2010年03月31日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『サボイ・ホテルの殺人』

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 またマルティン・ベックシリーズに戻る。第6作目である。スウェーデンの実業家のヴィクトール・パルムグレンが系列会社の重役たちの前でスピーチをしている最中、近づいて来た男にピストルで頭部を撃たれた。そして犯人は窓から逃亡した。
 パルムグレン傘下の企業は手広く事業をしていたが、アフリカなどに武器を輸出していたと黒い噂もあった。が、とにかくパルムグレンはスウェーデンの経済界の大物であった。
 その彼が殺害されたのである。警察上層部は嫌が上でも事件を重要視せざるを得なかった。彼の殺害が政治的背景があるようにも思えたからである。そこでマルティン・ベックがマルメのサボイホテルへ派遣される。
 事件は彼の事業内容による国際的トラブルか、それとも彼の部下たちの反逆による暗殺か、いくつかの糸はあるのだが、すべて途中で切れてしまい、捜査は行き詰まっていく。
 そうしているうちにマルティン・ベックはそもそもこの事件は政治的背景とか、ビジネストラブルとか、そういう厄介なところで起こった事件ではなく、もっと単純なところで起こった事件ではないかと思い始める。
 事件直後、犯人に良く似た男が、マルメからコペンハーゲンに向かう船の甲板で、黒い箱を持って佇んでいたという情報が入るが、その男が何者か特定することが出来ずにいた。犯人が使ったと思われる銃もいくつか特定されつつあったが、これもはっきりしない。
 そんな中コペンハーゲンから送ってきた事件リストの中に、浜辺を散歩している家族の息子が砂浜に打ち寄せられた黒い箱をみつけ、中身がサボイホテルの殺人事件で使われた銃のリストの中にあった銃が入っていた。その銃は射撃練習場で使われるもので、判読しづらいが名前も入っていた。
 浜辺で見つかった銃の持ち主、スヴェンソンは、以前パルムグレン傘下の工場で働いていたが、工場が閉鎖され、解雇されていた。さらに住んでいたパルムグレン所有のアパートも策略のよって追い出されてしまっていた。マルティン・ベックは事件の動機を次のように推理する。

 「その場合、スヴェンソンは相当長期間にわたって、踏んだり蹴ったりの目にあったという事実を想起する必要があると思う。これはただ単に自分の運が悪いのではなく、ある特定の人物、ないしは集団から不当にあしらわれた結果なんだと思いはじめたとき、彼の憎悪は偏執的な敵意にまで昂まったと見ていい。言ってみれば、一つまた一つ身ぐるみ剥がれていって、最後に丸裸にされてしまったようなものなんだから」

「そしてその集団の代表がパルムグレンだったというわけか」とマルティン・ベックと一緒に捜査しているのペール・モーソンが言う。

 犯人のスヴェンソンは逮捕後、「あいつを殺してやりたいと思ったことは、あの前にもあったと思います。といって、あらかじめ計画を練っていたわけじゃありません。ところが、あそこにああやって立っている彼の姿を見、自分がリボルバーを持っていることに気づいたとき、いまならあいつを射ち殺すことなど造作もないじゃないか、という考えがパッとひらめいたんです」と言うのであった。 事件は政治的背景やビジネストラブルではなく、一人の男の恨みから起こったもので、ベックが思った通り、単純な動機であった。
 この話で妻との仲が冷え切っていたマルティン・ベックは、別居生活を一人で始めたことが書かれている。別居生活が彼を元気にし、また射殺された昔の部下の恋人とのラヴシーンもあり、ガチガチの刑事ではないことを我々は知って、どこかホッとする。こういうのも人間味があっていい。


評価
★★★


書誌
書名:サボイ・ホテルの殺人
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910409
出版社:角川書店 (1980/09 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:304p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年03月30日

大沢真幸編『アキハバラ発 ― 〈00年代〉への問い』

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 つい最近までNHKでやっていた「ブラタモリ」で秋葉原界隈を紹介していた。そこでタモリは秋葉原を「過去を振り返らない街」と称していた。つまり秋葉原が次から次へと何か新しいものを発信し続け、街自体もそれの伴い古いものを捨てて新しいものへと変わっていくと言いたかったのだろう。確かに街は再開発で大きく変わった。
 だけどそういう言い方が秋葉原に当てはまるかというと、どうも正鵠を得ていないように思える。結構古臭い側面を見せつけるところもある。むしろこの本に寄稿している映画監督で作家の森達也さんの「でもここには何もない。いや正確には、ないのではなくありすぎる。剥離したのではなく上書きされたのだ。過剰な電脳空間の密度に。」の方が言い得ている感じがする。

 2008年(平成20年)6月8日、神田明神通りから歩行者天国で賑わう中央通りの交差点に加藤智大が2トントラックでに突っ込み、歩行者をはね飛ばし、さらに所持していた両刃のダガーナイフで立て続けに切りつけ、7人が死亡し、10人が負傷した。いわゆる「秋葉原無差別殺傷事件」がある。
 この本は犯人の加藤智大が何故こうした事件を起こしたのか?そこにある社会的背景をああでもない、こうでもないと“解釈ゲーム”した本である。正直読んでいて反吐が出る思いであった。加藤が派遣社員で使い捨て労働者であったことでキャリア・アップやモチベーションの保持が出来ない境遇であったこと。あるいは孤独で“非モテ”(もてない男)であったこと。事件を起こす前までネットに自分がこれから行おうとすることを書き込んでいたこと。事件が秋葉原であったことなど、それぞれ彼の背景にある社会的要因を問題点としてあげ、それが日本の現在おかれている社会的状況が危機的状況にあるから、こうした無差別殺人が起こったとする。
 読んでいて悪いのは秋葉原であり、日本の社会システムだと言いきるあたり、どこかおかしい。事件を起こした加藤の資質に一切触れずに、彼がおかれていた状況がこうした事件を起こしたのだから、この点を何とかしないと、また同様の事件が起こると言わんばかりなのだ。
 事件が秋葉原で起こったことに意味があるのだろうか?確かに加藤はネットオタクで常に携帯を握りしめていたし、もしパケット料金契約をしていなかったら接続料だけで毎月80万前後になっていたというから、秋葉原はそれにふさわしいところになるのだろう。けれどだからといって事件が秋葉原で起こらなければならない必然性は見出せない。むしろ加藤が大都会として知っていたのは秋葉原だっただけのことで、もし加藤が多くの人が行き交う他の街を知っていればそこでもよかったはずである。ただそれだけのことであるように思えるのである。

