

こうして人の一生を読んでいると、どうしてもこの人の“死に様”がどうなるんだろう、と思ってしまう。人物がどのように死んでいったのか。すべてが完結して、終えることもあるだろうし、志半ばでその死を迎えなければならなかった場合もあるだろう。結局その死に際がどうであったのかを語れば、その人の一生がどうであったかがわかるのかもしれないな、と思ったりする。
その男とは河井継之助である。

継之助は官軍によって奪い取られた長岡城を奪還したとき、左膝に流れ弾を受け重傷を負う。それが悪化し、松本良順の診察を受けたが、破傷風により死去した。その死に際に自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけてた。この男は自分の人生を不満足のまま、死を迎えざるを得なかったのだ。
継之助が生きた時代は、幕末から維新前の時代であった。徳川幕府はもう末期的症状を呈し、開国、攘夷の波にもまれ、対応のすべが無く、朝廷を擁する薩摩、長州にどんどん追いやれる。そん中継之助は家督を継ぐ身でありながら、三十前後まで書生の境涯であり続け、諸国の学者を歴訪する求道旅行をしていた。継之助は「ひとを訪ねることは、人を食いにゆくことだ」という意識でそれら学者に接していき、自分が進むべき道を模索していく。
継之助は幕府は、欧米の列強に翻弄され、かれらの言いなりなり、平身低頭し、その弱体を暴露したと見ていた。いちいちおびえすぎる。おびえるから奴等はおどしにかかるのである。おどしの利かぬ相手なら、連中も別な態度で出るだろう、と考えていた。そんな幕府なら“倒せばいい”とも考えていた。実際継之助は「おれが、西国の外様藩にうまれておればきっとそうする」と思っていた。実際幕府への忠誠心などもともとない薩摩や長州は、朝廷を擁し倒幕に進んでいく。
しかし継之助はたとえ倒されても仕方のない幕府であっても、突き進んで「そういう思想は持てぬ」のであった。何故なら継之助がいる長岡藩牧野家は、いわゆる三河以来、家康の創業をたすけてきた家であった。河井継之助は、その臣であったからだ。たとえ幕府がふがいない姿をさらけ出してもそれを見棄てるわけにはいかないのであった。
(それは断固としてできない)
というのが、継之助が自分自身をしばりつけている重要な拘束であった。士たる者が自分で自分をしばりあげているこの拘束こそ、かれ自身を一個の漢たらしめてゆくもっとも大事な条件であると継之助はおもっている。その拘束のなかで人間は懸命に可能性を見出し、見出すために周囲と血みどろになってたたかわねばならない、とおもっている。
これが継之助の生き方であった。ところで武士というのは美的慣習の信奉者である。「継之助はときにこういうこまかいしつけに疑問をもつことがある。これらの習慣は遠い戦国のころの武士ならば必要であろうが、三世紀ちかく無事泰平をつづけてきた時代の武士には必要はあるまい。
が、ちかごろではこれはやはり必要だと自分の身についたしつけを是認するようになっている。なるほど具体的にはさほど必要はない。しかしこういう常住の緊張が、武士というものの精神の骨格をつくりあげ、その立振舞をうつくしくさせ、いざの場合、いつでも即座にうつくしく死ねる覚悟をつかせてゆくのであろう。武士はうつくしくあれというのが、武士という精神像をつくりあげている基本であった」と思う。
継之助のとって武士である自分がこの激動の時代どう進んでいけばいいのか、これらが基本であった。諸国の学者を訪ね歩いて得た処世であった。
それは継之助が福沢諭吉とのやりとりに如実に表れている。福沢諭吉が
「そのとおりでさ。国家というのは文明を保護すればいいのですからなね。それだけのものであり、それ以上のものではない」
だから討幕の佐幕もない。福沢の眼中、徳川も薩長もない。そういう国家をつくる政権であればよいのだ、と言えば、継之助は
「そういう議論に、できるだけ興味を持たぬように自分をいましめています」
と言い返す。更にそれに付け加えて、
「左様、この一天下をどうするかという議論は、他の志士にまかせたい。私には越後長岡藩の家老であることのほうが重く、それが河井継之助のすべてなのです。それ以上にこの地上に河井は存在せぬ」
と自分の立場と福沢諭吉の立場の相違を言う。福沢は思想家であり、継之助は政治家なのである。司馬さんは「福沢は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてももっとも大事なものとしている。」とここでは書いているが、まさにその通りであった。長岡藩をどうしていくか、それが継之助のすべてであった。おそらく長岡藩の存続には福沢の言うことを実施していくのは将来の課題であろうが、その前にこの時代に自らの藩の存続を現実的に図らなければならないのであった。
それは長岡藩の一藩独立主義であった。官軍にも非官軍にも属さない中立の長岡藩の立場を貫く必要性を自覚していく。その中立をまもるためには、この小藩にすれば過重なほどに新鋭武器を買い入れ、藩軍を洋式化し、封建組織あらためつつあった。中立はたとえ情勢上不可能であろうとも、日本国でただ一つの例外を、継之助はその全能力をかたむけてつくりあげるつもりであった。だから「継之助にすれば、たとえば会津藩がそうであるようにかれの長岡藩じたい列藩のあいだを説いてまわってそういう抵抗同盟(奥羽北越同盟)を発起しようとはおもわない。しかし他の藩がみな結束して薩長に抵抗するというならばよろこんで参加し、戦陣にあってはもっとも勇敢に戦おうとは思っていたもっていた」。
しかしこの継之助の考えは官軍側には通用しなかった。官軍はどうしても朝敵の会津藩を討たなければならなかった。その恨みが強かったからである。そのためには長岡藩には他の藩のように外交で調停していくやり方を一際せず、「兵を出せ。貴藩は地理的に隣接地にあるから、会津討ち入りの先鋒となれ」と命令口調であった。
