2010年07月28日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈3〉

2010_07_28_01.jpg


 今回の対談の相手は、遠藤周作、丸谷才一、高橋義孝、俵万智、山本夏彦、池田弥三郎、中原誠、常盤新平、河野多惠子、野坂昭如、藤本真澄、吉行淳之介である。
 さすが三冊目となると飽きがくる。あと二冊あるのだが、これは続けて読めないなという感じになっているので、一端これで休憩するつもりだ。
 今回はこれといって面白い話はなかった。対談相手が結構地味な人が多い関係かもしれない。
 強いて面白いなと思ったのは藤本真澄さんとの対談だった。藤本真澄という名前を初めて聞いた。調べてみると、この人東宝映画初代社長さんで、日本映画黄金期の名作を多数手掛けたらしい。
 山口さんが「永遠の処女」と呼ばれる伝説的スター、原節子にしつこく迫る。なにせ藤本さんは東宝映画初代社長で、原節子の出演する映画をプロデュースした人である。当然原節子のことに詳しいに違いないとふんでいるわけだ。そこで今(対談した当時)でも、原節子は処女なのか、あるいは藤本さんが関係していたんじゃないかと勘ぐったりしている。山口さんの世代にとって、原節子が処女であることがかなり重要なポイントなのだろう。当然このあたりは私にはわからない。藤本さんも今頃原節子を知っている読者が少ないですよと言って、話をそらすのだが、山口さんは「いいんですよ。私が許す」としつこい。さすが「永遠の処女」である。なんだかんだと言って山口さんは、原節子に会わせてくれと藤本さんに頼み込む感じが、逆に山口さんの世代にとって、原節子はスターだったんだなと思わせる。
 だいたい女優の処女性を大事に思う当たりに年代を感じちゃう。今じゃ誰しもやっているんだろうと当たり前に思っているから(ちょっと下品だね)、そんなことなど考えもしないが、処女性=清純派が純粋に思われていたし、未だにそう思っているあたりが、かわいいと思えば思える。(歳をとればとるほど脚色されてしまうのかもしれない)

 さて、その原節子を使った監督の小津安二郎が藤本さんに「お互いにな、品行は少々悪くても品性はよくしよう」と言ったという言葉を紹介する。この言葉、山口さんの世代に通用する言葉じゃないかなと思った。確かに山口さんの若い頃の話を聞いていると、品行はよろしくない。少々下品である。が、だからといって人間性において品性が悪いというわけじゃないと思える。そこは自らの品性をおとしめるほどの行動にはなっていない。一本筋がきちんと通っているのが、話の端々で感じることが出来る。
 今よくあるような品行が悪いのは、品性が悪いからそうなっているのとはまったく違う。どこかで一歩踏みとどまっているのがよく分かり、とことん行ってしまうところがない。
 結局若い頃やった無茶な行動が逆にその人の人生訓みたいになっていて、その人が歳をとってヘンクツなオヤジとなって、あれこれ思うのである。山口さんにはそういうところがあって、今はそうしたヘンクツなオヤジが重宝がれ、そういう人に説教されることを望んでいるところがある。
 山口さんのエッセイなどが長いこと愛読されたのも、そうした姿勢を持ったままの人だから、同世代の人には、そうそうと共感を呼び、深く同意しちゃうからだろう。そして若い人には、誰も言ってくれないことを、そういうヘンクツなオヤジに一言言って欲しいという希望があってのことだと思っている。そこがいいのである。そして私もその一人なのである。
 「品行は少々悪くても品性はよくありたい」という言葉は確かにいい言葉だと思う。そして今まで読んできた山口さんの対談にはそういう姿勢がよく分かるのである。
 ただ一つ気になったことがある。山口さんのくだらないダジャレである。こんなことを言う人じゃないと思っていたから、妙にそれが引っかかった。やっぱりホスト役として対談相手を持ち上げなければならないので、こうしたことも言わなければならなかったのかなと思った。とはいえ出来ればやめて欲しかったなあ。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈3〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010157
出版社:論創社 (2009/10/30 出版)
版型:328p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年07月25日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈2〉

2010_07_25_02.jpg


 今回の対談の相手は、常盤新平、大橋巨泉、丸谷才一、瀬戸内晴美、王貞治、高橋義孝、吉行淳之介、杉本清・井崎脩五郎、嵐寛寿郎、野坂昭如、池波正太郎、小西得郎、中根千枝、村島健一、吉行淳之介・色川武大である。
 その中で一番興味深かったのは王貞治さんとの対談である。私は長嶋茂雄も嫌いじゃなかったけれど、長島はどこか“軽そうな”ところが鼻持ちならない時がある。それに比べれば王貞治というプレーヤーはバッティングフォームから、理論で固められた美しいフォームが好きだった。ホームランの軌道がきれいだった。長嶋に比べれば地味だったけれど、その分融通の利かない頑固さがあって、それが王さんの固い意志みたいなものが感じられ、ちゃらちゃらしていない分、好きだった。
 長嶋茂雄という選手はたぶん天才であり、王貞治という選手は努力の人を感じさせ、人格者を感じさせる。天才はなりたくてもなれないけれど、王さんは努力して、「世界の王」となった人と今も感じている。
 その王さんは結構おしゃべりで、バッターとして立ったとき、キャッチャーや審判に話しかけたり、一塁へ出た相手の選手と話したりしているのを山口さんは見ていて、その時何を話しているのか王さんに聞いている。そう言われれば、王さんはバッターボックスに立っているときや、一塁にいるときなど相手の選手によく話しかけていたと、思い出した。山口さんはよく見ている。
 その時何を話しているのか、と山口さんは聞いている。

山口 よくあなた、キャッチャーに話しかけるでしょ。

王 はい。

山口 何言っているんですか、あれ。

王 振った球がボールだったかストライクだったかとか。それから見逃したとき、自分ではストライクなのはわかっているのですけれど、あとどれくらいあるかとか。そういうことを確認したいわけです。キャッチャーに。というのは、審判に聞けませんから。

山口 いや、あなたはアンパイヤに話しかけませんか。

王 あれはですね、キャッチャー抜きで、今のは外したんじゃないかな、とかね、そういうことを聞くんです。

山口 え?

王 自分ではちょっと外れているんじゃないかと思うけどな、ということを。

山口 そういうことをアンパイヤに?

王 はい。僕も案外長くやっていますので、その点図々しくなりまして(笑)

山口 あれね、若いキャッチャーだとすくんじゃうんじゃないかという感じも受けるんです。あれは一つのテクニックじゃないかという感じも受けますけどね。

王 それだけに本当のことを言ってくれるようです。同じくらいの年齢でしたら、自分が実際打った球がボールだったとしても、キャッチャーが「いや、今のは入っていたよ」と言えば、次に同じような球が来たら、バッターは打たなきゃいけないわけですよね。ところが、「今のちょっと外れていたな」なんて言って、「ええ」なんて言われれば、次は、感覚的なちょっとしたものですけど、これは外れている、と見逃せるわけです。

山口 あなたね、一塁にいてですね、ランナーがフォアボールで来てまた話しかけるでしょ。

王 はい。

山口 あれは何言ってるんですか。

王 そうですね。「おい、元気か」とか、「誰々さんに会ったか」とか。長くやっていますと、いろんなつながりも出てきちゃいますしね。「だいぶ調子いいじゃないか」とか、「このごろ元気ないけど、どうしたんだ」とか、そういったことですね。

(略)

山口 だけどね、あなたの場合は何となく、そういう(行儀悪い)感じがしないんだね。

王 確かによく言われます。勝負の世界で、お互いに敵味方でしょう。でも、どうもこればっかりは長年の癖で。申し訳ありません(笑)

 なかなか面白い。若いキャッチャーが王さんに「今の球外れていたよな」と言われれば、世界の王さんである。それはすくんじゃったって不思議じゃない。正直なことを言っちゃうよな、と思う。逆に王さんの同年代のキャッチャーなら、バッターをだますことことも一つのテクニックだろうなと思う。
 我々はスタンドの上に設置されているテレビカメラからしか、野球を見られないから、こういう人間くさいやりとりがグランド内で行われていることを知ると、確かにこういうこともやっているだろうなと思う。一方で「やっぱり!」、と安心しちゃうし、それを聞くだけでクスクス笑いたくなる。心理戦というやつであろう。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈2〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010140
出版社:論創社 (2009/09/30 出版)
版型:333p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年07月22日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈1〉

