2010年08月24日

吉村昭著『ニコライ遭難』

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 ニコライはロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝である。


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 そのニコライが皇太子の時、日本にやってきた。この本はそのニコライが大津において、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した事件、大津事件を扱った本である。
 そもそもニコライが日本にやってくることになったのは、ロシアが建設に着手しようとしていたシベリア鉄道のウラジオストックとハバロフスク間の起工式に、父であるアレキサンダー三世の名代として臨席するためであった。その途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本も訪れ、そこからウラジオストックに赴く予定となっていた。
 そんなニコライの世界巡航計画が内定したことを知った明治政府は、ニコライを招請し日本に来てもらうことを考えた。そこには明治政府にあったロシアに対する危機感から、ロシアと友好関係を持てれば日本の将来にとっても有効であると判断したからである。
 当時ロシアは全世界の六分の一の領土を保有し、陸、海軍力とも世界屈指の強力なもので、ことに陸軍は世界一と称されていた。維新後わずか二十年余年しかたたぬ日本は、ロシアが武力行使にでも出ればたちまち圧伏させられる。まして昔から極東地域で不凍港を持たなかったロシアは古くから南進の姿勢を示し、朝鮮、日本をうかがう気配が濃かっていた。そこにシベリア鉄道敷設は、ロシアが侵略による極東政策を実行に移すものと考えられ、危機感がつのっていたのである。
 皇太子ニコライはいずれロシア皇帝になる。ならばここで日本に好感を抱かせ、最上級の歓待で迎え、国賓として歓迎する意味は大いにある。
 そして明治24年4月27日ニコライは長崎に着く。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王が任命された。
 ニコライは正式に日本に上陸する前に、お忍びで何度も長崎に上陸し、ロシア人相手の遊郭に行ったり、腕に入れ墨をしてもらったりしている。買い物も日本固有のものを多く買い入れている。
 その後ニコライは鹿児島に向かった。ここで面白いのは“西郷隆盛生存説”である。こんな説があったなんて知らなかった。西郷隆盛は西南戦争で敗れ、自刃したが、西郷が生存しているという説は、西南戦争終了後も、折に触れて蒸し返されていた。インドの一島に潜伏しているとか、シベリアで兵士を訓練している西郷と会ったという人物もいたというのがあって、西郷生存説となっていたらしい。そこに本来なら皇太子ニコライが直接東京に来るのが自然なのに、行く必要もない鹿児島をわざわざ訪れるのは、ニコライらが西郷を連れてきているのではないかという話になったという。
 もちろん何事もなく、ニコライは鹿児島を離れ、その後神戸へ向かった。そして京都に着く。ニコライは終始日本に対して好意的であったし、日本の風習を重んじた行動をとっていた。そのため、迎えた日本人もニコライに対して好感を持っていた。
 そして同年5月11日に琵琶湖遊覧から京都に戻る際、大津で事件が起こる。以下本文記述である。

 皇太子の人力車が下小唐崎の町並の道に入った。
 両側にひしめく人々は頭をさげ、所々に立つ巡査は挙手の礼をする。皇太子は、吊り看板などのさがった店に視線を走らせながら車に体をゆらせていた。
 道の右手にある下小唐崎五番地の津田岩次郎宅の入口の前にも巡査が立ち、皇太子の車が車輪の音を鳴らせて近づいてゆくと、姿勢を正して敬礼した。
 皇太子の車がその前を通り過ぎようとした時、挙手の手をおろした巡査が、急にサーベルをひきぬき、進む人力車の右側一尺(三十センチ強)ほどに走り寄った。
 刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が鼠色に山高帽をかぶった皇太子ニコライの頭に打ちおろされた。
 その衝撃で帽子が飛んだが、皇太子は前をむいたままで、巡査は声を発しなかったので梶棒をとっている車夫の西岡太郎吉二十七歳も気づかず、変わらぬ歩度で車をひいてゆく。
 気づいたのは、車の右側後部を押していた車夫の和田彦五郎二十五歳であった。和田は茫然としながらも、後押しをやめて巡査に駆け寄り、右手で巡査の左脇腹を強く突いた。
 巡査はよろめいたが、再びサーベールをふりあげて皇太子に近づいた。その時、初めて皇太子は巡査の方に顔をむけた。巡査は、無帽の皇太子の頭に再びサーベールをたたきつけた。
 立ちあがった皇太子が叫び声をあげ、その声にふりむいた梶棒をとる車夫の西岡が、異変が起きたことにようやく気がつき、職業上の習性ですぐ足をとめると、梶棒をおろした。
 皇太子は、巡査とは反対側の路面にとびおり、頭を両手でおさえ、あ-、あ-と叫んで前方に走った。巡査はサーベールを手に追ってゆく。
 その出来事を初めから眼にしていたのは、皇太子の車の後方を進む人力車に乗っていたジョージ親王であった。巡査が傷ついた皇太子を追うのを見たジョージ親王は立ち上がり、それに気づいた車夫藤川角次郎二十五歳が梶棒をおろした。
 路上に飛び降りたジョージ親王が巡査にむかって走ると同時に、皇太子の車の左後部を押していた車夫向畑治三郎三十八歳がジョージ親王と肩をならべて走った。その後から、車夫の西岡、和田、それにつづいてジョージ親王の車を後押ししていた北賀市市太郎三十三歳と安田鉄次郎三十歳が駈けた。
 ジョージ親王が巡査に追いつき、手にした竹杖で巡査の後頭部をはげしくたたいた。その杖は、親王が県庁内の物産陳列所で買いあげた栗太郡草津村の木村熊次郎出品のものであった。
 それと同時に、向畑が巡査の腰にしがみつき、両足をかかえると勢いよく後ろへひいた。そのため巡査は前のめり倒れ、制帽が飛んだ。巡査がつかんでいたサーベールが、手からはなれ路上に投げ出された。
 向畑につづいて北賀市が、そのサーベールを拾うと、倒れた巡査に背部にふりおろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。

 巡査の名前は津田三蔵である。津田はこの後取り押さえられる。


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 ニコライは右側頭部に9センチ近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。これが大津事件であった。しかしロシア皇太子が殺害されようとしたのである。当然これは大きな外交問題となって、国際問題となりかねない事件であった。この後明治政府の対応は大変であった。俗っぽい言葉で言えば、国力も軍事力もない日本がロシアに攻めてこられたら、ひとたまりもない。だから仲良くしましょうよ、と言ってわざわざ国賓待遇で招いてのにもかかわらず、警備する巡査が凶行に及んだ。戦争になっておかしくないし、賠償問題として、莫大な金額を要求されてもおかしくない。それこそ日本のどこかをよこせと言われかねない。天皇をはじめ、皇族から政府要人、民間からも誠意を示すためお見舞いに向かう。

 「明治維新以来、政府のみならず国民も、欧米の先進国にならうことを願い、努力をかさねてきた。文明開化という言葉はすでにすたれていたが、文明を重んじる国と見られることを悲願としていた。そうした努力にもかかわらず、国賓としてまねいた皇太子ニコライを警備担当の巡査が斬りつけたことは、欧米諸国に日本は野蛮国として印象づけることになる。そのような行為をおかした者がいたことは、日本人として恥しく、見舞いをすることによって、欧米人の印象を好ましい方向にみちびこうとする気持ちがあった」

 日本が欧米なみの文明国となっていないと、政府悲願の不平等条約の改正などももちろん出来ない。このままニコライが気分を害して日本を去られては大変なことである。天皇や政府は当初の予定通り東京にニコライが来てもらわないならなかったが、最終的にはニコライは母国の指示でそのまま日本を後にした。幸いニコライはそれまでしてくれた自分への好意をうれしく思っていたし、ロシアも賠償問題などにも及ばなかった。

 ところで津田三蔵はどうしてこういう凶行に及んだのか。津田はロシアが日本に対して強圧な態度をとっていることに不快を感じていたとも言われている。
 ニコライは来日に当たりまず天皇のいる東京に来て、天皇に挨拶をするのが礼儀なのに、長崎、鹿児島、京都、滋賀をへて東京に行くのは、日本の国情を調べるためではないか。いずれは日本を侵略する意思があるのではないか。天皇は最大級の歓待を指示しているのに、ニコライはその好意を感謝していない。むしろ蔑んでいるのではないか。その驕慢さは許し難いと考えていたとも言う。
 あるいはニコライは西郷を連れて来ている。西郷が日本に戻れば、また西郷が政治の頂点に立ち、津田自身西南戦争で軍功を立てたことが、逆に粛清され、勲章を取り上げられるからだと言ったとも言う。
 ただ詳しい、正確な動機ははっきりしていないようだ。日本政府としては津田が精神を病んでいたこともあったので、そうした事情から凶行に及んだとなってくれれば一番有り難かった。
 とにかくロシア政府に対してはかなりの気の使いようであった。その中で犯人の津田の処分が問題となる。政府としては津田は極刑にしてロシアにそれを示したかった。そのため、政府は津田の裁判に介入してくる。津田をどんな罪状で裁くかである。政府は刑法百十六条(皇室罪)を適用し、津田を死刑にしようとした。刑法百十六条とは天皇、三皇(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子に危害を与えた場合、死刑に処すというものである。それを拡大解釈して皇太子ニコライも日本の皇太子と同一に扱い、それを適用することで、津田を死刑にし、ロシアに一つの誠意として示そうとした。しかし司法の大審院はそれを外国の皇族にも適用することは不当であり、今回の事件は、普通人に対して危害を加えたと解釈すべきであり、普通殺傷罪の未遂犯として扱うのが正しいと政府の意見を拒否する。
 面白いのは当時の政府は薩長閥で成り立っており、維新に功績のあったその他の藩は冷遇されていた。だから非薩長閥で構成されていた司法側は断固として政府の強引な司法介入を拒否続けた。これは江藤新平の意識と共通する。そして法律上、たとえニコライが皇太子であっても、あくまでもロシアの皇太子であって、日本の皇族ではない。だからどんなことがあっても日本の皇室罪は適用できないのが正しい。政府は司法の判断に対して、それではロシアと戦争になると脅したりして、何とかしようと介入したが、津田は無期刑に処され、釧路集治監収監される。しかし同年(明治24年)9月29日急性肺炎で獄中で病死した。

