファンがつく。だから例えばパトリシア・コーンウェルの新作でも、そこにケイ・スカーペッタが登場しないとなれば、読むのをちょっとためらっちゃうわけだ。
 いくら作者が意欲的に新しい作品を書いても、その作者の作品にはこの登場人物でなければならないということになってしまうのである。つまり読者がその登場人物のファンになっているものだから、作者は“読者の想像力の奴隷”とならざるを得ず、いくら新作でもその人物が登場しない作品は読まれないのだ。作者の方が「もういいでしょう」といってシャーロック・ホームズを殺しても、また無理にでも復活させなければならなくなるのだ。だって、読者はホームズものを読みたいんだから・・・。
 だから古書としてミステリーを売る場合、こういう事情を考えて、新刊時に初版を買っておけば、いいコレクションを持つことができる。そしてある程度時間がたてば、その登場人物がいる古本として価値が生まれちゃうのだ。
 この読者の気持ちはよくわかる。私の場合ミス・マーブルよりポアロがいいし、メグレもいい。スティーブ・キャレラもいいし、マルティン・ベックもしかり。刑事クリフもいい。鳥飼刑事が『時間の習俗』に登場したときは、感動したね。(テレビで鳥飼刑事役をビート・たけしがやっていたが、あれはミスキャストだ。なんかこれどこかで書いたような気がするが・・・)そうなのだ。読者は贔屓にする登場人物のファンであれば、その人物がいる本を間違いなく求める。必然的にその本の初版でも持っていれば、古本として価値が出てしまうのだ。

 さて、この本にもインターネットで古本を買うことが書かれている。私もインターネットをやるようになって、やはりネットの古本屋さんは重宝している。それは前作の感想を書いた通りである。
 この著者も今までのようにイエローページを使って、古本屋の場所を探し、そこへ訪ねる方法だけが、古本を購入する方法だと言えなくなったと痛感している。そして古本屋の方も顧客拡大のためにネットの重要性を感じ、それに対応していることも書かれている。
 著者はインターネットを便利で強力なツールであることを認めていて、それを使えるなら「なぜ正気の人間が時間をむだにしてまでも、“すべての古書店や稀覯本専門店にわざわざ自分で足を”運んだりするだろうか?」と言っている。まさにその通りで、古本購入にはインターネットはもってこいのツールなのである。
 しかしそうであっても、「インターネットだけでは、けっして驚きを感じることができない」、「自分の探している本以外のなにかを見つけることができない」、「インターネットは本を手に入れたり、集めたりするのには役立つが、直接の体験には役立たない」、「インターネットは書店へじかに足を運ぶより機能的かもしれない。能率的かもしれない。人目を気にせずにすむかもしれない。安上がりかもしれない。また、はるかに便利なのはたしかだ。ただ、あれほどのおもしろさない」とも言う。
 まぁ、これらはリアル書店(お店のある古本屋さんも含んで言っている)の存在価値を言うために使い古された言葉である。要はネットでは味わえない“手応え”をリアル書店で実物に触れることで味わうことができるという一点に尽きるわけだ。
 それはまったくその通りだろうけど、私に言わせれば「だから?」と言いたくなる。実物を味わいたかったら、古本屋さんに行けばいいし、行く必要や時間的余裕などがなければネットを使えばいいことだけのことじゃないかと思う。利点や美点を主張したって、あまり意味はない。もちろん逆もしかりで、それぞれの悪い点を指摘しても仕方がないと思う。だってもうこれ以上本質を変えることができないんだから、いいわるいは、不毛の議論であろう。私みたいに新刊書店や古本屋さん巡りをするのが好きなやつもいれば、ネットを使って本を探している人がいても、別にいいじゃないかと思うのである。
 それともう一つ。本を読むものと決めつける人もいれば、コレクターアイテムとして考える人もいても、何ら不思議じゃない。ただそれぞれ“おかしいじゃないか”と言い合う必要性がないということだけである。


評価
★★


書誌
書名:旅に出ても古書店めぐり
著者:ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン 浅倉 久志【訳】
ISBN:9784150502485
出版社:早川書房 (2001/02/15 出版)ハヤカワ文庫NF
版型:338p / 15cm / A6判
販売価:756円(税込) 

2009年09月15日

ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン著『古書店めぐりは夫婦で』

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 この本は発売されたとき買ったものだが、そのままお蔵入りになってしまった。もちろん気になっていたのだが、外国ものの古本エッセイって、うまく頭の中でイメージできないものだから、ついつい億劫になり今日まで来てしまった。確かに読んでみると、日本の古本業界とは違う。本もいかつければ、売る方もなんか仰々しい感じだ。
 ゴールドストーン夫妻が古本に興味を持ったきっかけは、二人の誕生日にプレゼントが始まりだった。二人の誕生日は八日違いと、お互いの誕生日が近いものだから、プレゼントの交換を毎年やっているのだが、そのプレゼントにお互い不満があった。プレゼントの要する金額は毎年つり上がっていき割には、双方がそれほど満足しないことがあるからである。
 そこで、プレゼントに要する金額を20ドルに制限したのである。20ドルといえば、今の日本円で2,000円ちょい。当時はもう少し価値があっただろうけど、それでも安い。あとは創意工夫でプレゼントを考えなければならならない。そこでナンシーは夫にトルストイの『戦争と平和』を贈ろうと決めるが、今ある『戦争と平和』は、夫にはいまいちである。そこで図版たっぷりの古本を見つけ、それを贈る。以来この夫婦は古本の魅力にとりつかれ、近郊の古本屋を制覇し、子供をベビーシッターに預け、シカゴ、ボストン、ニューヨークと古本漁りを始めるのであった。いつの間にかこの夫婦は稀覯本収集に目ざめていく。
 古本屋さんの目星をつけるためにイエローページを使って、めぼしい古本屋さんに電話をかけて、約束をしてからお店に行く。わざわざ古本屋さんに行くのに、コンタクトを取ること自体、日本とは違う。それに、まぁそうした一癖もあるような古本屋さんだからか、とにかく古本に対して語ること語ること。店に行けば店員がついて回ってくるのだ。これじゃ本を選ぶ余裕もなくなるのではないかと思ってしまう。
 ここに出てくる古書店の在庫はどちらかと言えば“個人の持ち物”といった感じで、それが店の個性となっている。だから「どうやら古書店の在庫はは、ペットとおなじで、持ち主の人格を反映する傾向にある」と言わしめる。だから本について語らずを得ないのだ。それもうるさいくらいに。