 私は社会というシステムには必ずこうしたシステムにはみ出てしまう人間が出てくるものだと思っている。つまり人間が維持している社会システムというのは万民に完璧なものをまだ見出していないのである。とりあえずこれならいいかなという程度のシステムしか持ち得ないのである。まして資本主義社会では持てる者がいるということは、必ず持てない者が存在することを意味する。搾取する者がいるなら、搾取される人間もいなければならない。つまり今ある社会は相反する立場の人間が存在し、拮抗することを前提としているのである。だから加藤みたいな人間が出てきてもおかしくないのである。そしてそうした人間が出てきたら社会システムはそれを排除してシステムを維持してきただけのことなのである。昔からそうであった。共同体を壊す者、不要な者は共同体から排除されてきたのである。
 社会システムが完璧なものでない以上、加藤みたいに社会システムに折り合いのつけられない人間が出てきても不思議じゃない。極端なことを言えば、そういう人物が出てくることを織り込み済みのシステムなのだ。たとえ加藤のような非正規社員の待遇を改善したとても、今度は違うところで歪みが出てきて、そこにいる人間が今度は事件を起こすだけのことなのである。だから加藤がいた境遇を過大に問題視し、加藤自身の性格や資質を問題にしない発想はおかしい。
 共同体と一緒にいられない人間がいれば、共同体はそれを維持するために、そうした人間を排除してきた。人間社会は昔からそうした人間を粛々と排除してきたのだ。後は共同体のダメージを少なくするために、多少の修正をする。そうだからこそ、そうした修正は後手後手となるのはやむを得ない。
 言っておくが、私は加藤が起こした事件を肯定しているのではない。事件の凄惨さは被害にあわれた方や関係者にはどう言ったらいいのか言葉さえ見つからない。ただ加藤にはそうした事件を起こした罪の償いをさせればいいだけであり、彼の起こした事件をこの本のように社会問題として過大視するのはどうなのかと思うのである。悪いのは社会だという考えにすり替えてしまい、加藤はそうした社会の被害者みたいな扱いはどうなのかなと思うのである。たぶんこういうのは岩波書店が好きそうなテーマだから、こんな本が生まれたのだろう。


評価
★★


書誌
書名:アキハバラ発 ― 〈00年代〉への問い
著者:大沢真幸
ISBN:9784000220477
出版社:岩波書店 (2008/09 出版)
版型:234p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年03月24日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『消えた消防車』

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 私が持っているこのシリーズはこの話で文庫本は終わる。後の5冊は単行本となる。(もちろんこの5冊の単行本も後に文庫になっている)まぁ、これは何の意味もないことなのだが、とりあえずこのシリーズの半分は読み終えたことになる。

 さて話の内容は、まず事件が二つある。一つはストックホルムのアパートで、ピストルで自殺したカールソンという男がいて、カールソンの筆跡で、「マルティン・ベック」と書いたメモが残されていた。ところがマルティン・ベックはカールソンと一切面識がなかった。
 そしてグンヴァルト・ラーソンは依頼されて(詳しい経緯は知らされておらず、ただ助っ人として)ある男のことを若い部下に見張らせていた。その夜は寒い夜で、見張っている警官が凍えそうになっていたので、一時ラーソンは代わってやった。その時男のいるアパートに火花が見え、爆発炎上した。ラーソンが炎が燃えさかる中、アパートにいる人間を捨て身で救助する。
 一方ラーソンに代わってもらった警官は自分が見張っていたアパートが火事になっていることを知って、慌てて消防署に連絡するが、消防署ではその通報をすでに受けているから、もうすぐ現場に着くはずだといわれる。しかし彼が現場のアパートに戻って見ると消防車は来ていない。
 グンヴァルト・ラーソンらが見張っていたのは自動車窃盗の疑いで逮捕され、証拠不十分で釈放されたマルムという男であった。そして火事はマルムの部屋から出火し、彼は焼け跡から死体で発見された。しかし検死の結果、マルムが火事になる前に既に一酸化炭素中毒で死亡していたこが分かる。マルムはガス自殺を図っており、火事はそのガスに引火して起こったものであると最初見なされた。 しかしさらに詳しく調べてみると、自殺したマルムが横たわったマットレスの中に超小型の自動発火装置が仕掛けられていた。つまり誰かがマルムを殺そうと計った同じ晩に、マルム自身自殺していたことになり、火事はその延長で起こったのであった。これで事故が事件となった。
 警察はマルムと自動車窃盗の仲間であったオーロフソンという男を探し始めるが、一向にオーロフソンの行方がつかめないでいた。オーロフソンの消息は火事から遡ること1ヶ月の間ぷっつり途絶えているのでった。
 そしてマルメの港に沈んでいる車が発見され、その中にオーロフソンの死体があった。検死の結果オーロフソンはマルムが死んだ日にはすでに殺されていたことが分かり、マルム殺しはオーロフソンでないことになった。誰がマルムとオーロフソンを殺したのか?
 捜査を続けているうちに事件の全貌が見えてくる。マルムとオーロフソン、そして「マルティン・ベック」と書いたメモを残して自殺した男、カールソンたちは自分たちが属する自動車窃盗組織が美味しいところを持っていってしまうので、組織から自立しようと考えた。が、逆にその組織に殺されたという構図が見えてくるのであった。
 そしてオーロフソンとマルム(先に自殺していたが)を殺した組織の男が再びスットクホルムに入国するとパリから連絡が入る。その時たまたまマルティン・ベックは休暇中であったので、コルベリと若い部下のスカッケが空港に向かった。ところがスカッケが不用意に動いてしまい、コルベリはその男にナイフで刺され、スカッケは銃でその男を射殺する。

 これで物語は終わってしまい、何か中途半端な終わり方であった。せっかく凝ったストーリーをこしらえたのに、この終わり方はもったいない感じでった。残念である。


評価
★★


書誌
書名:消えた消防車
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520030
出版社:角川書店 (1993/11 出版)角川文庫
版型:425p / 15cm / 文庫判
販売価:693円(税込)

2010年03月19日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『笑う警官』

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 今回も今まで持っている文庫本とは別に買った文庫本を読んだ。初版本ではなく、再版本である。ここでは初版が昭和47年(1972年)7月20日となっているので、ここにあげた書誌とまた異なっている。ちなみに私がそれまでに持っていた本はこれである。