 私は大津事件としてニコライ二世が襲われたことは当然知っていたが、その後の経緯はこの本で知ったことが多い。特に政府と司法との間で津田の処遇をどうすべきか、多くの意見が戦わされた経緯は興味深い。明治政府が出来てわずか二十数年である。国として体面はあっても実力と内容が整っていない頃の事件である。だからロシアに気を使う政府の姿勢はわからないことはない。けれどそれを押し通したら、国としての体面が逆に潰れていた可能性があった。特に強引な皇室罪の適用は、文明国を目指していた日本をそういう国ではないと後年思われかねない。それを阻止した非薩長閥の存在があったからであった。非薩長閥は単に政府の薩長閥に対して不満を持っていただけのことかもしれないが、結果それが良かったことになるのは皮肉な話でもある。私はニコライの動向や津田が何故犯行に及んだかよりも、事件後津田を巡る政府と司法側の意見の戦いの方が面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:ニコライ遭難
著者:吉村 昭
ISBN:9784000017008
出版社:岩波書店 (1993/09/06 出版)
版型:359p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

2010年08月20日

山口瞳著『山口瞳対談集』〈4〉

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 また山口瞳さんの対談集に戻る。このシリーズはこの巻を含めてあと二冊であるから、頑張って読んでしまおうと思っていたのだが、実はこの本を読んでいる時、夏バテと夏風邪でヘトヘトなってしまい、途中で投げ出してしまった。やっと身体の状態が回復したのでまた手にとって読み出したが、どうも前半は忘れてしまっているので、後半気になった部分のことを書く。
 とりあえず今回の山口さんの対談相手は、團伊玖磨、近藤日出造・杉浦幸雄、高橋義孝、永井龍男、嵐山光三郎、吉行淳之介、矢口純・井上ひさし、丸谷才一、諸井薫、藤原審爾・鳴瀬速夫、串田孫一、伊丹十三、大原麗子、田村隆一、矢野誠一の面々である。
 例によって対談相手が作家仲間だけでなく、多方面に渡っている。これは山口さんの多趣味から、そうした人脈が出来ていることの証明でもあろう。その中で高橋義孝さん、丸谷才一さん、田村隆一さんとの対談内容にちょっとひかれた。
 高橋義孝さんとの対談は「子どもも学生もぶん殴れ」という題がついていて、その中で高橋さんが言っていることが至極真っ当な
ことなので書いてみる。

山口 帰るときに、「さようなら」といいますね。わたしどもは「お先に失礼します」といったけれど。何か対等であることを主張している感じがありますね。そういうのがいいのかもしれないけれど。

高橋 対等じゃないですよ、ちっとも。同じ人間だろう、対等だろうなんて、生物学的にはそうでしょう。社会学的には違いますよ。だからデモクラシーなんてダメです、ぶっこわしたほうがいい。(笑)・・・まあ対等もいいですよ。でも低いところに対等を持ってきちゃう。いいものを下げちゃう。それで平気だ。そういうわけでしょう。進歩も発展もないじゃないですか。戦後の学校教育は全部そうです。ものを知らない野郎にレヴェルを合わしちゃうでしょう。こっちへ来いじゃなくて、一寸お待ち下さい、そちらへ降りて参りますから、なんです。

 この対談は1970年に行われているが、この当時もこんなことが言われていたんだなと思ってしまう。いや多分もっと昔から見識のある人たちの間ではそう思われていたんじゃないかと思う。そしてそのままズルズルきてしまい、今の日本の学力、科学など低レベルに陥ってしまったのではないかと思ってしまう。対等とか平等だとかいうものをはき違えると、とんでもないことになることを今の私たちは身にしみて感じられるはずだ。

 丸谷才一さんとの対談では「東京を語る」となっていて、その中で面白かったのは、「よそ者を許せる町-東京の生命力」と「山の手文化の正体」であった。
 「よそ者を許せる町-東京の生命力」でお二人は次のように言っているのは“なるほど”と頷ける。

山口 僕が東京を面白いと思うのはね、藤圭子という歌手が「ここは東京嘘の町」と歌ったでしょう。これを大阪でやれるかといったら、やれないと思うんだ。その歌、ある程度ヒットしたんです。つまり「ここは東京嘘の町」に、みんなが喜んだわけですよ。これをたとえば広島なんかでやったら、藤圭子は袋叩きにあいますよ。それが東京という町の面白いところじゃないですか。

丸谷 そうそう。僕はだいたい町の文化程度というのは、プロ野球の場合、その町がフランチャイズでないチーム、つまりビジター・チームをどれだけ大っぴらに応援出来るかどうかということでわかると思うんです。

山口 広島が優勝した時、「広島優勝祝賀会」というのが東京のほうぼうでありましたけれど、広島で「ジャイアンツ優勝祝賀会」というのは出来ないですよね。

丸谷 他人を許す度合いが強いというのは高級な町ですね。東京は、東京者でない人間を許す度合いが非常に強い。それが東京という町の生命力なんじゃないかしら。

 これはある意味東京にいる人間が様々な地域から来て成り立っている町であり、その数がそれなりにまとまるからそういうことが可能なのだろうと思える。そしてそうしたことがお互い許せ、東京の生命力となっている、というのがお二人の意見である。
 まあ多様性を無意識に認めているだけのことで、むしろ他者が関心がないだけのことで、だからいいんじゃないのといった程度の問題のような気がする。そうした多様性の存在を無意識であれ認めていることが、生命力ともなり得るとも言えるから、お二人の意見はある程度妥当性を得ているのだろう。

 「山の手文化の正体」では、

山口 僕は、地方都市から出てきた人のほうが流行に敏感だと思うんです。東京の人って、たとえば串田孫一さんのようにデパートの吊しぼうを買ってきてね、それが擦り切れるまで着ているんです。で、だめになると、また吊しぼうを買う。
    僕はダンディで洒落ているなと思うんだけれど、地方から出てきた人はそうは思わないね。いきなりダンヒルを買う。それで百円ライターを持っている人をいくらか軽蔑したような顔で見る。もちろん全部じゃないけど、そういう傾向があるんじゃないですか?

丸谷 それは、山の手文化というものがそういうふうにして出来たものだからだと思うんですね。つまり、山の手文化の中心になった人たちは東京帝国大学の教授たちだとしますね。彼らは、たとえば福島県とか佐賀県とかから出てきて、東京帝国大学を卒業するとすぐロンドンとかベルリンに留学する。そこで生活様式を学んで、佐賀や福島と、ベルリンやロンドンがくっついた生活様式を作った。それが山の手文化だと思うんです。だから山の手文化というのは、地方文化プラス西洋で、本当は東京じゃないんですよ。

山口 本当の東京は、ダウンタウンにわずかに残っているだけなんですね。

丸谷 つまり江戸抜きの東京を作ったのが山の手文化でしょう。

 この考えは面白いし、妙に納得してしまう。

 田村隆一との対談では、「死者のないところに文化はない」と題しているところで、「言葉」の存在感をいう件がある。

山口 いわゆる“内向の世代”の人たちの小説を読むと、舌を巻くほど巧いんで、感心するんですけど、読後五分ぐらいすると、それが一体どうなんだと言いたくなっちゃうんです。

田村 あれは不思議だな。もちろん文学ですから言葉が核をなすんだけれど、結局そういう人は言葉によって救われるという体験がないんじゃないの。言葉を駆使する能力とか、言葉に対するテクニックは訓練によって非常に発達しているけれど、言葉につまずいたり、救われたりという経験が、割合なくなって来ているんじゃないかと思うんです。それは個人だけの問題じゃなくて、状況の問題もありますけどね。実際、昔の人は言葉につまずくんだよ。死んでも言えないという言葉がある。口にしてはいけない言葉がある。それは個人個人がみんな心の底に持っている言葉なんだ。そうなると、言葉は単なる記号じゃなくなり、全人格を支配するようになる。それはもうパワーなんですね。もし言葉を単なる記号として考え、その効果を計算し、小説や詩を構成しようと思ったら、それはいろんなテクニックがあると思う。しかし、言葉で何らかの世界を創造しようと思ったら、言葉につまずいたか、救済されたかという体験がないと、モチーフは成り立たないと思うんです。いまはそういう言葉に傷つくということがないんかないかな。

田村 そこがある意味では救いだと思いますね。確かに祖父たちの時代に較べれば、言葉は乱れているでしょうが、それは順繰りですからね。問題は、言葉に傷ついたり、救われたりという人間的な体験が、文化の底になかったら、どんな言語になったとしても、仕様がないということでしょう。言葉と人間とがそういう関係で結ばれいないのなら、詩や小説もコンピューターで作ればいい。一つのシチュエーションと多少のセンスがあれば、それで出来るんです。日本で詩人が激増したしたことがある。詩人というのはコピーライターでしょう。(笑)だから、これは電通と博報堂のお陰なんですよ(笑)自称他称を含めて一万五千人ぐらいいる。

 さすが詩人である田村さんの言葉である。山口さんも言葉に対しては敏感な人で、この対談集の中で、何度か絶対に使いたくない言葉があるといっている。そのことは我々が普段何気なく使っている言葉なのだが、山口さん自身は絶対に使えないと言う。山口さんは一つの言葉に対して好き嫌いがはっきりしている人だから、そのことにこだわる。
 でも、田村さんが言わんとすることはよく分かる。私たちは言葉を記号として表現の対象としているところがあるが、言葉自体人を傷つけ、あるいは人を殺す力がある。そして逆に一つの言葉で救われることもある。つまり本来記号以上の重みがそこにはあるのだ。しかし最近はそれが伝わってこない文章が多いということなのだろう。そんな言葉の重みと責任を持って使われた小説や詩はやはりそこから滲み出てくる“何か”が違う。あるいは会話の中で発せられた言葉が、単にものを表現しただけのものじゃないということがわかった時、ハッとすることがあるが、多分その時は言葉の裏にある重みと責任を感じた時じゃないだろうかと思う。


