2010年04月30日

出久根達郎著『作家の値段』

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 出久根さんは古本屋さんである。(プロフィールよると現在は目録販売のみとに書かれている)だからここでいう作家の値段とは古本価格のことである。ただ読んでみると分かるが、単に古本の値段だけでなく、むしろ古本屋さんによる作家論だと分かる。著者もあとがきで「本書は、『古本屋の作家論』といってよい」と書いている。だからここに挙がっている作家について著者の読書経験からその作家を語り、その後で古本価格にも触れ、だいたいが初版で美本であれば数十万から百万と驚かせる。
 たとえば司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』である。この本の「立志篇」の初版は昭和38年7月で以後全五巻、すべて初版だと32万円、状態がかなり良ければ50万もするかもしれないという。「立志篇」の発売当時の定価は420円である。すごいものである。昭和38年というと今から47年前である。銀行の利息より高利息である。だから本を大事に読むこと、帯など邪魔だと邪険にせず、破れないようにしないといけない理由がここにある。帯があるなしで場合によっては一桁売価が違うのだ。
 ちなみに私が高校時代に買った『竜馬がゆく』の「立志篇」は昭和49年2月の62刷りで、定価が650円となっていた。ホンと久しぶり棚から引っ張り出したが、日に焼けてボロボロで、売ってもゴミ扱いになるだけの状態であった。
 もしここに挙がっている司馬遼太郎、三島由紀夫、山本周五郎、川端康成、太宰治、寺山修司、宮澤賢治、永井荷風、江戸川乱歩、樋口一葉、夏目漱石、直木三十五、野村胡堂、泉鏡花、横溝正史、石川啄木、深沢七郎、坂口安吾、火野葦平、立原道造、森鴎外、吉屋信子、吉川英治、梶井基次郎の作品で初版本であり美本が家にあるようでしたら、場合によっては百万円以上になる場合もありますよ、と教えてくれる。もっとも売値がそうだとしても古本屋さんがいくらで引き取ってくれるか、どちらかといえばそっちの方が知りたい。結構たたいていたりして、と思わなくもないが、さすがこのあたりは企業秘密の属するようで一切触れられていない。あくまでも売価での話である。
 しかしどうしてマニアは初版にこだわるのであろうか?それを著者は次のように言う。

 初版本の魅力をあえて言うなら、その本が世に生まれた時の姿、著者がその目で確かめ、手に取って喜び愛しんだに違いない、その姿を、そっくりそのまま見て触れて愛しむことができる喜び、ではないかと思う。

 そうなのかな?確かに一番最初の姿に価値があることは分かるけれど、でも初版本という限定されたものであることに、必然的に価値が出て来てしまうような気がする。まして後に大作家として名をはせるようになった作家だと、あの作家のあの作品の初版本ということで、その時にはもう時間がたってしまっていて、後戻りできないところに価値が出るのではないか。それに時間がたってしまっていることで、その本の数が減ってしまっていることも大いにあり得るだろうし、あっても経年劣化してまっていて、本当に出版された当時のままか美本として残っていることが少ないことも、その本の価値の付加価値を加えているのではないかと思う。そこに需要と供給のバランスが崩れるものだから、追々初版本に高値が付く。

 さて古本屋さんのすべき仕事に言及しているところがあって、それが面白かった。たとえば石川啄木や宮沢賢治の場合、生前彼らの作品は売れなかった。そのことはそれだけ当時は評価されていなかったこととなる。彼らが有名になったのは死後である。彼らの本は売れず捨てられていった。著者は古本屋はそうした偉才を世に出す役割を担っているという。それが古本屋の自負でもあるという。多くは捨てられていった作品を見出し、世に出すことが自らの仕事だと言うのである。
 一方で古本屋で紙屑扱いされる、いい加減な本や内容のない本など後世に残さないために、安い値段をつけて処分扱いをする。その本が安ければ安いほど大切にされることはなくなり、いずれは消えていくからである。なるほどそういうこともあるのかと思った。きっと世の中にはそうしたクズ本がたくさんあるんだろうなと思う。

 ところで面白かったのは石川啄木の『ローマ字日記』であった。啄木のこの本は昭和23年に初めて公開されたが、全文が読めるようになったのは昭和52年の岩波文庫化してされてからだという。というのも、この『ローマ字日記』は春本扱いされていたのでカットされたり伏せ字入りで紹介されていたというのだ。私はこれを読んだことがないので、まったく知らなかったのだが、ここに紹介されている文章を読むと結構過激な性描写があるのだ。
 それをわざわざローマ字で日記を書いたのは、こうした性描写や芸者を買ったことなど妻に知られたくないということと、ローマ字で書くことによって自らの体験を客観化し、後でそれを楽しむために書かれたのではないかと著者は推理している。
 我々が知っている“働けど働けど 我が暮らし楽にならざり ぢっと手を見る”といった一所懸命働いても、一向に生活にゆとりの出来ない状況を語る啄木ではない。もちろんそれはそれで事実なんだろうけど、だからかこそ、そうした鬱積した性への指向があったのかもしれないなと思った。啄木は借りた春本をせっせと書き写していたという。真面目だけでは生きていけないということか・・・。


評価
★★★


書誌
書名:作家の値段
著者:出久根 達郎
ISBN:9784062766593
出版社:講談社 (2010/03/12 出版)講談社文庫
版型:442p / 15cm / A6判
販売価:780円(税込)

2010年04月27日

森まゆみ著『東京ひがし案内』

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 この本はWEbちくまで連載されていたのを文庫オリジナルとして出版したようだ。東京ひがし案内となっているが、メインは東京の東側の町並み、神社仏閣、明治・大正・昭和の建造物を訪ね歩いている。この本を読んでいると東京という町は京都や奈良みたいな古い歴史はないかもしれないが、江戸から明治と面白いものがまだ残っていると思わせてくれる。むしろ割と年代的に身近に感じられるものが多いし、知っている地名、建物などが出てくるので、かなり興味深く読ませてもらった。私はこういうのが好きである。

 いくつか面白い記述があったのでそれを書き出してみる。たとえば神保町界隈にはカレー屋が多い理由。「なんでカレーが流行るのかというと、左手で買ったばかりの本を読みながら右手で食べられるファストフードであるという説がある。また出版、書籍の町の人びとは食事時間が不規則で、カレーならご飯さえ炊いておけば、即座に出せるという。二日、三日煮込みましたと保ちのよいメニューでもある」とそのわけを紹介する。なるほどね。
 またこの附近は中華料理も多いともある。
 昔神田村に“餃子屋”という餃子の美味しいお店があって、よく仕入の途中遅い昼飯をここで食べたものだ。今は再開発でなくなってしまった。ネットで調べてみると、三省堂の前、靖国通りを渡った奥に本店があるらしい。
 このあたりある“伊峡”という中華料理には学生時代お世話になった。先日大学のクラス会がその近くお店であった。目印が伊峡の前と友人から聞いて、すぐ分かっちゃうのだが、それよりも30年近くたって久々に聞いたその名前方が懐かしかったし、まだ頑張って営業しているんだと感心してしまった。その日は日曜日だったのでお店の前を通ったが休みであった。
 そういえば最近は靖国通り沿いには新しい中華料理屋はいくつか目にするが、私は“餃子屋”や“伊峡”に行ってみたいな。