閑話休題

 ところで日本の本屋さんや古本屋さんは基本的に無口である。無愛想である。今でもそうした傾向はある。だからこの本の古本屋さんのように、多くを語ることに驚きを感じてしまう。日本の場合無口なのは、本を読むことは知的作業だから、おしゃべりするもんじゃないというところかもしれない。
 本のセールトークをしないものだから、今度はPOPを書いて平台の本と一緒に飾る。これがやたら乱立していて、かんじんの本が見えない本屋もあるのもよく見かけるが、これは麻生総理(まだ元じゃないよね)じゃないが「いかがなものか」と思う。うざったくてしょうがない。
 まぁ最近の本屋の店員はマックの店員と同じくらいマニュアル通りにしか仕事ができないから、クオリティーが低下している。せいぜいレジに客を誘導するために手を挙げるしか能がないのだから仕方がない。まだPOPを書けるだけでもマシかもしれない。
 最近はコンシェルジュなんてシャラ臭い名前をつけて、本の紹介などする役目の店員もいるらしいが、どうしてそんなやつに紹介された本を読む気になるのだろうかと思う。きっと薦められた本を目の前に出されれば、たとえ躊躇してもありがたがって買ってしまうんだろうな。もし薦められた本が面白くなかったら、こいつら責任を取ってくれるのか、と思う。(そういう人はいないのだろうか。ネットでは結構ありがたがっているコメントを読むが、文句を言っている人のコメントが読みたいな)
 だいたい人が何を読みたいのか。何を要求しているのか。そのコンシェルジュというやつはそれがわかっちゃうのかと言いたくなる。本を求める人は、それぞれの理由があるだろうし、考えや感じ方もそれぞれ違うはずだ。それをちょっと話を聞いただけで、“この人にはこの本と”わかっちゃうものなのだろうか?そのコンシェルジュというやつが得意とする分野と違う本の内容のことを聞かれたら、どこまで答えるのだろうかと思うのだ。だからといって多くの分野を網羅するため、たくさんのコンシェルジュを置いているとも思えない。ましてこう不景気な時代だよ。人件費削減が当たり前の時代に、そういうことは考えにくい。ということは、せいぜい差し障りのないところしか言わないのではないかと思うのだ。だからこそそんなやつの意見がどこまで信頼できるかと思うのだ。あくまでも本を探す一つの手段と考えればいいのだろう。そうすればコンシェルジュという存在に腹を立てることもないはずだ。
 私に言わせれば、自分の読む本ぐらい自分で探せと言いたくなる。それでなくても今は昔と違い、本の情報などネットを使えばごろごろしているじゃないか。それも面倒で、自分で探すのも時間がかかるから、効率的に、薦めてくれる本読むのだろうが、大体本を読むこと自体“非効率”な行為なんだから、仕方がないじゃないかと思う。何度も失敗してみるもんだ。こんなことを書くと勝間和代みたいなやつは怒るんだろうな。でも本を読むスタンスが違うんだからしょうがない。

 さて、この夫婦、古本に関しての知識に飢えているものだから、熱心に店員の言葉に耳を傾ける。それがちょっとしたうんちくになっていて、この本を面白くしている。
 とにかくここに出てくる本はすごそうである。たとえ現代作家の初版本であっても、やはり英米文学の作家の初版本と聞くだけで、どこかたじたじになる感じがする。名前を聞いたことがある作家の初版本だよ。どんな装幀の本なんだろうと思うのだ。
 まして稀覯本となると、それこそ博物館におさめられて、防弾ガラスと何人かの警備員がいてもおかしくない本が、そうした古本屋さんにあり、手にできるのだからすごい。もちろんそうした本は値段も相当なものになる。
 ゴールドストーン夫婦が訪ねた古本屋さんにあまりにも値段が高いことに文句を言うと、「最高品質ということがすべてです。本の収集は完璧なものを探すこと、唯一無二のもに近づくことだから」と言い切るのだ。私など見てもなんの本かわからないだろうけど、話を聞いてその本を見るだけでも、目の保養になるよなぁと思ってしまう。
 また古本にもはやりすたりがあり、本来もっと評価されていい作家の本が、それほどの扱いされていないことを、ある古本屋さんは本にも旬があると言うのだ。そして「旬の本にはロマンスがある。古書業界はロマンスを売る商売だ。ときに業者はロマンスを演出するときもあるが、一般的にいうと、適当な本にはすでにロマンスが付随している」とも言う。
 確かに古本は時代を生き抜いてきたものだから、それだけでロマンがあるし、歴史がある。私が古本屋さんで探し歩き、手にした本でさえ、もうそれを手にしているだけで、ワクワクするのだから、ましてそれよりはるかに古い本であればなおさらだろう。

 最近はネットで簡単に日本全国の古本屋さんの在庫が確認でき、値段と相談で、そのまま購入することができるが、やっぱりこうして古本屋さんを歩き回り、目的の本以外のお宝があるかもしれない。そうした楽しみはネットでは味わえない。時には思いもしなかった発見があるのも、やっぱり古本屋さんを歩くことだろうと思う。だからこの夫婦の古本屋さん巡りは楽しいだろうなと思った。


評価
★★


書誌
書名:古書店めぐりは夫婦で
著者:ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン 浅倉 久志【訳】
ISBN:9784150502348
出版社:早川書房 (1999/09/15 出版)ハヤカワ文庫NF
版型:342p / 15cm / A6判
販売価:777円(税込)

2009年09月14日

田中栞著『古本屋の女房』

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 著者が大学時代本屋でアルバイトをしていたときの、一般文芸書担当の人が偶然著者の実家に近くで古本屋を開業した。店名は“黄麦堂”という。以来黄麦堂は著者のお気に入りとなり、結局再婚するに至り、はれて古本屋の女房となった。この本はそんな“黄麦堂”の日々を、著者の育児と仕入れをつづったものである。