評価
★★


書誌
書名:山口瞳対談集〈4〉
著者:山口 瞳【ほか著】
ISBN:9784846010164
出版社:論創社 (2009/11/30 出版)
版型:318p / 19cm / B6判
販売価:1,890円(税込)

2010年08月19日

森まゆみ著『路地の匂い 町の音』

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 夏バテと夏風邪をひいてしまい、本を読む気分にもなれず、一週間無為に過ごしてしまった。本も小難しいものは読めずに、何を読んでいいのか分からずいたところ、森さんのこのエッセイを書店で見かけたので、この本を読んだ。
 森さんといえば、「谷根千」から、ちょっと前まであった町の建物、そこでの生活のあり方やその保存に力を注がれている。この本はそうした町での生活と建物の保存について書かれた雑文集である。
 森さんは1954年(昭和29年)生まれだから、私より二つ上である。だからここで描かれる森さんが子供の頃の原風景は、私にも思い至るところがあって、思わず「そうそう、あった、あった!」と言いながらいつも読んでいる。
 私はこうした昔の日本の生活風景が大きく変わったのは東京オリンピックをはさむ前後の高度成長期だろうと思っているが、ちょうどその頃、私たちは子供の時であった。だから日本にかつてあった町並みや生活風景の最後の経験者であれたのではないかといつも思っている。そのためそうした町並みや生活風景などがかろうじて思い浮かべられる世代なのである。そうしたことがかろうじて共有出来るのである。
 そんなことがあって、森さんたちが大切にする町並み、生活風景は私の思い出と重なるものだから、懐かしい。多分それが森さんの著作を読ませるのだろうと思っている。
 かつてあったそうした町並み、生活風景の中には人との関係が濃厚な部分があった。多分それはひとまとまりでまとまって生活しなければならなかった経済的事情がそうさせたのではないかと思われるが、それが日本経済が高度成長期に入ることによって、解放され、それぞれが独立して生きていくことを可能にしたのだろう。そしてそれは家族関係や親族関係、隣近所の関係を希薄にする。建物自体もそうしたことから隔離したような建物がどんどん建っていく。
 一端そうした環境が出来上がってくると、“案外楽だな”ということになってくる。ところがその内、孤独感や疎外感がじわじわと忍び寄ってくる。ここが厄介なところで、人間関係を煩わしいと思う一方、それがまったくないと不安でしようがないのだ。それでも経済が右肩上がりで上がっていき、活気があった頃はまだそうした雰囲気で誤魔化せたところがあったが、ひとたび不景気になり、経済が停滞してくると、孤独感や疎外感がどうしようもないもとなってくる。そのやり場がないことに不安で不安でしょうがなくなってくる。
 これが今かつてあった日本の町並みや生活にあった人間関係に郷愁を感じ始めている理由であろう。だから森さんたちが主催していた「谷根千」が支持され、谷中や根津、千駄木に多くの人が訪れるのだ。ここには森さんたちや町の人びとの努力により、建物だけでなく、人間関係も時代の変化を受け入れながらも残されている。これが森さんたちが言う町並み保存ということなのだ。
 得てして古い建物だけを保存すれば、町並み保存と勘違いしてしまうが、そうではない。この本の「町並み保存てなに」に書かれていることは考えさせられる。

 夫の故郷岩見沢から近い夕張に車で行った。
「ワァ、古い建物がたくさん残っていて、気持ちの落ちつくいいトコだな」と声をあげる私に、運転しながら夫は言った。
「夕張炭坑の大事故以来、炭坑は衰微してついに閉山に至ったわけだし、いま次の産業を探して必死なんだ、べつに町並みを保存しているわけじゃない。お金がないから立て替えられないだけなんだ。そういういい方は無責任だよ」
 私はシュンとした。たしかに歴史や文化の保存といったキレイゴトで町並みが残ったためしがない。日本のように新しもの好きの国民は、経済力さえあれば、家を建て替え、畳も障子も新しくする。古い町並みがあるということは、その町の沈下や停滞を意味する場合が多い。
 町並み保存に成功した所は、多くは過疎地だったり、廃村だったりする。農業、林業、水産業もふるわず、起死回生の策として古い町並みを観光資源として活用し、客を呼ぼうというのだ。

 新しいものに建て替える予算がないから古い町並みが残っているのだと言われ、町の再生のためにはそれを単に観光資源として使うしかないというのは、どこか悲しいところがある。そこには一切生活感がない。観光客がいなくなればゴーストタウンと同じではないか。森さんも「しかし正直にいうと、町並みが保存された町へ行くと多くの場合、わざとらしい、画一的、息がつまる、という感じがぬぐいきれない」とはっきり言っている。まさしくその通りだろう。むしろ「いろんな時代のいろんな様式の建物が、ズレながら混ざっていたら、けっこうバラエティに富んでおもしろい。その方が自然だ」と当たり前のことを言われている。
 そういうバラエティさはやはり、人が今も暮らしていることが大前提にあると思う。昔と現代を混ぜ合わせ、折り合いをつけながら生活している町が、私たちには郷愁感を誘う。そして今でもそうした町並みで人が暮らしていることに、どこか安心感を感じる。
 もちろんそこで暮らす人達にとって、そうした建物を維持しながら生活するのは大変だろう。でもそんな苦労も含めて、町全体が“生きている”と言えるのではないかと思う。町の歴史とはそういうものではないかと思う。

 もう一つ面白い話がこの本にあった。「天守閣の思想」で、バブル期に数多くの高層ビルを生んだ。その典型が丹下健三の都庁をあげている。森さんは「このビルの使いにくさといったらない」と言い切る。とにかく目的の部署に行くまでに時間がかかりすぎると言うのである。
 これ一度でも都庁に用があっていった人はよく分かると思う。何機もエレベーターがあるのはいいけれど、何階から上は行かないとか、止まらないとか、それぞれ違う。高速エレベーターだけれど、乗るまでに手間取るのである。第一とか第二とか、北側とか南側とか、目的の場所にストレート行けたためしがない。
 だいたいここに来るたびに不思議な感覚にとらわれる。たとえば新宿から都庁に行くと、地上を歩いているのか地下を歩いているのかわからなくなり、都庁も一階から入っているのか、それとも地下から入っているのかわからなくなる。
 大江戸線が出来て、都庁前で降りて、そのまま都庁に入れるようになっても、いったい自分はどこにいるのかわからなくなる。絶えず案内板を見ていないとならないのだ。このビルは役人が入るためのビルであり、民間人をわざと入れにくくしているビルのように思えてくる。
 ただこのビルの不便さを感じているのは民間人だけじゃないようだ。森さんは「昼休みの都庁では職員が多数、机にうつ伏せで昼寝している。忙しく疲れているわけではない。休み時間、下に降りる行き帰りに二十分かかり、都庁内の食堂は混んでいるので、持参のお弁当を食べ終わると、外を散歩したりするのをあきらめて昼寝しているのだ、と聞いてびっくりした」と書いている。
 これを読んで、“ざまあみろ!”と思う一方、休み時間がなくなるほど移動が大変なところで仕事をしていて、一日中そこにいるしかない役人が、外の状況を知り得るのかとも思う。
 このビルの机の上で都市計画を立てられるのである。認可が下りるのである。自ら率先してな無様なデザインの超高層ビルを喜んで建ているのである。だから再開発といって、馬鹿でかいビルを建てることに何の疑問も感じない。その結果どうなったか。あっちこっちに超高層ビルをおっ建て、ヒートアイランド現象を生む。そこで暖まった熱気が練馬区を日本屈指の灼熱地帯を生んでいるのである。こんなこと最初から学者の意見を素直に聞けばわかっていたことじゃないのかと思ってしまう。ここにも民間人や学者を受け入れない都庁の庁舎と同じ姿勢が、役人に移ってしまったのではないか、思えてくるのである。
 斬新なデザインの近代的ビルは機能的に見えるけれど、実はそうではなく、しかもその中で仕事をしていることで、ほとんど隔離された状態と似たものである時、果たしてそれが人間的なのかどうかを考えさせられる。


評価
★★


書誌
書名:路地の匂い 町の音
著者:森 まゆみ
ISBN:9784591119945
出版社:ポプラ社 (2010/08/05 出版)ポプラ文庫
版型:333p / 15cm / A6判
販売価:672円(税込)

2010年08月04日

柴田光滋著『編集者の仕事』

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 私が思っていた編集者の仕事とはどんなものだろうと、自分で思い浮かべてみた。それは出版の企画から作家の選定、原稿の依頼、その原稿を本にしていく程度しか思い浮かばない。大方はそれで間違いはないのだろうけど、この本を読むまで編集者は本に、それこそ印刷された文字一文字一文字、余白まで、ここまでこだわるのかと正直びっくりした。

 「たしかに内容は第一です。しかし、だからと言って形はただあればいいというものではないでしょう。読者はともかく、もし書籍の編集が形を軽視するとすれば、それは仕事の半ば放棄しているに等しい。書籍の編集とは、言わば一次元である原稿を獲得し、その内容にふさわしい本という三次元のモノに仕上げて読者に届ける作業だからです。
 タイトルは内容を示せばそれでいいものなのか。書名著者名がわかるだけでジャケットや表紙は要件を満たしているのか。本文の体裁は読めさえすればそれでかまわないものなのか。本文紙は白っぽければ何でも同じものなのか。・・・・」