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 とにかくこの本は1970年アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀長編作品賞の受賞作品ともなっているくらい、スケールが大きく、しかも単に話が大がかりになっているだけでなく、地道な捜査をきめ細かに描写していて、なるほどこれならこの賞を受賞してもおかしくないと思える。

 さてこの話の内容である。ストックホルムでベトナム反戦デモで騒がしかった雨の夜、路線バスが道路から外れて停止していた。中を覗くと瀕死の人間が一人いたが、運転手を含め乗客8人が機関銃らしきもので打ち殺されていた。そしてその殺されれた乗客の中にマルティン・ベックの部下であるオーケ・ステントルムがいた。この事件では目撃者もおらず、しかも被害者のほぼ全員が死亡しているため誰がどのような理由で狙われたのかも分からず、捜査は被害者各々の背景を調べるところから始まった。地方からも応援を頼み捜査を続けるうちに被害者の中の何人かは裏に後ろ暗い事情を抱えていることが判明したが、その中に1人だけ身元不明の被害者がいた。
 一方マルティン・ベックはこの事件の捜査を始めるに当たり、何故非番だったステントルムがこのバスに乗っていたのか疑問を持ち始める。しかもステントルムは銃をいつも持ち歩いていたという。
 ベックの同僚コルベリはステントルムの恋人オーサー・トーレルの元に行き、ステントルムの近況を聞いた。そこでステントルムが休暇を取っていて、『バルコニ-の男』での公園での連続殺人事件に加われず、しかも休暇が終わった時点で事件が解決していたことにクサっていたと聞く。ステントルムは若いだけに野心家であった。

 事件がそれほどない時期に過去の迷宮事件を調べてみろと上司から言われ、ステントルムは“テレサ事件”を追っていた。この事件はテレサという色情狂の女が娼婦に身を落とし、殺されてしまった事件で、関係者は数多くいるのだが、決定的な証拠がなく迷宮入りとなっていた事件であった。
 コルベリはステントルムが追っていたこの事件を調べ始める。テレサと関係を持った男は様々な階級の男たちがいたが、中には身を崩しアル中になって収容されている者もいた。
 以前ステントルムからもいろいろ聞かれていたその男はかなり車に詳しかった。男とステントルムとの雑談の中で、テレサ殺害時に目撃された車が、正面から見ると他の車と見間違うほどよく似ていることを聞かされ、ステントルムがそれに異常に興味を持ったことを聞かされる。
 一方身元不明の被害者の身元が割れる。ところでベックの同僚で記憶力に優れた、メランデルという刑事がいるが、その身元不明の男の名前が“テレサ事件”の調書の中に名前があったはずだと言い出すが、“テレサ事件”を再調査していたコルベリはその調書を隅々まで読んでいて、その名前がなかったはずだと言う。結局調書は1ページ抜けていた。その抜けた調書にはその男の名前があったのだ。しかもその男が乗っていた車が事件当時目撃された車と見間違えしてもおかしくない車に乗っていたのであった。ステントルムはこの男を追っていたのである。
 この男を調べているうちに一枚のレシートが見つかり、裏には頭文字と見られるB・Fという文字があった。コルベリが作ったテレサの関係者リストにB・Fの頭文字がつく名前の男は3人いた。さらに意識不明の重体になっていた男が死ぬ間際に、犯人が自分が勤めていた会社の監督の男とよく似ているといって死んでいったことが分かり、B・Fの頭文字がつく男3人のうち監督に似ている男を見つける。そしてその男は身元不明の男が勤めていた会社の経営者であり、今は実業家であった。実業家はステントルムが男を尾行していることに恐怖を持ち、その男とステントルムの抹殺を計ったのであった。

 「よし、これでどうやらきまりだな」

 といって犯人の男のであるその実業家の元へ向かう。

 事件が解決し、グンヴァルト・ラーソンは次のように言う。

 「こんなことは、誰にも話したことはないんだが、おれはこんどの捜査で洗いだした連中には、そんそこ同情を感じているんだ。どいつもこいつも、てめいで生まれてこなけりゃよかったと後悔しているようなクズばかりだが、といって連中の人生の賽の目が、ままならぬ方向にころんだからたって、そいつは連中の責任じゃあない。許せないのは、そういう連中を虫けらのようにひねりつぶす、フォルスベリみたいな手合いだ。あの豚野郎ときたら、考えることはてめえの金、てめえの家庭、てめえの会社ばかりだ。たまたま他人よりちょっと裕福だというだけで、好きなように他人をあやつれると思っていやがる。ああいう手合いはフォルスベリだけじゃない。実は何千ているんだ。そいつらはポルトガルの娼婦をしめ殺すようなヘマはやらないだけの話だ。だから、そうおいそれとおれたちの網にもかからない。出てくるのはそいつらの犠牲者だけという寸法さ。フォルスベリの野郎は例外なんだ」

 という言葉が肯ける。ところでステントルムが隠した、“テレサ事件”の調書の1ページはステントルムの机の上に隠れてあった。そこにはこの大量殺人事件犯人の名前が疑問符付きであった。それを聞いたマルティン・ベックは低く笑った。それをもっと早く見つけていればというところなのだろう。


評価
★★★★


書誌
書名:笑う警官
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520023
出版社:角川書店 (1985/11 出版)角川文庫
版型:433p / 15cm / 文庫判
販売価:740円(税込)

2010年03月16日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『バルコニ-の男』

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 まずは本そのものの話から。このシリーズは日本ではこの『バルコニ-の男』から発売された。理由はどうしてなのか分からないことは書いた。察するにこの本からこのシリーズを面白くするグンヴァルト・ラーソンが出てくるからじゃないかと推察するが、あくまでも私がそう思っているだけのことだ。
 で、今回読んだ本は今までのカバーとは趣を異にする。そう、今回このシリーズが発売された最初の本、すなわち初版本を手に入れており、それを読んでみたのだ。
 初版は昭和46年(1971年)8月10日となっている。ということはここにあげた書誌とは異なる。この書誌は紀伊国屋書店Book Webを参考にしているが、そこには1993年(平成5年)となっている。昭和46年と平成5年とではちょっと隔たりがありすぎる。別に紀伊国屋書店Book Webの書誌をいい加減だといちゃもんをつけるわけではないが、私は初版の実物を今手にしているのだから、正しくは1971年だろう。私が持っているもう1冊本の方を見ると、これも初版が昭和46年8月10日となっていて、昭和59年(1984年)4月30日十六版発行となっている。