 どうやら著者の仕入れのラインアップは見ていると、“黄麦堂”はごく普通の街中にある古本屋さんのようである。つまり格式高い専門書を扱う古本屋さんではないようだ。だから売れ筋のコミック、ボーイズラブ(女性向けの小説や漫画で10代の少年、特に美少年の同士の間での恋愛もの、いわゆるホモもの)ハーレクイーン、フランス書院文庫(エロ小説)、時代小説などが仕入れる本として必ず書かれる。と言うことはこの手の本を簡単に仕入れるにはブックオフがもってこいなのである。だから全国各地仕入れ先に必ずブックオフが登場する。そこでセドリを行うわけだ。
 セドリとは古本屋さんが他の古本屋さんで自分のところで売る本を買い入れることである。古本屋さんが古本屋さんで本を買うわけだから、いわゆる社員割引なみたいなあるかというか、そんなものは一切ない。売値で買ってくるのである。できるだけ安いやつを見つけてきて、それに自分のところの利益を乗っけて、売るのである。
 この本は著者が何かの用で全国各地を訪れるとき、ついでに自分の欲しい本と店用の仕入れを「趣味と実益」を兼ねた古本屋行脚である。それを面白くしているのは著者が二人の子供を連れて、古本屋巡りをすることである。それがこの本の特色かと思う。ベビーカーを押しながら、むずがる子供なだめ、仕入れをする光景など、そうそうないだろうから、それがかえって珍しいく、面白い。子供連れだとトイレの問題がある。ところかまわず、「おしっこ」、「うんち」となる。だいたい古本屋さんにはお客用のトイレなどないのが普通である。だからわざわざ断ってトイレをかりるはめになる。またブックオフに頻繁に行くものだから、子供の方が、「本を売るならブックオフ♪」という歌を覚えてしまい、鼻歌にしてしまうくらいなのだ。
 しかしこのセドリは古本屋には嫌がれるという。だっていくら売値で売れても、下手をすれば売れ筋商品をごそっと持って行かれる可能性も充分ある。それはブックオフでも同じ。だからあからさまに大量に本を買うと、同業者だなということがわかり、「ご遠慮願いませんか」と言われるという。で、仕方がないので大きくなった娘さんを使って、仕入れをさせるという。
 しかし知らなかったなぁ。ブックオフにもゴールド会員のカードがあるなんて・・・。この本によると、これはブックオフで5万円以上買わないともらえないものらしい。このカードを娘さんが持って、本を買うというのには笑ってしまった。

 この本がほのぼのと感じさせるのは著者のイラストである。子供たちが古本屋さんにいるときの姿がかわいらしく描かれている。なかなかうまいものである。
 しかしこの“黄麦堂”の商品のために、著者の全国古本屋での仕入れ模様を読んでいると、特にその仕入れ内容を見ると、この古本屋の危うさを感じる。大丈夫なんだろうかと思ってしまい、そして最後に“やっぱりな”となってしまう。だいたいその仕入れがブックオフを頼りにするところは、どうしても不安を感じる。
 昔、インターネットで古本屋さんを始めた人の本を読んだことがあるが、ネット販売だから店舗を持つ必要がない。必要なのは警察に古物商の届を出すぐらい。後はどうやって仕入をするかである。それをこの人は各地のブックオフで仕入をし、自分のところの商品としてアップするのである。確か簡単な損益計算書みたいなものが掲載してあって、それを見るとせいぜい“小遣い稼ぎ”程度の利益しかなかったはずだ。
 もちろんこの“黄麦堂”は古本屋として店舗を構えているれっきとした古本屋さんだから、小遣い稼ぎとはわけが違うだろうが、ブックオフでのセドリに頼るところは、やっぱりまずいんじゃないかなと思わせる。
 さらにそのセドリを奥さんにやらせるところは、どうなんだろうと思う。旦那の方は他の仕事があって、そうした仕入ができない事情があるのだろうが、なんか奥さんの方がたくましく生きていて、旦那の方はそれに頼っている感じがしてしまう。
 実際問題、売上が低迷して、生活費さえ家に入れられない状態に陥るし、店をたたむときの旦那の対応は、まさに世間ズレしていない、浮世離れしたところがある。いいように業者にお金をふんだくられる。最後は結局こうなるのかと思いつつ、この本は終わる。
  結局“黄麦堂”はインターネット専門の絶版文庫販売の古本屋さんになっている。これだって余計なことかもしれないけれど、このご旦那にやらせているといつまで続くのかなと思ってしまう。ここでも単に本好きと商売とは違うということを思い知らされる。

 本自体、装幀も凝っているし、イラストもいいと書いた。また著者が校正のテクニック持っているので、その道の多くの人にこの本の校正を手伝ってもらっているようで、かなり手間暇かかっているらしい。が、その割には内容のてんまつが貧弱だったのは寂しい限りだ。


評価
★★


書誌
書名:古本屋の女房
著者:田中 栞
ISBN:9784582832426
出版社:平凡社 (2004/11/04 出版)
版型:217p / 19cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2009年09月12日

吉村昭著『お医者さん・患者さん』

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 この随筆ちょっと期待したところがあったのだが、どうも期待はずれであった。私が期待したこととは、吉村さんが医者や患者を実際問題、どう考えているかということである。確かに吉村さんによる医者というもの、あるいは患者たるもの、こうあるべきだと書いてはあるのだが、どうも私には一般論としか読み取れなかった。

 ということで、ここは本から離れて、今の私が病気である患者(自分)が医師をどう考えているか書いてみる。その前にこの随筆に「医師は、医師である以前に人間でなければならないはずである。それも人間の生死をあずかる職業人だけに、高度な人格をもつ人間であることが要求される」と書かれていることから始めたい。
 この論理はおそらく大方の日本人が持っている意識じゃないかと思う。そしてそこから医師はそうであらねばならぬ、という思いに変わっていく。図式で書けば医師=人格者=名医ということだろう。そこから医師は人格者であるから、どんなときでも自分のことより患者のことを最優先に考えなければ医師じゃないということになっていく。しかしこの考え方は患者の優位性を自己主張させることになる。つまり自分は病人で弱者であるから、当然それなりに扱ってくれなきゃ困るという考えが生まれてくる。医師は人格者なんだから、そのように扱うのは当然というものである。ここにモンスターペイシェントが生まれる背景があるような気がする。そうしてモンスター化した患者は、医師は病気を治して当たり前という考えが頭から離れない。自分の病気がなかなか治らなければ、今度はその医師に藪医者というレッテルを貼り、吹聴するのだ。
 実は私もちょっと前までそうであった。しかしここ数年胃腸で通院し、最近はぎっくり腰、そして歯医者と病院通いが続くと少しずつ考えが変わってくる。特に胃腸に関してはその思いは複雑だ。私はこの病気で三回、病院を変えてきた。病院を変えた理由は簡単である。“治らない”からだ。やりたくもない検査をやって、複数の薬を毎日飲んでも一向に良くならなかったからだ。その結果、その医師はダメだということになり、その医師は力不足と思ってきたのである。違う先生のところへ行けば、もっと良くなると思うのである。そこには病院に行けば病気は必ず治るものだという考えがあるからである。
 でも最近はそうじゃなくて、病気は治るものもあれば、治らないものもあるんじゃないか、と思うようになっている。それは諦めみたいなところもあるけれど、どうしようもない状態だってあるのではないか。だからあとは、少しでも気分が良くなるような状態が維持できるようすればいいのではないか。

