2010年01月04日
吉村昭著『彰義隊』
まずは新年の挨拶から。
新年あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします
去年も吉村さんの随筆から始めたが、今年の第一発目も吉村昭さんのこの本から。
徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いから江戸へ逃げ出した。慶喜が“朝敵”となり、自ら上野寛永寺で謹慎する。しかし一方で皇女和宮や寛永寺山主輪王寺久能親王にも恭順の意を朝廷に伝えてもらいたく画策する。徳川家にとって和宮と輪王寺宮が唯一の朝廷とのパイプであった。和宮は仁孝天皇の皇女で兄は孝明天皇である。徳川幕府は公武合体の最も有効な政策として皇女和宮を将軍家茂と結婚させることとして進めた。当時和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約が決まっていたのを破棄されて、徳川家に嫁いできた。その有栖川宮熾仁親王は東征大総督として任じられ江戸討伐軍としての最高幹部となっていた。従って有栖川宮熾仁親王にとってみれば徳川幕府は和宮を奪っていった敵であった。当然感情的に徳川幕府を許せるわけがないのである。
和宮は慶喜の恭順の申し立てを受けいれ、使者を立てたが、これといった結果を得られなかった。そして次に白羽の矢がたったのが、寛永寺山主輪王寺久能親王であった。輪王寺宮は明治天皇の叔父に当たる。宮は十二歳で勅命により輪王寺の後継者となり、幕末日光と上野の山主となっていた。輪王寺宮にとって慶喜の恭順や徳川家の存続の嘆願よりも、江戸に対する思いの方が強かった。宮は寛永寺山主になって十年近く江戸にいた。そのため江戸が自らの故郷に近い存在になっていて、町民に対する愛着も強くなっていた。
朝廷軍が江戸に入ってくれば、当然幕府と戦争になる。戦争になれば宮の愛する町民は逃げまとうことになる。そのことが宮にとって心配であった。だから宮は慶喜の使者となって有栖川宮と会うが、けんもほろろに扱われる。しかもここまで来る間に高貴な身分である宮に対して薩長軍を主流とする朝廷軍は、宮の御輿を止めたり、遮ったりし、近づいて扉を無造作に開け、覗くなど無礼な態度をとるのであった。そこには単に好奇の目しかなかった。この行為が宮や宮の執当である覚王院に深く屈辱的な記憶として残ることとなった。特に覚王院にはそれが甚だしかった。
さてその彰義隊である。慶喜は朝敵にされるのはかなわんという気持ちから、恭順という態度をとった。将軍慶喜は水戸の出身であり、水戸藩といえば皇国史観のかたまりの藩である。天皇を重きに考える。そんな藩の出身である慶喜が自らが朝敵とされることにはどうしても耐えられなかったに違いない。だから恭順という態度をとった。
そんな慶喜を君としている臣は、慶喜が終始朝廷に忠義の志あつく、二百年続いた幕府の政権を朝廷に奉還したにもかかわらず、朝廷に巧みに入り込んだ策士どもの陰謀によって、追討を受ける身となったことに耐えられなかった。君を辱められた臣は、死を覚悟して戦うものであるとして一橋家ゆかりのものが会合を持ち、そのうち諸藩の藩士や旧幕府を支持する志士までもが参加して、会合は組織へと変化し尊王恭順有志会が結成された。会は正式名を持つ必要性があるとして彰義隊と名変えた。
彰義隊はどんどんその人数を増やしていく。しかし彰義隊が大きくなればなるほど、慶喜の謝罪を朝廷に認めてもらうのに大きな障害となる。旧幕臣は頭を悩ませる。本当からいえば彰義隊の解散が望ましいが、それを強行すれば、彼らは激怒し予想を絶した行動を取りかねない。そこで彼らを江戸の治安を守るために利用した。
大政奉還以来幕府の権力は低下し、それによって盗賊が横行し、治安が乱れていた。彰義隊は町の治安維持のために働くようになる。そこに朝廷軍が入ってきて、戦勝気分で大胆な行動で町をのし歩き、横暴さが目立つため、朝廷軍と彰義隊が衝突するようになっていく。当然江戸の町民からすれば彰義隊は江戸の治安を維持してくれる存在であったから、支持した。
「町民たちは彰義隊の提灯の列が近づくと家々から出て来て頭をさげ、隊員が休息のために足をとめると、茶や甘酒を出して感謝の言葉を口にする。上野の山にも食料を手にしたり大八車に積んだりして、彰義隊の屯所にとどける者がひきもきらなかった。正装し、連れ立って金を寄進する者が多かった」
朝廷軍は、江戸城を掌中におさめ、江戸に入る諸街道を封鎖していたものの、広大な江戸の町は町民のもので権勢は及んでいなかった。江戸の治安は彰義隊員によって維持されている趣があった。
