2010年01月22日

池澤夏樹著『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』

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 興味は尽きない部分はあるのだけれど、信仰という問題はどう扱っていいのかわからない。ましてキリスト教徒として信仰を持たない人間としては、キリスト教徒や聖書を単に学問や雑学の部分でしか扱えない。そのため、知識として頭に残るものはあっても、それがどう信仰と係わってくるのか、その関連がまったくといって理解できない。
 私にはキリスト教が及ぼした人類への多大な影響は歴史や知識だけで推しはかれない部分が多すぎる。まして個人の心性の問題から発生して、それが民族の生活モラル、政治システム、文化、文明まで幅広く及ぶこととなると、どこから取り扱えばいいのか、皆目見当がつかない。そのためこの本の信仰に係わる問題は、私にははっきり言って難しすぎた。
 で、聖書のそのもの実態はどうであったか、その内容は別として、聖書がたどってきただろう歴史は多少理解できたので、そのことを書きたい。あともう一点、気候が及ぼす影響というのは面白かったのでそれも書いてみる。

 単純に思っていたことなのだが、いわゆる聖書というのはそれ自体そのものの確実な原典があって、それが訳され現代に残っていると思っていた。確かに歴史ではいろいろな教会議が催されたことは知っているが、そこで聖書に残すべきかどうか、取捨選択が行われ、それが現代に残ったものだと教えられれば、なるほどそうだったなと思い出す。
 しかしそれ以前聖書の原点とは何だったのだろうという疑問をこの本のように提示されると、果たしてそれは何だったのだろうかと思う。どういう訳であれ、とりあえず文字として表されているその原点は、いまからおよそ二千五百年前、古代のイスラエル諸部族の間で語りつがれてきた物語やリスト(テクストといっていいだろう)を広く集めて編集して、一巻のスクロール(巻物)に書き写したものであったという。つまり各部族で言い伝えられた来たことを、ただ単に巻物に書き写していったものが、その始まりであったというわけだ。従ってその時点で消えてしまった物語もあっただろうし、書き写されなかった物語もあったはずだ。
 ただそうして言い伝えられた物語が文字に介されることで、その物語を語りついている人だけのものであったものが、その個人の人格を離れ、空間的にも、そして時代もを超えることとなる。つまり保存だできるようになったのだ。
 最初はそうしてまとめられていった物語は、時間の流れや、おのおの物語の関連性など、お構いなしに、単に言い伝えられて来たことを、まとめただけであった。 
 そもそもこの本によると、古代ヘブライ語には過去形というものがないらしく、動詞の形を見て過去と未来の区別することができないらしい。だから文章の状況で判断していく。
 過去形がないということは時間の遠近法がないということで、そこにはすべての時代が何の脈絡もなく、一巻の巻物に収められていることとなる。こういうのって、昔話や言い伝えなどによくあるパターンで、いつが新しい時間なのかわからないことがある。おそらく聖書の原点もこれと同じであったのだろう。
 ところが聖書がギリシア、ローマに伝わるとそうはいかなくなる。言葉のシステムが古代ヘブライ語と違う。ギリシア語には時制があるため、それまで直線的にあった物語は、時間の軸によって整理された。時制があるということは、過去、現代、未来という思考方法になり、物語をクロノロジカルにしていく。整合性を求められることとなる。本当は時制に関係なく、言い伝えられていたことだったのに、ギリシア語に訳されたとたん、そうせざるを得なかったのだ。これは聖書の性質さえ変えてしまう出来事であった。
 違う側面からも聖書が最初に持っていた性質を変える出来事があった。
 本来語り手の言うがままに一巻の巻物につづられた物語は、語り手が録音テープみたいに朗読していったようなもので、聞く方はそれを耳と脳と体で吸収していく性質のものであった。この時点ではまだ神聖さが充分感じられたことだろう。
 ところが、そうして文字化された物語は、巻物からコデックス(冊子本)へまとめられ、つまり本となるわけだ。そうなるとページやインデックスがつく。時にはタイトルがついたりする。それまで語り手が話し始めたら終わるまで待つしかなかったものが、いつでも途切れていい状態を可能する。
 またそれまでは音読していたものが、本となった時点から黙読できるようになる。黙読がすることが常態化すれば、物語が本来持っていた神聖性が薄れていく一方となる。朗読によるリズムがもたらす一種の恍惚感さえ失われる。
 さらにページごとチャプターごとに収められ、中身の細分化が進み、必要とする人間が必要な箇所を都合よく引用することが可能になる。物語性はどんどん薄らいでくる。さらに細分化が進めば進んだらで、今度は俯瞰できなくなってしまう。これが聖書の変質といっていいとが書かれていた。
 なるほど昔から言葉で語りつがれた物語は、耳で聞き、脳が感じ、体で覚える性質のものであったんだなと思ったし、それが訳がついて、形を変えることによって、変質していく過程の言及は面白かった。おそらくそれは聖書に限らず、たとえばホメロスの作品だってそうかもしれない。

 さてもう一点なるほど思ったことがある。先ほどの古代ヘブライ語には過去形がないということにも多少関連するかもしれない。どういうことかと言えば、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が生まれた地帯の気候の問題である。気候が砂漠地帯で生まれたこれらの宗教の性格の決定づけている点があるのだ。
 たとえば、我々のようなモンスーン地帯に住んでいれば、一年が同じサイクルで考えられる。雨期があり、乾期がある。暑くなれば、寒くもなる。そこにはサイクルがあって、次が予想できる。だから歴史の記述もそうした法則性の下でまとめられる。編年という思考方法が生まれる。
 ところが、砂漠で暮らす遊牧民の間では、気候がそうした思考方法を許さない。気候の周期性というものがないから、その思考方法も同じ平面で相互の関係性を欠いた形になる。私にはそれが古代ヘブライ語に過去形がない理由に思えてならなかった。おそらく最初の聖書に書かれた物語はそうした性質のものが色濃かったに違いない。多分コーランも似た点があるのではないかと思う。

 気候で思い出したことがある。昔読んだ遠藤周作さん本である。この本は紀行文で、遠藤さんが若い頃この地域を旅したことも書かれていた。多分そこに書かれていたと思うのだが、こうした気候の厳しさをを肌で感じ、キリスト教が父性的な厳しさがあるのはこの気候の厳しさによるのではないかと書かれていたと思う。(この本自分の本棚にいくら探しても見つからず、もう一度読んでみたいと思い、古本屋で探していたのだが、先日それを見つけて手に入れた。近々読んでみようと思っている)
 気候と聖書の関連は、和辻哲郎の『風土』を通して、この本で語られているが、なるほどあの本からなら、そう言えそうだなと思った。まさか和辻哲郎の『風土』を持ってくるとは以外だったので、ちょっと懐かしかった。


評価
★★★


書誌
書名:ぼくたちが聖書について知りたかったこと
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784093878470
出版社:小学館 (2009/11/02 出版)
版型:284p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

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