 と著者は書いている。本の内容に見合う本を本という形まで作り上げるのが編集者の仕事だというのである。もちろん校正には校正する人、印刷は印刷業者、装丁は装丁者と、それぞれ専門の担当者がいるのだろうが、原稿が一冊の本になるまでの過程にいるこれらの人々を仲介し、自分たちが思い描く原稿の内容と出来上がった本が一致しているかどうか。あるいは読者が読みやすい文字サイズか、配列か、とか、紙質や紙の色までこだわるのだと知った。そして予算にあった装丁であるかどうか。だからといって貧相でないかどうか。帯の内容はちゃんと読者の目を捕らえるかどうか。それこそとことん原稿から本になるまで、あらゆるところに目を光らせるのだ。 こうして編集者が一冊の本になるまで、細部にこだわったものは、もう一つの作品にまでなっている。だからいい本は、その存在だけで実在感があるのだと思い至る。
 そう、内容もそうだけれど、一冊の本をものとして見れば、時には芸術作品的な要素させ感じさせる。私はこれまで何度か言ってきたけれど、本は内容だけに限らず、その本を持っているだけで豊かな気持になれる時があるのも、そういう理由からなんだなと思ったのである。
 特に本文が読者に読みやすいかどうかのこだわりは、へぇ~、ここまで考えているのかとさえ驚いた。たとえばこの本は新潮新書だけれど、読者はサラリーマン多い。そしてそのサラリーマンは電車の中で本を読むことが多い。その際一行の文字数を40文字にすると、片手で吊革に掴まっているから、もう一方の手でこの新書の地(下の方)を指で支えて読む事になる。その時40文字だと親指が本文にかかって読みにくい。だから余白のバランスを考えて一文字減らし、39文字にしたという。本当なら一文字でも多く入れ、コストを抑えたいところであろうが、読者の利便性を考えてあえてそうするのである。とにかく読者が本を読んでいて、本文に集中出来る心地よさを提供してくれている。そして多分そのことは読んでる側は意識しない。そのくらい配慮されているのだ。

閑話休題
 
 先日三宅理一さんの『秋葉原は今』を読んだ。この本は内容はかなり面白い。私は興味深く読ませてもらったのだが、いくつか気になる点があった。明らかにワープロの変換ミスによる誤字がいくつか見つかるのである。私の読み方はかなり荒い方なので、普通の人が気がつくであろう誤字などわからない方なのだが、そんな私でもいくつかそうした誤字を見つけた。読んでいて、あれ?何かおかしいなと、そのおかしな点が何なのか、考えてしまう。その分先に進めない。読むリズムが崩れる。そしてやっとそれが変換ミスによる誤字だと気がつくのである。
 また英字のフォントがそれだけ変わっているのである。これは見た目にも違和感を感じ、何でだろうと思っているうちに、やだなとさえ感じた。些細なことかもしれないが、気になり始めると、結構後を引くものだ。こういうことがないように心配りするのが、編集者の仕事の善し悪しになるのだろう。

 印刷で思い出すことがある。
 学生時代アルバイトをしていた頃に、共産党系の業界新聞を印刷しているところへ、ここで活字をひろっている職人さんが注文した本を配達していたことがあった。その職人さんはインクで汚れた制服とやはりインクで汚れた軍手姿だった。私が頼まれていた本を手渡すと、その軍手をを外して、ズボンのポケットにある財布からお金を取り出した。軍手を外しても手は結構インクで黒かった。職人さんはうれしそうにいつも本を受け取るのが印象的だった。インクの匂いが漂い、薄暗い感じのところだったという記憶があるが、机には組まれた活字の版でいっぱいであった。
 今の会社で本屋をやっていた頃、大手町で小さな本屋にいたことがある。店では文房具、印鑑、印刷も扱っていた。印刷はただの窓口で、名刺や挨拶状、年賀はがきなど印刷の注文があると、その原稿を持って、神田村にあった小さな印刷屋さんに持って行く。
 その印刷屋さんは細長い間口に一台の輪転機を置いてある程度の印刷屋さんである。しかし壁全体が活字の棚であった。ここから活字をひろって、版を作っていたのである。いわゆる活版印刷であった。私は出来上がりを待っている間に、何度もその金属活字の精巧さをながめたものであった。この組み合わせで、名刺になり、はがきになるのである。その過程を見てきたものだから、こうした手間のかかる印刷には、どこか暖かみを感じてしまう。何と言っても一文字一文字の金属活字がいい。
 かなり古い本などのページを指でなぞってみると、文字が僅かに、多分インクの分浮き上がっているのを感じることができるものがある。あれなど間違いなく印刷されたものなんだなと思える。

 さて、この本を読んでいてへぇ~、そうなんだと思ったことを書く。

 スピンという紐のしおりである。これを付けないと一冊当たり定価十円は低く抑えられるという。

 本のサイズの話では、単行本で多いのがB6判と四六判。しかしその見分けがしにくい。B6判は128×182ミリ、四六判は127×188ミリとされている。ただ四六判は出版社によって微妙にサイズが異なるらしい。何故四六判と呼ぶかというと、江戸時代の代表的なサイズ美濃判を八倍にしたものを「大八ツ判」と呼び、これを32面取り、つまり32頁分取ると、四寸二分×六寸二分の紙がとれたとろから四六判と呼ばれたそうだ。明治以降イギリスの判型に近いこともあり、出版物にはよく使われてきた。今でも単行本の代表的なサイズである。
 紙のサイズはA判とB判があるが、A判はもともとドイツの規格でA全(A1)に始まり、その半分がA2、そのまた半分がA3となり、それが我々がよく使うA4となり、更にその半分のA5が処方せんサイズである。
 一方B判は江戸時代の美濃紙に由来する日本独自のもので、B全(B1)に始まり、B4,B5となっていく。面白いのはA全が841×1189ミリm、すなわちほぼ1㎡であるのに対して、B全は1030×1456ミリでほぼ1.5㎡、つまりA全の1.5倍になる。縦と横の比率が1対ルート2(1.414)になり、半分に切っていてもその比率は変わらない。

 書籍の本文紙は大雑把に言えば白であるが、実際は真っ白くない。ほぼ真っ白な紙と言えば、コピー用紙が身近であるが、光の反射が強いので、長時間読んだり書いたりするのには向いていない。原稿用紙にイエロー系が多いのも何より目が疲れないからである。

 以前に最近函入りの本が少なくなったと書いたが、それには理由があるという。一つは定価を抑えるためであり、もう一つは長期保存の必要のない本には無用だからという。定価を抑えるという理由はわかるが、長期保存の必要ない本には無用だからというのは、どういうことなんだろう。今流通している本のほとんどが函入りじゃないところを見ると、それらの本は長期保存の必要ない本ばかりということなのか。あるいは本は今や長期保存するものじゃないということなのだろうか。

 日本の近代出版史から見れば、昭和という時代は文学全集の時代とすら言える。その果たした歴史的役割は、1.出版社、印刷所や製本所、取次や書店を含む出版界全体の経済的基盤を作ったこと。2.印刷や製本といった技術面が一新され、紙の大量調達や本の大量輸送が可能になったこと。3.出版と新聞広告との間に密接な関係が生まれたこと。4.文学の大衆化が始まったこと。があげられ、全国の家庭に小説が広く普及するのはここからである。
 全集を企画し発売するにあたり、「巻立て」に苦労するという。「巻立て」とは全集の時代区分、全何巻とし、そこにどの作家や作品を割り振るか、基礎設計をいう。これは言わば人事と同じで、波風が立ちやすい。一巻に複数の作家を収める場合、「あの作家とは一緒になりたくない」と言われたり、文壇の人間関係にも慎重に配慮しなければならないという。
 また配本順(発売順)も難しい。配本順は売れそうな順、要するに人気の順番で決まる。どんな全集でも部数は次第に落ちてくるので、当然ながら印税に関わって来るので、作家にとって早い配本の方が望ましい。実際したたかな老作家は収録を認めるに当たり、配本は十番以内にしろと条件を出したという。いるんだね、こういうの・・・。
 そうそう、昔小学館から出した「昭和文学全集」に村上春樹さんのが収録されなかったので、業界では話題になった。今から思えばあれはやはり片手落ちだったと思う。これだけでもこの全集の価値は落ちてしまいそうだ。よく古本屋さんの均一本コーナーにこの全集の端本を見かけるが、それもそんことが関係しているんだろうか?
 いずれにせよ、たかが一冊の本でも、そこには様々な配慮がなされていることを知っただけでも、この本を読んだ価値があったし、そこには普段意識ないことが多くあるんだな、と言うことを知った。一冊の本を手にするとき、今までと違う目で本を見るようになる。まずは読む前にしみじみ本の状態を眺めてしまう気がする。

評価
★★★


書誌
書名:編集者の仕事―本の魂は細部に宿る
著者:柴田 光滋
ISBN:9784106103711
出版社:新潮社 (2010/06/20 出版)新潮新書
版型:206p / 18cm
販売価:735円(税込)

2010年08月03日

吉村昭著『白い道』

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 先日隅田川花火大会をテレビで見た。実は我が家は昨年地デジ対策を施し、それに伴いテレビもデジタルハイビジョンに替えたので、この花火大会の映像が今までのアナログテレビよりきれいに見えるんじゃないかなと期待していたのである。確かにきれいななんだろうなと思えたが、期待したほどではなかった。やっぱりテレビの画面サイズがものういうようで、この程度じゃ期待するほど感動は得られないようである。ただ音の方が鮮明であったような気がする。花火が打ち上がる音がはっきり聞こえたし、花火が開いた時の音も結構臨場感があった。要するに花火は実際に見た方がいいようだ。
 その隅田川である。テレビでは花火の美しさと、川面に映る花火も捨てがいたことを言っていた。確かに川で打ち上がる花火は風情があっていいなと思ったが、一方この川では悲惨な光景もあったんだなと、ちょうどこの本を読んでいたので思った。

 「三月十日の夜間空襲で下町一帯が焼きはらわれた後、隅田川には窒息死して流れ出た多くの死体が見られた。私は、尾竹橋の上を自転車で渡る時、半ば習慣のように川面を見下した。数人の通行人が欄干にもたれているのが常で、露出したわずかな洲を中心に多くの死体が橋下に寄り集まっているのをながめていた。
 見慣れた死体もあって、私は死体の中からそれを眼で探し出す。それは、日がたつにつれて黒ずみ、汚れていった。通行人はしばらくすると無言で欄干をはなれ、私も自転車のサドルにまたがる。妙に静かな時間であり、静かな情景であった。それは決して特異な情景ではなく、私の視覚に物憂くふくれるだけのものにすぎなかった」