 医師は病気というものを必ずしてくれるものではないということを感じ始めたのである。あるいは薬は完全に病気を治してくれるものじゃないのではないかと思い始めたのである。断っておくがそれは医師の力とか薬の効能にいちゃもんをつけているんじゃない。ここは素人の考えだけど、多分病気から治ろうとするのは自分の身体であって、医師の力とか薬とかはあくまでもそうした自己回復力をサポートするものなのではないかと思うようになったのである。
 そして自分の身体の回復力が衰えていたら、治りは遅いか、あるいは治らないというか、以前のようにはなれないと思うようになってきた。そうなのだ。自分の身体の衰えや老化、生活環境、生活習慣などを差し置いて、病気が治らないというのはおかしいんじゃないかと思うようになったのだ。
 人間歳をとれば体力も落ちるし、身体のあちこちにがたが来るのは当たり前である。そのように酷使してきたんだから当然である。それで治らないと言ってしまうのはおかしな話だろう。人間の身体はパソコンのパーツをスコンと丸ごと変えて、元の状態にするのとはわけが違う。死ぬまで自分の身体と付き合うしかないのだ。衰えたら衰えたなりに付き合っていくしかないのである。調子が悪いなら、悪いなりに付き合って行くしかない。生活環境など変えられれば、多少違うかもしれないけれど、そうそう今生きている環境を変えることなどできない。無理をしても生きていかなければならないのだから仕方がない。
 となればあとはどうやって自分の身体と折り合いをつけていくか、それしかない。その上で以後どうしていくか、それを考えてくれる医師が信用できる医師なんじゃないかと思うようになってきている。

 今通っている胃腸の科の先生ははっきりとそのことを言ってくれた。だからあとは日々いかに少しでも楽に過ごすことができるか、それを薬でサポートしようということに、私の場合なっている。だから今後いくら病院を変えても、多分意味がないのだろうと思っている。
 歯医者にしてもそうであった。やっと自分が安心して任せられる歯医者さんが見つかって、ホッとしていたところ、その歯医者さんが廃業された。このあとどうすればいいのか途方に暮れ、今日まで来てしまった。当時先生から厳しく言われていた日々のケアを怠らなかったので、幸いにも以後歯痛に悩まされることはなかったが、差し歯のぐらつきはどうしようもない。ネットいろいろな歯医者さんを検索しているうちに、その先生がまた歯医者さんを開業したことを知り、メールで連絡を取れば、すぐ来なさいと言ってくれた。
 そして差し歯を直してもらい、また問題のあるところを治療してもらうことになったのだが、そんなことはちっとも苦じゃなかった。それよりまた自分の歯をこの先生に診てもらえるというだけで、安心であった。
 胃腸科の先生にしても、歯の先生にしても、その技量は個人的に絶大な信頼を置いているけれど、それよりこんな私のことでもきちんとサポートしてくれるという安心感が今の私にはある。それで気持ちが楽になる。それが人格者云々のなせるわざと言うのだというなら、それでもいいけれど、でもそんな大上段に構えた言い方はあまりしたくない。むしろ先生の方は淡々と治療されているだけじゃないかと思うし、それでいいのではないかと思うのだ。弱っている患者は投げかけられる言葉の一つ一つに過剰反応をしてしまう。対応如何でえらいことになる。そう考えると医師という
職業は大変だ。でも医師=人格者=名医という考えは間違いなく患者の奢りのような気がする。

 今日は変な文章になっちゃったな。何度書き直してもいい感じになれない。書かなきゃよかったかな?


評価
★★


書誌
書名:お医者さん・患者さん
著者:吉村 昭
ISBN:9784122012240
出版社:中央公論新社 (1985/06 出版)中公文庫
版型:221p / 16cm / 文庫判
販売価:619円(税込)

2009年09月09日

フレデリク・フォ-サイス著『オデッサ・ファイル』

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 何で今頃こんな古い本を引っ張り出すのだと言われそうだけれど、引っ張り出して読む理由が出てきたからだ。実は本棚を整理していたら、探していた切り抜きが見つかったからだ。それは二枚ある

「ユダヤ人強制収容所長ロシュマン パラグアイの病院で死ぬ」

 【ブエノスアイレス十一日=鈴木(俊)特派員】パラグアイの首都アスンシオンから伝えられたところによると、十一日付のアスンシオンの新聞「ABCカラー」は、第二次世界大戦中ナチスのユダヤ人強制収容所長として約四万人のユダヤ人を殺害したかどで追われているエドワルド・ロシュマン元ナチ親衛隊(六三)が十日、アスンシオンの施療病院で死亡したと報じた。ロシュマンは先月四日、アルゼンチンで逮捕されたと一部外電で報じられたが、これは誤報で、その後、西独政府の引き渡し要請を受けて、アルゼンチン司法当局からロシュマンに対する逮捕命令が出されていた。
 ABCカラー紙によると、ロシュマンとみられる人物は十日朝、医療費を支払えない患者を収容するアスンシオンの施療病院で心筋梗塞のために死亡した。この人物は七月二十日ごろ、パラグアイに入国、同二十六日からフェデリコ・ベルナルド・ウェゲネルの名で同病院に入院していたという。この名前はロシュマンが先にアルゼンチンに入国した際使用していた偽名として、アルゼンチン当局が確認しているが、同紙によると、この患者は同じ名前の運転免許証を持っていた。また同紙が病院で遺体を調べたところ、両足の指が合わせて五本欠けているなど、身体的特徴もロシュマンのそれと一致するという。
 ロシュマンはナチ占領下のリガ(現ソ連ラトビア共和国)のユダヤ人強制収容所長をつとめ、一九四一年から四三年までにユダヤ人約四万人を殺害したとされるナチス親衛隊将校。ベストセラーとなったフォーサイスの「オデッサ・ファイル」にも登場することでも有名。 昭和52年(1977年)8月12日 読売新聞夕刊
 

「ナチのロシュマン既に死亡」 パラグアイ

   【ブエノスアイレス十九日=UPI共同】国際刑事警察機構(ICPO)は、十九日、今月十日、パラグアイの病院で心臓発作のため死亡した男が、第二次世界大戦中にラトビア共和国のリガで行われたユダヤ人大量虐殺の責任者エドアルト・ロシュマン元ナチ親衛隊(SS)大尉だったことを確認した。同機構によると、死亡した男の指紋は、ロシュマンがアルゼンチンでの亡命中に使っていた変名のフェデリコ・ベグナーのものと一致することが判明した。 昭和52年(1977年)8月20日 読売新聞夕刊
 

 この本を読むのはこれで三度目となる。フォーサイスの著作はほとんど読んでいるが、私はこの『オデッサ・ファイル』が一番のできだと思っていた。しかし今回また読み直してみると、そうでもないのかなと感じてしまった。確かにストーリーテラーの本領発揮で、ぐいぐい引き込まれて、ページが進む。フィクションとノンフィクションの境目が見分けが付かないほどリアルで、臨場感たっぷりなのだが、どうも最後がいただけない。実は私はこれまでこの最後の場面が気に入っていたのだが、今回はやけに鼻につく。説教くさく感じてしまった。


