2010年06月29日

森まゆみ著『貧楽暮らし』

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 森さんの『暮らし』シリーズは全部読み終えたと思ったら、新刊が出た。それがこれである。今回は前回よりかなり時間がたっており、森さんがほぼ子育てを終え、自分の仕事のスタイルも形になってきた、最近の姿が描かれている。そしてその分歳もとっているわけで、その点人生の落ち着きがここでは感じられた。
 普通こうなってくると説教がましいところ出てきたり、どこか自分の生き方を押しつけるような部分が出てくるのだが、森さんのこのエッセイにはそうしたお節介なところがなくて、よかったなと思っている。
 これはどうしてなんだろうかと思った。結局今までの森さんのエッセイを通して読んでいると、そこには自分たち親子が町のみんなに助けられて生きて来たからだと身をもって感じているからではないだろうか。だからそこには“自分だけが”というものがない。
 普通どうしたって歳をとれば、お説教がましいことの一言など言いたくもなるし、書きたくもなる。実際私だってそれを感じるときがある。その時自分でも“嫌だな”と感じる。偉そうなことを言ってみても、その背後にあるものが薄っぺらいものを自分でもわかっているから、化けの皮がすぐ剥がれる。その時はみっともないこときわまりない。だから極力そういう態度をとることは避けたいと思っている。そして平気でそういうことが言える人間を腹の中で蔑んでいる。そういう人を見るといつも「あんたそんな偉そうなこと言えるの?」と思ってしまうのだ。恥を忍んで言うという言葉もあるけれど、わざわざ恥を忍んで言う必要もないだろう。そこまで言うのは、その人の気持ちの中で“言いたい”という気持があるからだと思っている。私は自分の人生の体験や経験を、人生訓のように平気で言える人がどうしても好きになれない。
 私の性格が歪んでいるからそう思うのかもしれないが、むしろ進んで偉そうなことを言う人より、さらりと経験したことを書いて終わらせる姿の方が、私は好きであり、森さんの今回のエッセイはそういう姿勢が貫かれているので、読んでいて楽しかったし、素直にそうだよなと思えるたのである。
 たとえば『「恥ずかしい」という感覚』というエッセイでは、修学旅行のとき感じたことが書かれている。森さんのいた高校は恵まれた家の子女がほとんどで、勉強もでき、才気煥発であった。だからおしきせの修学旅行を半ば馬鹿にして、バスガイドの説明など聞かず、好き勝手におしゃべりに夢中になっていたという。
 そしてバスを降りる頃が近づくとバスガイドが挨拶した。

 「皆様、この楽しい旅も終わりに近付いてまいりました。つたないガイドでご迷惑をかけましたが、私は同じ年の方たちをご案内できて大変うれしく思っております」

 この挨拶を聞いた森さんたちはしんとなったという。みんながバスで子供っぽく騒いでいる間、自分たちと同じ年齢のバスガイドは、高校にも行かず就職し、ちゃんと社会人をやって、自分の仕事を全うしていたのである。その時森さんたちは、自分たちは恵まれた環境に甘えているだけで、同じ年齢の同性が一生懸命仕事をしているのに、話を聞かずに騒いでいた。それを思ったとき「恥」を感じたというのである。
 そしてさらりと、自分に対して恥を感じるという感覚は人間を育てると思う、と書き加えるのである。もうこれだけで、「そうだよな」と思ってしまう。
 あるいは歳をとったり、病気になったりしたことを寂しく思ったり、悲観したりするのではなく、それらが身にこたえるようになって「“ひよわさ”を獲得することになって、むしろ敏感になったのかもしれない」と書く。
 これを読んだとき、「あっ、そうか!」と思ったのである。私もそうだけれど、自分が歳をとって、若くないことを嫌が上でも自覚するようになると、一抹の寂しさを感じるのではないだろうか。ある意味逆にその反動で、歳をとった分説教がましくなるのかもしれないが、そうではなく、“ひよわさ”を感じることで、自分はいろいろな部分で、物事に敏感になれるようになり、深く感じられるようになっているんだと思うべきなのではないか、と思ったのである。そしてそれは確かにそう言えそうである。
 そう思ったとき、これはこれでいいんだなと思えるようになったのである。これはちょっとした“目から鱗”であった。歳をとったことや病気になったことを、悲観するものでもないし、だからといって無理に虚勢を張って若者ぶるのも、結構疲れるので、あるがままに物事を考えていけばいいんだなと思わされた。


評価
★★★


書誌
書名:貧楽暮らし
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087465860
出版社:集英社 (2010/06/30 出版)集英社文庫
版型:223p / 15cm / A6判
販売価:450円(税込)

2010年06月28日

司馬遼太郎著『峠』〈前編〉〈後編〉

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 こうして人の一生を読んでいると、どうしてもこの人の“死に様”がどうなるんだろう、と思ってしまう。人物がどのように死んでいったのか。すべてが完結して、終えることもあるだろうし、志半ばでその死を迎えなければならなかった場合もあるだろう。結局その死に際がどうであったのかを語れば、その人の一生がどうであったかがわかるのかもしれないな、と思ったりする。
 その男とは河井継之助である。


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 継之助は官軍によって奪い取られた長岡城を奪還したとき、左膝に流れ弾を受け重傷を負う。それが悪化し、松本良順の診察を受けたが、破傷風により死去した。その死に際に自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけてた。この男は自分の人生を不満足のまま、死を迎えざるを得なかったのだ。

 継之助が生きた時代は、幕末から維新前の時代であった。徳川幕府はもう末期的症状を呈し、開国、攘夷の波にもまれ、対応のすべが無く、朝廷を擁する薩摩、長州にどんどん追いやれる。そん中継之助は家督を継ぐ身でありながら、三十前後まで書生の境涯であり続け、諸国の学者を歴訪する求道旅行をしていた。継之助は「ひとを訪ねることは、人を食いにゆくことだ」という意識でそれら学者に接していき、自分が進むべき道を模索していく。
 継之助は幕府は、欧米の列強に翻弄され、かれらの言いなりなり、平身低頭し、その弱体を暴露したと見ていた。いちいちおびえすぎる。おびえるから奴等はおどしにかかるのである。おどしの利かぬ相手なら、連中も別な態度で出るだろう、と考えていた。そんな幕府なら“倒せばいい”とも考えていた。実際継之助は「おれが、西国の外様藩にうまれておればきっとそうする」と思っていた。実際幕府への忠誠心などもともとない薩摩や長州は、朝廷を擁し倒幕に進んでいく。
 しかし継之助はたとえ倒されても仕方のない幕府であっても、突き進んで「そういう思想は持てぬ」のであった。何故なら継之助がいる長岡藩牧野家は、いわゆる三河以来、家康の創業をたすけてきた家であった。河井継之助は、その臣であったからだ。たとえ幕府がふがいない姿をさらけ出してもそれを見棄てるわけにはいかないのであった。

 (それは断固としてできない)

 というのが、継之助が自分自身をしばりつけている重要な拘束であった。士たる者が自分で自分をしばりあげているこの拘束こそ、かれ自身を一個の漢たらしめてゆくもっとも大事な条件であると継之助はおもっている。その拘束のなかで人間は懸命に可能性を見出し、見出すために周囲と血みどろになってたたかわねばならない、とおもっている。

 これが継之助の生き方であった。ところで武士というのは美的慣習の信奉者である。「継之助はときにこういうこまかいしつけに疑問をもつことがある。これらの習慣は遠い戦国のころの武士ならば必要であろうが、三世紀ちかく無事泰平をつづけてきた時代の武士には必要はあるまい。
 が、ちかごろではこれはやはり必要だと自分の身についたしつけを是認するようになっている。なるほど具体的にはさほど必要はない。しかしこういう常住の緊張が、武士というものの精神の骨格をつくりあげ、その立振舞をうつくしくさせ、いざの場合、いつでも即座にうつくしく死ねる覚悟をつかせてゆくのであろう。武士はうつくしくあれというのが、武士という精神像をつくりあげている基本であった」と思う。

 継之助のとって武士である自分がこの激動の時代どう進んでいけばいいのか、これらが基本であった。諸国の学者を訪ね歩いて得た処世であった。
 それは継之助が福沢諭吉とのやりとりに如実に表れている。福沢諭吉が

「そのとおりでさ。国家というのは文明を保護すればいいのですからなね。それだけのものであり、それ以上のものではない」

 だから討幕の佐幕もない。福沢の眼中、徳川も薩長もない。そういう国家をつくる政権であればよいのだ、と言えば、継之助は

 「そういう議論に、できるだけ興味を持たぬように自分をいましめています」

 と言い返す。更にそれに付け加えて、

  「左様、この一天下をどうするかという議論は、他の志士にまかせたい。私には越後長岡藩の家老であることのほうが重く、それが河井継之助のすべてなのです。それ以上にこの地上に河井は存在せぬ」