継之助が談判に当たったのが、土佐出身の軍監岩村精一郎(高俊)であった。この男どうしようもない男であった。岩村は身分もいやしく、いわゆる志士歴もあるかなきかの程度であったが、坂本竜馬の門人(実際には坂本とは生前会ってはいない)という不可思議な経歴がものを言い(このあたりが、乱世であろう)、奇跡的に抜擢をうけただけの人物であった。ちなみにこの男先に読んだ『歳月』にも出てくる。佐賀県権令として佐賀藩士島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやった人物であった。従って人物評価は無能の評価をされた人物である。
もし岩村が継之助の希望である山県有朋か黒田清隆との会談を取り次いでいたら、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなく、北越戦争における新政府軍のみじめな敗戦もなかっただろうし、もしかしたら北越戦争そのものを避けられた可能性もあったといわれている。
談判は決裂した。継之助は次のように思う。
「要は敵を泥沼におとしこんでしまうことである」
戦争は単に戦争であってはならない。官軍を勝敗のない泥沼にたたきこみ、新政府の信用を失墜させる。
この大変動期にあたり、人間たる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるであろう。
-それが日本男子か。
人間とはなにか、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげくに、相手を虫けらのように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。
司馬さんは継之助が立った理由を次のようにいう。
戦国時代の戦争には明快な目的があった。領土であった。勝てば領土がふえる。が、このたびの奥羽北越同盟軍が新政府に対して抗戦したこの戦争には、領土拡張の要素がない。
いわば思想の戦いであった。謀略によって政権を奪取した薩長に対し、奥羽北越はそれを非とし、旧政権に対する節義を天下にあきらかにしようという、それだけが抗戦の目的なのである。
(こういう奇妙な戦いは、古来あったためしがない)
しかし継之助は官軍の力に負けた。時運は今や継之助にはなかった。
負けた
やりすぎた
「あわれなのは、百姓どもだ」
継之助はゆらい、百姓の生活を安堵させて国を富ませる学問をしたが、それが逆に、城をうしない、国を破り、百姓を死なせる運命に立たした。
「おれの本意ではない」
「ゆるしてくれ」
「おれが家老になったのは、こういうつもりではなかった」
最後に司馬さんは次のように言う。
もし長岡藩が無能で意気地なしの家老しかもたなかったならば、この敗北もありえなかった。なぜならば敗北する前に降伏し、官軍のしっぽについて会津攻撃にむかい、大勢とともに可もなく不可もなく進んでいたであろう。
が、長岡藩家老は、不幸にも河井継之助なのである。師の山田方谷にさえ「あの男には長岡藩は小さすぎる」と評された男であり、大藩の家老か、いっそ日本国の宰相にでもなってようやく柄が適うかといわれた男であった。
長岡という小藩うまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を産んだことは不幸であった。継之助は長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした。
芝居といえば、これを芝居にたとえれば、天下の運命をさだめるこの檜舞台に、子供を千両役者として主役に出したようなものであった。官軍と反官軍のあいだに立って調停役をつとめ、風雲を長岡藩によってとりしずめ、徳川家も救済し、会津藩をも救いだそうとしたところに継之助のむりがあった。無理が無理をよび、ついにこの戦争となった。
私は久しぶりに司馬さんの歴史小説で感動していた。いや、河井継之助という人物に感動した。河井継之助は武士という存在の意味を形而上学的に追求した人物であった。特に幕末から維新において、なくなってしまったその規範を最後まで持ち続けた人物であった。岩村のような能力も気力もないのに志士と呼ばれ、いい気になっている人物や官軍の力になびくだけしかない他の藩の人物と比べれば、どれだけ人間として尊いかと思わせたのであった。
結果として長岡藩を滅亡に導き、民や百姓を苦しめたことは事実であったが、やはりそれは司馬さんの言う通り、小さな長岡藩が河井継之助という人物を持ってしまった不幸であったかもしれないし、継之助にしてもその気力、能力からすれば長岡藩は小さすぎた。双方が歴史的不幸を背負ってしまったのがこの北越戦争だったのかもしれない。
最後に会津藩が長岡藩を奥羽北越同盟軍に参加させるためにとった作戦は、あまりにも汚いなと思った。もし会津藩があのような汚い手段に出なければ、岩村は継之助と談判に応じたかもしれないし、更に山県や黒田との会談もなったかもしれない。会津藩といえば、幕末悲劇の藩を演じ、官軍に一矢を報いるため凄惨な戦いが行われ、その最後が美談として語り伝えられているが、まさか継之助を巻き込むために、あんな汚い策を弄したとは、思いもよらなかった。
評価
★★★★
書誌
書名:峠 〈前編〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784103097112
出版社:新潮社 (1985/04 出版)
版型:370p / B6判
販売価:入手不可
書誌
書名:峠 〈後編〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784103097129
出版社:新潮社 (1986/11 出版)
版型:346p / 20cm / B6判
販売価:入手不可