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 今回は今から39年前の文庫本を読んでいるのだけれど、これが下手に扱うとページがとれてしまいそうである。この時の角川文庫はスピンがついていたことを知るが、そのスピンが寸足らずになっている。先っぽが切れてしまっている。経年劣化もここにも現れている。またカバーの背表紙も紙質が劣化し、折り込みの部分が割れたようになっている。いったいこの文庫は後何年で崩壊するのだろうか、と思った。

 さて本の内容である。マルティン・ベックはロゼアンナ事件で一緒になったアールベリーの要請でモータラへ行く途中、署による。そこには連続辻強盗を捜査しているグンヴァルト・ラーソンが、一向に見えない犯人にイラついていた。そこに電話が鳴る。自分の部屋から見える先にあるバルコニーに不審な男が立っていると言うのだ。電話をかけてきた女性はその男の風体を言うが、男は自分の部屋のバルコニー立っているだけのことで、グンヴァルト・ラーソンはだからどうしろと言うのだと怒り、電話は切れた。
 そん中、ストックホルム市内の公園で8歳の少女が暴行され殺されているのが発見された。犯行時刻と推定される日には、同じ公園にある売店の店主が頻繁に発生している辻強盗に襲われるという事件も起きていた。数日後またしても少女の死体が発見され事件は連続殺人となっていった。
 可能性としてグンヴァルト・ラーソンが捜査している辻強盗の犯人が少女を殺害した人物を目撃している可能性が出てきた。マルティン・ベックはとにかくその辻強盗の犯人を探すことを最優先にした。なぜなら少女を殺害した犯人の手がかりは一向に出てこないからである。
 そしてタレコミで辻強盗の犯人が捕まった。犯人は犯行を実行する前に綿密に狙う相手を物色していたので、公園にいたときもそこにいた人物を一人一人あげていく。そして辻強盗の証言から連続少女殺人犯の似顔絵を作成することができた。ただその辻強盗の犯人が言った連続少女殺人犯の風体にマルティン・ベックは何か引っかかる物を感じていた。
 懸命の捜査にもかかわらず、少女を殺した犯人が何物でその行方も一向につかめないまま時間ばかりが過ぎていく。市民は自警団を自主的に作り、過剰に反応する事態に陥り、マルティン・ベックの同僚レンナルト・コルベリがそんな自警団に襲われる。
 マルティン・ベックは捜査に当たり何かが気にかかっていたが、それが何なのか分からないでいた。

 「不意に、彼は身を硬ばらせた。身内を熱いものが走り抜ける。思わず息がつまった。辻強盗の逮捕以来気になっていたこと、頭にこびりついて離れなかったこと、グンヴァルト・ラーソンと分かちがたく結びついていたこと、それがいったい何であったか、突然頭にひらめいたのである。
 人相だった。
 ルンドゲレン(辻強盗の名)が述べた人相をグンヴァルト・ラーソンがまとめた要約は、一言一句、ラーソンが二週間前受話器に向かって言っていたことの反復といってもいいではないか」

 マルティン・ベックは慌ててグンヴァルト・ラーソンが迷惑電話として扱った女性との会話を思い出させる。確かに連続少女殺人犯の人相とグンヴァルト・ラーソンが聞いたバルコニーに立っていた男の人相が似ているが、今のところ関連性が見出せない。単に偶然ということだってある。刑事の勘にしか過ぎない。ただ捜査が八方ふさがりの状態である以上、その男を調べても別に損することはない。このあたりのマルティン・ベックの刑事の勘は圧巻である。そしてその勘は当たり、事件は一気に解決に向かう。

 このシリーズを面白いものにしている要因は、地道な捜査と登場する刑事たちの決断力と推理力であろう。その熟練した推理力と捜査の仕方がリアルで、なるほどと思わせるのである。そしてそれだけだと単に捜査を時系列で追うだけになってしまうが、そこに登場するマルティン・ベックら刑事たちの個性のぶつかり合いを加えることで物語を面白いものとしていく。
 この話の運び方も最初に迷惑電話と見せかけて、それが重要な証言であることを後で分からせるし、辻強盗と連続少女殺人事件をうまく組み合わせて、物語を面白くさせる。思わず“さすが”と唸ってしまう。
 また刑事たちの人間性を訴えるため、彼らの私生活の描写も忘れず書き込んで、それが読む側に登場人物をより身近に感じさせるのである。


評価
★★★★


書誌
書名:バルコニ-の男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520016
出版社:角川書店 (1993/11 出版) 角川文庫
版型:340p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月15日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『蒸発した男』

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 マルティンベック・シリーズ第二弾。今回はスウェーデンが舞台ではなくハンガリーである。
 マルティンベックはせっかくの夏休みに上司のハンマルから呼び出しがかかる。外務省から依頼があって、スウェーデンの週刊誌の記者がブタペストで行方不明になっているというのである。わざわざ外務省が警察に依頼する理由はその記者アルフ・マトソンの行方不明が国際問題に発展する事態を避けたいからという。
 このあたりは少々古い話で歴史的な問題を含んでいる。第二次世界大戦が終わった後、著名なスウェーデン人が行方不明となった。当時スウェーデンではハンガリーの共産主義者の殺されたとか、ソ連の諜報機関に拉致されたとか、様々な噂が乱れ飛んだという。どうやら国際的諜報戦の匂いがするこの事件は、この本が書かれた頃でも、スウェーデンの作家や映画人の想像力を刺激していたという。実際ドキュメント映画が作成されようとして、その脚本をマイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻が書いたらしい。結局映画は放映されなかったらしいが、マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻がその時の取材を生かしてこの小説が書かれた。
 さて行方不明となったアルフ・マトソンを探し、マルティン・ベックがハンガリーに飛ぶのであるが、アルフ・マトソンはブタペストに着いて泊まったホテルから翌日違うホテルに移った後すぐ姿を消した。しかも荷物、パスポートを残して。
 マルティン・ベックは方々探し回るが、依然として行方がしれない。ただアルフ・マトソンが交際していたと思われる女性が判明するが、その女性もアルフ・マトソンを知らないといわれてしまう。そしてマルティン・ベックはある暑い晩散歩に出たときに何者かに襲われた。幸いマルティン・ベックは九死に一生を得て助かったが、襲った犯人を調べると、アルフ・マトソンはハンガリーで麻薬を仕入れに来ていたことが分かる。
 結局アルフ・マトソンはハンガリーには行っていなかった。スウェーデンで仲間に殺されていたのであった。アルフ・マトソンがハンガリーに麻薬を仕入れに行くのを知っていた犯人は、彼に扮してハンガリーに渡り、密かに帰っていたのであった。
 
 マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-夫妻が先に言ったように著名なスウェーデン人の行方不明事件を取材していた。だからこの小説でもそうした諜報事件として、話を展開できたのかもしれないが、そういう風にはしなかった。
 あとがきにおもしろことが書かれている。フレデリック・フォーサイスをどう思うか聞かれ、自分たちと作風が違うと言うのである。そう、この話をそういう国際的な諜報事件として扱うのではなく、(もちろんそれらしく匂わせておくのだが)、あくまでもスウェーデンでの痴話喧嘩の行き着く先にある殺人事件として物語をまとめるのである。普通の人間がフィアンセを侮辱され、かっとなって殺したという話にするのである。ハンガリーでの行方不明や麻薬の売人はあくまでも話のスパイスである。

 しかしやっぱり昔読んだ本の内容はほとんど忘れてしまうものだ。全体としてこのシリーズは面白かったという記憶が残っているが、個々の話の内容などほとんど記憶にない。だから読んでいて思い出すこともあるけれど、新たに推理小説を読んでいる感じになって再読したという感じではない。続いて次を読んでみようと思う。


評価
★★★


書誌
書名:蒸発した男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784042520054
出版社:角川書店 (1977/05 出版)角川文庫
版型:324p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月13日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『ロゼアンナ』

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 私が持っている「マルティン・ベックシリーズ」は二代目である。というのも最初このシリーズを読んで、その面白さを堪能した後、もう読み返すことはないだろうと思い、古本屋さんに売ってしまったのだ。ところがいつかふと思い出し、また読んでみたいなと思い始めた。こうなると是が非でも読みたくなり、またこのシリーズを買い求めたのだ。だから今手元にある文庫本5冊、単行本5冊は二代目になるのだ。そして同じ本なのだが、初版本と表紙違いの本を2冊古本屋さんで見かけたのでそれを買い求めている。
 今回このシリーズを読み直すと、これで三度目となる。今回は新たに買い求めた初版本と表紙違いの本を2冊と、それ以外に持っている二代目の本を読むこととする。

 さてこの「マルティン・ベックシリーズ」はマイ・シュ-ヴァルと妻のペ-ル・ヴァ-ル-の共作で、スウェーデンの名作警察小説である。よくエド・マクベインの「87 分署シリーズ」と比較される。もしマイ・シュ-ヴァルが死亡していなければ、もっとシリーズは続いたものと思われる。
 結局夫のペール・ヴァールーが1975年、まだ48歳の若さでこの世を去ったため、シリーズは10作となった。私はあくまでも個人的に思うのだが、結局10作にこのシリーズがとどまったことが、かえってこのシリーズをいいものとしたんじゃないかと思っている。「87 分署シリーズ」のようにだらだら続いちゃうと、どこか間延びした感じになってしまうのではないかと思うのだ。作品は以下の通り。

 『ロゼアンナ』(1965)
 『蒸発した男』(1966)
 『バルコニーの男』(1967)
 『笑う警官』(1968)
 『消えた消防車』(1969)
 『サボイ・ホテルの殺人』(1970)
 『唾棄すべき男』(1971)
 『密室』(1972)
 『警官殺し』(1974)
 『テロリスト』(1975)

 日本ではどういうわけか、第一作の『ロゼアンナ』から出版されず、『バルコニーの男』から出版され、『笑う警官』が第二作として出版されてる。
 そして普通親本として単行本があっていいのだが、これもどういうわけか『ロゼアンナ』から『消えた消防車』は文庫本しか見つからない。もしかしたらこのシリーズはここまでは文庫本オリジナルなのかもしれない。主人公はマルティン・ベック警視である。
 このシリーズが面白いのは、登場人物のキャラクターが警察という職場でも、ごく普通の冗談や会話をするところにある。だからかもしれないが、シリーズ全体で登場人物が楽しいし、警察というきな臭い職場であっても、普通に笑えるのである。そういうことだから人物たちを愛せるのである。私はマルティン・ベックの同僚のレンナルト・コルベリと、ここでは出てこないが、グンヴァルト・ラーソンが大好きである。
 さて『ロゼアンナ』の内容である。遊覧船が行き交うところで、浚渫船が女性の死体を引き上げた。司法解剖の結果、性的暴行を受けた後に絞殺されたことは判明したが被害者の身元は不明のまま捜査は行き詰まり、本庁の応援を仰いだ。ストックホルムからマルティン・ベックとその部下たちが集まり、捜査を続けるが、これといって手がかりがないまま、またしても捜査は行き詰まる。
 そん中アメリカから失踪者の照会があり、殺された女性がロゼアンナ・マッグロウであることが判明する。ロゼアンナの名前は遊覧船の名簿にもあり、どうやら、殺された後遊覧船から投げ落とされたと分かってくるが、それではいったい誰がロゼアンナを殺害したのか皆目判明しない。
 マルティン・ベックは遊覧船にロゼアンナが乗っていたことで、その他の乗客が観光目的で写真やビデオを撮っていたはずだと考える。その船に乗っていて、写真やビデオを取っていた乗客からそれらを取り寄せ、ロゼアンナに近づく人間を捜していく。そうしているうちに一人の不審者が浮かび上がったが、しかし事情聴取をしても、しらを通され、決め手に欠けた。
 そこでマルティン・ベックはその疑わしい人物に婦警を使っておとり捜査をし、罠をかけるのである。男はその罠にはまり、事件は解決する。
 あらすじをこう書いてしまうと、“なんだ”と思ってしまうが、捜査が行き詰まり、次の捜査方法を悩んで考えつき、さらにその先も同様にマルティン・ベックがどう捜査を進めていけばいいのか、苦しみながら考えるあたりは臨場感が感じれるのである。しかも特別変わった手法を取っているわけではなく、オーソドックスな捜査方法だ。だから犯人逮捕までの間がリアルに感じられた。


評価
★★★★


書誌
書名:ロゼアンナ
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:
出版社:角川書店 (1993/11 出版)角川文庫
版型:375p / 15cm / 文庫判
販売価:入手不可