 と自分の立場と福沢諭吉の立場の相違を言う。福沢は思想家であり、継之助は政治家なのである。司馬さんは「福沢は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてももっとも大事なものとしている。」とここでは書いているが、まさにその通りであった。長岡藩をどうしていくか、それが継之助のすべてであった。おそらく長岡藩の存続には福沢の言うことを実施していくのは将来の課題であろうが、その前にこの時代に自らの藩の存続を現実的に図らなければならないのであった。
 それは長岡藩の一藩独立主義であった。官軍にも非官軍にも属さない中立の長岡藩の立場を貫く必要性を自覚していく。その中立をまもるためには、この小藩にすれば過重なほどに新鋭武器を買い入れ、藩軍を洋式化し、封建組織あらためつつあった。中立はたとえ情勢上不可能であろうとも、日本国でただ一つの例外を、継之助はその全能力をかたむけてつくりあげるつもりであった。だから「継之助にすれば、たとえば会津藩がそうであるようにかれの長岡藩じたい列藩のあいだを説いてまわってそういう抵抗同盟(奥羽北越同盟)を発起しようとはおもわない。しかし他の藩がみな結束して薩長に抵抗するというならばよろこんで参加し、戦陣にあってはもっとも勇敢に戦おうとは思っていたもっていた」。
 しかしこの継之助の考えは官軍側には通用しなかった。官軍はどうしても朝敵の会津藩を討たなければならなかった。その恨みが強かったからである。そのためには長岡藩には他の藩のように外交で調停していくやり方を一際せず、「兵を出せ。貴藩は地理的に隣接地にあるから、会津討ち入りの先鋒となれ」と命令口調であった。
 継之助が談判に当たったのが、土佐出身の軍監岩村精一郎(高俊)であった。この男どうしようもない男であった。岩村は身分もいやしく、いわゆる志士歴もあるかなきかの程度であったが、坂本竜馬の門人(実際には坂本とは生前会ってはいない)という不可思議な経歴がものを言い(このあたりが、乱世であろう)、奇跡的に抜擢をうけただけの人物であった。ちなみにこの男先に読んだ『歳月』にも出てくる。佐賀県権令として佐賀藩士島義勇の前で佐賀藩士を侮辱し、彼を反乱側へと追いやった人物であった。従って人物評価は無能の評価をされた人物である。
 もし岩村が継之助の希望である山県有朋か黒田清隆との会談を取り次いでいたら、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなく、北越戦争における新政府軍のみじめな敗戦もなかっただろうし、もしかしたら北越戦争そのものを避けられた可能性もあったといわれている。

 談判は決裂した。継之助は次のように思う。

 「要は敵を泥沼におとしこんでしまうことである」

 戦争は単に戦争であってはならない。官軍を勝敗のない泥沼にたたきこみ、新政府の信用を失墜させる。
この大変動期にあたり、人間たる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるであろう。

 -それが日本男子か。

 人間とはなにか、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげくに、相手を虫けらのように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。

 司馬さんは継之助が立った理由を次のようにいう。

 戦国時代の戦争には明快な目的があった。領土であった。勝てば領土がふえる。が、このたびの奥羽北越同盟軍が新政府に対して抗戦したこの戦争には、領土拡張の要素がない。
 いわば思想の戦いであった。謀略によって政権を奪取した薩長に対し、奥羽北越はそれを非とし、旧政権に対する節義を天下にあきらかにしようという、それだけが抗戦の目的なのである。

 (こういう奇妙な戦いは、古来あったためしがない)

 しかし継之助は官軍の力に負けた。時運は今や継之助にはなかった。

 負けた

 やりすぎた


 「あわれなのは、百姓どもだ」

 継之助はゆらい、百姓の生活を安堵させて国を富ませる学問をしたが、それが逆に、城をうしない、国を破り、百姓を死なせる運命に立たした。

 「おれの本意ではない」

 「ゆるしてくれ」

 「おれが家老になったのは、こういうつもりではなかった」

 最後に司馬さんは次のように言う。

 もし長岡藩が無能で意気地なしの家老しかもたなかったならば、この敗北もありえなかった。なぜならば敗北する前に降伏し、官軍のしっぽについて会津攻撃にむかい、大勢とともに可もなく不可もなく進んでいたであろう。
 が、長岡藩家老は、不幸にも河井継之助なのである。師の山田方谷にさえ「あの男には長岡藩は小さすぎる」と評された男であり、大藩の家老か、いっそ日本国の宰相にでもなってようやく柄が適うかといわれた男であった。
 長岡という小藩うまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を産んだことは不幸であった。継之助は長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした。
 芝居といえば、これを芝居にたとえれば、天下の運命をさだめるこの檜舞台に、子供を千両役者として主役に出したようなものであった。官軍と反官軍のあいだに立って調停役をつとめ、風雲を長岡藩によってとりしずめ、徳川家も救済し、会津藩をも救いだそうとしたところに継之助のむりがあった。無理が無理をよび、ついにこの戦争となった。

 私は久しぶりに司馬さんの歴史小説で感動していた。いや、河井継之助という人物に感動した。河井継之助は武士という存在の意味を形而上学的に追求した人物であった。特に幕末から維新において、なくなってしまったその規範を最後まで持ち続けた人物であった。岩村のような能力も気力もないのに志士と呼ばれ、いい気になっている人物や官軍の力になびくだけしかない他の藩の人物と比べれば、どれだけ人間として尊いかと思わせたのであった。
 結果として長岡藩を滅亡に導き、民や百姓を苦しめたことは事実であったが、やはりそれは司馬さんの言う通り、小さな長岡藩が河井継之助という人物を持ってしまった不幸であったかもしれないし、継之助にしてもその気力、能力からすれば長岡藩は小さすぎた。双方が歴史的不幸を背負ってしまったのがこの北越戦争だったのかもしれない。

 最後に会津藩が長岡藩を奥羽北越同盟軍に参加させるためにとった作戦は、あまりにも汚いなと思った。もし会津藩があのような汚い手段に出なければ、岩村は継之助と談判に応じたかもしれないし、更に山県や黒田との会談もなったかもしれない。会津藩といえば、幕末悲劇の藩を演じ、官軍に一矢を報いるため凄惨な戦いが行われ、その最後が美談として語り伝えられているが、まさか継之助を巻き込むために、あんな汚い策を弄したとは、思いもよらなかった。


評価
★★★★


書誌

書名:峠 〈前編〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784103097112
出版社:新潮社 (1985/04 出版)
版型:370p / B6判
販売価:入手不可

書誌
書名:峠 〈後編〉
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784103097129
出版社:新潮社 (1986/11 出版)
版型:346p / 20cm / B6判
販売価:入手不可

2010年06月21日

司馬遼太郎著『歳月』

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 私の知っている江藤新平という人物は西郷隆盛の征韓論を支持したが、最後は大久保利通らに破れた。江藤は西郷とともに中央から去り、佐賀に帰り新政府に不満な士族等に担ぎ上げられ、佐賀の乱を起こす。その発想はまずは自分たちが立ち上がれば、薩摩や土佐も立ち上がり、第二維新を起こせるというものであった。それはあくまでも他人の行動をいいように解釈し、期待したものであって、もし西郷や後藤らが一緒に立ち上がらなければ、単に佐賀での乱にしか過ぎなくなる危ういものであり、実際そうなった。江藤は佐賀で新政府軍に破れ、同士を見棄てて、鹿児島に入り、西郷にその説を説くが、西郷に一喝され、その後土佐に渡り、一緒に再起しようと説いても、見棄てられ、最後は大久保らに捕まる。
 大久保にとって江藤の蜂起は新政府にとってこれからを考えれば許し難いものであった。断固とした処理をしなければ、以後政権の存続に関わってくる。そのため大久保は全権を持って、参議であった江藤に梟首(さらし首)を申しつける。江藤も死罪は免れないだろうと腹をくくっていたが、まさか元参議の自分がさらし首になるとは考えていなかった。それだけ大久保は江藤の行動を許せなかった。しかもそのさらし首の写真さえ撮っていて、それは今でも残っている。

 江藤は佐賀藩出身である。その佐賀藩であるが、「葉隠」に代表される保守的な風土の藩であった。そんな中、幕末藩主鍋島閑叟は藩の洋式化を図り、幕府から長崎の警備を命じられていたことを利用し、藩軍を洋式体制し、そればかりではなく製鉄所や工作工場などを作って、小型軍艦でさえ国産で建造できる域まで達せさせた。その軍事的実力は長州の桂などに、「佐賀を抱き入れれば天下の事は成る」と言わせたものであった。しかし鍋島閑叟は藩内事情を極秘にした。藩士が他藩と交わることを禁じた。佐賀の“二重鎖国”といわれるのこれであった。時勢が騒然としていても、その体制を維持した。
 しかし鳥羽伏見の戦いで薩長側が勝利に終わって以降は、佐賀藩は新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。
 明治維新は薩長土肥の志士でなった。この順番が大きい。この順番は維新が成るに当たって、その犠牲者の多い順を意味し、順番が後になればなるほど、維新の功労が少ないことを意味した。薩長の多くの犠牲の後、のこのこと土肥が出てきたと思われていた。要するに佐賀は“出遅れ”てしまったのであった。維新政府の要人は薩長に独占された形になった。これが江藤新平には堪えられなかった。江藤の性格から許せなかった。「佐賀勢力は時制に数歩遅れたために薩人の後塵を拝し、薩人がひらいた切通し道の地ならしをするしか働く場所がなさそうであった」。だから江藤は「いつかは」と思うのである。
 江藤新平の経歴を司馬さんは次のように総括する。