東征大総督府の目的は、むろん江戸城を接収することによる江戸の完全占拠であった。江戸の完全掌握には町民が支持している彰義隊の存在が邪魔であった。その状況を打ちくだくためには、彰義隊と町民の間に深いくさびを打ち込み、彰義隊を自然消滅させる以外になかったのである。
東征大総督府はたびたび彰義隊の解散を要求し始める。山岡鉄舟は彰義隊の解散を促すために、上野に行くが、覚王院は慶喜謝罪の使者として輪王寺宮と一緒に道中を旅したときの屈辱感が思い出されていた。
「朝廷軍と言っても、所詮は薩摩、長州の軍勢に過ぎず、貴殿が上使としてこられたのは、薩摩の策略に乗ったにすぎない」
「当寺は古くから徳川家が経営し、皇族を山主と仰ぐ寺であり、徳川家に恩を感じる者たちが集まって守護しようとするのは当然のことである。そのような忠義の者たちである彰義隊を解散せよ、と言われる貴殿は、徳川家の恩を忘れた逆臣である」
と声を荒げて言うのであった。
その間に、彰義隊に加わる者は日を追って増し、その勢力は侮りがたくものになっていた。江戸城を接収しながら、江戸には朝廷軍に反抗する彰義隊が市中を歩きまわり、朝廷軍の藩兵に威圧感をあたえている。そのような状況が地方にも波及すれば、各地で朝廷軍に抵抗する動きが活発化することが予想された。そのような懸念から、大総督府内では彰義隊を一挙に武力をもって殲滅すべきだという声がたかまっていく。
そして遂に慶応4年(1868年)5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を行った。新政府軍は火力で優り、また肥前藩が保持するアームストロング砲の威力もあって、午後からは優勢に戦闘をすすめ、一日で彰義隊を撃破、寛永寺も壊滅的打撃を受けた。
戦いは半日で終わった。輪王寺宮は寛永寺から逃れ、関東にある寛永寺の支寺へ逃れるが、朝廷軍の追っ手が迫り、遂に品川沖に停泊していた榎本武揚が率いる艦隊に乗り込み、奥羽へ逃れる。
当時東北では官軍に対抗して奥羽越列藩同盟がなっていた。彼らの士気を高めるために輪王寺宮を盟主に仰ぐ動きとなり、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主となるが、歯が欠けるように一つ一つ同盟の藩が朝廷軍に降っていく。最後は宮にはもう帰順しか残っていなかった。結局宮も朝廷軍に降った。
宮はこれで江戸に帰れると思ったが、朝廷は宮を京都に謹慎させる。しかも有栖川宮熾仁親王のもとでである。威厳もへったくれもない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。
宮は後に罪を許され、日清戦争で台湾征伐の総指揮を任されるまでになる。当時朝廷に反抗した徳川家ゆかりの人間は罪を許され、明治新政府に重職に就いている者もかなりいた。結局彰義隊に加わった、一心に君を思う者だけが死に、遺体を回収されないままさらされてしまっただけであった。貧乏くじを引いただけであった。
この本を読んでいて、力にものを言わせ、それまであった威厳や秩序などをまるでローラをかけるように挽きつぶしていく感じがものすごく不愉快な気分として残った。確かに時代の流れとしてそうなっていくのは仕方がないことなのかもしれないが、たとえそれは粗にして野だが卑ではあってはならないと感じた。新しい時代が生まれようとするのである。そこには荒々しい力があっても当然であり、粗であり野であってもかまわない。ただ碑であれば、どこか醜い。そんな感じがどうしてもつきまとった。
この時代、歴史に名を残した人間が多くいるが、一方で虎の威を借りて、横暴な態度をとる人間も新体制側に多くいたのであった。維新の話を読む度にいつもこういう輩の横暴さに腹が立ってしまう。
一方で輪王寺宮や榎本武揚など、朝廷軍と相反して戦ってきたのに、戦いに敗れ、その罪が許されれば、明治政府の要人として生きていく姿にもどこか疑問を感じてしまう。彼らは盟主であり、指揮官であった。多くの無名の人が彼らを慕って、戦い、死んでいった。それなのに“転向”が簡単にできるほど生き方で、盟主や指揮官をやっていたのかと、どこか腑に落ちないところも私には残ってしまう。少なくとも“転向”に大きな苦悩があって欲しいと願うところである。何故なら彼らのために多くの人が死んでいったからだ。
評価
★★★
書誌
書名:彰義隊
著者:吉村 昭
ISBN:9784022500731
出版社:朝日新聞社 (2005/11/30 出版)
版型:395p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)
- by kmoto
- at 18:07
comments