2010年02月24日

山口治子著『瞳さんと』

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 この本は山口瞳さんの奥様治子さんから、山口瞳さんとのなれそめから、夫婦生活、そして別れまでを聞き書いたものである。一応便宜上山口治子著と書いてあるが、あくまでも便宜上そうしたまでである。

 私にとって、山口瞳という人は『男性自身』がすべてであった。この30年以上も続いたエッセイが好きで、週刊新潮はよく読んでいたのである。どこかで書いたかもしれないが、『男性自身』は昭和38年(1963年)12月2日号から始まり、平成7年(1995年)8月31日号まで1、614回、一度も休みなく続いたエッセイである。
 山口さんは平成7年8月30日に亡くなられた。この日は水曜日であった。そして週刊新潮は毎週木曜日が発売なので、もし山口さんが8月31日以降亡くなられたら、連載を休載していたことになる。だから『男性自身』は連載開始から一回も休まず書かれたことになる。
 この本を読むと、もともとこの『男性自身』の原稿は1回3万円で、月4回で12万円になるので、それで生活の保証ができた。だからそれでそれまで勤めていたサントリーを退社することができ、作家として独り立ちできるようになったらしい。連載開始から新潮社にこの原稿を書くことで生活の保証のお墨付きをもらったからできたことなのだろう。
 しかしだからといって、いい加減な気持でこの連載を続けてきたわけではない。

 「一週間をなんとなくすごす人もいるけれど、一週間のうち全力投球できる場を持っていることを幸せとしなければなりません。僕にとって『男性自身』は大河小説なんです」

 と『男性自身』を書きつづける意味を山口さんは言っている。つまりそれだけ力を入れていた。だから「『男性自身』を書かなければ、山口瞳はもっといろいろな短篇を書けたはずだ。あの中には、短篇の原石のようなものがたくさんつまっている」と言われたのである。

 私は自分の好きな作家が亡くなり、奥さんなどがその作家について、夫婦しか知らない姿を書かれたものを読むのが好きで、今までも結構読んできた。だいたい男というものは、世間体がいいから、本当はどうなんだろうと思う。もうちょっと、生々しい姿があるはずだと思うのだ。だから今回もそんな気持からこの本を手に取った。二人出会いから、生活のあり方、当然作家として独り立ちできるまでの間の苦しい生活、夫婦間や家族との葛藤など、人間味ある姿を知りたいのだ。
 山口瞳さんの母親の生家は遊郭であった。このことはどうやら母親は長いこと隠していたようであるが、そこに流れる血は山口瞳さんにも流れており、そこが原点であった。
 また山口さんの父親も山師みたいなところがあって、景気のいいときはお大尽様みたいな生活をする一方、金に無頓着な部分もあって、その没落も早い。浮き沈みの激しい人生を送っている。そういう両親を持ったためか山口さんの生き方には、一般人とは違う価値観があるように思える。山口さんには“遊び”に徹し、破滅の臭いを放しつつ、一歩手前で止まるようなしたたかさやルールを求めるところがあるが、それらはこんなところから生まれたのかもしれない。こういう生い立ちがあったからこそ、礼儀作法や生き方の指南など、山口さんが書かれるもに妙に説得力を感じるのかもしれない。それまでの苦労が生々しいから、その中で生き抜かれてこられたから、そうした立場に立った人には、いい励ましとなるのだろう。

 全体に奥様は山口さんに対して、いつまでも少女のような思いを持たれていて、山口さんとの昔を語るときでも、好きで好きでたまらず、それで嫉妬したことなど書かれていると、なんか素直でいいなあと思った。
 山口さんが昔京都市立病院に入院したとき、奥様に宛てた手紙の中に次のように書いている。

 「ぼくは幸福な夫だ。それから、きみは世界でいちばん素適な夫を持った妻なんだよ。信じてください」

 こんなことなどそうそう書けるもんじゃない。山口さんだから書けたのだと思う。でもなかなか素適な文句だと思う。だから奥様も山口さんが亡くなられても、「瞳さんのことが好きで好きでいっしょにすごしてきただけの私でしたが、私の一生は幸せいっぱいだったと思います」と書けるのだろう。


評価
★★


書誌
書名:瞳さんと
著者:山口 治子 中島 茂信【聞き書き】
ISBN:9784093876124
出版社:小学館 (2007/06/09 出版)
版型:271p / 19cm / B6判
販売価:1,680円 (税込)

2010年02月21日

久坂部羊著『まず石を投げよ』

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 これで久坂さんの出ている小説を全部読んだことになる。(『無痛』は以前に読んでいる)ところが今回はどう読んでいいのか考えてしまった。
 話は、駆け出しの医療ライター菊川綾乃が世田谷医療センターの外科医三木達志が自ら医療ミスを告白し、患者の遺族に謝罪し賠償金まで支払ったことを知って、これは究極の誠意を感じ三木の取材に乗り出すところから始まる。三木への取材は困難を極めるが、何とか綾乃は三木と接触でき、話を聞くことが出来た。
 私は三木が言う言葉が正直、今まで考えたことがなかったので、ある意味衝撃的だった。

 「どうして医療ミスが起こるのか。うっかりミスであったり、医師の疲れが原因だったり、いろいろあるでしょう。でも、ほんとうはもっと深い理由があるのです。それは患者に対する医師の嫌悪です。医療ミスは、医師が患者を嫌っているときに、より高率に起こります。もちろんわざとじゃない。嫌いな患者に向き合うとき、医師は無意識に反感を抱き、集中力を低下させてしまう。深層心理がそうさせるのです。だから致命的なミスが起きるんです」