 信じられないほどのことであるが、江藤の人生の異様さは維新になってはじめてひろい世間に出てきたことである。それまでは家のなかで莨の葉をきざんだり、火薬づくりの内職をしたりしているか、それとも藩命によって蟄居させられているか、どちらかであった。二十六七のころ一時藩の小役人の職にありついたことがあったが、ほどなく京へ脱走し、帰藩し、蟄居ぐらしに入った。世間を知らないのにひとしい。維新が成立し、かぞえで三十五になってからにわかに人臭い世の中のおどり出、わずか五年目に司法卿になった。稀代のことであろう。
 この時代、太政官の大官の座についた者はほとんどは幕末の志士あがりであったが、それですら江藤新平のような例はない。かれらはそれぞれ藩の中でしかるべき職務歴を経験しており、人の世の錯綜のなかで人のむずかしさを体験してきたが、江藤はそうではなかった。

 しかも江藤の志士活動は、脱走し京都に滞在わずかな日数でしかなかった。ざっとひと月であった。これだけの日数が、のちの参議江藤新平の生涯における唯一の志士活動であったのだ。
 同じ佐賀藩出身の大隈重信は江藤の性格を次のように評した。

 「江藤には非常の才略がある。とくに非常の雄弁をもち、非常の討論家であった」

 「しかし江藤は群集心理というもののを知らなかった。ひょっとすると物事の筋の正しさを追うあまり、人間というものの何たるかを見忘れるところがあったかもしれない」

 江藤はあまりにも自分に自信を持ちすぎていて、自らの無用の論争癖、衒学癖から、買わなくてもいい恨みを買うことが多かった。 江藤は後から来た。しかし権力を欲した。ただそれを必ずつかんでみせると思いは権力の全てを求めたわけじゃない。一部でいいと考える。「その一部というのは、法律であった。この場合、法制というべきか。いまからできあがる新国家の制度と法律をこに江藤新平の一手でつくりあげたい、とこの男ははげしくおもっている」そして司法卿となった。
 そこに征韓論が起こる。これは江藤にとってみれば、薩長分裂させ、彼の持論である薩長両閥を打倒して彼のいう第二維新をまねきよせることができると考えるようになる。「江藤の心象のなかでの征韓論はすでに敵は朝鮮ではなく、その本音である藩閥退治のほうにいよいよかたむきつつ」あったのであった。これが江藤新平が征韓論を支持した理由であった。
 歴史は征韓論を唱えた参議が下野させる。特に西郷隆盛の鹿児島帰還は、その人望、軍を掌握している力は新政府のとって大きな不安となる。江藤はそれを利用しようとする。しかも維新では佐賀は乗り遅れたが、今度は佐賀が率先して、第二維新を起こそうと考えるようになる。
 一方残った大久保利通は江藤という男が「自分と酷似した体質であるために大久保はその胚のうちを腑分け図を見るように見ることができた」。つまり江藤は「日本を危険きわまりない賭けに投ずることによって、薩長政権をつきくずそうとしている」と見抜いていた。「この男だけは、奸人である」と考えていた。大久保にとって江藤は征韓論から日本を追いこむことによって自らの政権を崩壊させ、そのあとの果実を得ようとしているとしか思えなかったのである。だから大久保は江藤を憎悪という感情ぬきにしては見られなくなっていたのであった。
 大久保の江藤に対する憎悪は江藤が捕らえられ、その刑の重さ、梟首(さらし首)という刑の言い渡しに表れている。ここで断固とした姿勢を示さなければ、新政府は崩壊するのであった。そういう意味で江藤の蜂起は、新政府にとって自らの政権強化にはもってこいであっただろうし、いいように利用した。江藤より大久保の方が何枚も上であった。
 
 こうして江藤新平の生涯を知ってみると、確かに薩摩や長州の後塵を拝したとはいえ、わずか数年で新政府軍の参議まで上りつめたのだから“きれ者”であったろう。しかしその野望はあまりにも自分勝手であり、大隈重信が言うように、「人間というものの何たるかを見忘れるところがあった」ように思える。はっきり言って江藤は無謀であった。深く物事を考えるタイプではなく、ただ自分に酔いしれるだけであったのではないかと思うようになった。
 私はこの本を読み終える頃になって、どうして司馬さんが江藤新平を描いたのだろうと疑問に思うようになった。私には江藤新平という人物は司馬さんが好む漢(おとこ)にはどうしても思えなかったのである。だから読んでいて不思議になって仕方がなかった。


評価
★★★


書誌
書名:歳月
著者:司馬 遼太郎
ISBN:9784061310391
出版社:講談社 (1983/03 出版)講談社文庫
版型:729p / 15cm / 文庫判
販売価:979円(税込)

2010年06月15日

紀田順一郎著『私の神保町』

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 この本は一度読んだことがあり、それを処分してしまった。まぁ処分してしまったのだから、大した本じゃなかったのかもしれないが、なんか気になっていた。それでたまたま神田の古本屋さんで安く手に入れたので、再度読んでみた。

 私が初めて神保町に行ったのは多分高校一年の頃じゃないかと思う。まだ三省堂が古めかしい建物であったはずで、中も薄暗く、棚も木の棚だったような気がする。本につけてくれるブックカバーがいくつかの大学の校章が印刷されたものであったはずだ。こづかいの千円も出せば、文庫本が4冊ほど買えた時代だった。三省堂が改築されたのが、この本によると、昭和56年だという。それまでの建物は消防署から要注意の建物とされていたらしい。詳しいことはわからないが、もしかしたら消防法に引っかかるほど、火災にあうと危ない建物になっていたんだろう。
 とにかく月一回こづかいをもらう度にここに来れるという楽しみがあって、それから何度もこの町に足を運んだ。大書店で本が買えることがうれしかった。ただその頃は古本ではなかった。
 私が古本に目ざめたのは大学時代になってからで、欲しい本がもう新刊書店に手に入らなくなってから、古本を探し始めたことによる。以来大学も近所にあったこともあり、一時は働いていた店も大手町であったことから、仕入の帰りや、昼休み、あるいは帰りにここに寄って、目的の本を探していた。

 神保町という名前の由来は、江戸時代この地域に屋敷を構えていた神保伯耆守(九百石)に因む。麹町や神田一帯に住んでいた旗本は幕府から厩舎や道場用の土地まで与えられ、極めて裕福だった。特に神保氏は恵まれていたらしい。明治になってから、この地域は大規模な市区改正が施され、表神保町、裏神保町の二つの町が誕生した。最初の古書店(高山書店)が誕生したのは三年後で、創業者は有馬藩の弓師だった。ついで有史閣(のちの有斐閣)、三省堂などが開店した。それは以前『東西書肆街考』で書いた通りだ。
 昭和になって空襲を免れた噂がここに詳しく書かれているので紹介したい。セルゲイ・エリセーエフ(1889~1975)のロシア生まれの日本研究家がマッカーサーに「爆撃回避」の進言を行ったため、この地域は空襲を免れたというのだ。
 セルゲイ・エリセーエフは1908年(明治41年)から6年間、東京帝国大学国文科で学び、夏目漱石や小宮豊隆と親交を結び、後年ハーバード大学で日本語のほか日本の歴史と文学を講じ、E・ライシャワーほか知日派のアメリカ人を多数養成した。神保町にも頻繁に通ったことで知られるそうだ。
 もちろんこれは噂であって、紀田さんも、あの空襲の際神保町だけピンポイントで爆撃を回避出来るかという疑問を呈している。だからこれは伝説扱いとなっていると書いている。

 さてこの本を読んでいて面白いと思ったのは古本の陳腐化である。古本屋の在庫が陳腐になるのは、結局新刊の陳腐化に左右されるというのだ。確かに言われてみればそうだよなと思う。新刊全般が内容が陳腐になれば、それが古本となっても古本として付加価値がない。つまらない作家の本が大量に出版されれば、たとえそれが古本屋さんに回っても、それはいつまでもつまらない本であって、店の棚に並ぶより、均一ワゴンに並ぶしかないだろう。年間二万数千点、冊数にして十億四千万冊という本の洪水である。本が消耗品化しても当然である。勢い雑本ばかりになり、店内にはアダルトものや、サブカルチャーものばかりになっていく。実際そうした本や雑誌専門店が最近神保町で多くなってきている。正統派の古本屋の在庫として置ける本がないのだろう、と思う。
 
 話はちょっと違うのだけれど、私の住む近くに三軒ほどブックオフがある。最近気がついたのだけれど、これらの店では単行本のコーナーが縮小されている。一方コミックや雑誌、あるいはDVDやCDコーナーが広がりつつあるのだ。これはどういうことなんだろうか。多分単行本がここに回ってこない。回ってきても同じ本ばかりだから、わざわざ広い場所を確保するより、回転の速いコミックや雑誌、あるいはDVDやCDなどのコーナーを広げた方が効率がいい。
 つまり新刊書籍が売れていない。あってもどうでもいい本ばかりだから、棚構成が出来ないのではないかと思っている。出版不況がついにここにも及んできたのではないかと思っている。これと同様に神田の古本屋さんにおいても、古本として付加価値のある本が出てこない。いくら出版される冊数や点数が多くても、それがゴミと同様な価値しかないものばかりだと、古本屋さんも大変だろうなと思う。そして古本的価値のある本はそれが出回った頃、図書館などに納まる所に納まちゃったから、そこから先の本の移動が望めない。ブックオフでさえ、単行本の棚の縮小が行われているのである。だったら正統派の古本屋さんの仕入の大変さはある程度予想が出来る。