 後楽園に奥にある東京都戦没者霊園を訪ねて、森さんはここがあまり知られていないこと、それに伴って墨田区横網にある東京都慰霊堂のことも次のように書かれている。

 関東大震災や空襲でなくなった行方不明の遺骨を慰める墨田区の東京都慰霊堂というのがなんともやる気のない、薄暗い建物なのである。建物は伊東忠太の歴史的建造物のほうは保存改修するとして、別にちゃんとした記念館を建てて、もっと関東大震災や東京大空襲についてきちんと展示したいものだ。長崎も広島も内容のある記念館を作って、戦争を知らない世代も、外国人も訪ねやすいようにしているのだから。
 
 と書いている。私もここに行ったけれど、確かにそうだ。やる気のないためか、おばちゃんを受付において、中は薄暗かった。本当にここはもっともっと知られていいところだと思う。

 浅草について。「浅草へ行って雷門や仲見世付近には近寄りたくない。ものすごく混んでいるし、観光客目当ての新しい店がどんどん開店している。中には老舗もあるのに、見るところ、安っぽくて、こけおどしで、キッチュなのが目立つ。新撰組の半纏みたいのとか、アラン・ドロンがひっかけているようなサテンの着物とか、必勝と書いた日の丸のハチ巻。外国人観光客向け、記号としての日本」と書いている。深く同感。ここを歩いていると毎回薄ら寒くなってくる。

 この本は文庫オリジナルだから、単行本から文庫になった本じゃない。何故そんなことを書くかというと、ここに描かれているイラストがいい感じだなと思っていたので、出来れば大判の本で見たかったなと思ったのである。誰が描いているんだろうと思い、目次の下に「本文イラスト 内澤旬子」とある。この名前どっかで聞いたことがある。思い出してみると、以前読んだ松田哲夫さんの『「本」に恋して』でイラストを描かれていた人だとわかる。そうか、そう言われれば、この絵のタッチはあの人だと思った。この本を引っ張り出して見てみると、内澤旬子さんを“イラストルポライター”と紹介されていた。何だかよく分からないけれど、こういう人もいるんだ。でも絵のタッチは好きである。


評価
★★★


書誌
書名:東京ひがし案内
著者:森 まゆみ
ISBN:9784480427007
出版社:筑摩書房 (2010/04/10 出版)ちくま文庫
版型:238p / 15cm / A6判
販売価:798円(税込)

2010年04月25日

小路幸也著『オ-ル・マイ・ラビング』

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 このシリーズもこれで5巻目となる。


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 4巻を読んだのがこれも1年ほど前だったと思う。そんなものだから、やはり人物関係を忘れている。それでなくてもこの話、登場人物が多いので、“この人誰だったけ?”と立ち止まってしまうのだ。たぶんこのシリーズを読む人は私と似たようにこれで苦労しているんじゃないかと思える。だからか巻頭に「登場人物相関図」というのがある。これまで登場してきた人物たちがきちんとまとめられているので、これを見て話のつじつまを合わす。結局今までの4作でこの人物相関図がどんどんふくれあがったものだから、話がややこしくなってしまっている。けれどそれがこのシリーズの面白さだから仕方がない。いつものようにドタバタ感があって、古本に関するささやかなミステリー的要素も多少折り込んでいく。
 でもやっぱり、人情の厚さに癒されるのがこの本のいいところだ。世の中こう簡単に話がまとまらんでしょう、とは思うけれど、それは下町の人情厚い老舗の古本屋さんでの話である。これはこれでいいんだと思いつつ、結構楽しんで読ませてもらった。
 結局この話に癒されるのは、今核家族化している中で、こうした大家族と、家族の一人一人の人間関係が、みんなで共有できているところにあるんじゃないかと思われる。得てして秘密にしてしまうことが、みんなが分かっていて、悩み、笑い、泣き、最後は我南人の強引さで丸め込まれて、Happy Endで終わってくれる。だから読む方も安心出来るのである。ホンと、昔あったテレビドラマである。
 こういう昔あった茶の間のテレビドラマに癒されるということは、逆にいえば、今がどこかぎすぎすしていて、疑心暗鬼になっている人間関係に疲れちゃったいるからかな、と思う。
 話の内容には奥行きなどない。難しいこともない。深く深く考え込むこともない。むしろこんなのあり?といった気持ちになる。けれどこの話をひたすら読みたいと思う気持ちがあるということだけで、本を読むという行為がそこから何かを学び取るといった、がむしゃらな気持ちで読まなくてもいい本があるということを教えてくれる。それがこの本の存在価値だと思う。難しいことや、複雑な人間感情を考えるだけが、本を読んだということではない。娯楽として本を読んでいいことを改めて思った。
 今回“伝説のロッカー”の我南人が甲状腺ガンになって歌えなくなるという心配があったが、幸い手術がうまくいき、ガンも良性だったようで、復帰できないことはなかった。ただ我南人は声を張り上げてシャウトすることに心配を感じていた。それを孫の研人が、子供ながら粋な計らいで、自らの小学校卒業式に我南人に「オール・マイ・ラビング」を歌わせる。どうやらこれで我南人もいつもの我南人でいられるようで安心である。
 このシリーズはまだネットでは連載されているようなので、続巻がまた1年後に発売されるかもしれない。楽しみに待っていよう。


評価
★★★


書誌
書名:オ-ル・マイ・ラビング ― 東京バンドワゴン
著者:小路 幸也
ISBN:9784087713503
出版社集英社 (2010/04 出版):
版型:301p / 20cm / B6判
販売価:1,575円(税込)

2010年04月23日

滝田務雄著『田舎の刑事の趣味とお仕事』

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 この本と今読んでいる本はお茶の水の丸善で購入した。買った理由は丸善の人が書いただろうと思われるPOPにつられてしまったからである。それを読んでいてなんか面白そうと思ったのである。しかしこの本にしても、今読んでいる本にしても、だまされた感じが拭えない。今読んでいる本のことは次に書く予定だから、それは置いといて、この本のことを書く。
 もともとこの本は“東京創元社・ミステリ・フロンティア”で発売されたようだ。多分このシリーズは新人作家の作品を出版するシリーズなのだろう。それにどちらかといえば、ライトノベル系で、その時点で私には向いていない。確か大崎梢さんの本もこのシリーズ出ていたはずだ。
 この本の紹介に“脱力系ミステリー”とある。なんだこの“脱力系ミステリー”とは、と思って読んでみるとなるほどと思える。こういう中途半端な笑いを言うんだなと分かる。
 確かに今売れっ子の作家も、新人時代があったわけだから、たとえ今、重みのあり、言い回しのうまい表現が出来る作家であっても、新人時代からそうであったわけでもないかもしれない。けれどやっぱりそれなりに評価される作家は、やはり新人時代でもその片鱗があるように思える。
 ところがこの本では、どうもうまく話がつながらないところがある。しかも無理なだじゃれを使い、更にウケを狙った表現や、今風を装う人物設定には、いささかうんざりしてしまった。笑えないコメディアンのコントを見ているものである。それを見ていて薄ら寒い感じがするのと同じな感覚を味わった。笑うに笑えない。唯一笑ったというか、同意出来たのは「犯罪とパイナップルの載ったハンバーグの次に許せないことです」と言ったフレーズだけ。そう、私もパイナップルの載ったハンバーグは許せない。
 やっぱりこれには無理がある。作家に技量がないと、田舎(どこだかよく分からないけれど)にミステリーを設定すれば、どうしてもこの程度話になってしまう。それではまずいかなとなれば、登場人物に変わったキャラクターを持たせることで、話を面白くするしかない。それを面白と思うかどうかにすべてがかかってきて、少なくとも私はちっとも面白くなかったのである。主人公の田舎の巡査部長がオンラインゲームにはまり、美少女を演じ、その部下がその美少女に恋しちゃう設定は笑うに笑えない。
 無理な田舎らしさも、うざい。田舎だからこの程度の事件しかありませんから、それで笑って下さいね。謎を解いて下さいね、というのは如何なものかと思う。どこか都会の生活に疲れた人が田舎の生活に憧れるところを誘い水にして、わさび泥棒、まわりに何もないコンビニでの立てこもり事件、カラス騒動など、田舎らしさを出しているんだろうけど、それもどうかなと思った。(実際私はそれでだまされたことになるのだけれど・・・)