閑話休題
 実はこの本、私が初めて本屋さんで注文して取り寄せた本であった。いきさつは、最初フォーサイスの代表作『ジャッカルの日』を銀座の映画館で見て、すぐ原作を買い求め、その後フォーサイスの本を読みたいと思った。そして当時錦糸町の駅ビルにあった栄松堂書店で探し求めたのだが、この本だけが棚になかった。店員に在庫を聞いたのだが、在庫切れだと言われ、そのまま店員のペースに巻き込まれて注文することになってしまったのだ。私は本を注文して取り寄せられることを当時全く知らなかったのだ(まだ私は書店員ではなかった)
 たぶん一週間が過ぎた頃だったと思うが、その書店からはがきが届く。本が入荷したという通知である。当時ははがきで入荷を知らせていたのである。それを持ってカウンターに来てくれというものであった。
 それから約22年たった現在は、ネットで注文してネットで入荷の知らせが届く。先日セブンアンドアイで雑誌のバックナンバーを注文した。ご存じかもしれないが、だいぶ以前に私はセブンアンドアイでひどい目にあい、以来絶対にここでは本は買わないと誓ったのだが、ついにその誓いを破ってしまった。というのも、雑誌一冊690円をアマゾンで買えば送料が発生するし、今のところ他に抱き合わせで買う本もなかったので、ちょっとここでは買えないなと考える。じゃあ書店で注文するかと考えてみたものの、なんか手続きが面倒に感じた。それに書店に雑誌を注文すると、時間が書籍より時間がかかると自分たちの時の経験から思っているので、それはちょっと困る。すぐ読みたかったのである。(もちろん今は私が書店員の頃より改善されているだろうから、雑誌でも入荷時間は短縮されていると思いたい)
 でやむにやまれずセブンアンドアイで雑誌を注文せざるを得なくなったわけである。そこには入荷には当日から2日と書かれている。これに釣られたわけである。ネットから細かい入力をして、雑誌を受けとる店を指定する。そして“お客様控”をプリントアウトすればバーコードの付いた控えが出てくる。
 そして入荷のメール届き、指定の店に行って、印刷した控えを見せる。店ではその控えにあるバーコードをレジで読み込み会計をする。確かに注文して2日で手元に届いた。
 注文の仕方、入荷の通知、そしてレジでのやりとり、すべて22年前と大きな違いがある。それをわずか22年でこうも変わるのかと考えるか、22年も経っているんだから、進歩して当たり前と考えるか、それぞれ違うだろうけど、私の場合“こうも変わるのか”と思う方である。だからその違いを感心して書くのである。
 さてそんな思い入れのある本をまた読みたくなり手にとって読んだ。例えば本棚の整理をしてたりすると、昔読んだ本は気にかかる。読んでみようかなと思い、読み始めるのだが、今回のように昔えらく感動した本だったのに、読み直してみると“そうでもないな”と思うことがある。
 これが問題なのだ。読み直したいと思うのは、その本が面白かった、あるいは感動したという記憶があるからだと思う。けれど読み返してみてそれほどでもないと思うと、いったい俺はこの本にどうして感動したんだろうと思うのだ。何か昔の思い出が壊される感じがする。もちろん最初に読んだ頃と今とではあらゆる面で違うわけだし、それなりに歳をとってきたせいで、ひねてきているから仕方がないのだろうけど、どこか寂しい感じがする。思い出は思い出として残っていた方がいいような気がするのである。
 そんなことがあるものだから、今昔読んで面白かった本を読み直したいと思う本が数冊あるのだが、さて読み直していいのかどうか、考えあぐんでいる。

 さて、本の話である。話は1963年11月22日ケネディ大統領暗殺のニュースから始まる。そしてこの日一人のユダヤ人が自殺した。ケネディの暗殺ニュースを聞いた後、ペーター・ミラーは偶然にそのユダヤ人自殺現場に遭遇する。そしてそのユダヤ人の日記を手にし、そこに記された文章からある重大な事実を見つける。
 自殺したユダヤ人の名前はサロモン・タウバーといい、リガのユダヤ人強制収容所にいた。サロモン・タウバーはそこで多くのユダヤ人である同胞が虐殺されるのを目撃したし、自分の妻も自らの手で毒ガス車に押し込んだ。そうするしかなかったのである。タウバーは自分が生き残るためには、ユダヤ人でありながら、ここに連れ込まれたユダヤ人を監視するカポとなり、辛うじて生き残った。
 しかし終戦後ある意味ユダヤ人を裏切った自分をタウバーは許せなかったので、ひっそりと暮らしていた。そんな時リガのユダヤ人強制収容所長であったエドワルド・ロシュマンを町で見かけたのである。
 ロッシュマンは、終戦二度も捕まるのだが、何とか逃げ出し、復興した西ドイツで事業に成功し、それなりの立場の人間となっていた。ロッシュマンを手助けしたのはオデッサ(Organization Der Ehemaligen SS-Angehorigenの略。「元SS隊員の組織」という意味)であった。終戦間際ナチス第三帝国は崩壊が近いと知ると、それまで略奪してきた潤沢な資金でSSの高級幹部を守る組織を作っていた。それがオデッサであった。オデッサは最初ナチスの殺人鬼たちの逃亡を手助けしたが、その後彼らを連合軍の占領下にあるドイツに戻し、新しいドイツ連邦の各社会層に再定着させ、社会的にも政治的にも力を持つようさせた。ロッシュマンもその一人であった。彼らは相変わらずドイツ民族の優秀性を説き、ユダヤ人を抹殺しなければならないという考えを捨てていなかった。
 当時西ドイツはアメリカのケネディの意向で武器をイスラエルに輸出していたが、当然政治的に力をつけた元ナチスの高級幹部にとっては面白くなく、さまざまな妨害をしていた。またエジプトは当時イスラエルと対立しており、オデッサの幹部はエジプトに武器に必要な科学技術を裏で提供していた。そんな時ケネディが暗殺されたのである。
 一方ペーター・ミラーはロッシュマンをどうしても探し出さなければならないと思い、戦後ナチ狩りをしているさまざまな機関に接触し、ロッシュマンの行方を探す。そしてイスラエルの諜報機関と接触し、元ナチスに化けてオデッサと接触を図る。しかしオデッサもミラーの動向を知り、ミラーを抹殺しようとする。このあたりが物語を白熱させる。
 物語の題名である「オデッサ・ファイル」とは元ナチスを逃亡させるために身分を偽るために偽造パスポートを作った印刷屋が、自分の身の保全のために残した記録である。それをミラーは手に入れ、ロッシュマンの居場所にたどり着く。
 ロッシュマンと対面したミラーは、ドイツ人であるミラーがナチ狩りをしていることが誤りであり、ここでもドイツ民族の優秀性を説き、ドイツが戦後復興したのもそうしたドイツ民族の優秀性からだという詭弁を語る。
 ミラーはサロモン・タウバーの日記に一部をロッシュマンに読ませる。そこにはロッシュマンが迫ってきたソ連から逃げだそうとしたとき、一陸軍大尉がロッシュマンの言うことを聞かず、雪の埠頭で射殺した情景が書かれていた。その一陸軍大尉がミラーの父親であった。ミラーがロッシュマンを追う理由がここにあった。