 これから書くことは勝手に思っていることで、根拠はない。ただそんな予感がするという話である。こうも出版不況が続くと、新刊が売れない。ということはそれが古本に回ることが少なくなる。そして本の出版点数がそれほど変わらなくても、雑本や消耗品的要素の強い本ばかり出版されていれば、古本の質が落ちる一方であろう。
 本自体の価値が短期的に陳腐化する。古書らしい古書が払底して、白っぽい本ばかりになってしまう。となればこの手のリサイクルショップはますます厳しくなるのではないかと思うのである。
 iPadが話題を呼ぶが、だからといってそうそう日本の出版物がコンテンツとして普及しないだろうとは思っているが、ただ一端堰が切れたら、どーっと進んでしまう可能性がある。そうなったとき、本というメディアはなくなりはしないだろうけど、その影響は古本業界を含め、間違いなく日本の出版業界を大きく変えることになるだろう。
 iPadというメディアはかなり興味はあるけれど、一方で本というメディアを愛してやまないだけに、それが少数派になっていく可能性があることを想像すると、一抹の寂しさを感じてしまう。


評価
★★★


書誌
書名:私の神保町
著者:紀田 順一郎
ISBN:9784794966261
出版社:晶文社 (2004/10/10 出版)
版型:257p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年06月13日

森まゆみ著『旅暮らし』

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 また森さんのエッセイに戻る。『暮らし』シリーズの最後である。先の松浦弥太郎さんのエッセイと比べて、森さんのエッセイの方が日々の暮らしが伝わってきて好感が持てる。やはり女性ならではの現実感が感じられ、理想や希望や夢を語るのはやっぱり男の方なんだなと思わせる。
 ここでは森さんが三人の子供から手が離れつつあるものだから、今まで子育て、地域の雑誌編集などで家から離れなれなかった分、旅に出る。
 子育てがあると当然家に縛られる。やりたいことなどそうそう自由に出来ないものだ。旅を長い間家を空けている訳にもいかないだろう。やっぱり生活が第一優先だからだ。でも親としての義務を果たし、自由になった分、それまで自分がしたかったことをやり始めているというのが感じられ、こういうのっていいな、と思う。
 でも自由に行動できるからといって、それまでしてきた子育て、『谷根千』の編集、発行から得たことからは離れられないようである。どうしても人とのつながり、そのあり方、長いこと残ってきた建物、景観の保存にどうしても目が向かってしまうようだ。まぁ当然であろう。そこに関わってきた時間の方が長かったのだから。だから旅先であった人々との関わりのその延長で物事を考えていくし、そもそもここで森さんが旅に出かけるきっかけがそれなんだから当然ある。
 そして森さんが考える町と人との関わり方が、私も興味がある。

 十八年、町の暮らしを見つづけてきた私も深くうなずいた。物があふれても幸せとはいいがたい。豊かになることのよって、人びとはむしろ孤立化し、助けあいや共食、家族でのもてなし、たのしい路上生活を失ってしまった。

 と書く森さんの文章は、今まで進んできた経済大国として日本が、もしかしたらとんでもない方向に日本人を導いてきたんじゃないかと思わせる。経済効率主義は、非効率で煩わしい人間関係を破壊するにはもってこいの理由だったのではないかと思うのである。物を多く持つことは、物に気持ちを奪われることであって、自分でその物を作ろうという意識を失わせる。創造力を喪失させる。すべてお金で買った方が時間も手間もかからないからだ。それらを身の回りに集め、幸せ、豊かを謳歌してきたのである。それを「ちょっと待って」と振り返らせないほど時間に追われてしまっていたから、顧みることさえなかった。
 一方的な幸福感や豊かさは、それまであった人間関係を破壊し、残ってきた町並み、建物を壊してまで追求していってしまった。厄介なことにそうした人間関係や建物を壊すのは簡単だけれど、それを築き上げるのにはものすごい時間がかかっている。だから今私たちは壊してしまったものの価値に呆然とし、それを回復するのにはさらに長い時間を要することに、半ば諦めを感じてしまっているのではないかと思われる。
 先に書いたとおり、経済が右肩あがり上がっていて、いつまでも成長できるならそれでもいいかもしれない。そんなこと振り返っていられないほど時間がなかった分、ある意味後悔しないということで幸せだったのではないか。
 そして面白いのは、こういう不景気の時代になって、それまで自分たちがしてきたことを後悔し、間違っていたんだ思う人たちもいれば、何とかこうした不景気からの脱出にもがき、さらに効率や採算を求めていく人たちもいる。
 森さんたちが残したいという景観や暮らしに思いをはせる人たちもいれば、そうした人たちの気持ちを無視して、平気で高層マンションを建てる大手ディベロッパーがいるのもそういうことによる。
 人間はというか特に日本人は一度物欲の魅力にとりつかれてしまうと、いつまでもそれにとりつかれてしまう。なくてもかまわないじゃんと思わない。ないことに不安を感じるのである。それは収入が大幅に減っても、物欲だけは衰えないものだから、今度は1円でも安いものに走ることとなる。そうして安値競争が始まり、売る側はコストを下げるために、人件費の高い日本での生産を諦め、中国で生産し、日本の経済の空洞化を招く。
 私は今の日本の閉塞感は、経済の発展が望めないことだけではなく、物欲に支配されている人たちがその欲求を満たせないことの不満から来るものだと考えている。自分の気持ちを少しでも物を持つことで幸せなれるという気持ちから解放できれば、かなり豊かになれるのではないか。余裕が出来るんじゃないかと思う。物を持つことからの開放は、大手ディベロッパーが建てるマンションだって売れなくなってしまうだろうから、そう無闇にマンションなど建てられなくなるはずだ。コストを下げることで質の悪い物を平気で売ることもなくなるだろうし、平気で鉄筋を抜いてしまうことだってなくなるはずだ。質の充実が人の気持ちを豊かにすることを重視すれば、人は豊かになれるのではないかと思う。質を求めれば当然お金はかかる。それを求めることが出来る人はそれを求めればいいし、そう夢が叶わないなら、今あるものを大切に使えばいい。どっちが価値があるかは関係ない。どっちも価値がある。どっちが豊かで幸せかという問題でもない。
 資本主義は一方の人たちを豊かにするけれど、もう片方にいる人は虐げられる。搾り取られる。一方を豊かにするために、片方では環境などを破壊してしまう。物理的生活向上を求めれば求めるほど、一方で不幸になる人がいる。“ほどほど”ということで立ち止まれないほど厄介な社会システムなんだなと思うが、かといってそれに代わるシステムを持ち合わせない我々はどうすればいいんだろうか?
 
 森さんの町に対する思いから大それた話になってしまったけれど、森さんがまちを「街」と書かず「町」とこだわる気持ちは、失ってしまったものへの回帰によるものだろうと思われるし、それが「ほどほど」で寸止めされた社会だった。そんな気がしてしまうのである。そして「思いやり」は煩わしい面がある反面、居心地がいいものであり、それが森さんの言う「町」なんだなと思ったのである。それが暮らしなんだなと思ったのである。


評価
★★


書誌
書名:旅暮らし
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087464177
出版社:集英社 (2009/03/25 出版)集英社文庫
版型:264p / 15cm / A6判
販売価:539円(税込)

2010年06月11日

松浦弥太郎著『最低で最高の本屋』

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 この本は今までの本と違い、松浦さんがたどってきた道を自ら振り返り、アメリカにあるだろうと思った自由や開放感の先には自分勝手な生活しかなかったと松浦さんは悟ったことが書かれている。しかし「自由であることを実感するには、正しい生活をしなければダメだな」と思い、「社会との関わりのなかでの自由」でなければならないと考えるようになる。
 日本に帰ってきて、自分がやってきた古本屋が人に喜ばれることを肌で感じ、それが大きな喜びとなった。だったらもう少し頑張って続けてみようと思うし、もっと社会に役立つことをやりたいと考えるようになっていったと書いている。そこで社会に関わりにない仕事をしても意味がないと思い、どうすれば個人として、今の社会に正しい影響力を持てるようになれるか、を考えるようになる。それが松浦さんの言う「社会との関わりのなかでの自由」の追求であった。
 自由という言葉は好き勝手、思うままという感覚が伴う。確かにそうなのだが、その自由であるということの背後には、自らの生活はきちんとしていなければならないし、社会の責任を負っての自由でなければ、人は耳を貸してくれないはずだ。いい加減なことをやっていて、自由ばかりを主張していれば、それは単にわがままで自分勝手でしかない。
 私から言わせればそんなの当たり前じゃん、と思うのだけれど、でもその真っ当な考えに至るまで、松浦さんの考えを果たしてこの本を読む若い人どこまでわかっているだろうかと思う。どこまで松浦さんの「思考遍歴」を理解できるだろうかと思う。自由という言葉だけが一人歩きしてしまわないだろうか、と危惧するのである。
 私は松浦さんが考える自由の意味は極めて真っ当だと思っているが、ただそれをもっと強く言うべきだったと思う。その点はあまりにもやんわりと言っている分、もしかしたら義務や責任を果たさず、有りもしない自分の能力を過信してしまうやつが、そうだ!そうだ!と言いかねないじゃないかと感じてしまった。それぐらい松浦さんの本は“自由の押し売り”傾向が強いのだ。
 松浦さん個人は自由が持つ意味をちゃんと把握していても、読む側が自由という言葉だけを一人歩きさせかねないような、書き方に少々疑問を持ってしまうのである。感性の自由と行動の自由とはまったく別もんだ。それをはっきり書いて欲しかった。わかっている人だけに余計にそう思うのである。
 段々松浦さんの本に関して、私の感想がぶれていくのがよく分かる。最初はさわやかでいいじゃないか、と思い、次に若い頃に読めばワクワクしたかもしれないと書いたが、今はこういう書き方は如何なものかと思うのである。下手をすれば松浦さんのやって来たことの表面だけを捕らえて、こういう風に自由にやってきた人がいるんだと勘違いさせてしまう。いいなと思わせる。これはまずいだろう。
 夢や希望を持たせるのは結構だけれど、それを実現するためには途方もない苦労を伴う。苦しまなければならないことを、ちゃんと書いて欲しかった。そんな甘いものじゃないだろうし、誰でも人にはない才能や能力があると思わせるような書き方は、ある意味無責任だ。
 人はそうした夢や希望を少しずつ削っていき、残りをなくしていく。あるいは形を変えていく。それでも歯を食いしばって生きている人がたくさんいる。不器用に生きている人がたくさんいる。私は自由を鼓舞する人に感化され、そういう人を小馬鹿にしかねない風潮が嫌なのである。決していい人を気取るつもりはないが、下手をすればこの本はそういう意味で、間違った方向に導かないとも思うのだ。