2010_07_22_01.jpg


 考えてみたら、対談集なんて読むのは久しぶりのことだ。私は開高健さんと司馬遼太郎さんの対談シリーズを持っているが、こうして対談集を読むのは開高さんのものを読んで以来のことじゃないかと思う。
 この山口瞳さんの対談集は全5巻で、最近出版されたものだ。以前から気になっていたので今回このシリーズを読んでみようかと考え、まずは第一巻を手に取ってみた。
 今回山口さんと対談した人は、池波正太郎、沢木耕太郎、司馬遼太郎、長嶋茂雄、吉行淳之介、高橋義孝、大山康晴、土岐雄三、檀ふみ、野坂昭如、野平祐二、丸谷才一、佐治敬三といった面々である。
 対談は当然山口さんがホストとなって、これらの人々と話をする。ゲストとして招かれた人々は山口さんと何らかの関係のある人たちである。作家仲間、あるいは好きな酒、女、野球、将棋、競馬などそれぞれ一流の人たちとの話なので面白い。特にえっ、長嶋と対談したの、と驚いてしまったくらいだ。ここには対談の名人と呼ばれる吉行淳之介さんや司馬遼太郎さんが逆にゲストして呼ばれているのも面白い。解説によると山口瞳さんも対談の名人と称されているらしい。
 特に面白かったのは司馬遼太郎さんと将棋の大山康晴名人と対談だ。司馬さんとの対談は「東京・大阪“われらは異人種”」として東京は山口さん、大阪は司馬さんで、どっちも譲らないところが笑ってしまった。得てして対談はホスト側がゲストに意見に迎合することが多いが、司馬さんとの対話はそういう雰囲気は一切ない。東京のいいところ、悪いところ、あるいは大阪のいいところ、悪いところと双方が指摘しあい、「いやいや、そうじゃないでしょう」といった感じで、お互い歩み寄らないで終わってしまうところが面白かった。もちろん山口さんにしても司馬さんにしてもお互い認め合っている上で言い合いなのであるが、それでもそこにはそれぞれの性格が出ていて、“頑固じじい”さが面白味を醸し出しているように思えた。
 将棋の大山康晴さんとの対談では、勝負師としてあり方出ていて興味深かった。私は一切将棋をやらないので、その奥深さは解さないけれど、勝負師としてスランプ脱出法は“なるほどなあ”と思わせる。

山口 そんなに悪かったですか。ひどいもんですね。その大スランプをどうやって脱出したんです。

大山 あのね、あわてなかったいうのが、よかったと思います。調子が悪いからなんとかして早く勝ってやろうなんて思わないで、いっさいジタバタせず、負けに行ってやれというようなのんびりした気持でしばらくやったのが結果的にはよかったらしい。

大山 どうせ負けたって、負けるときは一緒なんだという気持、こういうと投げやりのようですが、勝とう勝とうとあせるよりは自然のなりゆきで負けたっていいやというつもりで対局にのぞんだわけです。

山口 えいくそ、酒でも飲んでやろうとか、女遊びしてやろうとか、そう思わなかったですか。

大山 ぜんぜん・・・・。自然に木が倒れるように負けるときは自然に負けましたよ。

山口 自然流ですか(笑)くやしいと感じませんでしたか。

大山 感じませんね。好調のとき負けるとくやしいですが、というより、くやしさを感じる時のほうが好調ともいえますね。

 別なところでは将棋に強くなった人の心構えみたいなものを次のように言っているのも、なにも将棋だけ勉強していれば強くなれるものではないらしく、心技体という言い尽くされた言葉がここでも重要な意味を持つことを知らされる。結果として将棋の強い人は心がけが違うということらしい。

大山 (将棋の)強くなった人いうのは、そういう面(生活態度)での気の使い方が少しずつ違っておりますね。先輩のはきものが乱れていたらちょっと揃えるとか、よごれ物がちらかっていたら黙って選択しておくとか、自分がお世話になっているところの庭に雑草が目立ったらむしるとか、そういう小さなことのつみかさねですよ。草をむしること自体は、なにも将棋にプラスすることはないんですよ。大事なのはその気持ちですね。

 多分これは何も将棋に限ったことではないのだろうな、と思う。おそらく今まで一流と言われてきた人々に当てはまったことだったのではないかと思ったりする。そして今言う一流とは単に技量や能力があって、それだけでお金を稼げた人を、半ばやっかみを含めて一流と見てしまう傾向がないだろうか。結局お金を稼ぐことが、自分の技量や能力を磨くことと勘違いし始め、ひたすらそれのみに専念する。なりふり構わないその行動が今度は墓穴を掘ることになる。見る側も卑しいけれど、見られる側も卑しいすぎる。そんなのが最近は多くないか・・・。
 今日航CEOをやっている稲森和夫さんの本を読んだとき感じたのだけれど、どこか宗教家の言動を読んいるみたいに感じたことがある。事を成した人の言動にはそうした宗教性を帯びる。その宗教性は多分その人の品性から来るものであって、単に技量や能力だけのものじゃない。そんな気がする。それがここで大山さんが言う“気持”であると思ったのである。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈1〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010133
出版社:論創社 (2009/08/30 出版)
版型:341p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年07月20日