 「表面上は、医師も患者もうまくやろうとしています。しかし、深層心理はもっと複雑だ。医師はいくら治そうとしても治らない患者を無意識に憎み、患者も病気を治してくれない医師を憎んでいます。患者は、医師にとって手を煩わせるやっかいな存在であり、医師は、患者にとって頭を下げねばならない不愉快な存在です。そして最後には必ず、両者がともに忌避する“死”に至る。医師と患者は“死”という絶対の壁をはさんで、永遠に敵対する宿命にあるのです」

 我々は無意識のうちに医師は患者に対して好き嫌いで治療の差があるとは思っていない。言われれば医師にも患者に対して好き嫌いの感情があっても不思議じゃないと分かるが、だからといってそれで医療の差が出てくるとは思っていない。そんなことは許されることじゃないと思っている。
 しかしよく考えてみれば、三木の言うことは至極当然なのである。医師だって人間である。患者の態度に対して好感を持ったり、あるいは不快な気分になってもおかしくない。まして最近の患者は自分は病気なんだ。困っているいるんだ。苦しんでいるんだ。だからここに来たんだ。という意識がかなり強い。そうした横柄な態度で医師に接すれば、医師は好感情を持てるわけがない。そして一度そうした不快な気分にさせられた医師は、表面上は患者の立場に立っているけれど、腹の中では“この野郎!”と思っても当然である。医師だって人間である。そんな意識で患者と接すれば、医療ミスだって当然起こる。その確率が大きくなる。
 このことはホンと気がつかなかった。言われて初めて“確かにそうだよなぁ”と思った。たぶん先に言った前提で患者は医師に接しているし、しかも自分のことで頭がいっぱいだから、医師の気持ちなんて考える余裕すらない。
 患者が医師に対して“尊敬の念”を失った現在、三木の言うとおり、医師と患者は敵対してしまうのだと思う。そして簡単に医師の医療ミスを疑う姿勢もここから発生する。もちろんどう考えてもおかしい医師は最近いる。それはまた別問題だ。普通に治療していての不可抗力、何とかしてあげたいという気持ちで治療していて、ミスが起こった場合、それを揚げ足を取るようにしていていいのだろうか、とも思う。もちろん全神経、全能力を使って治療してもらわないと困るけど、でも医療に100%なんてあり得ないだろうと思う。まして手術となれば、どこかに危険はつきものだから、そうしたリスクを折り込み済みで、患者は医師に接するべきじゃないのだろうか。
 だけどそれが出来ない。だからすぐ裁判となる。医師を追求する。そうなったとき、医師はリスクの高い診療科を敬遠したって不思議じゃない。この本の中で次のようなインタビューがある。

 「最近、医療訴訟が増えすぎたせいで、若い医師が産科や脳外科など、訴訟のリスクの高い科を敬遠する傾向がありますね」

 「その通り。患者さんも少しは考えてもらわないと、自分で自分の首を絞めることになりますよ」

 実際そうなっている。今医師不足が騒がれているけれど、誰がすぐ訴えられる可能性の高い産科や小児科などに好んでなるのかと思う。

 もう一つ。今度は医療ミスを追求するマスコミの姿勢だ。この本はこの点が圧巻である。
 マスコミはいつも我々が弱者の意見を代弁している。あるいは世論の代弁者みたいに、横柄な態度を取る。誰がマスコミをそうした代弁者になってもらおうと思ったのか、と思うときが度々ある。勝手に自分が世論の代弁者だと勘違いしているのである。だから何でもやる。追求という“水戸黄門の印籠”を持って、何でもやってしまう。
 ここでマスコミは医療ミスの隠蔽体質を医師に実験する場面がある。しかも事後承諾で医師を試している。その結果医師には医療ミスを隠蔽する体質があったと断定するのだが、そのやり方が汚い。それくらいしないとインパクトがないからだ。ホントにこんなことがこの世界ではまかり通っているのだろうか、と思うけれど、たぶん大なり小なりここに描かれたマスコミの姿勢はあるのだろうと思う。何故なら最近のマスコミの奢りを見ていると、そう思わざるを得ない。
 そして無理矢理その実験に参加させられた医師が自殺した。自殺の原因は、嘘の医療ミスを突きつけられたことのよるものかどうか分からないが、とにかくその医師は自殺した。するとマスコミは医師の自殺と自分たちの取材と無関係と決めつけ、自分たちに都合のいい事実ばかり言い連ねてくる。医師の死を悼むのではなく、医療ミスを追求してくる人からの攻撃をどうかわすか、そのことで会議が始まるのである。これは患者が亡くなった事実から目を背け、患者の死と治療に因果関係がないことを説明しようと、やっきになる医師と同じなのである。
 まさに黒い笑いである。正義の味方を任じるマスコミだって、自分たちの都合の悪いことが起これば、医療ミスを隠蔽する医師と同じことをやっているのである。どこでも保身はあるのだ。
 それでもその実験のドキュメント作成したプロデューサーは聖書のエピソードを使って言うのである。

 「ファリサイ人がイエスに、娼婦マリアを石打ちの刑にすることを求めたとき、イエスは彼らにこう言います。『あなたがたのうち、罪のない者から、まずこの女に石を投げよ』。するとファリサイ人は一人去り、二人去りして、結局だれもいなくなった。この話は公平か。罪のない者以外は、他人の罪を非難する資格がないというのは、単なる、いえ、悪質な、口封じではないか。お互い罪深いのだからといって、黙っておこうという事なかれ主義。私が医療ミスを犯した医師と同じ心理になったからといって、医療界の隠蔽体質が許されるものじゃない」と。

 まったくマスコミの姿勢には反吐がでる。この本は医療だけでなく、それを追求するマスコミの姿勢をバッサリと切ってくれていて、マスコミは世論の味方でも、正義の味方でもないんだということを教えてくれる。勝手にそう思って自己満足している部分があるんだよと言ってくれて、ある意味気持ちよかった。
 結局我々には何かが欠けてしまい、こうしたおかしな世界にしてしまったのだと思った。