 この本は昭和49年(1974年)に日本が訳が出版されている。何が言いたいかと言うと、最初にあげた新聞の切り抜きが1977年のものだから、それ以前にフォーサイスはロッシュマンのの動向をよく知っていたことになる。例えばロッシュマンがリガからの逃亡で雪の中を逃げた。その時足の指が凍傷になり、切断していることもきちんと書いているし、ミラーやナチ狩りをする専門機関から逃亡するために、南アメリカに逃亡したことも書かれているし、その偽名もフェデリコ・ベグナーだったことも書いてある。そしてこの新聞の切り抜きにはそれが全部書いてある。私はフォーサイスの取材力に圧倒されるのである。そして取材した事実をうまく組み合わせ、この迫真の物語を作ったのだと思っている。


評価
★★★


書誌
書名:オデッサ・ファイル
著者:フレデリク・フォ-サイス 篠原慎訳
ISBN:9784047910331
出版社:角川書店 (1981/02 出版)
版型:374p / 20cm / B6判
販売価:入手不可。文庫有り

2009年09月07日

週刊東洋経済 8/29号

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 この号は特集として「アマゾンの正体」という特集が組まれている。さっそく手に入れ読んでみた。
 特集記事はアメリカでアマゾンが今どんな立場にいるのか。あるいは最近のアメリカの出版事情の説明がほとんどなのだが、それでもアマゾンの成り立ちや、アメリカの最近の出版事情がわかってなかなか面白かった。
 この特集の最初にアマゾン本社の写真がある。アマゾンの本社はワシントン州シアトルの中心街から車で10分ほどのところにある。この本社ビル、1930年代建てられた12階建ての煉瓦造りの病院なのである。確かに写真を見てみると、どう見ても病院に見える。従ってオフィスは全部個室だそうだ。従業員は昨年末で2万人を越え、手狭になったので、現在新本社が建設されているという。 アマゾンのカリスマ創業者ジェフ・ベゾス1994年7月に「カダブラ.コム」という会社を設立する。そして翌年アマゾン.コムと社名を変更した。社名をアマゾンとしたのは、アマゾン川地球上最大の川だからで、アマゾン川にあやかって地球上最大の本屋を作りたかったかららしい。まぁ、多分そういうことなんだろうなとは推測できた。
 アマゾンの社風は“ケチ”で有名らしく、その節約文化の象徴として取り外されたドアを机に作り替えて使っていること。そして経費節減に貢献した社員に「ドアデスク賞」が与えられるという。
 また、イノベーション力を喚起するために、会議室の四方の壁は全部ホワイトボードだそうで、さらに本社が元病院ということもあってエレベーターの速度が遅いため、エレベーター内にもホワイトボードが設けられているという。そこでそれを使って激論を交わすのだろう。
 アマゾンでは商品の保管・物流を担う「物流インフラ」と、データの処理・蓄積を担う「ITインフラ」が固定費の塊で、その比率は2008年12月期実績で、売上に占める割合が14%にも及ぶという。この比率が大きいのか、小さいのかよくわからないけれど、要するにこの二つのインフラにかかる費用は社内コストだったわけだ。しかしそれを社内コストだけに納めずに、それを売上に変えるのである。まず「物流インフラ」を買収した企業のために力を貸すようにする。そして「ITインフラ」では、コンピュータの機能を貸し出すクラウドサービスとして使うようにしたのである。この雑誌の説明では、クラウド(=雲)とは、インターネットでつながれた多数のコンピュータの中に仮想的なシステムやサービスを作り出す考え方のことを指す、と書かれているが、これじゃなんののことを言っているのかよくわからない。要は今までのコンピュータはユーザー(企業、個人など)がコンピュータのハードウェア、ソフトウェア、データなどを、自分自身で保有・管理していた。それをユーザーはインターネットの向こう側からサービスを受け、サービスを提供した側にサービス利用料金を払う形にするのである。サービスを提供する側は自社の強力なサーバーがあればそれができることになり、まさにアマゾンはそうしたインフラを自社の事業のために持っていたわけだから、それを事業維持だけではなく、ツールとして使うことでインフラ整備や維持にかかる経費をそこから捻出できるメリットがあるわけだ。そしてアメリカではアマゾンがクラウドサービスのトップを走っているということらしい。
 また電子ブックもかなり普及しているという。アマゾンではキンドルという端末を発売し、そこで書籍、雑誌、新聞など通常の料金より格安にコンテンツとして提供されているという。
 電子ブックは一時ソニーなどで日本でも売り出されていたが、失敗に終わっている。その事情は日本独自の事情による。しかしアメリカでは①コンテンツの豊富さと安さ、②持ち運びやすさ(アメリカのハードカバーはアメ車並にごっつく、重く運びにくいらしいし、ペーパーバックは紙質が悪く長期間の保存に適していない)、③書店に本を買いに行くのに車で1時間もかかるのはざらという事情により、電子ブックは急速に普及しているという。
 ここにはユーザーのインタビューも載っていて、キンドルが軽く、それこそ何十冊もデータとして保存でき、文字などの大きさも自由に変えられ、私みたいに細かい文字を読むのに苦労している人が重宝していると言っている。長期出張時も何冊も本を持っていく必要がなく、このキンドル一つあればいいとも言っている。
 そうなのか!私は基本的に紙という媒体そのものが好きだから、電子ブックで本を読むというのはちょっとどうかなと思っていたが、電子ブック一つあれば何冊も重い本を持ち歩くことも必要ないし、文字の大きさも自由に変えられるというのも魅力的だ。ただ問題はやはり提供されるコンテンツの数だ。それが充実していなければ話にならないだろう。

