2010年08月24日

吉村昭著『ニコライ遭難』

2010_08_24_01.jpg


 ニコライはロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝である。


2010_08_24_02.jpg


 そのニコライが皇太子の時、日本にやってきた。この本はそのニコライが大津において、警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した事件、大津事件を扱った本である。
 そもそもニコライが日本にやってくることになったのは、ロシアが建設に着手しようとしていたシベリア鉄道のウラジオストックとハバロフスク間の起工式に、父であるアレキサンダー三世の名代として臨席するためであった。その途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本も訪れ、そこからウラジオストックに赴く予定となっていた。
 そんなニコライの世界巡航計画が内定したことを知った明治政府は、ニコライを招請し日本に来てもらうことを考えた。そこには明治政府にあったロシアに対する危機感から、ロシアと友好関係を持てれば日本の将来にとっても有効であると判断したからである。
 当時ロシアは全世界の六分の一の領土を保有し、陸、海軍力とも世界屈指の強力なもので、ことに陸軍は世界一と称されていた。維新後わずか二十年余年しかたたぬ日本は、ロシアが武力行使にでも出ればたちまち圧伏させられる。まして昔から極東地域で不凍港を持たなかったロシアは古くから南進の姿勢を示し、朝鮮、日本をうかがう気配が濃かっていた。そこにシベリア鉄道敷設は、ロシアが侵略による極東政策を実行に移すものと考えられ、危機感がつのっていたのである。
 皇太子ニコライはいずれロシア皇帝になる。ならばここで日本に好感を抱かせ、最上級の歓待で迎え、国賓として歓迎する意味は大いにある。
 そして明治24年4月27日ニコライは長崎に着く。公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王が任命された。
 ニコライは正式に日本に上陸する前に、お忍びで何度も長崎に上陸し、ロシア人相手の遊郭に行ったり、腕に入れ墨をしてもらったりしている。買い物も日本固有のものを多く買い入れている。
 その後ニコライは鹿児島に向かった。ここで面白いのは“西郷隆盛生存説”である。こんな説があったなんて知らなかった。西郷隆盛は西南戦争で敗れ、自刃したが、西郷が生存しているという説は、西南戦争終了後も、折に触れて蒸し返されていた。インドの一島に潜伏しているとか、シベリアで兵士を訓練している西郷と会ったという人物もいたというのがあって、西郷生存説となっていたらしい。そこに本来なら皇太子ニコライが直接東京に来るのが自然なのに、行く必要もない鹿児島をわざわざ訪れるのは、ニコライらが西郷を連れてきているのではないかという話になったという。
 もちろん何事もなく、ニコライは鹿児島を離れ、その後神戸へ向かった。そして京都に着く。ニコライは終始日本に対して好意的であったし、日本の風習を重んじた行動をとっていた。そのため、迎えた日本人もニコライに対して好感を持っていた。
 そして同年5月11日に琵琶湖遊覧から京都に戻る際、大津で事件が起こる。以下本文記述である。