評価
★★★


書誌
書名:まず石を投げよ
著者:久坂部 羊
ISBN:9784022505101
出版社:朝日新聞出版 (2008/11/30 出版)
版型:411p / 19cm / B6判
販売価:1,890円 (税込)

2010年02月19日

久坂部羊著『破裂』

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 思惑、野望、恨みを晴らしたいと思う人が何人かがいる。それがからみ合いこの話は展開する。
 松野公造はそれまで勤めていた新聞社を退職し、ノンフィクション作家をめざしていた。社会部の記者時代、吐血し、進行性胃がんと診断された。再度別の病院で検査を受けたときは、今度は胃潰瘍と診断され、最初の医者の診断は何だったんだと怒りを覚えるし、それをその医者に言えば、「結果よかったのだからいいじゃないか」という無神経さに腹をたてる。さらに妻が妊娠し、子供がお腹の中で育たないと言われ、別の医者に行けば妊娠は可能と言われ、娘が生まれた。松野夫婦が受けた心の傷は筆舌に尽くしがたく、医者に対する不信感が医療の問題に目を向けることとなる。
 松野の医療ノンフィクションにネタを提供したのが大学病院の麻酔科の医師江崎俊であった。江崎は医師の公にされないミスを聞き回り、それを「痛恨の症例」として松野に提供していた。
 そん中、中山枝利子の父親が医療ミスで死亡したということを知る。枝利子の父親は心臓の僧帽弁置換手術を受けたが、五日後出血性心タナポナーデ(心臓を包む袋の中で出血し、その圧迫で心臓が止まること)で死亡した。その後枝利子のもとに父親は医療ミスで死亡したという内部告発文書を受け取り、父親の手術に医療ミスがあったのではないかと疑い始める。
 江崎は枝利子と会い、枝利子の父親の手術を調べ始め、父親が死亡したのは手術の際、置き忘れた縫合針が刺さって出血死した疑いがあることを知る。
 枝利子の父親を手術したのが心臓外科の助教授香村鷹一郎であった。香村は次の教授選候補であった。その選挙で香村は日々苛立っていた。手術のときもそうであった。
 香村のライフワークは“ペプタイド療法”というものであった。これは心不全に陥った心筋細胞を甦らせるものであったが、重大な副作用があった。それは心筋の再生はそれにつながる血管の内膜も増殖させ、血管が狭くなって、心臓が破裂してしまうのであった。 一方で厚生労働省大臣官房主任企画官佐久間和尚という人物がいる。彼は“厚労省のマキャベリ”と呼ばれるほど、強引な政策をそれまで推し進めてきた。そして佐久間は日本の超高齢社会へ抜本的解決策を画策する。それがプロジェクト《天寿》であった。
 プロジェクト《天寿》は人口ピラミッドも正常化、少子少老化社会の実現、政府による「寝つかない死、苦痛のない死」の保障、平均寿命の引き下げと、健康寿命との僅差化をめざすものであった。佐久間ははっきりと言う。

 「日本は超高齢化社会はなぜ発生したかおわかりですか。医療が無軌道に進歩したからですよ。医者には病気を治して命をのばすという単純な発想しかなかった。その結果、高齢者が増えすぎて、介護危機、年金破綻、老人の医療費問題、世代間のいがみ合いなどを生み出したのです。医療は進歩さえすればいいというあさはかな発想、唾棄すべき長寿礼賛の結果です。このまま老人が増えれば、日本は国を維持できなくなります。なのに医者どもは今も漫然と寿命をのばしつづけている」

 「医者は世間知らずで幼稚ですから。日本の超高齢社会だって、医者が創り出したも同然でしょう。平均寿命が世界一だなんて浮かれていますが、おかげで国がつぶれそうですよ」

 「一部ではこれを若肉老食と呼び、老人が若者を食い物にしている状況を揶揄している」

 「少子化はいいのです。問題は高齢化です。少子少老化にすれば、規模は縮小します」

 このプロジェクトには不完全な香村の“ペプタイド療法”が必要であった。不完全な“ペプタイド療法”が老人の抹殺に役立つのであった。なぜなら年寄りの心臓を一時的に元気し、若返らせ、ある日突然心臓が破裂する。何の痛みもなく、ぽっくり死なせることができるからである。そのため佐久間は香村を呼び寄せる。幸い中山枝利子が香村を訴え、裁判を起こしたのをいいことに、大学の教授職より新しくできるネオ医療センターの副所長として招く。佐久間が職権を乱用して、莫大な予算を餌にして香村を副所長にそえる。 ネオ医療センターの研究テーマは、老人に望ましい死を保障することで、確実で、苦痛で、苦痛がなく速やかで安全な、誰でも求める死を提供することあった。佐久間は医療に老人の死の落とし前をつけろと次のように言う。

 「若い世代は長生きを望みますが、それは老化の苦しさを知らないからです。現実の高齢者は大半が老いの苦しみに苛まれています。こんなにつらいのならいっそ早く楽になりたい。なのに死ねない。そんな人に生きろというのは残酷です。むかしはだれでも自然に死ねた。今は死ぬのがむずかしい時代です。医療のおかげで、苦しい長寿を生きなければならない。その落とし前をつけることも、医療の責務ではありませんか」

 この本は香村の裁判で、香村が犯した医療ミスの実体が大学という“白い巨塔”でどう隠されていくか描く一方、日本の超高齢社会の極端な解決策の恐ろしさを描いていく。医療ミステリーという立場を取りながらも、日本が今突きつけられている現実を、特に医療の進歩の極端な礼賛の落とし穴をうまく描いている。先の『廃用身』もそうだったけれど、ここまで考えないと、日本は滅びる可能性が大きいというのは、恐ろしい。佐久間の言うことを果たして簡単に押しのけることができることなのだろうか、と思う。
 ゼウスの時代から人間は増えすぎて、ゼウス自身焦っているわけだから、こういう結果になることに必然性があったのかもしれない。マルサスの人口論を持ち出すまでもなく、生物としての「人間」のあり方をどう考えればいいのだろうか。この本で「医療は反自然」と言っている部分があるが、現実を見るとまさにその通りだ。医療の進歩を手放しで喜んでいいものかどうか、考えてしまう。だから佐久間が画策するプロジェクトを単に小説の中の話として片づけられるものじゃない。