辻由美著『翻訳史のプロムナード』

2010_07_20_01.jpg


 この本は先に読んだ須賀敦子さんの書評から知ったのだが、思った通りなかなか興味深い本で、いろいろ教えてもらったという感じがする本であった。
 私たちは翻訳ものをそれほど意識せず読んでいるが、よく考えてみると、他の言語を解さない者にとって、こうして日本語に訳され、外国の書物が読めるというのはホンと有り難いことだと思う。もし翻訳家さんたちがいなければ、ほとんどの人が外国の著作に触れられないことになる。だから翻訳家という人たちは私たちにとってなくてはならない存在なのだ。そうであるけれど、実際は著者の名前ばかりクローズアップされ、翻訳した人の名前はほとんど意識しない。それほど翻訳家は陰に隠れた存在になってしまっている。
 この本は翻訳史を語る上で、古代からルネサンスあたりまでは翻訳は創作以上に価値あるものと見なされていたものが、それが過去の著作物に限ったところに、所詮それは過去のものであって、今の方があらゆる面において優れているのではないか、という意識が広まると、翻訳そのものがそれほど注目をあびなくなり、今に至るようになっている。だから翻訳家が連携して、翻訳家の地位向上の運動が世界各国で広まりつつあるところまで語っている。
 しかし私はそうした翻訳家の地位の変遷より(もちろんそれも重要なことなのだろうけど)、その歴史、特に中世からルネサンス、そして近代に至り翻訳がどう世の中に関わってきたか、その方が興味があった。
 まずは「第一章 翻訳はいつからあるのか」で翻訳の始まりを知り、そして「第二章 バクダードからトレドへ」ではそのこと自体知ってはいたが、改めてわかりやすく、具体的に説明されると、ちょっとした驚きさえ感じてしまった。さらに「第四章 不実の美女」から翻訳された古代ギリシア・ローマ文明より、自分たちの方が優れているという優越感が持てるほど自らの文化に自信を持てるようになっていくことで、翻訳という作業がいっときより比べ、それほど注目されなくなっていく過程が興味深かった。
 これを順番に見ていきたい。私はこのことを中心にこの本を語らせてもらう。翻訳家の個人の業績より、全体として総括的に見た方が面白かったからである。
 では始めたい。著者は「ある言語圏の文化がべつの言語圏に移されるとき、そこにはつねに、なんらかのかたちで翻訳という作業がかかわっている。何千年も昔から翻訳は人類にとって普遍的なものだった」と語っている。
 一つの文化が完結的にそれだけで成り立つことは歴史上、おそらくないのではなかろうか。人類の歴史は他の民族と接触することで、触発され進歩し、逆に争うことの歴史であろう。他の民族を意識する、あるいは争うにしても、その民族のことを知らなければならないはずだ。そのことはその民族が話す、あるいは書き残した文書・書物を自らが読める言葉に書き換えられないと理解できないはずだ。それが翻訳である。だから著者は翻訳を“人類の普遍的ないとなみなのだ”というのである。それは翻訳は文字とほとんど同じくらい古くから存在し、今もなお続けられていることになる。
 さて、現在世界でもっとも多くの言語に訳されているのは聖書だといわれている。もともと世界の大宗教の伝播は翻訳ぬきにしては考えられない。当然であろう。その聖書の翻訳の歴史が興味深かった。
 旧約聖書の一番古い個所は紀元前10世紀以前にさかののぼり、五書(旧約聖書冒頭の五つの書)が正典となったのは紀元前400年頃のようだ。そして旧約聖書がはじめてギリシア語に完訳されたのは紀元前3世紀である。ギリシア語訳は、アレクサンドリアなどエジプトの地に移住してギリシア語で生計をいとなみ、ヘブライ語を忘れてしまったユダヤ人のためになされた。
 この聖書は「七十人訳」と呼ばれる。これはエジプトのプトレマイオス王(二世)の命をうけて、ギリシア語とヘブライ語に精通した七十二人の翻訳者(イスラエルの十二部族からそれぞれ六人ずつ)がアレキサンドリア湾のファロス島に送られ、そこで七十二日間閉じこもって訳したと伝えられることからくる名称だ。紀元2世紀ころの最初のラテン語訳は、この七十二人聖書からの重訳だった。本格的なラテン語聖書は、4世紀から5世紀にかけて聖ヒエロニムスによってなされたもので、『ウルガタ』と呼ばれる。『ウルガタ』は中世をつうじてローマ教会の聖書となった。ルネサンス以前におこなわれた初期のヨーロッパ諸言語への翻訳は、ほとんどすべてがこの『ウルガタ』からの重訳である。
 ところで中世フランスにおいて、文字で書かれる言葉は当初ラテン語だけだった。このため中世において聖書の言葉はラテン語であり、聖書は原則として通俗語に訳してはならないものだった。聖書の散文訳は異端的な解釈につうじるものとして禁止されていたいたのである。中世ヨーロッパの公用語はラテン語であり、ラテン語は学問と芸術、公文書の言葉であった。
 だが民衆が使う言葉は、すでにローマ帝国崩壊の前からラテン文語とはきわめて遠い言語になっていた。実際に民衆が使っていた話し言葉は「俗ラテン語」と呼ばれ、これを母体にしてイタリア、フランス、ポルトガル、スペインなど各国の国語が形成されていったというのが、いまのところだいたいの通説である。
 中世からルネサンスまでのフランス語史は、フランス語がじょじょに文字で表現される言葉としてかたちを整え、少しずつラテン語にとってかわってゆく歴史でもあるのだ。
 ラテン語から部分的なフランス語訳はすでに12世紀からはじまっていた。そしてはやくも13世紀には、聖書ははじめてフランス語に全訳されたが、この翻訳はあまり一貫性がなく、本格的なフランス語訳聖書は、16世紀のルネサンス期を待たねばならなかった。それはひとくちにフランス語といっても、はじめから現在のような標準語のフランス語があったわけではないからだ。面白いのはフランス語が国語として確立されていく過程は、封建制が弱体化し、王権が強化されていく過程とむすびついているという点である。それを具体的に見ていくと次のようになる。
 中世のフランス国王は事実上パリ・オルレアン地域の一領主にすぎず、しっかりした国境もなければ、国語という概念も国民のアイデンティティも存在しない。それをある程度まとめ、人々の精神生活を支配していたのはローマ教会であり、その担い手である聖職者たちの言葉がラテン語であり、ラテン語は中世ヨーロッパ知識人に共通の文章語であった。
 ところが封建制度がくずれ王権が強くなるにつれ、国王は教会をも支配下に置こうとするようになり、フランス語は行政の共通語として少しずつ地歩を歩み始める。これはフランスに限らず、ヨーロッパ各国においても同様な傾向を示していく。
 12、13世紀からフランス語への翻訳が徐々に拡大していく背景には、ラテン語を知らない新しい読者層が生まれたことによる。この新しい読者層は、王権がフランス各地に及び、行政や司法のために働く新しい社会集団で、その中には貴族もいれば、新興の市民(ブルジョア)がいた。13世紀末ころには、フランス国王や王家の人々、あるいは大貴族が自分の教養のためにラテン文学の古典をフランス語に翻訳させるようになった。フランスの翻訳史上に新しい時代をもたらすのは14世紀、ヴァロア王朝の到来からである。そしてルネサンス期に至ってフランス語はラテン語と対抗しうる言葉にまで成長を遂げるのである。
 さて、そのルネサンスであるが、これは承知の通り、14世紀から16世紀にイタリアを中心にヨーロッパで興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。古典古代とはギリシア・ローマの文化復興である。ここからが私が一番興味をもったところである。「第二章 バクダードからトレドへ」の始めに著者は次のように書いている。

 西洋文明の源泉として古代ギリシア・ローマの文化的遺産についてはつねに語られるが、そのわりには、アラビア文化から受けたはかりしれないほどの影響については、さほど強調されない。少数の専門家以外にはあまり意識されていないようだ。というよりは、むしろ知識としてはあっても、十分な重みをもってはとらえられていないと言ったほうが正確かもしれない。
 ヨーロッパ人は古代ギリシアの知的遺産を直接うけついだわけではない。中世ヨーロッパに入ってきたギリシア科学・哲学の大部分はは、アラビア世界を経由し、アラビア学者たちの研究と注釈が加えられたものだった。
 実際、中世ヨーロッパがギリシア・ヘレニズム科学とほぼ無縁だった時代に、アラビア世界はギリシア科学や哲学の主要な著作のほとんどすべてを自分たちの言葉に翻訳してしまった。こうして、アラビア世界で翻訳されたものは、つぎにヨーロッパ世界の言葉に重訳されることとなる。
 翻訳によって文化は、その担い手をかえながら移動していったのだ。アテネを中心とするギリシア文化からアレキサンドリアのヘレニズムへと継承されていった知的遺産は、アラビア語に翻訳されることによって、バクダードという新しいセンターで新しい生命を得た。そして、アラビア語からラテン語への翻訳は、ヨーロッパの「文明開化」をうながすのだ。

 概説的に見てみると次のようになる。
 マホメットが632年の死去してまもなく、初代カリフ(政教両権をもつ最高権力者)アブ・バクルのよってアラビア半島はイスラム教で統一される。その後継者たちはさらにこの半島の外に支配をひろげてゆき、まずビザンツ(東ローマ)帝国からシリア地方を奪い、ササン朝ペルシアを破り、642年にはアレキサンドリアを占領し、711年にはスペインの進入して西ゴート王国を滅ぼし、712年にはインダス河流域に進出した。
 こうして、わずか一世紀ほどのあいだに、西は現在のスペイン・ポルトガルのほぼ全域、東はいまのパキスタンあたりまで、アジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる巨大な帝国を築いた。これのよりギリシア・ヘレニズム文化を引き継いだ地域はほとんどイスラム教徒の支配下に入っていったことになる。
 イスラム教徒といえば、非寛容のイメージをかさねてしまいがちだが、彼らは他の文化に対して極めて大きな受容能力を持っていて、ギリシア、ペルシア、インドの科学がどっとアラビア語に翻訳され、大征服につづく時代は文字どおり翻訳の世紀であった。
 翻訳はウマイヤ朝(661-750)からすでに始まっていたようだ。そして真に翻訳の時代をもたらすのは、ウマイヤ朝に反乱を起こして取って代わったアッバース朝(750-1258)で、アッバース朝に至って、翻訳に対する情熱は社会的現象までなる。
 一方アッバース家に滅ぼされたウマイヤ朝の生き残りは、イベリア半島(スペイン)に渡り、独立した帝国を建てる。後ウマイヤ朝(756-1031)である。やがてコルドバはバクダードと並ぶ世界的学芸の中心地となり、コルドバに蓄積された文化は、11世紀のキリスト教徒によるスペインの再生服の後に、主としてトレドを架け橋としてヨーロッパに伝えられる。