2010年03月11日

阿刀田高著『やさしいダンテ「神曲」』

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 また阿刀田さんの古典解説エッセイを読む。今回はダンテの『神曲』である。これも一般常識として名前は知っているけれど、その内容はどんなものなのか、知らずに今まで来ている。かといって、私がこれを読めるかというと、多分、いや絶対に読み切れないだろう。ということで今まで私が知っている『神曲』以上に、もう少し箔をつけるために読んでみたわけだ。

 さてその『神曲』は“地獄篇”“煉獄篇”“天国篇”の三部構成となっている。そこへダンテが順番に迷い込むところからこの話は始まる。冒頭で、「人生のなかばに達し、ふと気がつくと、私は、まともな道を外れて、暗い森の中に迷い込んでいた」となっているのだ。ダンテが森に迷い込んだ日時もはっきりしている。1300年4月8日の夕刻に地獄に入った。その後煉獄、天国をめぐって翌9日の夕刻にこの世に戻っている。
 どうしてダンテが地獄から煉獄へ、そして天国へと向かうことになったのかは後ではっきりする。とりあえず、ダンテは地獄に入った。しかし一人ではない。案内役がいる。ウェルギリウスである。ウェルギリウスという名前はどこかで聞いた。そうあの「アイエネアス」を書いた人である。どうして案内役がウェルギリウスなのかよく分からないが、知っている名前が出て来るとなんかうれしい。そうか、ウェルギリウスはこの『神曲』でも登場するのか、といった感じである。
 地獄では生前の行いによって、様々な苦しみを与えられているダンテ以前の歴史上の有名人や貴族、聖職者、教皇などが登場する。まぁ生きているときに、悪行や暴利を貪っていた人物たちである。彼らはなんでダンテがここにいるのか不思議がるが、ウェルギリウスは「この男は死者ではない。罰を受けに来たわけでもない。見聞を深めるため、地獄の谷をめぐっている。私はその案内役」だと言って、彼らの疑問を解く。
 ここで苦しんでいる人物たちは阿刀田さんによると「往時のイタリア人の知識と教養で死者を断罪し、死者の中にはユダやマホメットのようなビックネームもあるが、多くは(ダンテの知る)イタリア史に限られたネームであり、さらにある部分はダンテが心血を注いだグェルフィ党の立場から見ている、という特徴が明らかだ」という。とにかく歴史上の多くの人物たちがここで苦しみを与えられている。読んでいて、「あんたもそうなの?」と思っちゃう。
 そしてダンテは煉獄へと向かう。煉獄とは死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である。
 煉獄山の山頂でダンテはウェルギリウスと別れる。なぜならウェルギリウスはキリスト教以前に生れた異端者であるため天国の案内者にはなれないからだ。そしてこの後ダンテが昔一目惚れした、ベアトリーチェと出会う。ベアトリーチェとダンテは家柄が違うため一緒になれなかった。ベアトリーチェは他の男と結婚したが、24歳で夭逝してしまう。ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しんだという。ベアトリーチェはここでダンテと次のような会話をする。

 「なぜあなたはここへ登って来たのですか」

 「この人は」

 「神の偉大な恩寵を受け、たくさんの可能性に恵まれていました。でも、よい土壌は逆にわるい種をもはびこらせます。一層わるくなることもあるのです。私は、いっとき、この人に目を向け、この人を導きました。ところが私が去ると、この人は私を忘れ、正道を失い、邪道へと迷い込んだのです。呼び戻すために私は神の霊感を願いましたが、無駄でした。もはやこの人には、地獄を見せ、煉獄を示し、神の真実をまのあたりにさせるほかにないと考えたのです。ウェルギリウスに涙ながら願ったのです。この人が前非を悔いることもなく忘却の川を味わうならば、神の恵みは破られたことになるでしょう」

 「向こう岸にいるあなた。さあ、答えなさい。懺悔しなさい。あなたの胸に宿るつらい記憶はまだ水に流されたわけではありませんよ」

 「はい」

 「あなたが進むべき善の道を私が指し示したのに、私が死んでしまうと、道なかばであなたはよそごとに走ってしまいましたね。あなたの道を遮るどんな濠があったのですか」

 「はい。その通りです。あなたの顔が隠れてしまうと、私はさまざまな快楽に誘われ、道を踏み外してしまいました」

 「耳が痛いなら・・・・もし一人前の男なら、顔をあげて、こちらを見なさい。もっと、もっと、厳しく後悔しなさい」


 結局こういうことなのね、といった感じであった。ダンテ自ら道を踏み外しそうになっているのを、昔一目惚れしたベアトリーチェに諭され、懺悔するということなのである。それを長々と道をたどって、もし懺悔でもしなければ、このように地獄で苦しむことになると言っているわけであろう。
 解説本を読んで分かったふりをするのもおかしな話だが、まあこういう話だということで、それだけでも知っただけ、ちょっと知識が増えた。


評価
★★


書誌
書名:やさしいダンテ「神曲」
著者:阿刀田 高
ISBN:9784048839860
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング〔発売〕 (2008/01/31 出版)
版型:295p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年03月06日

若桑みどり著『イメージを読む』

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 ちょっと図像学(イコノグラフィー)の一端を知りたくなった。図像学とは我々が知っている有名画家の作品には何らかの意味が込められていて、それを読み解こうとするものである。それがどんなものなのか、この本は教えてくれる。読んでいて、なるほどこれら絵画にはそうした思想的背景があって、それが絵に反映していたのかと知った。
 私が絵画展など行って、その会場に入れば、まず最初にその画家たちの生まれた場所、時代背景の説明が必ずあるが、だいたいそこは、飛ばしてしまう。何故なら、もうそこで人混みが出来ていて、先に進めないからだ。さっさとお目当ての絵を見始める。そして絵を見て、きれいだとか、すばらしいとかいった直感で感じたことしか思わない。それで通り過ぎてしまう。
 しかしよく考えてみれば、そうした時代背景は画家の作品から出てくる思想を読み解く上で重要だ。本当はおろそかにしてはいけないものだ。画家がその絵を描くに当たり、画家が生きた時代にどうしても縛られてしまうことが必ずあり、そことが絵に反映することとなるからだ。そのことを著者は次のように言っている。