評価
★★★★


書誌
書名:破裂
著者:久坂部 羊
ISBN:9784344006980
出版社:幻冬舎 (2004/11/25 出版)
版型:450p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本有り

2010年02月17日

久坂部羊著『廃用身』

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 この本も読もう読もうと思って、今日まで来てしまった。帯などに書いてある本の内容を読むと、ちょっとためらっちゃう部分があって、気が重くなっていたのである。しかし読んでいるうちに引き込まれてしまい、一気に読んでしまった。
 主人公の漆原糾は老人デイケアを中心とした神戸の「異人坂クリニック」の雇われ院長であった。このクリニックのデイケアに通う老人たちと接していて、廃用身である手足に苦しめられているお年寄り、そのお年寄りの介護に苦しんでいる親族、介護士を見ると、介護の未来に大きな不安を感じていく。廃用身とは脳梗塞などの麻痺で回復の見込みのない手足のことである。
 ある時脳梗塞で下半身と左上肢が完全に麻痺してしまった人がいた。この人は体重が九十キロもあり、親族も介護士もこの男の人を介護するのが大変であった。身体が重い分床ずれも起こし、それがひどくなっていく。もし廃用身の両脚と左腕がなければ、体重が五十キロくらい減らせるし、介護の負担も半分近く減る。「廃用身の切断」を選択肢が漆原の頭の中にむくむくと起き上がってくるのであった。それまでもこんな廃用身がなければいいのにと思っていたから、ますますその思いが強くなり、切断してはいけない合理的な理由がどこにあるんだろうかと考えていく。
 この男の人は親族の虐待にあって、足が壊疽を起こし、必然的に切断したほうがいいという話になって、両脚を切断した。そしてこの人が変わったのである。何か憑きものが落ちたみたいに、明るくなったのである。漆原は廃用身の切断が麻痺を起こした人に生きる希望をもたらすこと、介護する側にもその負担を軽減することを確信する。
 更に廃用身を切断することで、血流が変わったためか、脳に多くの血が流れるためか、それまでしゃべることもままならない人が言葉をしゃべるようになったりする効果を発見するのである。
 漆原は廃用身の切断にに介護の未来を見出すようになって行く。廃用身の切断はお年寄りのQOL(生活の質)を高めるものであると考えていく。そのため廃用身の切断を彼は「Aケア」と呼ぶようになる。「Aケア」のAは切断の英語「Amputation」の頭文字を取ったものである。
 廃用身はお年寄りを苦しめており、それからの解放は生活を一変させるほどの歓びだった。それまでは病気を悔い、麻痺した手足を嘆き、報われないリハビリに苛立っていたお年寄りたちが「Aケア」のあと、別人のように明るくなっていくのを確信していく。その「Aケア」の状況改善点を挙げると以下の通りになる。
・物理的に身軽になること
・気持が前向きになること
・介護者に気兼ねしなくてよくなること
・廃用身に対する嘆きが吹っ切れること
・廃用身の痛みや疼き、しびれ感、だるさなどが消えること

 しかしいくら廃用身とはいえ、人間の身体を不要だからといって、切断していいものかどうか。漆原は超高齢化社会の到来で、介護を維持していくには、何かを犠牲にしなければならないと考え、次のような詭弁を言う。

 「構造改革ばやりの昨今、企業は不要になった部門を切り捨て、効率アップを余儀なくされています。情やしがらみで成績の悪い部署や職員を温存していたのでは、全体の体力が落ちて倒産してしまいます。
 『Aケア』を身体のリストラと考えることはできなでしょうか。
 長年、働いてくれた手足を切断するのは、忠実な社員を解雇するのに等しい痛みを伴うでしょう。しかし、そうしなければ会社が倒産してしまうように、お年寄りも介護者も共倒れになってしまいます」

 「異人坂クリニック」は廃用身を切断した人が多くなり、当然それは社会の目にさらされ、非難、バッシングが始まる。それは人間の尊厳を大上段に構えているが、そのほとんどがその異様さを面白がるものばかりであった。いくら介護の破綻が目に見えていても、その解決策の一つとして廃用身の切断は受け入れられない人々の興味の対象となっていく。

 この本はそうしたバッシングに対する、「Aケア」の意味、すなわち「Aケア」が介護負担を軽減し、ひいては高齢者へのサービス向上につながり、危機的な老人介護の未来に貢献するものだという、漆原の考えを世に問おうとする原稿があって、それを本にしようとした編集者の矢倉俊太郎の「編集部註」の二部構成となっている。
 その「編集部註」で、なぜ漆原が廃用身の切断の考えに至ったのか、その彼の資質を生い立ちから追うことになった。そして「Aケア」の発案の根底には、漆原糾は合理主義者で不要なものは、徹底的排除しなければおさまらない頑なさがあったこと。さらに漆原の歪んだ嗜虐性があったことも矢倉は知るのである。漆原は患者の考えを一番に尊重して「Aケア」を勧めたが、どうもそこに追い込んでいく姿勢が明らかになって行く。患者に明るい未来を言い、人生の再出発を言うことで、患者に「Aケア」を選択させる姿が浮かび上がってくる。
 漆原もそうした自分の姿を段々認めていくこととなり、最後は「頭は わたしの 廃用身」という書き置きをして自殺するのである。
 更に「Aケア」が必ずしも明るい介護の未来ばかりをいうものではないこともわかってくる。すなわちたとえ廃用身であっても、手足がないことの不完全さに悩まされる人たちが少なからずいたことがわかってくる。