 イスラム世界はありとあらゆる言語の著作をアラビア語に翻訳したが、そのもっとも基本的なものはギリシア・ヘレニズムの知的遺産である。プラトン、アリストテレスの哲学書、ヒッポクラテス、ガレノスの医学書、アルキメデス、ユークリッド、プトレマイオスの数学・天文書など。アッバース朝の君主たちは夢中になってギリシア語写本を集めた。
 しかしイスラム教徒たちがギリシア・ヘレニズムの科学の相続人になったといっても、7世紀彼らが大征服に乗り出した時には、アテネやアレキサンドリアにおける科学活動はとうの昔に終わっていた。
 アテネやアレキサンドリアは紀元前1世紀にローマに併合され、4世紀にローマ帝国が東西に分裂した後はビザンツ(東ローマ)帝国領となっていたが、そのころまではギリシア・ヘレニズム科学の伝統はなお維持されていた。
 だが、キリスト教徒による支配が確立すると、異教時代の科学や哲学はビザンツ帝国においても抑圧をうけた。ビザンツ帝国を逃れた異教徒や「異端の」キリスト教徒たちによって、アテネやアレキサンドリアの知的遺産は東方に運ばれ、今のトルコやイランにあたる地域でギリシア文化受け継いだ科学活動が営まれていた。それがさらに東のバクダードに行きつく。
 そうした科学活動を担っていたのがネストリウス派の人々とユダヤ教徒、サービア教徒などやはり異端とされた異教徒たちであった。彼らがアラビア語の翻訳の主役を演じるのである。なぜならアラビア人は当初ギリシア語を知らなかったからだ。
 ローマ帝国おいて国教となったキリスト教は教義論争に明け暮れ、431年エフェソス公会議において、コンスタンティノープルの司教ネストリウスが唱えた教義、単性論(キリストの持つ神性と人間性を別個のものととらえる立場)が異端とされ追放された。
 ネストリウスはシリアの首都アンチオキアの僧院の出身であったこともあって、シリア系キリスト教徒たちの多くがネストリウス側についた。シリア教会はエデッサ(いまのトルコのウルファ市)を中心に、学校では4世紀後半頃からアリストテレスをはじめとするギリシア科学・哲学がシリア語に翻訳されていた。このエデッサの学校がネストリウス派キリスト教徒たちの拠点となる。だがこのエデッサの学校は489年ビザンツ皇帝ゼノンによって閉鎖され、彼らはササン朝ペルシアに亡命し、新たな学校を作った。
 ササン朝ペルシアはゾロアスター教を国教としていたため、キリスト教は迫害されたのであるが、異端のキリスト教徒は“敵の敵は味方として”保護された。そしてササン朝ペルシアがイスラム教徒によって征服され、今度はアラビア世界がその財産を引き継いでゆくのである。
 すぐれた翻訳家を輩出したもう一つの社会集団はハッラーンのサービア教徒たちがある。ハッラーン(現在トルコ領)はアレクサンドリアの数学・天文学を継承した地であった。もともとメソポタミア、シリア、小アジア結ぶ交通の要衝しめていたところである。サービア教徒は星を崇拝する人々で、特に天文学に秀でていて、そのためハッラーン出身の翻訳家たちはこの分野で活躍していた。
 翻訳に大きく関わったもう一つの集団がユダヤ教徒である。翻訳の歴史をたどっていくとユダヤ人がいたるところで翻訳家として起用されているのが目にとまる。
 ギリシア文化をイスラム教徒たちに伝える際にしても、その前のペルシアにおける翻訳活動においても、そしてのちにヨーロッパ人がアラビア語からラテン語への翻訳に大挙して乗り出したときも、ユダヤ人はきわめて大きな役割を演じていた。つまり、文化の担い手の移行がおこるたびに、ユダヤ教徒が欠かせない存在となっている。その理由はその優れた学識と語学力が買われたためであった。 ユダヤ人はヘレニズム支配下のもとで生活し、ギリシア文化との融合を成し遂げていた上に、エルサレム崩壊後四方に散り、特に八世紀には、ユダヤ教徒が移住したかなりの部分がイスラム帝国の支配下に入り、東西のユダヤ人社会の交流が可能になった。さらにヨーロッパに住むユダヤ教徒たちもイスラム圏のユダヤ人共同体を通じて、いちはやくアラビア文化に接することができた。このため著者はユダヤ人の存在を「この視点からすれば、ヨーロッパにおいて古代からの文化の連続性を担っているのがユダヤ人とさえ言えるかもしれない」と言う。
 アッバース朝第二カリフのアル・マンスールは762年、バクダードに新しい都を建設し、そこにありとあらゆる地域言語の知識人が集めた。翻訳活動は、七代カリフのアル・マアムーンの時代に絶頂期に達する。830年ころアル・マアムーンはギリシアの科学・哲学の翻訳と研究のためにバクダードに「智の家」(バイト・アルヒクマ)設立する。
 翻訳を奨励したのはカリフだけではない。学者や文人や宗教家たちも個人的にギリシア語写本を蒐集し、翻訳家の庇護者を演じた。諸侯や金持ちたちもアル・マアムーンの施設をまねて、独自に図書館を作り、翻訳家を抱えるようになった。つまりバクダードのモデルは他の地域にも波及しダマスクス、カイロ、スペインのコルドバなどにも同様の施設ができてくる。図書館も各地にでき、最大規模のものは10世紀にバクダードとコルドバに作られたもので、アレキサンドリア全盛期の図書館に匹敵するものだったという。
 このように書くとイスラム世界が単にギリシア・ヘレニズム文化の中継者の役割を果たしただけみたいに思われるかもしれないが、そうではない。何故なら翻訳とは内容の咀嚼と消化を必要とするもので、それはアラビア文化に大勢の優れた学者を生み出すこととなったのである。
 現在のスペイン・ポルトガルの大部分を支配下に置いていた西カリフ王国の首都コルドバは十世紀にはバクダードに並ぶアラビア文化センターとなっていた。蒐集された書籍は四十万冊を越えていたという。ところが1000年頃から西カリフ王の内乱によって、コルドバはかつての輝きを失い、その文化的伝統はトレドに引き継がれた。
 10世紀の終わり頃には、アラビア科学は断片的にラテン語に翻訳されていたようであったが、本格的な翻訳が始まるのは、キリスト教徒によるスペイン再征服の時代である、12世紀は文字どおり翻訳の世紀であった。
 アラビア文化をヨーロッパに導入する架け橋となったのは、スペイン、南イタリア、南フランスであったが、特にシチリアがギリシア・アラビア科学の西洋への伝達に果たした役割は大きい。シチリアは6世紀にビザンツ帝国領になり、9世紀から11世紀後半までイスラム教徒の支配下にあり、次にノルマン人に征服されたという歴史的事情から、ギリシア・アラビア・ラテンの三つの文化が共存していたからだ。
 だが、アラビア文化伝達の最大の拠点となるのは、スペインのトレドである。アラビア語の書物が豊富だった点でも、多くの学者たちを抱えていた点でも、トレドは格好の条件を備えていたのである。
 そして1085年、キリスト教徒たちがイスラム教徒たちとの戦いに勝利し、アルフォンソ六世がトレドを奪回したとき、彼らはそこに巨大な文化遺産を発見する。トレドの図書館に所蔵されていたアラビアの書物は、当時のヨーロッパ人にとって目がくらむほどの知識の宝庫であった。それをキリスト教徒たちはイスラム教徒たちからそっくり譲り受ける格好となる。ラテン語へ翻訳を通じて、ヨーロッパはアラビア世界のこの知的財産を吸収し始めるのである。そしてトレドでなされた翻訳は、12世紀から設立されるヨーロッパの大学において中心的な位置をしめることとなる。ヨーロッパのルネサンスを準備したのである。
 こうしてルネサンスは翻訳が檜舞台に躍り出た時代となる。なぜ翻訳がいち早く花形になったのか。まず活版印刷が普及し、本が大量に出回るようになり価格も安くなった。そのことで一挙に読者層が拡大する。ギリシア語やラテン語さえ知らない人たちが古代文化の接触を求めるとすれば、当然フランス語に訳されたものを頼るしかない。
 ギリシア・ローマの古典文化の価値を再発見しようとする動きは、こうして通俗語(フランス語)で古典文学を読むことができ、あらゆる教養が通俗語で得られる時代になったことが、ルネサンスの波及をヨーロッパ各地に開花させたのであった。と同時に、フランスにおける翻訳の黄金時代は、近代国家の基礎固めの時期とぴったり一致しているのは、先に書いた通りである。