 「昭和二十年月十日の夜、東京の下町一帯が夜間空襲で焼けました。それからまもなく、隅田川の橋の上を自転車で通るたびに、尾竹橋の欄干から川面を見下ろすのが私の習慣となりました。私だけでなく、五、六人の人が同様に川面を見ています。下には水死体が浮かんでいます。空襲で下町の人が火に追われ、熱いので川に入る。燃焼のため酸欠になって失神して水死した。川に浮かんでいるのはこうして死んだ人なのです。
 酸欠のために死んだので、焼けておらずきれいです。このような水死体は付着力があるのか三十から四十体がくっついて、あたかも筏のようになっています。手提金庫を背負った中年の男とか、若い女の人とか、若い女はなぜかうつぶせになっている。子供をおぶった婦人などが、みなおしりを上にして浮いている。私だけでなく橋の上を通る人はみんなそれを見ています。
 しかし、その死体の群は川の一つの風物のようにしか感じられない。気の毒だとか、無残だとかいう感情は一切ないのです。無感動というか、無感情に風物の一つとして見ていたのです。これは私だけではなく、川を見おろしている人がすべてそうでした。そしてその風景を見あきると離れていきました。こうした光景に対して何の感慨もない。戦争の時代というのは、死に対して無感覚になっていたと思います。いろいろな死体を見ましたからそうなっていたと思います」

 似たような光景を読んだことがあった。それは戦争ではなく、関東大震災の時の話である。田山花袋の『東京震災記』にも川面をうめた死体のおびただしい数が記述されていたはずだ。この川は下町の風情には欠かすことの出来ないものであろうが、一方で震災や戦災において、多くの死体を浮かべた川でもあったんだと思ったのである。

 吉村昭さんの死後、数冊の単行本未収録のエッセイが各社から出版され、ある程度時間がたったので、もうこれ以上こんな本は出ないだろうと思っていたら、本屋の新刊棚でこの本を見つけてしまった。ファンとしては読まないわけにはいかないので手にする。
 この本では吉村さんが書く素材をノンフィクションから戦史小説へと変え、そして歴史小説に変えていった理由が書かれている。吉村さんは小説家としてデビューしていわゆる私小説や虚構小説を書いていた。そして戦史小説を書くに至った理由が、自身が体験した戦争の姿を見つめ直すことにもなったからだという。吉村さん自身は実際戦争に行った経験はない。ただ戦争の被害者としての体験はある。たとえばこの隅田川の光景もそうである。
 吉村さんは戦争は罪悪とは思っていなかったし、何となく雄々しいもの、華々しいものと感じていたと書いている。ある程度高揚感の中で、戦争を身近に感じていたようだ。だから終戦を聞いた時、異質なものを感じた。もともと「戦争が終わるということは勝つことだと思いこんでいましたから、戦局が悪化してくると終戦はずっと先になるなと思っていました。日本がまた盛り返して勝つまでには相当な時間がかかる、そういう重苦しい感じを持っていたんです。当時、私は戦争が罪悪だと思ってなかったから、平和が訪れたということの意味も本当ににはわからなかったのです」と書いている。
 要するに戦局は厳しいけれど、戦争には日本が勝つと思いこんでいた。いやおそらくそう思いこまされていたというべきなんだろう。そうでなければならないと思っていたのだ。もともとこの戦争は軍部の暴走がそうさせたところがあるにせよ、それを暗黙のうちに支持した国民の感情があったことが問題なのだ。
 ところが終戦を境に新聞などの論調ががらりと変わる。それまでは戦意高揚を煽っていた新聞が戦争を批判し始めるのである。吉村さんはそれに戸惑いを感じたという。だろうな。だって吉村さんはそれまで戦争を罪悪だと感じていなかったのだから。しかし吉村さんはそうした戸惑いから、戦争の起こったわけを次のように考えるようになる。

 「私は呆然としていたわけです。戦争は罪悪とは思っていなかった。たしかに雄々しいもの、華々しいものと感じていました。それが急に罪悪だということになった。たしかに私自身も戦争は罪悪だということがわかりはじめた。そんな無惨なことはないなと思いはじめました。ところが文化人の中には、あの戦争は軍部がやったんだ、私は批判していた、と言う人がいる。
 しかし、こんな小さな島国で、あれだけの大戦争いくらなんでも軍部だけでやれるわけがない。軍部だけでなく日本人自身が戦争をやっていた。それをまずはっきりしておかないと戦争の実態はつかめないのではないか。戦争中、もっともこわい存在は、われわれの近所の人、隣組の組長とかいった人です」

 吉村さんは戦争が終わればそれを批判するのはただの保身のためだと言い切り、人間は時勢が変わったからといって、そんなに考え方が変わるわけがない。そのところに反省ということがあってしかるべきと思いはじめる。吉村さんは十八歳まで見た戦争というもの、日本人というものを書いてみようと思ったと書いている。それが戦史小説への転換意識となったと書いている。
 そしていくつか戦史小説を書く。その際軍部などに残された資料を中心にするのではなく、関係者の体験を直に聞き、物語を肉付けしていく方法をとる。
 そうして戦史小説を書きつづけるが、話を聞きたい人の数が減っていく。体験者、経験者、証言者、技術者の話が聞けなければ、吉村さんの小説手法は段々手詰まりになって行く。これが吉村さんの戦史小説を書かなくなった理由であった。
 そして歴史小説を書くようになる。吉村さんは歴史小説と称する以上、史実を物語の展開のために改竄してはならないと考えている。さらに歴史資料以上にもっともっと細かい様子、たとえば天気や風景など、詳しく現地へ行って資料を探し出し、それを元に小説をよりリアルに描こうとする。つまり書くものは変わったけれど、戦史小説でも歴史小説でも、事実を動かさず調べることの方法や材料は、生きている人からの証言から、文献や現地調査と変わっただけであり、ともに同じやり方だと言っているのである。
 私は吉村さんの戦史小説はほとんど読んでいない。個人的に吉村さん歴史小説が好きである。それは公にされている歴史資料に加えて、吉村さん自身がこだわる細部にあるものが、よりリアルに当時の状況や人物像を身近に感じさせてくれるからである。そしてそう感じさせてくれるのは戦史小説を書かれていた時の手法がそのまま生かされているからだと知るのである。

 最後に吉村さんが戦争が終わったんだな、と実感したことが印象的だったのでそれを書いておく。

 「3月十日の東京大空襲で、下町一帯に焼夷弾がばらまかれ、一キロほどしか離れていない三ノ輪あたりまで焼けました。(略)私はすぐ近くの谷中の墓地に非難して、町が轟々と焼けているのを見おろしていましたが、非難してから十分もすると火傷で火ぶくれした人が続々と墓地に逃げてきたりしました。
 あの頃は灯火管制で、ふだん明るい光に飢えていたから、それだけに空襲の夜の炎の色は華麗に思われました。あれほどの大燃焼は他に知りません。町そのものが燃え上がって、炎が逆巻いているんです。それに軽金属からでも発するものか、緑色や紫色の光なども入りまじる。空は朱に染まって、空の全面から赤い光が全反射していますから、影というものが全然なくて、墓石でも小石でも、物すべてが赤く浮き上がって見えるんです。ちょうど桜が満開で、それがまた、真っ赤に染まって不思議な光景でしたね。

(略)

戦争が終って間もなく、谷中の墓地近くの坂から町を見下ろした夜の印象は強く残っています。町の一角がわずかに焼け残っていて、そこから灯がともっている。灯火管制で闇に慣れていた目には、電灯のまたたきがとても賑わいだものにみえ、ああ電気をつけてもいいんだなと思った。そときに、戦争が終わったんだ、平和がきたんだという実感が湧きました」

 情報として知らされ、それを頭で理解しても、なかなか身体の中でうまく受けいれられないことがある。ところが些細なことを感じることで、それを実感することがある。これはその一例のようだ。そして読む側も「そうだろうなあ」と実感できるのである。


評価
★★★


書誌
書名:白い道
著者:吉村 昭
ISBN:9784000234771
出版社:岩波書店 (2010/07 出版)
版型:208p / 20cm / B6判
販売価:1,785円(税込)

2010年08月02日

三宅理一著『秋葉原は今』

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 2007年度のデータによると、秋葉原の三つの駅、すなわちJR秋葉原と地下鉄日比谷線の秋葉原、それにつくばエクスプレスの秋葉原ターミナル駅で、一日ほぼ40万人の乗降客があるという。これだけの人間が、改札口を通って秋葉原の地に足を踏み入れている。年間1億4000万人を超す勘定だ。10年前、つまり秋葉原の再開発が始まる前の1998年では12万程度であったので、再開発を経て一気に三倍の人間が秋葉原に集まるようになったという。この本によると、「秋葉原は統計上では、年間掴みで3000万人程度の人が訪れ、外国人は100万人を超える規模と予想される。世界の観光者数と比較すると、訪問者数ではパリのポンピドー・センター、ローマのサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する」そうだ。(ローマのサン・ピエトロ大聖堂を訪れる人がそんなものなのかな、と思うが、とりあえずそのことを信用しておく)