 廃用身の切断は超高齢化社会に介護という問題を考える上で究極の選択なのかもしれないが、だからといって「身体のリストラ」として受け入れていいものかどうか、考えてしまう。むしろそこまで考えないと介護の未来はないということに、危機感を感じてしまう。どちらかと言えばストーリーの怖さより、介護の未来を考えるとそっちの方が怖くなってくる。


評価
★★★★


書誌
書名:廃用身
著者:久坂部 羊
ISBN:9784344003408
出版社:幻冬舎 (2003/05/25 出版)
版型:323p / 19cm / B6判
販売価:入手不可 文庫本有り

2010年02月14日

阿刀田高著『新トロイア物語』

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 この本は以前文庫本で読んだ。たまたま単行本を手に入れたので、また読み返している。きっかけは先日テレビで放映されていたブラッド・ピット主演の「トロイ」を見たからである。しかしどうしてこうも違うのだろうか?前に読んだ阿刀田さんの本は怖ろしいほど面白くなく、陳腐だったけど、今回は面白くて、一気に読んでしまった。
 この本を読んでいると、映画の場面、たとえばブラビが扮するアキレウスとトロイの第一王子ヘクトルとの一騎打ちなど、本でその場面が描かれると、すぐあぁ、ここだなと思い出す。


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 一方で改めて読み返していると、阿刀田さんがその著作で教えてくれたギリシア神話のことを思い出す。今までは単独で話の内容を理解していたが、今回はうまく話がつながって、先に読んだ以上にその分面白かったかもしれない。
 たとえばトロイの第二王子であるパリスである。この本を読んでいて、あれ?パリスって聞いたことがあるぞと思い、とりあえずそのまま読んでいたら、羊飼いをやっていた頃、ゼウスの妃ヘラとアテナイの守護神で戦争の女神アテネ、そして愛と美の女神アフロディテがその中で誰が一番美しいか争っていたとき、このパリスが判定したと書いてあって、あぁ、このことかと思い出す。俗に言う「パリスの審判」である。
 大神ゼウスは地上に人口が多くなりすぎて、人口を減らすには戦争が一番と考えた。折しも女神テティスと人間の男であるペレウスの結婚式があり、多くの神々が招かれていたが、そこに争いの神様である女神エリスだけには招待状が届かないようにした。当然エリスは何で自分だけは招待されないのかと怒り出す。さらにそこで黄金の林檎を取って、そこへ“一番美しい女神へ”と書いてその結婚式の会場に投げ込む。これは当然そこにいる一番美しい女神が受け取るプレゼントということで、我こそが一番の美女だと争いが起こる。これを争ったのが先に書いたヘラとアテネとアフロディテである。そこに巻き込まれたのがパリスであった。
 そのパリスである。この男トロイに帰った後、父である王プリモアスの命を受けスパルタへアイネイアスと共に赴く。そこにはスパルタの王メネラオスの王妃ヘレネがいた。このヘレネは絶世の美女であり、パリスは一目でその虜となる。アイネイアスもそうであった。一方ヘレネは夫メネラオスに嫌気がさしていたところに、美男で勇者の誉れ高いパリスが現れたものだから、パリスに心奪われる。そしてパリスはヘレネを奪ってスパルタを後にする。
 当然メネラオスは怒る。厄介なのはメネラオスはミケーネの王アガメムノンの弟であった。アガメムノンのはギリシアの盟主を自ら任じていたし、トロイの繁栄を羨んでいたので、これはヘレネを奪い返すための戦争をすべし、ということで戦いが始まった。これがトロイ戦争である。
 ところでそのヘレネであるが、ゼウスの病気とも言える女好きから始まった。スパルタの王妃レダが白鳥の集まる泉で沐浴を楽しんでいるところへ、大きな白鳥に化けたゼウスが近づき、王妃と交わる。王妃は卵を産み、その一つから、ギリシア神話一の美女ヘレネが生まれたのである。

 さらにヘクトルと戦ったアキレウスの出生も覚えていたので、それも書いておく。アキレウスは先の女神テティスと人間の男であるペレウスの間に生まれた子供である。つまり半神半人の勇者である。テティスは魅力的な女神だったが、「テティスから生まれる男の子は父親より強くなる」という予言があって、それじゃまずいということで、ゼウスとポセイドンは人間であるペレウスに嫁がせたのである。だからアキレウスは強い。みんながアガメムノンの横暴さに怖じけついて、渋々従うのに、アキレウスはオデッセイウスに誘われとりあえず戦争に参加したけれど、最初は物見遊山であった。しかしパトロクロスがヘクトルに殺されたことを知って、戦いに出る。そしてヘクトルとの一騎打ちが最初にいた場面である。