 さてこうしてイスラム世界からもたらされたギリシア・ローマの文化は、翻訳によってルネサンス期の知識人の手本となっていったが、いつまでも手本でいられなくなる。それが「第四章 不実の美女」に書かれている。

 「じつのところ、近代人はギリシア・ローマ人よりすぐれているという主張がでてきたのは、フランスにかぎったことではなく、この時代のヨーロッパにかなり普遍的なもので、イタリアやイギリスでも新旧論争に類似したものがあった。が、それはおもに科学技術の分野においてである。
 羅針盤の発明が大洋航海を可能にし、望遠鏡は宇宙世界をひろげ、コペルニクスやガリレオの地動説はギリシア天文学の権威を打ちくだき、地理上の発見は未知の民族や動植物の存在をおしえてくれた。新しい産業も興った。そうなると、ギリシア人もローマ人もずいぶん狭い世界に住んでおり、天文学的にも地理的にもさほどのことは知らなかったではないか、ということになる。古代は人類の黄金時代という認識はくずれて、自分たちのような技術手段をもたなかった古代人はむしろ『未開人』のようにみえてくる。古代科学は永遠の真理などではなく、ある歴史時代の産物にすぎなくなってくるのだ」

 このように段々古代ギリシアやローマが今なお自分たちの手本になり得るかどうかということになってくる。最初はルネサンスは古代を熱烈に崇拝してきた。しかしそうした自分たちが手本としてきた古代ギリシアやローマをしのぐほど力を持ってきたと自覚できるようになり、自分たちの社会に対する自信が生まれ、時代とともに人間は知的にも道徳的にも進歩を遂げているという確信が芽生えてくる。
 こうして異教徒の古代人よりキリスト教徒の自分たちの方が優れてきたじゃないかという主張が台頭し始める。ラテン語よりフランス語の方が優っている主張する人たちも出てきた。
 そして何よりもこの時代、科学技術の進歩により古代人が知らなかった世界を自らが開いたことは、古代人より今の自分たちの方が優位に立ちつつあることを自覚させ始める。このことはもうルネサンスの意義を当時の人々は超え始めたことを意味する。そして翻訳活動はもう創造的な活動とは見なされなくなり、あれほど古代の文化を翻訳しているという威厳が低下していくのである。
 この章の「不実の美女」とはフランス語のベル・アンフィデル(Belles Infide'eles)という表現であり、その意味は「美しいが、原文に忠実でない翻訳」である。
 ルネサンス期翻訳活動はギリシア語やラテン語からフランス語に翻訳されていくということである。このことはラテン語の後退を明らかに示すものである。翻訳にあたり余計なものは除き、必要とあれば修正を加えられていく。手本としていた古代の作品が自分たちの嗜好や流儀や作法に合わせて紹介するといった傾向が大勢となっていく。「不実の美女」が大手を振って歩くようになっていったというのである。

 ここで著者は「ちょっと余談になりますが・・・・」といって、同様なことが日本においても起こったことを書いている。(こうして余談を始めるのだが、この書き出しいいなと思った。そして余談を終えて本論に戻るときは、「本論にもどりましょう」と書く)
 ここでは「日本においても、ふるくから中国文化は依拠すべき手本であり、漢籍を読み漢文を書き漢詩をつくることは、学をおさめるものにとって欠かせない素養であった。漢文は東アジア共通の書き言葉だったのだから、ヨーロッパにおけるラテン語と似かよった役割をはたしてきた」と書いている。
 ところが幕末蘭学を通して西洋文化にふれたとき、今まで師と仰いできた中国文化がいかにもとるに足らないものに見え始めた。西洋の存在を知るにいたって、中国の手本を絶対視してきた伝統的な価値観に打撃が加えられていったというのである。洋学の斬新さにふれると、それほど中国人は日本人やオランダ人ほど優秀ではないという批判に変わっていき、日本の中国一辺倒の世界観を否定するようになっていく。それが中国そのものに攻撃の矢を向けて、敵意となっていく。
 こうして開国後、明治になって日本は中国文化からの脱却があからさまとなる。一方でそれは日本の中国文化に対する負い目の深さをうかがわせるものがあり、その強迫観念が中国侵略のイデオロギーのひとつになったのではあるまいか。中国文化に対する負い目は、ひたすら中国文化の否定へとつながっていく。
 洋学を一心に取り入れたことで、中国文化は取るに値せずといった感じで、完全な中国文化の否定となっていく。中国は日本より劣っているということとなり、ならば侵略へ、という思想となっていったのではないかと言うのである。この考え方はなかなか面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:翻訳史のプロムナード
著者:辻 由美
ISBN:9784622045625
出版社:みすず書房 (1993/05/20 出版)
版型:275,7p / 20×14cm
販売価:入手不可

2010年07月14日

村上春樹著『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たしてちゃんと答えられるのか?』

2010_07_14_01.jpg


 村上さん本でまだ読んでいない本はなかったかな、と思い本棚を眺めたら、このやたら長い書名の本(というかこれは雑誌扱いの本なのだが)があった。このシリーズ確かこの出版社で3冊出ており、うち第一冊目はとうの昔読んでいる。ただ2冊目以降読んでいないことを思い出し手にとる。この本は村上作品の読者とファンがネットで村上さんに様々な質問を浴びせかけ、それに対して村上さんが答えるという本である。期間限定のホームページに掲載されたものを本にしたものである。
 ただ今回これを読んでみて、昔のように素直に楽しめなかった部分がある。というのも村上春樹さんの読者やファンが様々な質問や相談を持ちかけるのは、どうなんだろうと思ったのだ。いや質問はまだいい。相談が問題なのだ。特に人生のシリアスな問題を抱えている人が、村上さんにアドバイスをもらい、そこから立ち直りたい、あるいは抱えている問題から少しでも解放されたいという意識は、どうなんだろう、と思う。ここで相談を簡単に投げかける方がおかしいと思うのだ。あるいはこんなところでしか、自ら抱えている問題を相談できないことがおかしいと思わないのかと疑問を感じてしまう。
 何か勘違いをしているところはないだろうか?ここに相談を投げかける人たちは、村上春樹という有名な作家が、第三者の目で、しがらみにとらわれない立場で、適切なアドバイスをしてくれると思っているのだろうか?でもよく考えてみれば、村上さんがしがらみにとらわれないのは当たり前だ。だって当事者じゃないんだから。それを第三者の目で見たくれたと思うのだから、その方が怖い。
 でも、ふと自分が若かった頃を思い出すと、これと似たようなことがあったな、と思った。ラジオの深夜放送である。そのほとんどは馬鹿話でクスクス笑いながら聞いていたのだが、番組の終わ頃に、シリアスな投稿をDJが読み、かわいそうだ、大変だ、といった雰囲気を醸しだし、エンディングにレーモン・ルフェーヴルの“シヴァの女王”をかけて終わる。その時DJは今考えてみれば、大したことを言ってはいない。ただ同情するだけと言っていい。聞いている我々も、“頑張って欲しいな”と思うのだけだ。当たり前である。当事者でも関係者でもないリスナーがそれ以上のことを言えるわけがない。でも当時はそうした悩みや問題をリスナーとして共有していたと思っていたようである。
 そうそう、あのホリエモンの餌食にされた、ポニーキャニオンの社長であった亀渕昭信さんが当時のラジオの深夜放送を振り返って、あの頃みんなは悩みや問題を共有していたと書いた雑誌を読んだことがある。それを読んだとき“共有か”と思った。そうかもしれないけど、こう歳をとってくると、結局そう思っていただけのことで、読む側も、聞く側も、当事者や関係者の力になれるわけないじゃないと思ってしまう。若かったからそう感じられただけのことであって、大きな勘違いである。それをいけしゃあしゃあと“共有していた”と当時を振り返って書ける人の方がどうなんだ、と思ってしまう。
 多分今回もその感覚が私にあるものだから、おいおい、それはここで書くことじゃないだろうと思いつつ読んだわけで、それが妙に鬱陶しく感じてしまった理由であろう。ただ村上さんは自身が当事者でない分、責任を伴わない点はよく心得ておられて、そういう対応をしているのが読んでわかった。その点はある意味安心できた。これをがっぷり四つになって対応していたら、ホンと興醒めしてしまうし、村上さんを疑いの目で見てしまいかねない。適当に冗談を言ってスルーしているので、その点はよかった。
 今回この本は日本の読者だけでなく、台湾、韓国の村上春樹ファンの質問も掲載されている。これらを読んで思ったことは台湾や韓国の読者は、村上さんの作品に対しての質問がほとんどで、村上さんの作品に登場する不可解な人物は何かの象徴なのかとか、何かの啓示なのかという深く、重い質問している。日本人読者のような馬鹿な質問をしていない。もちろん人生相談などもない。これを読むと、いかに日本人読者はお気楽で低俗なのかと感じてしまう。日本がダメになるのもこれだけでもわかるような気がする。