 さてこの特集はアメリカの出版事情だけでなく、日本の出版事情、それにともなうアマゾン・ジャパンの経営の魅力など少々書かれている。
 日本の出版業界は1996年の2兆6563億円をピークに市場は縮小が続いていて、2008年は2兆177億円まで落ち込み、このままだと2兆円割れは確実に来ると言われている。発行点数は相変わらず高止まりの上に、返品率は上昇し、書店数は減っているのに書店の大型化により売り場面積は拡大しているという状態が続いている。地元の本屋さんが潰れ、チェーン化している大書店がのさばり始め、本を地元でちょっと買いに行くことができなくなっている。返品の上昇は出版社のとっても大きな負担である。こうした日本の出版事情であるため、読者も、出版社もアマゾンのやり方は魅力的だし、そのためアマゾンの商機はますます広まるばかりである。
 ということはネットユーザーはさぞかしネットを駆使して本や雑誌を買っているんだろうなと思いきや、そうでもないところが日本のおもしろさである。
 アメリカではネット書店のマーケットが全体の32%にも達しているのに(それでもそんなもんなのかと思っちゃうけど・・・)日本ではネットユーザー(ここがポイントだよ)1000人にアンケートを取っても、ネット書店だけで本を買っている人は全体の1.6%に過ぎず、41.3%の人はリアル書店(要するに本屋さん)で本や雑誌を買っているという結果が出ているのだ。
 まぁこの手のアンケートってどこでどうやって取ったのか。あるいはどんなやつが回答したのか、といった問題があるので一概に「そうなんだ!」と鵜呑みにすることはできないところがあるが、しかしどこで取っても似たような結果が出るという。
 それじゃ何でリアル書店をそんなり利用するかというと、①その場で持ち帰れる、②立ち読みしてから購入できる、③送料を負担したくない、④書店で本を探すのは好き、⑤雑誌を発売日に購入したいがベストファイブなのだが、なかにはレジでカバーやしおりをつけてくれるからとか、クレジットカードでなく現金で払えるからとか、いかにも日本人らしさが現れていて面白い。
 でも利用するネット書店はアマゾンが断トツである。楽天ブックスが2位につけているが、雑誌などは楽天ブックスの方が充実しているらしく、しかも送料は一切かからないというから、これからはちょっと考えてもいいかなと思ったりした。
 しかし日本の閉塞した出版構造は、ネット書店が当たり前の方向に向かう可能性が大だろう。このままでは地元の本屋さんでは本は全く買うことができなくなり、大きな駅にある大型チェーン店か、アマゾンでしか買えなくなる気がしてしまう。アンケートを鵜呑みにすることはできないにしても、まだ本屋さんで本を買いたいという読者がこれほどいるということを日本の出版界全体で考えて欲しいところである。

2009年09月06日

阿刀田高著『プルタークの物語』〈上〉〈下〉

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 この本も発売される出版社は違うけれど、阿刀田さんの一連の入門書的古典シリーズになるのだろう。阿刀田さんもこの本の紹介を自分で次のように言っている。

このエッセイは古代ローマの時代に書かれた著名な古典<プルターク英雄伝>の翻案である。ややこしい内容を私なりに平易に綴って紹介する試みである。プルタークは(ギリシャ名はプルタルコス)は歴とした伝記作者であり、卓越した教養人として地誌、歴史、風俗、言語、哲学にも広い目配りをほどこして大著を著した。一般に<プルターク英雄伝>と呼ばれているいるが、正しくは<対比列伝>。ギリシャとローマの英雄二十二組のべ四十六人を比較対照して伝えるページが中核をなしている。(ほかに比較をしない四人がいる)内容的には稗史(民間の伝承物語)のたぐいを排除していないが、むしろ学術的な著述であり、一方、私の紹介はストーリー性の重視に傾く。

 ちなみに日本語訳は岩波文庫(今でもあるのかな?)と筑摩文庫、それに潮文庫であるらしい。実は私は筑摩文庫の『プルターク英雄伝』をもっている。


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 この本は上下本なのだが、上巻の方はあまり面白くなかった。というのも私がほとんど知らない人物たち(伝説の英雄もあるが)の記述だったからである。せいぜいスラぐらいか。そのスラを阿刀田さんは「善悪けた外れスラ」と評し、やたら決まり事に忠実であるが故にそれのよって物事を判断する、あるいは善悪を決める、堅物、融通のなさを面白く伝えている。

 少し話は脱線するが、私は西洋史をやっていたにもかかわらず、興味が西洋中世史向いちゃったものだから、ギリシア史いつの間にか頭の中から抜けちゃった部分がある。その地形さえ、そうで、改めて地図を見て、そうだったと思い出す始末だ。
 この本を読んで「オストラシズム」という言葉が出てきた。思わず懐かしい!と思ったのだ。そうだったそういう政治システムが古代ギリシアにはあったよなと思ったのだ。ちなみにオストラシズムとは阿刀田さんの言葉を借りれば次のようになる。

 貝殻追放と訳されることも多いが、これはむしろ誤訳であり、陶片追放が正しいようだ。
 古代ギリシャでは、とりわけアテネでは一人の有力者に権力が集中するのを嫌う傾向が強かった。
 「独裁者が出るのはよくないなからなあ」
 「まったく」
 そこで危険人物の名を陶片に記して投票し、一定数を超えたら、その人物を数年間国外に追放したのである。陶片を貝殻と取りちがえたため長く貝殻追放と言う言葉が用いられてしまった。


 さて私はやっぱり下巻の方が面白く読んだ。なぜなら下巻はアレキサンダー大王、カエサル、ポンペウス、小カトー、キケロ、ブルータス、アントニウス、クレオパトラ、オクタビアヌスとかが出てくるからである。なんかそれら、特に古代ローマ時代のゴシップを読んでいるみたいで、確かにそれも“歴史”なんだろうけど、あまりにも品行のあまりよろしくない行動を、裏面とでも言うのか、隠された部分とでも言うのか、ちょっとしたエピソードとして読んでみると面白かった。
 阿刀田さんの言うとおり、「プルタークの<英雄伝>は、英雄たちの表舞台での活躍を語るばかりでなく、こまごまとした個人的エピソードを綴ることにおいても際立っている」。たとえばカエサルの女癖の悪さを、「カエサルは戦の名人でもあったが、女性方面にもなかなか堪能の人で“カエサルの行くところ敵もいなければ処女もいなかった”とか」と言ってみる。(もちろんこれは阿刀田さんが面白く言っているのだろう)
 またローマでカエサルを殺そうと企んでいる雰囲気があるので、周りのものが護衛をつけましょうと勧められても、「いや、いつもびくびくして死を恐れてるくらいなら、ひと思いに暗殺されたほうがいい。人々の好意に包まれているのが一番の護衛だ」と言ったとか、書かれている。
 ポンペイウスに関しても、当人の才能、勇気もさることながら、ポンペイウス自身微妙に運がよかったと言い、ポンペイウスの行くところ不思議に相手が“こけて”しまうから台頭できたと言うのである。当然そうした運のよさは、ポンペイウスの後半生にそのつけを払わなければいけなかった。
 あるいはカトーの堅苦しさを「カトー(ここでは小カトーのこと。ちなみに大カトーはあのカルタゴを滅ぼせと声高に主張した人物。小カトーは大カトーの曾孫)は身内の女性の不品行に悩まされることが多く、この異父妹のみならず、もう一人の妹も、カトー自身の妻も、よくない評判を立てられる。正義一徹の家長のもとでは、ほかの者たちは息苦しく、ついつい踏み外してしまうのかもしれない。カトーが愛した弟も(若くして死んだが)『兄さんのような質素な生活はできない』とこぼしていた」として紹介している。
 キケロの弁舌のうまさも、彼が死刑を宣告するとき「その人たちは、生きた」と過去形で宣言したそうだ。それはローマでは不吉な言葉を避け、“死んだ”とは言わず、“生きた”と過去形を用いて言ったのである。“生きている”ではなく“生きた”という修辞法を用いて死を伝えたわけだ。