 皇太子の人力車が下小唐崎の町並の道に入った。
 両側にひしめく人々は頭をさげ、所々に立つ巡査は挙手の礼をする。皇太子は、吊り看板などのさがった店に視線を走らせながら車に体をゆらせていた。
 道の右手にある下小唐崎五番地の津田岩次郎宅の入口の前にも巡査が立ち、皇太子の車が車輪の音を鳴らせて近づいてゆくと、姿勢を正して敬礼した。
 皇太子の車がその前を通り過ぎようとした時、挙手の手をおろした巡査が、急にサーベルをひきぬき、進む人力車の右側一尺(三十センチ強)ほどに走り寄った。
 刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が鼠色に山高帽をかぶった皇太子ニコライの頭に打ちおろされた。
 その衝撃で帽子が飛んだが、皇太子は前をむいたままで、巡査は声を発しなかったので梶棒をとっている車夫の西岡太郎吉二十七歳も気づかず、変わらぬ歩度で車をひいてゆく。
 気づいたのは、車の右側後部を押していた車夫の和田彦五郎二十五歳であった。和田は茫然としながらも、後押しをやめて巡査に駆け寄り、右手で巡査の左脇腹を強く突いた。
 巡査はよろめいたが、再びサーベールをふりあげて皇太子に近づいた。その時、初めて皇太子は巡査の方に顔をむけた。巡査は、無帽の皇太子の頭に再びサーベールをたたきつけた。
 立ちあがった皇太子が叫び声をあげ、その声にふりむいた梶棒をとる車夫の西岡が、異変が起きたことにようやく気がつき、職業上の習性ですぐ足をとめると、梶棒をおろした。
 皇太子は、巡査とは反対側の路面にとびおり、頭を両手でおさえ、あ-、あ-と叫んで前方に走った。巡査はサーベールを手に追ってゆく。
 その出来事を初めから眼にしていたのは、皇太子の車の後方を進む人力車に乗っていたジョージ親王であった。巡査が傷ついた皇太子を追うのを見たジョージ親王は立ち上がり、それに気づいた車夫藤川角次郎二十五歳が梶棒をおろした。
 路上に飛び降りたジョージ親王が巡査にむかって走ると同時に、皇太子の車の左後部を押していた車夫向畑治三郎三十八歳がジョージ親王と肩をならべて走った。その後から、車夫の西岡、和田、それにつづいてジョージ親王の車を後押ししていた北賀市市太郎三十三歳と安田鉄次郎三十歳が駈けた。
 ジョージ親王が巡査に追いつき、手にした竹杖で巡査の後頭部をはげしくたたいた。その杖は、親王が県庁内の物産陳列所で買いあげた栗太郡草津村の木村熊次郎出品のものであった。
 それと同時に、向畑が巡査の腰にしがみつき、両足をかかえると勢いよく後ろへひいた。そのため巡査は前のめり倒れ、制帽が飛んだ。巡査がつかんでいたサーベールが、手からはなれ路上に投げ出された。
 向畑につづいて北賀市が、そのサーベールを拾うと、倒れた巡査に背部にふりおろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。

 巡査の名前は津田三蔵である。津田はこの後取り押さえられる。


2010_08_24_03.jpg


 ニコライは右側頭部に9センチ近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。これが大津事件であった。しかしロシア皇太子が殺害されようとしたのである。当然これは大きな外交問題となって、国際問題となりかねない事件であった。この後明治政府の対応は大変であった。俗っぽい言葉で言えば、国力も軍事力もない日本がロシアに攻めてこられたら、ひとたまりもない。だから仲良くしましょうよ、と言ってわざわざ国賓待遇で招いてのにもかかわらず、警備する巡査が凶行に及んだ。戦争になっておかしくないし、賠償問題として、莫大な金額を要求されてもおかしくない。それこそ日本のどこかをよこせと言われかねない。天皇をはじめ、皇族から政府要人、民間からも誠意を示すためお見舞いに向かう。

 「明治維新以来、政府のみならず国民も、欧米の先進国にならうことを願い、努力をかさねてきた。文明開化という言葉はすでにすたれていたが、文明を重んじる国と見られることを悲願としていた。そうした努力にもかかわらず、国賓としてまねいた皇太子ニコライを警備担当の巡査が斬りつけたことは、欧米諸国に日本は野蛮国として印象づけることになる。そのような行為をおかした者がいたことは、日本人として恥しく、見舞いをすることによって、欧米人の印象を好ましい方向にみちびこうとする気持ちがあった」

 日本が欧米なみの文明国となっていないと、政府悲願の不平等条約の改正などももちろん出来ない。このままニコライが気分を害して日本を去られては大変なことである。天皇や政府は当初の予定通り東京にニコライが来てもらわないならなかったが、最終的にはニコライは母国の指示でそのまま日本を後にした。幸いニコライはそれまでしてくれた自分への好意をうれしく思っていたし、ロシアも賠償問題などにも及ばなかった。