 「たとえばある画家を考えてみてください。その画家は特定の社会に生まれて、その社会のなかで生活し、そこにいる人やそこにある作品から学び、そこにいる人たちに絵を売って生きているわけですから、自分の生きている社会や時代から無関係ではいられません。その先生や、見た作品から教えられた技術や、その当時のテクノロジーから生じたテクニックやメディア、ものの考え方や共通のイメージで絵を描くわけです。
 そういうわけで、すべての画家は、個人的な様式と同時にその時代、十二世紀なのか二十世紀なのか、そういう時代の特徴を否応なくもち、また、西洋人なのか日本人なのかという、ある民族や文化の長い底深い伝統からくる特徴をもっています。それらを全部ふくめて様式といっているわけです。したがって、様式とは、個人的なものであると同時に社会的なものであり、また歴史的なものなのです」

 だから「美術史は、文化人類学や考古学や歴史学や宗教学や神話学や文献学や、その他のもろもろの学問と結びついています。こういうふうにもろもろの学問と関連しながら、個々の学問の領域をこえて幅広く研究することが必要な学問のことを学際学といっていますが、美術史は学際学的な学問だ」と言っているのは、なるほどそうだなと思う。
 そして描かれた絵には、描かれる理由が必ずある。絵画も彫刻も創作である以上、それを創り上げなければならない理由が芸術家たちにはあったはずだ。

 「また絵というものが、芸術家の芸術についての理論の実践の場であり、思想の表現の場であり、いずれにせよ闘争的なものでもあった」

 それを読み解こうとするのが、図像学(イコノグラフィー)なのである。この本で著者が言う美術史なのである。「美術というものは言語ではなく、非言語的な「表現」(なんらかの目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちによって表現すること)の行為であり、またその結果としての作品」なのだと言う。それをどう読み取るか、そのサンプルとして出されたのが、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」デューラーの「メランコリアⅠ」、ジョルジョーネの「テンペスタ(嵐)」である。

 以上を踏まえて、時代による“図像の変化”で考えてみる。たとえば「最後の審判」を例に取る。
 信仰が安定していた時期(九世紀から十五世紀までの東方ビザンティン帝国の芸術や十二世紀頃までの西ヨーロッパの芸術)は、この「最後の審判」の構図は、真ん中に裁判官であるキリストがいて、左右にとりなし(弁護役、仲介役)をする聖母と聖ヨハネがいて、祝福された魂と罰せられた魂がいるという公式で、それらは神の最終的な意志の実現を厳かに知らせていて、それほど恐ろしいドラマチックな表現じゃなかった。それを何百年にわたって表現していた。ところが何かの関係で図像の公式が変わる。十三~十四世紀になると様子が違ってきて、善人が祝福されて行く天国の安らかさに比べて、罪人が罰せられて落ちる地獄がどぎつく描かれるようになる。地獄では非常に残忍な拷問や虐殺のような情景が描かれる。
 さらに初期資本主義が盛んになってくる時期になると、キリスト教が禁じている様々な現世利益の追求や富や地位を築く信者が増えてくると、さらに地獄は生き生きとした残忍なものになっていく。
 そしてミケランジェロの「最後の審判」となると、それまで善人と罪人との構図がはっきりしていた頃から比べると、その隔たりが不明確になって行く。ミケランジェロの「最後の審判」のイエスの姿を見ると、はそれまであった安定や平和や秩序はすでになくなり、はかりしれれぬ激変と破局が読み取れるという。ちょうどこの絵が描かれた頃はカトリックとプロテスタントが争っていた時期であり、カトリックの教えが揺らぎ始めた頃だからだ。


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 このように一つの絵の題材であっても時代によって図像の変化があり、その変化となった社会的背景や思想の変化を読み取らなければならないことを教えてくれるというのだ。


 さて個人的に言って、やはりデューラーの記述が一番興味がある。デューラーはこの本であげられているミケランジェロやダ・ヴィンチとほぼ同世代の人であったが、決定的に違うことがある。デューラーはドイツ人であることである。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した地域はアルプス以南で、ギリシア・ローマ世界であり、古代文明に接ぎ木されたキリスト教世界である。ローマカトリックの神学者たちによって築き上げられた壮大な形而上学的世界であった。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍したルネサンスはカトリックと結びついたものであった。
 ところがドイツはルターによる宗教改革が起こった地域である。ルターはカトリック教会を否定した。ということはドイツではイタリアで起こったルネサンス閉め出したことになる。そしてデューラーはルターの共鳴者でもあった。
 当然ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品とは違うものがデューラーの作品の背景にあることになる。彼らとは違ったイデオロギーを持っていた。(もしかしたらダ・ヴィンチとは似ているところはあるのかもしれないが)そこで著者はデューラーの「メランコリア」をあげてその異質の背景を探ることとなる。これが興味深かった。

 この「メランコリア」が示す内面の不思議さはかなり面白い。


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 版画が否定的なものの考え方を示していたり、そうかといって肯定的見られるところもあって、その絵を見る見方によって大きく変わってしまうようである。
 まず否定的な面を見てみる。メランコリーとは憂鬱質のことをいう。ところでアリストテレス以来の万物は火、空気、水、土という四つの元素から成り立っている考えがあった。そして人間の個性を作っている気質もこの四つの元素の支配によるものと考えられた。すなわち軽くて陽気な多血質は空気、激しく怒りっぽい胆汁質は火、怠惰で不活発な粘液質は水、暗くて冷酷な憂鬱質は土が支配していると考えられていた。
 もともとこの四気質論(四性論)は医学の一種で、中でも憂鬱質はそれだけでも立派な病気と見なされていた。また中世では憂鬱質は七つの大罪中の一つである吝嗇の罪と結びついて考えられていた。それはどうしてか?
 この「メランコリア」の人物のポーズはロダンの「考える人」と同じポーズである。このポーズは物思いに耽る分、元気なポーズとは言えない。すなわちこのポーズは外側の現象にダイナミックに対応しようとするアクティブな姿勢ではなく、むしろ外側からの刺激を一切遮断して、自分の内部の心の動きに省察を凝らそうとしている。じっとしていることは究極の吝嗇な人間の姿である。そして吝嗇の極みが高利貸しである。中世キリスト教では、高利貸しは、怠惰で、人の金をくすねる犯罪者扱いであった。だから憂鬱質は吝嗇の罪と結びついて考えられていたのである。実際この版画には人物のスカートのところに高利貸しの象徴である鍵束と財布が描かれている。
 しかし一方でこの版画には大工道具が描かれている。半ば放り投げ出された感じである。無用に見える。手に持っているコンパスさえ、何も描いていない。そのことがこの人物が物思いに耽るというか、考え込む姿勢を、こうした道具を使う仕事よりも、優位にあることを示しているともいえるのである。さらにこの人物に翼をつけたことで、その人物が思考する姿勢を、人間の思考を潜在的能力として表現していることにもなるのだという。
 驚いたことにこの「メランコリア」の人物は男ではなく女であるということだ。