 さて、それでも質問に答える村上さんに、村上春樹という作家の姿勢が垣間見られる部分があって、それが“なるほど”と思える部分がいくつかあったのでそれを書き出しておく。

 死者は多くの場合、生きている人々のありかたを多かれ少なかれ決定的に変更させていきます。その変更をまっとうに黙って受けいれることが、死者を弔うもっとも正しい道だろうと思います。

 小説というのは現実の生活には役には立たないものです。そんなもの読まなくたって、ほとんど不都合はありません。だから小説を読む習慣のない人に小説を読んでもらうというのはむずかしいことです。

 小説というのはお勉強ではありませんので、読みたくないものは読まなくてもいいのです。誰かが「これは読まなくちゃだめだよ」と言っても、それは他人の意見であって、あなたはあなたの読みたいと思うものを読めばいいのです。「違和感」があるなら、それでいいと僕は思います。
 そのうちに「何か機会があってちょっと読んでみたら、これが面白くて・・・」ということがあるかもしれません。そういうハッピーな出会いを気楽に期待しておられるのがいちばんいいのではないでしょうか?人生はそれでなくてもしんどいのですから、たかが本くらいのことで頑張ることはありません。

 でも同時に「それにもかかわらず、お前がどう思うが、そんなこと知っちゃいねーんだよ、ふん」と思わなくちゃだめです。悟った不良になりましょう(もうトシなんだから突っ張った不良になっちゃ駄目です)。いったん不良になってしまうと、そのうちやりたいことも出てきます。やりたいことをみつけて、それにあわせて人生を決めるのではなく、人生にあわせて自然体でやりたいことをみつけたほうがいいと僕は思います。根性さえきめれば、中年はそんなにつらい年代ではありません。

 僕はただ自分が好きな本を読んで、好きな音楽を聴いて、原則的に好きなことをして、自分のペースで淡々と生きているだけなのですが、それがひとつのかたちとして定着し、なにかの「現象」みたいなことになってしまうと、やはり押しつけがましくなってくるし、それではお互い困っちゃいますよね。あなたも困るでしょうし、僕も困ります。
 でもそういう表層的な「現象」は、しかるべき時間が経過すればたぶん自然に過ぎ去って、消えてしまうはずです。そしてあとに残るのは、結局は作品だけということになります。

 僕がその時代(全共闘時代)から学んだもっとも大事な教訓は「美しい言葉で力強く語られるものごとは、まず信用するな」ということです。

 さて、もう一冊このシリーズが残っているが、ちょっと気が重いな。同じスタイルで「少年カフカ」はそのボリュームに圧倒され、結局投げ出してしまったけれど、村上さんの言うように読みたくない本は読まなくてもいいかと思うが、一方で読めないというのもしゃくにさわるし、厄介だ。
 最後に安西水丸さんが描かれるイラストは、村上さんの回答をうまく茶化していて面白かった。何度か笑ってしまった。


評価
★★


書誌
書名:「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たしてちゃんと答えられるのか?
著者:村上 春樹
ISBN:9784022723192
出版社:朝日新聞出版 (2006/03 出版)Asahi original
版型:205p / 21cm / A5判
販売価:入手不可

2010年07月11日

須賀敦子著『須賀敦子全集』〈第4巻〉

2010_07_11_01.jpg


 著者がこの本を書きおえて二年目の一九九五年、阪神地方を襲った大地震がそれにつづく暗い時代のいやな予兆ででもあったかのように、日本人は、じぶんたちの国が、世界のなかで確実に精神の後進国であることを真剣に考えずにいられなくなった。いったい、なにを忘れてきたのだろう、なにをないがしろにしてきたのだろうと、私たちは苦しい自問をくりかえしている。だが、答えは、たぶん、簡単にはみつからないだろう。強いていえば、この国では、手早い答えをみつけることが競争に勝つことだと、そんなくだらないことばかりに力を入れてきたのだから。
 人が生きるのは、答えをみつけるためでもないし、だれかと、なにかと、競争するためなどでは、けっしてありえない。ひたすらそれぞれが信じる方向にむけて、じぶんを充実させる、そのことを、私たちは根本のところで忘れて走ってきたのではないだろうか。

 この文章はある本に関して須賀さんが感じたことを書かれた文章である。こういう書評を書かれると、さすがだなと思ってしまうし、しっかりと読まれていることを感じてしまう。またこうしたすばらしい文章で書かれていれば、本を書いた方も、書いた甲斐があるように思える。
 今回の巻は1991年から1997年に発表された書評がほとんどである。そしてそのほとんどが私の知らない作家さん本であり、まさしく世の中にはまだまだ知らない人が多くの本を書かれており、様々な内容の本が書かれているんだな、と思わせる。私がここに紹介された本を書いた人をほとんど知らない、ということは、まさしく本の世界はとりとめもなく奥深いものなんだと思わせる。
 ここにあるたくさんの本を、ここまで自分のものとし、意見が言えるのがうらやましくも思えるのである。そこには須賀さんの人生経験や読書経験から縦横無尽に語られ、そこに須賀さんが持っていられる知識がいいスパイスを添えているのが、内容はわからなくても、感覚的に感じることができる。最初にあげた文章と似たような文章があるが、それも書き出してみる。

 明治維新このかた百三十年ちかくを、私たちは、なにかにつけて不本意に生きてきた。日常生活の面でも、思想や哲学の分野でも、西洋と東洋の谷間に墜落したまま、あっちでもない、こっちでもないと道に迷いながら、息をきらせ、青い顔をして歩いてきたように思える。

 たぶん須賀さんは若い頃から西洋文化に憧れ、それを吸収し、イタリアへ渡り、そこで反体制派の仲間と一緒になり、その一人の男性と結婚し、夫となったその男性と死別し、日本に帰って来たところで、自分の半生を振り返えるが故に、そう感じられるのだろう。大勢に流され、自分を見失い、気がついたらヘトヘトに疲れている顔が自分のまわりであちこち見受けられるところに、何か感じるものが出てきてしまうのだろう。

 大学のころの話をして、ほんとうにあのころはなにひとつわかっていなかった、と私があきれると、しげちゃんはふと涙ぐんで、言った。ほんとうよねえ、人生って、ただごとじゃないよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きてきた。

 個人的なことを言えば、ここのところ妙に自分の人生に疲れを感じているものだから、こういう文章に触れると、ほんとそうだよな、と思うのだ。結局何だったのだ、と手元にほとんど何も残っておらず、むなしさのみを感じる日々が続くものだから、妙にこれらの文章は身にこたえる。

 もともと須賀さんの文章は“硬質”なので、女性の繊細さの中に、男性的な言い回しが、おや?と思わせるところがあって、私はそれが好きで須賀さんの本を読んでいる。ほとんど内容を理解できなくても、中にちょっと立ち止まってしまう言葉があるものだから、それが気にっている。たとえば須賀さんが小学生の頃買ってもらっていた雑誌について書かれた文章は、妙に今となると納得してしまう。

 このように「小学○年生」は毎月、なんの苦労もしないで手に入ったのだが、私も妹も、「おまけ」のやたらついてくるその雑誌がとりわけ好きだったわけじゃない。その雑誌には、どこか、教壇で間のぬけた冗談を口にしてとくいになる先生につきあっているみたいなところ、勉強すきにならせようとする「陰謀」もたいなものが底にひそませてあるのを、私たちは嗅ぎつけて、こころのどこかで軽蔑していた。