 確か昔この丸善のPOPを見て“面白そう!”と思って買った本が、ちっとも面白くなかったはずだ。それに懲りたはずなのに、まただまされてしまったわけだから、バカなのは私なのだ。というか、丸善のPOP担当者と私の感性にかなりのギャップがあるということを自覚すべきなのかもしれない。


評価
★★


書誌
書名:田舎の刑事の趣味とお仕事
著者:滝田 務雄
ISBN:9784488499013
出版社:東京創元社 (2009/09/30 出版)創元推理文庫
版型:270p / 15cm / A6判
販売価:672円(税込)

2010年04月21日

村上春樹著『1Q84』〈BOOK3(10月-12月)〉

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 BOOK1と2を読んだのが昨年の6月頃だったと思うから、このBOOK3を読むのはそれから10ヶ月後となった。どうも最近は物忘れが多くなったからかもしれないが、BOOK1、2の内容を忘れている部分が多くあって、BOOK3を読んでなかなか内容のつながりが見出せず、少々苦労する。が、ある程度読み進むと、全体に登場人物がつながっていき理解できるようになる。そうなると話は面白くなり、暇さえあればこの本を手にしていた。
 けれどこのBOOK3の内容や感想をどう書いていけばいいのか戸惑っている。例によって村上春樹さんの作品はいろいろな読み方が出来るから、これでいいんじゃないかなというのがなかなか見出せない。
 しかしこの本は虚構の世界に天吾と青豆を迷い込ませ、試練を与え、そして再会し、その虚構の世界を二人で脱出する。そんな形の恋愛小説であることは間違いない。その辺にごろごろしている現実的な描写の恋愛小説とはまったく違い、読んでいてこれからどうなって行くんだろう、とハラハラし、気がついたらそういうことだったんだと分かる仕組みになっている。
 BOOK1で、青豆は高速道路の非常階段を下り、1984年という世界からもう一つ別の新しい世界、1Q84年という世界に飛び込んでしまった。
 一方天吾はふかえりという17歳の少女が書いた『空気さなぎ』のリライトしたことで、ふかえりが言う「猫の町」に踏み込んでしまった。呼び方は違うが1Q84年と猫の町は同じである。どちらも月が二つある世界だ。二人がその世界に迷い込んだのは、お互いを探すためであった。10歳の時別れて、20年間お互いを求めていたため、この世界に迷い込むこととなった。青豆は思う。

 そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合い、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。

 そして試練の果て二人は再会する。

 私たちはお互い出会うためにこの世界にやってきた。私たち自身にもわからなかったのだけれど、それが私たちがここに入り込んだ目的であった。私たちはいろんなややこしいものごとを通過しなければならなかった。理屈のとおらないものごとや、説明のつかないものごと。奇妙なものごと、血なまぐさいものごと、悲しいものごと。あるときには美しいものごと。私たちは誓約を求められ、それを与えた。私たちは試練を与えられ、それをくぐり抜けた。そして私たちがここにやってきた目的はこうして達成された。

 そして、

 私たちはこの世界をそれぞれに違う言葉で呼んでいたいたのだ、と青豆は思う。私はそれを「1Q84年」という名で呼び、彼はそれを「猫の町」という名で呼んだ。でも示されているのは同じひとつのものだ。青豆は彼の手をいっそう強く握る。
「そう、私たちはこれから猫の町出て行く。二人で一緒に」と彼女は言う。「この町を出てしまえば、もう昼であれ夜であれ、私たちが離ればなれになることはない」

 天吾と青豆が1Q84年で、猫の町で再会し一緒になれればこの世界を脱出するしかない。青豆は最初1Q84年迷い込んだときのことを思い出し、あの高速道路の非常階段を高速道路から探したが見つからなかった。なぜならこの時青豆は1Q84年にいたのだから。だから今度ここを脱出するときは逆に高速道路の非常階段の下から上に上がっていけばいいと思いつく。そこには確かに高速道路につながる階段があり、青豆は天吾と二人で登っていく。

 出口に出た。けれど青豆は何かが違っていることを気づく。

 私たちは1984年に戻ってきたのだ。青豆は自分にそう言い聞かせる。ここはもうあの1Q84年ではない。もとあった1984年の世界なのだ。
 でも本当にそうだろうか。それほど簡単に世界は元に復するものだろうか?旧来の世界に戻る通路はどこにもない、リーダーは死ぬ前にそう断言したではないか。
 ひょっとしてここはもうひとつの違う場所ではあるまいか。私たちはひとつの異なった世界からもうひとつ更に異なった、第三の世界に移動しただけではないのか。タイガーが右側ではなく左側の横顔をにこやかにこちらに向けている世界に。そしてそこでは新しい謎と新しいルールが、私たちを待ち受けているのではないか?
 あるいはそうかもしれない、と青豆は思う。少なくともそうではないと言い切ることは、今の私にはできない。しかしそれでも、ひとつだけ確信を持って言えることがある。何はともあれここは、月が二つ空に浮かんだあの世界ではないということだ。そして私は天吾くんの手を握りしめている。私たちは論理が力を持たない危険な場所に足を踏み入れ、厳しい試練をくぐり抜けてお互いを見つけ出し、そこを抜け出したのだ。辿り着いたところが旧来の世界であれ、更なる新しい世界であれ、何を怯えることがあるのだろう。新たな試練がそこにあるなら、もう一度乗り越えればいい。それだけのことだ。少なくとも私たちはもう孤独ではない。

 天吾と青豆が10歳のとき教室で二人だけになった。青豆は何も言わず、天吾の手を強く握る。しかしそれで終わり、青豆は転校していき、以来二人は交わることがなかった。が、この時の情景を忘れることが出来ず、以来二人は20年間お互い求めあっていた。捜し続けていた。
 そしてそれが20年となった。それぞれがそれぞれの20年を生きて来た。二人にとって1984年までまったく別の世界で生きて来た。だからお互いが再会するには、二人が1Q84年、猫の町に迷い込み、同じ世界にいなければならない。そこで始めて接点が出来るのである。そこで二人は再会し、元の世界に戻ろうとするのだが、戻ってみて、そこは元の世界でなさそうであった。
 当然である。もし仮に天吾と青豆が10歳ときから二人でいられたら問題はなかっただろうけど、そこには20年の歳月が流れているのである。だから再会し二人で生きていこうとしても元いた孤独な世界とは違って当たり前である。それが二人が出た高速道路の風景である。ただ決定的に違うのは二人は孤独でないということであった。
 結局1Q84年とは二人が再会するまでの時間であり、再会して二人で生きていこうと元の1984年戻って見れば、今度は違う1984年となったことを示している。うまい構成の仕方だと思った。
 1Q84年という時間は二人を再会させるが、そう簡単には再会させない。二人はお互いを求めていたが、青豆は追われる身であり、天吾は天吾で孤独な生活と父親の死向かい合っていた。そこに牛河という人物とタマルという人物の登場が話にエンターテイメント性を帯びさせる。
 この話に何度か出て来る「大事なものを手に入れるには、それなりの代価を人は支払わなくちゃならない。それが世界のルールだよ」という言葉は、まさに1Q84年での出来事を言っているように思えた。二人が再会するのに、その代価としてこの1Q84年があったのではないかと思えてくる。ただ代価を払うのは払うだけの価値があるからだ。青豆が身を隠している間、次のように思うのもそうだ。

