2010年01月28日
池澤夏樹著『異国の客』
もう一冊買った池澤さん本を読む。池澤さんの文章が自分には合わないなと思いつつ、前回読んだ。しかし読み切ったら、今度は慣れたものだから、文章の内容がスムースに入ってくるようになった。
今回池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住して、この地から見える世界情勢に言及する部分は政治的意見が強く現れている。日本から離れて自らの国の政治やマスコミの姿勢を批判する。あるいはアメリカのブッシュ政権の姿勢、特に9.11以降の軍事的姿勢に強く反応している。それはそれで正論なのだろうけど、私は池澤さんがこんなに強く政治的意見を強く主張する人とは思っていなかったので、少々驚いてこの本を読んだ。そしてそうした政治的意見より、もっと違う部分を期待していただけに少々興醒めな感じが否めなかった。
私が期待していたのは、池澤さんがフランスのフォンテーヌブローに移住されて、どうヨーロッパを自らに中で消化していったかを知りたかったのだ。フォンテーヌブローの地域性やヨーロッパの歴史、更にヨーロッパの人々の心性にどう感じたかを、その方に興味があったのだ。
もちろんそこで暮らしているわけだから、ヨーロッパの人々の心性に触れないわけにもいかないし、ヨーロッパで直に感じることも当然ある。そっちの方が私には興味があるのでそれを書き出してみる。
たとえば食材について。様々な地方特産の食材があるのだが、「ワインやチーズについて言えば、製造そのものに時間がかかる。本来の品質を維持するのが作る立場の人たちの面目であって、客の方も新製品というだけで飛びつきはしない。全体として現在を構成する要素の中で過去が占める部分の比率が高くなる。過去という重い荷を負っているから急カーブは曲がれない。その必要はないと人々は思っているらしい」
頑なにその製品を作り続け、製品の品質にこだわる姿勢がそこにあり、消費者もそれを求める。新しもの好きで、安ければ、農薬が入っていても買ってしまう日本人には頭が痛い。
街の景観維持にしても、「なりゆきとか、はびこり放題とか、そういう緩い部分、放任された部分がない。そして住民の総意に個々人の好みが反映される余地は少ない。
つまり、全体と個人の発言権において、全体がずっと強いということだ。ある意味では言葉の本来の意味において『社会』主義である。社会そのものが主役。フランス革命で『自由、平等、友愛』を謳った国おいて、実は『自由』は勝手放題を意味するわけでなかった。むしろ自由と規制がせめぎあう前線がはっきりと見える。規制によって自由が際だつと言っていい」と池澤さんは言う。まぁこれも日本ではよく言われていることで、歴史的価値がある建物であっても、生活しづらいとなれば、簡単に壊してしまうお国柄とは違う。街の景観など一切お構いなく、勝手に自分好みの家を建ててしまう国には、結局理解できないことなのだと思う。たとえそれが頭の中にあって、一様の理解をしていても、個人を主張して憚らない。それが自由だと勘違いしているのである。
さてこれ以外に私が興味深かった記述は三点ある。一つはローマ法王ヨハネ・パウロ二世の死に接し、ヨーロッパの人々が悲しみにくれる姿を見て池澤さんが感じたことである。池澤さんは次のように言う。
「法王はおそらく、遠い神と心弱い信徒をつなぐ仲介者の一人なのだろう。神は絶対であるから、いかなる意味でも具体的でないから、日々個人の心からは遠くなる。『創世記』に言うように神は『言葉』である。つまり言葉で定義されるものであって、実体ではない。旧約の神は厳格な妬みの神であった。素朴な人々が父と慕おうにも手がかりが少ない。だからキリスト教では、まずキリストが神と人を仲立ちし、それでも届かないところは聖母マリアが取りなし、それでも残る隙間を多くの聖者たちが埋める。そして、法王をはじめ司教も司祭たちも、この神との遠い距離を仲立ちするものとしてある。
