2009年11月18日
夏目漱石著『行人』
続いて漱石を読む。今回も「高等遊民」の長野一郎が自分の妻の直を信じられず、直の気持が弟の二郎に向いているんじゃないかと疑うところから、この物語は始まる。そのため二郎に自分の妻と一晩泊まって、妻の気持ちを確かめてくれという、とんでもないことを頼む。頼まれる二郎もどうかと思うのだけれど、まずは一郎の猜疑心にはいささか呆れる。
とにかく二郎は気難しい兄の言うことには逆らえないので、結果として一晩直と夜を一緒に過ごすことになり、その夜のことを兄の一郎に報告する。この時になって二郎は自分が兄から疑われていることと、自分がいくら兄の頼みごととはいえ、嫂の気持ちを確かめるなど馬鹿なことをしたことに後悔するのだが、私からすれば、「あんたもどうかしているよ」と言いたくもなる。
それにしても漱石が人物設定する「高等遊民」という輩は、まったくどうかしているとしか言いようがない。行動することより、頭の中であれこれ考え過ぎることから、つまらん邪推が生まれ、本来なら考えなくてもいいことが自分の頭の中で広がっていき、今度はそれで身動きがとれなくなるのだから、どうしようもない。
確かに人はあらゆることで考え過ぎることがある。ただどうでもいいことを深く思い至るところはあるにしても、これほどじゃないだろう。誰にだって“不信”はある。そのためにさまざまなことに猜疑心を抱き、さらに気持が荒んでいく。しかし一郎の直に対する疑念は異常であるとしか思えない。自分以外本当のところはわからないのが当たり前なのだが、それをわかりたいと思うところに、一郎の破綻があるのだ。
一郎が何故妻の直の気持を疑うようになっていったのか、その原因はこの物語ではつまびらかにされていないが、ただ直の日常の態度からそう察するのだろう。でもその直がそうした態度に出ているのは、結局一郎がそうさせたところがある。一郎と一緒に暮らしているうちに身につけた処世である。それを二郎は次のように言う。
あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々しいものでもあった。
或刹那には彼女は忍耐の権化の如く、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕跡さえ認められない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代わりに微笑した。泣き伏す代わりに寡黙に端然と座った。恰もその座っている席の下からわが足の腐れるのを待つかの如くに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、殆ど彼女の自然に近い或物であった。
二郎は直がそうなったのも一郎のせいだと見抜いているのに、直にもう少し兄に対してやさしくなれという。でも直は「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜の所為だって」と言うだけなのである。
こうして一郎の懐疑心が、家族からの孤立を生み、それとともに一郎の神経の病的変調ともいえる状態が生まれる。家族もそれを心配し、気晴らしに旅でも出たらどうかということで、一郎の友人であるHと一緒に旅に出させる。
物語はここからHによる一郎の精神状態の記述となる。私から言わせればわざわざ一郎の精神状態をここで明らかにする必要性を感じないのだけれど(多分そうだろうなと思えるから)、まぁ、Hの言う一郎姿を書くと次のようになる。
兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥っています。兄さんは甲でも乙でも構わないという鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方かでなくては承知出来ないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合なりが、ぴたりと兄さんの思う坪に嵌らなければ肯がわないのです。兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこう思った針金の様に際どい線の上を渡って生活の歩を進めて行きます。その代わり相手も同じ際どい針金の上を、踏み外さずに進んで来て呉れなければ我慢しないのです。然しこれが兄さんの我儘から来ると思うのは間違いです。
けれども、是非、善悪、美醜の区別に於いて、自分の今日まで養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。寧ろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんは能く呑み込めているのです。
そうなのだ。一郎の今までしてきた知的生活、すなわち学問的の追求姿勢をそのまま実生活に移せば、唯単に猜疑心しか生まないのだ。このような現実乖離した生活感では、そうした姿勢がそれほど意味をなさないばかりか、時には邪魔にさえなることも一郎はわかってはいる。その証拠に「平生読み破った書物上の知識を残らず点検した揚句、ああああ画に描いた餅はやはり腹の足しにならなかったと嘆息したと云います」とHは書くのである。
一郎はわかってはいるのだ。だけどそれが出来ずに苦しんでいる。まるで智恵だけが独立したかのように、一人歩きしている自分をわかっているのである。
それでも自分がこれまでやってきたことは、絶対だと思うところには救いはない。だからHが一郎が宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうかと思うけれど、一郎はそれを否定する。一郎は自らやってきた生活と、実生活の乖離に苦しんでいるだけのことで、決して宗教家になるための修行をしている訳じゃないからだ。一郎はあくまでも実生活でも自らの幸福を求めてやまない人間でもあるのだ。
結局この物語も行き着くところまで行き着いて、物語が終わる訳じゃなく、“寸止め小説”として、こうしたジレンマに苛まれたまま終わる。それ以降どうなっていくのか、読む側に考えさせるということなのかもしれないが、結局このまま悩み続け、これ以上の解決策は見出せないのではないかという予感だけが残る。後は一郎が狂ってしまうかであろう。
漱石が描く精神の高貴さを追求する人が、実生活でのギャップに悩み続ける姿は、それだけを見れば尊い感じがしてしまう。けれど、どっぷり俗世間のしがらみに縛られている今の自分がこの物語を読むと、そういう知的生活、学問的探求と同じような姿勢では生きていくのは難しいだろうと思うのだ。むしろちっとも尊いと思えなかった。頭でっかちの戯れ言聞いている感じでもあった。
評価
★★★
書誌
書名:行人 (〔平成5年〕改版)
著者:夏目 漱石
ISBN:9784101010120
出版社:新潮社 (1996/10 出版)新潮文庫
版型:417p / 16cm / 文庫判
販売価:539円(税込)
- by kmoto
- at 13:13
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