 その結果、私はこうして天吾に対する激しい欲望に身を焦がしている。絶え間ない渇きと絶望の予感がある。
 これが生き続けることの意味なのだ。青豆はそれを悟る。人は希望を与えられ、それを燃料とし、目的として人生を生きる。希望なしに人が生き続けることはできない。


 この本にもいくつかひっかかる言葉があった。最後にそれを書き出しておきたい。

 「世のためになることをする人間より、ためにならないことをする人間の方がずっと多いのですから」
「あんたの言うとおりだ。この世の中、良いことする人間よりは、ろくでもないことをする人間の数としちゃずっと多い」

 自分に直接関心のない事象に関しては、記憶の寿命はびっくりするほど短い。

 たとえ力の衰えた生命とはいえ、そして意識が長期間にわたって失われているとはいえ、代謝の原理に変更が生じるわけではない。父親はまだ大いなる分水嶺のこちら側にいるし、生きているというのは言い換えれば、様々な匂いを発することなのだ。

 この二人が夫婦として結びつけられる何かしらの事情があったのかもしれない。いや、事情というほどのものもなかったかもしれない。人生とは単に一連の理不尽な、ある場合には粗雑きわまりない成り行きの帰結に過ぎないのかもしれない。


 しかしふと思ったんだけれど、これNHKの関係者はかなり怒っているだろうなと思う。少なくともこの本ではいいようには書かれていない。
 それにしても村上春樹さんの書かれる話は面白い。ますますファンとなってしまった。


評価
★★★★★


書誌
書名:1Q84 〈BOOK3(10月-12月)〉
著者:村上 春樹
ISBN:9784103534259
出版社:新潮社 (2010/04 出版)
版型:602p / 20cm / B6判
販売価:1,995円(税込)

2010年04月16日

佃由美子著『日本でいちばん小さな出版社』

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 話はいきなり関係のないところから始めるけれど、本というには“匂い”がある。この場合の“匂い”とは実際に本から立ちのぼるインクの匂いとか、あるいは古本のかび臭い“匂い”を言っているんじゃない。この本は面白いかどうかの“匂い”である。面白そうだとなると、何となくそれらしきものを感じるものである。
 この本にそうした“匂い”を私は感じた。さらにこの本を出版しているのが晶文社なので、その点はある程度間違いがないと思われる。晶文社の本(古本も含む)や出版関係に関する本は結構面白く読ましてもらっているからだ。

 でも今回はちょっと珍しいかもしれない。今まで出版社の営業奮闘記みたいなものをいくつか読んだことがあるが、今回みたいなまったくの素人が、自ら出版社を立ち上げ、本の出版から、問屋への納品、返品、さらに在庫管理や出版経理など悪戦苦闘の日々を書いたのを読んだのは初めてだ。日々新しいことが持ち上がるのだが、それは半ば行き当たりばったりで、ときにはヤケッパチな感じで対応できちゃうのは著者の人徳なのかもしれないなと思えるところが面白い。
 著者の経歴をザッと書くと、大学中退後オーストラリアに渡り、永住権を取り、建設会社に就職し、9年間そこにいた。帰国後翻訳やシステム開発を請け負う会社を友人と設立する。
 そん中、知人が今まで本を出してくれた出版社潰れそうなので、出版社になって、続いて自分の本を出してくれと頼まれる。頼まれれば「合点承知!その問屋とやらの取引を始めておくよ」と軽い。
 出版社を始めるには、自分のところで出した本を書店にまいてもらわないとならない。そのために問屋の取次口座を取得しないと、全国の書店に本が置かれない。ところがこの取次口座を取るのが大変なのだ。普通問屋に相手にされない小さな出版社が多い。問屋だってその出版社がちゃんと本を出してくれないと困るし、財務体質だってしっかりしていないと、取引など出来ないだろう。リスクは負えないはずだ。だから新規の小さな出版社の取引条件は大手と比べると厳しい条件を飲まされると聞いたことがある。
 でも著者は「仕事はのんびりなんだが、ちょっと目新しいことにすぐ首を突っ込んでしまう。本当に何でも屋なのである。となると、出版社の権利とやらも、ぜひ獲得したい」と、最初に東販と取次口座開設にこぎ着ける。そして日販とも続いて取次口座を開設する。
 たぶん厳しい条件を飲まされたのだと思うが、それでも本を出したいという気持ちの方が優先してしまう。自分が本を出すと思うと(たとえ自分が書いたものでもなくても)、どこか誘惑的なところがあるのだろう。だから自費出版なんていうのが流行るのだ。著者も取次口座が開設できると、これと似たような気持ちになったと書いている。

 これからいっぱい本を出して、私も彼も儲かって。明るい未来を頭に描いた。

 とか、

 当時は出せば売れると思っているので、
 「へへっ、ベストセラーになったらいいなあ」
 なんて、ヘラヘラ考えていた。他の商売なら、そんな根拠のない夢は見ない。建設だろうが翻訳だろうがシステム開発だろうが、仕事に見合った利益しか考えない。ところが出版となると、とたんにバカみたいに空想してしまうのだ。

 納品など身体を動かしていると、「建設業とサービス業の経験しかないと、商品を運んだり納品したりするのは、すごく新鮮だ。机の前で書類なんか作っているより、断然楽しい。働いているという実感がわく。八百屋や消防士や漁師みたいな、小学校の社会科で習った『働く人々』をしている感じだ」とこのあたりも楽しそうだ。

 私は楽しいことを考えるのが好き。ぬか喜びになろうが気にしない。毎日頑張って働いてるんだから、何か楽しいそうなことがあったら前向きどんどん想像する。そうすると、実現したらしたで二度美味しいではないか。

 せっかく「製造業かつ自営」を満喫しているとも言い切る。

 しかし現実は甘くない。最初に作った資格本はほとんど売れない。毎日返品が戻ってくる。しかも汚れた状態で。仕方がないので消しゴムで汚れを落とし、カバーを取り替えたり、次来る注文に回そうとするが、印刷所にはまだパレット二つ分の在庫を抱えていることをすっかり忘れている。まだ一回も流通していないのに結局裁断処分するしか他になく、泣く泣く処分する。
 また最初に出版社を作ってくれとと言った知人は、結局元いた出版社がつぶれず、著者の出版社から知人の本が出版出来なくなる。

 これまでの人生、本との関わりはあくまでも読者としてだった。突然作れと言われて(言われていないけど)心底困ってしまった。贅沢な悩みかもしれないけれど、本人にとっては本当に困ったことだったのだ。

 そもそも私が出版社になったのは、志高くして念願かなったわけじゃない。取次口座の話自体が、向こうからやってきた。どういう出版をしていくかという根本的な問題に、急に答が出るわけがない。