評価
★★


書誌
書名:最低で最高の本屋
著者:松浦 弥太郎
ISBN:9784087464917
出版社:集英社 (2009/10/25 出版)集英社文庫
版型:267p / 15cm / A6判
販売価:559円(税込)

2010年06月09日

松浦弥太郎著『くちぶえサンドイッチ』

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 続いて松浦さんの本を読む。松浦さんは本業という決まり切ったことにこだわらず、自分の好きなことをやることで幸せを感じてきた人だから、それだけでも異質といえば異質だ。この人いったい何をしたいんだろうと思ってしまう。
 私は長いことどこかに所属することで安心感を得てきた人間だから、この自由さに危なさを感じてしまうのである。けれどこの人にとってはこれでいいんだろう。この本の解説で角田光代さんは松浦さんを称して「現代版JJ」と言っているが、なるほど植草甚一か、と思えば納得いく。 この本の副題が松浦弥太郎随筆集となっているが、前回の本と比べ心情的描写が多くなっている。だから随筆というより、どちらかといえば詩的感じのする文章が多い。
 こういうのが苦手である。どう書いていいのかわからないのである。確かに自由に行動し、詩的にそれらをつづる文章は魅力的だけれども、今の私はこれを素直に受けいれられないのである。どこか“青臭い”と感じてしまうのだ。こういう生き方もありますよ。こういう風に感じられますよ、といった文章を読むと私の心には「けっ!」といったものが出てきてしまうのだ。世の中あなたのような生き方が誰でも出来るわけじゃないと思ってしまうのだ。
 結局私が世の中をすねて生きて来たから、そう思ってしまうのだろう。だからもし私が若いとき、まだ世の中の酸いも甘いも知らない、夢や希望などたくさん持っていた頃にこの本を読めば、もしかしたらワクワクして読んだかもしれないなと思ったのである。きっとそうだと思う。だから決してこの本は悪い本じゃないとは思う。
 松浦さんは1965年年生まれだから、現在44歳なのかな?とにかく40過ぎのおっさんがこれだけ若々しく、みずみずしい感性を未だ持っているだけでも、驚いてしまう。私ならもし自分がこんな感性を未だ持っていたら、きっとそれをどう扱っていいのかいつも悩んでいなければならないような気がする。もし自分がこんなことを書いちゃったら(書けやしないが)、恥ずかしくて仕方がない。
 しかし松浦さんはそういう自分の感性と、現実とうまく折り合いをつけていけるから、こういう文章が書けるのだろう。多分そういうことだ。私は松浦さんの文章を読みながらそんなことを感じた。でもそれを考えるとすごいことだと思う。そうでないと雑誌の編集者なんて出来やしない。でないと、「それがルールがないルール、優雅なわがまま、というのを日常生活にちょっと取り入れてみる。それが現代社会においてとびきり爽快だということなのだ」なんて言えやしない。
 普通ならこの手の文章は投げ出してしまうのだけれど、松浦さんの場合自己主張が控え目であることが、全ての文章が謙虚だから私でも読めたのだろうと思う。だいたいこの手の文章は自己主張が激しくて、読んでいて“いい加減にしろよ”と言いたくなるのが多いだけに、その点は松浦さんの人徳なのだろうか?
 たださすが二冊ともなると食傷気味であることは事実だ。最初はよかったんだけれどね。まだ一冊残っているので正直なところまいっている。実を言うとこの後読む予定の本を最初に買っちゃったものだから、それを読む前に先に出ているこれらの二冊を読んだ方がいいと思って読んできたのだ。失敗だったかな・・・。

評価
★★


書誌
書名:くちぶえサンドイッチ―松浦弥太郎随筆集
著者:松浦 弥太郎
ISBN:9784087462906
出版社:集英社 (2008/04/25 出版)集英社文庫
版型:331p / 15cm / A6判
販売価:680円(税込)

2010年06月08日

松浦弥太郎著『本業失格』

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 ネットでいろいろ調べていたらこの松浦弥太郎という人を知った。この人は今「暮しの手帖」の編集長をやっているという。これはちょっと驚いた。というのも「暮しの手帖」という雑誌は編集長の花森安治の個人的雑誌といっていい雑誌で、この人のキャラクターで売っていた雑誌だからだ。花森安治の死後もその方針は変わっていないと聞いた。だからまったく花森安治と関係のない人がこの雑誌の編集長をやっているとは思わなかったのである。
 で、その編集長をやっている松浦弥太郎という人はどんな人なんだろうと思いこの文庫を手にした。この人の経歴が面白い。松浦さんは高校を中退して、18歳で一人あこがれのアメリカに渡り、アメリカのオールド雑誌やアートブックに魅了され、96年帰国し「エムアンドカンパニーブックセラーズ」を開業しトラックによる移動書店を始める。02年には自らがセレクトした本屋「カウブックス」を中目黒にオープンさせる。同時に、文筆家として編集、翻訳など多岐に渡り活躍し、06年、「暮しの手帖」編集長に就任。現在に至っている。松浦さんがどうして「暮らしの手帖」の編集長になったのかその経緯が知りたいところだが、それは今のところ私は知らない。
 その松浦さんに興味を持ったので松浦さんの著作で文庫本になっているものを買い求めた。これはその一冊である。その「はじめに」に書かれていることが気に入った。『本業失格』というタイトルについて書かれた文章である。

 まあそんな風に誰でも本業という肩書きはあるけれど、必ずしもそこで輝かなくても、どこか違う世界で自分だけが持って生まれた才能やちからがあって当然。本業が失格であっても、人生が失格ということはありえない。そんな角度を変えた選択肢を自分に受けいれることで、もっと人生がしあわせになるのではないだろうか。
 本業がその人の全てでもない。本業で成功しなくてもいい。本業ではないからこそ面白い。仕事についてはできるかぎり広いまなざしを持って自由でありたい。『本業失格』の意味することはまさに自由であれということだ。

 と書かれている。つまり松浦さんはそうしたポリシーから本屋という本業がありながら、それにとらわれず文筆、編集、翻訳などさまざな仕事をされているわけだ。本業にとらわれることなく、いろいろなことに興味を持つ。自分が感じるまま、自由に生きていく。 一見こう書くと、本業を持たない、あるいは本業をおろそかにする軽そうなやつと思ってしまうが、ここに書かれている文章を読むとそうではない。自由でありながら立つ姿にはしっかりと足をつけて語っているし、その背景には、たしかな読書量や人間関係から得た情報に裏付けされている。だから読んでいてちっとも軽薄感など感じない。それでいて全ての面において自分の思うがまま、しがらみにとらわれない分自由さを感じる。さわやかささえ感じてしまう。これにはちょっと驚いてしまった。こんな人もいるんだと思った。むしろうらやましいとさえ感じた。そんな人が書いたエッセイである。そこには堅苦しい人生論などぶっていないし、淡々と松浦さんの日々がつづられている。

 最近よく思うことがある。時間を割いて本を読んでいるのだから、何でも構わない、とにかく何か知識でも雑学でも得なければ損だ。あるいは何か役立つことをそこから吸収しないと読んだ意味がないといったばかりの、損得勘定で本を読むときがある。もちろんそうしたどん欲さはあってもいいし、もともと実用的な意味で本を読んでいる場合だってあるから、それはそれで否定はしない。
 でも一方でそうした本の読み方ばかりしていると、疲れちゃう。仰々しく、この本は役立ちますよ。いい本ですよ。人生を豊かにしますよ、といった本ばかりだと、本を読むこと自体嫌になってしまう。
 だからときには本を読んだことで、いい気持ちになれたというのもあっていいんじゃないかと思うようになった。読まなくてもいい。見るだけで心が和んだというのだっていい。そう思うのである。おそらく松浦さん主に扱うビジュアル系のアートブックはそういう本ではないかと思う。それはこの文庫で紹介されている本などから察することが出来る。あるいは松浦さんの文章そのもからも感じ取れる。
 いま私は本を読むことに疲れてしまうことが多いので、こうした本がぴったりくるのだ。ときにはこうした気持が安らぐ本も必要なんだと思っている。


評価
★★


書誌
書名:本業失格
著者:松浦 弥太郎
ISBN:9784087461329
出版社:集英社 (2007/02/25 出版)集英社文庫
版型:191p / 15cm / A6判
販売価:439円(税込)