 さてこの本はほぼ秋葉原の再開発が終わった現在、その再開発がもたらした意味を考察できる時がきたので、その過程における問題点を、秋葉原の街が成り立っていった歴史を通して考えている。それが面白かった。多分それは個人的理由によるものだろうけど、そのことは後で書く。まずは秋葉原の歴史がかなり詳しく書かれていて、知っていることもあれば、へぇ~と思えることもあったので、その当たりをまとめておきたい。
 東京に鉄道が走るようになったのは、新橋・横浜間で、1872年(明治5年)ことである。そして山手線が秋葉原に達するのは半世紀以上後の大正の終わりを迎えた1925年(大正14年)だった。半世紀も時間がかかった理由は、この地域が経済的に未発達で、政策的に重要でなかったからではなく、江戸時代から古く密集した町並みが鉄道建設を疎外したからであった。
 1890年(明治23年)に現在の秋葉原の位置に貨物駅が建設され、鉄道そのものはその時点で上野からここまで伸びる。ここは神田川が流れていて、この場所が水運の結節点として好都合と判断されたからだ。
 現在の秋葉原から「水運」というイメージを思い浮かべにくいが、現在のヨドバシカメラの敷地がそのまま昔の船溜まりに対応しており、川からそこまで堀割となって水路が引き込まれていた。東北地方から輸送されてきた貨物をここで船に積み替えて、都内各地、あるいは東京湾まで運んだのである。神田川沿いのこのあたりの河岸は神田佐久間河岸と名付けられ、材木商や薪炭商が多く店を構えていたという。(これはNHKの「ブラタモリ」でもやっていた。その時はホンと驚いた)
 さて秋葉原という地名は「あきば」と「はら」と出来ている。本来「あきばはら」であるところを「あきはばら」と読む。この界隈には江戸時代から「秋葉神社」があり、当初はそこから名前を取って「あきばはら」あるいは「あきばっぱら」と言っていたのが、いつの間にかこんにちのようになった。
 秋葉原の読み方が変わった点についても諸説あるが、一般に流布しているのは、地方から来た鉄道官僚が「あきば」の読み方を知らずに、秋葉原の貨物駅を「あきはばら」と名付けたことが原因だといういう説である。永井荷風の『断腸亭日乗』にそのことが記載されているので、それが根拠となっているという。
 では秋葉原の代名詞となっている「電気街」はいつ成立したのであろうか?
 「電気街」の前身は大正時代に遡る。ラジオ時代の到来がこの街を変えたといっていい。NHKのラジオ放送が始まるのが1925年(大正14年)、マチュア無線が許可されるのが、1927年(昭和2年)当時のラジオは真空管や低周波トランスなどの部品を組み合わせてできた簡単な装置であった。そのため回路図がわかれば誰でも作ることが出来、工学系の知識欲旺盛な人間がこぞってラジオ製作に手を染め始めた。その部品を手に入れるためには工場から卸商を経て小売店での店頭販売という流通経路の整備が必要であり、新たに「電気材料卸商」なる卸業者が登場することとなる。これらの卸商は一般消費者を対象としたわけではなかったが、ラジオブームに乗って、卸商だけでなく部品の小売りも行っていた。秋葉原電気街の最古参としてあげられるのが、関東大震災の直後に創業した「山際電気商会」(1923年創業 現ヤマギワ株式会社)と「富久商会」(1923年創業)である。山際電気商会は震災で焼け野原になった秋葉原に創業者山際弘文は新潟から上京し、故郷から妹を呼び寄せ、バラック商店を構えスタートを切った。
 この二社に続くのが、秋葉原の廣瀬無線(1925年創業)、浅草の志村無線(1930年創業)、隅田川の向こうでは谷口商店(1930年創業 現ラオックス)が店を構えた。
 大正末から昭和の初めにかけて広まったラジオ熱も日中戦争が始まり、戦時統制経済が強化され、材料の調達も困難になり、さらに店主が出征し店の維持さえ出来なくなった。そこへ1945年(昭和20年)の東京大空襲で秋葉原を含めた下町が焼け野原になった。
 が、終戦にともなって統制が解除され、日々の情報を得るためにラジオの需要が一気に増す。ラジオはわずかな部品で出来るからであった。秋葉原は交通の便がよく、戦争でインフラがズタズタになりながらも、国鉄山手線、総武線、地下鉄、都電はいかなる状況になろうともきちんと動いていたし、秋葉原はそれらの交通機関が重なり合い交通結節点を形成していたことが大きく作用していた。そこにバラックの商店街が並び、闇市を形成していた。ラジオが飛ぶように売れた。秋葉原に次々電気店が開業していく。
 古参の二店(山際電気商会、富久商会)に対して、志村無線、谷口商店、ミナミ無線、鳥居産業(1925年新宿で創業)などはもとの店舗から秋葉原に店を移す。さらに新興電気材料商も続々と参入していく。石丸電気(1945年)は戦前に山際電気商会で店員を勤めていた石丸鶴雄が、山際の店舗再開に先立って秋葉原の地に創業した。同様に角田無線(1946年創業)、サトームセン(1946年創業)、ロケット(1946年創業)九十九電機(1947年創業)、中浦電気(1947年創業)などが店を構えたのもこの頃である。朝日無線電機(1948年谷口商店から家電部門を分離して設立、後のラオックス)、新徳電気(1948年創業)愛三電機(1949年創業)も後を追う。後発組としては、小野電業(1951年創業、後のオノデン)第一家庭電器(1958年創業)などがある。変わり種は、鹿野無線で税務調査が入ったことで電気商を早々見限って1949年(昭和24年)に精肉業「万世」に転身した。それが大当たりして飲食店が珍しいこの地域で大型レストランチェーン店を構えているのは周知の通りである。
 戦後忘れてはならないのは、露店商の存在である。秋葉原方面の場合、電気部品を扱った露店商が集中したことだ。戦後の復員した通信兵が秋葉原のパーツ屋の始まりで、当時としては最先端の通信技術を身を挺して覚えた陸軍時代の経験がジャンク屋やパーツ屋と呼ばれる中古の店に結実した。
 ところがGHQは1949年(昭和24年)8月に都内の露店を一掃することを掲げて「露店営業整備計画」(露店整理令)を発布し、翌年3月までに街頭からのすべての露店を立ち退かせようとするのである。これに公然と立ち向かった人物が後に山本無線を始める山本長蔵で、交渉の末、国鉄ガード下や都の土地の獲得に成功する。それが「ラジオガァデン」、「ラジオセンター」、「ラジオデパート」高架下に全ての露店商が収まった。これらは今もある。この後電波会館ができ、更に電波会館と同じ年に秋葉原デパートがオープンする。
 さて秋葉原にはこうした電気店の他にも有名な企業が存在する。(あるいは「存在した」)たとえば日本通運の本社もここに置かれていた。
 秋葉原は貨物駅から発展し、すでに大正末の時点で貨物取扱量が都内では隅田川駅に次いで二番目だった。ば日本通運は国策会社として1937年(昭和12年)に発足している。電気街の真ん中に日通本社という構図は若干奇妙に思えるが、これも時代を追って考えると日通の方がはるかに古い歴史を有しており、物流拠点の周りに雨後の筍のように電気店や量販店が出現し、周囲を取り巻いていったということである。
1975年(昭和50年)まで貨物駅が存続して、駅に隣接して青果市場が設けられていたのが、それがなくなれば日通本社がここに位置する意味がなくなり、結果として秋葉原再開発が進行中2003年(平成15年)に本社は汐留に移転し、最終的に住友不動産によってビルの建て替えが行われた。
 凸版印刷は、秋葉原に本社を構える代表的企業である。台東区側にある市村座の隣の敷地に大蔵省印刷局出身の技術者四名が印刷会社を旗揚げし、当時の最先端技術である銅凸版法を用いたので、この社名になった。その後本社は道路を挟んで向こう側の神田和泉町に移し、現在は印刷工場は秋葉原から東京の板橋をはじめ全国各地に展開。秋葉原は純粋にオフィスのみを残している。
 同じ神田和泉町にはYKK吉田工業の本社が建っている。世界のファスナーを50%近くを供給するYKKは、創業者吉田忠雄は富山県出身で、1934年(昭和9年)にファスナーを扱うサンエス商会を設立し、後に社名を吉田工業に改める。YKKの創業地は東日本橋で、戦後になって日本橋馬喰町、浅草雷門と本社を移し、1963年(昭和38年)になって現在の地に移ってきた。
 金物系でいえば、我が国の使い捨て剃刀や包丁でトップ座にある貝印も岩本町三丁目に本社を構えている。1908年(明治41年)に遠藤斉治朗が創業し、その後、遠藤刃物製作所として会社組織となる。1949年(昭和24年)のまだ戦後の混乱が続き、秋葉原一帯は焼け野原にバラックが建っている状態の時、東京に進出し、販売会社三和商会の名で岩本町に店を構え、売上を順調に伸ばし、1982年(昭和57年)に貝印の社名に変更した。
 龍角散はその名からも連想できるように漢方薬の系譜を引き、もともとは江戸時代中期に秋田佐竹藩の御殿医を務めた藤井家に伝わる藩薬がその元となっている。藤井家では藩の進取の気風を継いで積極的に蘭学を学び、漢方に西洋の生薬取り入れこの藩薬を改良した。幕末藩医藤井正亭治の代になって、喘息の持病をもつ藩主佐竹義堯の治療のためこの薬を改良し、龍角散と命名した。
 明治の廃藩置県のよって藩がなくなったため、藩薬であった龍角散は藤井家に下賜され、藤井正亭治は神田豊島町で薬種商を始めた。現在の東神田二丁目で、以後今日まで同じ敷地を守っている。1871年(明治4年)のことで、これをもって龍角散の創業年とする。