 でもそこはさすがというか、何とか危機を乗り越え、地道な出版が続く。そうなると出版がますます楽しくなってくる。たった一冊の本で「企画を練って、原稿を作って、印刷準備(組版やカバーデザインなど)をして、新刊として出して、売るためにあれこれ動いて、そうして納品にいく。返品を受けて、消しゴム作戦をして、もっと売ろうといろいろ試す。経理も在庫管理もある」。これだけ多様な仕事が関わっているとは、この商売をするまで考えもしなかったと思うのだ。

 まぁ現実はここに書かれない苦労がたくさんあるだろうし、とにかく本の売れない時代に入っているから、もっともっと厳しいだろうなと思う。著者の出版社であるアニカから出だされている本は、私のジャンルじゃないので、手にすることはたぶんないだろうけど、でも頑張って欲しいなと思った。もしかしたらここで出された本といつか出会うことがあるかもしれない。

 最後にネットと本の関係を著者も述べているので、そのことを書きたい。たとえばオンライン書店の存在をどう考えるかである。確かにオンライン書店の売上がリアル書店を食っているというのが、今言われている現状だろう。だからといって「そんなに売れているのか。みんな、そんなにオンライン書店で買うのか、と思う」と著者は疑問を持つ。
 こういうのは結局どこに立つかでものの見方が変わってしまうものだろう。著者のようにリアル書店を主に相手にしている、せざるを得ない(アマゾンで相手にしてもらえなかった経緯がここに書かれている)から、そんなにオンライン書店で売れているのか、と疑問を持ってしまうのだろう。
 また好みの問題もある。むしろこれの方が強いかもしれない。書店が好きで、棚を眺めながら何か面白い本はないかなと探すのが好きな人であれば、「けっ、何がオンライン書店だ!」と言いたくなるであろう。逆に近所に本屋さんがないか、あってもしょうもない本しか置いていないと感じればオンライン書店になびくであろう。あるいは忙しく動き回っている人は、本屋に寄る時間なんかないよと言い、目の前にあるパソコンで本を注文するであろう。そういうことなんじゃないかと思う。
 著者はオンライン書店の美点ばかりを絶賛する姿勢に疑問を持つものだから、一つのジョークを披露する。ネットの利用状況調査したところ100%という結果となった。それはインターネット上のアンケートだったからだという話だ。オンライン書店の隆盛ばかりを強調する姿勢はこれと同じじゃないかというのだ。私はリアル書店の出身なのでこれに一票あげたいところである。けど要はうまくオンライン書店もリアル書店も付き合っていけばいいだけのことだろう。
 電子出版にしても同じである。それがいいと思う人はそれを利用すればいい。逆に紙に印刷されたものがいいななら、今の本の形態を愛すればいい。著者のように本の出版にこだわるなら、まして苦労して問屋との取次口座を持った以上その恩恵に浴したいものであろう。電子出版には未来を感じるけれど、私も最終的には本の方がいい。


評価
★★★


書誌
書名:日本でいちばん小さな出版社
著者:佃 由美子
ISBN:9784794967091
出版社:晶文社 (2007/05/01 出版)
版型:242p / 19cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年04月14日

吉村昭著『わたしの取材余話』

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 吉村さんの新刊を読む。新刊といっても、もう吉村さんは亡くなられているので、新たに書かれた随筆ではない。以前どこかで寄稿されたものを寄せ集めて、未収録本として出された本だ。それまでいくつかある吉村さんが歴史小説を書く上で、取材されたことを小説とは別な形で書かれたものである。要するに“余話”だから、余った話である。
 とはいっても、“ついでに”といったものではなく、小説の舞台裏や小説では使われなかった話など、それはそれで滋味があって、私は結構好きなのである。

 この本で一番ページ数をさいているのが「『心臓移植』取材ノートから」である。これは日本で始めて心臓移植が行われた札幌医大の取材ノートである。吉村さんにはこの心臓移植を扱った『消えた鼓動』という著作がある。
 札幌医大の心臓移植には様々な疑問点があり、純粋に医療という側面だけでなく、事件として扱われる側面がかなり多いことがここでも書かれている。
 たとえば心臓を提供した山口義政さんは溺れて心肺停止の状態になり、救急車で運ばれた。その搬送中、救急車が前の車を追い越しカーブを曲がったとき、対向車が向かってきたので、救急車は急ブレーキをかけた。その時救急車の中で人工呼吸を施していた救急隊員がそのその急ブレーキで前につんのめり、自然と人工呼吸をしている手に力が入った。それによって山口さんの呼吸が回復したというのである。治療の当たった医師は「生命に関わることはない」と判断し、回復が期待されたという。
 その後山口さんは札幌医大に運ばれたあと、心肺停止、脳波も平坦になったとして死亡が確認され、心臓が摘出されたのである。(実は脳波は取っていなかった)
 山口さんは当然変死扱いとなるので、警察による検死が行われた。検死に当たった医師は心臓移植に立ち会った医師であった。警察は山口さんの胸部に大きな絆創膏が貼られているのをいぶかしく思い、それをはがしてみるとメスの切開痕があった。これは何かと立ち会った医師に聞いてみると、医師は心臓蘇生のため、胸部を切り開き直接心臓をマッサージしたための切開痕だと説明する。実はこの時山口さんの遺体には心臓がなかったのである。医師はこの時嘘をついていた。(後で訂正がある)
 一方心臓の提供を受けた宮崎信夫さんの病状は、外科で軽い僧帽弁閉鎖不全症と診断されいた。心臓移植を執刀した和田寿郎教授は宮崎さんの心臓を「箸にも棒にもかからぬ絶望的な状態」ではなかったのである。
 吉村さんは取材で、札幌医大の心臓移植にはこうした不可解な点が数多くあることで、功を焦った和田寿郎教授の不要な手術だったのではないかということを匂わすが、そうだとは言いきらない。ただこうした事実がありますよと、ここではあくまでも取材ノートとして明らかにしているだけである。これは吉村さんの姿勢である。この本の最後で吉村さんは自分が書いた歴史小説で自分が取る姿勢を次のように書いている。

 「歴史小説は、その背景となった時代の性格を裁断するという役割りもになっている。方法としては、作者が表面に出て自ら解釈を明確にすることと、史実を記してその判断を読者にゆだねることの二つがある。
 私は、後者の立場に身をおいているが、それは多分に自分の素質にもとづくやむを得ないものだと思っている。
 あらゆる事象を分析し、それによって一つの解釈を生み出す能力は私にはなく、基本的に物事はすべて漠としたもので、割り切った解釈をすれば、必ずなにかの誤りが生ずる恐れがある、と考えるからである。その点、私は臆病であり、自ら語ることはせず、ひたすら読者の思い思いの判断に一方的にまかせるという、一種なげやりな姿勢をとっている」