 デューラーといえば「人体比例理論」(人体の比例が大宇宙と小宇宙を結びつけているという理論)が有名だが、そういう考え方が出来るのは、ダ・ヴィンチ理論を吸収したものとはいえ、宇宙を作っている元素と人間を作っている元素が同じものであり、人間の運命は宇宙が関連しているという哲学がかなり影響したんじゃないかと思えてくる。
 芸術というのは見た目だけでなく、その奥にあるものを考えることが出来れば、さらに興味深いことを我々に提供してくれているんだと改めて感じた。一人の芸術家の作品を鑑賞するには、その奥底に流れるものを分からないと、真の意味で作品を鑑賞したことにならないのだろう。これから何度芸術作品を見る機会があるか分からないが、このことちゃんと踏まえておければと思った。


評価
★★★


書誌
書名:イメージを読む
著者:若桑 みどり
ISBN:9784480089076
出版社:筑摩書房 (2005/04/10 出版)ちくま学芸文庫
版型:254p / 15cm / A6判
販売価:924円(税込)

2010年03月04日

ダン・ブラウン著『ロスト・シンボル』

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 やっとラングドンシリーズの三作目が日本で発売された。期待して読んだ。が・・・・、あまり面白くなかった。というか少々この手の話に食傷気味なのかもしれない。それと今回は前作二作と比べて、いくらダン・ブラウンがワシントンというところがローマなどと比べても引けを取らない魅力的な場所と言っても、読む側が最初からそれほど魅力的なところと思っていないから、「そうかな?」と感じてしまう。

 話はラングドンが恩師で親友であるフリーメイソン最高幹部のピーター・ソロモンから急遽講演を頼まれ、ワシントンにある連邦議会議事堂に駆けつける。しかしそこにあったのはピーターの切断された右手首であった。指先にはジョージ・ワシントンを神格化した天井画があった。ピーターを人質に取った全身刺青の男のマラークは、古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵―"古の神秘"―へ至る門を解き放て、とラングドンに命じる。
 ここからラングトンはピーターの妹キャサリンとともに、以前にピーターから預けられたフリーメイソンのピラミッドの一部から前作同様さまざまな暗号を解きながら、CIAにあらぬ疑いをかけられて追われながら、"古の神秘"の正体を明かすべくワシントン一帯を駆けまわる。

 その預けられたピラミッドを入れた箱に1514の後にAとDをデザインした記号があった。これである。


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 それを見たとき私はすぐ分かった。これはアルブレヒト・デューラーが自分の作品に書いたものであった。これを見たとき正直言ってドキッとした。なんでここでデューラーが出てくるんだ?と思った。これはデューラーの「メランコリア」を示していた。


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 この版画は実は30年前に池袋にあった西武美術館で実物を見ている。思わずその時買ったカタログを本棚から取り出した。そして「メランコリア」を眺める。確かに版画の右上に魔方陣がある。気がつかなかったなぁ。そしてここに書かれている数字を縦でも横でも斜めでも足してみると34になる。しかもこの版画が作られた1514年の数字が一番下の2番目と3番目に入っている。本当にそうなのか思わずこのカタログを繁々と見てしまった。
 実を言うと私はデューラーに興味を持っている人なので、デューラーが使われただけでちょっとポイントが上がりそうになったけれど、結局大した役目を負っていなかったので、“残念!”

ここからはネタバレ注意!

 さて"古の神秘"とは何か?全身刺青の男のマラークとは誰か?そしてマラークは何故古来フリーメイソンに伝わる究極の知恵を求めるのか?まずマラークはピーターのどら息子のザカリーだろうとすぐ予想がつく。ソロモン家は代々長男にその財産を譲る。財産はお金かそれとも知恵か、どちらかを選択させる。ザカリーはお金を選択したが、紆余曲折の上、フリーメイソンの知恵も求めるようになる。
 フリーメイソンが代々伝えてきた知恵が"古の神秘"であった。ピーターがラングトンに預けたピラミッドにはその"古の神秘"が隠されている場所が印された地図でもあった。
 例によって比喩が多くて、何が何だかよく分からない部分があるのだけれど、多分こう言っているんじゃないかと思うことを書いてみる。
 "古の神秘"とは「失われたことば」であった。だいたいどんな文化にも、独自の“ことば”があり、それを印したものが書物であった。その書物はキリスト教徒にとってみれば聖書であった。そう、聖書に"古の神秘"が印されていたのである。
 救出されたピーターは最後にラングトンに言う。

 「聖書は、歴史を通じて古の神秘を受け継いできた書物のひとつだ。その文面はわれわれに秘密を懸命に教えようとしている。分からないか?聖書の“暗き語”とは、秘密の智恵のすべてを密かに伝えようとする古代の人々のささやき声なのだよ」

 そこに書かれている本当の意味は、人間の果てしなき潜在能力を象徴として神を讃えたことであった。言ってみれば古代の人々は「人間≒神」と考えていたといっていい。人間は神の“被造物”ではなく、神と同じ“造物主”であるのだ。だから人間は神と同じくらいの能力を有することとなる。そして人間はその精神によって物質を変容しうるエネルギーを生み出せるというのである。
 ところがいつの頃からか、そうした人間の潜在能力を認めていた古の考えはいつの頃からか失われた。だから私たちは人間は神が作った“被造物”だということになってしまった。そのことは古の象徴は時とともに失われてしまったことを意味する。
 聖書は本来の人間の姿、能力を正しく導いていたのである。だから聖書はフリーメイソンの至宝であったのだ。聖書には人間の潜在能力を"古の神秘"として書かれていたのであった。

 多分こんなことを言っていたんだろうなと思うが、基本的に図像学(イコノグラフィー)というのはよく分からない。そうそうこの本を予約しておいたらこんなピンバッジがついていた。ついでにあげておく。


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評価
★★★


書誌
書名:ロスト・シンボル〈上〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916272
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:351p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

書誌
書名:ロスト・シンボル〈下〉
著者:ダン・ブラウン 越前 敏弥【訳】
ISBN:9784047916289
出版社:角川書店 角川グループパブリッシング(2010/03/03 出版)
版型:356p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)