人は生きた人を愛することはできるけれど、抽象を愛するのはむずかしい。神に顔を与えるために、尊厳を損なうことなく相貌を与えるために、村の教会の神父に始まって天に到る長い連鎖がある。そして法王はこの連鎖の人間界側の最終的な束ね、いわば砂時計のようなくびれのような存在、ではないのか?不信心者の憶測ではそう見える」
この記述はうまいなと思った。キリスト教の本質が理解しがたい我々みたいな者は、キリスト教がどうしてこれほどの信者を獲得することができたのか、いや信者の心を捉えたのかその構造をうまく言い表していると思ったのである。
もう一点が、須賀敦子さんのシャルトルへ巡礼の旅についての記述である。須賀さんが長いこと歩いてやっと大聖堂の針の先のような尖塔が見えたときの感動を語っている部分がある。私はミラノの大聖堂の記述に以前触れたことがあるが、とにかく長いこと歩いてきて地平線から教会の塔の先が見えたときの感動は、言い表せないほどの感動を呼ぶらしい。私はその感動を多分中世の旅人も味わったことだろうとも書いた。池澤さんも車であったけれど、その感動を味わったことが書かれたいた。
「フランス国土は全体としてとても平らだ。ごくわずかな起伏を越えて広大な畑の真ん中をまっすぐ伸びる道を車で走っていると、次の集落の印として最初に目に入るのが、たいていの場合、教会の塔である。水平という原理が優越する空間でもっとも垂直的なものが教会なのだ。ぼくがシャルトルに行った時も、東側から近づいてまず地平線に見えたのが二つの塔だった。車を運転していたから拍手はしなかったけれど、(須賀さんたちはそれが見えたときいっせいに拍手が起こったと書いている)しかしそうしたいくらいの感動はあったと思う」
と書いている。こういう描写を読んでいると、私も同じような場面にいたいなと思う。
最後の一点が、ラ・トゥールである。まさかここでラ・トゥールが出てくるとは思わなかった。(これだから本を読むのは楽しい)池澤さんがロレーヌ地方を旅していて、市内の美術館に入った。「一枚の絵が目に入った。近世から近代の絵を並べた一角で、それだけが際だっていた。他の絵が照明によってようやく見えているのに、その一枚だけは自分で光を放っているかのようだ。二人の人物が描かれているだけの単純な構図に、見る者を引き込んで放さない力がある。ぼくはしばらくの間、そこを動けなかった」と書いている。
池澤さんが見た絵は「妻に嘲笑されるヨブ」であった。私はラ・トゥールの「大工の聖ヨセフ」に魅せられた。ちょうど上野でそれが展示されていたので、すぐ見に行ったのである。ここでは子供であるイエスが持つローソクの火がその絵を際だたせ、そこから外に向かって、見る者に光を放つような衝撃があった。そしてこの「妻に嘲笑されるヨブ」も確かローソクが効果的な魅力を醸し出していたはずだと思った。実はラ・トゥールに興味を持ったとき、彼の他の絵もネットで調べていた。改めてその絵を見てみると、ここでもローソクの炎がこの絵を際だたせているのを知る。
池澤さんはその魅力を次のように言う。
「まずは精緻なリアリズム。蝋燭一本の光で描くという技法が見る者の視線をひたすら細部に向け、そこからこの二人の実在感がひしひしと伝わる」
「ラ・トゥールではこの二人の人生の一瞬を切り取っている。まるで写真のようだ。絵の中に会話がある。言っている言葉が聞き取れるかのようだ。宗教画一般が真理を求めるために超時間になろうとするのに対して、この絵は永遠を放棄した上で、代わりに一瞬をきっちり捕らえようとしている」
思わずラ・トゥールの魅力にとらわれた人がここにもいたといった感じで、うれしかった。
評価
★★
書誌
書名:異国の客
著者:池澤 夏樹
ISBN:9784087464689
出版社:集英社 (2009/08/25 出版)集英社文庫
版型:243p / 15cm / A6判
販売価:550円(税込)
- by kmoto
- at 13:52
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