 これは多分吉村さんの歴史小説だけでなく、たとえばこの心臓移植の話にしても、表に出なかった事実を明らかにすることはするけれど、それをどう考えるかは吉村さんがしないのと同じであろう。
 また歴史小説の小説としての折り合いのむずかしさがここに書かれている。吉村さんは学生の頃「事実の中には、小説は無い。事実を作者の頭が濾過し抽象化してこそ、そこに小説が生まれる。カミュの『異邦人』の価値は、二十世紀の抽象小説であることだ。川端康成の小説も、畢竟作者の頭脳によって抽象された美であり、断じて現実美ではない。秀れた小説は僕達の理性を納得させ、感性を納得させてくれる」と学生らしい青臭い文章で書かれている。けれど基本的に吉村さんは、今でも小説のあり方はそうあるべきと考えているという。
 となると歴史小説はどうなってしまうのであろうか。歴史と冠するかぎり、歴史小説は史実に忠実でなければならないはずだ。もし史実のみに固執すると、その羅列に終始してしまい、小説としての性格は失われてしまうことになる。だからといって史実を動かしてしまうと歪みが出てくる。この点が歴史小説のむずかしさだというわけだ。そこで吉村さんが取られる姿勢は、史実にあくまでも忠実ではあるけれど、人物がその時何を思い、そうした史実にあることを行ったのか、それを人間として自然な形で表現をすることで、小説の持つ性格と歴史小説が負わざるを得ない史実との整合性をつけているのではないだろうか。それが歴史小説を書く醍醐味でもあるような気がする。だから史実では大して問題にならない細部が吉村さんには必要になり、それを取材で得ることで、人間味を加味していく。

 余話として面白かったのは、吉村さんが江戸城のことを調べているときの話が面白かった。四谷で深夜、土木作業で働いていた人が酒を飲んで皇居のお濠端で寝入ってしまった。しばらくして皇宮警察が心配してその人のことを見に来た。昭和天皇がお濠を隔てて土手に横たわっている人を見て、「倒れている」と言って心配され、皇宮警察が走って来たらしい。
 その人はお濠を隔てた皇居の石垣の上に昭和天皇がお立ちになっているのに気がつき、元霞ヶ浦航空隊の整備兵だった彼は、仰天して軍隊式に腰を折って最敬礼すると、天皇は手をふっておられたという。思わずあの天皇ならお濠の石垣に立ってこちらを見られていたこともあっただろうなと思えるエピソードである。最敬礼した後、手をふっておられたというのが、昭和天皇の人間性の一面を見るようである。


評価
★★★


書誌
書名:わたしの取材余話
著者:吉村 昭
ISBN:9784309019765
出版社:河出書房新社 (2010/04 出版)
版型:233p / 20cm / B6判
販売価:1,680円(税込)

2010年04月12日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『テロリスト』

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 ついにこのシリーズ最終巻となった。最後は、今までこのシリーズで出て来た人物たちが総登場となる。テロリスト対策で全員がかり出されるといった感じだ。ただ話は単にテロ対策の話だけでなく、他の事件がいくつかあって、最後はテロ対策と話がクロスしていく。
 まず銀行強盗の容疑で、18歳の未婚の母、レベッカ・リンドの裁判で、マルティンベックが弁護側の証人として出廷する。弁護士のブラクセンによって、彼女が誤解によって銀行強盗にされてしまった経緯を説明される。
 ことのきっかけは、彼女の夫に会いに行くため渡米する費用を銀行に借りに行ったことから始まる。その時いつも携帯している園芸用ナイフを脅しだと行員が勘違いしてまったことで、彼女が銀行強盗にされてしまったと事件の真相が明かされる。
 もともとリンドはスウェーデンの社会体制に批判的だったし、社会システムにうとい生活をしていたので、行員が彼女を銀行強盗と勘違いし、彼女の持っていた大きなバックにお金を詰め込んだので、彼女は銀行でお金を借りることは簡単なことだとしか感じなかったのである。
 一方スウェーデン警視庁幹部は、秋にスウェーデンを訪問する米国上院議員の扱いに頭を痛めていた。そのため要人警護体制の視察のためグンヴァルト・ラーソンを某国に派遣した。結局ここの大統領は国際テロ組織ULAGに暗殺され、ラーソンもその爆破現場で事件に巻き込まれるが、そのテロ集団のテロのやり方を学習し、今度ウェーデンに訪問する米国上院議員のテロ対策に応用する。
 マルティン・ベックはその上院議員の警備対策本部の責任者にされる。が、ベックは目下別の殺人事件の捜査に関わっていた。映画の監督であったヴァルター・ペトルスが愛人宅で撲殺されたのであった。ペトルスが自らは有名な映画監督だと自称していたが、制作された物は有名になりたい少女などたぶらかして出演させるポルノ映画であった。当然いかがわしい部分がいくつか出てくるが、結局その映画に出演した女優の一人が、ペトルスの自宅の庭師で運転手であった男の娘だと判明する。男はヴァルター・ペトルスが一人娘を薬漬けにして、ポルノ映画に出演させたことを恨み、ペトルスを撲殺したのであった。
 事件が解決したことで、ベックは今度米国上院議員に対するテロ対策に本格的に乗り出す。国際テロ組織ULAGの要人暗殺方法が主にパレードをしている要人の通り道に爆弾を仕掛ける方法であった。テロリストは現場にいる必要がない。なぜならそこを通るのをテレビやラジオで確認することが出来るからで、その時離れたところで遠隔操作をして爆弾を爆発させればいいのだ。そのことをベックはラーソンから聞いて、トリックを仕掛ける。パレードの放送を15分ほど遅らせるのである。テレビやラジオで確認してテロリストが爆弾を爆発させたときは、もう上院議員はその場所を通過していたのである。
 ところが上院議員がスウェーデンの前王の墓所に来たとき、一人の少女が上院議員と一緒にいたスウェーデンの首相に銃を発射する。首相は即死であった。少女の名前はレベッカ・リンドであった。
 レベッカ・リンドは銀行強盗の容疑で裁判にかけられた後、住んでいたところを追い出され、子供と一緒に友人の家を点々としていたが、こんなことになる社会を作った張本人がスウェーデンの首相だと思い、彼を殺害すれば、もう少し社会がよくなるのではないかと思いはじめる。
 もともとレベッカ・リンドがアメリカに渡りたかったのは、自分の夫が脱走兵であり、アメリカに帰って刑に服していたからであり、その夫が自殺したことで自暴自棄となってしまっていたのであった。

 ということで、このシリーズを全巻読み終えた。私はこのシリーズを昔読んで面白かったという思いがあって、今回面白い本としてこのシリーズを紹介したくて再度読み始めた。しかし今は失敗であったと思っている。というのも当時夢中になって読んだ本でも、時間がたって読み返してもまた面白いとは限らないことを改め知らされたからであった。つまり読む側が、それ以降いろいろな本を読んで、変わってしまい、すれてしまったものだから、様々なところで疑問を感じることが多くなったのである。だから「これはどうかな?」と思っちゃうのである。鼻につくことが多くなってしまったのである。そのギャップが大きいものだから、こんなはずじゃなかったと感じて、このシリーズを読んでいた。
 たとえばこの本は1年に1作として10年間書かれたのだが、その間スウェーデン社会の変遷が悪い方へ傾くことを嘆くことに多くを費やしている。そのためどうしても政治色が強くなってしまう。今回それを強く感じた。昔はそんなことはある意味どうでもよく、むしろ話に展開を純粋に楽しんでいたような気がする。しかし今回はそれが妙に鬱陶しく、それがためにこの本は推理小説より社会派小説なのかと思えてしまうのであった。その点が残念で仕方がなかった。
 やっぱり昔読んで面白かった本はそのままにして置く方がいいのかも知れない。今読み返してしまうと、いろいろあらが見えてしまい、それが気になってしまう。面白い本だった、あるいは感動した本だったという思い出が無残に壊れていくのは結構寂しいものである。昔面白かったと思った本がまた読めるという期待があっただけに、この結果が残念であった。いくら読み返しても色あせない話というのは少ないのかも知れない。そんなことを思った。


評価
★★★


書誌
書名:テロリスト
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910904
出版社:角川書店 (1979/02 出版) 海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:398p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月07日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『警官殺し』

