2010年01月18日

吉村昭著『生麦事件』

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 薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、公武合体を幕府に認めさせるため勅使を江戸に派遣する必要があると、朝廷に建言した。その建言が認められ、公卿大原重徳が勅使に任命された。久光もそれに同行し、江戸で目的を一応達成し、薩摩へ帰る。その途中、文久2年(1862年)、大行列を率いた久光の大名行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。薩摩藩士達は言葉が通じないため、身振り手振りで下馬し道を譲るように支持したが、道が狭かったために行列の中に馬を誤って進めてしまう。それにより乗馬が興奮して久光の列を乱した。これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡し、2人が負傷した。これが世に言う「生麦事件」である。

 「大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は討果てもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える」

 この本は生麦事件だけを扱った本ではない。どちらかと言えば、事件後たどった経緯に重点が置かれているといってもいい。つまりこの事件がその後大きな影響の及ぼしたことが書かれているのである。この後起こる薩英戦争や長州藩が自ら攘夷決行し、下関の海峡で西欧列強の船を攻撃したことに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争が大きな思想転換を生み、それが倒幕運動となり、明治維新となって行く、一つのきっけけとしてこの事件を扱っているのである。

 まずは薩英戦争である。イギリスは自らの国民が斬り殺されたことに怒った。幕府にもその責任があると迫り、賠償金を要求し、幕府は渋々その要求を飲むが、薩摩藩はその要求を一切拒否する。久光は、家臣が外国人を斬りつけたのはやむを得ぬこととその行為を是認していた。しかしイギリスとの戦争は免れないと思い、その準備を全藩あげて取り組む。西欧の兵術にしたがって武器を保有し、厳しい操練も繰り返した。
 文久3年戦いは始まった。薩摩は五分五分の戦いをしたと思っていたが、イギリス艦隊と対戦し、武器と技術に天と地の差があることを実感した。その旧式兵力では太刀打ちできないことをここで思い知らされれたのである。
 攘夷を実行するにはあまりにも兵力に差があり過ぎることを身をもって知った薩摩藩は、攘夷論がいかに愚かしいものであるかを思い知らされるのである
 結局イギリスを和議を結び、さらに友好関係を強め、イギリスから新式の軍艦や兵器を輸入することで、藩を旧式兵器から最新兵器に転換を図っていく。
 一方長州藩の動向も問題となる。当時京では、長州藩を中心とする急進攘夷派が勢力を伸ばし、朝廷は幕府に攘夷決行の勅命をが伝えられた。その決行日、文久3年(1863年)5月10日に、長州は下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃する攘夷に打ってでたのである。それに怒った英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と長州藩が戦争となるが、圧倒的な欧米諸国に近代兵器に完膚無きまでに叩かれた。長州藩もその力の差を見せつけられ、攘夷など馬鹿げた行為が実行不可能なものであることを思い知らされるのである。