2010年06月07日

森まゆみ著『その日暮らし』

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 森さんの『暮らし』シリーズ?の第二弾を続けて読む。この後もう一冊控えているので、この際まとめて読んでやろう、と思っている。このシリーズは小難しいことをあれこれ言うのではなく、ただ日々の生活を淡々とつづるだけなのだが、それがある意味魅力的だ。女性の目で見た日常を、男らしい筆使いで描くあたりがいいのかもしれない。
 さてこの本を読んでいて面白いなと感じたことを二つほど書く。その一つが「誤植さがしの昼下がり」というエッセイから。何も予定のない日曜の昼下がり、自ら出版している「谷根千」の誤植探しをしているときに思ったことが書かれている。
 森さんは「考えてみれば一冊の本は、一字一字の活字から成り、その膨大な集積である。どこでまちがいが出てもおかしくない。人間であれば、さらに私のような未熟者であっては誤りを逃れるはずがないじゃない」と言い、「書物が完全無欠を要求されるようになったのはいつの頃からか。岩波書店が誤植一つに対して賞金を出すといったことがあるそうだ。その頃からか。けれど、もし誤りのまったくない書物があるとしたら、それはそれでこわいような、物神崇拝を産むようなものだとも思う。そういうこわばりはできるだけ無縁で、もっと人間のイイカゲンさを愛していたいと思うのである」とも書いている。
 確かに不特定多数の人が読むものである。それが不完全なもの(誤植や誤字脱字など)がないに越したことはない。けれどそれがあったとしてもそれを「ああ、間違いね」といったくらいの心の余裕があってもいいような気がする。私も初版本を読んでいたとき、何回か誤植か誤字脱字を見つけたことがある。でもそれを間違いとわかって、自分の中で正しい言い回しにすればいいだけのことだと思っているし、それに目くじらたてる人は世の中にはたくさんいるだろうから、そういう指摘はその人たちに任せておけばいいと思っている。
 ましてこうして拙い文章をブログで公開している自分である。それはもう数え切れないほど誤字脱字、てにをはが抜けている箇所があるに違いないので、そんな指摘などできる資格などない。それを考えちゃったら、もうブログなど私には出来やしない。幸いこのブログは無名に近いのと、読んでくれる人が心が広い方が多いので、何とか成り立っていると思っている。
 あと森さんは自分たちが発行している「谷根千」を配達して店頭に並ぶ夜は、「(内容や記事が)町でふつうに生きている人を傷つけなかったか」あれこれ気になって寝られないという。

そうなんだ。

 掲載している内容や記事が人を傷つけてしまうこともあり得るんだなと思ったのである。このあたりの配慮はホンと大変なんだなと改めて思った。私もたとえ無名なブログで、そんな心配など無用で必要ないかもしれないけど、それでもこの点はちゃんと気をつけないといけないなと思った次第である。

 もう一点は、たぶん森さんがやっておられる「谷根千」の人気を支えているのは、かつてどこでもあった町並みとそこにある“人情”がここに残っているから、それが支持されているのだろう。人を懐かしませるのだろう。その“人情”について書かれている文章が気にかかる。

 路地の調査をしたとき、“人情”とは非歴史的なものではなく、地方から出てきた根なし草同士、助け合い融通しあわなければ生きていけないという、すなわち“まずしさ”こそ根底にあると学んだ。いきが意地と媚態とあきらめのブレンドならば、人情は貧しさと孤独とええかっこしい(あるいは他人の境遇への察し)で成り立っている。
 貧しいからこそ、狭い路地においしい煮物や揚げ物の匂いをふりまけば他人にも分けざるを得なかった。故郷から芋や豆がどんと届けば隣り近所にも配った。ベビーシッターや老人介護の家政婦を雇えないから、路地中で面倒を見た。植木の手入れのうまいひとはよその鉢にも水をまき、器用な人はよその家の縫物もし、棚を吊った。

 少し前まで私たちは人に厄介になり、迷惑をかけることをおそれなかった。そうしなければ生きていけなかった。

 ところがそうした人様の手を煩わすことをお金で換算することをやり始めた。お金を払って人様の助けを求めるようになった。逆に言えばそれだけみんながリッチになったということかもしれない。あるいはつい最近まであった誰でも自分は「中流」という意識が持てるようになったから、お金を払って、そうした人様の手を借りることにしたのである。お金を払って人様の手を借りれば、それはビジネスとなるわけだから、ある意味煩わしい関係や引け目など持たなくて済む分、楽といえば楽である。
 ところが経済が右肩上がりである時はそれが成り立つけれど、不景気になって、中流階級が没落し始めると、それが出来なくなる。これが今私たちが抱えている問題なのだ。助けが欲しいのだけれど、一度お金に換えてしまった助けを、無償に戻すことがなかなか出来なくなっている。だから昔あった人との関係、ご近所関係を懐かしむのだ。本来そうした関係はお金で換算してはいけないものだったのだ。ビジネスにしてはいけないものだったのだ、と気がついたのはいいけれど、もう遅い。多分今は後悔と回帰に人々は悩み苦しんでいるような気がする。
 今建物や公共施設のバリアフリーがやたら叫ばれているけれど、それだって考えてみれば、昔だってお年寄りはいたし、身体の不自由な人もいたはずなのに、何故今だけそう声を上げて叫ばれるのだろうか。もちろん急速な高齢化が大きな要素なのだろう。
 それが出来るならそうすればいいけれど、そうしなくても困っている人を助ける気持が誰でも持てる社会であれば、かなり問題は解決できるような気がする。少なくともちょっと前まではそうだったはずだ。森さんは「大切なことは施設の形式的なバリアフリー化などではなく、こうした“心の隔てのなさ”なのだろう」と言っているが、“人情”とは無償の人の“心の隔てのなさ”で成り立っていたと思い知るのである。


評価
★★


書誌
書名:その日暮らし
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087462913
出版社:集英社 (2008/04/25 出版)集英社文庫
版型:243p / 15cm / A6判
販売価:499円 (税込)

2010年06月05日

森まゆみ著『寺暮らし』

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 また森さんのエッセイを読む。この本は森さん親子が本郷の駒込町にあるお寺の境内にあるマンションの一階に引っ越すところから始まる。マンションといっても内装は純和風で、境内にあるため、まわりは木々が茂り、静かな所みたいだ。ここで森さんは娘と息子二人の四人で暮らすのである。旦那さんとは離婚している。だからここでは“夫であった人”という表現で出てくる。私はこの言い方がちょっと気になってしまった。別に言い方に文句をつけるつもりではなく、“夫であった人”といって、別れた夫のこと言える森さんをその人はどう思うのだろうか、と思ったのである。すでに過去形でしかない自分を知ったとき、一抹の寂しさみたいなものはないんだろうかと思ったのである。もっともこれは男の側に言い分であって、「だから」と言われたら、次の言葉など出てこないのだけれど。それに女手一つで子供三人を育てるのは大変であろうから、それどころではないだろう。
 ただこの本は生活の厳しさといった匂いは省かれている。それは森さんの文章が生活していくその中で起こること、人との関わり、自然の移ろいなどに重点が置かれているからだろう。子供たちも子供らしく育っていくし、それを見守る母親として森さんがそこにはあり、そんな日常をさりげなく描写している。
 町がそうさせているのかどうかわからないが、人との関係がやさしいのがうらやましい。ものすごく自然なのである。人の生き様、死に様が、何というのかな、とにかく“豊か”なのである。それはお金で生まれたものでなく、本来人が持っていたものの豊かさと言える様な気がする。お金で生まれた豊かさじゃないから、ある意味“きれい”なのである。
 そういう人たちと交流を持っているものだから、森さんも都会の生活の中で人とのしがらみから生まれる、見苦しい部分を、ふと考える部分がいい。
 たとえばお寺で行われる葬式で、それを眺めて、「生きている、というのはそれだけでも大変なことだろう」と思う。生きていくだけで小さなもめごとを身体に溜め込み、それが怨念みたいになって行く。逆に自らが他人様の心に小さな怨念を積み上げていることだってあるだろうと思うのである。そして葬式は、一生かかってすこしずつ、そして山のように積もった怨念を洗い流していくように思うのである。
 あるいは「人生の片付けかたについて」では、ある人がいろいろなものを残して亡くなられ、残された人がそれを片づけるのに苦労されている光景を森さんは見る。その時「物を残して死ぬのはハタ迷惑」だと思うのである。これとは対照的に八十を過ぎた頃から身の回りを整理し、「もうじきこの世からいなくなりますから」と言って、身の回りの物を必要とする人にあげてしまう人。
 あるいは妻に先立たれ、妻の文集を作ったり、後片付けして、ある日すっとこの世から消える人もいる。森さんはそうした潔い死に方を目にして、「死ぬ前に片づけることは大切だと思う」のである。
 こういう死に方はいいな、と思う。人は生きていれば様々な物を溜め込んでしまう。所有者が生きているときは、それらは存在価値があるだろうが、その所有者がいなくなれば、それは邪魔者になる可能性がある。
 人はいずれ間違いなく死ぬ。だったら人生の整理もどこかでしないといけないな、とこれを読んでそう思った。さしあたって、私の場合は、この本だな。きっといつか処分しないといけなくなるだろう。


評価
★★


書誌
書名:寺暮らし
著者:森 まゆみ
ISBN:9784087460551
出版社:集英社 (2006/06/30 出版)集英社文庫
版型:251p / 15cm / A6判
販売価:579円(税込)