 こういう背景を知っていると、俄然この話は面白くなる。ただでさえ、話のテンポがあって楽しいのに、登場人物の出生を知っていれば、楽しみが倍増する。
 この本の主人公はアイネイアスであるが、その父アンキセウスで、アイエネイアスはアンキセウスとアプロディーテーの間の息子である。そして彼もトロイでは勇者の誉れ高い若者であり、トロイ戦争ではギリシア軍と戦ったが、最後は落城するトロイを父と共に後にする。アンキセウスは昔の戦いで足を悪くしており、トロイを脱出するとき、アイエネイアスはアンキセウスを負ぶってトロイを後にする。この場面を描いた絵を見てシュリーマンはトロイの発掘を目指したのである。
 さてそのアイエネイアスであるが、トロイを出た後、トロイ再興を目指して地中海をまずは東に行き、次に西に向かう。そして何度も遭難しながらイタリアに到着する。そう、アイエネイアスはローマ建国の祖の祖なのである。イタリアのラティウムの王女ラウィニアと結婚し、子のユルースを得るが、そのユルースの末裔がオオカミに育まれた双子の兄弟ロムルスとレムスであり、そして兄弟が争って勝ったロムルスがローマ建国の祖となるのである。
 ところでアイエネイアスがイタリアを目指し、地中海を航海しているとき、嵐に遭い、北アフリカのカルタゴの漂着する。このときカルタゴはまだ女王ディドの時代であった。
 ディドは父の弟のシュカイオスと結ばれて、巫女として神に仕えていた。その父の死後、遺言で彼女と兄のピュグマリオンが共同で国を治める様にといわれていたが、ピュグマリオンは王位の独占と叔父の財産目当てに遺言に違えてシュカイオスを暗殺し、ディドの命をも狙った。
 そこで彼女は全てを捨てて心ある家臣たちとともにフェニキアの都市国家テュロスから航海に出た。そして北アフリカのチュニジアの地に辿り着いく。そこがカルタゴである。だからディドはギリシア・ローマ神話の中で、カルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王となっている。
 そしてアイエネイアスはカルタゴに漂着し、ディドに手厚くもてなされるし、恋も生まれた。しかしアイエネイアスにはトロイ復興という目的があるので、ここを後にする。
 私が面白いと思ったのは、ディドがカルタゴ建国した女王であり、アイエネイアスはローマ建国の祖である。この二人が一時は恋仲となったのに、後の歴史はこの二つの国が地中海の覇権を巡って争うのである。

 さて最後にトロイの木馬である。我々が知っているトロイの木馬はギリシア軍が作り、それをトロイの人々が城の中に入れてしまい、夜、そこに忍び込んだギリシア軍が出て来てくる。攻めあぐんできた城の門を中から開け、そこからギリシア軍がなだれ込むことによって、トロイが炎上し、崩壊するという話である。映画「トロイ」もそういう話になっている
 しかしこの本では、なかなかトロイを攻めきれないギリシアが、大きな木馬を神への捧げ物として作り、城の外で燃やすのである。つまり木馬は城の中には入らないのである。そしてその後大きな地震が来て、城壁を崩す。そこからギリシア軍がなだれ込んで、トロイを滅ぼす話になっている。
 阿刀田さんは考古学的、歴史的考証に注意を払ったとあとがきに書いてある。つまりシュリーマン等によって発掘されたトロイの遺跡は少なくとも九層からなっているらしく、その第七層がトロイ戦争があった頃の層だと推定されている。そしてトロイがもっとも栄えたのがその一つ前の第六層の都市時代だったらしい。その頃大きな地震があって堅牢を誇っていた城塞が崩れ落ちた。そこに第七層の都市が慌てて作られ、そのやわな城壁がギリシア軍に破られたというのが実情らしい。それを阿刀田さんは踏襲しているのである。でもやっぱり木馬はトロイの人が引き込んでしまい、そこに隠れていたギリシア軍が出てくる方がいいなぁ。
 とにかく再読してこんなに堪能しただけでも、読み返した甲斐があった。


評価
★★★★★


書誌
書名:新トロイア物語
著者:阿刀田 高
ISBN:9784062072205
出版社:講談社 (1994/11/30 出版)
版型:565p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年02月09日

阿刀田高著『Vの悲劇』

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 古い阿刀田さんの推理小説を読む。この本は講談社創業八十周年記念推理特別書下ろしで、当時日本で活躍する推理作家を集めて、シリーズにしている。帯によると、阿刀田さんが本格推理に挑戦されたようだが、はっきり言って面白くなかった。
 というか、この本を読んでいて今まで阿刀田さんの作品にムラがある理由がわかった。私は阿刀田さんのエッセイや歴史小説の大ファンなのだが、現代物や恋愛小説を読むと、どうしてこうも面白くないのだろうかと思っていた。どこか無理みたいなものを感じてしまっていた。それがこの本を読んでやっとわかった。
 この本の主人公は庄野安津子という30代の主婦で、不倫相手に会いに行った先のコテージの箪笥の中から愛人の男の死体を発見してしてしまうところから始まる。不倫相手は安津子の友人の夫であった。
 当然不倫相手の死体から、証拠を残さずその場を去らなければならないし、警察の捜査が自身に及ばないように、あれこれアリバイを作り上げる。一方で、何で相手の男が殺されたのか、その理由を知りたくなる。安津子がそのコテージついたとき、覚えのある香水の香りがかすかにする。男は安津子が来る前に他の女と会っていたことを確信するが、そこから安津子の両親の過去、特に父親の過去が段々事件に関係していることがわかってくる。
 まぁ、ストーリーとしては平凡単純なのだが、それよりも主人公が女性なのに、関係者と会って事件を考えるとき、あるいはあれこれ推理するとき使われる言葉が、妙に馴染まないのだ。無理に女言葉を使っているという感じが拭えなかった。ただ感じたり、考えたりするときに、女性でもここまで女言葉を使うだろうか、と思ったのである。いくら主人公が女性だからといっても、もっと断定的な言い方をしてもちっともおかしくないような気がしたし、その方が自分の言葉としてしっくりくるような気がしたのである。
 これは明らかに男性作家が女性の描いたという、無理がそうさせているような気がした。そして私が阿刀田さん作品で、違和感を覚える作品は、そのほとんどが女性が主人公になっている場合じゃないか、と思ったのである。
 それを発見したとき、この人は女性を描くことはうまくないのだな、と思ったのである。女性らしい機微を自然に表現できない人ではないかと思った。その不自然さが妙にひっかかってしまうのだ。そのため読後どこかざらざらした感じが残ってしまう。トリックもアイデアが先走っていて、人間関係も陳腐で、話の展開も強引であったため、これはきっと失敗作だと感じた。
 