 ところで倒幕運動は薩摩藩と長州藩が一緒になって行われた。しかしこの両藩は対立していた。薩摩藩は公武合体論を主張し、長州藩は徹底した尊王攘夷論の立場を取った。最初は京で長州藩が朝廷を擁して、薩摩藩の公武合体論を失敗に帰させた。その長州藩の過激さを恐れ薩摩藩は京都に入り、禁門ノ変で長州藩を京都から排除する。
 その後長州藩は自ら攘夷を決行したが、そんな中、間違って薩摩藩の「長崎丸」砲撃事件してしまい、それに乗っていた有能な藩士を薩摩藩は多数失った。当然長州藩に対する憤りの声がたかまった。
 しかし長州藩も薩摩藩も西欧列強と戦い、その力の差が歴然としていることを悟り、攘夷論の転換、軍備を強化して開国を推し進めるべきだという意見が主流となっていく。
 こうなっていくと両藩が進むべき道が同じ方向に向かっていくこととなる。しかしそれでもまだ両藩は反目する点が多かった。この後幕府による長州征討が行われるが、薩摩藩の西郷よる周旋で幕府の第一次長州征討が寛大な処置によって結着をみた。このことで薩摩藩に対する積年の恨みもうすらいだ。さらに西郷が、禁門ノ変で捕虜になった長州藩士たちを藩に送還し、長州にのがれていた急進攘夷派の三条実美ら公卿たちを、江戸に護送せよという幕命にそむいて、九州の筑前に身柄を移した配慮に感謝の念もいだいた。これらの事柄によって、薩摩、長州藩の間にはひそかに融和の気配がきざしていたのである。
 しかしそれでも長州藩は朝敵であり、薩摩藩はそう簡単に長州藩と手を結ぶわけにはいかなかった。下手に長州藩とむすびつけば、幕府はもとより勅許を下した朝廷へ敵対する結果となり、全国諸藩を敵にまわすことにもなって、藩は重大な危機にさらされる。しかし一方で長州藩に薩摩藩を通してイギリスからの武器の調達をさせていた。
 ここに坂本竜馬が登場する。坂本は自ら商業をやりたいと考えていたので、それをスムースに行うためには日本が幕府と諸藩に分かれていてはダメだと考えていた。薩摩藩と長州藩が一緒になって幕府を倒し、日本を一つの国としてまとめるべきだと考えていた。だからこの両藩が同盟を結ぶべきと考えていて、その斡旋をする。
 長州の木戸を京に呼び、薩摩の西郷、小松帯刀と会合させる。しかし両藩とも同盟を結ぶには問題があった。薩摩藩にすれば長州藩と手を結ぶことは、火中の栗を拾うような冒険であり、長州藩にすればこのままでいれば幕府の征討軍によって滅亡は必死の状態にあり、薩摩藩と提携すれば死地を脱するのも可能になるが、それは薩摩藩を危険な立場に追いこむことになる。さらに意を決して薩摩藩に提携を懇願するのは憐れみ乞うのと同様で、藩の面子としてそれはできかねていた。
 そんな双方の思惑があって、論議は十余日に及んでもなんの進展もみられなかった。木戸は話が進展しないことで帰藩しようとするが、それに驚いた坂本竜馬は「薩長両藩はお互いに猜疑心や面子を捨てて天下のため真情をもって協議すべきである」と両藩の間を取り持つのである。この坂本の発言は潤滑剤にも似た効果があって、これによって薩長同盟がなる。

 ところで司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』では、坂本のその独創性、行動力、交流の広さによって、薩長同盟がなったように書かれていたと思う。もしかしたら違うかもしれない。なにせ、この『竜馬がゆく』を読んだのは、私が高校三年の夏だから、それからだいぶ時間がたっているので、自信がない。(何でこんなに詳しくその本を読んだ時期を覚えているかと言えば、当時大学受験の夏期講座に出ていて、授業を聞かずに、この本に夢中になったことを覚えているからだ)
 しかしこの吉村さんの本を読むと、坂本竜馬の独創で薩長同盟がなったのではなく、そうなるべくしてなって行ったことを知った。確かに坂本の斡旋があってなったことは間違いないだろうが、そうなるべく雰囲気が両藩に生まれていたから、多少のメンツはあったにせよ、吉村さんの言うように坂本は単に「潤滑剤」の役目をしただけであり、薩長同盟が坂本の力だけでなったわけじゃないと知った。
 こういうのは見る人の視点によって変わるものだと思うが、多分司馬さんの小説は坂本竜馬を主人公にしているだけに、その思いが熱く伝わり、坂本の力を過大評価させる記述になっていて、私がその通り受け取ってしまったのだろう。だから長いこと薩長同盟は坂本竜馬の力だと思っていたのだ。
 それにしても生麦村で薩摩藩士の一人がイギリス人を斬ったことから、これが後に大きな流れとなっていくとのは、歴史の不思議さを感じてしまう。何がきっかけで時代が変わるのかわからないものだ。それを思うと面白い。


評価
★★★


書誌
書名:生麦事件
著者:吉村 昭
ISBN:9784103242260
出版社:新潮社 (1998/09/25 出版)
版型:423p / 21cm / A5判
販売価:入手不可。文庫ならあり

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