2010年06月03日

脇村義太郎著『東西書肆街考』

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 この本は書名にもあるように、日本の東西の書肆街の歴史について書かれた本である。西は京都であり、東は神田である。従ってこの本は最初に「京都書肆街考」があり、その後「神田書肆街百年」と続いている。個人的に京都の方には興味がわかないので、ここでは「神田書肆街百年」について書かれたところから、細々書き込んでいきたい。今回は感想より、この本から知り得たことを咀嚼して書き残したいのである。

1.江戸時代全体を通じて狭義の神田の特徴
初期はいくらか寺院はあったが、徳川中期以降、寺院は神田から他に移され一寺も残らなくなった。従って墓地もなかった。更に町屋もなかったので、書籍の出版・販売を取り扱う本屋も一軒も見られなかった。何故なら神田は侍屋敷、少数の譜代大名、旗本屋敷の用地で占められて商業用地ではなかったからである。
 江戸では、書籍出版や販売業は京橋から日本橋、さらに伝馬町方面にかけて集まっていた。

2.明治になって、江戸の大部分を占めていた大名屋敷、侍屋敷の多くは新政府の手に移された。それを新政府は京都から移ってきた公卿や薩長土肥の有力者の住居として提供した。
 しかし神田のうち、錦町、神保町、猿楽町あたりは居住地として利用されず、空き家、空き地がかなり残っていた。こうした空き地、空き家を利用して、学校又は塾を新設しようという動きが現れてきた。
 神田においてはじめ本屋は淡路町、小川町に出現したが、学校が出来てくると、明治10年頃から学校街に続き表神保町の通りに教科書、参考書、新古本売買を目的とした本屋がぼつぼつと出てきて、中心がこちらに移る。

3.神田書肆街の草分け
 江草斧太郎が一ツ橋通りに開いた古本屋、有史閣がある。後に有斐閣と改める。

4.明治10年代の小川町、神保町
 当時の社会情勢は、条約改正、国会開設、憲法発布など、法整備が急がれ、私立の法律学校がまだ空き地が残るこの地域に作られた。本屋は中西屋、東洋館、三省堂、冨山房が現れる。

 中西屋は丸善の創立者早矢仕有的が開いた店である。ここが学生が多く集まるので、丸善で売れ残った本や汚損本、古本を売れば当たると考え中西屋を開いた。何故丸善でなく中西屋なのかというと、古本を売るため、丸善の名前を出せなかったからだという。
 更に早矢仕は中西屋の隣りに文房具店を開き、これを親戚にやらせた。これが今でもすずらん通りある文房具・洋画材料商文房堂の発祥である。

 東洋館は小野梓が開いた。小野は大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の事実上の中心者である。
 小野の死後東洋館の事業継続が不可能になり、清算が始まった。が、なくすのは惜しいということで、東洋館の仕事を手伝っていた坂本嘉治馬がそれを引き継ぎ、新たに出版業を始めた。これが冨山房で、明治19年のことである。ちなみに小野の元に集まった一人に天野為之は明治30年代に東洋経済新報社の社長となっている。
 明治10年代に神田に出現した本屋を見ると、元士族であった人々の創業者が目立つ。たとえば有斐閣の創始者江草は忍藩の下級武士であったし、三省堂の創業者亀井忠一は旗本であったし、東洋館小野は土佐宿毛の士族出身であった。
 
 閑話休題
 この後出てくる東京堂にしてもそうなのだけれど、中西屋、東洋館、三省堂、冨山房のある場所は、今の多くの古本屋がある靖国通り沿いではない。この本の地図を見てみると、これらの店は今のすずらん通りある。ということはこの当時神田書肆街のメイン通りはここになるようである。いろいろ調べてみてそう思ったのだが、ネットで「“古書店街の生き字引”八木福次郎さんに訊く」(http://go-jimbou.info/hon/special/071020_01.html)を見て、どうやらそれで間違いがないと確信した。そこには「すずらん通りがメインストリートだった」と書いてあるのである。今では靖国通りの裏通りみたいになっているけれど、当時はこの通りが本屋さんが並んでいたことになる。そして市電の開通による靖国通りの道路拡張や大正2年の神田大火などで町が大きく変貌し、お店が移ってきたことで今の古書店街の原型ができ上がったらしい。
 私は東京堂や冨山房(今はお店がなくなって、ドラッグストアになっている)という大書店がどうしてこんな裏通りにあるのか不思議に思っていたが、そういうことだったのである。昔はこの通りがメイン通りだったから、そのまますずらん通りにお店が残っていたのである。

5.明治20年代に出版・販売に大変革をもたらせた重要人物大橋佐平の存在が重要。
 大橋佐平は越後(新潟県)長岡の生まれで、博文館の創業者である。この博文館は富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊する。なかでも明治28年創刊の雑誌『太陽』は、政治・経済・文芸から家庭までさまざまな記事を網羅した総合雑誌として明治後半期の興隆期資本主義の精神を象徴している。博文館は取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、日本最大の出版社として隆盛を誇った。特に新しく発展しつつある神田の書肆街に注目し、明治24年に取次部門として東京堂を発足させたことは重要である。
 要するに、明治時代の博文館が、完全に東京の出版界、そして日本の出版界を独占し、その分身として東京堂が生まれた。東京堂は取次として出版物、特に雑誌の流通を押さえた。出版で成功した博文館はその収益で印刷所を持つ。この東京堂が今の東京堂書店およびトーハンの前身で、印刷所は後に共同印刷となるのである。
 ちなみに博文館の雑誌の成功は、この時代雑誌出版の勃興期を演出する。そん中、野間清治という東大法科大学の一事務員が大学弁論部の学生を擁して大日本雄弁会という名の出版社を起こす。これが今日の講談社である。

6.神保町には東京堂より前に取次屋として上田屋が開業していた。これは明治20年越後出身の長井庄吉が開いたものだが、昭和になり戦中、整備統合で日本出版配給(日配)として会社を提供することとなる。これが母体となって戦後取次業の独占体制の解体により日販が生まれるのである。
 ちなみにこの上田屋に明治25年頃から越後から出てきた若い小酒井五一郎が店員としていた。彼は明治40年独立し、英語研究社を始める。これが今辞書で有名な研究社となる。

7.東京のブックマン(出版社、取次店、新本・古本屋)に越後出身者が多いのには理由がある。特に東京堂の多くの従業員から取次店、小売店、古本屋の優秀な経営者を生んだ。彼らのほとんどが越後長岡やその周辺出身者であった。
 そんな中の一人、酒井宇吉は神保町に一誠堂を持つ。この一誠堂で働いて古本経営を学び、独立し、順次古本屋を開業していった。
 越後出身で出版社の経営者として、実業の日本の増田義一やダイヤモンド社の石山賢吉などがあげられる。それでは何故出版界には長岡を中心とする越後人が多いのか、その土壌を探ると次のようになる。
 幕末長岡藩は河井継之助が中心となって官軍と戦い、敗れた。いわば長岡は維新政府にとって“賊軍”となってしまった。そのため長岡は復興に苦しんだ。こうした立場に置かれた越後の人々は新政府の役人とならず、青雲の志に燃え、東京に出て多くの学界(ことに医学)、言論界、出版界などに自由の新天地を求めたからである。
 ちなみに、戊辰戦争で敗れた長岡藩は減知され、財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態となった。言ってみれば維新政府の“嫌がらせ”にあったのであった。この窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩は長岡藩に米百俵を贈った。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対して虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきった。
 これがあの小泉純一郎の所信表明演説で引用され、有名となった「米百俵の精神」である。

8.神田書肆街は明治25年、大正2年、大正12年(関東大震災)の3度大きな火災に見舞われ、その都度大きなダメージを受け、数多くの蔵書を焼失した。しかしその度毎に町並みを変化させ復興していき、現在の町並みに近い状態に変わっていく。
 大正2年の大火で焦土となった神田で、当時神田女学校の教員をしていた岩波茂雄が神保町の交差点に近い、空いてる店を借りて古本屋を開いた。これが岩波書店のスタートなる。

9.大正期の出版、書籍の取引業務の発展と神田との関係は重要であるが、特に栗田書店と誠文堂の創立がこの時期であった。明治期に東京堂のほか、五大取次があったが、その中の一つ平塚京華堂は破産整理中であった。栗田確也は岩波書店に飛び込み、岩波茂雄から資金を借り入れ、栗田書店を設立する。また小川菊松は明治45年に誠文堂を設立する。(後に新光社を吸収合併し、誠文堂新光社となる)この時期多くの小取次が生まれるが、激しい競争の上、生き残ったのはこの2社であった。

10.大正12年9月1日の関東大震災でも、同日夕刻まで神田書肆街はほとんど焼失することとなるが、古本屋は天幕やバラックで店を再開してたくましい立ち直りをみせる。その復興を手助けたのは、本を焼失した多くの個人が本を求めたことと、官庁や学校が震災で失った書物や資料を補填するため、巨額の予算が組まれ、それが神田書肆街に流れたからであった。

11.昭和になって、東京大空襲があったが、神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるし、神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、とにかく戦火を免れた。戦後神田書肆街は大きく変わる。

①平和が回復すると、空襲、疎開騒ぎで多くの人が書物を失い、文字に飢えた

②言論・出版の自由が回復された

③流通・販売は自由になる

 特に取次業の独占体制の解体の中で、戦中にあった日配から離れた鈴木真一は復員後仲間と取次業を始める。彼は栗田書店時代から岩波の営業部と親しくしていた関係で、岩波書店の書物を分けてもらい、主に社会科学関係の書籍を扱うようになる。これが鈴木書店であった。彼は戦後各大学に出来た生協に着目し、そこに本を納入していく。
 鈴木書店は今はもう倒産してなくなってしまったが、私は書店員時代よくここに岩波やみすず書店、未来社、白水社など硬い本を仕入れに行ったものである。個人的に好きな分野の本がたくさんあって、ここに仕入れに行くのは楽しみであった。鈴木書店が倒産して大学生協が本の仕入が出来なくなり一時困ったと聞いたことがあるが、どこか大手の問屋が引き継いだと聞いた。