 また本のカバーについて書かれた文章は深くうなずいちゃう。

 表紙(正式には、表紙カヴァーと言うのだろうが)は、私にとって本の大切な一部だ。カヴァーで記憶していた書物が、図書館の棚では無残にそれをはぎとられて並んでいるのに出会うと、管理や効率ということのいやな暴力を感じてしまう。反対に、文庫本やペーパーバック版で、きにいったあたらしい表紙に代わっているのを店頭で見つけると、たとえ旧知の作品ですでに所有しているものでも、ふらふらと買ってしまうことがある。

 そうなんだよとホンと思う。本の内容だけでなくその装丁にも深くこだわれるほどの人だと、私はうれしくて仕方がない。自分も須賀さんと同じことをしているものだから、同じ内容の本を二冊も買うのは自分だけじゃなかったんだと、ちょっと安心もしたし、それ以上に須賀敦子という人が好きになれる。
 何度も書くように、私は須賀さんが書かれる文章の内容はほとんど理解できていないと思う。けれどその根底に流れるやさしやが好きだし、人として本当の姿はどういうものかをさりげなく知らせてくれる文章が好きなので、続けては読めないけれど間隔をおいて触れておきたいなと思っている。というのも自分の心がささくれたったままだと、どうにもやりきれないので、時には「そうそう」と言ってくれる文章に触れておきたいのだ。


評価
★★★


書誌
書名:須賀敦子全集〈第4巻〉
著者:須賀 敦子
ISBN:9784309420547
出版社:河出書房新社 (2007/01/20 出版)河出文庫
版型:612p / 15cm / A6判
販売価:1,050円(税込)

2010年07月05日

秀村欣二著『ネロ』

2010_07_05_01.jpg


 どうもこの本のことは書きにくい。まずネロの家系が複雑だ。ネロはカエサルの家系ユリウス・クラウディウス朝の人物なのだが、この家系とにかく入り組んでいて、系図をたどればあのオクタビアヌスとアントニウスの血が一緒になってしまうのである。
 ネロの母親といえば、有名な小アグリッピナであるが、この小アグリッピナは初代皇帝アウグストゥスの曾孫であり、一方アントニウスの曾孫のもあたるのである。とにかくネロはネロはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの四代目の子孫、すなわち玄孫である。

 さてそのネロの経歴をざっくりと書くと次のようになる。


2010_07_05_02.jpg


 ネロは紀元37年、小アグリッピナとグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスの息子として生まれる。カエサルの家系であるユリウス・クラウディウス朝の最後の皇帝である。
 父親のグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスはネロが3歳のときに亡くなった。そして母子は一時皇帝カリグラによって幽閉されたが、カリグラ帝が殺されクラウディウス帝が即位すると、ネロはローマに戻ることを許された。
 クラウディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。しかしながらメッサリナは紀元48年に不義の咎で殺害され、後妻として小アグリッピナがクラウディウスと結婚し、皇妃となった。その母の計略によりネロはクラウディウスの娘オクタヴィア(クラウディウスとメッサリナの間に子)と婚約し、継子から養子となり、立場が強化された。
 さらに小アグリッピナはネロをローマ皇帝へと推し進めていく。クラウディウスとメッサリナの間にはブリタンニクスがいて、クラウディウスの後継者としてもっとも有力視されていたが、小アグリッピナの采配では徐々に疎外していく。
 そして小アグリッピナが夫のクラウディウスを毒殺し、ネロを五代目のローマ皇帝に即位させる。さらに小アグリッピナはネロに邪魔になる人物たちを次々と抹殺していく。小アグリッピナは自らの支配権を息子ネロを通して確立していくのであった。
 ところがネロは小アグリッピナが鬱陶しくなって行く。それは妻オクタヴィアに使えていた解放奴隷アクテと関係であった。ネロはオクタヴィアと別れてアクテと結婚しようとしたが、当然これは小アグリッピナは許し難いことであった。ここから母子の亀裂が生まれ、抜き差しならない状況になっていく。こうなってくると小アグリッピナはネロよりブリタンニクスを持ち上げようとする。そこでネロは母親からの血なのか、邪魔となるブリタンニクスを毒殺してしまう。
 そしてここに友人マルクス・オト(後の皇帝オト)の妻ポッパエア・サビナが登場する。この女タキトゥスによると「高貴な魂を除けば」女として欠けているものは何もなかったという。ネロはポッパエアの虜となってしまう。これでネロと小アグリッピナの母子は完全な破局を迎えることとなる。小アグリッピナは暗殺された。ネロは毒婦ポッパエアとの結婚を急ぎ、妻であるオクタヴィアと離婚し、島流し末、殺した。
 ポッパエアは女の子を産んだが四ヶ月もたたぬうち死亡した。この後あの「ローマの大火」があったが(これはこの後書く)、ポッパエアも急死した。死因はネロが身重のポッパエアを足で蹴ったとか、毒殺したとか伝えられているが確証はない。
 もうこのあたりからネロの性的感覚はかなりいおかしくなり男色に走り、自ら女装しては解放奴隷のピュータゴラースやドリュプォルスと正式に結婚して彼らの花嫁となったり、美少年スポルス・サビナとを去勢し、女装させては、これまた正式に結婚して自らの正室に迎えたりした。実はネロは後妻としてスタティリア・メッサリナを迎えたのであったが、すぐ飽きていたのであった。
 ローマ帝国はこの頃になると、各属州で反乱が起こっていたが、ネロは相変わらずギリシアにおり、心酔していたギリシア文化を楽しんでいた。ガリアでガイウス・ユリウス・ヴィンデックスが立ちあがった。彼は属州民に呼びかける。

 「ネロはローマ帝国を略奪した。彼は元老院の精華をすべてむしりとった。彼は放蕩に身をもちくずし、母を殺し、君主らしいところは少しもない。あの男-ピタゴラスの妻となり、スポルスを娶った者が男と言えるなら-劇場で竪琴をひき、悲劇俳優の扮装をしているのを私は見た。こんな男をいったいだれが元首と呼ぶだろう。諸君、いまこそ彼に反抗して起て。諸君自らを、ローマ人を救え。世界を解放せよ」

 しかし、ネロはそれでも我、関せずという認識で、ギリシアの旅を楽しんでいたが彼の足元は確実に崩れていた。ヴィンデックスはタラコンネシス属州総督ガルバに親書おくり、皇帝就任を扇動する。ガルバ支持は増える一方で各地の属州総督が支持、ついにネロは元老院から「国家の敵」としての宣告を受ける。こうして最後を悟ったネロは最後に「なんと惜しい芸術家が、私の死によって失われることか!」を繰り返し、自殺する。紀元68年6月9日の夜明け前であった。享年30歳で、元首の在位期間は13年8ヶ月ばかりであった。遺体はアクテによって火葬されマルス広場に葬られた。

 概略こんな感じだ。そのネロと言えば、ローマを暴政の下に混乱させ、キリスト教徒を迫害したため暴君の典型とされている。しかし著者は「暴君とは強力な自己中心的な意識にもとづき、他者と社会に加虐的な行動本能をのつ独裁的支配者であると定義するならば、それはネロの生涯を通じて、彼の方から先制攻撃を加えて、ライバルを倒したことは皆無に近い」と言い、必ずしも世間で言われているような暴君ではなかったという。やむにやまれずそうなったとでもいうようだ。
 事実「いわゆる『五賢帝』のひとりで『最後の元首』という称号を元老院から捧げられ、ローマ帝国最大の領土を現出したトラヤヌス帝は、ローマ歴代の元首の治世を回顧し、検討して、ネロの治世の最初の五年間は最善の御代だったとたびたび語ったという」ということがここに書かれている。最初は哲人セネカの助力もあって、いい政治を行ってはいたのである。
 しかしやっぱり小アグリッピナの血なのか、陰謀、暗殺といつも暗い影がつきまとう。そこに母親との葛藤、性的倒錯などがあり、その上強いギリシア文化や芸術へ関心が政治をさせなかった。
 そして紀元64年におきたローマの大火が後のネロ姿を決定したといっていい。特にキリスト教徒の迫害はネロを暴君と印象づけた。この火事はすべてのものを焼きつくしたが、ネロは行き届いた復興施策をした。それにもかかわらず「火事はネロが命じた」という風評が広まり、民衆の間に不穏な空気が兆し、暴動も起こりかねない状況となっていた。
 そこでタキトゥスによれば、「ネロはこの風評をもみ消そうとして身代わりの被告をこしらえ、一般にキリスト者とよび、そのかくされた罪ゆえに憎まれていた人々に大変手のこんだ刑罰を加えた」のであった。