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 ついにこれでこのシリーズ9作目となった。
 話の内容は、独り暮らしをしていた女、シグブリート・モードが行方不明になった。失踪したのか、殺されたのか状況は分からなかったが、狭い町である。この町で彼女の行方を捜していた駐在所長のヘルゴット・オーライはシグブリート・モードは殺されたものとにらんでいた。そしてシグブリート・モードの近所に住んでいたのがあのロゼアンナを殺した犯人、フォルケ・ベンクトソンであった。彼は出所後ここで暮らしていた。当然彼はシグブリート・モードが行方不明に関わりがあるものと見られ、捜査に協力したマルティン・ベックとコルベリは、上層部の意向で彼を逮捕し、尋問を始めるが、確たる証拠が出てこない。シグブリート・モードと一緒にいたところを目撃されているが、その後が分からない。確かに彼は今でも女性に対して潔癖症であり、男を誘惑する女を敵と見なしているところは昔と変わらない。
 そして近所の森をハイキングしていたものが、シグブリート・モードの手が地面から出ているところを発見する。彼女は絞め殺され埋められていたのであった。土の中にはボロきれも発見され、ニッケルの削りくずがついていたことが後で判明する。フォルケ・ベンクトソンは疑われ続けるが、相手をするベックやコルベリは今ひとつ確信が持てずにいた。
 ベックとコルベリは、シグブリート・モードの家を捜索し、そこでラブレターらしきものを見つける。そのラブレターには「クラーク」という署名が入っていた。どうやらシグブリート・モードはクラークと付き合っていたようであった。

 そん中マルメ警察管区内で無灯火の不審車両を停止させたパトカー警官が射殺されるという事件が発生した。警官を撃った犯人の一人はその場で射殺されたが、一人はその車で逃走した。逃走したキャスパーは他の車を盗み乗り換え、捜査網を突破した。その車を盗まれた男がシグブリート・モードを絞殺したクラーク・エヴァート・スンドストレームであった。それを見つけたのはコルベリであった。実はコルベリはそれまでシグブリート・モード殺しの捜査をベックと捜査をしていたのだが、警官の射殺事件が起こった時点でこちらの捜査にかり出されたのであった。
 この時コルベリはもう刑事の仕事に見切りをつけていた。本来市民の生活を守るための仕事であった警察が、逆に人を抑圧する機関にに変質してしまったことを感じており、そのことに深く恥じるようになってしまったのだ。こんな状態ではもう警察は勤められないと判断し、退職願を提出した。

 この話はそれまで捜査が行き詰まってしまっても、まったく別のところで偶然の出来事や発見がその事件の糸を結びつけるところがある。たまたま偶然が起こったことで話がつながるのだ。正直これってあり?と思わなくもない。もっともこの傾向はこのシリーズの特色となっているところがあるけれど、どこか不自然な気がする。もしこれらが起こらなければ事件は完全に手詰まりとなってしまう。まぁ、世の中ってそういうもんだよ、と言ってしまえばそれまでだが・・・。
 それとこの物語は昔の事件の犯人や場所を登場させるところに特色がある。たとえばシグブリート・モード殺しの犯人ではないかとして、ロゼアンナを殺した犯人、フォルケ・ベンクトソン出したり、『蒸発した男』の犯人も刑期を終えて、名前を変え、新聞記者として再度登場させたりする。「マルティン・ベックは、奇妙な運命のめぐり合わせにつくづく感じ入っていた-過去に扱った二つの難事件の犯人たちと自分たち二人が、突然、それも忘れた頃になって、アンダスレーヴのような辺鄙な村で再び顔を合わせようとは」と書いているが、そういう意味では懐かしくもあるのだが、ただそれを持って話を読ませる手法は少々疑問を感じてしまう。
 もともとこのシリーズは1年に1作書かれてきたので、このシリーズで9年目になるわけで、その間の8年間の重みを感じさせようとしているのであろうか? 今回懐かしさもあってこのシリーズを読み始めたのだが、いろいろ考えることがあった。そのことは後1冊読んで、このシリーズが完結するので、そこで思っていることを書こうと思う。そうそう、サボイホテルのバーも登場したっけ!

 あと『唾棄すべき男』で私はいつもドジを踏むパトロール警官で、グンヴァルト・ラーソンが「またお前等か!」と呆れる警官二人が射殺される、と書いたが、射殺されたのは一人だけで、もう一人は膝を打ち抜かれたことを知ったので、訂正しておく。生き残った彼は新しパートナーとまたパトロール警官をやるが、やっぱりドジを踏み、グンヴァルト・ラーソンに怒鳴りつけられる。


評価
★★★


書誌
書名:警官殺し
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910843
出版社:角川書店 (1978/04 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:363p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月06日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『密室』

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 前作で私はマルティン・ベックのとった行動が、ベックらしくないと書いて終えた。今回はベックが撃たれた傷の治療後、復帰するところから始まるが、やはりベックは撃たれたときのことが夢に出てきて何度かうなされる場面がある。その後ベックはあの時の行動を次のように考える。

 1971年4月のあの運命の日の出来事については、ベック自身、十分に分析する時間があった。その結果、自分の行動は誤っていた、道徳的にも技術的にも誤っていた、という結論に早くから達していた。その見解は、自分が認めるより早く、自分の同僚たちも抱くに至っていたということも知っている。彼は愚かな振舞いをしたからこそ射たれたのだ。

 やっぱりマルティン・ベックはあの時の行動を誤っていたと後悔していたんだと思った次第だ。そうでなくちゃまずい。

 さて今回の話は、そのベックが撃たれて、療養した後、現場に戻るところから始まる。ちょうどその頃、ストックホルムの銀行に女性と思われる拳銃を持った強盗が入り、1人を射殺し現金を奪い逃走する事件が発生した。
 当時ストックホルムでは銀行強盗が多発していて、ベックの同僚のコルベリやグンヴァルト・ラーソンらは、対策本部にかり出されていた。コルベリはベックの復帰の手始めとして、リハビリも兼ねて、密室の中で死亡したスヴェードという老人の事件をやってみろと言って、そのファイルを渡す。ベックはその老人のことを調べ始める。老人は死から二ヶ月経って発見され、しかも完全な密室で死んでいたものだから、警察は孤独な老人の自殺として片づけられようとしていた。しかしスヴェードは銃で撃たれて死んでいた。ベックはスヴェードが自殺であった可能性があったはずがない。銃器なしで自分を撃つことがそう簡単なことであるはずがないと思うのであった。しかも部屋には銃器と呼べるものが一挺もなかったのだ。これは殺人事件であると確信する。