評価
★★


書誌
書名:Vの悲劇
著者:阿刀田 高
ISBN:9784061939837
出版社:講談社 (1989/06/28 出版)
版型:294p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年02月05日

本多孝好著『ALONE TOGETHER』

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 これで本多さんの著作は全部読んだことになる。この本は不思議な本であったが、面白かった。

 人は義務や責任や、世間体、あるいは世間の常識などに縛られて、本当はしたくない、関わりたくないのに、やらなければならない、あるいは関係を持たざるを得ないところがある。それらから解放されればどんなに楽であっても、それを許さない型どおりの義務や常識、責任などに縛られやむなくそうしている。そうしなければ家族が、社会が成り立たないからである。もしそれをすれば自分に対する言い訳を求める。
 本意は関わりたくない、やりたくなくても、それを放棄することが出来ない。放棄するにはそれなりの訳や理由が必要となる。あるいは形だけの義務を果たす姿を演じなければならない。それが人間そのものをある意味歪ませる。それを取り除いてやれば、本来ある姿になれるのにである。たとえそれが非常識で、非人間的であっても、それがその人が本来望んでいる姿なのだ。
 主人公である柳瀬の父親は次のように言う。

 「誰もが何かを胸の中に抱え込んでいる。みんながみんな、自分の思いのすべてを口にし始めれば社会が回らなくなる。外にぶちまけることのできない思いは、内側に溜まって澱になる。人はいつだってその澱を吐き捨てる穴を探している」

 柳瀬は父親から譲り受けた特殊な“能力”があった。

 「人はそれぞれ波長を持つ。その波長は谷を作り、山を作り、ときに揺れ、ときに震え、その人の怒りを作る。喜びを作る。悲しみを、楽しさを作る。僕はその波長を感じることができる。その波長に自分の波長を合わせることができる。そして波長が重なれば、その人にとって、僕は他者でなくなる。鏡に向かって独り言を言うようなものだ。隠す必要も、偽る必要もなくなる。けれど、それは能力と呼べる代物ではなかった。むしろ反射作用に近い。相手の波長を感じた途端、僕の意思とは無関係に僕の波長はシンクロを始めてしまう。その力を完全にコントロールするのは難しかった」

 つまり柳瀬は相手の本音を聞き出し、しがらみから解放してやれる能力があった。それは相手の波長に自分の波長をシンクロさせ、本音を引き出すことなのである。言葉を引き出された相手は、嘘で固められていた自分の本音、本来求めていた姿を語り始める。それを語った相手は、自由になり、ほとんど破滅への道を歩むこととなる。

 この本の怖さはそうした本音の解放が、いかに恐ろしい姿を見せるのかという点にある。そしてそうした本音の部分を隠すのが義務や責任や、世間体、常識などで、それらが社会をうまく機能させているかを知る。けれどそれは本来の姿ではないから、当然歪んでくる。そういうことなのだ。

 私は柳瀬の持つ特殊な“能力”と物語の展開がどうなっていくんだろうと思いながら、結構楽しんでこの本を読ませてもらった。けれどやっぱり、解放を望んでいる人間の心が、様々なしがらみに縛られ、それらが解放できずにいること。それが社会を成り立たせていること。解放された心のままに行動すれば、非社会的という烙印を押されてしまうこと。だからせめて少しでも本音の解放しようとすれば、絶対に言い訳が必要になること。それでなければ世間が、社会が許さないからだ。

 三年前に医大を辞めた柳瀬はそこの教授が立花サクラという14歳の守って欲しいと言われ、それを引き受けた。そして立花サクラが最後に逃げ込んだのは閉鎖した教会であった。そこに元司祭がいた。柳瀬はその元司祭とシンクロし、聞き出した言葉がものすごく気になった。それは司祭のもとにある男が来て言った言葉である。最後にそれを書き出す。

 「祭りを司って祭司。宗教とは本来お祭りです。だから、あなたのお考えは本末転倒です。祭りはその昔宗教的なものであった、のではなく、宗教はその昔お祭り的なものであった、のです。我を忘れるほどの高揚感。そこにもたらされる一瞬の陶酔。それこそが宗教なのではないか?」

 「ですから、宗教とは説くものではありません。授けるものです。授けた相手が要らぬと言うのなら、それ以上の無理強いは意味をなしません。わかりますか?ですから、宗教などとうの昔になくなっているのですよ。情によって授けられない教えは、理を持って説かれる。ときに権力という後ろ盾を得てね。それがあなたの言う、宗教、です。陶酔に訴えるのではなく、強迫観念に訴えるのです」

 “これってすごい!”

 今我々が信じている宗教がたどってきた歴史の本質を突いているように思えたのである。


評価
★★★


書誌
書名:ALONE TOGETHER
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508444
出版社:双葉社 (2002/10/20 出版)双葉文庫
版型:302p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年02月03日

本多孝好著『MISSING』

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 また本多さんの本を読む。この文庫と次に読もうと予定している文庫を読めば、一応本多さんの本は全部読んだことになる。いつの間にか息子に感化されて、こういうことになってしまった。
 さて、この文庫は短編5編、「眠りの海」、「祈灯」、「蟬の証」、「瑠璃」、「彼の棲む場所」である。そしてこの本は2000年「このミステリーがすごい!」の第10位になっており、「眠りの海」は第16回小説推理新人賞受賞作である。詳しいことは知らないが、どうやらこの本は本多さんの最初の本みたいだ。
 個人的には「眠りの海」、「祈灯」がよかった。本多さんの作品でいつも感心するのは、会話の面白味である。ある意味村上春樹さんより、シニカルだと思ってしまう。だから登場人物の会話には思わず吹き出してしまうことが多かった。
 ただそうした皮肉的で冷笑的な考えをする人物たちが若すぎないかと思うのだ。いくら何でも中学生や高校生が言うような言葉じゃない。そんな年齢でこんなにひねた会話ができるかな、とそれだけが気にかかった。
 あるいは今の若い奴らはこういう会話ができるのかなと思ったりするが、やっぱり無理があるような気がする。かといって登場人物の年齢を上げてしまえば、話の質が変わってしまいそうだから、この点は難しいところだ。
 でも、その点に目をつぶれば、斜に構えつつも、言っていることは至極まともで、言葉が心にしみるところがいくつかあった。