 さてネロは自分の悪い風評を消すために、火事はキリスト教徒が起こしたとした。そしてそれがどうして可能であったのであろうか?そのことが興味がある。何故キリスト教徒がターゲットされたのかである。
 結局当時のローマが多神教的社会であり、キリスト教の一神教信仰は民衆を不安にさせていたし、憎悪を生んだ。だからネロにとってみれば自らの悪評を転化するにはキリスト教徒はいいターゲットとなったと思われると著者は言っている。
 一神教はユダヤ教もそうであるが、ユダヤ人は特別な民族であり、ユダヤ教が他民族に伝播するには限界があったものだから、ローマ人はユダヤ教の信仰を認めていた。しかもユダヤ教は神殿・犠牲・司祭などが備わり、多神教社会であるローマ人でもある程度理解しやすかった。
 ところがキリスト教は、ユダヤ人の民族的限界を超え、帝国内のすべての民族に広まっていた。しかも当時のキリスト教は外部から看知できるような宗教の形体をとっていないので、現世秩序破壊を企むアナーキスト、または風俗を壊乱する邪教徒と誤解されていた。それにキリスト教の非寛容さが更に民衆を不安がらせたものと思われる。
 ネロはその民衆心理を利用した。ただ火事の犯人をキリスト教徒にしてしまったことが、後世キリスト教徒に自らの姿を必要以上に怪物として見せてしまった。そしてパウロやペテロがネロの迫害下で殉教したとされているということが、それに拍車をかけているのではないか。
 もしこれがなかったならネロはただの暴君であり、このようなローマ皇帝は幾人もいたはずで、ネロもその中の一人であったのではないかと思われのである。ただキリスト教徒迫害は隠しようのない事実なので、あくまでも“もし”の話である。

 余計な話であるが、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとすると、イエスが反対側から歩いてくる。ペトロが「主よ、どこへいかれるのですか?」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったというのが有名な話だ。この時ペテロが言った「Domine, quo vadis?」が、シェンキエヴィチの『クォ・ヴァディス』の題名となった。


評価
★★


書誌
書名:ネロ ― 暴君誕生の条件
著者:秀村 欣二
ISBN:9784121001443
出版社:中央公論新社 (1967/10 出版)中公新書
版型:190p / 18cm / 新書判
販売価:入手不可

2010年07月03日

吉村昭著『海も暮れきる』

2010_07_03_01.jpg


 吉村さんは終戦後、学習院旧制高等科に入学したが、入学して八ヶ月後、喀血する。結核である。そして絶対安静の身となり、体重が著しく減り、生きる気力も失われたが、東京大学医学部附属病院分院にて胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を失って、何とか復帰する。この手術、危険な手術だったようで、手術自体、麻酔もそれほど効かず、かなりの激痛を伴い、手術後も生存率が極めて悪かったらしい。それでも何とか助かりたいという一心でこの手術を受けた、と吉村さんの随筆に書かれている。多分吉村さんが尾崎放哉にひかれたのも、放哉も結核で死んだことによるのだろう。
 この本は尾崎放哉が小豆島を“死に場所”に選び、その土地を踏んでから死を迎えるまでの八ヶ月間が書かれている。
 放哉、本名は尾崎秀雄という。明治18年鳥取で生まれた。父親は鳥取地方裁判所書記であった。18歳の3月鳥取県第一中学校を卒業し、東京の第一高等学校に入学する。21歳の9月に東京帝国大学法学部に入る。この頃から放哉は酒に溺れるようになる。大酒を飲み、人にからむようになった。酒をあおるように飲むようになったのは、従妹の沢芳衛との失恋からであった。放哉は最初の雅号を芳衛の芳を取って、芳哉とした。しかし芳衛の兄に近親結婚とだとして反対され、芳哉を放哉と変えた。以後放哉の酒癖の悪さは死ぬまで続く。いやむしろこの酒癖の悪さが身を滅ぼしたと言っていい。たちの悪い“からみ酒”であった。
 大学卒業後、東洋生命保険株式会社の東京本社契約課長の任にあったが、やはり酒でそこを辞めざるを得なくなった。その後友人の紹介で京城の朝鮮火災保険に入った。赴任して半年後、放哉は高熱を発し、病臥する身となったが、何とか正常に戻ったが、やはり連日酒浸りであった。結局赴任して1年後社長から退職を命じられる。そして再び高熱を発し、妻馨にも去られ、寺男として過ごしてきて、この小豆島まで流れた来た。その間結核は放哉の身体を蝕み続けた。
 放哉はいわゆる自由律俳句の代表的俳人として有名であったため、同人や門人が何人かいて、彼らに生活のために金を無心し続けた。しかし彼らも簡単にお金を出せる身分でもなく、やっとの思いで放哉に金品を送っていたのである。
 一方で放哉は求めた金品が届かなかったり、冷たくされると悪態をつく。読んでいてもし放哉が有名な俳人でなければ、ただの“たかり”だなと思わせる。人にお金を送ってくれないか頼む一方、そのお金で酒を飲み、悪態をつき、店の人間が放哉が世話になっている住職告げ口しそうになると、生活場所を失うと不安になる、どうしようもない人間であった。
 自分の態度が悪いのにもかかわらず、同人や門人や島の人間に優しくされると、今度は涙ぐむのである。ホンとどうしようもない人間であった。
 結核は放哉の身体を蝕み続け、ついに庵で動けなくなる。今まで自分の気持ちを和らげてくれた好きな酒さえ、喉を通らなくなる。そして大正15年4月癒着性肋膜炎湿性咽喉カタルで死亡する。
 とにかく放哉ほど自分勝手で自分を律することの出来ない人間はないなと思った。たまたま有名な俳人というから、その才能で生きられたところがあったが、それさえも放哉を支えてくれる人の助力があってのことであった。しかも酒乱ときているだ。どうしようもない。
 よく作家などが世捨て人な生活をしていたと聞くが、私は彼らが芸術のためそうなったとは思えない。むしろ彼らが自らの感性を持てあまし、それが敏感で軟弱であるがため世の中と折り合いがつけられないだけだと思っている。そして芸術がその感性を必要としただけだと思っている。芸術におけるすぐれた作品は非日常から生まれるものなのか、どうなのか、その点はよく分からない。
 ただとこの本に関して言えば、放哉に少なくとも彼の俳句における芸術性と自身の破天荒な生活ぶりの因果関係は一切記述がない。だから読む側は単にいい加減な人間として放哉が写るだけである。私にはたまたま放哉は俳人としての才能があっただけであり、普通ならのたれ死んでいてもおかしくないとしか思えなかった。そこに結核という病気の進行が加わったため、“壮絶な人生”と言えるだけであって、少なくとも芸術性が彼を“壮絶な人生”を歩ませたとは思えなかった。要するに放哉の俳句の才能が、いい加減な人生を許したと思えるのである。
 ところで自由律俳句とは何であろうか?ネットで調べてみると、自由律俳句とは、五七五の定型俳句や五七五七七の定型短歌に対し、音数にとらわれず、季語も含めない、自由に表現する俳句だという。ちなみに放哉の有名な句をあげると以下の通りである。

咳をしても一人

墓のうらに廻る

足のうら洗えば白くなる

肉がやせてくる太い骨である

こんなよい月を一人で見て寝る

一人の道が暮れて来た

春の山のうしろから烟が出だした(辞世)


 自由なのは結構だけれど、音数にとらわれない分、何か変な感じだ。まぁもともと、俳句とか短歌を解さない人間なので、これが素晴らしいのか、どうか、それもよく分からない。私には尾崎放哉という変わった俳人がいたということだけであった。


評価
★★


書誌
書名:海も暮れきる
著者:吉村 昭
ISBN:9784061835337
出版社:講談社 (1985/09 出版)講談社文庫
版型:275p / 15cm / 文庫判
販売価:539円(税込)