 以上がこの本を読んで、“そうなんだ!”と知ったことである。そういう意味で、個人的興味も加わって、この本は面白かった。この本によると神田の書肆街には今は新本、古本を合わせて七百万ないし一千万冊の膨大な量の本がここに集まっているという。書籍の一大コンビナートとしてこの街の魅力はつきない。


評価
★★★


書誌
書名:東西書肆街考
著者:脇村 義太郎
ISBN:9784004200871
出版社:岩波書店 (2006/03 出版)岩波新書
版型:229p / 18cm / 新書判
販売価:819円(税込)

2010年06月01日

久坂部羊著『神の手』〈上〉〈下〉

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 古林章太郎は21歳で肛門がんの末期だった。章太郎は耐えがたい苦痛に苛まれながらも、死ぬに死ねなかった。ほぼ一カ月もその状態に苦しんでいた。付き添っていた伯母古林晶子は担当医師白川泰生に楽にさせてやって欲しいという願う。白川は苦悩の上、章太郎の安楽死に手を下したことから話は始まる。
 もちろん安楽死は今の日本では殺人である。だから当事者だけの秘密であったが、病院に白川が章太郎を安楽死させたという怪文書が届く。病院側も調査委委員会を設置し、結果として安楽死の事実を隠す報告書を出した。しかし章太郎の母親康代は息子が安楽死させられたと、白川を告発する。
 この康代という母親もくせ者で、エッセイシストとしてマスコミに名前の知られた存在であったが、息子の病気に関しては“吾関せず”で、すべて妹の晶子に任せっぱなしであった。章太郎が苦痛で苦しんで、もう安楽死させるしか楽にならない状態であったとき、白川の連絡にも応ぜず、いわば子育てを放棄した母親であった。その康代が章太郎を安楽死させたことを悩んでいた妹から息子が安楽死させられたことを知り、白川の行為を追求し始めたのである。
 刑事事件として告発され、白川の行為は調べられる。最終的に白川はその事実を認め、検察に送られるが、ここで白川は不起訴となる。外から圧力がかけられたのである。
 白川は不起訴となったが、古林康代のマスコミの批判にさらされた。康代は安楽死阻止派として活動していく。
 そんな中、新見偵一は今の日本の医療崩壊を招いたのは既存の勢力である全日本医師会だとして、別に日本医療協会(JAMA)を立ち上げる。JAMAは日本の医療崩壊を嘆き、今の制度や状況に不満をもつ医師たちの集団として、大物政治家を後ろ盾にして、日本の新しい医療秩序を実現、安楽死を適正な医療であると規定し、終末医療の現実的展開を一貫して追及、無駄な延命治療の中止、欺瞞性に依拠する独善的医療の淘汰など、「医療崩壊阻止の五提案」を掲げる。そして医療の崩壊の元凶は、医師、患者の自由という建前がそうさせたと考え、その自由を制限し、医師や医療の一元管理をする“医療庁”の立ち上げに奔走する。
 JAMAは自分たちの活動を広げるため、全日本医師会と康代たちの安楽死阻止派をあらゆる方策を駆使して、潰していく。JAMAは安楽死法制定のため、白川を安楽死のパイオニアとして仕立て、世論操作を始めていくこととなる。新見は「人の命を奪う安楽死は、聖なる神の営為です。すなわち、安楽死を執り行う医師は“神の手”を預託された存在なのです!」と言って、安楽死の容認活動に邁進していく。新見偵一らの活動の影にいたのが“センセイ”であった。
 そしてついに安楽死法が成立する。ただこの安楽死法の成立の背後には、医療を政治の道具に目論む政治家と、さらに安楽死をさせる薬を開発したベンチャー創薬のMRがいたのであった。新見たちの“センセイ”はそのMRであった。

 この本では安楽死しか選択肢がないほど苦しんでいる患者が現実にいて、その患者を診る医師も、介護する家族も、これ以上患者を苦しませないのは安楽死しかないとわかっているのに、それが認められていないことに苦悩する姿が描かれている。
 この本を読むまで私もそう思っていたのだが、安楽死というと、高齢の患者の問題だと思っている人が多いけれど、実はそうでないということを知った。むしろ高齢の患者はそれほど体力がないから、苦しい状況になった場合、放って置いてもそこそこ死ぬ。
 ところが若い患者は体力があるから、がん末期や難病でも、なかなか死ねない。過酷な苦痛が、命を食い尽くすのに時間がかかる。それを早く終わらせてあげること、すなわち安楽死が必要となる、というのだ。これはちょっとショックだった。

 新見たちは医療崩壊阻止と言って立ち上がったのだが、結局いいように使われた一つの“駒”であった。ただその提案の根源となる問題点の指摘は考えさせられる。以下書き出してみると次のようになる。

 医療の進歩の問題。これまでの医療は、ある種、素朴で単純なもだった。たとえば一昔前なら、胃がんはバリウムの検査と胃カメラくらいで手術をしていた。ところが今は、エコーにCTにMRI、腫瘍マーカーに、がんの遺伝子検査までしなくてならなくなった。他にも複雑な検査や治療がずいぶん増えている。そこにインフォームドコンセントという問題がからんできて、患者の説明が煩雑になり、検査の度に同意書にサインを得なければならない。これが現場の負担を極端に増大させた。

 2002年頃から医局制度の崩壊が大学教授が権力を奪い、それまで教授命令で派遣されていた地方の病院に医師が赴任しなくなった。これが地域医療の崩壊の一因となる。

 2004年から導入された新しい臨床研修制度では、研修医が自由に病院を選べるようになったため、大学病院が人手不足になり、一般病院から医師を引き揚げたために、病院が激務化し、医師が退職して、さらに激務化を招くという悪循環を生み出す。

 医師が自由に科を選べるため、産科医や小児科医が不足してもそれを補う手立てがない。

 医師が自由に勤務地を選べるため、医師が都市部に集中する。これが地方医療が破綻させる。

 医師が自由に診療科目を選べるため、ろくに経験もなくても開業できる。

 自由に病院を開業できるため、大都市では高額医療機器を備えた病院が乱立し、収益目当てに無駄な検査が無制限に行われる。(莫大な初期投資回収のため無駄な検査と治療をせざるを得ない)

 保険証さえあれば、どの医療機関でも自由に受診できるため(患者のフリーアクセス)、軽症の者の専門病院受診を容認する。軽症患者が外来に列をなし、医師を疲弊させ、重症患者の治療を滞らせている。一方で開業医による患者の奪い合いがある。

 これらを読むと「自由」って何だろう考えさせられる。みんながみんな、「自由だ!、自由だ!」と叫び始めた結果、こういうことになったわけだ。多分これは医療だけの問題じゃないだろう。自由という言葉は確かに尊重されなければならないし、個人の権利かもしれないが、むやみやたらにそれを主張すれば、収拾がつかなくなる面がある。
 平等にしてもそうだ。今やたら格差の是正を求めているところがあるが、それを追求していけば、それはみんなで貧乏になろうって発想となること間違いない。果たしてそれでいいのかどうか。
 人が集団で生活していくには、個人の権利を一部放棄しないとならないはずだ。どこかで、誰かが規制をしなければ、まとまりがつかなくなる。今人間が持っているシステムはそれを要求して成り立っているはずだ。少なくとも今はそれ以上のシステムが見出せない以上、これは仕方がないことだ。我々はそのことを自覚しなければならないのではないか、と思った。何でも野放しにしてしまうと、言った奴が勝ち、やったものが勝ちとなってしまう。実際あらゆる面でそういうことが現実に見出されるような気がする。だから新見たちが主張する意見を一概に一蹴出来ないような気がして仕方がなかった。
 更にこの本には安楽死を容認するかどうか、それを決定するのは、世間の“空気”だというところがある。ここで言われているのは、「この国を律しているのは、正義でも理念でも経済でもない。ただの“空気”だ」という言葉なのだが、確かにこれは言えてるなと思った。そしていったん“空気”ができ上がると、それにそぐわない意見はすべてシャットアウトされる。古くは戦前の軍国主義から最近の自己責任論やグローバリズムまで、日本を動かしてきたのは、常に社会を覆う“空気”だ、という意見はもっともだと思った。特に日本人はこの傾向が強いような気がする。わずかに日本の歴史をかじっていると、いつもこの“空気”を感じてきただけに、余計にそう感じたのである。そしてそれが高じると、とんでもないことになっていったことを歴史は教えてくれているのだが、いったいどれだけの人が、そのことを自覚しているか。それを考えると、いつまでも進歩できないのが日本人なんだなと思ってしまう。


評価
★★★


書誌
書名:神の手 〈上〉
著者:久坂部 羊
ISBN:9784140055830
出版社:日本放送出版協会 (2010/05 出版)
版型:359p / 20cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

書誌
書名:神の手 〈下〉
著者:久坂部 羊
ISBN:9784140055847
出版社:日本放送出版協会 (2010/05 出版)
版型:351p / 20cm / B6判
販売価:1,890円(税込)