 「目茶苦茶なんだと、思うな」

 「情緒とか、感受性とか、考え方とか、その人がその人である理由みたいなものが、全部目茶苦茶になってるんだと思う。誰も悪くない。忘れなきゃいけない。そう思いながら必死で社会生活して、何とか普通でいようと歯を食いしばって。それが家に戻ってきて、一番安心できる場所で、一番安心できる人の顔見た途端に崩れちゃうんじゃないかな」(「祈灯」)

 「他の人よりずっと重い時間を過ごしちゃったんだ。十九年が、四十年にも五十年にも感じられるくらい」(「祈灯」)

 「どちらか一方がもう少し短気か器用であればよかった」(「蟬の証」)


 「正直と不器用との区別できない人だった」(「蟬の証」)


評価
★★★
 

書誌
書名:MISSING
著者:本多 孝好
ISBN:9784575508031
出版社:双葉社 (2001/11/20 出版)双葉文庫
版型:341p / 15cm / A6判
販売価:630円(税込)

2010年02月02日

有本紀明著『スペイン・聖と俗』

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 個人的なことを書けば、私は大学時代ヨーロッパ中世史に興味を持っていた。その関係で、778年シャルルマーニュのスペイン遠征から始まるレコンキスタ(Reconquista)というキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動に興味を持っていたし、さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼なども一時興味があっていくつか調べたことがあった。
 さらに大航海時代を走った国、その後の南米などへの植民地政策を進め、スペイン・ハプスブルク帝国による「太陽の沈まない国」とまで言われたこの国の面白さは今でも興味がある。もっと言えば、ゴヤやベラスケスといった宮廷画家のしたたかさなど私が知っているだけでも、今でも興味が尽きないところがある。かなり昔読んだ五木寛之さん『戒厳令の夜』などあれも三人のパブロフなど、あれも面白い作品だっただけに、連想して思い出す。
 この本は司馬遼太郎さんの『街道を行く』の中で紹介されていた本で、その中でなかなか興味深い本だと司馬さんが書かれていて、それで買った。
 読んでみて面白いなと思ったことはスペイン人が持つ民族性がその歴史から生まれたことがうまく書かれていて、なるほどと思った次第だ。イベリア半島にあるこの国は古来様々な民族がこの地を通ってきて、中には定着し、追い出されいった。ユダヤ人、ギリシア人、カルタゴ人、ローマ人、ゲルマン人、イスラム教徒等である。中でも、キリスト教徒とイスラム教徒の闘争は、最後にキリスト教徒の勝利で終わったことにより、この国がカトリックの守護国を任じ、伝統的主義の立場を取るようになって行く。ガチガチのカトリックであるこの国ならではの凄まじい異端審問の嵐が吹き荒れたのもそうした歴史的背景があったからだ。

 「スペインが成立の時点からさまざまの要素の混合であることは前に見た通りである。特にユダヤ人、モーロ人とキリスト教徒の葛藤はスペインの歴史に、またスペイン人自身の肉体的・心理的特質に消すことのできない刻印を押している。キリストとマホメットの宗教戦争でスペインが条件づけられたように、ここから正統と異端という根本的二率背反が生まれた」

 言ってみれば血の純潔をカトリックという立場で主張するとこういう歴史になっていったと言っていい。血の清浄を求めるがために、社会が歪んでいった。スペインが「太陽の沈まない国」から没落して、その他のヨーロッパ諸国が近代化の道に進んでいるのに、遅れを取った理由もここにある。
 そしてスペイン人がスペイン人であることのアイデンティテーを求める余り、その民族性にも固定化が生まれていく。この本の「スペイン人罪」という章は、スペイン人が持っている気質を語っていて面白いのだが、そこにはスペイン人の自己中心的で、傲慢であり、特殊な超越主義で、私は私であることを徹底的に主張しつづける姿が例を挙げて書かれている。そのため外国文化に対する無関心でさえある。一方でというか、だからというべきかその妬みと嫉妬の激しさも指摘している。

 「妬み、不服従、それに不和はスペイン人の烙印である。だからその産物である分離指向という癌、救世主的狂気、てんかん性政治的反動、またその社会的構造の停滞ということも容易に理解できよう」というカミロ・ホセ・セラという人の言葉をここで著者は挙げている。
 ベラスケスが描く王一族の肖像画を見ていると、本来ならその華麗さを前面に感じていいはずのもが、どこかそこに描かれる人物たちのグロテスクさを先に感じてしまうのも、あるいはゴヤのように最高地位の宮廷画家であって、一方であのような風刺画や版画を描くのが、何となく理解できそうな感じがしてくる。ピカソやダリの自己主張の強さ、あるいはあくの強さもスペインでしか生まれなかったのではないかとさえ思えてくる。あるいは日本史で登場するイエズス会にしても、あの融通に気かなさはこのあたりに求められそうな気もしてしまう。
 ただこの本が書かれたのが今から約30年ほど前だから、今はだいぶ変わってはいるのだろうけど、でもテロの話は度々耳にするから、どこかはこの当時と変わっていない部分があるのかもしれない。余裕があるならもう少しスペインについて知りたいところである。


評価
★★


書誌
書名:スペイン・聖と俗
著者:有本 紀明
ISBN:9784140014301
出版社:日本放送出版協会 (1983/01 出版)NHKブックス
版型:248, / 19cm / B6判
販売価:入手不可