 もう一度秋葉原の電気街の盛衰をつづってみる。秋葉原の電気店の主力は電気材料卸商であったが、実態として看板とは異なって卸、小売りの兼業であった。秋葉原の秘密はそこにある。つまり小売店に対しては当然、問屋の役割を果たす一方、直接店頭に買いに来た客に対しては、小売りも行った。本来小売店が計上しなければならない利益をそぎ落として、卸値で小売販売ができることが秋葉原電気店の優位な点であり、それが価格の大幅な引き下げを可能にしたのである。
 朝鮮戦争を過ぎたあたりで、日本の景気は大きく上向きに転じ、日本のライフスタイルを大きく変えていく。電気洗濯機、テレビ、冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされ、それらを安く提供できたのが秋葉原であった。それが「秋葉原は安い」と評判を呼び、日本中から人々がさらに秋葉原に集まった。
 秋葉原に登場したビジネス・モデルは、家電製品をメーカーから大量に仕入れ、大量に売りさばく量販モデルであり、仕入価格を低くした分、販売数を大きくすることで利益が取れる。つまり薄利多売の商法である。今ではヤマダ電機やヨドバシカメラなどで当たり前のように用いられているこのモデルは、本来、秋葉原が発祥である。これは我が国が行ってきた販売代理店を通した系列化の方向と真っ向から対立する。しかし家電ブームが起きた1950年代半ばの時点では、メーカー側の販売態勢も未整備のため、マーケットは秋葉原に頼らざるを得なかった。その後メーカーは必死に系列化を進め、秋葉原の電気店もそれを受けいれた。しかしオイルショック後安定成長期に入って、秋葉原のマーケットしての容量はさらに拡大して、電気店側もメーカーの系列化に甘んずることなく、野心的なビジネスに打って出てくる。大型店の展開である。特に積極的だったのが、サトームセン、ラオックス、石丸電気あたりである。しかし店を大型化するといっても隣りに土地がない。だから多少距離はあっても秋葉原内であれば十分ということで、パッチワーク状に土地を入手し、二号店、三号店を出していく。これだと当時あった大店舗法に触れない。この結果1979年(昭和54年)で秋葉原全体の売り上げは年1,300億円に達している。この後パソコン・ブームが到来する。
 我が国のパソコン普及率を追ってみると、時間をかけて「徐々に」変化を遂げたというようなゆっくりした流れではなく、突如としてブームが起こったといった方がよい。パソコンの利用は1980年代後半を通しておおむね10%前後で推移していたが、1995年(平成7年)を過ぎた頃から一気に上昇し、2002年(平成14年)には70%台に達する。つまり、この7年間でかなりの家庭がパソコンをもつようになったということで、その分、売り上げが相当なものであったことは容易に推測できる。実際、電子情報技術産業協会の統計を調べてみると、この7年間の我が国のコンピュータの出荷数は総計で6,000万台に上り、そのかなりの部分が秋葉原で売られたと考えられている。
 秋葉原はパソコンで沸き返った。家電の華といわれたオーディオ関係が過当競争の段階に入り、これ以上の収益性が見込めないところに、付加価値があり将来性の高いコンピュータが登場したのである。しかしパソコンはオーディオと比べて進化の速度が速く、ビジネスとして持続させるには、メーカーから出荷台数の調整、さまざまな部品やアタッチメントの手配、専門的知識に精通した店員の配置などきちんと対応しなければならない。そこで最初に名乗りを上げたのが九十九電機で、次いでラオックスであった。更に部品系の商社からスタートしたT-ZONEである。亜細亜電子工業がトヨムラと組んで、中央通りにオープンした。ソフマップは元はビデオレンタル業から始まり、中古デジタル機器の取引、販売を通して新しい分野で伸びていく。
 もっとも華やかだったのがラオックスで、「コンピュータに関してないものはない」大型店舗「ザ・コンピュータ館」1990年(平成2年)にオープンさせた。その狙いは当たり、全国からパソコン好きの人間が殺到した。1995年(平成7年)を過ぎた頃から秋葉原では、ラオックス、九十九電機、T-ZONE、ソフマップがパソコン四天王と呼ばれた。しかし10年後にはそのうち三つが実質的に消滅するとは誰が予想しただろうか。
 以上秋葉原の繁栄を見ていくと、大量消費社会を背景として、国内で圧倒的シェアを誇るマーケットが確立したという事実がわかる戦後復興期に実質的に誕生した電機と電子の街が、半世紀の間にラジオ、家電、オーディオ、パソコンと商品を進化させ、品揃え、量、価格のいずれを取っても劣らない世界でも有数のマーケットに成長したのである。「出せば売れる」という状況が続き、少なくともつい最近の2000年(平成12年)までは右肩あがりの繁栄を謳歌してきた。「秋葉原に敵なし」とでもいうべき状態が半世紀にわたって続いてきたのである。
 しかし、その奢りが仇となったことは否めない。秋葉原であるということが無言の足枷となり、そこから全国に打って出ようとする企業が意外と少なかったのである。ラオックスやヤマギワ、九十九電機などは全国に店舗展開しているが、駅前のビルの一画に店舗を構えるといった程度で、ヨドバシカメラやヤマダ電機のスケールにはとても及ばなかった。言い換えれば、流通は地域性の中に囲い込まれ、秋葉原にあぐらをかいた状態が続いたのである。そこに再開発の話が浮上してきたのである。これからは再開発がどのように進んでいったのか。そしてその再開発が最初から問題を含んでいたものであり、その結果、再開発を望んだ電気街が日本の経済的動向もあるが、逆に自らの首を絞める結果となったことが書かれている。これがまた面白い。
 秋葉原には廃止された貨物駅と移転した青果市場跡地があった。再開発を始めるには、ある程度土地があってのことで、何よりも種地が必要で、これらがその種地となった。
 貨物駅は先に書いた通りである。青果市場は以外と知られていないかもしれない。青果市場は江戸時代から神田多町に存続し、下町一円の青果の取引をしていた。震災後復旧にもかかわらず、老朽化と不衛生な環境のため、1928年(昭和3年)に秋葉原駅の西横に、貨物駅の高架化に伴って敷地の余裕が出来、それを利用して、中央卸売売場神田分場が1.5ヘクタールに及ぶ市場が生まれた。業界筋では「ヤッチャバ」と呼ばれたが、築地市場ほど知られていない。その後1990年(平成2年)に大田市場に移るまで60年以上営業していた。秋葉原の大々的な再開発は、この青果市場の移転によって動き出した。
 駅東(貨物駅跡地)と駅西(青果市場跡地)を合わせると面積は8.8ヘクタールとなる。これは電気街とほぼ同じ面積であり、秋葉原にこれだけの用地が確保されれば、ここ一帯にそれまでにない都市空間を生み出すことが可能で、秋葉原のイメージは根底から変わると予想された。
 しかし土地所有者が違うことが後に大きな問題となる。貨物駅跡地は鉄道建設公団国鉄清算事業本部の持ち物であり、青果市場跡地は東京都である。
 JRは秋葉原に対しては、利用者の多さと立地のよさから将来的に駅ビル構想を温めているものの、鉄道事業という性格上、広く鉄道用地の外側にまで関心を示していない。何よりも、民営化の過程で国鉄時代の膨大な赤字を解消することが義務付けられ、日本鉄道建設公団を介して貨物駅の土地などをなるべく高い価格で売却することが求められている。だから、再開発の成果を地域に還元することは二の次である。
 他方、青果市場跡地を所有する東京都は地方公共団体であるので、当然ながら公共性が大きな足枷となる。企業誘致が可能な高度の情報施設を作って採算性の高い空間となすことをめざすにせよ、地域の還元は真っ先に考えないとならない。その意味で、秋葉原再開発は、たまたまJRと東京都の土地を駅を挟んで一体となったものの、水と油くらい異なる二つの巨大組織の関心が当初から違う方向に向いているという矛盾を含んでいた。
 再開発にあたり、様々な分野の人々の間で侃々諤々と行われるのだが、この間の話を読んでいると、どうも机の上のプランがそのまま、再開発に移される感じだ。現実の秋葉原とかけ離れた感じが歪めない。お偉い学者が建前を掲げても、それが地に着いたもののなるとは、普通考えにくい。
 だいたいITを金科玉条とし、関連企業の誘致、情報発信基地といったことを言えば、さも秋葉原らしいという発想が貧困であろう。考えてみれば、ITを駆使した産業や企業がわざわざ地べたの高い場所にこだわる必要はないだろう。ネットで双方がつながっていれば、場所にこだわる必要がないはずだ。どこでも情報のやりとりが出来るからである。だったらた再開発された秋葉原のビルの中にいる必要はなく、もっと家賃の安い場所でもかまわないはずだ。たとえそれがどんな僻地であってもかまわないはずだ。このあたりがIT=秋葉原という単純な発想しかできない人間が秋葉原の再開発のプランを立てても、浮いてしまうのは当たり前である。特に東京都など行政側が立てるプランはその程度である。だからど~んと大きな箱物を建てるしか能がないのである。そしてそれが出来る企業など、ゼネコンなどに限られてきてしまう。そしてますます秋葉原の地とかけ離れたものとなっていく。地域との共生など、そんなのどっかに行ってしまうのは当たり前である。
 ところで秋葉原タワーという話があったらしい。今東京スカイツリーが話題になっていて先日高さが400メートルを超えたという。まだ建設途中なのにこれだけの話題性がある。その巨大電波塔を秋葉原の敷地に建てようという話があったらしい。この本を読んでいるとそのプランの記述は曖昧なのだが、どうもそれはニュースソースの曖昧さから来ているようだ。でも地元にとって天から降ってわいた話でも、この話に沸き立った。再開発協議会を構成する電気街のメンバーは電波塔の誘致を緊急決議した。実際そのタワーの模型さえ作られている。その背景には秋葉原のイメージを根本から変えたいという地元の強い願いがあったのだ。
 というのも2000年(平成2年)を過ぎた頃から電気店の売上が急激に落ち込んでくる。バブルの崩壊の影響がこの頃から現れ、同時にパソコンの売り上げもピークを越え、過当競争の結果、量販店の業績がみるみる落ちていく時期であった。しかも街頭の風景として、それまで裏側に隠れていたオタクと呼ばれる集団が大手を振って街を歩き回り、それを見越した怪しげな風俗店が開店するようになった。今でこそ、秋葉原電気街で普通にフィギュアやアニメを扱うようになってきたが、それが顕在化し始めた2000年代初めの時点では、秋葉原の「負」の兆候として捉える人が多かった。風俗店に関する警察情報も芳しくない。このように商店街振興会、町会とも秋葉原の歌舞伎町化を本当に心配し始めた。
 そこに駅横に巨大なタワー建設の話が飛び込んでくる。タワーで科学技術のシンボルとして普通の人たちに発信出来る街に出来る。「タワーのあるような開放的な場所にはオタクは近寄らない」はずだと思え、タワー建設の話期待を寄せたのである。
 ところが長いこと時間をかけて再開発事業を進めてきた東京都側にすれば、そんな思いつきで動かれちゃ困るわけである。計画自体変更せざるを得なくなる。結局地元の熱い希望は却下された。このあたりから行政と再開発協議会との間で意見の食い違いが目立つようになっていく。
 そこへ東口の貨物駅跡地に膨大な資金調達が可能な企業として、さらに秋葉原の好立地とブランドを求めてヨドバシカメラがやってくる。つくばエクスプレス開通に眼をつけた。
 ヨドバシカメラは2001年(平成13年)10月に駅前0.5ヘクタールに及ぶ土地を購入した。この店舗が出来れば電気街最大手ラオックスの2.5倍、電気街の総売上より大きくなることが予想された。
 電気街の商売は、仕入値を少しでも下げて価格を落とし、販売数で勝負するのが基本である。ヨドバシカメラは、その規模の大きさを利用して、さらに低価格の商品を提供することが可能で、電気街の量販店にとって間違いなく大変な脅威となる。ヨドバシカメラの開店で、それまで電気街に流れていた客層が東口に流れることが大いに予想され、再開発が電気街にとって裏目に出るのではないかという懸念がささやかれるようになる。地元(電気街)は総意としてヨドバシカメラの進出に反対の意思表示をしたが、ヨドバシカメラ側はそんなの関係ないとばかり、工事を進めた。そもそも秋葉原は市場原理に基づいて多くの企業が熾烈な競争してきた土地柄で、今更新たな量販店が出来たから地元がダメになるという理屈が通らない。ヨドバシカメラは2005年(平成17年)9月16日オープンする。
 ちょうどその頃から電気街はパソコンの売り上げが一気に落ち込み、それに変わるヒット商品が出てこないところへ、東口にヨドバシカメラが出現したことで、地元の不安は現実となり、秋葉原へ来る人は増えるにもかかわらず、電気街の売上はみるみる減っていった。そしてあの秋葉原通り魔事件が起こっている。このため歩行者天国さえ中止となる。多分電気街の人通りは激減したに違いない。 量販店はそれまでの拡大戦略が仇となり、資金調達に汲汲としていた。今が手一杯の状態となり再開発、あるいはその後のデザインなどどうするかではなくなっていく。その兆候は1990年代から現れていた。