 ところで津田三蔵はどうしてこういう凶行に及んだのか。津田はロシアが日本に対して強圧な態度をとっていることに不快を感じていたとも言われている。
 ニコライは来日に当たりまず天皇のいる東京に来て、天皇に挨拶をするのが礼儀なのに、長崎、鹿児島、京都、滋賀をへて東京に行くのは、日本の国情を調べるためではないか。いずれは日本を侵略する意思があるのではないか。天皇は最大級の歓待を指示しているのに、ニコライはその好意を感謝していない。むしろ蔑んでいるのではないか。その驕慢さは許し難いと考えていたとも言う。
 あるいはニコライは西郷を連れて来ている。西郷が日本に戻れば、また西郷が政治の頂点に立ち、津田自身西南戦争で軍功を立てたことが、逆に粛清され、勲章を取り上げられるからだと言ったとも言う。
 ただ詳しい、正確な動機ははっきりしていないようだ。日本政府としては津田が精神を病んでいたこともあったので、そうした事情から凶行に及んだとなってくれれば一番有り難かった。
 とにかくロシア政府に対してはかなりの気の使いようであった。その中で犯人の津田の処分が問題となる。政府としては津田は極刑にしてロシアにそれを示したかった。そのため、政府は津田の裁判に介入してくる。津田をどんな罪状で裁くかである。政府は刑法百十六条(皇室罪)を適用し、津田を死刑にしようとした。刑法百十六条とは天皇、三皇(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子に危害を与えた場合、死刑に処すというものである。それを拡大解釈して皇太子ニコライも日本の皇太子と同一に扱い、それを適用することで、津田を死刑にし、ロシアに一つの誠意として示そうとした。しかし司法の大審院はそれを外国の皇族にも適用することは不当であり、今回の事件は、普通人に対して危害を加えたと解釈すべきであり、普通殺傷罪の未遂犯として扱うのが正しいと政府の意見を拒否する。
 面白いのは当時の政府は薩長閥で成り立っており、維新に功績のあったその他の藩は冷遇されていた。だから非薩長閥で構成されていた司法側は断固として政府の強引な司法介入を拒否続けた。これは江藤新平の意識と共通する。そして法律上、たとえニコライが皇太子であっても、あくまでもロシアの皇太子であって、日本の皇族ではない。だからどんなことがあっても日本の皇室罪は適用できないのが正しい。政府は司法の判断に対して、それではロシアと戦争になると脅したりして、何とかしようと介入したが、津田は無期刑に処され、釧路集治監収監される。しかし同年(明治24年)9月29日急性肺炎で獄中で病死した。

 私は大津事件としてニコライ二世が襲われたことは当然知っていたが、その後の経緯はこの本で知ったことが多い。特に政府と司法との間で津田の処遇をどうすべきか、多くの意見が戦わされた経緯は興味深い。明治政府が出来てわずか二十数年である。国として体面はあっても実力と内容が整っていない頃の事件である。だからロシアに気を使う政府の姿勢はわからないことはない。けれどそれを押し通したら、国としての体面が逆に潰れていた可能性があった。特に強引な皇室罪の適用は、文明国を目指していた日本をそういう国ではないと後年思われかねない。それを阻止した非薩長閥の存在があったからであった。非薩長閥は単に政府の薩長閥に対して不満を持っていただけのことかもしれないが、結果それが良かったことになるのは皮肉な話でもある。私はニコライの動向や津田が何故犯行に及んだかよりも、事件後津田を巡る政府と司法側の意見の戦いの方が面白かった。


評価
★★★★


書誌
書名:ニコライ遭難
著者:吉村 昭
ISBN:9784000017008
出版社:岩波書店 (1993/09/06 出版)
版型:359p / 19cm / B6判
販売価:入手不可

Recent Entries

  1. 吉村昭著『ニコライ遭難』