 一方銀行強盗の対策本部では、容疑者として、マルムストレーム、モーレンの二人組みの仕業でないかと疑う。そして彼らに食べ物など物資を調達する人物としてモーリッソンという人物がいた。この男たまたま親切心で横断歩道で目の悪い老人を助けていたとき、横断補導員に泥棒と勘違いされる。結局誤解であったことで解放されるのだが、たまたまそこに麻薬警察犬が彼の持っていた食品に何かを嗅ぎつける。食品の中に麻薬が隠されていたのであった。
 窮地に陥ったモーリッソンはマルムストレームとモーレンに居場所と、次に襲う銀行のなどをしゃべることで、自らの罪から逃れようとする。捜査本部を指揮していたブルドーザー・オルソンは歓びモーリッソンの条件を呑むが、アパートにはマルムストレームとモーレン居ず、ストックホルムでは銀行強盗が起こらず、マルムで起こった。
 モーリッソンは釈放されるが、その後をコルベリやグンヴァルト・ラーソンは彼を尾行する。モーリッソンの隠れ家を見つけ、地下室であの銀行強盗で使われた銃と、そのとき女性が着ていたのと同じ服、カツラを発見する。このため銀行強盗をし、一人を射殺した犯人はモーリッソンだとされた。
 実はこの銀行強盗はモーリッソンと当時付き合っていた女の仕業であった。女はモーリッソンのアパートに一人で入り、そこで銃を発見したのであった。女はそれまでの生活苦から脱出するためには銀行強盗をするしかないとして、その行動を起こしたのだ。その時一人を撃ってしまったため、銃を元の場所に戻し、着ていた服、カツラもモーリッソンのいる部屋の地下室に置いて行ったのであった。

 マルティン・ベックの方は、スヴェードが外から射殺され、彼が倒れるときその反動で扉が閉まってしまい、完全密室となったことを知り、銃が発砲された場所を綿密に調べると、そこの薬莢があった。その薬莢はモーリッソンのところから発見された銃から発射されたものであることが鑑識から判明する。スヴェードはどうしようもない男であって、吝嗇家であった。個人で当座預金を持ち、定期的に振込があった。モーリッソンはスヴェードから脅され、金をむしり取られていたのであった。そしてモーリッソンはスヴェードの脅しに我慢できずに、最後に彼を殺したのであった。
 ベックはモーリッソンを尋問し、彼はスヴェード殺しの犯人だと自供するが、一方で銀行強盗は濡れ衣だと主張する。しかし聞き入れられず起訴される。
 裁判ではモーリッソンは銀行強盗で無期懲役となるが、スヴェード殺しは不問とされた。実はモーリッソンは銀行強盗は冤罪であり、スヴェード殺しの犯人だったのである。
 スヴェード殺しは不問とされたことで、それまであったベックの昇進の話が、まだは復帰が完全じゃないということになって、話は先送りとなった。ベック自身は現場に居たかったので、これはこれでよかったのだが・・・。

 この話はシリーズの中で『笑う警官』を凌ぐ傑作と訳者は言っているが、私にはどうも話が中途半端のような気がした。確かに話はそれぞれ込み入っていて、面白かったけれど、最後は消化不良の感が拭えなかった。


評価
★★★


書誌
書名:密室
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910676
出版社:角川書店 (1981/06 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:361p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年04月02日

マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-著『唾棄すべき男』

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 入院中の男が何者かに騎兵銃の銃剣で刺殺された。男は主任警部スティーグ・ニーマンであった。その刺殺死体は残虐そのものであった。
 マルティン・ベックはニーマンがどんな人物か調べ始めた。ニーマンに関してはベックの同僚コルベリが詳しかった。

 「きみの話を聞いていると、まるでスティーグ・ニーマンに関する生き字引みたいだ」

 「ああ、やつに関することなら、おれはあんたたちが知らないことも多少知っているとも。しかし、その話は後でいい。それよりまず、やつは最低の種類の警官、権威を笠にきた、無頼漢も同然の男だったことをはっきりさせとこうじゃないか。やつは警察全体の面よごしだよ。おれは同時代、同じ都市で、あんなやつと同じ釜のメシを食ったことを恥ずかしと思っているくらいなんだ」

 「“セレフからきた唾棄すべき男”、おれたちはやつをそう呼んでいたんだ」
 
 ベック等はニーマンの過去の捜査状況を調べていくと、ニーマンは自らの権力を笠に、民間人に対して、とんでもない行為に及んでいて、そのため法務省の護民官宛にニーマンに関する訴状が幾通も出てきた。その中に何通も訴状を出している巡査、オーケ・エリクソンがいた。
 ベックは同僚のフレドリック・メランデルを呼び出す。彼は伝説的な記憶の持ち主で、任意の特定の人間ないし主題について、自分が過去に聞いたり見たり読んだりした重要なデータを自在に選り分け、しかも淀みのない明瞭な語り口で説明出来る刑事であった。そのメランデルが言うエリクソンは次のようであった。
 彼の妻は糖尿病を患っており、いつもインシュリン注射器を持ち歩いていた。が、たまたま自分の子供を迎えに行くときその注射器を忘れてしまい、歩くことも出来ない状態になっていた。その時ニーマンがいた署の部下が彼女を麻薬で朦朧となっているか、泥酔していると勘違いし、警察に連れ込み、ニーマンは彼女を泥酔者用の独房にぶち込んでおけと命じた。そして彼女は独房で死亡した。
 以来エリクソンは人が変わり、ニーマンをはじめ誰彼構わず訴状を送るようになり、妻を殺したのは警察全体だと思うようになる。その後エリクソンは免職処分を受けた。エリクソンは射撃の名手であった。
 彼には一人娘がいたが、児童福祉局がその娘を彼から引き離した。エリクソンと一緒にいると娘の福祉上好ましくないという言う理由で。児童福祉局がそういう決定を下すに当たり、エリクソンの警察時代の上司に事情を聞き、それが決定的になった。何を隠そう児童福祉局の答申書に答えたのがニーマンであった。
 そして銃声が起こった。今まで何度かこのシリーズに出てきて、いつもドジを踏むパトロール警官で、グンヴァルト・ラーソンが「またお前等か!」と呆れる警官二人が射殺される。さらに警官が撃たれる。エリクソンは屋上から、警官を的にしてライフルで撃つ。 マルティン・ベックはニーマン刺殺事件を捜査しているうちに胸騒ぎを覚えていた。

 何か突拍子もないことが起きそうな気がしてならない。どんな犠牲を払ってでも阻止しなければならない突発事故が-

 とにかくベックたちはエリクソンのいる屋上に近づけない。しかしマルティン・ベックは自らが志願してエリクソンのいる屋上に上がり、撃たれてしまう。幸い弾はベックの身体を貫通し、出血のそれほどでなかったが、動けなくなる。ベックは自らの意識が遠のくなかで次のように思う。

 あの瞬間までベックは、自分はこの男を理解していると思っていた。この悲劇の責任の一半は自分にある、従って自分には彼に助けの手を差しのべる義務がある、と思っていた。けれども屋上の男は、もはやいかなる助けの手も届かない領域に入っていたのだ。この二十四時間のある時点で、彼は狂気の棲む世界、復讐と暴力と憎悪以外何物も存在しない世界に、決定的な一歩を踏み出してしまったのに相違ない。

 ベックを救助したのはコルベリとグンヴァルト・ラーソンであり、エリクソンは逮捕される。ただどうしてマルティン・ベックが一人でエリクソンに立ち向かわなければならなかったのか、しかも最終的にコルベリやラーソンが踏み込めたのだから、わざわざ一人で行く理由がないように思える。確かにベックはエリクソンがこうした事件を起こしたのはニーマンがいた警察であり、自分のその組織の中にいるのだから、責任の一端は自分にもあると思うのは分からないわけではないが、だからといってベックが一人でエリクソンと対峙するのは、これまでのマルティン・ベックらしくないように思えた。


評価
★★★


書誌
書名:唾棄すべき男
著者:マイ・シュ-ヴァル ペ-ル・ヴァ-ル-
ISBN:9784047910591
出版社:角川書店 (1980/09 出版)海外ベストセラ-・シリ-ズ
版型:247p / 20cm / B6判
販売価:入手不可