シントク電気が1993年(平成5年)の夏が冷夏のためエアコン商戦で完全に失敗し、ついに65億円の負債を抱えて倒産。

廣瀬無線電機グループのヒロセ無線も、同年廃業し家電業界から完全撤退。

ロケットは1991年(平成3年)をピークに経営状態が悪化、2000年(平成12年)に民事再生手続を行い、店舗を整理し2005年(平成17年)のは中央通り面した本店を閉鎖。まもなく家電量販から完全撤退。

第一家庭電器もバブル期が終わってた頃から業績悪化に苦しみ、首都圏を中心に200店近い店舗を擁した買う大戦略が裏目に出て、資金ショートを起こす。そしてついに2002年(平成14年)に倒産。

ラオックスも例外ではなく、バブル期には松波無線、神田無線、ナカウラ、庄子デンキといった量販店を次々と買収し拡大したが、パソコンの売り上げが一気に落ちたことで業績が悪化し、2004年(平成16年)には投資ファンドMKSパートナーズの傘下には入り、代表取締役の座を投資ファンドに譲り、「ザ・コンピュータ館」も閉鎖を余儀なくされる。2008年(平成20年)に別の投資ファンドに身売りする。投資ファンド間でたらい回しにされた挙げ句に、創業者の谷口家は経営から完全に身を引く。2009年(平成21年)6月に中国の量販店蘇寧電器に買収された。「ラオックス」は間違いなく秋葉原を示す日本ブランドである。それをラベリングして中国の顧客に発信するというのが大きな目的であった。

石丸電気もヨドバシカメラの出現で一番打撃を受けるという不安は的中し、2006年(平成18年)4月についに白旗を揚げ、ヤマダ電機に次いで業界第二位の家電量販店エディオンとの業務提携を発表し、翌年には創業者一族の株をすべてエディオンに売り渡した。

サトームセンも2005年(平成17年)に入って、ヤマダ電機の子会社マツヤデンキと業務提携を始め、佐藤一族は経営から身を引くこととなる。その直後今度はマツヤデンキが投資ファンドの傘下に入るが、2007年(平成19年)になってヤマダ電機がこの投資ファンドを傘下に収める。サトームセンはヤマダ電機の子会社となったが、翌年には完全に事業停止。

九十九電機も2008年(平成20年)に民事再生手続きの申し立て行う。負債総額110億円であった。2009年(平成21年)ヤマダ電機に事業譲渡を行う。ツクモの名前は残るものの、創業家完全に消えた。

ヤマギワ、オノデンは堅実路線貫き何とかやってきたが、ヤマギワはこの8月29日に、ヤマギワリビナ本館を閉店することを明らかにしている。秋には別地域でショールームのオープンも予定で、将来的には本社機能なども、同オープン予定のショールーム近くに移転することを視野に入れているという。ヤマギワリビナ本館の建物の今後については現在検討中。

角田無線、愛三電機のように自身の領分を守って量販せず、得意とする分野の販売に徹して、この時代の荒波を乗り切っている。

秋葉原駅前の再開発に引き続いて、旧ヤマギワ本店の跡地にソフマップ秋葉原本館(2007年)のビルが建ち、さらに旧日通本社ビル跡地に住友秋葉原ビル(2009年)が完成する。

 ということで秋葉原の再開発は電気街の衰退を招いたことになる。再開発は西口エリアに展開する電気街や商店街の面々が力を入れて取り組んでいたのが、皮肉な結果となったわけである。著者は最後に「都市計画が不在であるといわれている東京の、もっとも官とは相容れない秋葉原という土地柄で、役所の香りがプンプンとする「再開発」を云々するのはいかにも場違いな印象だが、東京都の肝煎りでともかくその事業が始まった。生き馬の目を抜くという言葉がぴったりの秋葉原の風土を相手として、まったく別の角度から大上段に構えて都市づくりを行うというのだから、やはりどう見ても不自然である。秋葉原に店を構える商店主も、そこに集まる電子マニアたちも、そして誰よりも萌えの商品に群がるオタクたちも、目の前で始まった再開発の何たるかを意識しないまま、いつのまにか現実の動きが加速され、最後には超高層が並ぶもうひとつの街ができあがったのである」と言っている。まさにその通りじゃないかなと思える。違う次元で再開発が行われ、それに希望を託し、結果振り回された電気街は衰退をしただけであった。

 私は大学卒業後29年間秋葉原の東口にある会社に勤めてきた。その間6年ほど他の地域にある支店にいたが、ほぼ秋葉原の変化を見てきている。本屋の店員として昭和通りから中央通りに出て、先にあげた有名電気店、サトームセン、ヤマギワや日本通運の本社、YKK、凸版印刷などに配達にも行った。御用聞きと同じだから、裏から担当部署に行くのだけれど、そこは薄暗く、荷物がいっぱいで通るのも大変な曲がりくねった通路を何冊も本を抱え歩いたものだ。裏方なんてそんなものかもしれないけれど、こうして秋葉原の歴史を改めて知ってみると、そうした混沌さはもともと秋葉原が持っていたものじゃないかと思えてくる。
 ヤッチャバはほとんどなくなっていたけれど、まだ一部残っていた。ヤッチャバから、あるいは家電の梱包ダンボールがたくさん出た。それを生活の糧にしている人も多くいた。集めたダンボールをリヤカーにいっぱいにして、平気で歩行者専用を歩く男がいっぱいいた。時にはそのまま店の前でダンボールいっぱいのリヤカーを止めて寝てしまうやつもたくさんいた。(今もいるけれどだいぶ少なくなった)何度もそんなやつと言い合いをしたし、警察を呼んだ。
 パソコンがブームになった頃ちょうど仕事が変わり、自分でもパソコンを必要とした。だから何度もラオックス、九十九電機、T-ZONE、ソフマップなど行って、パソコンを見てきた。当時は今と違って、パソコンの値段はべらぼうに高かった時代ある。手が出なかったから、ため息しか出なかった。新モデルが出れば興味津々であった。
 それに当時のパソコンはいろいろ手を加えることが出来たので、ちょっと改造したりして、そのためのパーツを買ってきたりした。考えてみれば今言われるオタクみたいなところがあった。この本の著者がまえがきで書いているけれど「細々とした部品への愛着が、気がついたらフィギュアへの偏愛になっていた」と言って、フィギュア文化が登場したのも秋葉原にはそれなりの必然性があったというのはよく分かる。
 そうなのだ。部品への愛着がラジオになり、家電になり、オーディオになり、パソコンとなっていった。そしてパソコンから生まれたバーチャルなものが、フィギュアとなり、美少女やメイドとなっていった。それが秋葉原の個性であった。元々は表だったものじゃない。そうした一種の裏文化的なものがある街そのものが秋葉原であった。そうした必然性を忌み嫌ったところに電気街の間違いがあり、秋葉原が持っていた個性を見失ったのである。
 そこに官主導の再開発に期待をかけすぎて、気がつけば経済動向が大き変わっていて、自分たちの足元が崩れていった。後は資本力のある量販店が電気街の秋葉原というブランドを求め、土地をさがしているところへ、一等地を売りたいと地主が出てくれば、もう太刀打ち出来るわけがない。
 もうここに来る多くの人は、そうしたモダンなビルに入っているきらびやかで清潔なお店であって、中央通りまで行く人々ではない。そこやその裏通りに行くのは少数となっていく。完全に棲み分けされつつあり、もともとあった電気街は廃れる一方であろう。学者じゃなくても、素人の私が見ても、歩いている人種が違うことがはっきりとわかる。
 個人的に言えば私は昔ながらバタ臭く、汚い秋葉原が好きだったので、いつも再開発で出来た高層ビルが異様なものとして写る。多分昔から秋葉原を知っている人は余計なんじゃないだろうかと思う。
 しかし再開発というのは恐ろしいものだと思う。そして再開発のコンセプトはなんだかんだ言っても、その土地を持っている企業や団体の意思によって決まってしまうもので、その周辺にたまたまいた人々の意見など、最終的には無視されるものなんだと思い知るのである。


評価
★★★★


書誌
書名:秋葉原は今
著者:三宅 理一
ISBN:9784875861928
出版社:芸術新聞社 (2010/06/30 出版)
版型:334p / 19cm / B6判
販売価:2,730円(税込)