 私は筑摩文庫版の「プルターク英雄伝」を持っているので、有名な人物だけでもつまみ読みしてみようかなと思っている。というのもこれを最初から読めるかどうか自信がないからだが、でも原本も面白そうに思えたので、今本棚から出して手元に置いている。

評価
★★★


書誌
書名:プルタークの物語〈上〉
著者:阿刀田 高
ISBN:9784267018015
出版社:潮出版社 (2008/07/05 出版)
版型:369p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)


書誌
書名:プルタークの物語〈下〉
著者:阿刀田 高
ISBN:9784267018022
出版社:潮出版社 (2008/09/05 出版)
版型:385p / 19cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2009年09月05日

文庫のおまけ

 今年の「新潮文庫100冊」Yonda?マスコット人形が届いた。これは何かというと、毎年「新潮文庫100冊」という夏休みの宿題である読書感想文のため?に読んでね、という新潮社が勝手にセレクトした100冊が各書店で売られるものである。もちろんデータに基づいてセレクトされるのだろうけど、毎年やるもんだから、そうそう内容は変わるものではないので、少しずつ内容を変えて100冊選んでいる。そしてさらに触手をのばしてもらおうと、おまけをつけている。帯についているマークを2冊分貼り付けて新潮社に送るとこれをくれる。


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 去年はエコバックであった。集英社と角川書店も似たようなイベントをやっている。新潮社はこれとは別に「Yonda? CLUB」というのもやっていて、これはカーバーに付いているマークを集めて、その数で景品が違ってくる。基本的に大した景品をくれるわけじゃなくて、だいたいが貧相であるが、それでも何かおまけがつくとなると、結構集めている人がいるようだ。ちなみにブックオフではこのマークを切り取ったやつは、大体が105円のコーナーにまわってしまうようだ。

閑話休題

 ところで本屋で何か景品やおまけ、ノベルティーグッズなどあまりもらったことがないのではないだろうか。あってもせいぜい出版社から送られてきた販促グッズで、おっ、すげえ!といった豪華景品はあり得ない。もともと出版物は“文化”みたいな偉そうな思い上がりあるものだから、そういったものには景品などは似合わないと勝手に思い込んじゃっているところがある。だからそうした景品やおまけ、ノベルティーグッズは付けるものではないという考えになる。
 で実際に法律がそれを裏付けている。「出版物小売業における景品類の提供の制限に関する公正競争規約」というものがあって、そこには「懸賞によらないで提供する景品類にあっては、100円又は取引価額の100分の7のいずれか高い価額の範囲」という縛りがあるのだ。さらに言えばもともと出版物は利益が薄いので、そうそう高いものなんかあげられるわけがないのだ。
 さらに新規オープン時などでくれるおまけなども、新しくできたんだからど~んといいものをあげればいいじゃんと思うのだけれど、これも先の規約に「開店披露、創業記念等の行事に際して提供する物品であって、正常な商慣習に照らして適当と認められるもの」とちゃんと書かれちゃっているものだから、あまり高い品物をあげるわけにはいかないのだ。ちなみに当社が新大久保に新しいお店を作ったときあげたのが、一番安いノック式の店名の入ったボールペンだった。さらに秋葉原のヨドバシにオープンした有隣堂は名前入りの付箋だった。
 ポイントや割引券なども本は定価販売を前提としているので、それをやると値引き販売になり、再販制違反となる。だからやっちゃいけないのだけれど、最近はこのあたり緩くなっているみたいだ。今時ポイントカードは当たり前だと思うのだけれど・・・。
 じゃあどうするか?書店ができないなら出版社がやるしかない。だから女性誌などは思いっきり付録を充実させる。最近は大の男にも昔を懐かしませ、その気にさせる付録を付けているものさえある。付録で釣ろうというわけである。文庫の景品もこれと同じであろう。とはいっても、ただでくれるものは、ちょっとうれしい。

 さて文庫の表紙であるカバーには新潮文庫だけでなく、講談社文庫、角川文庫、集英社文庫もそれを切り取って使うようなマークがついている。新潮社は大々的に「Yonda? CLUB」といってこれを集めれば景品をくれるといっているのだが、講談社、角川書店、集英社は何も言っていない。(ただし集英社も角川書店も新潮社同様夏休みイベントをやっていて、このときはそれぞれおまけがつく)だから何でこれがあるのか不思議であった。
 ネットで出版社のホームページにいって調べてみても、そのマークが意味するものはなんなのか、何一つ書かれていない。そして文春文庫には何のマークもない。さすが天下の文藝春秋である。本におまけなどつけるなど邪道だとでもいう感じだ。
 ただ講談社はわかった。講談社文庫解説目録の最後に、「講談社文庫特製ブックカバー」プレゼント!と書いてあって、文庫カバー折り返し部分のマークを10枚一口を送ると5色ある文庫カバーの一つがもらえるのである。ほほ~と思い、さっそく家にある講談社文庫からそのマークを切り取って送ってみたら、こんな文庫カバーが届いた。


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 私はデニムのやつをもらったのだが、確かにちゃっちいつくりであるけれど、悪くはない。しかしなんでこうしたプレゼントをやっていることを大々的に言ってないんだろうか?わからないじゃないか。だからというわけじゃないけれど、講談社文庫特製ブックカバーをもらうのにはどうすればいいかをここに書けば次のようになる。

1.文庫カバー折り返し部分のマークを10枚一口として集める。

2.住所・氏名・年齢・職業・電話番号・ブックカバーの希望の色番号(①デニム地・黒②デニム地・紺③デニム地・黄④レザー風・紺⑤レザー風・赤)を明記した上で、〒112-8001 東京都文京区音羽2-12-21 講談社「講談社文庫特製ブックカバー」プレゼント係まで封書で送る。

3.締め切りは2009年12月末日(どうも毎年12月でいったん締め切っているようだ)カバーが届くまで一ヶ月ほどかかると書いてある。